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<title>ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察</title>
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<description>幾つかの断片的なキーワードに添って20世紀に君臨した最後の巨匠の人生を考察すると共に、彼の音楽遺産を再度楽しむ</description>
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<title>セルジュ・チェリビダッケ(1912～1996)</title>
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<![CDATA[ <p><br>晩年の彼はもはや伝説の指揮者などではなかったことが白日の下に晒された。自分のために大金を積んでくれる日本へ毎年のように演奏旅行へ出かけ、自らの恍惚とした表情をせっせと映像に残す様は、彼がカラヤンを軽蔑する際に使う「金の亡者」そのものの姿であった。当時の日本の聴衆は愚かだった。それでもこの老巨匠が他の指揮者を罵れば歓喜し、その極端に遅いテンポからは忘れられたドイツ・ロマン派の香りがする本物だと広言した。</p><br><p>かなり毒のある書き方をしたが、チェリビダッケが雄弁に物事を語るときは常にこのような感じである。そもそもフルトヴェングラーは自らの後継者にはルーマニア出身のセルジュ・チェリビダッケをと考え、非ナチ化の影響により多くの指揮者がその演奏機会を失ってる中、四百を超えるベルリン・フィルの公演を任されていた。彼はカラヤンと違いフルトヴェングラーのために汗を流し、そしてまたその恩恵を受けていた。一方のカラヤンは録音や演奏旅行等を通じてウィ－ン、ロンドン、ミラノ、ルツェルン、バイロイト等で高い評価を得ていた。この間ベルリン・フィルはフルトヴェングラーの妨害によりわずか10回の公演程度であったが、聴衆や批評家には高い評価を得ていた。この頃のベルリンにとってはむしろカラヤンの方が伝説の人物だったのである。そしてカラヤンは、－彼は後に事ある度に巧みにそれを利用するのであるが、ベルリンの人間にとってスカラ座や楽友協会に取られるのは耐え難い存在であった。両者の違いはそのプローベからも明らかである。カラヤンは効率を求め、特に難しいと思われる箇所を各パートに別け練習するのに対し、チェリビダッケは指揮台で激高し楽団員を無能と罵り、解雇を匂わせ脅した。(しかし何もこれはチェリビダッケだけに言えたことではなく、一昔前の指揮者は殆ど皆がそうであった。)こうしてチェリビダッケは楽団員と聴衆の支持を失った。彼はここで大きく見誤っていた。確かにチェリビダッケの後ろには絶対なるフルトヴェングラーが存在したが、彼がオーケストラと決定的に対立した数日後にフルトヴェングラーは深い眠りについたのである。その後、ハイデルベルクにあるフルトヴェングラーの墓のそばに寄り添ったチェリビダッケは次のように述べた。</p><br><p>「フルトヴェングラーはよい時に死んだ、耳が聞こえなくなっていたのだから」</p><br><p>彼はそれでも連邦功労大十字勲章を授与したこともあり、呼び出しが掛かるのを待っていた。しかし呼び出しが掛かったのはカラヤンの方でありチェリビダッケを多いに失望させた。その後チェリビダッケは再三に渡りカラヤンとベルリン・フィルを口撃することになる。</p><br><p><br>チェリビダッケ「カラヤン？身の毛がよだつ。彼は才能ある商売人、でなければ耳が聞こえないんだ。」「ハンス・クナッパーツブッシュ？スキャンダルだ。非音楽か、それ以下だ。」「アルトゥーロ・トスカニーニ？あれはただの楽譜工場。」「カール・ベーム？あれはただのジャガイモ袋。生きている間に、ただの一小節も音楽を指揮なんかしていない。」「レナード・バーンスタイン？ズビン・メータ？私の世界ではそんな名は聞いたことない。」「リッカルド・ムーティ？才能はあるが、途方もなく無知なやつ。」「クラウディオ・アバド？全く才能のないやつだ。三週間くらい何も食べなくても私は生きのびられるが、彼のコンサートに三時間でも付き合わされた日にゃ、心筋梗塞だ。」</p><br><p><br>天国のトスカニーニ(クライバー)「ジャガイモ袋のカーリはぶつぶつ文句をいってました。でもクナと私が、あの批難は間違っている。おまえさんが音楽的だったのは事実だ、といったのでやっと文句をいうのをやめました。ヴィルヘルムが突然言い出すには、あなたの名前はこれまで聞いたこともないそうです。またヨーゼフ、ヴィルフガング、ルートヴィッヒ、ヨハネス、それにアントンがいうには、第二ヴァイオリンは右側のほうがよいそうです。また、あなたのテンポは全て間違っているそうです…。私の住まいの隣には禅の老師が住んでいますが、彼がいうには、あなたは禅を全く間違って理解しているそうです。