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<title>あるモグラのお話</title>
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<description>神経症と川柳のお話</description>
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<title>不安神経症と強迫行為</title>
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<![CDATA[ <p>　ある時、父が関係していた会社の経営不振から、我が家の土地建物がその会社の借金の抵当に入っていることが発覚しました。更に父宛てに金融機関から内容証明郵便が届くようになり、父の目を盗んで郵便物を開くと、数千万円の借金の督促状で、期限までに返済しないと法的処置を取るとの内容でした。我が家は私と母とで商売をしていましたが、商売を継続する資力もなくなっていることも分かりました。</p><p>　その日からのことです。不安神経症を発症し物を捨てるという強迫行為が始まりました。いつ家を追い出されるかという不安に、家の中の不用品を次から次へと捨てるようになりました。商売をしていたので物はたくさんありました。布団や小物などを車でゴミ収集センターに運びました。運び終えると少しだけ心が楽になるので、楽になりたいから毎日運ぶことを繰り返すようになっていきました。</p><p>　そんな生活を送る中、父が関係していた会社は新会社にそのまま引き継がれることになりました。家の土地建物の抵当は残ったままでしたが、首の皮一枚残して生き残ることができました。商売は止めパートの仕事を探すことにしました。会社に応募するには履歴書を書かなければなりません。鉛筆ではなく万年筆なので書痙がぶり返しなかなか大変でした。何社か応募して配達の仕事に就くことができました。</p><p>　その後父母の介護が重なるようになりました。父は要介護で母は要支援でした。パートの仕事は昼から６時間ほどで、その間ヘルパーに入ってもらうようにして自宅での介護を続けました。毎日が分刻みのスケジュールで４年後父が他界するまで続きました。その後も10年間母の介護が続きましたが、母の死後は家族の経済的な援助も得て生活しています。</p><p>&nbsp;</p><p>※長い間、私のブログにご訪問いただきありがとうございました。大部分はすでに削除させていただきましたが、川柳と神経症の記録を少しだけまとめて終わらせていただきます。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kazuo1954/entry-12963917700.html</link>
<pubDate>Thu, 23 Apr 2026 16:08:37 +0900</pubDate>
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<title>川柳大会と書痙</title>
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<![CDATA[ <p>　2007年頃から関西で開催されていた川柳の句会に参加するようになりました。きっかけは生活の発見会の協力医をされていたO先生が川柳をされていて、福井集談会に講師として来られたのがご縁でお仲間に入れていただくようになりました。しかしこれが書痙の再燃になってしまいました。</p><p>　句会では会場で用紙に名前を書いたり句を書いたりしないといけません。名前は受付で「あるがまま」と唱えながら、ペンを持ち名前の四文字を記入しました。句は付箋に書くのですが、文字数は一句17文字ほどで鉛筆書きだったのでそんなに困ることはありませんでした。そんな句会が続いたある日のことでした。</p><p>　人身事故で列車が遅れました。一時間ほど余裕は持って出かけていたのですが、到着はぎりぎり間に合うかどうかでした。もう間に合わないと分かれば諦めも付くのでしょうが、間に合うかもしれないと思うと右腕が硬直し始めました。昔、税理士試験で指が硬直して字が書けなくなった時の恐怖が蘇っていました。</p><p>　このまま会場入りしても付箋に句が書けるとは思えませんでしたが、とにかく会場までは行き受付で名前を書き付箋を手にしました。テーブルに座ると鉛筆を握るように持ち一字一字書いていきました。そして34文字を書くことができ二句投句することができました。お陰で一句入選することができました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kazuo1954/entry-12963728258.html</link>
<pubDate>Tue, 21 Apr 2026 18:47:59 +0900</pubDate>
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<title>「神経症が治る」とはどういうことか</title>
