<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>kizinecoclubのブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/kizinecoclub/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/kizinecoclub/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>説明文</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>鳩の死骸</title>
<description>
<![CDATA[ <p>ここしばらく、書く行為に飽きと無駄を感じ離れていたが、軽い気持ちで過去文を修正したのがよろしくなったようである。ついつい悪い癖が出てきてしまった。誰が読んでいる読んでいないに関わらず、これは人間誰しもが持つ性（さが）のようなものなのかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>ここで少し昔話を死たい（死骸だけに）</p><p>&nbsp;</p><p>昔、有人と食べ放題に行った帰り、腹休めのため駅前の広場で一服していた。その広場は鳩が群がる事で有名であり（現在は都市開発の為ビルが建ってしまっているが）、観光客や親子連れがよく餌を撒いていた。</p><p>近況とたわいもない話をしながら友人と時間を潰してると、小さな男の子が餌を撒いているのが見えた。だんだんと興奮してきたのだろう。奇声を発しながら鳩の集団に突っ込んでいったのである。</p><p>&nbsp;</p><p>案の定、鳩は一斉に飛び立ったわけだが、逃げ遅れた鳩が数匹（数匹という次元ではなかったと思うが）、かなりの数の鳩が内臓を潰されて息絶え絶えになっていた。食後の腹休めのためだったはずがピクピクと動く鳩を見て、友人は気持ちが悪くなって吐きそうになっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>自分が咄嗟に思ったのが、苦しんでいるようだしトドメを刺してやった方がいいんじゃぁないのか？しかし、それが倫理上、法律上許されるかどうかは分からなかったし、自分には関係ない事なので事の成り行きを見守っていた。</p><p>すると母親が、まるで汚らしいものを見るかのように鳩に一瞥をくれると、子供の手をサッと引いて何処かに消えてしまった。残されたのは、息絶え絶えになった数匹の鳩たち。</p><p>&nbsp;</p><p>この話の教訓(笑)は『鳩の群れに突っ込んでいったら何匹か死ぬ』といった至極簡単なものである。この事実は現場に居合わせなければ気が付かない部分であろう。</p><p>必ず全ての鳩が飛び立つわけではない。例えば、そのうちの一匹にターゲットを合わせようとしたとき、鳩の特徴を良く見極めなくてはならない。「それ」はノーリスクではなく、運悪く死んだ鳩をつかまされたり、死骸処理に時間を取られたり、悪い気分になる可能性もあるという事である。</p><p>&nbsp;</p><p>こういう話を聞いたとき、キヅキとして知識にプラスされるかもしれない。しかし、そこには実際に体験したという生々しさが無い。知識だけが過剰に増えることで、その処理や適切な対応方法が追い付かなかったり、リアリティに欠ける机上の空論で終わってしまう場合がある。しかし、人間は想像力も豊かだし、そこは個人の資質や感性力に委ねられる部分が大きいと思うが、体験していないから悪いと言う話ではない事も付け加えておきたい。</p><p>&nbsp;</p><p>まぁ、特にたわいもない話である。</p><p>&nbsp;</p><p>※武田信玄で有名な「風林火山」、原典では「風林火陰山雷」とされ、陰と雷が抜けている。諸説あるが、語呂がいいから(笑)なんだろうな、と思う事にしているが。それに陰と雷の部分は意味的には相手に悟らせてはいけないので、むしろ書く方が不自然とも思うが考え過ぎだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>つまりは、知（こちらの意図）を隠し、攻撃するときは瞬時に、である。</p><p>&nbsp;</p><p>私は特にネット上の口当たりの良い話と言うのは、本当に有益な情報を隠すための「陰」であり、核の部分は自分で使うために秘匿しているのだろうな、と思っている。特に具体性の無い、抽象的な言葉とは「隠す」ためには有益である。ガンバレ、信じろ、勇気を出そう、等。良い印象の言葉には必ず裏がある。</p><p>例えば、勇気は安定を捨てることでもあり、信じるとは思考停止、依存の面がある。努力も方向を誤れば無駄な時間の浪費である。兵法においては、相手を利用したくば利を、屈伏させたければ害を説け、とはよく言われる。命のやり取りの極限の中、編み出されたものが兵法。故にビジネス、人生に通じるところも多いのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;信憑性において、今の自分が証明です。