ブルーノはあなたの私たちのこきおろし記事を読んで、死ぬほど笑い転げていました。私は、私とカーリにたいするあなたの批判の出所はブルーノではないかと疑っています。…こんなことをお伝えするのは、お言葉を返すようですが、実はここ天国に住むもの皆がヘルベルトに首ったけなのです。指揮者だったものには、嫉妬心もおぼえる程の存在です。でも彼があと15年か20年後にここに来て、私達が歓迎の挨拶ができるなど、殆ど誰も信じていません。あなたがその場に居合わせられないのは残念です。でも聞くところによりますと、あなたの行くところでは煮炊きもずっとうまくできると言いますし、オーケストラは永遠にリハーサルに付き合ってくれるといいます。それどころかオーケストラは小さなミスを故意にしてくれて、あなたに永遠にやり直しをさせてくれるそうです。ここ天国ではエンジェルが直接作曲者の眼から読み取って演奏してくれ、私達指揮者は、ただそれを聴いていればよいのです。どうやって私がここへ来られたのか、それは神様だけが知っていることです…」</p><p><br><br><img alt="ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111120/00/karajan1908/0d/e8/j/t02200220_0220022011621756233.jpg"></p><p>EMI Celibidache Edition </p><p>Seｒgiu Celibidache &amp; Münchner Philharmoniker</p><p>ＥＭＩ チェリビダッケ・エディション第1-4集</p><p>セルジュ・チェリビダッケ指揮　</p><p>ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団<br>1987年他　ミュンヘン<br></p>
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<link>https://ameblo.jp/karajan1908/entry-11083544596.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Nov 2011 23:51:32 +0900</pubDate>
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<title>ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886～1954)③</title>
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<![CDATA[ <p>「我々の間にはいろいろと相剋があったけれども、いまとなってはたくさんのいい思い出が浮かんでくる。音楽家としてわたしは彼に結局のところ数多くの恩恵をこうむっている。わたしは彼がリハーサルをし、音楽を作り上げるのを聞いて、それはそれは多くのことを学んだ。わたしは後になって彼の薫陶を受けた多くの楽団員達と関わりあうことになったが、彼らは卓抜な演奏家であるばかりでなく、わたしとフルトヴェングラーのことを語り合うときには、私が彼を音楽家としていつも正当に評価してきたことを認めてくれた。わたしはいつも、彼の芸術性についてとくにすぐれていると見たものを、私の演奏会に生かし、伝えようとしたし、これはある程度まではうまくいったと思っている。」</p><br><p>カラヤンが死去した際にフルトヴェングラー未亡人・エリザベートは以下のように述べている。</p><br><p>「一大エポックが過ぎ去った。ブルックナーとＲ・シュトラウスの指揮では輝かしい人だった」</p><br><p>ベルリン・フィルのインテンダントであるヴォルフガング・シュトレーゼマンは両者の違いを、</p><br><p>「フルトヴェングラーが、曲の背後にあるものを解釈し感情表現を構築するやり方、作曲家がその曲を書いた動機、内面体験を重視して再生するのに対し、カラヤンならば『音楽は音楽だ、やめておけ』というでしょう。」</p><br><p>と説明したが、こうした違いがフルトヴェングラーをより刺激したのかもしれない。フルトヴェングラーの「偉大なる優柔不断」についてカラヤンは以下のように語る。</p><br><p>「ある点でわたしは、自分がフルトヴェングラーの正当な後継者だと思っている。彼は演奏会のあいだ、いつもよくオーケストラを放任していた。彼は経過句のところで意識的に、主導権をとるのをためらい、つぎの和音はオーケストラ自身に出してもらいたいのだということを感じさせ、そして待っていた。ベルリンの連中はいまだに、彼の一見途方にくれた眼差のことを話してくれる。そうした目つきで、彼はオーケストラを見つめ、彼らが自分達だけで演奏を続けるのを待っていたのだ。そして彼らは、彼に代わって演奏を続けた。」</p><br><p>結局両雄の対立はフルトヴェングラーの音楽的イデオロギーによるものではないだろうか。