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<title>熱いぜベイべのブログ</title>
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<title>機能主義からみる人の決定について</title>
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<![CDATA[ <p>機能主義は、社会という大きな枠組みと、諸派あるが、最後は人間個人まで、その相互関係を「機能」という概念を用いて把握しようと言う試みである。</p><p>けれども、僕が思う問題点は、やはりその関係性に対しての主観性である。Ａ＝Ｂという因果は、どうしても主観的にならざるを得ない。経験的にやがては実証される（限りなく）かもしれないが、始めの理論においては仮定の域をでない。</p><p>ツイッターを見ていると、しばしばＡ＝Ｂという式を高らかに述べている人間がいる。文学や芸術や、もしくは学問的定説まで。</p><p>上記の機能主義の捉え方は、ある著に寄ったもので、この機能主義のあり方さえも、当然、個々人によって違ってくる。ここで生じるズレが、恐らく人間世界の複雑さを生む。</p><br><p>Ａ＝Ｂと発言するとき、ウェーバーに寄れば、二つの倫理が潜まざるを得ない。ひとつが「心情倫理」、もうひとつが「責任倫理」である。</p><p>先の倫理は、信じている、という感情に起因し、合理的な説明を持たない。およそ非論理的で、他者との共有は難しい。</p><p>後者は様々な客観性を蓄えた後、それでも排除する論理を十分認識した上で、宣言する、ということになる。これはある程度（最終的な絶対性は無い）まで理論化される。だから、かなり近しい部分までは相互理解が可能になる。</p><p>「責任倫理」をウェーバーが支持したのは、最終的なところを神や真理に頼らねばならず、その不誠実製に葛藤した上で、それでも発言することの意義をもって、それが招くあらゆる可能性に責任を持つ、その態度所以である。つまり、Ａ＝Ｂという概念を発言する場合、それだけの覚悟が必要だ、ということだ。</p><br><p>例えばイスラム原理主義を機能的に捉えるとどうであろうか。パーソンズの方法で捉えるなら、彼らはＡＧＩＬ全ての役割を担っている。そうした上で、その地域において、反米というイデオロギーの元で社会維持を行い、同時に世界規模では、一端の破壊によって、より安定化した世界を再構築する機能を与えられている。</p><p>こうした捉え方は、原理主義者たちに偏っている。けれども、全ての組織および行為は、機能を持っているために、それは特にポジティブな要因として、語られなければならない。こうした、偏りを産んでしまうために、機能主義はあるところで批判に晒される。</p><p>まあ、西洋からも同じようにやれば、バランスは取れるが、そのようにマートンは言うが、けれども、そのバランス感覚も主観的であるし、その対立した機能主義による分析を並べることでなんになるのか、という疑問もある。</p><br><p>僕たちは、すべて、ひとつひとつの発言に機能を持たせようとしている。この発言が、誰かの目に留まらないか、誰かが反応してくれないか、と密かに願っている。けれども、この世の中の大抵は意味などそもそも持っていないのではないか。結果論として、意味づけされるだけではないのか。</p><p>Ａ＝Ｂという発言をすることへの意味と、Ａ＝Ｂが持つ意味は異なる。それを重々承知しなければ、「責任倫理」に達することはできないのではないだろうか。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kintamadaimaou/entry-11632371172.html</link>
<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 00:36:07 +0900</pubDate>
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<title>社会学的に考える</title>
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<![CDATA[ <p>僕の専門は社会学である。それは哲学ではない。社会が対象となる実証科学だ。社会に関わる全てのことに対して、合理的な説明を与えることを目的とする。</p><p>さて、僕らは共々芸術や思想の、いわば個人的な技量を糧として飯を食おうと企んでいるのだが、その傾向というのは、若者世代において、昔から一定数は居たものと考えられる。</p><p>けれども、最近は特に、そうした企業に属さない形での労働体系を望む若者は多いように思われる。そうして絶対数が増えていくに従って、相対的に、そうした職業が持つ神聖さというものも、失われていく気がしてならない。</p><p>ミュージシャンを目指している人口は大して変わらないかもしれない。もしかしたら、現代のほうが四半世紀前よりも少ないのかもしれない。