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<title>かっぺい自伝　～思い出すままに～</title>
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<description>父が生きていたら今年で101歳。父の自叙伝を生涯暮らした古民家からの便りとともにつづります</description>
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<title>家内の病気</title>
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<![CDATA[ <p>家内はC型肝炎を患っている。医学の進んだ現在でもこの病気の治癒法は解決されていない。</p><p>昭和3 &nbsp;6年春、深夜急に腹が痛みだして、医者に往診を求めたが、これは婦人科の病気であるから至急善処されるよう言われ、子供三人の出産で世話になった病院に電話してタクシーで駆けつけ、すぐ手術、終わったのが早朝だと記憶している。病名は右側卵巣膿腫であった。</p><p><br>病後、手術のあとが完治せず、傷口が化膿して二、三の医者を訪れたが快癒することなく、友人のすすめでカノミ病院で荒治療の結果快方に向かった。内臓に異常はなく，傷口だけの処理であった。</p><p>&nbsp;</p><p>昭和45年、子宮筋腫で出血があり摘出手術以外に方法はないと診断され、加うるに万が一の覚悟をして欲しいと言われ手術の間が非常に長かった記憶がある。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;">長男の出生に伴う帝王切開と子宮摘出手術の際に輸血をした事がC型肝炎発生の原因ではないかと思われる。このC型肝炎については、20数年後日赤第一病院で血管造影をした際、明確になった。三度の開腹手術で家内も随分苦しんだし、家内の母親にもそれなりの心配と、子供の世話を含めて何かと助けられた。今でも感謝の気持ちがわく。<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250704/11/kappei101/a8/d4/j/o1504211115628234941.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="590" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250704/11/kappei101/a8/d4/j/o1504211115628234941.jpg" width="420"></a><br>&nbsp;</p>
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<pubDate>Sun, 04 Jan 2026 10:55:39 +0900</pubDate>
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<title>城南高校時代(3)</title>
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<![CDATA[ <p>東大紛争やベトナム戦争に平和をと、市民連合（俗にいうベ平連）に動かされた若者達が主張する反体制運動が高校にまで波及した年であった。また、教師の中にも賛成者がいた。</p><p><br>週刊朝日クロニクルから引用すると『目的はベトナム戦争反対だけ。スローガンは、ベトナムに平和を、ベトナムはベトナム人の手で、日本政府は戦争に加担するな、この三点だけ。方法論としては言い出しっぺがやる、人の批判はしない、文句があるなら自分でやれ』べ平連事務局長、吉川勇ー氏の言である。1 &nbsp;9 &nbsp;7 &nbsp;4年に解散したが、彼の弁がふるっている、「個人的に言えば我が人生失敗だった。しかし面白かった」と。面白かっただけでは困る。<br>&nbsp;</p><p>翌46年は飛び火の残りはあったが、学校は平穏であった。<br>&nbsp;</p><p>長女が城南高校に進学する年であり、私自身城南を去る方が良いと考えた。城南では三人の校長の元で仕事をした。その中で印象深かったのは中学時代の恩師森田勝治校長である。先生は大学時代「小西来山」、大阪の俳人を研究され、裏々として悠然たる所があり、ときに皮肉めいた言辞を弄される事もあった。博識でー語ー語が正確であり、今でもその言葉が脳裏に刻まれている。刺々しい所は全然なかった。知識と知識のつなぎめを知っていられたが故に、言葉に面白さがあり、聞いていて飽きることはなかった。「わしのは雑学だ」と。すこし聞くと簸退のようであるが、何か確固たる裏付けがあるように思われた。<br>「あいつが言うことは衣の下に鎧を着ているようなものだ、<br>鎧がチラチラと見える」これは私の友人が教務の仕事をしていて職員会議での発言を指したもの。言はんとする所、教育委員会の指導云々をチラつかせたことを皮肉ったものである。<br>「人の言を借りずに、自分自身の言葉で言うべきだ」ということになる。<br>「剃刀はよく切れるが、人を傷つける。鈍は一撃のもとに撃ち退ける」鋭利な刃物を使う、頭の切れる者は往々にしてそれに頼りすぎることを指したものと考える。<br>「あの男は頼りにし過ぎると、とんでもない所でかわされる」<br>人を見る眼は確かであり、誤りは無かった。私がある人を頼り過ぎて嫌な思いをしたことがある。先生の言葉で残っているものは枚挙にいとまがないが、振り返ってみると頷かされる事が多い。</p><p><br>教職員は校長を敬遠することが多かった。職員室に突然つかつかやって来て話しかける、皮肉たっぷりのことが多いから、どうしても避けようとする。