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<title>kazuhasseのブログ</title>
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<title>親殺しの罪が身を滅ぼす～武田信玄の悲劇～</title>
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<![CDATA[ <p>武田信玄は戦国最強と謡われた戦国時代末期の武将である。</p><p>三方が原の戦いで徳川家康を完膚なきまでに叩きのめし、さあいよいよ織田と決戦となって京へ向かう途中病没した。53歳であった。信玄がもしあと20年生きていれば天下はどうなっていたか分からなかったとよくいわれ、当時最強の軍団を率いていた。</p><p>&nbsp;</p><p>信長も家康も恐れ敬っていた武将だ。信長はこの敗戦で鉄砲でしかこの軍団に勝つ方法は無いと分析し、あの長篠の３０００丁の鉄砲の三段打ちを考案したという。信玄の死後10年で武田は滅ぶが、のちに家康は本能寺の変の時、信長の弔い合戦そっちのけで信玄の領土甲斐を手に入れている。信玄の育てた遺臣確保の為だ。それ程信玄の残した軍団を家康は欲しかった。悲願と言っても良かった。</p><p>&nbsp;</p><p>速やかに井伊直政を甲斐に派遣し武田の赤備え部隊を破格の待遇でスカウトしている。そしてそれはそのまま後の井伊の赤備えとなるが、その時徳川四天王の一人榊原康政が井伊と刺し違えてでも自分の軍に欲しいと悔しがり、同僚の酒井忠次にたしなめられたほどだ。</p><p>&nbsp;</p><p>そんな武田家が何故死後10年で滅びたのだろうか？</p><p>信玄の生い立ちから辿ってみよう。</p><p>&nbsp;</p><p>幼少期の信玄はとても大人しくはにかみ症であったという。勇猛な父信虎はこれを極度に嫌った。こんな気の弱い人間をとても跡継ぎには出来ない。次第に聡明な次男信繁、後に火もまた涼しで有名な快川和尚がその死を悲しんだ程の名将になるが、この次男を次第に可愛がるようになる。</p><p>おもちゃを信繁だけに与えるような嫌がらせもしたという。しかしこの信繁、幼いながら中々の仁徳を備えた子供で、父から貰ったおもちゃを封を開けずに信玄に届け、兄の尊厳を傷付け無いよう、「兄上、父から兄におもちゃを預かってまいりました」と逐一兄に届けていたという。</p><p>信玄もこの弟の気遣いを大切にする。信繁がこれ程の教育を誰から受けたのか不明だが、兄の才能を見抜き、臣下としての立場を生涯貫いたという。信玄も生涯頼りにした。しかし有名な第四回川中島の合戦で信玄の長男義信の命令違反により戦死させてしまうことになるのはなんと武田にとって悲劇以外の何物でもない。</p><p>&nbsp;</p><p>この父信虎、大変な暴君であったそうで、後に家臣や領民の反感を買い、家臣に後押しされた信玄が父信虎を家臣と謀って駿河に追放し強引に力づくで当主の座を奪い取ってしまう。</p><p>勿論弟信繁も信玄を支持した。かくして信玄は理由はともかく、産み育ててくれた実父を追放して甲斐武田家の座から父親で主君の信虎を引きずり下ろし当主となってしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>が、余程この事件が辛かったのであろう。この時こう固く誓った。「<span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;"><mark style="background-color:#ffcc00;color:inherit;">自分は息子とは絶対にこのようにはならぬ</mark></b>」と。</span></p><p>&nbsp;</p><p>その後信玄は嫡男義信を父とのようになってはならぬと立派な跡継ぎにする為、守役には信頼のおける<b>飯富</b><b> </b><b>虎昌</b>をつけ、掌中の玉のように大切に育てた。その甲斐あってか義信はすくすくと優秀な武将に成長した。嫁は三国一の娘をと名門足利御三家の今川家の息女を迎えた。がこれが後に悲劇につながると誰が予想出来たであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし不幸は突然訪れた。