けれどもミュージシャンというカテゴリにおいても、小説、絵画、及び学問においても、増えていると感じるのが、血のない卵のことなのだ。</p><p>便宜上、これを無精卵と呼ぶことにする。現代に溢れかえっている無精卵は、その目指すための過程に原因が求められると僕は仮定する。</p><p>というのも、選択肢が１０与えられている人間が、その中から恣意的に一つを選び取るためには、そのひとつがいかにその個人において欲求に適っているか、または、金銭的地位的に満たされるものなのか、ということを合理的に判断することが求められ、同時にそうした考えも持つ余裕があった。</p><p>それは高度経済成長期や、バブル時代の、安泰なる未来が待ち受けていると信じることが出来た次代の話である。就職先は溢れていて、その中でわざわざ先にあげたような仕事を選ぶと言うのは、専ら自分の欲求を満たすためでしかなかった。つまり、本気でその分野が好きで、それ以外に自分のやりたいものがない、という状態でなければ、上記のような仕事はたくさん有る選択肢の中からは選べれ得なかったのである。</p><p>そういう状態においては、各分野において、個々は一生懸命取り組む。何故なら、好きだからだ。その中で試行錯誤は繰り返され、より高次のものへと昇華させようと言う「意思」がはっきりとあった。その「意思」が引っかいた道程には、確かに血の痕が残されていた。</p><p>しかし、現代はそうした楽観的な将来は若者に与えられては居ない。不況は長く続き、好景気というものを知らない世代だ。そうした世代において、選択肢は非常に限られている。</p><p>僕が指摘したいのは、この非常に限られた選択肢のどれにも魅力を感じない場合、果たして若者はどうするだろうか、ということである。１、ニートになる２、選択肢を受け入れる３、別の選択肢を無理やり作り出す。この三つが挙げられるだろう。無精卵の原因は、この３に属するのではないだろうか。</p><p>サラリーマンにならなければならない。しかも、やりたくもない仕事内容のサラリーマンであり、給料も低い。そうした現実が目の前にあったとき、専門職と呼ばれるような芸術や学問の道に逃げる若者は多いのではないだろうか。</p><p>まあ、そこで才能があって、無精卵などではない、立派な孔雀になるのなら問題は無い。けれども、僕が見ていて思うのは、無精卵でかえることの無い卵たちが、腐るのを待っている現状である。</p><p>懐かしい漫画を取り上げたい。「てんてん君」を知っているだろうか。この漫画は、てんで才能の無い主人公に、才能の種を天使（てんてん君）が植え、さまざまな才能のどれが花開くだろうか、と試行錯誤する。</p><p>これはバブル期の、才能があれば何だって出来るという楽観の中で生まれた漫画であるために、現代とは状況が違うが、僕が見習うべきと思う教訓は、てんてん君を持て、ということなのである。</p><p>努力すれば報われるという時代はもう過ぎてしまった。そうした時代が過ぎたからこそ、若者は無精卵になるのだろうが、それは矛盾を含んでいる。</p><p>僕達は自分の才能がその領域において開花しうるのだろうか、という自問を続けていかなくてはならない。才能が無い状態で続けていくことははっきり言って非合理的だ。人生として無駄ではないが、どれだけのメリットがあるかというと、返答に窮する。</p><p>才能が有るというのは、血があるか、というに尽きると僕は考えている。血というのは、その個人独自のものであり、ある種畏怖を誘うものであり、目に見える努力の結晶である。握り締めた拳や、かみ締めた唇から血が流れれば、端から見ている者にも、その悔しさや決意は計り知れるというものである。</p><p>僕は小説を書いてきた。そこでは無精卵が溢れていた。無理やり作った小説と言う道で、安寧しているものは非常に多かった。テーマ、内容、文章、エンターテイメント性、どれか一つでも輝いていれば十分読むに値する。けれども、何一つとして突き詰める、突き詰めようとしているものが見えない、小説がとても多かった。これは才能がそこにないことを物語る。</p><p>「お前才能ないよ」こう言われると腹がたつだろう。けれども、才能が無いことを知らせてくれる人間は大事にしたほうがいい。時間の浪費を救ってくれる。当然、その発言に心が有るのか、単に足を引っ張ろうとしているのではないか、その懐疑は必要であるが、自分に才能が有るのか、確認して回るのも悪くは無い。数、は中々に客観的な指標を与えてくれる。</p><p>僕が知りうる限り、自分の能力以上を欲求することを是とした思想家、社会学者はいない。それは社会秩序を壊し、人の精神を壊し、嫉妬や憎しみの感情の温床となり、抜け出せない沼になるからだ。</p><p>熱いぜベイベという価値観は、非常に大事である。けれども、この１０年間を、ベクトルの異なる方向に注いだところで意味は無い。きちんと自分の向いているベクトルはどの方向、領域なのか、見極めてから望んだらいいと思う。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kintamadaimaou/entry-11629888629.html</link>