ある時、「おい、吉山、あれは英語で何というのかな」鳥の名前である。つばめ、たか、うぐいす、ひばり・・・と、もみくちゃに名をあげる。つまると「何だ、そんなこと知らんのか」とくる。この時は最後の鳥が「たか」だったと記憶している。校長と二人で大笑いした。<br>「おれがな、誰々さんと呼ぶ..その教師が振り返る、とたんに身構えている」と言うような話も聞いた。校長としての、「あり方」等々教えられることが多かった。<br>定年で城南高校を去る時、中庭に「不動智」と自筆の文字を刻んだ石碑を残された。沢庵和尚の不動智神妙録からの言葉である。鈴木大拙の「禅と日本文化」にその意が示されている。一つの所に止まらない心、無心のような状態を意味する、何かに打ち込んで「われ」を忘れると考えればよい。<br>「弓も折れ、矢も尽きはつるところにて、さしもゆるさで強く射てみよ」鎌倉時代の禅匠の歌であるが、やがらなき矢を弦無き弓より射れば、そはかならず、かつて極東の人々の歴史に起こったように岩をも貫きとうす力となるであろう。鎌倉幕府の執権北条時宗は深く禅に帰依したと言われている。<br>&nbsp;</p>
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<pubDate>Sun, 04 Jan 2026 10:51:29 +0900</pubDate>
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<title>城南高校時代(2)</title>
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<![CDATA[ <p>昭和43年(1968) &nbsp; 6月1 &nbsp;5日、東京大学で学生が安田講堂を占拠、1 &nbsp;7日大学側が機動隊を導入して占拠者を排除した事件があり、その後全学共闘会議を結成して安田講堂を再占拠した事件があった。しかし、翌44年1月1 &nbsp;8日、大学紛争のシンボル東大安田講堂をめぐる攻防戦は35時間も続いた。</p><p>&nbsp;</p><p>この闘争が全国に飛び火して、京都の高校にも波及して行くことになる。城南高校では昭和44年頃よりある兆候が現れ始めた。 やれ、屋上占拠だの、やれ、中庭開放だの、生徒指導課にもの申すとか，様々な事件があって課長の私も頭を悩ますことが多かった。<br>アポロ1 1号が月面に着陸し、人類が始めて「月」に立った年の最中である。<br>&nbsp;</p><p>昭和4 &nbsp;5年度の卒業式が上記のような雰囲気の中で迫ってきた。すでに京都市内の高校でも同じような状況がみられた。卒業式の前夜、不測の事態に備えて待機していたが、ちょっとの隙にペンキで体育館の外壁に大きな文字が落書きされているのを発見した。駄目かと思ったが、待機していた全員が協力、油で消し去りどうにか事なきをえたが、卒業式は混乱した。</p><p>&nbsp;</p><p>一人の生徒が校長より先に登壇しマイクを握りしめて、わめき始めた。 予め事態が予測されていたので、教員に加勢を頼んでおいた。演壇の下にひきずり下ろして、もみ合いとなる、生徒保護者の目の前である。これが翌日の朝刊に掲載された。</p><p>&nbsp;</p><p>式典そのものは生徒が講堂から外部に連れ出されたあと実施された。<br><br>何か気まずいものが残った。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kappei101/entry-12943047440.html</link>
<pubDate>Tue, 04 Nov 2025 05:26:33 +0900</pubDate>
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<title>城南高校時代(1)</title>
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<![CDATA[ <p>私の経験した高校では、城南高校の校歌が最も好きである。仏文学者の伊吹さんの作詞であるが、曲もよい。生徒達と歌っていると、のびやかな青春が遠くの丘まで拡がってゆくような気持ちになる。</p><p><br>「城南の丘はひろびろ &nbsp; 胸はりて光を吸えば<br>みどり葉は香りゆたかに 若人の思いをつつむ</p><p>ああ、城南の丘はひろびろ」</p><p><br>最初の一年間は教務の仕事を経験し、二年、三年は担任、教科の英語は3年間持ち上がりである。高校は教師によって、まちまちであるが、担任をすれば三年間の繰り返しである。</p><p><br>昭和4 3年から3年間、生徒部長を務めた。思いでの最たるものは授業はともかく、第一次ベビーブームによる生徒の急増である。特に昭和40年頃から担当した英語の講座は一クラス5 6名にもなり、まさに「細藷」 の状況であった。当時は、まだ各中学から選ばれた公立志望の生徒が多くを占めていたので比較的よく勉強する方ではなかったかと思われる。</p><p><br>文法の授業が（グラマー）が、どうも無駄に思われて仕方がなかったので原書を講読する方針を考えた。自分の考え方を生徒に説明して了解を求めた。テキストは各人京都市内の丸善で購入を義務づけた。その原書を週2時間で読むことにした。<br>George Orwell&nbsp;&nbsp; &nbsp;の「Animal Farm」が書名である。Orwellは「1984」と言う小説も書いている。</p><p>&nbsp;</p><p>少々独断にすぎると思うが、英文学では風刺の領域（例えば、理想郷を描くとか、その時代の批判を展開するとか）に属するものとして、トーマスモアーの「Utopia」，私が卒業論文で取り扱ったスイフトの「Gulliver's &nbsp; &nbsp;Travels」，サミエルバトラーの「Erewhon」、スペルを逆に読めばNowhere &nbsp; &nbsp;（何処にもない）となり、エリザベス王朝の機械文明を痛烈に批判した小説である。そうして 20世紀にGeorge &nbsp; OrwellのAnimal &nbsp; Farmと続く。</p><p>&nbsp;</p><p>私の講座に属さない生徒が質問したことがある。</p><p>「あの本は共産主義批判の小説ではないか」と。</p><p>「主義、主張云々よりも読めば結構面白いものだ。面白いものは人を引き付ける」と。</p><p>私の返答である。</p><p>&nbsp;</p><p><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kappei101/entry-12943046971.html</link>
