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<title>せめて、凡人らしく</title>
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<description>文字に書き起こすことで思考を整理したりメモ代わりにするためだけの、読者を気にしてない自己満足の極みなブログ</description>
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<title>いまさら</title>
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<![CDATA[ ケータイからだとお知らせが見えないことに気付いた。<br>アメブロ使いづらいから移転しました。http://katsuya1989.blogspot.com/
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<link>https://ameblo.jp/katsuya1020/entry-11194231591.html</link>
<pubDate>Fri, 16 Mar 2012 12:17:31 +0900</pubDate>
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<title>２ちゃん系まとめサイトと若者への影響</title>
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<![CDATA[ 今だったら「痛いニュース」とかで有名な２ちゃん系のまとめサイト、俺が高校くらいの頃から流行りはじめてきて今はネットとかあまりしていない普通の中高大学生（ここでは「若者」とひとまとめにする）にも普及している。<br>基本的にサイトに書いてることはネタ系のことか、ニュースをもととした２ちゃん内での議論という名の雑談をまとめたもの。ここで問題としたいのは後者。<br><br>ニュースに対する意見がまとめサイトを見ることで閲覧をできるのだが、「意見」というものは知識が積み重なって、その知識などをもととして出てくるもの。<br>閲覧できるのはそのような過程を飛ばした「意見」のみ。<br>で、まとめブログ閲覧者はその意見を容易に見れる。<br>別にそのことはいいんだけど、さも自分の意見かのように書いていることだけを知識として取り入れる。<br>そのため、過程を飛ばした中身のない意見だけで構成されたその人の価値観が構成される。<br>実際にはなにもわかってなくても意見だけは出せる。しかし「考えた意見」や「独自の意見」は出せない。<br><br>しかし、本人たちはそれに気付いてない、さらにいえば「大人のように政治問題などを語れる俺かっこいい」と思っている。<br>そのため、さも世の中のことをわかっているかのようなしたり顔をする。<br>そしてわかった気になっているので、その分野に関して「既に完了した知識」だと認識するためそれ以上知識を入れない。それだけにあきたらず、一般的な情報に対して「マスコミの湾曲情報だ」などと陰謀論かのような扱いにして馬鹿にして「ネットにこそ真の情報がある」という態度である。<br><br>さらに、草食系と揶揄されるように今の若者特有なのか、傷つくのが怖い。そのため、反論をされても「自分が間違っている」と受け入れなかったりするくせに「自分はそこらの愚民より頭が良い」と思っていて、プライドだけは高い。<br><br>つまり、自分を馬鹿だと自覚してないし、むしろ頭が良いと思っているからそれ以上知識を入れない。<br>そんなことで本当の意味で頭が良い大人になるわけがない。<br><br>これらはいわゆる「ネット住民」にありがちなことだが、ネット住民化してる若者が年々増えてきているな気がする。<br>あくまで体感ですが。。。<br>若年層になればなるほどその傾向が強く感じる。<br>年を取るほど「ネットの情報も結局は本当かわからない」「こいつら（まとめブログでの発言者）は考えが偏っている」などという認識ができるのだが、若いとそのバランス感覚が薄い。<br>そのためネット＝真の情報と思いがちなんじゃないかなー、と。<br>さらにいえば中高生とか斜に構えがちだしね。<br>そういう意味でマスコミなどと対極なネットは鵜呑みにしやすいのかもしれない。<br>ただ、問題は若い時からネットに陶酔してる人は大きくなっても前述のバランス感覚が取れない人が多い気がする。<br>そうなると、どんどんとそんな馬鹿が増えていくということだ。<br>日本ｵﾜﾀ（←結論）<br><br>余談。