それは確かに一理あるが、どの職業限らず、その過程においては努力のみならず、他者の協力や運もあったであろうし、それを根拠に言いたい放題、自分こそ正義では、ただの嫌味、無思慮、無配慮といった印象しか残らないように思える。むしろ「私が証明です」は巷にありふれ過ぎており、警戒心を抱かれる可能性もある。</p><p>&nbsp;</p><p>安定を捨てるとはとても勇気のいる事である。個人的な話であるが、会社を辞める際、叔父に（最終的には「お前が決めた事だろ？」と厳しく言われはしたが）身内じゃなければこういう話はしない、養子にする、とまで言われ、むしろその心意気が信用となった。つまり、他者が人生を変えるような選択を迫る場合、自己責任だけで口当たりの良い事だけを言われても困るのである。メリットと等しくデメリットは生じる。例えば、赤の他人同士で、金銭の授受が発生しているような場合、言葉の責任はより重くなるだろう。</p><p>そもそも、サラリーマンが楽で安定（ある程度はしているが）しているとステロタイプに思ってるような輩は無知すぎる。そういう人というのは、いても数年だったのではないか。そんな人らがサラリーマンを楽だのどうこう言う資格はない。あるいは「つまらん」などは、大変失礼な話であり、口が裂けても言ってはいけない台詞であろう。逆に自分が言われたらどう思うのか？と想像するべき。そもそも、それを平然と言えてしまう人間が人間性を語る資格などない。ぶっちゃけ言い切ってしまうと消費者のほとんど、日本を動かしているのは電車に揺られているサラリーマンであり、クリエイターではない（そこあまり関係ないけどな(笑)）</p><p>&nbsp;</p><p>メンバーにも会社員がいるが、やはり一番大きいのは厚生年金だろう。非常にザックリとした計算でも支給額に年間100万以上の差が出てくる。それでも十分とは言えないだろう。更にそこから税金を引かれるわけである。フリーランスになると、どんなにつつましく生活しても老後、毎月10万以上（全く準備していなければ更に多いと思うが）の赤字を垂れ流しつつ、草を茹で、ザリガニを捕食しながら、貯蓄を切り崩さなくてはいけない。どうせ100歳まで生きない、と思っているような人ほど長生きしてしまうもので、一番怖いのは貯蓄が尽きたときだろうと思う。また、生涯年収は並のフリーランスを軽く超えるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>祖父などを見て思うが、老齢化に伴い肉体も衰え、何をするにも億劫になり怒りっぽくなるのは仕方がないのかもしれない。当然ながら現役のようにはいかないはずである。老後は孫を見て呆けながら、ゆっくりチェアに揺られ、音楽を聴き、読書をしながら過ごしたいものであるが。</p><p>年を取るにつれて医療機関のお世話になる確率は高くなる。例えば、将来、死の間際、入院もできずに全身痛みにのたうち回って死ぬような事態は勘弁願いたいものである。やはり、痛みから救うのも金である。まだ先の事と思うかもしれないが、人間にとって大事なのは「今」であるが、最悪の事態を想定した「未来の今」を警戒するのも悪くはないだろう。冗談抜きに億ってはじめて安心という時代が来るかもしれない。私は独身であるが、メンバーのように扶養せねばならない家族がいる場合、選択も更に慎重になると思うのである。</p><p>&nbsp;</p><p>とはいえ、選択は自由であるし「私はこう思う」程度の非常にどうでもよい話である。やはり、人生は一度きりであるし、悔いのない一生こそが至高と言えよう。しかし、「悔いのない一生を送ろう」的な<u style="text-decoration:underline;">こちら側の言葉</u>とは他者にとっては無責任であり、場を選ぶように思える。また、強い言い方になるほどに現実から乖離し精神論化してゆくだろう、といった話でしかないので落ち着いて欲しい。具体的な将来設計に興味があれば、専門家の御意見を仰ぐのもよろしいかと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>まぁ、自分が思っている事は概ねの人間も思っているんだな、というのが最近の気付きであるので、こういう場で簡潔にまとめておきたい。</p><p>&nbsp;</p><p>要は、真に価値ある情報など簡単に手に入るわけではない、という事である。</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに、鳩の話はこれとは全く関係ない。一時期、余暇に行っていた「別の事象」に対する教訓である。一度痛い目にあっているので、運用は慎重に、といった「役にも立たないアドバイス」である。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kizinecoclub/entry-12814637819.html</link>
<pubDate>Sun, 23 Jul 2023 22:25:20 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>魔法使い</title>
<description>