演奏における即興的な要素が抑制され、制限されることを恐れ、技術や正確さや統率力よりもインスピレーションの欠如を恐れ、感情による音の配分を無視してただ拍子どおりの指揮を恐れた、時代との闘争であり、永遠に決着が無いであろう創造的なものと再創造的なものの見識の違いだったのかもしれない。このイデオロギーにはカラヤンも死後捲き込まれることになると共に、カラヤンは自分の遺したバッハやヴィヴァルディが「いずれ時代遅れになる」ことも予見していた。しかし二人が遺した音楽遺産が不滅であることはどの時代においても事実である。</p><br><p><img alt="ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111119/19/karajan1908/69/5c/j/t02200220_0300030011620951935.jpg"></p><p>ＴＯＣＥ-14054</p><p>Beethoven: Symphony No 9</p><p>Wilhelm Furtwängler &amp; Orchester der Bayreuther Festspiele</p><p>ベートーヴェン：交響曲 第9番 ニ短調 作品125《合唱》</p><p>ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮</p><p>バイロイト祝祭管弦楽団＆合唱団、他</p><p>1951年7月バイロイト祝祭劇場<br></p><p><img alt="ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111119/19/karajan1908/37/ca/j/t02200220_0300030011620951934.jpg"><br>UCCG-2055 </p><p>Beethoven: Symphony No 9</p><p>Herbert von Karajan &amp; Berliner Philharmoniker</p><p>ベートーヴェン：交響曲 第9番 ニ短調 作品125《合唱》</p><p>ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮</p><p>ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団＆ウィーン楽友協会合唱団、他</p><p>1983年9月 ベルリン</p>
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<link>https://ameblo.jp/karajan1908/entry-11082665682.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Nov 2011 02:39:20 +0900</pubDate>
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<title>ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886～1954)②</title>
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<![CDATA[ <p>二人の対立は戦後も続いた。フルトヴェングラーは勿論ウィーン・フィルにも介入し、カラヤンを遠ざけるように画策した。結果的にこれはウィーン交響楽団にとって、影響力の大きい「カラヤン・チクルス」や同楽団最初の海外演奏旅行の成功等、黄金時代となったことは、またしてもフルトヴェングラーを苛立たせた。</p><p><br>カラヤンがフルトヴェングラーを語るときは、その人生の最後まで尊敬に満ち溢れ、多大の感慨に溢れていた。もしもこの老大家が弱輩指揮者を排除しようとしなければおそらく忠実な僕として忠誠を誓い、老大家はこれ程苦しまないでも済んだことだろう。この長く続く不毛な対立はザルツブルグ祝祭の間に二人同席の食事会という歴史的事実を生む。1947年7月12日、レコードプロデューサーのウォルター・レッグはフルトヴェングラー滞在中のホテルでの夕食の席にてカラヤン夫妻とフルトヴェングラー夫妻の和解を試みたのである。</p><br><p>「はじめはとてもぎこちなかった。わたしが、にっちもさっちもいかなくなったある別な指揮者のことで冗談を言ったときに、彼ははじめて高笑いをし、それで機嫌がよくなった。しかし、これで本当の会話のベースができたとはいえない。わたしはこんな話を知ったからだ。彼はザルツブルグではっきりこう言っている。『いったいカラヤンの奴、いつまでここで指揮をするのかね？』」</p><br><p>同席したレッグはこの時について次のように書いている。</p><br><p>「フルトヴェングラーとカラヤンに矛をおさめさせようとしたのだが、わたしの試みは無残な結果に終わった。