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<title>おもしろらいふ</title>
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<description>おもしろいとおもったことをかいていきます。</description>
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<title>名前とは？</title>
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<![CDATA[ <div>名前とは物や人に付けられた言葉。</div><div>名前は言葉です。言葉とは人間の脳で分かるまで次元を低くしたもの。つまり、言葉は人が分かることができるものです。</div><div>分かるの語源は分けるです。人はものごとを分けて、区別していろいろなものを理解してきました。生物を動物と人間に分け、人間を男と女に分け、・・・を繰り返してきました。そうしてすべてを理解しようとしたのです。</div><div>人の名前もそうです。本当は皆同じ人間ですが、1人ひとり名前を区別することで、言い換えれば、1人ひとりラベルを貼ることで、区別して理解しようとしています。言葉はそのために作られました。</div><div>言葉は便利ですが、万能ではありません。言葉でどんどん分けていくにつれて本質からは遠ざかっていきます。</div><div>例えば、欲や感情です。欲には、物欲、性欲、金銭欲などあります。感情にも、喜び、悲しみ、怒りなどがあります。</div><div>物欲も性欲も金銭欲も同じ欲なので、本当は分けて考えることはできません。物欲は欲しくて性欲はいらない、などはできません。</div><div>喜びも悲しみも怒りも同じ感情で、喜びたいけど怒りたくない、などはできないのです。</div><div>欲も感情も感じたいならすべてを感じる、感じないならすべてを感じない、ことしかできません。欲や感情はコントロールできないです。コントロールできるのは欲や感情を感じた後の言動です。</div><div><br></div><div>名前にとらわれない。また、欲も感情も名前です。この世の中にある言葉ですべてを表せるもの、それは「エネルギー」だそうです。よってエネルギーが世界の本質です。</div><div><br></div><div>名前は言葉です。人間が脳で理解できるように区別した単なる言葉です。なので本質ではありません。もし名前にとらわれないようになれれば、この世界の本質が見えてくるかもしれません。</div><div><br></div>
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<pubDate>Tue, 14 Mar 2017 01:13:07 +0900</pubDate>
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<title>排泄映画論</title>
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<![CDATA[ <div>今日、『湯を沸かすほどの熱い愛』という映画を観にいきました。とても感動する映画でして、そこで「排泄映画論」という言葉を思い出したのでそのことについて。</div><div>初めて「排泄映画論」という言葉を聞いたのは、東京ポッド許可局というラジオ番組で、マキタスポーツさんが提言していたのを聴いたときです。</div><div>排泄映画とは、いわば、溜まっているものを出してスッキリさせてくれる映画のことです。泣いて、溜まっている涙を流して、ストレスフリーになれる映画ってことです。</div><div>マキタスポーツさんは</div><div>「ナキにいく=ヌキにいく」</div><div>と、風俗に行くこととかけて説明していました。笑</div><div><br></div><div>今は減ってきていますが、少し前まで、映画のキャッチコピーといえば、</div><div>「全米が泣いた！」「今年1番の感動作」</div><div>など、泣けることが最大の売りみたいな風潮があった感じですよね。それで観にいく方も、日々の仕事や人間関係のストレスをはき出すことを目的として、泣きに映画を観にいく人も多かったと思います。今もそうでしょうが。</div><div><br></div><div>そして、感動する・泣ける映画の特徴としてあるのは、序盤に「くすっと笑える場面がある」ことです。</div><div>これはなぜかというと、「笑う」という感情の延長線上に「泣く」という感情があるからです。これは自律神経と感情に深く関わってきます。</div><div>もう少し詳しく説明すると、自律神経には交感神経(ストレスを感じる神経)と副交感神経(リラックスするための神経)があります。</div><div>笑う、泣くという感情は副交感神経が司っています。逆に、不安や怒りという感情は交感神経が司っています。</div><div>交感神経と副交感神経はバランスを取り合っているので、感動する映画を観ているときはこの交感神経と副交感神経のふりこが色々な幅でものすごく揺れている状態になっています。</div><div>「泣く」とは極度にリラックスしている状態、つまり、ふりこが副交感神経の方に振り切れている状態です。その状態にするためには、逆方向にふりこを振らなければなりません。つまり、極度にストレスがかかっている状態(ふりこが交感神経の方に振り切れている)状態を先につくらないといけません。</div><div>そこで「笑う」が必要となってきます。先ほども書きましたが、「笑う」の延長線上に「泣く」があります。「笑う」はふりこでいうと少し副交感神経の方に揺れている状態です。この原理でいうと、「笑う」に関しても少しのストレスがいります。いわゆる、緊張と緩和っやつです。</div><div><br></div><div>まとめると、感動する映画のメカニズムは、感情をふりこでイメージするとわかりやすいと思います。</div><div>序盤で「笑う」ことでふりこを少し振らして、極度にストレスをかけてふりこをめいっぱい振らして「泣く」に持っていく。</div><div>こんな感じですかね。</div><div>これはとても極端に書きました。本当はこんなに単純ではないと思いますが。</div><div>おもしろいなと思ったので書いてみました。</div><div><br></div><div>それではまた。</div><div><br></div><div><br></div>
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<pubDate>Sat, 11 Mar 2017 17:08:58 +0900</pubDate>
