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<title>歌に込めた歴史の真実</title>
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<description>万葉歌で読み解く歴史の真実</description>
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<title>② 万葉集　第1巻7番歌 – 歌が作られた時期は？</title>
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<![CDATA[ <p>万葉集は第一巻七番歌の作者として額田王を紹介しており、題詞では「額田王歌　未詳」と書いています。 作者には額田王と書き、題詞では額田王の歌なのに分からないということです。 なぜ相反する2つの内容を最初の行と2行目に同時に書いているのでしょうか。 結局、作者を額田王とするには問題があるということでしょう。（歌が作られた時期について少し探って見てまた作者について論じます。）</p><p>&nbsp;</p><p>歌の詠まれた時期は、題詞において「明日香川原宮御宇天皇代」と記されています。 「飛鳥の川原宮の天皇の時代」です。 日本では、時代を表す際に、ある天皇の時代だけではなく、当時の天皇の住居である宮を表しています。 古代には天皇がいろいろな邸宅を移すことが多かったのですが、それで天皇のいた邸宅を「~宮」と呼んでいたようです。 ところで、ここで示された「飛鳥の川原宮」は、斉明天皇が住んでいましたがその期間は非常に短いのです。</p><p>&nbsp;</p><p>655年(斉明1年)に板蓋(いたぶき)宮から斉明天皇に重祚（再び天皇の位に就き）されましたが、その年の冬、火事により川原宮に移されました。 翌年、後岡本宮が完成し、移設されますが、そうすると河原宮では、655年の冬（11月頃と推定）から656年の秋（10月頃と推定）までの約1年間滞在することになります。 ところが、その後岡本宮も一か月後（656年10~11月）に放火により焼失し、田中宮に移されてしまいます。 次の歌、八番歌の題詞には「後岡本宮御宇天皇代」が登場します。 つまり七番歌は、斉明天皇が河原宮にいた時、655年11月~656年10月の間につくられたものと言えます。 八番歌を「後岡本宮御宇天皇代」に作ったのも問題ですが、ここでは論じずに、八番歌について考察の際にお話ししましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>万葉集は巻物として初めて編纂されました。 右側から文章を書いてくるので、左側が文章の最後になります。 この歌の左の方にある注を見ると、</p><p>&nbsp;</p><p>[左注] 右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 一書戊申年幸比良宮大御歌 但紀曰 五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯 三月戊寅朔天皇幸吉野宮而肆宴焉 庚辰日天皇幸近江之平浦</p><p>&nbsp;</p><p>訳&gt;　右(歌)を検討してみると、山上憶良大夫の類聚歌林(山上憶良の個人文集)にいうところ、一書に戊申年に比良宮へ行幸した際の天皇の歌である。 但し、「(日本書)紀」は斉明5年1月3日に斉明天皇が紀温湯から帰り、3月1日に吉野宮で宴会を催した。 3月3日、斉明天皇は近江を訪れて平浦に行った。</p><p>&nbsp;</p><p>これを具体化してみると、一書(どんな本かはわからない)では、戊申年(648年)に比良宮に行幸した天皇の歌である。 つまり648年といえば孝徳天皇の時で、孝徳天皇が比良宮へ行幸した時に天皇が作ったものになります。(しかし不思議なことに万葉集には孝徳天皇の歌が伝わっていません。日本書紀には、孝徳天皇の歌一首が伝えられています。 そういえば歌を詠むことができなかったわけでもないのですが、当時の天皇として詠んだ歌が万葉集には伝わっていません。 その理由は別にします）。ところで、日本書紀は齊明5年（659年）1月3日に斉明天皇が紀温湯から帰り、3月1日に吉野宮で饗宴を催した。 三月三日、天皇は近江へ行幸して平浦（ひらのうら）へ行ったとしております。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210517/12/kchan1602/f1/c0/j/o0486105714943253940.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="435" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210517/12/kchan1602/f1/c0/j/o0486105714943253940.jpg" width="200"></a></p><p>&nbsp;</p><p>孝徳天皇の　比良宮と斉明天皇が行った平浦は同じ地域に見えて、ここへ行くにつれ宇治を経て、昔のことを思い出しながら歌を詠んだということを言いたいようです。</p><p>&nbsp;</p><p>比良（ひら）; 滋賀県滋賀郡志賀町と大津市堅田との境界で、琵琶湖の西岸に沿った比良山地の中の高峻峰である。「万葉集」　巻一に見える孝徳天皇の　「比良宮」　があるところである。</p><p>&nbsp;</p><p>歌の最後に付いている左注によると、山上憶良はある本と日本書紀を引用し、2つの時期と作者を示しています。</p><p>① 648年　孝徳天皇</p><p>② 659年 3月3日 斉明天皇</p><p>ここでは、題詞において提示された時期を共にあらわすと、</p><p>③ 656年を前後した斉明天皇となります。</p><p>&nbsp;</p><p>題詞と左注を見ると、この3つの可能性がありますが、編集者が「作者に推薦したのに分からない」と言った額田王は、斉明天皇の嫁であり、斉明天皇を最寄に補佐した一人です。 または万葉歌人としても知られています。 こうして見ると、額田王が歌を作ったとしても、代筆したとしても、この歌の主人公は斉明天皇のようです。 では、作者として①の孝徳天皇は除外できそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>中西進は題詞を構成する要素として「a作者 b 日時 c 場所 d 事情」を表し、これらのうち一部要素が欠落して万葉集全体には雑多な形で表れるとしています（万葉集の編集原理）。</p><p>&nbsp;</p><p>七番歌の題詞は「日時」について何よりも精密にとりおこしています 最大誤差が６ヶ月ですから。 再び題詞を引用してみると、</p><p>&nbsp;</p><p>[題詞] 明日香川原宮御宇天皇代 [天豊財重日足姫天皇] / 額田王歌 [未詳]</p><p>訳&gt; 明日香（飛鳥）川原宮へ御宇天皇代「天豊財重日足姫天皇（皇極·斉明天皇の日本式</p><p>&nbsp;</p><p>川原宮では655年冬（11月頃と推定）から656年秋（10月頃と推定）までの約1年間滞在した場所ですから、この歌を作った時期は655年11月~656年10月と推定されます。</p><p>&nbsp;</p><p>続きます。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kchan1602/entry-12675018547.html</link>
<pubDate>Mon, 17 May 2021 12:53:37 +0900</pubDate>
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<title>① 万葉集 第1巻 七番歌 – どんな歌か。</title>
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<![CDATA[ <p>万葉集では以下のように伝えています</p><p>&nbsp;</p><p>[券番] 第1券 7番歌</p><p>[作者] 額田王</p><p>[題詞] 明日香川原宮御宇天皇代 [天豊財重日足姫天皇] / 額田王歌 [未詳]</p><p>[原文] 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念</p><p>[訓読] 秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ</p><p>[かな] あきののの みくさかりふき やどれりし うぢのみやこの かりいほしおもほゆ</p><p>[左注] 右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 一書戊申年幸比良宮大御歌 但紀曰 五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯 三月戊寅朔天皇幸吉野宮而肆宴焉 庚辰日天皇幸近江之平浦</p><p>&nbsp;</p><p>まずこの歌は4516の万葉歌の第1巻に載っている7番目の歌です。 この歌の作者で額田王となっています。 20巻に編纂された万葉集で第1巻には、84首の歌が詠まれています。 ところでこの第1巻のほとんどは天皇と皇室に関する歌です。</p><p>&nbsp;</p><p>第1番歌は雄略天皇の歌で、第2番歌は舒明天皇の歌です。 それから三番、四番歌は中皇命と記録されていますが、その実体が誰かに関しては諸説あります。 