宿敵同士はそれぞれの夫人をまじえ、ザルツブルグのホテルの特別室で食事をともにし、永遠の友情を誓った。翌朝早く、フルトヴェングラーは音楽祭の理事エゴン・ヒルベルトを呼び、契約書の主な条項を書きとらせた。<br>毎年ザルツブルグで指揮をするが、フルトヴェングラーが生きているかぎり、カラヤンをザルツブルグから閉め出すという条件がついていた。1949年に関しては、すでに契約のある二回のコンサートに限ってカラヤンの指揮は認めるという。自分がいかにだまされていたのかということにカラヤンが気づいたのは、何日もたってからだった。」</p><br><p>結局この闘争はフルトヴェングラーの死によって終わりを迎える。そしてこれをカラヤンは有名な電報により知る。</p><br><p>「王は死んだ、新王、万歳」</p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20111120/03/karajan1908/c2/a0/j/o0300030011621927848.jpg"><img alt="ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111120/03/karajan1908/c2/a0/j/t02200220_0300030011621927848.jpg"></a> <br><p>Naxos 8.110872-75</p><p>Richard Wagner:Die Meistersinger von Nurnberg</p><p>Herbert von Karajan &amp; Orchester der Bayreuther Festspiele</p><p>ワーグナー：ニュルンベルクのマイスタージンガー</p><p>ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮</p><p>バイロイト祝祭管弦楽団、他<br>1951年7月、8月バイロイト祝祭劇場</p>
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<link>https://ameblo.jp/karajan1908/entry-11082552691.html</link>
<pubDate>Fri, 18 Nov 2011 23:39:24 +0900</pubDate>
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<title>ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886～1954)①</title>
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<![CDATA[ <p>フルトヴェングラーは芸術、その中でも音楽における「ドイツ的特性」を重視し、その優位性を芸術的形姿にした。「技術的コントロール」による精神的な理解や感受の損失を堕落、頽廃とみなし否定した。カラヤンとフルトヴェングラーには確執があった。そしてその時代背景は大戦中、そして戦後の混乱の中という複雑極まるものになる。</p><br><p>1938年4月8日、モーツアルト交響曲第33番、ラヴェル「ダフニスとクロエ」、ブラームス交響曲第4番というプログラムでカラヤンはベルリン・フィルの指揮台に始めて登ったが、フルトヴェングラーがその死(1954年11月30日)を迎えるまでにカラヤンがベルリン・フィルを指揮したのはわずか十公演で七つのプログラムのみである。コンサートに対する反応は概ね「盛大な拍手喝采をもって」「共感に満ちたもの」となったが、このオケの偉大なる主席指揮者フルトヴェングラーはカラヤンが指揮するのを遠ざけたのである。</p><p><br>理由に関して心中を察するのは極めて困難であるが史実を追えば、1934年にフルトヴェングラーはヒンデミットの「画家マチス」初演を巡りナチス政権と小競り合いをし、ベルリン国立歌劇場監督、ベルリン・フィル主席指揮者、帝国音楽会議副議長等全ての要職を退いていた。そのベルリン国立歌劇場の後継がカラヤンであった。そして当時の記事によれば「奇跡のカラヤン」「われわれの偉大な五十歳台の人間が、当然疎ましく思うような仕事を、三十歳の一人がしてみせた」と呼ばれる一大センセーションをおこす。<br>ただしこの頃のフルトヴェングラーの政治的、音楽的地位はナチス政権ですら容易に攻撃出来ぬ程、既に確固たるもので、それは才能溢れるユダヤ系指揮者がことごとく国外に追放されていたためにより強靭なものであった。これは当時のカラヤンの地位とは天と地程も差があるが、ナチス政権及び評論家、そして国立歌劇場は「どちらが優れた指揮者か」を競い合わせ、フルトヴェングラーの偏執病を刺激した側面がある。当時をカラヤンは以下のように回想する。</p><br><p>「フルトヴェングラーはたいへんな戦いを強いられたし、わたしは彼の生活を困難にするために利用された。彼に対する悪質な陰謀があり、わたしは彼の敵対者たちに、若くてまだまだ使える競争相手として奉仕したのだった。