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<title>小泉今日子の顔小さい論</title>
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<![CDATA[ <div class="chapter" style="margin-top: 48px;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">内田樹先生のコラム紹介。</span></div><div class="chapter" style="margin-top: 48px;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">キリンの首</span></div><p><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">小泉今日子は頭が小さい。<br>身長は高くないけれど、頭が小さいせいで、全体のプロポーションがよい。<br>「小泉今日子」型体型は現代の若い女性の最も好むところである。<br>しかし、このような身体特徴が好まれ始めたのは明らかに最近のことである。<br>私の高校のクラブの同輩に橋本君という（のちに判事になった）秀才がいた。彼の悩みは「頭が小さい」ことであった。同じ学年には新井啓右君、塩谷安男君というこれまた伝説的な秀才たちがいたが、彼ら二人はいずれもイースター島のモアイ像のように巨大な頭部の持ち主であった。<br>わが橋本君は、その二人が巨大な頭部の重みに耐えかねて、ふらつく足どりで校庭を横切るさまを羨ましそうに眺めていた。<br>「いいなあ、あの人たち、頭が大きくて。ぼくなんか、いくら勉強しても、結局、脳の絶対的な大きさで負けてるから、彼らには追いつけないんだ・・・・」と彼は長嘆したものであった。<br>世の中には変わった悩みもあるものだと妙に感心したので、いまだに記憶に残っている。<br>今から見れば、橋本君はたいへんプロポーションがよかったわけである。しかし、３０年前には「頭が小さい」ということをプラス価値とするという審美的な基準は存在しなかったのである。<br>四半世紀で身体比率についての美的基準が変化したこと自体は驚くには当たらない。美的な基準なんかどんどん変わるものである。驚くべきことは、「美しいもの」についての社会的・文化的な基準の変化に伴って、実際に「頭の小さい」子供たちが続々と生まれ出てきているという事実の方である。日本人の体型は美的基準の変化に対応しつつ劇的に変化してきているのである。<br></span></p><p><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">毎年、児童・生徒の体型の推移が発表され、そのつど、日本の子供たちは身長が伸び、脚が長くなり、全体に西欧的体型に近づいていると知らされる。そして栄養学者や体育学者が、この体型の変化を食生活や洋風ライフスタイルや運動不足などにからめて説明してくれる。<br>しかし、本当にそのような外的な条件だけで、体型の変化は説明できるのであろうか？<br>ハンバーガーを食べて、ソファーにすわって、ファミコンばかりしている子供の脚が退化するというなら、分からないでもない。運動不足で腹が出てきて、ＴＶ画面の見すぎで眼が飛び出てくるというなら、分からないでもない。<br>しかしそんな生活で、なぜ「頭が小さく」なるのであろうか？頭と身体の比率がなぜ変わるのであろう？<br>誰もそれを説明してくれない。そこで私は以下に暴論的仮説を述べることにする。私はこの変化は外面的・物理的な条件づけによるのではなく、内面的・心理的な条件づけによるものだと考えている。<br>「頭が小さいのがかっこいい」という社会的感受性が支配的であれば、当然にも、親たちも幼い子供自身も、ことあるごとに「頭をできるだけ小さく見せよう」という努力をする。この努力によって頭のサイズがじりじりと縮まってくる、と私は考えるのである。<br>木の上の葉を食べるようとしてキリンの首は伸びたとはラマルクの「要・不要説」の教えるところである。キリンの個体が努力して短い首を必死に伸ばしたら、その子供は親が伸ばした分だけ、生まれつき首が長くなるのである。<br>突然変異と自然淘汰で進化を説明するネオ・ダーウィニスム以降、進化論はラマルク説を一笑に付して顧みなかった。しかし、私は個人的にはラマルクが正しいと思えてならない。<br>むろん「獲得形質は遺伝しない」と当今の教科書には書いてある。ある生物学者が実験的にラマルク説を反証したのである。彼はネズミの尻尾を切り落として、その子供が生まれつき尻尾のないネズミになるかどうかを１４０代にわたって実験した。（よくこんなばかな実験を思いつくものである。）そして、いくら親の尻尾を切っても、子供の尻尾はなくならないことを確認して、獲得形質は遺伝しないと断じたのである。<br>しかし、親の尻尾を切ったところで子供が尻尾なしで生まれてくるはずはないことは素人にも分かる。だって「尻尾がない」という条件はネズミの生存にとって、なんのメリットもないからである。<br>生存にとってメリットのない獲得形質が遺伝するわけがないではないか。<br></span></p><p><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">キリンの長い首と同じく、少女の頭が小さいことは、それぞれの個体の生存にとって有利である。<br>小泉今日子型少女は、おいしいものを食べたり、毛皮のコートを手にいれたり、快適な住環境を保証される確率が「モアイ」型少女より高いと推測される。審美的にハイレベルな個体は、当然、配偶者を見いだす機会にも恵まれるから、「頭の小さい」遺伝子は高い確率でその複製を得ることになる。<br>美についての社会的感受性の変化は、あきらかにきわめて高い淘汰圧としてはたらいているはずである。うっかりでかい頭に生まれついたら子孫が残せないのだから、こっちも必死である。DNAの配列くらい「根性」で組み替えてしまっても不思議はない。<br></span></p><p><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">金持ちの子供はなぜ金持ちになるのかということも、知性や徳性がなぜ遺伝しないのかということも、全部ラマルク説で説明がつく。<br>金を稼ぐ能力は個体の生存に有益であるが、知性や人徳はたいていその人の命を縮める方向にしか働かないからである。</span></p>
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<pubDate>Fri, 10 Mar 2017 01:37:40 +0900</pubDate>