息子の舅今川義元が織田信長に討たれたのである。跡継ぎの氏真は風流人でとても今川の軍団をまとめる力がなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>当時、甲斐は敵に塩を送るの故事になぞらえられるように、海が無かった。国力を蓄えるにはどうしても海は必要であった。北には上杉謙信がいる。東には北条、南に今川と強国に囲まれ海へ出れない。せめてと甲斐よりはやや肥沃な信濃を多大な犠牲を払って上杉から死闘の末手に入れた。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし今、目の前に駿河という海と肥沃な土地を手に入れる千載一隅のチャンスが訪れた。今川の領地駿河を狙い始めた。これを今川の娘を嫁に貰った息子義信が猛反対したのである。</p><p>&nbsp;</p><p>何度も何度も話し合ったが折り合いがつかず、結局義信を切腹させてしまう。今川の領土を狙っているのは信玄だけでない。家康も狙っていた。時間が無かったのだ、このままでは家康めに先を越されてしまう。信玄は焦っていた。とは言うものの、この時の信玄の心境はいかばかりであったか。父との悲劇をそっくりそのまま息子とそのままやってしまった。</p><p>結局親とだけでなく大切に育てた我が子とも同じ悲劇を迎えてしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>はたして息子は父信玄に抗議して自害し反対勢力が無くなると、駿河に侵攻しこれを奪い取ってしまった。その甲斐あって武田はその後間もなく武田水軍を手に入れ、飛躍的に発展したが志半ば、京へ進軍する行軍中に病死した。（労咳、結核）ともいわれるが良くわかってない。</p><p>死の間際、唯一残った男子四男勝頼に後事を託すのだが、とんでもない遺言をする。「勝頼の息子信勝（孫）に跡目を譲る。勝頼は後見せよ」と。意味不明だ。</p><p>&nbsp;</p><p>自分の後を率いて行軍の指揮を執る義信の幻影を夢見ながら寂しく死んだ。優秀で血統も申し分ない義信が頭から離れなかったのだろうか。勝頼は記録によれば中々の人物だったようだが、いかんせんこれでは武田軍団をまとめることが出来ない。</p><p>&nbsp;</p><p>果たして武田はその後家臣の分裂を招き、あっけなく10年で滅んでしまった。</p><p>&nbsp;</p><p>今川滅亡の際、父信虎は京に逃れたらしい。何故その時父を引き取らなかったのか分からない。もう引き取ってもいいころ合いだったはずなのだが、、、幼少期の父のいびりがトラウマかPTSDの様なものとなって残っていたのかもしれない。しかし、信虎は京へ逃れた後、信玄の仕打ちにもかかわらず、会う人会う</p><p>人に息子信玄を何卒宜しくと声をかけていたという。信玄の実力、信繁の心底を見抜けなかった無念を抱え、息子信玄が天下を取ればもしかして故郷へ帰れると淡い期待を胸に晩年を送った。</p><p>&nbsp;</p><p>親を粗末にする罪はわが身に返り最愛の息子をも失ってしまった信玄。息子を捨ててまで手に入れたすべての領地はその後10年で織田、徳川のものとなってしまった。残こったのはちょっと大きめの墓と美味しい信州蕎麦だけであった。</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20230713/01/kazuhasse/d2/b9/j/o0186027915311570919.jpg"><img alt="" height="279" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20230713/01/kazuhasse/d2/b9/j/o0186027915311570919.jpg" width="186"></a>　<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20230713/01/kazuhasse/46/42/j/o0186027015311571001.jpg"><img alt="" height="270" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20230713/01/kazuhasse/46/42/j/o0186027015311571001.jpg" width="186"></a>　