これは否定できない。そして、これもまったく自明なことだが、フルトヴェングラーはそのために、わたしよりもそれははるかにひどい苦しみを受けた。彼はそれまでは押しも押されぬトップだった。そこへわたしが現れて、これがなにも失うもののない青年ときている。わたしの年齢だけが彼の癇にさわったのだ。<br>ただし、われわれの対立状況をきまって政治の観点から見るのは今でも間違っている。フルトヴェングラーと党のあいだに生じたいざこざは私にはなんの関係もなかった、我々の間に起きたことは、どの時代にも、どの国でも起きただろうことだ。それは二人の指揮者、一方は人生のクライマックスにいる、もう一方は弱輩として乗り込んできた、そうした二人の葛藤だった。わたしにとっては結局のところ、誰か悪質な陰謀家たちのゲームに参加するなど、真実、問題ではなかった、－私は、指揮のできるあらゆる機会を逃すまいと思ったのだ。そしてベルリンでのそうした機会の一つ一つがフルトヴェングラーを苦しませる結果となった。」</p><br><p>カラヤンは国立歌劇場を指揮するために自らをこのレースに委ねたが、つまるところこれは出来レースであった。ゲッベルスの日記には以下の記述がある。</p><br><p>「フルトヴェングラーはカラヤンについてこぼしている。カラヤンは新聞で大いにもてはやされている。止めさせねばならない。フルトヴェングラーは非常に分別のある態度をとっている。それに、結局、彼はわが国最高の指揮者なのだ。」</p><br><p>「フルトヴェングラーとカラヤンのいさかい。カラヤンは新聞で大騒ぎされている。フルトヴェングラーは正しい。彼はつまるところ世界的な名声を博した人物だ。これは止めさせよう。」</p><br><p>最終的にカラヤンは「理解などしていなくても」「フルトヴェングラーが復帰したら、裏口から」出て行かなければならなかった。</p><br><img alt="ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111119/19/karajan1908/55/76/j/t02200220_0300030011621022001.jpg"><br><p>POCG-3774/9</p><p>Herbert von Karajan : Die Ersten Aufnahmen</p><p>Herbert von Karajan &amp; Staatskapelle Berlin</p><p>カラヤン初期録音集1938-1943</p><p>ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮</p><p>ベルリン国立歌劇場管弦楽団、他<br>1938年-1943年</p>
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<link>https://ameblo.jp/karajan1908/entry-11082396950.html</link>
<pubDate>Fri, 18 Nov 2011 21:23:33 +0900</pubDate>
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<title>グレン・グールド(1932～1982)</title>
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<![CDATA[ <p>グールドはカラヤンの演奏したシベリウスの交響曲第五番を「率直に言って音楽的、劇的体験としてわたしの人生で真実忘れられないものの一つ」とし、自らのラジオ・ドキュメンタリーに使用したばかりか、無人島に持っていく三枚のディスクの一枚に選んでいる。グールドによるカラヤンに対する記述は非常に多い。</p><br><p>「ショトラウスのメタモルフォーゼンを、わたしは紙の上の一つの観念として三十年近くも愛してきた。しかしその間ずっと、この曲は二十三の勝手気ままな弦楽器が六－四の和音を求めて走り回るための乗物にすぎない、としか考えなかった。ところが二、三年前にカラヤンの主導力のある録音をはじめて聴いたとき、その考えはがらりと変わった。何週間にも渡って、毎夜二、三回はこのレコードをかけた。」</p><br><p>「これまで私が観たもののうち、最高傑作を二、三挙げるならば、そのうちのひとつ～《中略》～とにかく圧倒的な名演で、私はＣＢＣで個人的に見せてもらえるように頼んだほどです。」</p><br><p>カラヤンもまたグールドを高く評価し、競演した際に「説得して舞台の先端から指揮してもらう」ことも困難ではなかったと述べている。カラヤン自信、自伝にて以下のように述べている。</p><br><p>「グレン・グールドはなんという音楽家だったろう。彼の吹き込んだものをじっくり聞いてみると、こうしたすべてのことをわたしは感じる、－正しいテンポを見つける彼のやり方、その楽器の扱い、バッハにおける構造についての知識－。