<![CDATA[ <p>1.</p><p>科学とオカルトは水と油の関係である。混ざるという事はあり得ない、と私は考える。例えば流行りの量子力学に神様や、魂や意識を捻じ込もうとしたとき、それら概念は消滅する。解明されたとき、数式により答えが導き出され、法則通りの動きを可能とする。きっちりと「解」へと収束する、演劇的な意味とは異なり、まさに文字通り「機械じかけの神」である。</p><p>そこには当然ながら、人間で言うところの善や悪といった概念も通用しない。悪党でも頭御花畑でも神を自在に操作することができる。というよりも、これら感情とされる概念すらも計算可能な絶対条件の元に成立しているという事になる。そうなると、もはや神、魂、意識といった呼称は相応しくなくなるだろう。</p><p>それは可能か？云々の話ではなく、理屈として「その場合」どうなのか？といった話である。故に、片方が確実な答えを出せない概念にも関わらず混ぜてしまった時、導き出される【それ】とはオカルトなのか？科学なのか？といった疑問である。そこに両方という事はあり得ないのである。合成された得体のしれないそれとは？</p><p>&nbsp;</p><p>※オカルトに科学を持ち出すことにより得られる信憑性については、以前と重複し長くなるので省略する。</p><p>&nbsp;</p><p>そもそも、なぜ科学とオカルトがドーノコーノといった話をしだしたかと言うと、書くことが無かったからである（えっ！？）というのは半分冗談だが、かつてSNSをやっていた時「あなたは危険だから今後監視してゆく」と言われたのを思い出したからでもある。</p><p>何が危険なのかさっぱり不明だったが、まさかそのやうな痛いセリフを頂戴するとは、と妙に新鮮な気持ちになったのを覚えている（かなり昔の話なので、別に怒っているわけではなく、むしろ懐かしい気持ちが強いが）</p><p>というよりも自分たちの考えを肯定しない人間に対する異常な拒絶感、嫌悪感に対して、少々興味が沸いたといった程度の話である。</p><p>&nbsp;</p><p>例えば、量子力学の話にしても、純粋にそれだけの話ならいいが、ブラックボックス部分にちょいちょい謎の思想や唐突に謎法則が混ざるのである。私のようにある程度知識があればともかく、はじめて聞くような人にとって、色々と混ざったそれが「教科書」「当たり前」「デフォルト」となる。</p><p>ふと、最近産まれた二番目の兄貴の姪の顔が思い浮かんでしまった。タブレットを見せれば目をキラキラさせて嬉々として寄ってくるガキンチョ達、ほぼ無法状態のインターネット、これからの日本がとても心配である。他人の子供はどうでもいいが、身内だとそうもいかない。</p><p>自分が当時、SNS初心者だったこともあり、最初は魔術のようなマイナーな話を出来る人がいるんだ、と嬉しくもあったが、だんだんと？マークが増えていったのである。</p><p>彼らは非常に純粋で純真に思えたし、ロジカルな思考もできる、地頭も良いのだろうなと思った。しかし、時々、謎世界観が混ざるのである。そこをロジカルにつっこむと豹変するわけで、また、批判するなら私達の考えを全て理解した上で云々と言われ、「あ～面倒ｸｻ」「こういうタイプは（良好な関係をきづきたければ）表面的にもさっさと認めた方が早いんだろうな」と思ったものである。最終的には、関係を続ける必要もないし面倒なので切ったが。やはりこういうのが信心（宗教ではなかったが）に近いナニカなんだろうな、と勿体なく思ったものである。</p><p>件に限らず、オカルトや神話は過去から現在に至る過程で、様々なものが混ざり現在の伝承になっているのだろうな、といった予感はある。しかし、そこに現代科学が混ざるとしたら、それはもう別物でありわざわざ過去の遺物を持ち出す必要もない。新しい「概念」あるいは「新科学」を立ち上げればよいだけである。別に無理にマイノリティ的世界観である必要もないし、科学もどきである必要もない。</p><p>&nbsp;</p><p>かくいう私もそういう話は嫌いではないし、科学と魔術が融合してアニメ化するのではなく、本当にサイコキネシスやテレパスが使えればと思う事はある。しかし、妙に有名な〇〇さんと繋がりがある的な話もちょいちょい混ぜてくるし、「う～ん」という感じもしたものである。結局、 独立不羈ではなく、権威主義に傾いているのかな、と。</p><p>&nbsp;</p><p>科学すらも宗教といった扱いにしてしまうことは、ロジックとして可能である。そして、新たなるオカルト体系により上書き、あるいは排除。従来の科学常識を廃棄してしまうこともできる。宗教やオカルトであれば、例えば太陽が地球を回っている、人間が空を飛べる、と言ってしまっても許されるのである。しかし、それを実証することは不可能である。「科学なんて宗教だ、そんなもの信じるな！」と飛沫を飛ばす結果、もたらされる多くはろくなものではないだろう。最悪、死かもしれない。これらは、あくまでもファンタジーの話として許容される。また、それを根拠に他者に損害を与えるような事があれば、当然罰せられるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>過去の発明にしろ、発見にしろ、今まで「ありえない」と思えた概念が実証され、人類に恩恵を与えてきた事実は確かにある。