筆者は皇極·斉明天皇が宝皇后だった時の作品として見ています（ポスティング、万葉集において中皇命とは誰か？<a href="https://blog.naver.com/kchan1602/222210275283"><u>https://blog.naver.com/kchan1602/222210275283</u></a>）。</p><p>&nbsp;</p><p>5番、6番歌は作者が「君王」となっていますが、これも史書、文集などどこにも見られない名前です。 百済から渡来した夫余豊章ではないかという説もありますが（ポスティング、万葉集5、6番歌の作者は？ 君王って言うけど！！</p><p><a href="https://blog.naver.com/kchan1602/222225518274"><u>https://blog.naver.com/kchan1602/222225518274</u></a>）。筆者は、亡き夫である舒明天皇をしのぶ皇極․斉明天皇が皇極天皇だった時の作品と考えています。</p><p>&nbsp;</p><p>そして7、8、9番の歌が続き、作者が額田王として紹介されています。 続いて10、11、12番には　3、4番歌に登場した中皇命の名前が再登場しています。 皇室でも同じ名前を他人に付けられることがありますが、少なくとも天皇、皇后という身分では同時代に同じ名前を用いることは容易ではないと考えるなら、3、4、10、11、12番歌は同一人の作品でしょう。 筆者は3、4番歌が皇極·斉明天皇が宝皇后だった頃の作品なら、10、11、12番歌は斉明天皇だった頃の作品とみています。 そして13、14、15番歌は天地天皇の作品、16、17、18は額田王の作品として継がれます。 19番は17番歌に続く反歌で、井戸王の作品、20番歌は額田王の作品、21番歌は天武天皇の作品です。 ここまでを表にまとめると、以下の通りです。</p><p><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210517/10/kchan1602/70/cf/j/o1381138914943207161.jpg"><img alt="" height="422" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210517/10/kchan1602/70/cf/j/o1381138914943207161.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>万葉集第1巻で21番まで見ると、天皇でない人として登場するのは19番の井戸王、7、8、9、16、17、18、20番の額田王です。 額田王の歌が実に7/21の頻度、または重要度で登場します。 もちろん純粋に見ると、額田王が作った歌の時期がこれに該当するか、または作品の水準に非常に高いためだと言えます。</p><p>ところが、万葉集第1巻は歴史であり、歴史の順であり、皇室の権威を示すものと考えられます。 第1巻84首全体が歴史順によって羅列されたようです。 そして前半は、そのほとんどが天皇の作品に続きます。</p><p>&nbsp;</p><p>額田王の主な活動時期は、斉明天皇、天智天皇の時と考えられます。 もちろん天武、持統の時も生きていますし、この時に作った歌も伝えられています。</p><p>&nbsp;</p><p>続きます……</p>
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<link>https://ameblo.jp/kchan1602/entry-12674998735.html</link>
<pubDate>Mon, 17 May 2021 10:53:58 +0900</pubDate>
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<title>⑥ 十市皇女_青春十八歳の死</title>
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<![CDATA[ <p>十市皇女の死を悼むもう一人</p><p>&nbsp;</p><p>十市皇女の死に、その母の額田王の面影はありません。 どの史書も文集にも子どもの死に直面した額田王の動向について触れておりません。 葬儀場にはあったんじゃないでしょうか。 飛鳥という同じ垣根の中に住んでいたはずなのに。 額田王の置かれた状況は主君の斉明天皇も二番目の夫である天智天皇もこの世を別にし、自分が捨てた天武天皇の時代にたった一人娘が死んだだけです。 万葉集最大の歌姬である額田王の歌は、この娘については何の問題も残していません。 当時の額田王の状況が推察でき、理解できます。 娘の死に対する哀悼は気持ちでのみ込まれるべき状況だったようです。</p><p>&nbsp;</p><p>ところでここに十市皇女の死を悼むひとがいました。 天武天皇の第1皇子であり、十市皇女と年齢が最も近い高市皇子です。 万葉集には「十市皇女が亡くなった時、高市皇子が尊敬して作った歌三首」が伝わっています。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;">第2巻 156番歌</span></p><p>[題詞] 明日香清御原宮御宇天皇代 [天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇] / 十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首　[※ 明日香清御原宮=飛鳥浄御原宮（あすかきよみはらのみや) : 672年（天武1）から藤原宮(ふじわらのみや)へ遷都する694年（持統8）までの天武・持統両朝の宮]</p><p>[原文] <span style="color:#0000ff;">三諸之神之神須疑已具耳矣自得見監乍共不寝夜叙多</span></p><p>[訓読] みもろの神の神杉已具耳矣自得見監乍共寝ねぬ夜ぞ多き</p><p>[かな] みもろの かみのかむすぎ <span style="color:#0000ff;">***** *******</span> いねぬよぞおほき</p><p>[左注] （紀曰七年&lt;戊&gt;寅夏四月丁亥朔癸巳十市皇女卒然病發薨於宮中）</p><p>[①日本語現代訳]　三輪の神の杉を夢にでも見たいものだが、（悲しくて）眠られぬ夜が多い。</p><p>[②日本語現代訳] 三諸山の神杉に過ぎ去った人を惜しみ、影にその人を見て寝むれぬ夜が続く。</p><p>[③最少音借解讀 by 韓甲祚]</p><p>三人一緒にゆくね。神にいって神に須く伺いなさい。すでに耳にしたことがある。</p><p>自ら悟り、見て、探ると, つかの間も共に寝れない夜が繰り広げられる。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;">第2巻 157番歌</span></p><p>[原文] <span style="color:#0000ff;">神山之山邊真蘇木綿短木綿如此耳故尓長等思伎</span></p><p>[訓読] 三輪山の山辺真麻木綿短か木綿かくのみからに長くと思ひき</p><p>[①日本語現代訳] 三輪山の山辺の真麻木綿(まそゆふ)も短木綿（みじかゆふ）も短い故に亡くなってしまったのか。もっと長生きしてほしかったのに。</p><p>[②日本語現代訳] 三輪山の山辺に祭る短い木綿, 短い契りであった, 長くと願いながら.</p><p>[③最少音借解讀 by 韓甲祚]</p><p>神のいる山に行くね！　山邊には真に蘇った木が続き、短い木が続く。</p><p>当然、今だけでなければならない。 故人が長年連れ添った懐かしい人であることを。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;">第2巻 158番歌</span></p><p>[原文] <span style="color:#0000ff;">山振之立儀足山清水酌尓雖行道之白鳴</span></p><p>[訓読] 山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく</p><p>[①日本語現代訳]</p><p>まっ黄色な山吹の花々に彩られた山清水（泉）に水くみに行きたいのだが道が分からない。</p><p>黄泉(よみ) ; 黄泉の国(=死者の国)</p><p>[②日本語現代訳]　　山吹の山清水を汲みに行こうともその道がわからない</p><p>[③最少音借解讀 by 韓甲祚]</p><p>山を振りながら行って、立てられた儀礼を守る。</p><p>山の清らかな水を飲むことを勧めても、いく道をゆきながら話さない。</p><p>&nbsp;</p><p>原文を現代語で解釈しておいても簡単に理解できません。 原文の解読は後にして、理解できる部分だけ要約してみると156番の歌は彼女を懐かしんで眠れない夜が続くという意味だと思うし、157番の歌は彼女がもっと長生きすることを願うという意味で、158番は彼女のそばに行こうとしても道が分からないという意味だと思われます。</p><p>&nbsp;</p><p>私も漢字の意味を主として、助詞など一部だけ音借して解釈した結果、それぞれの歌の③番目の解釈につけました。 キム·ヨンヒさんの報言と請言を歌詞から除外する方法とは少し異なります。 ここでは解読方法を論じようとする文ではないため、その結果だけ提示しておきました。 歌詞と内容が少し違うように感じられます。</p><p>&nbsp;</p><p>周りの多くの人の中でただ高市皇子だけが彼女が懐かしくて、早く死んで残念で、彼女のそばに行きたいと言っています。 