<pubDate>Mon, 07 Oct 2013 01:36:15 +0900</pubDate>
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<title>「Ｇ線上」はアリや。ゆご</title>
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<![CDATA[ <p>ここ最近、いかんなーと思いつつアニメばかり観て時間を潰してしまっていたが、いいこともあった。</p><p>昔から演奏している「Ｍｙ　Ｗｏｒｌｄ」という曲のギターアレンジに、ずっと不満を抱えていながら、いいものが思いつかずにいたのだが、ふたたびあれこれ試しているうちにピンと来た。エヴァで使われていたために頭にほんのり残っていた「Ｇ線上のアリア」のコード進行が、ぴったり来そうだと気付いたのである。まぁポップスでもよくつかわれてるであろうコード進行なのだが、ぼくもクラシックの先人に力を借りることにしたら、やはりいい感じにはまってなんだかうまくいきそうだ。</p><br><p>何をするにせよどこから前進の足がかりがつかめるかはわからないものだ。アイデアを必要とする創作活動においては特にそうだ。もちろん絶対的にやらなければならないことをさぼったらイカンが、いっけん関係ないように見えることも、けっして無駄ではない。と思う。すべてにおいて、熱く生きよう。べいべ。</p><br><p>それにしても、よく耳にするようなクラシックの名曲を改めてちゃんと聴いてみると、大体、まいりましたというしかない素晴らしさだなーと感心させられてしまう。世の中こんなに素晴らしい音楽がすでにたくさんあるんだから、別にもう新しいのとかいらんやん、とか思ってしまう笑</p><p>まあそういうのに肩を並べるようないい曲をつくってみたいという憧れでやってるんだが。</p><p>それと、そういう一時代を築いた素晴らしい文化の中で影に隠れてしまう「別のよさ」みたいなものを解放する、っていう働きが、芸術の歴史を動かしてきたのだろうし。</p><br><p>自分の音楽が何かを解放できるのかどうかはつゆしれず、私欲のために、私はゆこう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kintamadaimaou/entry-11623947205.html</link>
<pubDate>Sun, 29 Sep 2013 07:20:27 +0900</pubDate>
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<title>個人主義に対しての誤謬と、その誤謬性に潜む、個人主義への渇望</title>
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<![CDATA[ <p>現在東大院試に向けて勉強をしている。今日はウェーバーだ。コントが礎を築き、ウェーバーとジンメルとデュルケムが発展させた社会学。その巨匠の一人だ。</p><p>彼が考える社会像は、ゲゼルシャフトの希薄性を問題視しながらも、同時に伝統的な呪詛から、人々を解放する使命を持っていた。</p><br><p>個人主義とはいつの時代も存在してきた。その歴史は古い。何故個人主義を取らなくてはならないか、というと、人間本来が持っているべき尊厳や自我を、集団性によって抑圧されてしまう状況から救うためである。</p><br><p>そもそもそんなものが人間が生まれついた瞬間に存在しているのかは分からない。それは一種の人生観ではある。けれども、成熟した社会に生きている以上は、誰しもが強制を嫌うのではないか。つまり、経験的に証明できる類のことだ。</p><br><p>注釈は置いておいて、個人主義を語るとき、自己中心だというように批判する者が現れてくる。それは全く学が無い発言なのだが、私としてはその発言をさせた本人の精神に注目する。</p><br><p>私たちは様々な噂や都市伝説のようなものにすぐに惑わされる。何かの集団に属すると、その集団の暗黙の了解にしたがっていく。それを無視すると自己中心だとか、空気が読めないと言われる。</p><br><p>個人主義はそうした合理的ではない精神判断を批判する。まあ、ウェーバーはそれを成しうる理念をどのように社会は確保していくのか、ということを思考しているので、このような次元にはそもそもいないのであるが、しかし現代において、個人主義を自己中心ととる人間、つまり、客観的で合理的な、他者に理解可能な判断の体系をもっていないために、そういう判断をしたものを、伝統の呪詛で呪い殺してしまおうとしている人たちの精神には、果たして何が起こっているのか。</p><br><p>私はそれを単に羨望だ、として片付けようとしている。そういう判断をし、自分も苦しんでいる状態から一歩先んじて抜け出してしまった人間を恨めしそうに呪うのだ。これが、自己中心だと否定しようとしている人たちの原点だ。</p><br><p>自分に自信があるか、ないか。これは物事を見るときに判断の根拠に大きな影を落としやすい。