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<![CDATA[ <p>　「神経症が治る」とはどういうことでしょうか。当初私は「神経症が治る」とは神経症の症状がなくなることだと思っていました。私の場合で言えば、両脚の異常感覚がなくなることであり、テストで字がすらすら書けることであり、微音に恐怖しなくなることだと思っていました。しかしそうではないことを森田を学習する過程で理解するようになりまた。</p><p>　現在は分かりませんが、当時の生活の発見会の「森田療法学習の要点」には、「治るとは症状（不安・恐怖・違和感）がなくなることではなく、それを異物視する誤った認識が正され、あるがままの態度が体現された状態」と書かれていました。ここが大変難しいポイントです。これは森田を学習していく過程で体得していくしかないと思います。</p><p>　ある時、集談会に初めての方が参加されました。一通りの自己紹介が済んでその人の番になったときでした。</p><p>「あなた方は何をしているのですか。森田を学習しているのではないのですか」</p><p>　と怒りとも思える声で喋りだしました。話の内容から、ご本人は独学で森田を勉強して神経症を克服したようでした。集談会の参加者はただ唖然とその人の話に聞き入っていました。</p><p>　「対人恐怖の対人知らず」とか「不潔恐怖の不潔知らず」という言葉があります。不安タイプの症状の人は症状がなくなると横着横暴になる人がいます。人間関係では対人緊張は大切な感覚です。不潔感は生活上なくてはならない感覚です。神経症の症状を敵視するあまり、そういった生活上大切で必要な感覚までもなくしてしまわないように気を付けなければなりません。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kazuo1954/entry-12962575745.html</link>
<pubDate>Fri, 10 Apr 2026 16:24:28 +0900</pubDate>
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<title>「あるがまま」について</title>
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<![CDATA[ <p>　「あるがまま」と言うと簡単そうですが、当事者にとってこれほど難しいことはないようです。私の場合を例に挙げると、テストで指が動かなくなった場合、動かないものはどうすることもできませんのでした。銀行や役所で書類に記入する場合は、その場で記入することは諦め一旦書類を家に持ち帰って記入し提出するというやり方をしていました。</p><p>　楽器を弾く人にも書痙と同じように、神経症的な原因から楽器を弾くことを諦めた人がいると聞いたことがあります。このような人にとって「あるがまま」であることは不可能に近いことです。できないことを無理にでもやろうとすることが「あるがまま」ではないと思います。できないことを繰り返すことはますます神経症の傷口を広げていくことになると思います。</p><p>　子供をカメラやビデオで撮影するときも手が震えてどうすることもできないときがありました。そんな折、震え防止機能の付いたカメラが登場しました。私がそのカメラを手にしたのは勿論のことです。またビデオ撮影では出来るだけ三脚を使用してカメラに震えが伝わらないようにしました。またワープロやパソコンの普及で気軽に文章が書けるようにもなりました。</p><p>　森田療法でよく言われる言葉に「恐怖突入」があります。これも良し悪しで、神経症の傷が開いている状態での行動は返って傷口を大きくしてしまいます。神経症の傷が傷跡になっている場合にはじめて「恐怖突入」が生きてくると思います。その見極めは難しいですが、少しずつでも生活の行動範囲を広げていくことは大切だと思います。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kazuo1954/entry-12962437148.html</link>
<pubDate>Thu, 09 Apr 2026 09:38:02 +0900</pubDate>
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<title>微音恐怖の中で</title>
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<![CDATA[ <p>　過去に生活の発見誌に投稿させていただいていたものの中に「微音恐怖の中で」というエッセイがあります（1994年9月号）。生活の発見会に入会してから7年ほど経った頃のことでした。</p><p>　部屋のエアコンの音が気になるようになりました。送風音なのかモーター音なのかはわかりませんが、その音が恐怖となって私を苦しめるようになりました。原因はエアコンにあるのかとも思いましたが、家族は特に気にしているようでもありませんでした。</p><p>　更にエアコンだけでなく、稼働中のパソコンのファンの音や、部屋の蛍光灯が発する音、冷蔵庫のコンプレッサーの運転音にまでも恐怖を感じるようになりました。冷蔵庫が恐いのです。冷蔵庫のそばを通ったとき、ふっとコンプレッサーの運転音が耳に付くと体の底から恐怖が沸き上がってきました。</p><p>　その後少しずつ恐怖の正体に気が付き始めました。神経症に陥っているらしいことが分かりました。しかし一応恐怖の正体は分かりましたが、それですんなり恐怖がなくなるわけでもありませんでした。季節が変わりエアコンを使用しなくなって漸く微音恐怖から解放されました。</p><p>　当時、組合活動や父の病気、祖母の認知症などで多忙を極めていました。やはり疲れが溜まっていたのだと思います。その後はエアコンに恐怖することもなくなりました。症状の正体を知ることそして恐怖の対象から離れることで神経症から解放されたのだと思います。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kazuo1954/entry-12962346057.html</link>
<pubDate>Wed, 08 Apr 2026 11:44:40 +0900</pubDate>