彼が公開演奏から身を引いたこと、彼専用のスタジオを持たざるをえなかったこと、自分自身の望むところを正確にそのまま音楽にしたこと、わたしはそうしたことをいつも理解してきた。彼ほどの能力を持ったピアニストは、こんなふうにしか生き延びることは出来なかった。彼の死は、世界にとって大きな損失だった。」</p><br><p>カラヤンもグールドもお互いの芸術性を高く評価していた。共にレコードと映像に高い興味を示し、無限の可能性を確信していた。しかし、決してカラヤンがグールドのようにコンサートをドロップアウトしなかった点は興味深い。オケとソロの違いはあれど、おそらくカラヤンであれば状況的には可能だった筈である。グールドは聴衆をモンスターとみなし、カラヤンは「音楽を愛する人々との直接なコンタクト」を拒絶せずに「別物」とみなした。<br></p><p>今日では彼らの生きた時代から更にテクノロジーが進化し、レコード産業は衰退を迎えた。人々は生の演奏を聴く機会があれば金を払うが、録音されたものに金を払うのは馬鹿馬鹿しいと考えるようになった。自然淘汰されたのが、コンサートではなく録音だった点は皮肉である。</p><br><p><br><br><img alt="ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111119/16/karajan1908/3c/e9/p/t01900190_0190019011620622634.png"></p><p>SICC-908</p><p>Beethoven: Piano Concerto No.3/Sibelius: Symphony No.5</p><p>Glenn Gould &amp; Herbert Von Karajan Berliner Philharmoniker</p><p>ベートーヴェン：ピアノ協奏曲第3番&amp;シベリウス：交響曲第5番</p><p>グレン・グールド＆ヘルベルト・フォン・カラヤン<br>ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団</p><p>1957年5月ベルリン高等音楽院ホール</p>
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<pubDate>Thu, 17 Nov 2011 13:22:50 +0900</pubDate>
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<title>レナード・バーンスタイン(1918～1990)</title>
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<![CDATA[ <p>バーンスタインとベルリン・フィルには一期一会の名演として名高いマーラの交響曲第９番のレコードが存在する。伝説に虚栄まみれた逸話はつきもので、ここでも『カラヤンが邪魔をして十分なリハが取れなかった』『バーンスタインはレコードと映像の販売を切望したが、カラヤンが許可しなかった』など数々の興味深いゴシップが付きまとう。史実としてこの時の演奏はカラヤンの死後に、10年以上の時を経てＣＤとして発売された。<br>成り行きは不明だが、「オケ側が崩壊寸前の演奏を遺したくないために、カラヤンと同曲の録音を条件に販売を止めた」との噂が立つくらいベルリン・フィルが非協力的であったのは、バーンスタイン自身が語っているので間違えないであろう。ただ、実際に演奏を聴いてみると、確かにミスは目立つが『崩壊寸前』という訳ではなく、バーンスタインらしい名演奏に仕上がって聴こえるから不思議である。</p><br><p>以下ベルリン・フィルのインテンダントであったヴォルフガング・シュトレーゼマンの言葉である。</p><br><p>「バーンスタインとは、1940年以来、常に接触しています。バーンスタインは、ベルリン・フィルを指揮する意志はあるが、それには二つの条件があると言っています。第一にアムネスティ・インターナショナルのためにチャリティ・コンサートとして行うこと。第二に会場はドイチェランドハレを使用すること、です。こちらの回答としては、一日だけなら希望に添うことはできるが、我々にもフィルハーモニー・ホールで正規のコンサートを行う権利がある、ということです。仮に、ニューヨーク・フィルに招聘されたカラヤンが、次のように言ったとします。『マディソン・スクエア・ガーデンでのチャリティー・コンサートは指揮しますが、本拠地のエーブリー・フィッシャー・ホールでの指揮はお断りします。』おそらく誰もが『あなたは正気か？』と言うでしょう。」</p><br><p>同時代を生きたスーパースター同士とあって二人を巡っては数々の逸話が存在する。ある時カラヤンの指揮するシェーンベルクの『浄められた夜』をバーンスタインが聴いた後に、楽屋でひどく興奮して</p><br><p>「この曲をバレエ音楽としていくども振ったことがあり、この曲ほど譜りつくしている曲はない。