<br>まとめブログ自体誰かが編集して任意のレスのみ抽出しているということは、その編集者の価値観に左右されるわけだ。<br>特に他意はないけど、よくネットで話題に出る韓国を例としよう。<br>韓国が何かしましたー<br>そのニュースに対する２ちゃんでの意見は韓国擁護８００、韓国非難２００でしたー<br>しかしまとめサイト編集者は嫌韓なので韓国非難の意見ばかり載せましたー<br><br>と、なるとまとめブログをみない人からしたらネットの総意は韓国が悪いということになる。で、特に知識がない大多数の人はそれがおかしいと思わないのでそのニュースは韓国が悪いと鵜呑みにする。<br>そもそも２ちゃんに書き込んでいるやつらもちゃんと知識があるのか疑問。<br><br>さらにいえば最近騒がれている『ステマ』ことステルスマーケティングとかも多いしね。<br><br>情報というものは「正しいかはさておきそういう意見もある」くらいの認識でいて、それらと自分の知識とを混ぜて意見を出すものだと、俺は思う。<br>
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<link>https://ameblo.jp/katsuya1020/entry-11135965554.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Jan 2012 21:45:11 +0900</pubDate>
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<title>けいおん！は何故評価されたか</title>
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<![CDATA[ 最近アニメの「けいおん！」がよく取り上げられる。<br>上映中の映画含めて全部見たし、俺も好き。<br>でも内容は「なんか女子高生がだらだらしててヤマもオチもない」のでどこがおもしろいの？と聞かれたら答えれない感じ。<br>じゃあなんであんなにも人気なのかなー、と考えてみた。<br><br><br>けいおん！のように「特にヤマもオチもないだらだらして、漫画らしい要素もなく読者も普通に体験してそうな日常を書いた漫画」を日常系という。<br>で、昨今オタク業界では日常系が量産されている。<br>何で量産されてるか、というのは書きやすいからとかまぁ色々理由があるけど本題とずれるから省略するとして、何故大量にある日常系の中でも特にけいおん！は売れたか。<br>理由は徹底した「リアルな日常」にあると思う。<br><br>日常系の性質として「特にヤマもオチもないだらだらして、漫画らしい要素もなく読者も普通に体験してそうな日常を書いた漫画」と書いた。<br>しかし、厳密には「読者も普通に体験してそうでしてない」日常の様子が描かれてる。<br>例えば、普通にご飯食べてだらだら喋ってー、ってしててもそれをこなしているキャラクターが漫画的なキャラだったり、普通に体育をしているけれども体操服がブルマだったり。<br>ありていにいうと「漫画的な日常」になっている。<br><br>一方、けいおん！はそのあたりも徹底している。<br>もちろん、冷静に考えたらけいおん！のようなキャラはいないのだけれども、もしかしたらギリギリいるかも？というライン。それと、漫画とかでは普通排除されるような細かい仕草（台詞外での仕草）が徹底しているため、キャラを造形する情報が多く厚みが増える。<br><br>学園生活においても、例えば「登校してきて教室に入って友人と喋る」というのも、普通の漫画だと「扉を開ける→メインで登場するキャラ（＝一番仲の良いキャラ）と喋る」だけれど、けいおん！では「扉を開ける→扉の近くにいるメインでないキャラと軽く挨拶する→メインのキャラと喋る」となっている。<br>高校のときとかを思い返してみると、教室に入った時だれとも会話せずに一直線に一番仲の良い友達と喋らなかったはずだ。<br>最終的に話すにしても、その間に目があったクラスメートと軽く喋ったりするはずだ。<br>そもそも普通の漫画では、登場する人物は主人公とその親友のみの5,6人程度だが普通に考えたら軽く喋る程度のクラスメイトも含めて学校生活で友人はもっといるはずだ。<br>その「親友ではない友人」もちゃんと描写をしていてより「リアル」なのがけいおん！だと思う。<br><br>他にもこのように漫画的日常ではなく、誰でも体験したことがあるようなリアルな日常の描写がけいおん！には多数ある。<br>そのため、『懐かしい』と思うのがけいおん！がヒットした理由ではないだろうか。<br>「特にドラマみたいな体験はしてない普通の生活をしていたけれど高校時代は楽しかった」、その「よく思い出せない感じだけど楽しかった」日常を出来る限りリアルに書いたのがけいおん！ではないだろうか。<br>だから「けいおん！ってどこが面白いの？」と聞かれても答えづらいのだ。「高校時代のどこがおもしろかった？」と聞かれても具体的に「ここ！」と答えれないのと同じだ。<br><br>しかも、けいおん！の日常はリアルに近いけれどもマイナスな日常（道端で絡まれる、性格が悪い人がいて不快な思いをするなど）がない。つまり楽しかった高校時代の中のマイナス要素を除外した「純化された日常」<br>つまり誰でも体験している日常の良い部分のみを抽出している。<br>そりゃ楽しくないわけがない。