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<title>日記指導</title>
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<![CDATA[ <p>　ある時、集談会に一人の青年が参加されました。症状は対人恐怖で、症状のため大学を休学しているとのことでした。ちょうど家業のパートの人が辞めて次の人を募集していたところだったので、声をかけてアルバイトに来てもらうことになりました。一日三時間、週五日の労働で仕事は掃除でした。そして仕事の最後に日記を付けてもらうことにしました。</p><p>　生活の発見会に入会した当初、私も先輩の会員の方に日記指導をしてもらったことがありました。症状に向いている心を少しでも行動に向けさせるためと、日常の生活を見直すための方法のひとつでした。青年は休むことなく続けてくれて一年弱程居てくれたと思います。その後集談会でも見かけなくなっていたのですが、風の便りによるとその後新たに大学に入学し直したということでした。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kazuo1954/entry-12962239065.html</link>
<pubDate>Tue, 07 Apr 2026 11:06:28 +0900</pubDate>
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<title>体験発表</title>
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<![CDATA[ <p>　生活の発見会に入会して一年後、金沢で開催された北陸ブロック基準型学習会に参加しました。これは合宿を通して森田理論を学習しようという企画で、単元ごとに先輩会員が講師となって進めていく内容でした。その中に症状を総括し体験を発表する場があり、私も体験発表をさせていただくことになりました。</p><p>　書痙だった私ですが、ワープロという道具があることで震えることなく文章を作成していくことができました。また編集も容易で、作成した文章は原稿用紙30枚にもなりました。ただ当時辛かった症状を書き出していく作業は思った以上に大変で、またこのまま当時（むずむず脚症候群、薬による抑うつ状態）に舞い戻っってしまうのではという恐怖が常にありました。</p><p>　原稿用紙30枚を読んでは書き直し、また読んでは書き直し、何度も繰り返すうちに諳んじるまでになりました。当日の発表では参加者の皆さんにも共感していただき、講師の方からは生活の発見誌にも投稿してもらいたいという言葉を頂きました。ただテストで字が書けないという症状については言い訳をしているようで発表することはできませんでした。</p><p>　後日、基準型学習会で発表した文章を生活の発見会の編集部に投稿しました。しかし症状と病院で処方された薬との関係の表現の仕方が問題になったようで採用してはもらえませんでした。その後、症状と病院で処方された薬との関係については抑えた表現にし、また生活面を重視して書き直して、生活の発見誌（1990年3月号）に掲載していただくことができました。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kazuo1954/entry-12962172735.html</link>
<pubDate>Mon, 06 Apr 2026 18:30:31 +0900</pubDate>
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<title>生活の発見会</title>
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<![CDATA[ <p>　33歳の時、新聞紙上に惹きつけられた一つの記事がありました。神経症に悩む中で生活の発見会を知り活動している人の話でした。症状は違いましたが何故かその人の話がよくわかるような気がしました。福井にもその集談会があることを知り、半信半疑のままではありましたが参加してみることにしました。</p><p>　最初の一時間は各自の自己紹介と悩んでいる症状についての話があり、次の一時間は生活の発見会が発行している月刊誌を教材にした森田療法の学習がありました。最後は数人ずつ分かれての懇談会があり、先輩会員が初心者にアドバイスする形式でした。また学習の後は喫茶店で雑談したりすることもありました。</p><p>　集談会での話や森田療法の話は心に染み入るように入ってきました。「神経質」「あるがまま」「事実唯真」「できることをする」など自分の生活の中で何度も呪文のように唱えながら、また森田先生の「神経質の本態と療法」などの著書も何度も読み返して森田理論を理解しようと努めました。</p><p>　頭では自分の症状に対する認識の間違いが分かるようになっていきましたが、症状を受け入れらるまでにはなかなかなりませんでした。テストで字が書けないことや薬の副作用で自殺企画を繰り返した時の恐怖が根強く残っていて、森田を学習することで症状はなくなるものだと思っていました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kazuo1954/entry-12962036664.html</link>
<pubDate>Sun, 05 Apr 2026 13:48:08 +0900</pubDate>