例えば恋愛に自信がないものが、幸せそうなカップルをみて、漠然と嫌な感じになるのもそうだ。自分がより高度な世界に行くよりも、他人を蹴落として相対的に自分の精神を安定させる、という手法だ。非常に精神が幼い段階で行われる行為である。</p><br><p>個人主義もそうである。自分に合理性の魔法をかける技術が無い、勇気が無い、そうしたものは、個人主義を自己中心的で、排他的な考え方だとする。しかし、個人主義はそうではなく、寧ろ、そうした呪いをかけざるを得ない人たちを救うための思考方法なのである。</p><br><p>自分を押し込めているものに合理性が有るのか。それを考えたときに、個人主義者を納得させるものがなければ、それは単なる甘えである。批判すべきは常に自分なのだ。</p><br><p>私について考えると、熱いぜべいべに入る前は、論理で武装をし、内省を怠っていた。自分を批判する者が現れると、何とかそれをかわそうと試みていた。確かにそれは自己中心的で臆病な保身である。個人主義とは全く異なっている。より前進していく価値観が個人主義だ。私はがんばる。個を磨き上げて、個人主義をしたり顔で語れるような男になる（途中でめんどくさくなってきたため、ここで終了）。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/kintamadaimaou/entry-11623026092.html</link>
<pubDate>Fri, 27 Sep 2013 21:20:41 +0900</pubDate>
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<title>熱くエヴァにはまる男、ゆご</title>
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<![CDATA[ <p>この前の記事で書いたのに引き続き、最近はエヴァに再びはまっている。</p><p>テレビシリーズと旧劇場版と新劇場版の三作目までを、ＤＶＤを借りてきて一気に観てしまった。</p><p>この前の「プロフェッショナル」の、「風立ちぬ」制作現場を取材した宮崎駿特集に、声優として参加したエヴァの監督の庵野さんも出ていたんだが、｢血を流しながら映画をつくっている」だっけか、そんな感じで駿さんが評価している監督と紹介されていた。　駿さんと庵野さんは一緒に仕事もしていたらしいから、庵野さんを知る駿さんがそういうからには、庵野さんが自分の痛い部分をえぐり曝け出すような風にして映画を作っているという意味もあるんだろうと勝手に思いながらエヴァを観ていた。</p><p>そうしてみると、アニメとしての刺激や魅力も相まって、背筋が伸びる思いがする。</p><p>シンジくんがもっている他者に対する恐怖や希望、ことに男性からみて、女性というものが、優しく温かいときは心地よい安らぎを与えてくれ、逆に冷たいときは氷のように冷たく、どちらにせよこちらからしてみれば対岸にいる彼女らをおそるおそる見つめたりつついたりしてみるしかないという恐怖と希望、そういう感覚が庵野さんの中に強くあるのだろうか、などと勝手に思ったが、これは僕自身の感覚でもあるだろうし多くの男性共通のものかもしれない。まあ、性別関係なく男も女も「他人」すべてに対して感じうることかもしれないが。</p><p>（そういう怖さと期待みたいなものをエヴァを観る男たちはアスカに対して持ってるんじゃないでしょうかｗ</p><p>まあでもアスカは最終的にはいつも優しさや愛情？の片鱗を見せてくれる気がして、観てるこっちとしては女の子ってやっぱいいなとか思っちゃうわけですｗ）</p><br><p>たぶんエヴァのテーマのひとつである「他者」の恐怖、そして温かさ、それとの距離、裏を行けば「自分」というものの存在についてのあれこれに、もっと敏感だったであろうシンジくんと同じ１４歳ごろに、このアニメを見ておきたかったなと思うが、あの頃の僕は今以上に他人に興味がなく、自分の中で自分が完結していたような気もする。だからこそ観るべきだったかもしれない。いまはというとよくわからない。自他共に認める自分大好きの僕でも、「他人に興味がない」といわれると結構ショックだが、結局、正しい「他人に興味を持」ち方なんてものはよくわからないのである。</p><p>なんとなくブログ書こうという思いだけで、なんとなくつらつら書いてしまったが、とりあえず、はやく最終章がみたい。もう一度ミサトさんの笑顔が見られることを切に願う。もちろんシンジくんにも。</p><br><p>こういうアニメを、もっと広く言えば魅力的な物語をみたり読んだりしていると、その世界に魅せられて「こんな音楽が作りたい」と思ったりもするが、数々の人間ドラマや映像によって（音楽もね）織りなされる世界を音楽だけで表わすのは当然無理がある。同じものは作れない。それと同等の壮大さをもつ一時間くらいの大作なんかも何か違うし、作れる気しないし、そういうとき今の僕にできることはと思うと、その物語のどこかに「関わることができそうな」曲を作ることくらいである。そのうち「ぽかぽかしたい～君と～♪Rei, you are my love（セリフ）」とか歌いだすかもしれない。そうしたら、止めていただきたい。</p><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/kintamadaimaou/entry-11622716229.html</link>