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<title>洗脳</title>
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<![CDATA[ <div>人は重い軽いはありますが、洗脳されながら生活しています。</div><div>それはなぜかというと、この世界は支配管理する側と支配管理される側の大きく２つに分かれます。支配管理する側は支配管理される側を扱いやすくするため洗脳するのです。そして洗脳とは味方だとおもっている人物にされるのです。本当の敵は敵の顔をしていません。</div><div>洗脳している対象は、国という大きいものだったり、団体だったり、親などの個人だったり、大小様々なものです。</div><div>洗脳報道でいうと、少し昔ですが、オセロ中嶋のニュースがとても有名だとおもいます。このニュースを見て「洗脳こわいな」と思った人はたくさんいるでしょう。また、自分は洗脳されていないから安心だとおもっている人も多いでしょう。</div><div>しかし、人はだれしも洗脳されながら生きているのです。</div><div>これを証明するために、実際自分たちに起こっている洗脳を紹介します。</div><div>例として、学校教育を挙げます。</div><div>日本の学校教育はわかりやすいところでいうと、</div><div>「お金は卑しい」</div><div>「先に生まれた人は偉い」</div><div>という洗脳です。そうすることによって、とても支配管理しやすい、いわゆる「良い人」をつくろうとしているのです。詳しくみてみましょう。</div><div>まず、「お金は卑しい」について。</div><div>お金とお金持ちに対して、否定的な情報を徹底的に刷り込む洗脳は、もう４００年以上前から行われています。4００年前の江戸時代から、です。</div><div>お金はエネルギーです。人の感情を動かす力を持っています。すなわち、人を動かす力を</div><div>持っています。仮に、自分が庶民を支配・管理する徳川将軍家側の人間だと考えてみてください。</div><div>支配・管理する側の人間にとって、支配・管理される側の庶民がエネルギーをたくさん</div><div>持っていると、とても支配・管理しにくくなります。だから、もし自分が徳川将軍家側の人間であれば、大名や武士や農民にはできるだけ力を持って欲しくないと考えます。つまり、大名や武士や農民にはできるだけお金を持って欲しくありません。</div><div>なので、徳川将軍家は身分を格付けしたわけです。いわゆる「士農工商」です。</div><div>１番偉いのは武士、２番目は農民、３番目は職人、最も低い身分は商人。</div><div>なぜなら、商人はお金を扱う仕事をしているから。そうやって、「お金＝卑しい」「お金儲け＝悪いこと」という情報を、庶民たちに徹底的に刷り込んだわけです。</div><div>明らかな洗脳です。</div><div>これが、明治維新によって支配管理する側が、明治新政府に変わりました。今度は洗脳を教育によって行いました。１８７２年に学制を制定して、日本全国に小学校教育を</div><div>行い始めたのです。</div><div>この明治政府が作った小学校教育の仕組みの手本になっているのは、軍隊と刑務所です。</div><div>最も効率良く相手を管理するために作られた仕組みです。これはいまも同じで、校長先生の話を聞くときの「前ならえ！やすめ！」だとか、テストで見回りをする机間巡視だとか、軍隊と刑務所でやっていることと同じことをしています。</div><div>そして、歴史教育においても「お金は卑しい」の洗脳を徹底しています。</div><div>政府は、「こういう人こそが偉人だ」という、ある特定の価値観によって偉人を選択し、その偉人たちを歴史の教科書に載せて教えます。</div><div>坂本龍馬は偉人です。西郷隆盛は偉人です。大久保利通は偉人です。</div><div>なぜなら、彼らは徳川将軍家を倒す立役者だったから、です。そして明治新政府を作る貢献者だったから、です。</div><div>彼らは決してお金持ちではありませんでした。むしろ、貧乏な方でした。</div><div>大久保利通に至っては、暗殺されたとき明治時代の当時にして１億円の借金を持っていました。残された家族は、その後、どのような生活を強いられたのでしょう…</div><div>坂本龍馬や西郷隆盛や大久保利通のように、「自分のことなど一切顧みずに、国のために尽くす滅私奉公の生き方こそ、日本人が目指す偉人の姿だ。それが、日本人にとって理想の姿だ」と、教育を通じて徹底的に洗脳したのです。</div><div>一方、滅私奉公「以外」の手段で、日本の発展に大きく貢献した偉人たちというのは、教科書にほとんど出てきません。</div><div>日本銀行の設立を含め４００社以上の企業すべてを成功に導いたことで、日本資本主義の父とまで言われた、渋沢栄一は小学校の教科書にも中学校の教科書にも出てきません。</div><div>三菱の創業者であり、財政破綻状態の明治政府に代わって、首都：東京を豊かな街にすることに貢献した、岩崎弥太郎は小学校の教科書にも中学校の教科書にも出てきません。</div><div>明治時代に財政破綻状態であった大阪の経済を復興させるべく、大阪商工会議所を立上げ、大阪の経済を見事に立て直し、「大阪の恩人」とまで言われた五代友厚は、小学校の教科書にも中学校の教科書にも出てきません。</div><div>徹底しているわけです。滅私奉公こそが日本人にとっての偉人であり、お金を使って社会に貢献した人は偉人ではないという、その姿勢が。</div><div><br></div><div>次に、「先に生まれた人は偉い」について。</div><div>小学校をつくるとき政府は、ある特定の思想を人のあるべき姿としました。</div><div>思想として選ばれたのは、道徳。中国の孔子の流れの思想です。これは、江戸時代に選ばれた思想が朱子学という、孔子の流れの思想だったので、江戸時代と本質的には全く同じです。</div><div>中国の孔子の思想は、誰かを支配・管理するのにとても都合の良い思想です。</div><div>「上下天分の理」と言って、要するに、「人には生まれながらの分というものがあるのだから、分をわきまえろ」ということです。</div><div>だから、道徳においては、先に生まれた人は先生で偉いのです。</div><div>後に生まれた人は先生を敬わなければ「ならない」のです。義務として。</div><div>日本人にとっては極めて常識。しかし、それは世界の非常識でもあります。</div><div>なぜなら、世界の常識は「みんな平等」だからです。</div><div>「なぜ先に生まれた人は後から生まれた人よりも偉いのでしょうか？」