そこでまた、高市皇子と十市皇女の関係が恋人関係なのか夫婦関係なのかという諸説も生まれます。</p><p>&nbsp;</p><p>ここに決定的な役割を果たすのが、156番歌の中間部分の語句です。</p><p>&nbsp;</p><p>‘三諸之神之神須疑<span style="color:#ff0000;">已具耳矣自得見監乍共</span>不寝夜叙多’</p><p>&nbsp;</p><p>万葉集第一券を編集する時、編集者が「訓読」が出来なくて、「<span style="color:#ff0000;">已具耳矣自得見監乍共</span>」の原文をそのまま引用する部分です。 だから、編集されてからさまざまな解釈が伝えられています。 ところで、「<span style="color:#ff0000;">共</span>不寝夜」を「ともに眠れない夜」と解釈し、これらはすでに夫婦関係または婚約関係にあるという説の強力な証拠として採択されています。</p><p>&nbsp;</p><p>677年、678年は大震災が毎年起こり、旱魃や飢饉が続く時期でした。 この時、天武天皇が神々に祭祀を行うと準備していました。 天武天皇の第1皇女として十市皇女は巫女としての役割もあったはずです。 ところが678年4月7日、天武天皇が祈願祭を執り行うために宮殿を出る際、十市皇女の死の悲報が伝わったのです。 日本書紀は根拠なく病死だとしても、天皇の祭礼に出る巫女としての負担から自殺ではないでしょうか。 処女性を持つ「天皇の第1皇女」として、「天皇の祭礼」で巫女の役割を果たさなければなりませんが、愛を分かち合う体を持たず、「父天皇の巫女」として祭礼に参加する負担が彼女を自殺に追い込んだのではないでしょうか！</p><p>&nbsp;</p><p>18歳にして自ら命を絶った長女の遺体の前で、父の天武は号泣したのだと考えられます。</p><p>&nbsp;</p><p>終了</p>
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<link>https://ameblo.jp/kchan1602/entry-12673415173.html</link>
<pubDate>Sun, 09 May 2021 11:06:00 +0900</pubDate>
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<title>⑤ 十市皇女_青春十八歳の死</title>
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<![CDATA[ <p>675年、伊勢神宮へ行って来た十市皇女は三年目にして678年4月7日に亡くなりました。 前もって引用した『日本書紀天武7年4月条』をまた話さなければならないようです。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;">日本書紀</span> 天武7年(678) 4月 7日</p><p><span style="color:#0000ff;">癸巳食卜. 仍取平旦時警蹕旣動. 百寮成列. 乘輿命蓋以未及出行. 十市皇女卒然病發薨於宮中. 由此鹵簿旣停不得幸行. 遂不祭神祗矣.</span></p><p>癸巳(7日)が吉日だということで占いが出た。そのため、午前4時頃の時間を選んで先発隊が出発した。 百寮が列を成し、天皇の乗った輿がちょうど門を閉めて出かけようとした時、十市皇女が突然発病し宮中で亡くなった。このため天皇の行列は停止して出られなかった。結局、神祇に祀れなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>4月7日のこの日は、先に占いをして天皇が直接神々を祭ることにした日です。 奈良の倉梯川の上流に斎宮を作り、天武天皇が宮を出ようとしたら、十市皇女が亡くなったという悲報が伝わったものです。</p><p>&nbsp;</p><p>前年の677年、日本は非常に厳しい時期でした。夏旱魃(かんばつ)が続き、6月14日に大地震が発生しました。 日本全体に大きな災難でした。 それで日付を決めて4月7日、天皇が直接祭祀を行うことにし、天武天皇が宮を出る瞬間、十市皇女の悲報が伝わったのです。 結局この祭祀はなくなりました。</p><p>&nbsp;</p><p>日本書紀では、病死といわれます。病の前触れもなく、急死というわけです。 それも宮中でです。 懐風藻の内容通りにお嫁に行ったなら宮中に住んでいたというのもおかしいです。 ここでも毒殺説と自殺説が出てきます。 宮中では4月7日の祇園祭のために4月1日から忙しく回っていました。 この時宮殿にいたら「十市皇女」も第1皇女として祭礼で巫女への責務もあったはずです。 675年に15歳だったとしたら、678年は18歳になる年です。 この時期が婚談の決定に適した16歳~19歳の時期です。 お母さんが一緒だったら、もうお嫁に行かせてもらっていたかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>天武天皇は長女の葬儀を迎えます。 その日の様子を日本書紀が伝えています。 4月13日雷が宮の新宮に落ちました。 そして14日、十市皇女のお葬式が始まりました。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;">日本書紀</span> 天武7年(678) 4月 14日</p><p><span style="color:#0000ff;">庚子. 葬十市皇女於赤穗. 天皇臨之降恩以發哀.</span></p><p>庚子（14日）に十市皇女を赤穂に埋葬した。 天皇が葬儀に出席し、「恩情」を施して哭いた。</p><p>&nbsp;</p><p>天武天皇は長女の葬儀に出席し、声を出して泣いたといいます。 お父さんにとって長女はとても大切な存在だからでしょうか！ 子どもの葬儀に天皇は参列しないのが通例だそうです。 しかし、天武天皇は神々への祭祀も取り消し、長女の葬儀であまりにも悲しんでいます。 予測できなかった死だったからでしょうか！ どんな死だったから、こんなに悲しく泣くのでしょうか！ 天皇のお父さんが守ることもできない死だったのでしょうか！ 一日も二日も死の予兆のない若い皇女の病死を誰が信じることができるでしょうか！</p><p>&nbsp;</p><p>続きます…</p>
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<link>https://ameblo.jp/kchan1602/entry-12673414273.html</link>
<pubDate>Sun, 09 May 2021 11:00:44 +0900</pubDate>
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<title>④ 十市皇女_青春十八歳の死</title>
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<![CDATA[ <p>天武天皇はなぜ二人の皇女を伊勢神宮に送ったのか?</p><p>&nbsp;</p><p>この日一緒に行った阿閇皇女は、天智天皇の娘として661年生まれです。後に天武天皇の皇太子である草壁皇子の夫人となり、43代元明天皇となります。 当時675年には14歳です。</p><p>一方、二人の皇女が目指す伊勢神宮には、斎宮として大伯(=大来)皇女が来ていました。 大伯皇女は天武天皇の第二皇女で661年生まれの同年14歳になります.</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;">日本書紀</span> 天武3年(674) 10月 9日</p><p><span style="color:#0000ff;">冬十月丁丑朔乙酉. 大來皇女自泊瀨齋宮向伊勢神宮.</span></p><p>冬10月、正丑朔乙酉（9日）に大来皇女が初瀬宮から伊勢神宮に移した。</p><p>&nbsp;</p><p>大伯皇女は天智天皇の第一皇女であり、天武天皇の夫人である太田皇女の娘であり、後に謀反の濡れ衣を着せられて死ぬことになる天武天皇の第三皇子である大津皇子の実姉となります。</p><p>&nbsp;</p><p>天武天皇の代になって、その間途絶えていた伊勢神宮に再び斎宮として皇女を送ることになります。 そして第2皇女の大伯皇女が指名されたのです。当時の皇女なら、少なくとも第1、第2皇女ならある程度巫女的な職務を行うことになります。</p><p>&nbsp;</p><p>上に示した日本書紀の天武3年(674年) 10月 9日條をみると、大伯皇女が673年2月13日に泊世の斎宮となり、674年(天武3年)10月9日に伊勢神宮に移します。</p><p>&nbsp;</p><p>大伯皇女が皇居を離れ、伊勢の齋宮（=神宮の最高責任者）として行くことになったのは、皇居において内命婦の暗闘が働くようになります。天武天皇の10人の妻のうち誰が自分の娘を巫女に送ろうとするでしょうか！ 大伯皇女の母、大田皇女は、大津皇子を産んだ663年に亡くなりました。彼らを守る勢力がないのです。皇后の鸕野皇女は太田皇女の実弟ですが、自分の息子を皇太子に擁立するために実姉の太田皇女の子は不便だったのでしょう。 そして天武天皇の代の初の斎宮として大伯皇女が指名されたのです。</p><p>&nbsp;</p><p>ところで、この大伯皇女が674年10月9日、伊勢神宮へいくときの日本書紀の記録にはありませんが、『比売神社来歴』で鏡神社から配布した資料に、伊勢神宮まで十市皇女がいっしょだったという話もあります。