<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20230713/01/kazuhasse/d5/f8/j/o0186024215311571037.jpg"><img alt="" height="242" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20230713/01/kazuhasse/d5/f8/j/o0186024215311571037.jpg" width="186"></a></p><p>　　　　　</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kazuhasse/entry-12811847025.html</link>
<pubDate>Thu, 13 Jul 2023 01:02:19 +0900</pubDate>
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<title>日本一短い母への手紙　～加賀前田１００万石誕生秘話～</title>
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<![CDATA[ <p>日本一短い母への手紙　</p><p>～加賀前田１００万石誕生秘話～</p><p>&nbsp;</p><p>これは加賀前田100万石の藩祖前田利長のお話である。</p><p>本題に入る前にまず、この手紙が書かれた時の状況を知らなければその意味を深く理解することが出来ないので、まずは利長の父利家と母おまつのなれそめの辺りから話を起こしていきたい。</p><p>&nbsp;</p><p>前田利長の父は大河ドラマにもなった、豊臣政権五大老の一人前田利家であり、禄こそ五大老の中では２番目に低かったが秀吉の信頼の上では五大老筆頭ともいえる人物だった。また豊臣政権の中で最も人望の厚かった人物の一人だ。利長は利家の長男である。母はおまつといった。</p><p>&nbsp;</p><p>まだ利家が秀吉と共に信長親衛隊に属し、織田家臣団の中でまだ小物だった頃から秀吉とは社宅の長屋でお隣どうし家族ぐるみの付き合いで共に夢を語り合った親友であり、お互いに結婚の仲人をしたり子供の無かった秀吉に娘の一人を養女にあげたりした仲だった。秀吉も農民出身だったことから信長家臣団の中で苦労しながらの下済み時代だったが、利家は秀吉の能力と人柄を愛しよき友として接していた。</p><p>&nbsp;</p><p>利家が若気の至りで信長に反発して浪人し、どん底の浪人生活を送っていた頃、かつての同僚が上っ面だけ心配しながら実際には落ちぶれた様子を城に帰って面白おかしく言いふらす連中ばかりの中で、心から気遣い、支援したり、必死で信長にとりなして助けようとしてくれたのは秀吉と、柴田勝家他わずか数人だけだった。</p><p>真の友というのは大変得難いものだと晩年述懐している。かつての同僚たちの殆どの者が慰めの言葉をかけながら、城に帰って信長や周りの者に利家を悪く言いふらす者ばかりであったという。しかし利家は出世してからもそれらの者たちに一切報復はしなかったという。この経験が利家を一回りも二回りも大きくしたようだ。</p><p>&nbsp;</p><p>皮肉なことに後にこの大恩人の二人が本能寺の変の後に対立し、たまたま柴田勝家の配下にあった利家は秀吉と敵味方に分かれ戦う羽目になる。戦略に勝る秀吉軍に追い詰められいよいよ秀吉の勝利が確定的となったとき秀吉はそっと利家の陣を尋ねた。「又佐（利家）よぉ、俺はお前とは絶対に戦いたくない。どうか今からでも我が軍について欲しい。養女に貰ったお前の娘は何があっても、決して人質になどしないから安心してくれ。目に入れても痛く無い程可愛い。ただな、この子にお前の親父様を殺したなどとは絶対に言いたくないのだ」と涙ながらに訴えた。どこまでも掛け値なしの親友であった。</p><p>&nbsp;</p><p>かくして利家は大恩ある勝家を裏切り親友秀吉の天下取りを支え、その後この友情は生涯貫かれ、死に際して秀吉は利家に幼い嫡男の守役を託している。秀吉は信忠の幼い嫡男を利用して織田の天下を乗っ取っており、守役人選の怖さを熟知していたが幼い跡取りを任せる守役に迷うことなく利家を指名した。