</div><div>それは「いつ生まれたかによって、人を差別していないでしょうか？差別を肯定していませんか？」つまり、</div><div>先に生まれた先生を敬わ「なければならない」という考え方には、何の論理的な根拠もありません。学校で一方的にそう教えられただけです。</div><div>世界４大宗教と呼ばれる、キリスト教・イスラム教・仏教、ヒンドゥー教のいずれでも、先に生まれた人の方が後に生まれた人よりも偉いなどということは教えません。</div><div>また、西洋の哲学でも、孔子以外の東洋哲学でも、そのようなことは教えません。</div><div>孔子の思想は、極めて特殊なのです。にもかかわらず、その特殊な思想こそが日本人にとっての「これが人として正しいあり方」だと選択され、教育されたのです。</div><div><br></div><div><br></div><div>ここまで、日本の学校教育で行われている洗脳について書いてきました。こういう特殊な教育が行われているのが日本です。しかし、</div><div>1番言いたいことは、この洗脳が良い悪いではなく、今この時代に合っていないということです。</div><div>実際、この教育方法で「良い従業員」を量産して、日本が世界一の経済国家になったことは事実です。でも、過去の栄光にすがって、仕組みを変えることができていないことも事実です。</div><div><br></div><div>まずは、そのことに気づくこと。</div><div>「洗脳？なにそれ？笑。へんな宗教に入らないでよ笑」</div><div>こう言っている無知な人が1番危険です。</div><div>洗脳されることはしょうがないですが、洗脳をされていることを知っているか知らないのか、そこが重要だとおもいます。</div><div>いまは個人として自分が自分を支配管理していく時代です。</div><div>いまの時代に合っている思想を自分で自分に洗脳し直すことをおすすめします。</div><div><br></div><div><br></div>
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<pubDate>Tue, 07 Mar 2017 16:13:33 +0900</pubDate>
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<title>森友学園問題</title>
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<![CDATA[ <p style="margin: 0px 0px 1.6em;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">内田樹先生のコラムより</span></p><p style="margin: 0px 0px 1.6em;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">ル・モンドの記事から（森友学園問題）<br>２月２７日のLe Monde が森友学園と安倍総理の関係について報じた。<br>どのような形容詞が用いられているか、注意して読んで欲しい。</span></p><p style="margin: 0px 0px 1.6em;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">ナショナリスト的逸脱(dérive nationaliste)と不都合な便宜供与がいりまじった一つの事件が日本の総理大臣安倍晋三の足元を脅かしている。話題になっているのは４月１日開校予定の大阪の私立「瑞穂の国記念」小学校である。<br>２月２７日、当局はこの施設の建設工事についての調査を行った。この施設は学校法人森友学園が開学する「日本で最初で唯一の神道小学校」である。神道は日本起源の宗教である。<br>森友学園は２０１６年６月に国土省から一区画の土地を１億３４００万円で購入したが、これは現地の地価の七分の１である。国土相はこの土地が９億５６００万円と価格査定されていたことを認めている。この値引きが行われたのは、廃棄物の除去と、微量のヒ素や鉛を含む土壌の除染が必要だったからである。しかし、野党によると、取り出されたのは廃棄物のごく一部であった。残りは現場に埋め戻され、森友学園は除去工事のために１億円しか支出していない可能性がある。当局はこの交渉についての記録は保存されていないと述べている。<br>総理大臣とその妻昭恵はこのプロジェクトに深いかかわりを有している。安倍夫人はこの小学校の名誉校長であるが、彼女の名前と写真は学校のインターネットサイトからはすでに削除されている。また彼女が生徒たちに向けて書いたメッセージ、彼らが「明日の日本の指導者になる」という文言も削除された。学園は「安倍晋三」の名を学校につけることを求めていたが、本人の依頼によって断念したとされている。<br>「もし、私の妻や私がこの取引に関与していたことが明らかにされたら、私は総理大臣も国会議員も辞職する」と安倍晋三は２月１８日に言明した。だが、それでも事態は沈静しなかった。<br>２０１５年９月４日、安倍夫人は同じ学校法人が経営する大阪の幼稚園を訪れている。子供たちが毎朝日本を称える歌を歌い、教育勅語（１８９０年に制定され、１９４５年まですべての学校で毎年何度も朗読されたテクスト）を朗読することを彼女は大いに喜んだ。この勅語は「帝国の偉大さ」を称え、「必要なときには国家のために身命を捧げること」を命じたものである。<br>森友学園のプロジェクトは防衛相稲田朋美と日本会議からの支援を得ている。日本会議は影響力を持つ超国家主義的(ultranationaliste)復古主義的(traditionaliste)な組織で、その会員には総理大臣も森友学園の理事長籠池靖憲も含まれている。<br>この近接性は極端なナショナリスト出自(issu de la frange nationaliste)の安倍氏が現在の学校教育が過剰にリベラルであり、歴史問題について「自虐的」であることをつねにはげしく批判していることと符合する。彼は第二次世界大戦中の日本の権力濫用についての記述を歴史教科書から減らすように主張し続けてきた。<br>森友学園のねらいは「世界一純粋な国」日本の子どもたちの「愛国心と誇りを涵養する」ことにあり、そこには排外主義(xénophobie)的傾向が濃厚である。テレビは運動会の開会式での幼稚園児たちの宣誓の場面を収録したビデオ映像を放送したが、その宣誓の言葉には、「日本を迫害する」中国と韓国に対する言及があった。子どもたちはまた総理大臣と彼の安全保障政策に対しても「安倍総理、がんばれ」との声援を送っていた。</span></p>
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<pubDate>Mon, 06 Mar 2017 18:34:57 +0900</pubDate>