第一皇女と第二皇女の友愛とも受け取れますが、年齢が似ていないと、これもまた父なき子持ちの25歳の母がしにくい状況になります。</p><p>&nbsp;</p><p>天武天皇は675年2月13日、伊勢神宮へ二人の皇女を送ります。 なぜ送ったのか諸説あります。</p><p>①「壬申の乱」の戰勝を伊勢神宮に報告する目的であるという説</p><p>→既に第2皇女を伊勢神宮の齋宮に送ったので、このような目的はすでになされたと考えられます。</p><p>&nbsp;</p><p>②　日本書紀には、天皇4年（675年）1月に薬や貴重品が朝廷に献上された記録があることから、これを伊勢神宮に送るために彼女らが派遣されたという説です。</p><p>→ これが目的なら、皇女を二人も行かせる理由はありません。</p><p>&nbsp;</p><p>③　天武天皇が「壬申の乱」で大友皇子を退けて即位する際に、自分の息子である草壁皇子を皇太子としたので、皇太子の交替をそれぞれの妃に伊勢神宮に報告させたという説です。</p><p>→　天智天皇の皇太子である大友皇子の妃が十市皇女（懐風藻の引用となれば）、天武天皇の皇太子に決定された草壁皇子の妃が阿閉皇女なので、その各々の妃に伊勢神宮へ行って報告することになります。十市皇女にはあまりにも残酷な仕業になります。十市皇女には、私の夫の大友皇太子は、父との戦争に敗れ、死んたので皇太子の座から退いたと知らせろということです。 そんなことができたんでしょうか。また、阿閉皇女が草壁皇子と結婚したのは、伊勢神宮に行ってきて4年が経った679年です。 目的も時期も合わないんです。</p><p>&nbsp;</p><p>それでは天武天皇は、なぜ二人の皇女を伊勢神宮に送ったのでしょうか。第2皇女の大伯皇女を心配する父の心ではないかと思います。 母もなく力もなく奥の王女となり、巫女として幼い年で齋宮になり、寂しい日々を送っている娘のために、同じ歳の皇女を送り、慰めようとしたのではないでしょうか！ 奥において十市皇女と大伯皇女は並んで第1皇女と第2皇女の地位にありますが、母のいないいじめという似た境遇でした。 もちろん十市皇女の母である額田王は生きていましたが、天武の懐を離れ、天智天皇の恋人となり、今が天智天皇の死の時だからです。 それに同い年で、天智天皇の皇女、阿閇皇女が加わったのです。 みんな奥では力のないいじめっ子です。</p><p>&nbsp;</p><p>大伯皇女と阿閇皇女は同じく661年生の675年に同じく14歳です。では十市皇女は懐風藻で記録した通りに子ども付き25歳の婦人だったのでしょうか。 万葉22番歌は清らかで美しい十市皇女を歌っています。ということは、この状況にあわせるためには15~16歳くらいの年齢ではないでしょうか！ 日本書紀675年2月13日の条には、阿閇皇女の前に十市皇女を記しています。 これは十市皇女の年上ということです。 日本書紀は皇女·皇子を記述する際、年齢順·身分順を考慮します。 この時、十市皇女の年齢を15歳と仮定すると、660年生まれになって、葛野王が生まれる669年は10歳ぐらいになり、葛野王を産む母親では合わないです。（http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage1.htm）</p><p>&nbsp;</p><p>続きます…</p>
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<link>https://ameblo.jp/kchan1602/entry-12673103534.html</link>
<pubDate>Fri, 07 May 2021 19:34:19 +0900</pubDate>
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<title>③ 十市皇女_青春十八歳の死</title>
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<![CDATA[ <p>伊勢神宮へ参拝した十市皇女</p><p>&nbsp;</p><p>懐風藻より先に作られた万葉集は十市皇女が処女であると描かれています。 675年、十市皇女は阿閉皇女とともに伊勢神宮を参拝します。 この時、万葉歌が1首作られるのです。 <span style="color:#ff0000;">第1巻 22番歌</span>です。</p><p>&nbsp;</p><p>[作者] 吹芡刀自</p><p>[題詞] 明日香清御原宮天皇代 [天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇] /</p><p>十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巌吹芡刀自作歌</p><p>[原文]<span style="color:#0000ff;"> 河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手</span></p><p>[訓読] 川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常処女にて</p><p>[かな] かはのへの ゆついはむらに くさむさず つねにもがもな とこをとめにて</p><p>[左注] 吹芡刀自未詳也 但紀曰 天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥十市皇女阿閇皇女参赴於伊勢神宮</p><p>&nbsp;</p><p>[①現代日本語解釋]<a href="https://manyoshu-japan.com/"> <u>https://manyoshu-japan.com/</u></a></p><p>五十鈴川の清冽な岩群れに雑草が繁茂することがないように, 十市皇女様もずっと處女のように美しく清らかであらせられるように。</p><p>&nbsp;</p><p>[②現代日本語解釋] (中西進)</p><p>水辺にある神聖な岩に苔が生えないように、いつも変わらないように永遠な少女のように。</p><p>&nbsp;</p><p>[③現代日本語解釋] (伊藤博)</p><p>川の中の神聖な岩に草も生えないようにいつも不変であればね。然らばいつも処女でいられるように</p><p>&nbsp;</p><p>[④現代日本語解釋] (折口信夫)</p><p>この川辺にある岩の上には草一本生えていなかった。 いつまでも古くなく新しく見える。</p><p>そのように、斎宮も斎宮になるので、いつまでも年を取らずに処女に入っていけるようにして</p><p>愛したいのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>いずれも日本万葉集研究の権威者たちの解釈だ。 多少の違いはあるかも知れないが、十市皇女が処女であることを歌っていることは一致している。</p><p>&nbsp;</p><p>この歌が作れた背景をみると「天武天皇の時十市皇女が伊勢神宮にお参りに行った時に波多の横山庵を見て、吹芡刀自（ふふきのとじ）が詠んだ歌」ということでした。</p><p>&nbsp;</p><p>この歌の作者である吹芡刀自は「左註」では誰だかわからないそうです。 日本では中年以上の女性を「刀自、とじ」と呼びます。現代語で言うなら「夫人」くらいに解釈できると思います。では「吹芡夫人」くらいに解すとよいようです。　つまり皇女二人を祀って「伊勢神宮」に向かい、川辺の岩を見て十市皇女のためにこの歌を詠んだのです。 歌を作るくらいなら、単なる侍女ではないかもしれません。皇女たちを同行させる貴族の妻として考えても良いのではないかと思われます。</p><p>&nbsp;</p><p>この吹芡夫人が作った歌は十市皇女に対する歌で、この歌の内容と土台には「処女」の意味があるようです。　上記に研究者数人の解釈を列挙しましたが、みずみずしい乙女を苔むさない岩に例えているようです。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが十市皇女と吹芡夫人が伊勢神宮に向かっている時は675年で、懐風藻で解釈すると、十市皇女は7歳の息子のいる夫人になります。（当時の女性が18歳程度に第一子を産むと仮定すると十市皇女は25歳になり、3年後に28歳で死亡することになります。）</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;">日本書紀</span> 天武4年（675) 2月 13日</p><p><span style="color:#0000ff;">丁亥. 十市皇女. 阿閉皇女. 參赴於伊勢神宮.</span></p><p>13日、十市皇女と阿閉皇女が伊勢神宮に参拝した。</p><p>&nbsp;</p><p>子連れ夫人にとって万葉二十二番歌はいつも処女でいてほしいという格好になってしまいます。 なんか状況に合わない歌になってしまいます。 歌に問題がなければ懐風藻で作った状況に問題があり得ます。 葛野王が十市皇女が産んでいなかった可能性が濃厚です。</p><p>&nbsp;</p><p>この歌は吹芡夫人の歌になっています。 万葉集に載っているこの歌の作者が、吹芡刀自といえば侍女か、名望のある貴族の奥さんか，乳母かわかりませんが、万葉集の第一巻で天皇、皇子、皇女、王の隙間を縫って堂々と22番目の歌として載せられてあります。 可能なことでしょうか！</p><p>&nbsp;</p><p>万葉集の編集者はどんなことを考えて、この歌を万葉集第1巻の22番目の歌に載せたのでしょうか！ 少なくとも天武天皇の第一皇女の歌だからではないでしょうか！ 