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<link>https://ameblo.jp/katsuya1020/entry-11130010573.html</link>
<pubDate>Sun, 08 Jan 2012 12:25:40 +0900</pubDate>
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<title>リーダーって？</title>
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<![CDATA[ なんで全員にリーダーシップを求めるの？　http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110927<br>という記事を少し前に読んで読みなおした。<br>思っていることはここに大体書いているし上手くまとめられてるので省略。<br>だから今回は「リーダーって？」ってのを書こうかなー、と。<br><br>個人的にはリーダーは2タイプあると思う<br>１．リーダーが先導してぐいぐいと行く。リーダー以外はそれのサポート。<br>２．リーダーは指示出しやみんなのモチベーション保ちなどの組織運営を円滑にする行動を行い、組織がやること自体はみんなで決める。つまりリーダーとその他が違うことは組織運営を円滑にする点がプラスされる程度であとは基本的にみんなと変わらない。<br><br>１はパワーがあってスピードは速いが、よくもわるくもリーダー次第なのでリーダーのやる気や能力で色々左右される。また、リーダー以外は極端な言い方をすると雑用なのでカリスマがない限りやる気も保ちづらい（そこのサポートは副リーダーの仕事？）、ただし逆にいうとリーダー以外は何も考えないでいい。<br><br>２はみんなで決めるのでスピードは１と比べて遅いがみんなの意見が反映されるから組織内は平和。<br>ただしその分リーダー以外も考えないといけない。<br>それと、リーダーはマメに全体や空気を察しないといけないので大変。<br><br><br>ありていにいうと１は独裁政治、２は民主政治。<br><br>どっちのやり方も一長一短だからどちらでもいいが、俺個人はみんなで学び高めあいたいから２の方が好き。つーか一人でガーッっといかないといけない１は俺が担うには無理。そういう組織だと俺は副リーダー（サポート）のが向いてるかな。<br><br>一番バランスがいいのは基本的に１だけど２要素もある感じか？<br>リーダーががーっとやりつつ、要所要所みんなの意見も汲み取る。まぁどちらにせよリーダー・副リーダーの能力が必要ですが・・・。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/katsuya1020/entry-11129988996.html</link>
<pubDate>Sun, 08 Jan 2012 12:02:50 +0900</pubDate>
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<title>豊かさについて本気出して考えてみた</title>
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<![CDATA[ 豊かさについて、ディベート？するみたいなんで思考まとめ。<br>豊かさについて、としか聞いてないから方向性や落としどころは知らん。<br>とりあえず豊かから一番連想された「豊かなことは幸せなのか」というありがちなことについて。つまり幸せって何ぞやに絡めて。ていうかぶっちゃけ幸せについての論。<br>多分過去何回か書いてるけどまぁ気にしないでください。<br><br>まず、豊かさとは。<br>物質的豊かさと、精神的豊かさの2つに別れる。<br>で、個人的には物質的に豊かだとしても幸せとは限らない。<br>が、精神的に豊かなのは幸せではないのかな、と。