</p><p>秀吉がかつてやったように、幼い跡継ぎ秀頼を抱き諸侯の挨拶を受けたという。まるで利家に全ての武将がひれ伏してるようだったそうな。</p><p>&nbsp;</p><p>秀吉亡き後、家康があからさまに天下を狙い始めた。利家は石田三成をかばい必死に親友秀吉の息子秀頼を守っていたが、その後間もなくその利家も死の床についてしまう。</p><p>家康が見舞いと称して様子伺いに来て帰ったあと、床の下から刀を取り出し家臣に見せ、お前たちが家康に切りかかったらわしもこれで切りかかろうと思っておったが、出来なかったところを見ると、家康という男はやはりよくよくの大器なんだろうなと無念そうに家臣に語ったと言う。</p><p>そして息子利長、利政に厳命する。自分が死んだら利長は大阪城に入り秀頼君をお守りしろ。次男利政はこの金沢を守り家康が事を起こした時は二人力を合わせ秀頼君をお守りしろと。</p><p>親友の最後の頼みを果たせなかった無念はいかばかりだったか。もし利家がせめて後10年生きてたら後の徳川幕府はどうなっていただろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、利家という大きな目の上のたんこぶが消えるといよいよ家康は天下取りに動き出す。</p><p>まず家康は利家の人望を受け継いだ利長の調略に乗り出す。前田を味方に引き入れれば東軍へなびく者が多くいたからだ。</p><p>&nbsp;</p><p>かくして家康は前田家に謀反の疑いをかけ母おまつを身の潔白の証として江戸に人質に差し出すよう要求した。逆らうもよしなびくもよし家康の計算は冷酷無比だ。</p><p>無益な争いを避ける為、おまつは人質になることを承諾する。狙いは家康が死ぬまでの時間稼ぎだ。家康も焦っていた。すでに当時で57歳になっていた。盤石の政権を構築するにはぎりぎりあり時間との闘いもあった。</p><p>今更だが石田三成は時間稼ぎという戦法を何故選択できなかったのだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>そしておまつは息子利長にこう告げた。</p><p>「よいか、江戸に行く上は母は覚悟を決めた。いざと言う時は母を捨てよ。私の為に決して大事の判断を誤ってはならぬぞ」と。</p><p>&nbsp;</p><p>近年になって、おまつの手紙が大量に発見され、本物と確認されたそうだ。当時を知る大変貴重な資料だという。おまつは大変な筆まめだったらしい。特に嫁いだ娘たちを気遣う内容が多いようだ。</p><p>その中の一通に、東軍についた武将に嫁いで、大阪で人質として暮らしていた娘に、三成軍の人質となる危険を知り、「早く仮病でもなんでも使って逃げよ」と送った手紙が残っている。</p><p>当時、武家の妻として辱しい振る舞いをするなという教育が一般的だった時代に、命こそ最も大事なのだと言い切った当時としてはちょっと珍しい内容で、おまつの人柄がしのばれる手紙でもある。おまつとはこんな肝っ玉母ちゃんだった。</p><p>&nbsp;</p><p>いよいよ関が原決戦が近づいたとき、利長は家康から内密にこんな申し出を受けた。</p><p>&nbsp;</p><p>「<span style="color:#0000ff;">もし東軍につけばおまつ殿を金沢へお返ししましょう</span>」</p><p>&nbsp;</p><p>利長は当然ハムレットのように悩んだ。父の強い遺命がある。秀頼君の守役を父から引き継いでいる。即ち事実上豊臣家を預かったといっても過言でない。いざと言う時は自分を捨てよとの母からの厳命もある。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし家康は母親を引き合いに出してきた。味方したら母を返すということは、つまりは背いたら殺すぞということだ。</p><p>利長がこの日本一短い母への手紙を書いたのはそんな時なのである。この手紙が書かれた時の状況をよく知らないとこの手紙の意味は十分に理解出来ないので前置きが長くなってしまった。</p><p>この手紙は実際には家臣に宛てて出したものだが、母に出すのは何かはばかりがあったのだろう。そして後に家臣からおまつへ伝えられたと思われる。