天武天皇の第1皇女の処女性を賛美する歌だからではないでしょうか！</p><p>&nbsp;</p><p>ところが、金永会氏の解読はその内容が違います。まずその22番歌の解読をみよ。(booklab 2021)</p><p>[原文] <span style="color:#0000ff;">河上乃湯都磐村二草武左受常丹毛冀名常處女煮手</span></p><p>[解讀]（他の人たちは狩りを終えて河の）上の温泉に入っても、別れたくなくてもじもじしていた人が蒲生野にふたり。草むらで武士(大海人)がそばにいてくれた。赤布に天武天皇が記録してくださった十市皇女の功績。伊勢神宮に宿る乙女が手をたたいて祝ってくれている。</p><p>&nbsp;</p><p>こうなるとこの歌は天武天皇，額田王、十市皇女との関係を表しています。額田王が蒲生野で出会った大海人皇子との場面を回想しながら、今度は天武天皇になった大海人から彼らの娘である十市皇女の功績を赤布で書いて貰ったことです。</p><p>&nbsp;</p><p>これはいくつかのいえる糸口を提供する。</p><p>①　大海人皇子が天皇になって額田王を会ったか、または赤布を渡した情況。</p><p>②　十市皇女の功績がなんだろ？</p><p>③　伊勢神宮の乙女はなぜ手をたたいて祝ってくれたか？</p><p>&nbsp;</p><p>ここでは十市皇女を論じておりますのでその他のことは省略します。では十市皇女の功績はなんだろうか。赤布にかいてもらったのはなんでしょうか。やはりその中身としては扶桑略記（ふそうりゃくき）が伝える内容だと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>天武天皇元年壬申五月 ; 世傳云. 大友皇子之妃. 是天皇女也. 竊以謀事. 隠通消息.</p><p>「壬申の乱」の時, 十市皇女が 近江にいながら, 敵となった父·大海人皇子に近江側の事情を　伝えたことも認めたということです。</p><p>&nbsp;</p><p>「壬申の乱」の功績ではなければ、天武天皇を象徴する赤布で功績を書けることのないようですね。そうすると扶桑略記の記録を信頼するべきです。しかし十市皇女が葛野王のお母さんである証拠は万葉歌では見つかりませんね。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>また続きます…</p>
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<link>https://ameblo.jp/kchan1602/entry-12673070839.html</link>
<pubDate>Fri, 07 May 2021 16:25:09 +0900</pubDate>
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<title>② 十市皇女_青春十八歳の死</title>
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<![CDATA[ <p>十市皇女は葛野王のお母さんか？</p><p>&nbsp;</p><p>十市皇女が葛野王の母という記録があります。 葛野王は天智8年(669)に生まれます。 父が大友皇子，お祖父さんが天智天皇です。大友皇子は671年に天智天皇が亡くなり、天皇の位に就くことになりますが、叔父の大海人皇子の反乱により戦争に敗れ、672年に自殺することになります。これを「壬申の乱」といいます。 ここでおかしな家族関係が成り立ち、疑惑が生まれます。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが、こうした混同は懐風藻（かいふうそう）という本に、葛野王の母が十市皇女と記したことから始まります。 懐風藻の内容を引用してみてください。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;">懐風藻</span>にある葛野王の小伝の冒頭記事</p><p><span style="color:#0000ff;">王子者 淡海帝之孫 大友太子之長子也 </span><span style="color:#ff0000;">母</span><span style="color:#0000ff;">淨御原之帝長女 十市内親王</span></p><p>葛野王は天智天皇の孫で大友太子の長子である。 母は天武天皇の長女․十市皇女である。</p><p>このことから十市皇女の夫は大友皇子となり、「壬申の乱」において父と夫が敵となって戦争することとになります。 父の大海人皇子と夫の戦争により夫の大友皇子が亡くなり父の勝利により天武天皇となります。 この間で十市皇女の立場はどうなるでしょうか！ 一人の女性の運命が、この懐風藻の一文にまとまらなくなります。</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210507/13/kchan1602/a8/1a/j/o0733029914938160429.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="90" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210507/13/kchan1602/a8/1a/j/o0733029914938160429.jpg" width="220"></a></p><p>懐風藻は天平勝宝3（751）年11月の序文で見ると、この時発表された日本に残る最高の漢詩集です。 現在まで古代を探検する貴重な文献の一つとされています。 著者はわかりませんが、淡海三船(おうみのみふね）作とされていますが、厳密には不明です。 ところが、この書籍には日本書紀では伝わっていない「壬申の覇者の記録」も出てきます。（※　淡海三船は葛野王の孫ととも言われます）</p><p>&nbsp;</p><p>懐風藻の句節が平安後期の1094年(寛治８)に作られた扶桑略記（ふそうりゃくき）が引用して拡大再生産されます。 十市皇女が夫の大友皇子の陣営にいて、諜報を父の大海人皇子に伝えたというわけです。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#0000ff;">天武天皇元年壬申五月 ; 世傳云. 大友皇子之妃. 是天皇女也. 竊以謀事. 隠通消息.</span></p><p>「壬申の乱」の時, 十市皇女が 近江にいながら, 敵となった父·大海人皇子に近江側の事情を　伝えたことも認めたということです。</p><p>&nbsp;</p><p>この物語りは、また鎌倉時代(1185~1199年)の「水鏡」によって脚色されます。 41代天武天皇編に、「大友皇子の夫人は、天武天皇の娘でございますが、あえてこの事の様子をお知らせ申し上げます」と伝えしています。</p><p>&nbsp;</p><p>そして1220年代に作られた宇治拾遺物語（うじしゅういものがたり、1212~1221）巻第十五では、かなり長い内容になります。 現代語に訳すと次のようです。 大友皇子の妻の一人で天武天皇の娘でした。 夫の策謀を知って父が殺されるのではないかと悲しみ、何とかしてこのことを知らせようと思いましたが、仕方がありませんでした。 悩んだ末に小さい文章を書いてたい焼きをお腹の中に隠してお父さんに伝えるようにしました。</p><p>&nbsp;</p><p>時代が下るにつれ、描写がより精巧になります。 しかしどの本にも十市皇女という名は直接的には載っていないのですが、 すべてが逆さになって懐風藻で葛野王の母が十市皇女と記したことから拡大再生産されたのです。</p><p>&nbsp;</p><p>1416年、天皇の勅令により編纂された天皇の系譜を表した本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)には、葛野王が大友皇子の息子とされていますが、母が誰であるかは記述していません。</p><p>（http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage1.htm）</p><p>&nbsp;</p><p>また続きます…</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kchan1602/entry-12673041073.html</link>
<pubDate>Fri, 07 May 2021 13:21:18 +0900</pubDate>
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<title>① 十市皇女_青春十八歳の死</title>