<br><br>そもそも幸せというのは相対的に測れるものではなくて絶対的もの。<br>貧しくてささいな不満はあれど本人が幸せだと思ってたら幸せだし、金持ちでも不満だらけで幸せでないと思っているのならばそいつは不幸せ。<br>逆に言うと、幸せかどうかなんて本人にしかわからないから「日本はアフリカと比べて普通に衣食住ができるのに不幸せとは何事か！」とかいう物質的豊かさと絡めての批判はナンセンス。<br>いや、そりゃ世界的には恵まれてるけど日本人にはそれが"普通"なんだからそれを批判されても知らんがな。<br>ただ、「日本は最低限の人間としての生活は保証(保障)されてるし、差別は(基本的には)ないので、努力さえすれば様々な選択を自由に取れる。つまり幸せを追求する機会は世界的に恵まれている。なのに、その選択を自ら追求せずに不幸せとは何事か！」ならまぁ議論のポイントが違うからOK。<br><br>ていうか、究極的に本人が楽しいって言えるならそれでいんじゃね。っていうのが一言でのまとめ。<br><br>余談。<br>でもどうしても人間というのは誰かと自分を比べたがるので、そこら中の自分とあまり変わらなそうな人なのに、お金とか成功とかの尺度で測った幸せ(そうに見える)人が溢れかえっている日本ではある種、自分より優勢な比較対象が多い(ように見える)のは精神的に不幸せになりやすいっちゃなりやすいか。<br>貧富度を測るジニ係数は日本は世界一の平等さだけど、アフリカとかは高いけれども、あっちの貧困層は裕福層とは基本的に関わらずある意味別の生き物扱いだからなぁ。<br>てかジニ係数って物質的豊かさが尺度だしね。<br>精神的豊かさだったら自殺率高いし最低レベルじゃね。<br>そもそも日本人の国民性的に個人主義ではなく団体主義だから「なんで俺はこんなんなのにあいつは・・・」と陥りやすいしね。あとお上がなんとかしてくれるという思考停止な人任せ主義ですし。<br>ただ、本人らの精神的な幸せはさておき人間として保障される"べき"権利はあるよね。<br>いわゆる、社会権とかの基本的人権ってやつだと思うけどそのあたりは割愛。ググれ。<br>物質的豊かさについて語るならば、社会権が満たされてない場合は批判対象にはなりうるとは思う。<br>ただ、まぁやっぱり個人的豊かさこそ幸せの真髄じゃないかなー、と思う。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/katsuya1020/entry-11110083353.html</link>
<pubDate>Sun, 18 Dec 2011 08:45:14 +0900</pubDate>
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<title>生命の尊厳ってなんぞや</title>
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<![CDATA[ ザ・ワールド・イズ・マインという色々とアレな漫画を読んだうえで議論しましょう、という読書会に参加するので現在の生命の尊厳への思考をまとめ。<br>注意、これは生命の尊厳への考え方を自分の中でまとめてるだけでワールドイズマインのテーマには沿ってないです。<br><br><br>とりあえず、生命の価値においてわかりやすいものさしは死刑について。<br>調べてないから公式見解はどうか知らないが、死刑が執行されるのは<br>1.生命の尊厳(人権)の力を覆すほどの悪の力(犯罪)を行使したとき<br>2.犯罪により、生命の尊厳が目減りしその生命の価値が無くなったとき<br>個人的にはこの2つの考えがしっくりくる。<br>いわゆる人権派は1.において生命の尊厳は絶対的な力でそれを覆すものはない、という考えなのかな。<br>俺の場合、2.。<br>生まれつき生命というのは尊いものだがそれは目減りする。生命は条件を満たした場合うえで尊い。言い換えると、人としての権利(人権)を主張するならば人としての義務を果たせ、ということ。<br>例えば、生命は産まれたとき平等に初期値10ポイント与えられます。<br>重犯罪で-8ポイント、軽犯罪で-4ポイント、人の命を守ったら+5ポイント。"尊い生命"というのは8ポイント以上の生命を指す・・・みたいなのが感覚的には近い。<br>だから、人の命というのは不平等で当たり前だと思う。<br>希代の英雄と大量殺人者、どちらともの命が平等なんて、それこそ世の中不平等だよ。<br>ただ、その判断基準も人によって違う。<br>戦争でB国を壊滅させたA国の英雄は、B国にとっては大悪人。<br>大量殺人者で世間的には殺されて当然な人もその親からしたら尊い命<br><br>つまり、命に平等な価値は無く、立場によって変わるもの。<br><br>・・・まぁ正直わざわざ書かないでもそんなこと普通の人なら知ってるだろうけど、人権派はなんなんだろうね。<br>自分の子供が殺されてもそう言うのかねぇ。確か自分の子供が殺された弁護士かなんかで鞍替えした人がいた気がする。<br><br><br>おまけ。<br>「人は何故人を殺しちゃいけないのか」<br>人としての義務だから。<br>何故義務か。<br>尊い生命を奪うから。<br>前述の「尊くない生命」は奪っていいのか。<br>いんじゃね？