だが、このような演奏を聴いたことがない。」</p><br><p>と告げた。カラヤンは後に</p><br><p>「彼はとても興奮していたが、なかなか感じがよかった。彼とうまくやって行けるように思う。何かいっしょの仕事を企画したらいいのではないか」</p><br><p>と語ったが、これは確執の噂を払拭するための『合同演奏会』という企画になり日本への演奏旅行で開催の予定であった。その際ベルリン・フィルではなくウィーン・フィルを選んだ理由として</p><br><p>「ベルリン・フィルの音楽家は甘やかされすぎて、最早カラヤンを常任指揮者として望まなくなっている」</p><br><p>とバーンスタインが告げ、カラヤンを喜ばせたのは有名な話である。この企画はカラヤンの死によって永遠に幕を閉じた。他にもカラヤンの誕生日にバーンスタインよりバースデーカードが送られた話とか、偶然鉢合わせたホテルでバーンスタインが騒いでいるとカラヤンからシャンパンが送られた等、想像力を掻き立てられるエピソードは多数存在する。</p><p><br><br><img alt="ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111119/16/karajan1908/de/d5/j/t02200220_0300030011620642773.jpg"> </p><p>DG　435 378-2</p><p>Gustav Mahler : Sinfonie Nr.9 D-Dur</p><p>Leonard Bernstein &amp; Berliner Philharmoniker</p><p>マーラー交響曲第９番ニ長調<br>レナード・バーンスタイン指揮　</p><p>ベルリンフィルハーモニー管弦楽団<br>1979年10月アムネスティ・インターナショナル<br></p><p><br><img alt="ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111119/16/karajan1908/cc/dc/j/t02200220_0300030011620669999.jpg"></p><p>POCG-20001 </p><p>Gustav Mahler : Sinfonie Nr.9 D-Dur</p><p>Herbert von Karajan &amp; Berliner Philharmoniker</p><p>マーラー交響曲第９番ニ長調</p><p>ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮</p><p>ベルリンフィルハーモニー管弦楽団<br>1982年9月ベルリン、フィルハーモニー</p><p><br><img alt="ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111119/16/karajan1908/15/e4/j/t02200220_0300030011620689397.jpg"></p><p>UCCG-4528 </p><p>Gustav Mahler : Sinfonie Nr.9 D-Dur</p><p>Herbert von Karajan&amp; Berliner Philharmoniker</p><p>マーラー交響曲第９番ニ長調</p><p>ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮</p><p>ベルリンフィルハーモニー管弦楽団</p><p>1979年11月ベルリン</p>
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<pubDate>Thu, 17 Nov 2011 10:42:36 +0900</pubDate>
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<title>カルロス・クライバー(1930～2004)</title>
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<![CDATA[ <p>カルロス・クライバーはカラヤンの死後、ドイツ語圏出身最後の大物として伝説に近い扱いを受け、非常に高い評価を得た指揮者である。実際カラヤンが死去した時にはウィーン・フィルのコンサートマスターであるライナー・キュッヒルに</p><br><p>「もうクライバーしかいない」</p><br><p>と言わしめ、ニューイヤーコンサートの映像からはドイツ語で稽古をつけられ嬉しそうに演奏するヘッツエルの姿が見れる。そんなクライバーもカラヤン在任中のベルリン・フィルに中々登場しない指揮者の一人であった。その為か不仲説が報じられることが度々あったが、これはとんでもない事実誤認であるし、クライバーはカラヤンのプローベを見れる機会があれば決して逃そうとはしなかった。ただし、クライバーはベルリン・フィルにカラヤン以上の高額な出演料を要求し、オケ側が誰にも提示したことがない高額の出演料を提案するとこう答えた。