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<title>ほしいものがほしいわ</title>
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<![CDATA[ <div>糸井重里さんのコピーで「ほしいものがほしいわ」というものがあります。</div><div><br></div><div><br></div><div>『ほしいものはいつでも</div><div>あるんだけどない</div><div>ほしいものはいつでも</div><div>ないんだけどある</div><div>ほんとうにほしいものがあると</div><div>それだけでうれしい</div><div>それだけはほしいとおもう</div><div><br></div><div>ほしいものがほしいわ』</div><div><br></div><div><br></div><div>このコピーを読んで。</div><div>ほしいという欲望、欲望とはなにか、を考えていきたいとおもいます。</div><div><br></div><div>(あるんだけどない</div><div>ないんだけどある)</div><div>=存在の問い、存在と非存在が内在している。</div><div>ゆえに、</div><div>(ほんとうにほしいもの)</div><div>は存在しているのか、存在していないのか。&nbsp;</div><div>そして、わたしという主体がほんとうにほしいとおもっているのか。</div><div>ここで、</div><div>Ⅰ「欲望」とは意味実現の欲望である。</div><div>Ⅱ「意味」は記号の差異システムにおいてのみ実現する。</div><div>Ⅲ記号のシステムは「他者の次元」を前提とせざるを得ない。</div><div>Ⅳ欲望の主体は「他者の場」において成立する「光景」を通して表象される。</div><div>Ⅰ〜Ⅳは、</div><div>ジャック・ラカンによって明らかにされた人間の欲望の論理である。</div><div>よって、</div><div>欲望は、他者の場において他者の次元で意味を差異によって理解していく。</div><div>つまり、</div><div>わたしたちは、メディア化された世界、情報化された(現代)社会によって、欲望のシナリオを繰り広げられ、意味づけされ、欲望の主体を他者から生み出させられている。</div><div>要は、私たちが欲しいと思っているものは、他者によって”欲しいと思わさせられている”のです。</div><div>わたしたちのほんとうの欲望、すなわち、</div><div><br></div><div>(ほんとうにほしいもの)</div><div><br></div><div>とはなんなのでしょうか。</div><div><br></div>
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<pubDate>Sat, 04 Mar 2017 06:03:41 +0900</pubDate>
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<title>デザインとブランド</title>
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<![CDATA[ <div>デザインの語源は、「指」です。それが「指差す」になりました。では何を指差したものがデザインなのでしょう？それは、「目にみえないもの」です。</div><div>デザインとは元々は、「目にみえないものを目にみえるようにしたもの」のことを表します。</div><div>目にみえないものとは、その人その事物の世界観や価値観や考え方などの‘らしさ’のことです。</div><div>いいデザインとは、‘らしさ’をわかりやすく、そしてシンプルにみせることです。</div><div><br></div><div>次に、ブランドの語源は「焼印」です。昔、牛の農家がどの牛が自分のものか区別するために焼印を押したというのが、元々の意味です。</div><div>ブランドとは「区別されたもの」「差別化されたもの」のことを表します。</div><div>では、どうしたらブランド化されるのでしょうか。人は皆、違う価値観・考え方をもっています。よって自分らしさを追求すれば自然とブランド化されます。</div><div>‘らしさ’はそのままブランドになります。</div><div><br></div><div>‘らしさ’をデザインしてブランドとしていくためにはどうすればいいのでしょうか？</div><div>こたえがわかったらまた書きます。</div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/kiy-miz/entry-12253044705.html</link>
<pubDate>Fri, 03 Mar 2017 21:10:37 +0900</pubDate>
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<title>アンリ・マティス</title>
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<![CDATA[ <p style="margin: 0px 0px 1.6em;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">自分と同年代の人でアンリ・マティスを知ってる人はほぼいないでしょう。僕も最近まで全然知りませんでした。学校の美術の授業でもあまり出てこない名前ですよね。簡単に紹介すると、<br>アンリ・マティス（1869-1954）はフランスの画家で、フォーヴィスム（野獣派）のリーダ－的存在であり、野獣派の活動が短期間で終わった後も20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」と謳われ、緑あふれる世界を描き続けた画家であった。彫刻および版画も手がけている。<br>以上、wikipediaから。<br>（フォービスムとは、色の単純化、つまり単色の力強さや画面の簡略化を主義とした画風のことで檻の中に野獣が居るような力強さがあるということから名付けられました。チューブそのままに色を塗ったようなインパクトが特徴です。）</span></p><p style="margin: 0px 0px 1.6em;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">なぜマティスについて書いているかというと、この前『マティスとルオー展』というパナソニック汐留ミュージアムでやっている展覧会を観に行ったからです。