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<![CDATA[ <p>十市皇女は四十代天武天皇と天才歌人額田王の娘です。 天武天皇にとっては長女です。 父の愛を受ける皇女のようですが、この皇女は、父よりも、母よりも先にこの世を去ります。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;">日本書紀 天武7年(678) 4月 7日</span></p><p><span style="color:#0000ff;">癸巳食卜. 仍取平旦時警蹕旣動. 百寮成列. 乘輿命蓋以未及出行. 十市皇女卒然病發薨於宮中. 由此鹵簿旣停不得幸行. 遂不祭神祗矣.</span></p><p>癸巳(7日)が吉日だということで占いが出た。そのため、午前4時頃の時間を選んで先発隊が出発した。 百寮が列を成し、天皇の乗った輿がちょうど門を閉めて出かけようとした時、十市皇女が突然発病し宮中で亡くなった。このため天皇の行列は停止して出られなかった。結局、神祇に祀れなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>日本書紀天武7年4月7日条』です。 この日の朝、天武天皇は神々に祭祀を行うために宮を出る途中、十市皇女が死んだという悲報を聞き、皇居の行列は停止して出られなかったといいます。</p><p>&nbsp;</p><p>十市皇女が卒然と発症し、宮中で死したというものです。 天武天皇が686年（旧暦）9月9日に崩御しますが、父より8年も早く、母より何十年も早く亡くなりました。 お父さんとお母さんの華麗な名声に比べ、早すぎる疑惑の死です。 日本書紀に記された「卒然病発」とはどのような死をいうのでしょうか。 急な病気とは、今で言うと心臓麻痺くらいでしょうか。 そんなに多くない歳なのにこんなに突然の死ができるのでしょうか！</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">十市皇女はいつ生まれたのか？</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>天武天皇が即位（672年）し、翌673年（旧暦）2月27日に皇后と妃を冊立します。 この時、額田王を「<span style="color:#ff0000;">初娶</span>」と表現しています。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;">日本書紀 673년(天武2年) 2月 27日</span></p><p><span style="color:#0000ff;">天皇初</span><span style="color:#ff0000;">娶</span><span style="color:#0000ff;">鏡王女額田姬王. 生十市皇女. 次</span><span style="color:#ff0000;">納</span><span style="color:#0000ff;">胸形君德善女尼子娘. 生高市皇子命.</span></p><p>天皇は最初、鏡王の娘である額田王を迎え、十市皇女を産みましだ。</p><p>次に胸形君徳善の娘․尼子(あまこ)を迎え、高市皇子を産みましだ。</p><p>&nbsp;</p><p>「初」と「娶」はこの文章に重要な意味が含まれています。 天武天皇における額田王の位置と婚姻時期を示しています。 「初」は多くの夫人の中で一番先に迎えた夫人という意味です。 正常な状況であれば、最初に迎えた奥様から第1子を産むのが一般的ですよね。そうすると十市皇女が天武天皇の初子である可能性が高いかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>「日本書紀」全般に見られる婚姻の表現には、「立」、「納」、「喚」、「娶」、「召」などの違いがあります。天武天皇の9人の夫人たちが「納」と記述される中で、額田王だけが「娶」になっていることは、その意味をきちんと区別していると考えられます。 「娶」は「日本書紀」全体で10回ほど使われています。 そこからわかるのは、当時としては当然のことですが、結婚しても同居していない形跡がはっきり見えることです。</p><p>&nbsp;</p><p>大海人（おおあま）皇子（=後の天皇）は額田王と出会い、鏡王（=額田王の父）の家に出入りし、額田王と付き合い、それで十市皇女がその町の十市郷に生まれたと考えられます。 額田部一帯は当時の高級住宅地とされ、十市の地もその少し南にあります。 想像もできますが、初めの若い男女の恋愛、通例に準じていえば、額田王は大海人皇子より少し年上かもしれません。 斉明天皇の時、額田王は宮殿に出入りして斉明天皇の側近となっていました。額田王と大海人皇子が会うのは自然だったようです。（http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage1.htm）</p><p>&nbsp;</p><p>天武天皇の10人の妻のうち額田王をはじめとし、尼子, 太田皇女, 鸕野皇女(=持統天皇)が早い時期に婚姻をしたようです。 この婦人たちの子供もいっしょに表します。 これらの子供には、第1、2、3の皇子、皇女が含まれています。</p><p><span style="font-size:0.7em;">（日本語版ウィキペディアより引用します。<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87"><u>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87</u></a> ）</span></p><p>&nbsp;</p><p>皇后：鸕野讃良皇女（後の持統天皇） - 天智天皇の二番目の皇女</p><p>　　第二皇子：草壁皇子（662-689）</p><p>妃：大田皇女 - 天智天皇の第一皇女, 鸕野讃良皇女の同母姉</p><p>　　第二皇女：大来皇女（661-701）</p><p>　　第三皇子：大津皇子（663-686）</p><p>嬪：額田王 - 鏡王の女</p><p>　　第一皇女：十市皇女（653?-678）</p><p>嬪：尼子娘 - 胸形徳善(九州豪族)の女</p><p>　　第一皇子：高市皇子（654-696）</p><p>&nbsp;</p><p>5人の皇子、皇女が現れましたが、特に十市皇女の出生のみ？切符が付いています。4人の妻で5人の子供がほぼ同時代に生まれます。 661年を起点にし、その前後に少しだけ分かれるだけです。 661年は、斉明天皇が百済を支援するために3万の大兵を率いて船で旅立った時です。 ここにはすべての夫人が大海人皇子（=天武天皇）と共に齊明天皇と船に乗ります。 第2皇女、第2皇子、第3皇女が船移動または到着して生まれます。 反面、第1皇女、第1皇子は上記の資料を見ると、少し早く船に乗って出港する前に生まれます。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが、天武天皇と額田王の出生と年齢が分からないため、十市皇女の正確な出生時期はわかりません。しかし661年、斉明天皇とともに船に乗って九州に向かう額田王には出産の話はなかったので、身軽だったようです。 斉明天皇を最も近くで随行していました。 すると十市皇女の出産は661年前なのは明らかなようです。</p><p>&nbsp;</p><p>また続きます…</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kchan1602/entry-12672936626.html</link>
<pubDate>Thu, 06 May 2021 22:07:05 +0900</pubDate>
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<title>⑥ 有馬皇子は謀反を企てたか?</title>
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<![CDATA[ <p>月日が流れ、中大兄皇子は38天智代天皇になり、その子の大伴皇子が39代弘文天皇として1年足らずで、天地天皇の弟であり大伴皇子の叔父である大海人皇子のクーデターにより40代天武天皇が即位することになります。 続いて、天武天皇の皇后、鸕野讚良皇女が41代持統天皇に即位します。 持統天皇は皇位を孫に譲位し、大宝元年（701年）に紀伊国に行幸するに当たり、その際に随行していた臣下の中で、長意吉麻呂(ながのおぎまろ)、山上憶良(やまのうえのおぐら)、柿本人麻呂（かいもとひとまろ）などが有間皇子に関する追記歌を書き、万葉集に残します。</p><p>&nbsp;</p><p>万葉集 第1巻 143番歌</p><p>[作者] 長意吉麻呂(ながのおきまろ)</p><p>[題詞] 長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首</p><p>[原文] <span style="color:#0000ff;">磐代乃 &lt;崖&gt;之松枝 将結 人者反而 復将見鴨</span></p><p>[訓読] 磐代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも</p><p>[かな] いはしろの きしのまつがえ むすびけむ ひとはかへりて またみけむかも</p><p>[左注] （右件歌等雖不挽柩之時所作&lt;准&gt;擬歌意 故以載于挽歌類焉）</p><p>[①現代日本語訳]</p><p>岩代の岸の松が枝を結んだ皇子様は、無事お帰りになって結びをごらんになっただろうか。</p><p>[②現代日本語訳]</p><p>磐代の岸、松の枝を束ねたという人は、帰ってきて見返したのだろうか。</p><p>​[③金永會の解読] <a href="https://blog.naver.com/ddubugie1/222324986105"><u>https://blog.naver.com/ddubugie1/222324986105</u></a></p><p>あなたが夢見た通り、天皇の位が入れ替わった。</p><p>磐代に松の枝が結ばれている。</p><p>人々が通りすがりに何度も見ている。</p><p>&nbsp;</p><p>有間皇子が絞首刑に処せられて（658年）43年が経て、701年に持統太上皇を随行し、紀伊国に向かう行列中に長野吉麻呂が岩代を通り、有間皇子が結んだという松の木を見て詠んだ哀咽歌（哀悦歌、悲しく泣きじゃくる歌)である）。