しかし、そこに至る為には何度も実験が必要であり、何枚も論文を書く、学会で認められる、散財をしてはじめて確定するのである。</p><p>&nbsp;</p><p>例えば、量子力学に関わる実証であれば、極端な話、Cernの加速器のようなものを個人が所有して、危険な実験を繰り返した先に齎されるものであろうかと思う。しかし、日々上がってくる科学系トピックスに飛びついて、その先を実証するような設備も財団も持たないような層が「～かもしれない」を永遠と展開するのが、まぁ、何と言うか情報共有化社会特有の「ムーブ」なのかなぁと思ってしまうのである。</p><p>&nbsp;</p><p>2.</p><p>人間と言うのは時に欲張りで、時に不安でもある。片方だけに全てを委ねる事に違和感を感じてしまう。何か、悪い事なのではないか？間違っているのではないか？と思ってしまう。心の何処かで絶対など存在しない、またそう思う事こそが知性だ、と。しかし、だからといって未解明な概念を安易に科学と混ぜてしまってよいのか？と言えば否であろう。一般的な良識を備えているがゆえに、意識と無意識の話や、アートが外部から齎される云々の話にしても、不本意ながら(笑）、片方で結論づけねばならないのである。</p><p>&nbsp;</p><p>私とメンバーのひとりが尊敬、というか信用できそうだな、と思えるオカルト関係者がいるけれども、オカルトを名乗りながらオカルトの一切を否定するスタイル。不用意にオカルトと科学を混ぜようとすれば烈火のごとくツッコミがやってくる。しかし、量子力学とは厄介なもので、科学でありながらもその因果関係はハッキリしない。量子力学の混入に対してツッコミを入れようとする場合、知識のみならず、未だ解明されていない因果関係について、こちら側が証明をしなくてはいけなくなる。仮に証明できたとすれば、ノーベル賞ものであり、世界常識はひっくり返ってしまうかもしれない。ひとたび首をつっこむと出口の無い迷路に誘導され、泥沼化してゆくのである。</p><p>&nbsp;</p><p>※余談ではあるが、メンバーの方の家に昔、お邪魔したことがある。部屋はとても<s style="text-decoration:line-through;">女性とは思えないオッサンのような</s>殺風景さで、壁一面に怪しげな面やアクセサリー、民芸品が「吊るされていた」のが印象深かった。彼女に言わせれば（本心までは分からなかったが）オカルト世界の雰囲気が好き、ただそれだけ、との事だった。</p><p>&nbsp;</p><p>では、何故オカルトなのか？と言えば、本心は当然分からないけれども、オカルト実在を不本意ながらに否定することで、オカルトの純潔を守る、それは、オカルトを愛するが故なのだろう、と僭越ながら勝手に良い意味で解釈してしまうが。</p><p>オカルトが科学的に証明されるとすれば、悪魔や神、魔法の行使の具現化が可能ということであり、オカルト界隈の住人にとっては、まさに夢のような出来事であろうかと思う。しかし、何度も何度も繰り返しとなるが、科学と曖昧なそれら世界が混ざってしまった時、被害者が出る可能性がある（悪魔に襲われるという意味ではなく）、つまり、これらは「心」といった非常にデリケートな問題に触れるからであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>非常に健全なオカルトとの向き合い方とは、どこかで疑う、いつでも笑い飛ばせる準備が必要なのであろうかと思う。例えば悪霊に憑かれている、天使に憑かれている、と言われた時どうか？これら異界の概念に対し、ここでは書けないような事をいつでもできる心の準備「バチアタリズム」が必要だということである。故に召喚、使役といった術式の適用が可能なのであろう(笑)</p><p>個人的に思うのは魔術はやや特殊で、その根底には反骨があるのかな？と思ったりもするが、これを口に出すことは野暮であることを承知で書いてしまう。いずれにしても、必要なのは『遊び心』なのではないかなぁと思うのである。当然ガチ勢もいると思うが、その場合は公共の迷惑にならないような最低限のマナーは必要だろうと思う。しかし、キノコ的なものを摂取したりと、かなり破天荒な伝説的な人達もいたが、それは大戦前、あるいは中世期の話であり、近代においてそれらは非常に難しくなるはずである。</p><p>&nbsp;</p><p>余談であるが、私自身は既に「魔術的潜行」によりかなり「深い領域」に到達している、そこで魔術回路を構築済みである。それゆえに小さな代償で、かなり上位の威霊、幽鬼、妖獣を使役することができる。通常このようなことを聞けば「頭のおかしいやつ」「関わっていけない」と思われ、座席を譲られるだろう。</p><p>しかし、ここで物理学を混ぜ、それっぽい整合性をつけてしまえば人によっては（特に自分は頭が良いと思っている人間）納得してしまったり、また「偶然」にも結果が伴ってしまった時、狂信が起きるのである。</p><p>例えば、誰かが適当な事を言った直後に、地震が起きる、突然豪雨が降るなど。思うに原始時代においては頻繁に「それら」は起きていたように思える。