展覧会の詳細はホームページを。<br><a href="http://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/17/170114/index.html" style="-webkit-text-decoration-skip: objects; transition: background-color 0.2s ease-in-out, border-color 0.2s ease-in-out, color 0.2s ease-in-out, opacity 0.2s ease-in-out; -webkit-transition: background-color 0.2s ease-in-out, border-color 0.2s ease-in-out, color 0.2s ease-in-out, opacity 0.2s ease-in-out;"></a></span></p><p style="margin: 0px 0px 1.6em;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">展覧会に行ってきた感想で、今日は「マティスと切り絵」についてを書きます。<br>マティスは晩年、癌にかかり、手術は成功したものの、深刻な後遺症を発症して、3ヶ月間寝たきり状態となりました。この間、マティスは紙とハサミだけで新しい芸術スタイルの模索を始めます。カットアウト作品と呼ばれたりもします。「カットアウト作品」、名前がかっこいいですね。<br>で、これ以降マティスは絵や彫刻をつくるのが体力的、物理的に難しくなったので、アシスタントの助けを借りながら切り絵で作品を作っていきます。<br>そして、『jazz』という切り絵の作品集を製作しました。<br>展覧会には作品の一部が来ていて観ることができました。</span></p><p style="margin: 0px 0px 1.6em;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><img data-attachment-id="102" data-permalink="http://kiy-miz.com/contemporary-art/%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%83%aa%e3%83%bb%e3%83%9e%e3%83%86%e3%82%a3%e3%82%b9/attachment/matis/" data-orig-file="https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis.jpg?fit=1200%2C800" data-orig-size="1200,800" data-comments-opened="1" data-image-meta="{&quot;aperture&quot;:&quot;0&quot;,&quot;credit&quot;:&quot;&quot;,&quot;camera&quot;:&quot;&quot;,&quot;caption&quot;:&quot;&quot;,&quot;created_timestamp&quot;:&quot;0&quot;,&quot;copyright&quot;:&quot;Furukawa Mikio&quot;,&quot;focal_length&quot;:&quot;0&quot;,&quot;iso&quot;:&quot;0&quot;,&quot;shutter_speed&quot;:&quot;0&quot;,&quot;title&quot;:&quot;&quot;,&quot;orientation&quot;:&quot;0&quot;}" data-image-title="matis" data-image-description="" data-medium-file="https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis.jpg?fit=530%2C353" data-large-file="https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis.jpg?fit=700%2C467" src="https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis.jpg?resize=530%2C353" alt="" class="alignnone size-medium wp-image-102" srcset="https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis.jpg?resize=530%2C353 530x, https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis.jpg?resize=768%2C512 768x, https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis.jpg?resize=700%2C467 700x, https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis.jpg?resize=800%2C533 800x, https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis.jpg?w=1200 1200x" sizes="(max-width: 530px) 100vw, 530px" width="335" height="223" style="border-style: none;"></span></p><p style="margin: 0px 0px 1.6em;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><img