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<title>書痙（テストで字が書けない）</title>
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<![CDATA[ <p>　その日、税理士試験のためテスト会場にいました。開始の合図とともに万年筆を握り自分の名前を書こうとした時でした。万年筆を持った指が動かないのです。気を落ち着けようとしましたが時間ばかりが経ち、右手はますます強張り焦る気持ちは絶望へと変わっていきました。</p><p>　税理士試験は二度目の挑戦でした。その年の前年は五科目中二科目を受験し二科目に合格することができました。その年は後三科目のうち二科目を受験する予定でした。その年の前年は緊張で手が汗で濡れ万年筆を握るのに苦労しましたが、ティッシュペーパーを万年筆に巻き付け対処することができました。しかし今回は違っていました。</p><p>　二時間が経ち、書くことができたのは名前と数行の回答だけでした。もう一科目も同じでした。加えて両脚の異常感覚も酷く為す術もありませんでした。テストが終わり緊張がとれた右手は腑抜けのように力なく垂れていました。「テスト会場で字が書けない」なんてことは恥ずかしくて誰にも言えませんでした。</p><p>　次の年もそしてその次の年も同じだでした。試験勉強は仕事の合間にしていましたが、脚の異常感覚を抑えるために服用していた薬の影響によりそれもできなくなっていきました。またテストばかりでなく、いろいろな書類に字を書くことにも支障をきたすようになり、いつしか税理士試験からも離れていきました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kazuo1954/entry-12961963710.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Apr 2026 19:43:36 +0900</pubDate>
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<title>むずむず脚症候群</title>
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<![CDATA[ <p>　先日、NHKの番組「きょうの健康」で「むずむず脚症候群（レストレスレッグス症候群　restless legs syndrome）」を取り上げていました。</p><p>　私が初めてこの症状に襲われたのは27歳の時(1981年)でした。両脚にもじゃもじゃとした違和感があり、両脚全体に無数の虫が這いずり回っているような感触にいたたまれませんでした。その一ヶ月前に腰を痛めていたこともあり、総合病院の整形外科から病院巡りが始まりました。</p><p>　整形外科でも内科でもただ首をかしげられ、かかりつけ医にも気にしないようにと言われるだけでした。鍼灸院で少し症状が緩和したりもしましたが、実生活上の困難から症状が強くなったり、入浴で両脚を温めると一時的によくなるのですが、しばらくすると前にもまして症状が強くなり、入浴はシャワーだけになりました。</p><p>　またアルコールを飲むとこれも一時的には忘れられるのですが、酔い覚めの状態になると前にもまして症状が強くなり両脚を切ってしまいたいと思うほどで、アルコールを飲まないようにもなりました。</p><p>&nbsp;</p><p>　そんな生活が続く中、31歳の時、症状が精神的ストレスと関係していると思うようになり、ある総合病院の精神科を受診しました。診察の結果薬(アキネトン、セレネース)を処方されました。</p><p>　数ヶ月して、少しずつ奇妙な不安感が顔を出すようになりました。それを医師に伝えると今度はデパスという薬を追加されました。今度は次第にうつ的な気分に支配されていきました。ある日、担当医が不在で別の医師に診察を受けた際、「元気が出る薬を出します」と言われ、アナフラニールという薬を処方されました。</p><p>　これが地獄の始まりでした。薬を飲み始めて次の日から自殺念慮に苛まれはじめ、三日三晩苦しみました。三日目の夜になって自殺企画を繰り返している自分に気が付き始め、自分の判断でアナフラニールの服用を止めました。後日担当医に伝えると「薬を急に変えたのがよくなかった」ということでした。</p><p>&nbsp;</p><p>　その後自殺念慮はなくなりましたが毎日が辛く家族に相談したところ、ある神経内科の病院を受診することになりました。「随分強い薬を飲んでいたな」という医師の言葉が耳に残っています。</p><p>　そのまま神経内科の病院に入院しました。薬に対する恐怖はありましたが、出された薬(ルジオミール、ハルシオン)を目を瞑って服用しました。それから三日間ははうとうとした状態で過ごし、一週間もすると精神状態は改善し、一ヶ月間の入院で退院することができました。この間いつからかはわかりませんが、どういうわけか両足の異常感覚はなくなっていました。</p><p>　あれから40年が経ちました。テレビによるとむずむず脚症候群に対してはいくつかの対策があるようですが、まだこれはといった薬はないようです。私のこの症状も神経症的なものだったのではないでしょうか。私が森田療法を知ったのはその後のことでした。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kazuo1954/entry-12961824565.html</link>
<pubDate>Fri, 03 Apr 2026 13:25:52 +0900</pubDate>
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