ここでsynchronicityに関わる話に繋げることもできるが、（遮断しているのでそれはないが）非常によろしくない界隈も寄ってきそうなので、この辺りにしておくとしよう。というのも過去にSNSをやっていた時、即効でフォロワーがついて笑ってしまったものである。要約すれば、我々の教祖？宗教とは言ってなかったな、的なものがその理論の正体について知っている、研究している云々。じゃぁ、なんで貴様らは世界を支配する側にいないんだ？というツッコミも起きようものであるが、いやはや世の中は広い(笑)</p><p>&nbsp;</p><p>長くなる都合上、オカルトと一緒くたにしているが、心理学的なものや、神秘学と範囲は広い。例えば、シャドーの問題、他者の中に自分を見るという話ひとつとっても整合性や例外を持ち出せばキリが無く解釈も無数にある。例えば、今問題になっているプーチンにしても、戦争行為にしても、排除せねば死者が増えるという切迫する問題もあり、友愛、他者を許す、といった甘い選択はありえないだろう。この「シャドー観」に基づいてしまえば取り返しのつかない、人的損害は計り知れないものとなる。やはり排除せねばならない、許容不可能な絶対悪は実在するように思える。（だからといって国家を滅ぼすような正面攻撃のみで解決しようとするのはどうなのか？といった話は前回のblogの通りである、ここは「立場によって」さまざまなご意見があろうかと思うので、これ以上深入りはしない。）</p><p>&nbsp;</p><p>※ここも少し付け足しておきたいと思うが、プーチンは絶対悪なのか？と言った話。私も絶対という言葉は使いたくないが・・・、今までを含めて、やっていることを見れば、極端な言い方をすれば巨大な〇フィアのようなものだろう。そして、甘く見てしまったウ国が彼らを怒らせて、準備不足のままに侵攻を招いてしまった。</p><p>初手は優秀な指揮官による戦術的勝利や、ロシア軍の意外な弱さに助けられた部分もあろうかと思う。しかし招いてしまったこと事態は、見通しが甘かったせいなのではないか？そこが外交的に云々といった部分である。しかし、如何な理由があろうとも、突然軍隊で侵攻してきて砲弾をぶっ放すのは正義とは言えないだろう。この辺りは過去にも書いてあるのが重複させないが。仮に双方の裏に大くの思惑があったとして、最初に仕掛けたのは誰か？と言った話である。真珠湾攻撃もこれと同様かもしれない。皮肉なことに、現在のロシアは旧日本軍に近いものがある。</p><p>もし日本軍が勝っていれば？といったシュミレーションはよく起きるが、継続される軍国主義と言論の自由の統制、とはよく言われる。最悪、世界のほとんどが「北」のような形になっていた可能性もあるだろう。また、原子力エネルギーも遠からず登場したであろうし、日本の精神的に悪い部分がそれらと結合してしまったとき、などと考えると背筋が凍るものがある。</p><p>民主主義の本質とは何か？といえば非暴力であり、その為の選挙と言っても言い過ぎではないだろう。力こそ正義で血で血を洗うような暗黒の時代、今回安倍総理が暗殺されてしまったが、結果として日本はどうなったのか？ここは非常に皮肉な話である。これは力による現状変更をやってしまったが故に生じた、歴史の因果応報、synchronizeなのかもしれない。</p><p>更に余談であるが、私は月々の支払いを２枚のクレカで済ませているのだが、一枚はほぼ固定金額用、一枚を流動的な部分に分けている。物価上昇はひしひしと感じるものがある、軽くお昼をコンビニで済まそうと飲み物、おにぎり、デザート、諸々買うだけで1000円を超えてしまう。これなら駅地下で丼ものでも食った方がよかったな？と思うのだが、なんやかんやで、ここ数か月片方だけで、月20万近い支払いになっている。また、健康保険料も地味に上がってきているなと感じる。ローンや月々の貯蓄などを考えると、さすがに将来が不安になって来る。</p><p>&nbsp;</p><p>心の問題に科学が投入された時、一定の指向性を持ってしまう。正しく科学的証明がなされた、例えば脳神経に基づく行動のような話ならともかく。疑似科学的な根拠の曖昧なものであれば、利用者の意のままに心理誘導が可能となってしまう。また、先のシャドー観のように利用者のロジックが片方だけの場合、「危険が危なく」なるのである。宗教的洗脳とは別に、いずれは社会問題になる可能性を含む部分だと思われる。</p><p>&nbsp;</p><p>余談であるが、これを科学を用いずに、従来のオカルトの材料と哲学的解釈を結び付けた時、シャドーとその外部の「闇」に対する整合性と体系を編み出すこともできる。オカルトが含む「エンタメ性」「アート」を排除した先に残るのが、哲学や倫理観なのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>3.</p><p>占いなどでもよく言われるが、一番危険なのが「妄信」してしまう事である。あの人は絶対に当たるからと全てを委ねてしまう、あるいは人としてやるべきことをやらない（この辺りは過去にも書いているが）。しかし、そういう人がリピーターとなり増えた時、商売としては繁盛に向かう。占いに限らず、あらゆる資本主義的商売に通じるが、いかに「頭がアレ」な人を多数囲うのか？