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<link>https://ameblo.jp/katsuya1020/entry-11109361266.html</link>
<pubDate>Sat, 17 Dec 2011 13:37:29 +0900</pubDate>
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<title>作為的に井の中の蛙になることは間違っているのか。</title>
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<![CDATA[ 井の中の蛙大海を知るという言葉がある。わりかし良い言葉とされているが本当にそうなのだろうか。<br>井戸の中で頑張って井戸、つまりそのときの見えている世界そのものを知り尽くしたら、その世界はごくごく一部であった。<br>自分の矮小さを知った、さぁ次の広い世界でがんばろう。・・・そうなるとも限らない。<br>やっとの思いで限界でやっと井戸の世界を知り尽くしたならばそれより広い世界ではそれ以上のことを知れず一生自分の矮小さに苛まれるではないだろうか。<br>本当に広い世界を知るのは幸せなことなのだろうか。<br>例えば、実話として20年ほど前のアフリカかなんかの部族の話がある。<br>その部族は電気も使う文明の利器を知らず昼は狩りをして、年齢関係なしに色々なものを平等にわかちあい、夕からは踊ったりして平和に暮らしてました。<br>ある日文明の利器と貨幣文化をある日欧米人が持ってきました。<br>生活は劇的に変わりました。<br>欧米人は貨幣文化の導入のために商店などを経営の手伝いもしました。<br>広い世界を知り生活は便利になりました。ですが、生活は平和でなくなりました。<br>また、あくまで欧米人のサポートがないとなりたたない貨幣文化なので結局は欧米人に搾取されるだけです。<br><br>・・・そんな話。ちょっと論点ズレてる感はあるけどね。<br><br>例えば、俺の場合はそれを作為的にしてる気がする。<br>大海を知って心を動かされないように、井戸に引き篭もってる。<br>だから一度も他の大学に行ったこともないし、リア充の多い空間にはできるだけいかないようにしている。<br>だって行ったらその世界を知ってしまって惨めになるし。<br><br>少し話は逸れるけど、恋愛も似たような感じで、恋愛をしてしまったら自分の時間だけでなく、感情も自分だけでコントロールできなくなると思うからやる気がない(まぁ最近珍しく多少動きましたが...)。<br>なんつーか、禁断の果実的な？麻薬でもいいけど。<br><br>禁欲的っつーより、ただ単純に感情コントロールが下手だから感情できるレベルのことしかしないだけ。したくないだけ。するのが怖いだけ。<br><br>だからあえて井戸から出ず大海を知らない。存在は知ってても実態を見なかったら何かそういう魅力的なのがあるんだってさ、程度ですむ。<br><br>ただのヘタレの思想だけど、やらなければいけないことがあるから、感情がコントロールできなくなって遊びほうけるわけにはいかない。<br>知ってからコントロールできるようになればいいじゃない、と思うかもしれないがその自身がないしそれだったらはじめから知らない方がいい。<br>そんなヘタレの正当化。
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<link>https://ameblo.jp/katsuya1020/entry-11095322018.html</link>
<pubDate>Fri, 02 Dec 2011 09:40:18 +0900</pubDate>
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<title>意識的悟りについて</title>