<pubDate>Fri, 27 Sep 2013 10:18:36 +0900</pubDate>
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<title>音源できた、その後　ゆご</title>
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<![CDATA[ <p>このブログをはじめてすぐ、「Ｆａｌｌｉｎ’」という曲の音源作りをはじめた。</p><p>いつも弾き語りで演奏している曲だ。　以前からずっとやらねばと思ってやっていない路上ライブをいいかげんやろうと思うが、どうせならそこで演奏するであろう曲の音源がなければと思い、ここ４，５日でなんとか完成させた（しゅー君からは音源の改善点を指摘されたのでまた少しいじるかもしれないが、だいたいのところは完成した）。　ということで臆病でめんどくさがりな気性からいままで腰があがらなかった路上ライブに行かない言い訳ができなくなってしまったので、今度こそ数日のうちに路上デビューを果たしたいと思う。　</p><p>しかし、音源を制作するときはいつもだが、完成してからの１，２日は予定がない限りほとんど無気力にすごしてしまう。制作中は暇な時間を大体全部それに費やし、曲の完成という近い目標のために嫌なことは忘れて迷いなく生きられるが、それが終わるとそうもいかなくなる。都合良く好きな時に創作モードにまた入れるわけでもなし。この期に及んで就カツなどの嫌なことを先延ばしにしている自分を直視せざるをえない。かといって嫌なことにはなかなか立ち向かえないのが僕である。</p><p>今回もそうで、昨日もなんとなく音楽を聴いたりエヴァンゲリオンを再び観出したりしてだらだらと過ごした。熱いぜベイべ状態を毎日継続するということは今の僕にはまことに困難だ。とにかく自分を無理やりにでも次の課題の中に放り込むということができるようになる必要があるだろう。内的な流れにせよ外的な流れにせよ。そういうことがすんなりできる人がうらやましくもあり、そういうことができない自分がふがいなくも実はすこしかわいかったりもする、23歳の夏の終わりである。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/kintamadaimaou/entry-11621189491.html</link>
<pubDate>Wed, 25 Sep 2013 07:32:28 +0900</pubDate>
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<title>加藤君の文章が結構良かったので＠しゅ</title>
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<![CDATA[ <p>ゆとり世代と言われると腹が立つ。ひとくくりで語るなと思う。</p><p>今年食った人間が、近頃の若いやつは、という件、耳にたこが出来るほど聞き飽きた。</p><p>どれだけお前たちが病み、苦しみ生きてきたのか。現代に生きる人間の苦労を知っているのか、と憤慨した。</p><br><p>けれども、その反応は自分が温いことを自覚してのことだった。それを責められるのが怖かった。</p><br><p>青春は無知と放縦の中で過ぎ、終わっていくものだ。気づけば社会人と呼ばれ、人々は枠組みに身体を押し込めていく。適応が成長と語られ、幼少に夢見た類は脆くも潰えていく。</p><br><p>人間の意思というものがあるならば、それを発揮せずしてその大きな力にどう抗うだろうか。</p><p>環境に順応していかず、人柱として激流の中立ち上がることはどのように成しえるだろうか。</p><br><p>熱く生きるというのは、そういうことだ。腱鞘炎や膀胱炎や、結核に陥るほどの熱中だ。</p><p>ゆとりは確かに、そうしたところへ向かう気力が乏しいかもしれない。けれども、昔よりも遥かにそれを希求しているのだ。</p><br><p>言うは易し、行うは難し。</p><br><p>見届けていただきたい。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kintamadaimaou/entry-11618281458.html</link>
<pubDate>Sat, 21 Sep 2013 09:05:18 +0900</pubDate>
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<title>熱いぜベイベ　＠しゅー</title>