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210505/15/kchan1602/8c/eb/j/o1379040714937153066.jpg"><img alt="" height="124" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210505/15/kchan1602/8c/eb/j/o1379040714937153066.jpg" width="420"></a></p><p>国道沿いに見える結松記念碑、隣に見える松はいつのものか！</p><p>&nbsp;</p><p>今では国道沿いになり、古びた倉庫の横に石碑や案内文が見えますが、石碑の横にある松はみすぼらしい限りです。</p><p>&nbsp;</p><p>有馬皇子が亡くなり、今まで誰の世話もなかったのですが、持統太上皇の紀伊国行幸では不思議なことに、有間皇子の追悼歌が続いています。</p><p>&nbsp;</p><p>万葉集 第1巻 14４番歌</p><p>[作者] 長意吉麻呂</p><p>[題詞] （長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首）</p><p>[原文] <span style="color:#0000ff;">磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念</span></p><p>[訓読] 磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ</p><p>[かな] いはしろの のなかにたてる むすびまつ こころもとけず いにしへおもほゆ</p><p>[左注] （右件歌等雖不挽柩之時所作&lt;准&gt;擬歌意 故以載于挽歌類焉）</p><p>[①現代日本語訳]</p><p>岩代の野中に立っている結び松、その昔処刑された有間皇子のことを思うと気が滅入る。</p><p>[②現代日本語訳]</p><p>磐代の斜面に立つ結んだ松のように心晴れず昔のこと思い出す。</p><p>​[③金永會の解読] <a href="https://blog.naver.com/ddubugie1/222324986105"><u>https://blog.naver.com/ddubugie1/222324986105</u></a></p><p>あなたが夢見た通り、天皇の位が入れ替わった。</p><p>磐代の野中に建つ結んだ松。</p><p>人々は長らく君の志を晴らすことができなかったし。</p><p>君を思う。</p><p>&nbsp;</p><p>万葉集 第1巻 14５番歌</p><p>[作者] 山上憶良</p><p>[題詞] 山上臣憶良追和歌一首</p><p>[原文] <span style="color:#0000ff;">鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武</span></p><p>[訓読] 鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ</p><p>[かな] あまがけり ありがよひつつ みらめども ひとこそしらね まつはしるらむ</p><p>[左注] 右件歌等雖不挽柩之時所作&lt;准&gt;擬歌意 故以載于挽歌類焉</p><p>[①現代日本語訳]</p><p>翔る鳥になって皇子は常に飛び回りながら見ておられるが、われわれ人には分からないけれど、松は知っていることだろう。</p><p>[②現代日本語訳]</p><p>魂は鳥のようにここに通いながら見ているだろう。 人は知らないが松は知っているだろう。</p><p>​[③金永會の解読]　 <a href="https://blog.naver.com/ddubugie1/222324986105"><u>https://blog.naver.com/ddubugie1/222324986105</u></a></p><p>鳥が空をぐるぐると回っている.</p><p>人たちが意地を張って有馬皇子と一緒に親しくなろうとするね。</p><p>結ばれた松よ, 有馬皇子の意をあらわしなさい。</p><p>人は知らなくても、結ばれた松の木は真実を知らせよう。</p><p>&nbsp;</p><p>万葉集 第1巻 14６番歌</p><p>[作者] 柿本人麻呂(柿本人麻呂歌集, 가키모토히토마로의 노래집)</p><p>[題詞] 大寶元年辛丑幸于紀伊國時&lt;見&gt;結松歌一首 [柿本朝臣人麻呂歌集中出也]</p><p>[原文] <span style="color:#0000ff;">後将見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又将見香聞</span></p><p>[訓読] 後見むと君が結べる磐代の小松がうれをまたも見むかも</p><p>[かな] のちみむと きみがむすべる いはしろの こまつがうれを またもみむかも</p><p>[①現代日本語訳]</p><p>後で見ようと皇子が結んだ岩代の小松の梢（こずえ）を私も見ることになるでしょうか。(さぞかしご無念だったでしょうね).</p><p>[②現代日本語訳]</p><p>後に、また見ようと王子が結んでいた磐代の若い松の枝も見返したのでしょうか。</p><p>​[③金永會の解読] <a href="https://blog.naver.com/ddubugie1/222324986105"><u>https://blog.naver.com/ddubugie1/222324986105</u></a></p><p>月日が流れた後に見るようになった君の足跡。</p><p>君が　結んでおいた磐代の松の枝。</p><p>人々はあなたの足跡を見てまたあなたの意を伝える。</p><p>&nbsp;</p><p>万葉集 第1巻 1675番歌</p><p>[作者] 作者不詳</p><p>[題詞] （大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首）</p><p>[原文] <span style="color:#0000ff;">藤白之 三坂乎越跡 白栲之 我衣乎者 所沾香裳</span></p><p>[訓読] 藤白の御坂を越ゆと白栲の我が衣手は濡れにけるかも</p><p>[かな] ふぢしろの みさかをこゆと しろたへの わがころもでは ぬれにけるかも</p><p>[①現代日本語訳]</p><p>藤白の坂を越えると、私が着ている真っ白な着物の袖は涙で濡れてしまいました。</p><p>&nbsp;</p><p>701年に有馬皇子が亡くなって43年が経ち、当代最高の歌人3人が有馬皇子を追悼しています。 42代文武天皇時代であり、持統太上皇の紀伊国行幸時に謀反の罪に問われ絞首刑に処された有馬皇子を追慕する歌です。 謀反で死者を追悼することは、当時としては命がけの行為かもしれません。 しかし、太上天皇の前で謀反のために死んだ皇子を追悼する歌を詠むことは、すでにこの時期になって謀反でなかったかもしれないし、あるいは政治的立場が同じであったかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>天智天皇、弘文天皇に反対してクーデターで政権を握った天武天皇、持統天皇、文武天皇の政治的立場からは、やはり天智天皇に反する孝徳天皇、有馬皇子を擁護する立場かもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>そしてもう一度、有間皇子は歴史の中から消えます。 しかし、ある日、また有間皇子神社が藤代坂神社の境内に建てられ、作者未詳の1675番歌「万葉歌碑」が建てられ、今日も彼を追慕しているようです。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210505/15/kchan1602/2b/dc/j/o1375058114937154917.jpg"><img alt="" height="177" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210505/15/kchan1602/2b/dc/j/o1375058114937154917.jpg" width="420"></a></p><p>藤代坂の 藤代坂神社, 有馬皇子神社, 万葉歌碑1675번歌</p><p>&nbsp;</p><p>終了.</p>
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<link>https://ameblo.jp/kchan1602/entry-12672660500.html</link>
<pubDate>Wed, 05 May 2021 15:57:35 +0900</pubDate>
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<title>⑤ 有馬皇子は謀反を企てたか?</title>