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<![CDATA[ 意識的悟りとは何か、まぁぶっちゃけ俺の造語なわけだけども、概要を書くと「意識して悟った風な模倣をする」。<br>まぁまんまですわ。<br>前回の記事にも似たようなことを書いてたからそれの続きなんかなー。<br><br>例えば、一般的には「みんなで行動する」のが普通というのが世の中の価値観。<br>そういう世の中の価値観の間逆の、一人旅だとか一人ご飯だとか一人動物園とか、周りとかを気にせず一人で興味本位のまま行動するのは自分を持っててカッコイーみたいな風潮があったりもする。<br>で、そういうのかっこいいから『意識的に』一人で行動する（模倣する）のは何か違うよね、その一人で行動できる境地がスゴイのに、その中身がないまま形だけ真似するのはおかしいよね、って話。<br><br>それは物事全般に言えて、に「～してる人がすごい」から意識してそれを真似するのは結局中身が伴わない。<br>だからこそ、俺はその境地に自然と達している人をすごいと思う。<br>そう思い始めたのは高校3年で、仲が良かった友達はみんな物事に対する執着心とかそういうのがあまりなくて、いつでも自然な感じ。<br>一方俺は、「こういうのに拘る（執着する）のは駄目なんだよな・・・」と意識して執着しないようにしていた。<br>形だけは真似できてもやはり重大なときには簡単にそれができないし、なによりも自然な自分の気持ちを作為的に捻じ曲げていたから何かしら後悔が残る。<br><br>ただ、それを意識し続けていたからか、いつのまにか自分に適した「これは執着する」「これは執着しない」というのが無意識にできるようにはなっていた。<br>中身がない形だけのことが、続けることでいつのまにか中身がついていた。<br>それは常に形だけ真似ることをせずに、それじゃあだめだろうと自問し続けていたからだろう。<br>つまり偽物も極めたら本物に近づけるんあないかなー、やっぱ本物の境地には遠く及ばないけれど。<br><br>こう改めて思ったのは、数ヶ月前まで中身の伴ってないわりかしディスっていたのが少し前から「まぁ思うところはあるけれど、本人が楽しかったら勝手にやればいいんじゃないの」という境地に達してきたから。<br>ただし、この境地が自然かどうかまた微妙で、そうなりかけてきたときに上記のような話を改めて他人の口から聞いたから。<br>だからもしかしたら意識的にディスらないようにしているだけなのかもしれないっていう。うえーい。<br><br>まぁでも他人が絡むことに上記のようなある意味「どうでもいーや」というスタンスもどうなのかな、とも思ったりもする。ディスっていたときの気持ちとして「初めは色々やりたいことがあったのに今は思考停止していてもったいない」「この発言をみて思うところがあったら変わって欲しい」というおせっかいな気持ちもあったんだよね。<br>だからそういう人間的な気持ちも切り捨てているんじゃないかなー、とか思った。<br>まぁそこが「自然」か「作為」かの違いか。<br>作為的なら切り捨てるだけ、自然ならわざわざ公で口には出さないけどおせっかい焼ける機会があるときには普通に言うって感じなんかな。<br><br>はぁ、なんつーか世の中難しいね。その分おもろいけれども。<br><br>とりあえず、なにをするにおいても人間として大切なものは失わないようにしたい。<br>何人か見ているけれど、ビジネスだとかお金儲けでそっちばっかりに固執しすぎて人間として大切なものを失ってしまうのは嫌だ。<br>ネットワークビジネス（≒マルチ）なんて最たるもので、あれは知り合いをお金に変換して売っているだけの人多いしねぇ。<br>お金得て、周りに信用できる友達失ってなにが楽しいんだろ。付き合いある人はいるだろうけれど、それはビジネス上での友人じゃねーの。<br><br>あ、話逸れてる。<br>しかも前回ので人をディスって考えるのは辞めた方がいいよね、って言ってるのに結局誰かをディスってもた。<br>・・・まぁ作為的にディスらないようにしてても意味ねーから普通に今後もするけどね。<br>
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<pubDate>Fri, 18 Nov 2011 01:57:17 +0900</pubDate>
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<title>外部刺激からの脱却</title>