<pubDate>Tue, 04 Nov 2025 05:10:51 +0900</pubDate>
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<title>付属桃山中時代(4)</title>
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<![CDATA[ <p>附属中学には自由主義的な教頭がおり、個性のある教師も多かった。</p><p>憲法専門の小森さん、医者志望で米国に留学したものや、広島高師出身の気むつがし屋の国語教師、地学専攻の粉川さん等々多士済々であった。総てではないが、大学、高校の教師となった者もおおい。</p><p>&nbsp;</p><p>修学旅行なども自由な雰囲気で討論しした。職員旅行も方々に出かけた。夜行列車で出雲まで赴き、和船をチャーターして、日の岬灯台を訪れ、玉造温泉で一泊。また、箱根の有名旅館「竹葉亭」で宿泊、山賊焼きが評判になった。鶏の足を焼いたものである。<br>かくして、昭和3 &nbsp;7年(1 &nbsp;9 6 &nbsp;2年）城南高校に転勤した。</p><p><br>教職員課長は富岡さん、人事担当は後に教育長になった西野さん、面接で「京都駅の陸橋を越えるのは嫌だ」と申し出た。理由は何ですかと聞かれ、「結核の経験もあり、京都市内は困る」と言い逃れをしたが、実は桃山高校が希望であった。</p><p>森田校長に城南はどうかと聞かれ、「だいぶ田舎ですな」と答えたが、「贅沢を言うな」と叱られたようなことがあった。<br>&nbsp;</p><p>給与は3万1千円位である。二年前昭和3 5年池田首相が国民所得倍増計画を発表し、所謂、高度経済成長政策の道をひた走るようになってくる。</p><p>昭和3 9年には東京オリンピックの開催、東京、大阪間に東海道新幹線が営業を始め、テレビが各家庭に普及し始めた頃である。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;">付属中学退職後、花見の宴</p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250803/03/kappei101/ff/ea/j/o1250081215645017319.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="273" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250803/03/kappei101/ff/ea/j/o1250081215645017319.jpg" width="420"></a><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kappei101/entry-12920424153.html</link>
<pubDate>Sun, 03 Aug 2025 03:05:46 +0900</pubDate>
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<title>付属桃山中時代(3)</title>
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<![CDATA[ <p>一つの学校に長くいると単調で退屈になるものである。</p><p>&nbsp;</p><p>1 9 5 9年、昭和34年先に述べた森田先生が府立城南高校の校長であり転勤の相談に訪問したことがある。家は桃山長岡越中七番地で以前のままの古いものである。</p><p>&nbsp;</p><p>「今高校に転ずるより、すこし待て」とのことであった。その理由は後になって分かったのであるが、当時文部省が実施していた学カテストについて種々の闘争があり教職員組合が絡んで各都道府県でも種々のもめ事があった。森田校長にすれば、わざわざいま、こんなに荒れている時期に急いで転勤する必要はないとの判断であったかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>私が転勤したのは、その3年後の昭和3 7年である。</p><p>子供は、長女一子、次女継、に続いて昭和3 5年に長男が誕生した。帝王切開による出産である。一説では、シーザーは死せる母から切開によって生まれたので、帝王切開という、出産の時、脳を圧迫しないので聡明な子供に育つとの事であるが、果たしてどの様に成長するか。</p><p>&nbsp;</p><p>当時の給料は三万円位であったが、長女、次女は公立保育園から地域の小学校に学んでおり、高い学資が要するのではなく生活は比較的安定していた。ただ貯金はなく、臨時の出費の対応には苦慮したことがしばしばであった。<br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250704/11/kappei101/a8/d4/j/o1504211115628234941.jpg"><img alt="" height="590" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250704/11/kappei101/a8/d4/j/o1504211115628234941.jpg" width="420"></a></p>