</p><p>&nbsp;</p><p>（たとえ父の遺命に背き、父の名をおとしめ、仮に西軍が勝ち加賀の領地を失うことになろうとも、母上がなんと仰せになろうとも）</p><p>&nbsp;</p><p><a name="_Hlk20611307">「　母を捨てることはいやにて候　」</a></p><p>&nbsp;</p><p>75万石の太守の言葉としてはちょっと相応しくないかもしれない。</p><p>しかしなんともはや清々しい駄々っ子ぶりではなかろうか。</p><p>大身の武将が自室で大の字になり手足をばたばたさせて駄々をこねている姿が目に浮かぶようである。</p><p>実際次男利政は父の遺命からであろうか密かに西軍に兵糧を送るなど陰で味方したというから、家中で色々あったであろうことは想像に難くない。</p><p>&nbsp;</p><p>かくして前田は東軍に付き、徳川は勝利するが、おまつを金沢へ返すという約束は悲しきかな反故にされてしまう。</p><p>しかし結果として大した働きもないにも関わらず前田家は後に120万石にまで加増され、世に言う加賀前田100万石は誕生した。加増率はともかく、加増高はトップだ。おまつを返す約束を反故にした詫びも何万石位かは分からないが含まれていたのだろう。さらにそれはその後前田家が外様の中でも別格の扱いを受けたことからも想像できる。</p><p>それほど父から相続した人脈が大きかったのであろうとも思われるが。奥州の伊達などは100万石のお墨付き（100万石への加増の誓約書）があったにも関わらず約束を反故にされ、結局ただ働きさせられた上、謀反の疑いをかけられ、後の大坂の陣では最激戦を強いられた。</p><p>&nbsp;</p><p>おまつは幕府にとってまだまだ必要な存在だった。少なくとも大坂の陣までは。</p><p>その後利長は53歳という若さで死の床に就く。その時もおまつは幕府から帰郷を許されず、息子の死に目に会うことすら許されなかった。その折には利長に「お前に一目なりとも会って死にたい」と江戸から送られた悲痛な手紙が残っている。</p><p>しかし終に帰郷が叶うことはなく、おまつの帰郷が許されたのは利長が亡くなった後のことであったという。</p><p>&nbsp;</p><p>このおまつの手紙は、密かに家臣から伝えられた利長の手紙への返事だったのかもしれない。利長の死因は業病と伝えられる。</p><p>この短い手紙に込められた赤心が結果として母おまつのみならず、加賀を守り、おまつチルドレンであった家臣団を忠臣蔵の家臣たちの様な悲劇から守ったと言えなくはなかろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>黒田長政はじめ、戦国時代数々の武将達や父利家の華やかな活躍の中にあって、関が原では大谷刑部にペテンにかけられおめおめと金沢に逃げ帰り秀忠以上に情けない行動を取ったが、親への報恩を貫いて外様の中で日の本一の立身出世を遂げた武将前田利長の生涯一度の我儘であったのかもしれない。東西どちらにつくか？好き嫌いか算用位の理由しかなかった武将たちの中で、母の命しかこのには進退を決める理由は無かったようだ。仮に東軍が負けていたとしても後悔など微塵もなかったであろう。</p><p>今から４００年もの昔、母へ出すことが叶わないままひっそりと歴史の片隅に埋もれた日本一短く切ない母への手紙である。</p><p>&nbsp;</p><p>（母様がなんと仰せになりましても）</p><p>「　<span style="color:#ff0000;">母を捨てることはいやにて候</span>　」　</p><p>&nbsp;　　　　　　　　あなたの息子利長</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20230702/23/kazuhasse/cd/29/j/o0212023715307434263.jpg"><img alt="" height="237" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20230702/23/kazuhasse/cd/29/j/o0212023715307434263.jpg" width="212"></a></p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Tue, 10 May 2022 03:24:59 +0900</pubDate>
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