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<![CDATA[ <p>熱いぜベイベ！</p><p>宮崎駿は言った。命を灯す１０年間と。</p><p>そして僕たちはそこに意志的に踏み入った。その名も熱いぜベイベ期。</p><br><p>ここで僕たちの熱さを律し、分け与えたいと願う。</p><p>感化されて熱くなってくれたら嬉しい。そして怠けたら、叱咤してくれると嬉しい。</p><br><p>僕はアベノミクスで景気が上向いたこの時期に、内定を蹴り、大学院へ行こうなどと思い立った。</p><p>あと三ヶ月しかないが、逆に三ヶ月しかないから乗り切れそうな気もする。</p><br><p>当方共に２３歳の大学四年生。メンバーは僕しゅーと加藤氏。</p><p>僕は小説家を目指し、彼はミュージシャンを目指している。</p><br><p>熱いぜ。俺たち、バーニングだぜ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kintamadaimaou/entry-11618252570.html</link>
<pubDate>Sat, 21 Sep 2013 07:59:16 +0900</pubDate>
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<title>男たちの熱い10年が今始まる</title>
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<![CDATA[ <p>人の一生には、そのうちで10年間だけ、猛烈に己の情熱を燃やして何かにうちこむ、そんな「熱いぜベイべ（忌野清志郎のＭＣ風に）期」というものがあったりなかったりするという。</p><p>　</p><p>ふと立ち止まり、私は思う。いままでそれなりにいろいろ頑張って生きてきたつもりではあるが、はたしてそれは壮絶、猛烈といえるほどのものであっただろうか？</p><p>大きな夢や野心を口にしながらも、結局は親の庇護という心地よいぬるま湯につかりながら、反逆児の顔をして、従順に用意されたレールの上を歩いてきた。その中で、そこから抜け出す努力を惜しまなかったと言えるだろうか？</p><p>目標の実現のために越えるべき己自身という壁のまえにひざまずき、自分の可能性を否定する言葉を投げかけ続ける父のすねをそれでも離れられず、かといってあきらめもつかず、将来への不安と自分への嫌悪をかかえながらダラダラと過ごしてきたこの学生時代、それももうけじめのときが近づき、私は人生のひとつの岐路を迎えている。</p><br><p>自分の夢の実現、それに何の価値があるのか？</p><p>それすらもはやよくわからない。</p><p>このまま就職し、なんとかかんとか恋人をみつけ、結婚し家族をつくり、仲良く暮らせたらそれだけできっと幸せだろう。そんな自分を馬鹿にする人もほぼいないだろう。私だってそういう人生を馬鹿にする気持ちはないし、「そういう人生」とひとくくりにできるものでもない。</p><p>されど、もし「熱いぜベイべ期」というものが自分にもあるならば、私はそれを生きてみたい。そういう気持ちがフツフツと湧き上がっている。もう一度、生まれ変わったつもりで、明日へのコードをかき鳴らしてみたい。人生に、他人に、社会に、昔ほど夢をみなくなった。期待しなくなった。私が社会の中で何者かになれるかはわからない。だが己のことは己で決められる。己が熱く燃えたぎっているか、灰色にくすぶっているか、それは自分でもわかる。わたしは熱く燃えていたい。そして、私が「熱いぜベイべ」なガイでいられるとすれば、それは、ギターを手にしているときだ。</p><br><p>ってことで「熱いぜベイべ期」に入りたいと思います。はい。</p><p>つまりは僕はプロのシンガーソングライターを目指して猛烈にがんばります。結局おやじに逆らえず、ひとりでフリーターやってく自身もなく就職するきになったんですが、就活しても就職してもその先どうなってもがんばっていきたいと思いまんこ。就かつも熱くいきたいもんです。</p><p>猛烈な10年、というのは宮崎駿さんが、クリエイターが己の全精力をかけられる創作期間は10年、みたいな感じで言ったことらしいです。「風立ちぬ」でもありましたねそんなの。ってことでこのブログも10年もつといいですね。って10年もたってこんなことやってたらイヤかｗ</p><p>まあ、それはそうとしてもう一人、熱いぜベイべ期に入った男がいます。</p><p>いちおこのブログは、僕と彼がモチベーションを息抜きしつつ高めあうため、の「熱すぎる交換日記」的な感じで進めていきたいとおもいます。</p><p>では一回目はこんな感じにして、彼の熱すぎる報告を楽しみにするとしましょう。（愛知のユゴー）</p><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/kintamadaimaou/entry-11618160782.html</link>
<pubDate>Sat, 21 Sep 2013 01:11:30 +0900</pubDate>
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