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<title>　花 鳥 草 木</title>
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<description>　　　写 真 歳 時 記</description>
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<title>幻想いろは歌「ゑいもせす」</title>
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 ゑいもせす(酔いもせず)は迷いから抜け出し何にも囚われることなく悟りの境地に覚醒しているの意。 魅力的なものを見ても、見なくてもしがみつくこと無く自由な心。 一番瑞々しい旬の時は、残念な事にほんの短い限られた時間で終わってしまいます。 流れる川のように、刻一刻と変わっていくこの世の中 手の内からこぼれ失ったもの現在あるもの未だ手に入らないもの執着することも、疎かにすることもなくあるがままに受け入れるいつも自由な心でいるのが悟りだと詠っています。
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<dc:date>2015-03-01T07:22:15+09:00</dc:date>
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<title>幻想いろは歌「あさきゆめみし」</title>
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浅き夢＝娑婆の人生喜びも悲しみも入り混じって、儚いもの。いろは歌は濁点は使わない表示なので「ゆめみし」は夢見し( 夢を見る )と夢見じ( 夢を見ない )の両方の解釈ができますが儚い娑婆の人生に囚われない「夢見じ」とするのが一般的です苦楽に溢れた人生を「浅き夢」にたとえるならば両界曼荼羅宜しく両方の意味で夢を見ても見なくても( 娑婆の人生の中にいても、いなくても )と解釈してもいいのではないでしょうか。悟りの歌らしく１つのものに固執しないでいるのがより仏教的なのに、と思います。  
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<dc:date>2015-02-22T07:20:42+09:00</dc:date>
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<title>幻想いろは歌　「けふこへて」</title>
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チベットの荒涼とした風景にも道はできます。「けふこえて」は、今日超えて 「奥山のような 『苦』 に満ちた有為の世界、諸行無常の世界を今日越えて来た」と解釈するのが一般的です。http://homepage3.nifty.com/tak-shonai/intelvt/intelvt_045.htm いろは歌が作られたとされる１１世紀と比べ現在の世界では近代的になったが故に原子力発電所や化学兵器など別の危険が増え昔は貴族だけのものだった魅力的なものも庶民にもあふれているようになりました。この世を苦だ
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<title>幻想いろは歌「うゐのおくやま」</title>
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 うゐ(有為) は仏教用語で、因縁によって起きる一切の現象のことです。因とは、結果を生じさせる内的な直接原因。縁とは、外から因を助ける間接的原因。必ず、原因があって結果があります。 有為の奥山とは、変わりやすく儚いこの世を道もなく越えにくい深山にたとえたものです。※新潮国語辞典より抜粋 昔チベットの修行僧が人里離れた山奥で修行を続けていました。あまりの荒行に、僧侶の姉が心配してイラクサのスープを作って様子を見に行ったところ弟僧は大喜びで食べてくれました。ところが、その日からイラクサのスープのあま
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<title>幻想いろは歌「たれそつねならむ」</title>
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 濁点を付けるようになったのは江戸時代になってからなので「たれそ」は、誰ぞ と書きます。 秋祭りのダカは若い男性の役目。昔から、祭りの日だけは好きな女性を追いかけても良い特権があります。彼は、誰を想って待っていたのでしょう。 「常ならむ」は永遠に続くものなどないの意。いつか必ず死ぬ身である以上 永遠に続くものは何一つ無いとしても、今このひと時を懸命に生きています。
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<dc:date>2015-02-01T07:35:22+09:00</dc:date>
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<title>幻想いろは歌「わかよ」</title>
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我が世、と聞くと思い出すのは「この世をば 我が世とぞ思う望月の 欠けたることも無しと思えば」という菅原道真の歌です。 咲き誇る花の中で我が世を満喫する。 だけど、好事魔が多し思わぬところに落とし穴が無いとも限らない。有頂天になっいる時こそ、足元に気を付けて。恐竜は巨大隕石の衝突や大火山の噴火で絶滅したと言われています。どんなに気を付けていても避けられない災難。永遠に続くものなど、何一つないこの世の中は無常なのです。  
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<dc:date>2015-01-25T07:31:27+09:00</dc:date>
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<title>幻想いろは歌　「ちりぬるを」</title>
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   「ちりぬるを」は、「散ってしまうものを」の意。どんなに美しくてもやがて散り、消えていくのだからいつまでも名残惜しんでいても仕方ないと歌っています。散ってなお美しいと思えるのはほんの僅かの間の瑞々しさだからこそ。  常にあり続ければ埃にまみれ色も褪せていきます。光り輝いていた頃の一瞬を記憶に留め失った悲しみに囚われないで自由な心でいられたら、どんなに楽でしょうね。そう思う時があります。
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<dc:date>2015-01-18T07:30:25+09:00</dc:date>
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<title>幻想いろは歌　「いろはにほへと」</title>
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 いろは は、「色は」と書くのが一般的ですが「色が匂ふ」とは花が咲くことを表現している言葉なので「色葉」と書くという説もあります。では、色葉とは何かというと、紅葉と桜の事だそうです。人間の目から入る視覚情報のうち８０％が色彩の情報といわれています。古語の「におう」は霊( に ) が這う、あたりに広がるという意味の「にはう」が変化したもので臭覚だけでなく匂い立つ美しさの様に視覚に訴えるものでもありました。11世紀の人はそれだけ感覚が優れていたのでしょうね。※参照　『源氏物語-におう、よそおう、いの
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<title>いろは歌　覚書</title>
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いろは歌いろは歌は、すべての仮名が１回ずつ重複せずに使われており仏教の悟りの境地を現した内容になっています。仮名　( 漢字を含む表記 )　意味いろはにほへと　( 色は匂へど )  花は咲いてもちりぬるを　( 散りぬるを ) 散ってしまうわかよたれそ　( 我が世誰そ )　そんな世の中に誰もつねならむ  ( 常ならむ) ずっと同じ姿で存在し続けることなどありえないうゐのおくやま ( 有為の奥山 ) 「人生」という険しい山道を けふこえて ( 今日越えて ) 今日もまた越えて あさきゆめみし ( 浅き
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<title>終了いたしました</title>
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 現在このブログは準備中です 
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