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<pubDate>Sun, 27 Jul 2025 08:11:12 +0900</pubDate>
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<title>付属桃山中時代(2)</title>
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<![CDATA[ <p>当時、宿直制度があり、手当もあったし、自ら進んで当直をやった。</p><p>用務員は楽亭と云う名の年配者であるが、酒好きで、生徒をよく叱った。叱るべき時に叱っていたようである。</p><p>&nbsp;</p><p>この仕事で一番の楽しみは十一時まで読書をして、あと飲みに出かけることが多かった。</p><p>&nbsp;</p><p>「午前さん」で帰校すると、楽亭さんが、「今何時だと思っているんだ」と本気で腹を立てる事もあった。家で家内に文句を言われるより気が楽だし、行きつけの店は伏見、大手筋にある「桜バー」で、夜学に通っている「涎孤」という好青年がバーテンをやっていた。彼とは気が合って楽しい時間であった。付属の教師連中もよく出入りした。</p><p>&nbsp;</p><p>いまも大衆酒場として暖簾が掛かっている。</p><p>&nbsp;</p><p>「勝平が今日も行く行く桜バー」</p><p>なんて歌が生徒の中に定着してしまった。酒は元々好きだし、今もその習慣は続いている。</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Mon, 07 Jul 2025 14:05:21 +0900</pubDate>
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<title>付属桃山中時代(1)</title>
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<![CDATA[ <p>昭和27年4月から、37年まで同中学に勤務した。</p><p>&nbsp;</p><p>講師の時から数えると1&nbsp; 2年にわたる。比較的学力に優れた生徒が多く、学校も自由な雰囲気に満ちていた。一学年ニクラス、計 6学級の小ぶりの学校である。担当授業時間は平均して週あたり、1&nbsp; 4ないし1&nbsp; 6時間程度であるから自分の勉強も可成り出来た。</p><p>&nbsp;</p><p>この学校は京都教育大学に付属しているから、年2回大学の実習生が一ヶ月授業を担当する。その指導に当たるのは我々であり、最初、自分の授業を見せねばならない。学習日誌の点検指導、教案の作成についての意見交換等、可成り労の多い仕事である。大学生だから生意気な者も多いし、横目で批判的な実習生もいる。大学の教授を交えての授業見学と討論も行われる。</p><p>&nbsp;</p><p>授業形態も一定ではない。授業法も年を追って変わってゆく。最初はhearing, speaking, reading, writingの中、hearing and speakingが中心であるとして言われた。</p><p>そのうち、oral methodが中心であることは変わりないものの、一つの文章を状況に応じて変えてゆ&lt;substitution&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;drillが流行するようになった。教育に流行云々は馴染みにくいが、生徒はこの変化によくついてきたように思う。</p><p>&nbsp;</p><p>ある年、一年生の授業に、一学期テキストを全然使用せず、 picture cardのみで押し通した。「文字をいつ教えるのか」「文章の読みはどうなるのか」と生徒からも、保護者からも批判が出たが動じなかった。少々の冒険であったが、もう少し早く文字に親しませれば一層良かったのでは無いかと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>クラブ活動は盛んであったが、対外試合は強くなかった。私は始めソフト部、つづいて野球部を担当した。事実、私より上手な生徒も居ったし、監督と言うには，ほど遠い存在であったが、生徒達と親密な交わりを持つことができたのが救いである。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;">３年間担任した付属中学校卒業生と</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250706/04/kappei101/71/7b/p/o1959137115629214718.png"><img alt="" height="294" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250706/04/kappei101/71/7b/p/o1959137115629214718.png" width="420"></a></p>
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<pubDate>Sun, 06 Jul 2025 04:08:47 +0900</pubDate>
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<title>卒業…就職…結婚(3)</title>