</p><p>&nbsp;</p><p>「太い商売」で気持ちよくwin-winの関係でやりたいのであれば、店が客を選び、客も店を選ぶスタイルが理想なのだろう。しかし、それをやろうとしたとき多くは商売として成り立たないだろう。一汁一菜で細々と続いたとしても、効率化の波に抗えずにAIが台頭する昨今、いずれは消えてゆくだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>音楽でも似たようなスタイルの方もいる、ファンを徹底的にバカ呼ばわりし、それでもついて来るやつだけがファンである、と。これはエンタメ要素も多少は含むと思うが、しかし「直結型」のタイプを排除するには有効である。バカと呼ばれる理由を思考する以前に、「なんて失礼やつだ！」「バカとはなんだカバ！」と本質に至る前に頭を沸騰させて帰ってゆくだろう。しかし、冷静に思考して「それでもないな？」と思えるならば、それは別の話であろうし、無理に付き合う必要もない。</p><p>この手の枝葉末節に拘るパラノイア型の人間相手は非常に疲れるものがある。数歩先の話をしているのに、まだ1歩目の枝葉をやられると、長文で説明しなくてはならなくなる。これらは本質的に直結型であるのだが、複雑系を内包しているので、稀有な亜種と言えるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>クリエイターが客を選べる時代。これはとんでもなく傲慢で、思い上がり甚だしいかもしれない。しかし、こういうスタイルの人間がいても悪くないな、世の中面白くなるな、と。無責任ながらも思ってしまうのである。</p><p>&nbsp;</p><p>4.</p><p>それはともかく、最近話題の「君〇はどう生きるか？」観に行こうか悩んでいる。ざっとSNSから予想するに監督のアニメ的ディスコグラフィー？といった印象ある。</p><p>最後らしいので、採算度外視で、ジョンケージの4分33秒的な世界に連れて行ってくれるのかな？と期待大でもある。台詞無しでどろどろとした絵の具をぶちまけた抽象映像だけの120分、ひたすらスタジオの扉を叩き続ける120分、監督がのたうち回るだけでもいい、自分はそういう方が好物でもあるが。</p><p>&nbsp;</p><p>採算度外視でやりたいものを作ってよいとされた場合。まず、上映できないのではないかなぁ、と思う。現状ある程度以上の収益を見込めるエンタメとはどのような起承転結であっても、説得力、最低限の倫理、表現が難しいが「収束」がある。本当に不愉快だけしかなく、意味不明、放置しっぱなし、何が起きているのかすらわからない、といったような、メソッドに反するものが残ることはほぼあり得ないように思える。</p><p>例えば、哲学的な作品であっても、「それ」が何を意味しているのか？は読める。しかし、そういった枠すら外れ、真に自分にしかわからない内面世界を描く人、それでいて集客を見込める人というのは限られるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>エンタメが持つ宿命として美少女や美少年の投入は避けられないはずである。もし主人公が不美人に描写されていれば、あそこまでのヒットにはならなかっただろうし、彼のアニメに登場する女性が持つ、純潔さ、聖性、凛とする強さ、独特の雰囲気は他の追随を許さないものがあり、現在の人気へと至る要因のひとつであったことに違いないだろう。</p><p>日本の萌えやオタク文化の発展には、現実離れした登場人物たち、といった片方に振り切った徹底したエンタメの追求と消（浪）費者達の姿があった事も忘れてはならない。それがあまりにあざとい場合、縮小する、といった方法もあろうかと思うが、アニメが持つ本質には記号化された、良い意味で言えば「無駄を省いた美しさと、それが醸し出す独特のワールド」があり、それこそが「ならでは」「にしかできない」のひとつなのだろうかと思う。いずれにしても、一時代を築いた偉大な「アニメ監督」だという事は忘れてはいけないであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに、私の素晴らしい感性で、かなり本気のオマージュ映画を作るとしたらザッとこんな感じになるであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>・「君達の翼」</p><p>鳥の着ぐるみをまとった主人公が琵琶湖で飛ぼうとする。何度も失敗してチャポンチャポンと水しぶきを上げる。108回目くらいで画面は実写からアニメに、歴代キャラに翼を支えられて地平線の彼方へ。</p><p>次のシーンは火葬場、どうやらそれは夢で主人公は溺死したようである。焼却炉から出てくると不思議と焼けておらず、親指を立てながら復活。「水による死」と「火による死」がかけ合わさり、反魂術が起き奇跡（鬼籍）の復活。その時、宇宙からドラゴンハジメの雅楽に乗り、巨大な顔「オカダオカ」が降りてくる。</p><p>&nbsp;</p><p>・「魔女と狩り」</p><p>転校生「蜻蛉」（二つ名）をめぐる女子高生たちの青春を描く。微妙な感じの女子高生たちが箒（ほうき）で殴り合うバトロワの120分。