</p><br><p>「妻に相談してから返事をします」</p><br><p>今でもクライバーを語るときに使われる、カラヤンの有名な言葉がある。</p><br><p>「最も優れた音楽家だが、冷凍食糧庫の貯えで暮らしているので、中身を補給する必要が生じたときしか指揮しない」</p><br><p>前述のキュッヒルもクライバーをこう評する。</p><br><p>「クライバーはとてつもない天才ではありますが、彼はカラヤンやバーンスタインのように継続してオーケストラを育てることができません。」</p><br><p>カラヤンは自分でも評するように『古いタイプの人間』である。どこかに根を生やし、独裁的に手足をコントロールすることを望む人間である。そんなカラヤンがクライバーをライバル視し、恐れたとはとても考えにくい。またカラヤンは自身がフルトヴェングラーから受けた仕打ちを教訓として、後輩指揮者には非常に寛容、尊大であった。ベルリン・フィルでの仕事が重なった際にこんなやりとりがある。</p><br><p>「ご承知と思いますが、私は私のオーケストラをあなたにいついかなるときでも使っていただいてけっこうなのです。」</p><br><p>「どうか信じてください。あなたは私には貴重です、私からはほとんど狂信的に崇拝しています。もしかして、あなたの感情を害するような人間がいたら、私はこの手で奴らを絞め殺してやりたい。私には指揮者としての功名心はありません。むしろあなたの演奏を聴いていたいのです。ですから、あの百姓どもに゛だめだ゛とおっしゃったら、万事は落着です。ひどくうぬぼれていると聞こえるでしょうが、あなたが第…小節でどういう素晴らしいことをなさったか、ほんとうに分かっている、幸せな少数の人間のひとりが私なのです。私は相変わらず、あなたの不肖の弟子です。そして、もし許されるなら、あなたの友人です。」</p><br><br><p><img alt="ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111119/17/karajan1908/22/48/j/t02200220_0300030011620731010.jpg"></p><p>SVD45985 </p><p>Herbert von Karajan, His Legacy- New Year's Concert 1987</p><p>Herbert Von Karajan&amp;wiener philharmoniker</p><p>ニューイヤーズコンサート　1987</p><p>ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮</p><p>ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団</p>1987年1月　ウィーン、ムジークフェラインザール<br><p><br><br><img alt="ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111119/17/karajan1908/30/0c/j/t02200220_0300030011620731011.jpg"></p><p>UCBG-1087</p><p>New Year's Concert 1989</p><p>Carlos Kleiber&amp;wiener philharmoniker</p><p>ニューイヤーズコンサート　1989</p><p>カルロス・クライバー指揮</p><p>ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団</p><p>1989年1月　ウィーン、ムジークフェラインザール</p><br><p><br></p><p><img alt="ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20111119/17/karajan1908/04/18/j/t02200220_0300030011620731009.jpg"></p><p>UCBP-1039 </p><p>New Year's Concert 1992</p><p>Carlos Kleiber&amp;wiener philharmoniker</p><p>ニューイヤーズコンサート　1989</p><p>カルロス・クライバー指揮</p><p>ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団</p>1992年1月　ウィーン、ムジークフェラインザール
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<pubDate>Thu, 17 Nov 2011 09:30:52 +0900</pubDate>
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