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<![CDATA[ <p>母にとっては三人の孫になる、それぞれの命名について述べておく。</p><p>&nbsp;</p><p>長女が生まれる前後、谷崎潤一郎の「お市の方」を読んでいた。平仮名主体の物語文が印象強く、戦国時代に生きた美しい女性として描かれている。一子は「かずこ」と読む人が多いが、長女なるが故に「一子」と命名した。</p><p><br>次女は継続の「継」にした。ただ2番目の子供だから継にしたのではなく、時代劇の映画に出てくる女主人公が印象に残っていて「継さん」と呼ばれていた。呼び方の良さから「籍」一字にした。</p><p><br>それから4年後、昭和3 5年長男が誕生した。両親が存命ならば随分喜んだと思う。この命名については、父、私、長男、いずれも「子」年の生まれである。祖父から三代「えと頭」が続くのは珍しく「三子生」(みねお）と命名した。三番目の子供が生れたのではなく、父は亡くなっていたが三人の『子』が揃ったわけである。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">姓名については、姓名判断による人もいるが、最近は威勢のよい名が多い。平成1 2年4月から9月まで放映された「太陽」はNHK連続ドラマの子役の名前である。「大樹」などは大器に通じてよい。</p><p style="text-align: center;"><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250704/11/kappei101/a8/d4/j/o1504211115628234941.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="590" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250704/11/kappei101/a8/d4/j/o1504211115628234941.jpg" width="420"></a></p>
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<pubDate>Fri, 04 Jul 2025 11:23:12 +0900</pubDate>
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<title>卒業…就職…結婚(2)</title>
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<![CDATA[ <p>この年は、南山城の大水害があり、淀川の堤防が決壊して、三百年前のおぐらの湖が突如出現したようなものである。我々の結婚式も近鉄の線路は水没しているし、小倉桃山間は代行バスによる不便な状態であった。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250619/03/kappei101/9e/8a/j/o0450035515619348858.jpg"><img alt="" height="331" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250619/03/kappei101/9e/8a/j/o0450035515619348858.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>家内は町立の保育園に保母として勤めており、家の留守は母に任せてあった。昭和30年に長女， 3 1年に次女が誕生。 家の中も随分賑やかになった。長女は母が面倒を見ていた</p><p>&nbsp;</p><p>が、母がいつまでも子育てに関わるのは良くないと考えて家内に勤めを辞めさせることにした。家内は不満であった。私自身からすれば当然の判断であったと思うが、現在年金生活をしていることを考えると、少々の無理でもして勤めを続けた方がよかったとも思う。</p><p>&nbsp;</p><p>次女が2オになった年、昭和3 2年1 1月3日に母が死去した。</p><p>病名は蜘伍膜下出血である。血圧の状態など診断もしていなかったし、いたって健康と当人も私も思い込んでいたのが間違いのもとと思う。母が便所にゆく途中か、後かは判然としないが、廊下に倒れていたのを家内が見つけたのである。</p><p>&nbsp;</p><p>丁度一週間たって亡くなった。葬儀は火葬とし骨を拾ったとき頭蓋骨の一部が、やや赤みを帯びていたような気がする。 1 1月3日は文化の日であり、快晴になることが多い。火葬の間、長女を抱いて外に出た時、「ばあちゃんは何処に行ったのか」と聞く。快晴の午後だった。「あのとおいお空にいったのだ」と答えたことを思い出す。母の戒名は「正行院実誉誠道蓮信大姉」である。</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250522/22/kappei101/76/39/j/o2085288315601070370.jpg"><img alt="" height="581" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250522/22/kappei101/76/39/j/o2085288315601070370.jpg" width="420"></a></p>
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<pubDate>Thu, 19 Jun 2025 04:04:53 +0900</pubDate>
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