data-attachment-id="103" data-permalink="http://kiy-miz.com/contemporary-art/%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%83%aa%e3%83%bb%e3%83%9e%e3%83%86%e3%82%a3%e3%82%b9/attachment/matis2/" data-orig-file="https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis2.jpg?fit=800%2C598" data-orig-size="800,598" data-comments-opened="1" data-image-meta="{&quot;aperture&quot;:&quot;0&quot;,&quot;credit&quot;:&quot;&quot;,&quot;camera&quot;:&quot;&quot;,&quot;caption&quot;:&quot;&quot;,&quot;created_timestamp&quot;:&quot;0&quot;,&quot;copyright&quot;:&quot;&quot;,&quot;focal_length&quot;:&quot;0&quot;,&quot;iso&quot;:&quot;0&quot;,&quot;shutter_speed&quot;:&quot;0&quot;,&quot;title&quot;:&quot;&quot;,&quot;orientation&quot;:&quot;0&quot;}" data-image-title="matis2" data-image-description="" data-medium-file="https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis2.jpg?fit=530%2C396" data-large-file="https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis2.jpg?fit=700%2C523" src="https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis2.jpg?resize=530%2C396" alt="" class="alignnone size-medium wp-image-103" srcset="https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis2.jpg?resize=530%2C396 530x, https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis2.jpg?resize=768%2C574 768x, https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis2.jpg?resize=700%2C523 700x, https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis2.jpg?w=800 800x, https://i2.wp.com/kiy-miz.com/wp-content/uploads/matis2.jpg?resize=80%2C60 80x" sizes="(max-width: 530px) 100vw, 530px" width="335" height="250" style="border-style: none;"></span></p><p style="margin: 0px 0px 1.6em;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">「色でデッサンする」「単純化の問題」<br>などの言葉からわかるように、マティスにとって切り絵とは絵画の延長線上というか、絵画の先にある終着点のようなもの、であるのかなと思いました。</span></p><p style="margin: 0px 0px 1.6em;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">僕は、絵画を描いたことがないので絵をみてもクオリティやテクニックなどは全くわかりません。でも、資料を読んで画家の考え方や生き方を知ることによって作品を見て楽しんでいます。思想フェチというやつですかね。<br>なので、古代中世？の美術（英語で言う「Art」）よりも哲学っぽい現代アート（こっちは英語で「Contemporary Art」）の方が好きです。<br>マティスはArtとContemporary Artの狭間の人じゃないかな。</span></p><p style="margin: 0px 0px 1.6em;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">また企画展などの展覧会に行ったら誰かしら紹介したいと思います。</span></p>
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<link>https://ameblo.jp/kiy-miz/entry-12252668731.html</link>
<pubDate>Thu, 02 Mar 2017 17:25:54 +0900</pubDate>
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<title>バナナマン論</title>
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<![CDATA[ <div>「バナナマンのさいしょの本」を読んで。</div><div><br></div><div>高校時代、初めてバナナマンのラジオを聴いて衝撃を受けました。細かいことを言うと、Podcastというアプリで、ラジオ本編が終わった後に録ったものをダウンロードして聴けるというものを聴いていました。</div><div>なぜ衝撃を受けたかというと、ラジオなのに罰ゲームでビンタをしたり、ビンタをしたり、ビンタをしていたからです！</div><div>目つぶりビンタというものがこの世に存在することを知ったのもバナナマンのPodcastを聴いてからです。</div><div>僕が聴いていた頃は毎回設楽さんから日村さんか作家の人たちにビンタをしていました。</div><div>それがめちゃめちゃおもしろかったんです。</div><div>普通ラジオだと、何らかのコーナーにハガキ職人が投稿してきたものをパーソナリティーが面白おかしく話す、みたいな感じだとおもうのですが、</div><div>バナナマンは、ラジオなのにビンタをしていて、見えないのにそういう罰ゲームを毎回のようにやっていました。</div><div>でもいま考えてみると、ラジオだからこそビンタができて、めちゃめちゃおもしろかったのかなとおもいます。</div><div>まずラジオでビンタやシッペやデコピンなどの罰ゲームをしている人がいなかったこと。