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<![CDATA[ 俺の思想は基本的に、外部からなんらかの刺激を自分の価値観に触れさせて「いや、それってこうじゃね？」ってのを突き詰めて形成されていっている。<br><br>でも、それは誰かを否定しているわけだし、外部があってはじめて成り立つ。<br><br>さらに言えばある意味作為的。<br><br><br><br>でもそれじゃあ駄目だと思う。<br><br>色々な考えに触れて、それを内部に貯蓄することで何らかの変化を受けてその内部変化を突き詰めるのが一番良いと思う。<br><br><br><br>理由としては、前者は（誰かを否定して成り立つというのももちろんあるけれども）いうなれば視野が狭いんだよね。<br><br>価値観を貯めない。常に自分の価値観との照らし合わせ。自分の価値観内でのせめぎ合い。結局自分の価値観との照らし合わせで１つの見方（価値観）がひたすら突出していく。<br><br>一方後者は、全ての見方が成長しつつ刺激し合って広い視野をもとにし、内包して成長していく。内包した結果反対の考えになることはあれど、誰も否定はしてない。<br><br><br><br>そもそも、後者は他者を気にしてないんだよね。ある意味悟りの境地というか。<br><br>まぁ昔は何かをみて「毎度毎度あいつらうっぜーな」と思っていたのが今は「あー、またやってるなー。まぁ本人が良けりゃそれでいいか。」となってる分多少は近付いているのだろうが。<br><br>そう思うと、今の俺の発展系が友人の感じなのかなぁとか思ったりもする。<br>
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<link>https://ameblo.jp/katsuya1020/entry-11074437566.html</link>
<pubDate>Thu, 10 Nov 2011 18:02:14 +0900</pubDate>
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<title>学生団体活動について（まとめ）</title>
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<![CDATA[ <br>ツイッターで昨晩呟いた一連のことをリプライや似た考えの呟きしてた人の呟きも踏まえてのまとめ。<br><br><br><span class="text">外部で色々活動している学生から、「学生団体の活動があるから今日は学校サボる」「ビジネスをしててそれで忙しいから学校行かない」という話を聞く。<br>サボること自体はいいのだけれど（よくないけど）、外部活動は学校なんかよりよっぽど大切な崇高なことで、外部活動＞学校だ！という考えでそれを免罪符にしてサボることを無意識に正当化している人も多く思える。<br>いやいや、そんなこと思ってねーよｗって思う人もいるかもしれないが「単位あんま取れてないけど代わりに外部活動でいっぱい学校で学べないこと学べてるからしょうがないｗｗｗ」といった発言なら身に覚えがあるのではないだろうか。<br><br><br>正直言って、外部活動は、学校をサボる免罪符にならないと思う。<br>やっていることが「ビジネスなどの社会人的こと」というだけで、「バンドの練習をする」と大して変わらないのでは？要するに、趣味の範囲内。<br>もちろん、その活動を起点に起業するとかで本気でしているならば趣味の範囲外（≒ジョブトレーニング）なのだろうが、ほとんどの学生は範囲内にとどまっている。<br>念のために言っておくが、「将来に向けていろんな経験をする」という意味ではそのような外部活動はやっておくにこしたことはないとは俺も思うし、そのような活動自体を否定しているわけではない。<br>冒頭に述べたように学生の本分である学業を疎かにし、あげく免罪符化することへの問題提言。<br><br><br></span><span class="text">サボるの自体は勝手にしたらいいけど、サボるなら普通に"サボる"でええやん。 それを変に、正当化させて団体の活動とかを理由にしたら許される、むしろそっちの方が優れてるんだよ！って態度はどうなんかなー、と。 <br>まぁ、学費を自分で払っている人は自分の金だから好き勝手しても構わないとは思うけれども。<br><br><br>ほとんどの学生は親に学費を払ってもらっていると思う。親が高い学費を払ってまで大学に行かせる理由は「今時大学に行かないとまともな就職先がない」という考えが大半ではないのだろうか。<br>もちろん、「勉強だけしろ！」ってわけではなく「色々な体験をしてほしい」というのも親の想いとしてはあるだろうが。だろうがあくまで「就職に差し支えない範囲で色々体験してね」なのではないだろうか。<br><br><br>先ほど「学生の本分は学業である」と言ったが、これはそれに繋がる。<br>出資してくれている親から「ちゃんと卒業する」という暗黙の契約を交わして学生は大学に行っているのではないだろうか。<br>つまり、大学をサボって外部活動にかまけてあげく留年などをするのは契約違反ではないのだろうか。