最後に生き残った腐女子カナエは告白するも撃沈。咆哮と共に蜻蛉に襲い掛かる寸前でエンディング。</p><p>&nbsp;</p><p>・「紅生姜と豚」</p><p>女子中学生がひたすら豚肉を食う（邦画エッセンスたっぷりで）</p><p>&nbsp;</p><p>・「MONO姫」</p><p>モノラルを愛する音響マニア達の物語。幼馴染のタダシに小学生時代「ユーは美しい」と言われる。現在プロポーズを待つ29歳のOL、甘く切ない物語。</p><p>&nbsp;</p><p>・「動く城ヒメジ」</p><p>架空戦記。「備中高松城」攻略中の秀吉の元に信長暗殺の知らせが届く。そこで官兵衛は思いもよらぬ奇策に出る。自刃した清水宗治の生体反応に呼応し高松城が浮上。これこそが官兵衛の狙いであった。「姫路城」との合体を果たすと、ファイナルエマージェンシーモードとなり本能寺に向けて急速発進。一方、「安土城」攻略に成功した光秀もまたファイナルエマージェンシーモードを発動。呼応するように琵琶湖から伝説の古代城「ミズチ」が浮上する。アズチとミズチが合体する時、天空からひとりの少女「YODO」が降りてくると言われていた。ひと悶着あった後、光秀は超荷電粒子砲「ミカド」を発射する。果たして秀吉達は光秀の野望を阻止し、家康とのケジメをつける事できるのか？多すぎる要素をぶちこんだ冒険活劇。</p><p>&nbsp;</p><p>・「となりのNitro」</p><p>危険な実験を繰り返す隣人の話。</p><p>&nbsp;</p><p>・「実録・神隠し」</p><p>神隠しの恐怖を語る1000人の老婆。</p><p>&nbsp;</p><p>・「崖」</p><p>車がカーブを曲がり切れずに落下してゆく120分間。走馬灯の中、主人公は1時間前に寄ったラーメン食堂での楽しいひと時と、８年前に亡くなった愛犬・ジョンを思い出す。物語中盤、海面から姿を現したのは10年前に離婚した妻のサトミだった。彼女が遥か頭上を指さすと空中から黒点が。みるみるそれは大きくなり地球に衝突しようとする。全てを察し、意を決した主人公はしっかりとハンドルを握り、大きく右に切る。車は落下中にも関わらず隕石に吸い込まれるように進路変更する。隕石に接触するせつな、気配を感じ後部座席を振り返ると、そこには愛犬・ジョンの姿が。彼は金髪の青年に姿を変えると、タガログ語で宇宙の真実について語りだす。突然の出来事に驚くも、主人公の決意は固く迷いはなかった。また、その光景は彼が17歳の夏に見た白昼夢に似ていた。宇宙創成の走馬灯の中、主人公は阿弥陀如来に手を引かれ近づいてくる娘の愛香の姿を目撃する。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kizinecoclub/entry-12814638087.html</link>
<pubDate>Sat, 01 Jul 2023 23:27:29 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>AI</title>
<description>
<![CDATA[ <p>巷を騒がせているAIについて少し書いておこうかと思ふ。</p><p>&nbsp;</p><p>画像系のものを随分前から導入しているが、確かにエグい。</p><p>下書きをSD(検索で引っ掛かりたくないので略しておくが)でごにょごにょとやると、あ～ら不思議。</p><p>特にCNの「爆裂」進化は「素晴らしすぎる祝福」と言える。</p><p>※ちなみにスペックは3000系の24g、既にオンゲをやらなくなって久しいが、ここに来て遥か昔の遺物が役に立つとは思わなかった。出力も爆裂速度だが、さすがにエクスプロージョンもバーニングもしない（してしまうと困るが）</p><p>&nbsp;</p><p>何を書いているのか不明だが、とにかくエグいの一言である。しかし、これらは完成形の一例であり、これがクリエイティブと言えるのか？作業ではないか？といった思いもあるので個人的には「理想の姿」「お手本」「教材」といった位置づけである。</p><p>絵に関してはまだ素人の域を出ないと思うので何とも言えないが、例えばこのポーズにおける正確なシワの位置、中世衣装の場合のウルトラ・ディテール。今までであれば類似のものをネットで検索する、画集を購入する、実物を取り寄せる、といった方法のみであったが、AIを用いることにより瞬時に「参考資料」を手に入れることができてしまう。</p><p>そう、参考資料である。例えば〇〇っぽく。そこにはクリエイター自身の経験が必要となる。しかし、それだけでは何か物足りない、といった場合。AIはアイディアの手助けもしてくれるのである。特に、初見で無理難題を押し付けられることも多いプロにこそ恩恵があるのでは？とも思ってしまうが、どうなのだろう。とかく商用の場合、細部に不整合と違和感、手抜き感があれば信用にも響くように思える。</p><p>&nbsp;</p><p>学習の段階であれば、基礎的な反復練習、その一方でAIが出力した「理想的な結果の一例」をインプットし、まずは「それ」を目指す。絵に限らずであるが、スキルが身についていく、能力を獲得する、とはとても心躍るものである。