そして、設楽さんのビンタの威力がすごくて音がめちゃめちゃ鳴ること、日村さんや作家の人達のリアクションがめちゃめちゃいいこと、そして1番大事なのが、見えないからテレビみたいにいじめっぽく映らないことです！</div><div>テレビのように映像でビンタしているところがみえてしまうといじめっぽく映ってしまいますが、ラジオだとそこがみえない。いい感じにオブラートに包まれるのです。</div><div>これらのように、ラジオでこんなに前衛的なことをしている人達は今までいなかったんじゃないかとおもいます。</div><div><br></div><div>バナナマンのPodcastにとても衝撃を受けて、高校の通学途中に毎日聴いていました。聴きながら笑うのを堪えていたので、周りからは変なやつだと思われていたでしょう。</div><div><br></div><div>あとは、設楽さんの考え方や哲学にいつも感動していました。</div><div>有名なものでいうと、「チョロQ理論」です。「チョロQ理論」とは、「後ろにバックさせることでゼンマイを巻くチョロQの動力原理を比喩した、設楽さんオリジナルの人生哲学。人生(だけでなく何事においても)前へ前へ進むだけでなく、一旦後ろに下がり、力を貯めれば、より力強く前へ飛び出すことができる」という理論です。</div><div>これを聴いて、高校時代の僕は、設楽さんまじすげえ、と設楽さんを崇拝していました。今も崇拝しています。</div><div><br></div><div>バナナマンは、僕のイメージだと、</div><div>日村さんはインパクトのある飛び道具、</div><div>設楽さんは天才的な狙撃手、</div><div>です。</div><div>最初はインパクトのある飛び道具の日村さんに目が行って、そのあと、飛び道具操ってる狙撃手すごくね？と、設楽さんに目が行く。</div><div>という構造。</div><div><br></div><div>互いのいいところが相まって、相乗効果となっている理想のパートナーです。</div><div><br></div><div>そんな二人のような関係を作れたら最高ですね。</div><div><br></div><div><br></div><div>http://kiy-miz.com/days/バナナマン論/<br></div>
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<link>https://ameblo.jp/kiy-miz/entry-12250629200.html</link>
<pubDate>Thu, 23 Feb 2017 22:19:13 +0900</pubDate>
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<title>MOA大学</title>
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<![CDATA[ <div>昨日は「MOA大学」というイベントに参加してきました。</div><div>「MOA」とは「学びを遊びに（manabi wo astbi ni）」の略で、「MOA大学」は、イノベーターが先生の学校です。</div><div>遊びを”夢中になれる体験”として、学びをもっと面白くしていくというコンセプトです。</div><div>めっちゃ面白そうだなと思ったので、行ってみました。</div><div><br></div><div>今回第１回のゲストは、</div><div>SHOWROOM CEO 前田裕二さん</div><div>芦名表参道　芦名佑介さん</div><div>TAGPIG CEO 安岡あゆみさん</div><div>アーティスト　NOBU!!さん</div><div>クラウドワークス CEO 吉田浩一郎さん</div><div>キングコング　西野亮廣さん</div><div>でした。</div><div>そして、第１回のテーマは『前例のない挑戦の先にあるものは』です。</div><div>このテーマで２０分ずつの授業形式で講義をしてくださいました。</div><div>皆さんがどのような仕事をしているかはhttps://www.facebook.com/MOA大学-1773880856269831/</div><div>で確認してください。</div><div><br></div><div>講義はめちゃめちゃおもしろく、勉強になりました。</div><div>話の内容をコンパクトにまとまると、</div><div>前田さん</div><div>ヒットの作り方は、工夫してやり切る</div><div><br></div><div>芦名さん</div><div>ビギナーが上級者に勝つには、上級者を”完璧に”真似る</div><div><br></div><div>安岡さん</div><div>好きなことを仕事にして、仲間の力を借り、リスクを恐れずチャレンジする</div><div><br></div><div>NOBU!!さん</div><div>メッセージは最初からたくさんの人に向けて書かない、１番伝えたい人に向けて書くとたくさんの人にも伝わる</div><div><br></div><div>吉田さん</div><div>諦めなければビジネスセンスがなくても上場できる</div><div><br></div><div>西野さん</div><div>えんとつ町のプペルができるまで</div><div>話の展開や発声はさすが芸人で他の人とクオリティが段違いでした。そこが一番勉強になりました。</div><div>話してたことは、ほぼ魔法のコンパスやブログに書いてあることだったと思います。</div><div><br></div><div><br></div><div>最後に、</div><div>言ってることはとてもシンプルなことでした。やっぱり本当に大事なことはシンプルなことで、そのシンプルなことを実際に行動しているかどうかが全てなんじゃないかということがわかりました。</div><div>もう一つ感じたことは、今日の先生たちが、自分のやりたいこと（前例のない挑戦）をしようとするとき”もっているものを手放すこと”をしていると思いました。手放すことで決断ができるんじゃないかと思います。</div><div>人生は、シンプルなことをどれだけ集中して、どれだけ手放せるか。</div><div>それが鍵になってきそうです。</div>
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<link>https://ameblo.jp/kiy-miz/entry-12249374875.html</link>
<pubDate>Sun, 19 Feb 2017 20:50:38 +0900</pubDate>
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