これがこの話の根底。<br>「留年ではなくサボるの自体を否定していなかったっけ？」と思うかもしれないが、それはあくまで「外部活動を免罪符にサボること」に関しての態度あるいは義理の問題。<br>お金払ってもらってるのに、授業とか意味ねーｗｗｗって態度で無駄金にするのはどうなん？っていう。<br>だから、究極的な話サボってしまって申し訳ないという気持ちがあってなおかつ就職に差し支え追加出資をさせる『留年』をしない範囲内であれば外部活動してもいいと個人的には思う（このあたりは人によってとらえ方が違うとは思うが）<br></span><span class="text">&nbsp;</span><span class="text"><br></span><span class="text">ちなみに先ほど本気で起業するために活動をしているならＯＫというのは親の希望（契約内容）である就職という面で直結しているからＯＫといった。もちろん義理として親の納得（契約内容変更？）は前提だが。<br>それと同様に『就職とかどうでもいいから色んな事を学べ』っていう理由で大学行かせてる親ならば外部活動にかまけてもいいと思う。<br></span><span class="text"><br><br>まとめますと、「大学行く金は払う。代わりにちゃんと就職しろ」という契約のもと大学行っているのだから、</span><span class="text">響く行為はすんなよー&amp;趣味の範囲内の外部活動ごときを免罪符にするのは、払って貰ってる立場としての態度として間違ってるのでは？っていう２つの考えが混じった文章でした。<br><br><br>ここから先は余談。ぶっちゃけ、決めつけすぎ感バリバリ。<br><br></span><div id="usertweet_134210794945646592" class="userTweetBox tweetId_134210794945646592 chitose_yg"><div class="tweetRightBox"><span style="text-decoration: underline;">&nbsp;</span><span class="text"><br></span>外部活動なんて、趣味の範囲外でない限り就職の際に社会人からしたら大して変わらないのではないだろうか。<br>もちろん、「何もしていない学生」よりかは評価をされるだろうが「一段上のステップ」とまでは思わない。<br>というか、完全に主観ではあるが趣味の範囲外になるレベルで本気で取り組んでいる学生自体が少ない。<br>あくまで趣味の範囲内。遊びの範囲内。自分たちは本気かもしれないが、「本気で遊ぶ」って程度。<br>行動の中身ではなく、自己満足がメインといいますか・・・。<br>例えば、交流会ならば<br><br>・本気だけど趣味（遊び；自己満足）の範囲内→いっぱい交流会に参加して色々な人と出会いました！顔が広いです！<br>・本気の中身ある行動（趣味の範囲外）→自分の分野に適した交流会で、やっていることと被っている人と知り合う。交流会がきっかけでその人と組んで色々やってみる。<br><br><br>前者は「会うこと」が主眼、後者は「適切な人と会って自分の活動に活かす」ことが主眼。<br>これが続いていったら、後者は交流会の出会いがもとで何かを為す（例えばアプリつくった、とか）になるが、前者は何も積み重ならずカオが広くなっただけ。友達多いね。で、それが何か武器になるの？って感じ。<br>社会人からしたら前者は武器がなく、後者は武器がある。<br>そして、外部活動をしている人は前者が大半で後者が少数派（８：２くらい？）だという体感。<br>（まぁ後者が趣味の範囲外かどうか微妙だったり、後者がそんな上手くいくとも限らない、そもそもアプリ開発ごとき武器になるのか？とか批判はあるかもしれませんが、わかりやすく例示するためなんであくまでイメージしやすく、ってことで。。。）<br>だからこそ、趣味と割り切る（＝免罪符化しない）のならばいいが、趣味の範囲外のことしてないんだから免罪符化できるレベルでもないだろ。っていうのも個人的にはあったり。<br><br></div></div>
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<link>https://ameblo.jp/katsuya1020/entry-11074406496.html</link>
<pubDate>Thu, 10 Nov 2011 16:29:27 +0900</pubDate>
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