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<![CDATA[ <p>斉明天皇にしてみれば、有間皇子は19才の幼い実家の甥に過ぎませんでした。 実家の血肉でたった一人の甥です。 そのため、斉明天皇は幼き甥を助命しようとしました。 その事情が万葉集に伝わっています。</p><p>&nbsp;</p><p>万葉集 第1巻 10番歌</p><p>[作者] 中皇命(間人皇女)</p><p>[題詞] 中皇命徃于紀温泉之時御歌</p><p>[原文] 君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名</p><p>[訓読] 君が代も我が代も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな</p><p>[かな] きみがよも わがよもしるや いはしろの をかのくさねを いざむすびてな</p><p>[左注] （右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 天皇御製歌[云々]）</p><p>[①現代日本語訳]</p><p>世間の人々は岩代の岡にそっと寄り添っている私たちのことを誰か知っているでしょうか。草の根を結びつけてしっかりと絆を結びましょう。</p><p>[②現代日本語訳]</p><p>君が代も吾が代も知るや磐代の丘の草根をいざ結びでな。</p><p>​[③金永會の解読 ] <a href="https://blog.naver.com/ddubugie1/222324986105"><u>https://blog.naver.com/ddubugie1/222324986105</u></a></p><p>君はまだ19歳なのに、(どうして謀反を企むことができようか)と、私が(他人に)代わって、(中大兄皇子に)知らせるだろう。 (君が)磐代の丘の草むらに行き、木の枝を縛っておいたという人々の噂も皇子に知られるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>10番街は、作者が曖昧な名前の中皇名になっていて、括弧内に「間人皇女」になっています。 それとともに題詞には、中皇名が紀温泉に行った際の天皇の御歌だとしております。すると、中皇名は天皇でなければならず、間人皇女になることはできません。 また左注において、山上憶良は天皇御製歌としております。 それでは、この時期に紀温泉に行った天皇は、斉明天皇しかいません。</p><p>&nbsp;</p><p>歌の内容からも今までの解読は誰が誰に話しているのか、何をしようというのか分かりませんでしたが、金永會（キム·ヨンフェ）氏の解読から、斉明天皇が有間皇子を弁護しようとしている内容であることがわかりました。</p><p>&nbsp;</p><p>謀反の罪で飛鳥から紀温泉に護送されてきた有間皇子に対し、斉明天皇は中大兄皇太子に対し、1９歳に過ぎない幼いのにどうして謀反を企てるのかと弁護したら、（おそらく中大兄皇子は有間皇子の141番、142番の歌を謀反の兆候として示し、また、飛鳥から蘇我赤兄の話を伝えたはずです。） すると、斉明天皇はそのようにして磐代の松の枝をつないだのは謀反の罪はなかったからだと弁論しましたが、それまでしかならず、命拾いはできなかったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>ここで使用された　「いわしろ」の原文は「磐代」で、141番歌から有間皇子が使用した「いわしろ」の原文は「磐白」です。 これを見ると、目的と意図によって固有名詞であるにもかかわらず漢字を選択的に使っていることが分かります。</p><p>磐（いわ）石、磐石、広い、雄大、ためらう、つづく</p><p>代　(しろ)　かわる、時代(じだい)、世代(せだい)</p><p>&nbsp;</p><p>万葉集では11番歌が続いていますが、やはり作者を中皇命として紹介しています。</p><p>&nbsp;</p><p>万葉集 第1巻 1１番歌</p><p>[作者] 中皇命(間人皇女)</p><p>[題詞] （中皇命徃于紀温泉之時御歌）</p><p>[原文] 吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核</p><p>[訓読] 我が背子は仮廬作らす草なくは小松が下の草を刈らさね</p><p>[かな] わがせこは かりほつくらす かやなくは こまつがしたの かやをからさね</p><p>[左注] （右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 天皇御製歌[云々]）</p><p>[①現代日本語訳]</p><p>あなたは萱（かや）で仮屋をお作りになろうとなさる。でも、相応しい萱がなければ近くの松の下の草をかり集めてお作りになるだけでよろしいじゃありませんか。</p><p>[②現代日本語訳]</p><p>わが背子は仮廬作らす草無くは小松が下の草を刈らさね。</p><p>​[③金永會の解読 ] <a href="https://blog.naver.com/ddubugie1/222324986105"><u>https://blog.naver.com/ddubugie1/222324986105</u></a></p><p>私の皇子が頼る廬幕を建てろ。（廬幕の屋根を葺く）草を刈ってくれる人はいない。小さな松の木の下の草むらにいるのね。</p><p>&nbsp;</p><p>11番歌も10番歌と同じ頃、同じ人が作ったものからすると作者は斉明天皇になります。 内容のなかで、歌の対象は「吾勢子」で、「借家」が内容の行方を決めることになります。 3つの解釈から、「吾勢子」は「あなた」「貴い君」「私の皇子」などと解釈されています。 もう一つの解釈は万葉集編集者の訓読で「我が背子」で表しています。4つの解釈からみると、作者と「吾勢子」には少なくともジェネレーションギャップがあるようです。 息子や孫でしょう。 作者が斉明天皇に確定されたら、当然、甥や孫に当たるでしょう。 吾勢子の解釈にもう一つ足すと、「私の力になるやつ」なのです。 もう少し意訳するなら、年上の母親や祖母が使いそうな「マイ·キッズ」です。 「我が子」と表現できる人は、その範囲が狭まります。 息子や孫に対するお母さん、おばあさん程度でなければこのような表現を使うことができません。</p><p>ところが、「借廬」といる言葉の解釈が主人公の行方を左右するようです。</p><p>借 (しゃく) 借りる、寄りかかる。</p><p>廬　(ろ) 農幕、小屋、草廬。</p><p>仮(=假、か)、かり、</p><p>&nbsp;</p><p>万葉集の編集者の　「訓読とかな」で「借廬（かりほ）」に表しただめ、これを「仮屋（かりや）、假屋（かりや）」として解析されていました。借と仮は全然違う意味を持つのに　「訓→音→訓」の変換過程を通って、全然違う言葉を作り出しています。「借廬」をそのまま解析すると「寄りかかる草廬」になります。ここで金永會氏は「廬」を「廬幕（お墓の側に喪制が喪が終わるまで泊る草廬）」であると解読しています。</p><p>&nbsp;</p><p>それなら、「吾勢子」は、吾勢子は、斉明天皇が紀伊温泉に行った658年に亡くなった人で、斉明天皇が「わが子」と呼ぶに値するのは、孫の建王と実家の甥である有間皇子だろ。</p><p>&nbsp;</p><p>ところが廬幕を作ってくれる草を刈ってくれる人もおらず、廬幕もなく小さな松の下で頼らなければならないことを見ると、権勢を尽くした捨てられた有間皇子である可能性が高いです。 建王の父は中大兄皇太子で、祖母が斉明天皇なのに見劣りすることもなく、既に祖母の斉明天皇は建王の死を悲しみすぎて、日本書紀に6首の歌を残しています。 そして斉明4年(658)5月に君臣に「私が死んだ後、必ず私の陵に建王を合葬せよ」と命じています。</p><p>&nbsp;</p><p>すると、この歌は有間皇子が絞首刑に処された後、お墓もまともに管理されていなかったことを残念に思った斉明天皇の歌と言えます。キム·ヨンフェさんは、この歌を有間皇子の実母·小足媛の歌と見ていますが、そのためにはいくつか疑問が残ります。 第一に、万葉集編集者の題詞で「御歌」といった部分が誤りかそれとも無視されるべきであり、第二に左注において、一世代ほど後代で万葉家の大家であり、自らの文集を通じて「天皇御製歌」と名乗った山上憶良の主張も誤り、または無視されるべきである。 第三に、万葉集第1巻第11番の歌で、他のところにも歌を残せなかったし、謀反の罪で没落した天皇でも、皇后でもないかたの歌が掲載されることがあるとは限らないからです。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20210505/15/kchan1602/80/ef/j/o1381043314937149661.jpg"><img alt="" height="132" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20210505/15/kchan1602/80/ef/j/o1381043314937149661.jpg" width="420"></a></p><p>熊野街道の 藤代坂と 有馬皇子のお墓</p><p>&nbsp;</p><p>有間皇子の墓がある藤代坂は今は村になり、三本の道の三角州地点では電柱が前を覆っており、後ろの大きな岩には有間皇子の墓と記されています。 おそらく謀反で絞首刑に処されたので、封墳もなく埋められたものと考えられます。</p><p>&nbsp;</p><p>また続きます…</p>
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<link>https://ameblo.jp/kchan1602/entry-12672658609.html</link>
<pubDate>Wed, 05 May 2021 15:47:40 +0900</pubDate>
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