AIの進化はその一助となるが、短時間に大量に生成しなくてはいけないような「仕事」の世界になるとまた話も変わってくるのだろう。</p><p>そういった「楽しみ」は不要で、単にビジネスライクに稼ぐ事を目的としたとき、特に自律創成型AIを用いた作業師と、今までのクリエイターとの間に埋めがたい溝が出来る事は誰にでも予想されよう。</p><p>&nbsp;</p><p>私の個人的な考えだが、クリエイティブとは「億る」ための夢（Dream*Jumbo）を激しく含んだものと認識している。億れるとはつまり多数共感を得らるるという事である。そして、自分の作りたいモノと多数共感の一致が起きた時、この上ない『至福』『エクスタシー』が訪れるのではないだろうか。わざわざ書くまでもなく、多くのクリエイターが目指すのはそこなのであろう。その両輪のバランスが悪い場合、「道」を走る馬車は蛇行し、 <span>御者</span>は振り落とされ、車輪に轢かれ、本来の場所（TEN・竺）に到達できるか不明である。</p><p>&nbsp;</p><p>私は本業を持っているので全ての時間をクリエイティブに費やすこともできないが、理想を言えばどうなのかな、と最近思うようになっている。本業の方もやりがいがあり贅沢な話であるが捨てるといった選択はもはや無い状況にある。</p><p>&nbsp;</p><p>蛇足だが、音楽AIに関してはノータッチである。非常にシンプルな自動生成系は昔からある。また、興味本意でいくつか購入したものもあるが、生成物が微妙なのでほとんど使う機会が無かった。</p><p>DTMを始めたきっかけが、しばらくブランクのあった楽器練習の為に自分で何か作ろうといった感じだった。やはり練習曲といってもテンションが上がらないとなかなかに食指が動かない。楽譜化されていないような（今はストリーミングだが）素晴らしい既存曲は耳コピで事足りる。幼い頃は、自身が作曲するなど考えたことも無かったので、色々と便利な時代になったな、と感慨深いものがある。</p><p>&nbsp;</p><p>音楽は一次元、絵は二次元、三次元とよく言われる。音楽は奥行は深いかもしれないが、幅が狭いように感じる、アンビバレントな例えだが(笑)。AIが不完全な出力をしたとしても、他次元に比べれば修正は容易に感じる。</p><p>&nbsp;</p><p>こだわれば、確かにどの分野も際限はないが、最低限レベルでも、かかる手間暇は次元が増える程に多くなるように思う。DTMが登場してからの音楽は特にだが、制作のハードルは凄まじく下がったように思える。作曲のみの工程を見れば、特に音感や理論が熟達していれば、音の線を「織る」だけで済む。何年も音楽をやっていれば感覚だけでもそれらは容易であり、時間短縮も計り知れないものとなるだろう。非常に単純なインスピレーション的な作品であれば制作時間=再生時間である。ちょっと極端かな？とも思うが、皆口にしないだけで、おおむね的を射ているように思う。</p><p>これは書いていいか悩むが、労働と対価、例えば薄給で働く日の当たらないアニメーターなどはどうだろうか？等と考えるとキリがない。しかし、残念ではあるが、世界とは必ずしも公平に等価交換で回っていない事は書くまでも無いだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>AIのこちらの分野が今一なのは、技術的な困難さというよりも需要の問題なのだろう。また、歌に関しては打ち込み時間をかけて調整するより歌った方が早い、歌ってもらった方が早い、というようにマンパワーの方が開発コスト、時間を含めてまだまだ安い、早いと言う事なのかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>AIは時間短縮を可能にしてくれる。これからのクリエイターは無限に吸収し爆裂進化し、ハードルがますます高くなる事、間違いないだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>※AIの出力結果を載せようとも思ったが、著作権などいろいろとまだまだグレーだと思うので止めておくとする。しかし、「美しすぎるAI出力」を見てしまうと誰かに見せたい、というス<s style="text-decoration:line-through;">ケベな欲求</s>も出てくる（ナニがスケベなのかよくわからないが）。とにかくひとつだけ言えることは、下書きを投入するとなぜか女体化し<s style="text-decoration:line-through;">Gカップ</s>化し服を脱ぎ始めてしまう不思議な呪文である。</p><p>&nbsp;</p><p>冗談はともかく、AIでイラスト制作は便利にはなっているが、プロンプト入力→出力は個人的にはクリエイティブをやっている感覚が全くない。ある程度までは自分で描き、理想の完成状態のいくつかをAIに出力させ参考にする。そこからオリジナルへと変化させる、が健全なのだろう。</p><p>金銭化に価値を置く場合はその限りではないが、いずれはAI絵が飽和状態となり、その余波を受けて手描きの価値が低下する可能性はあると思う。しかし、購入者はAIではなく人間である。彼らの求めに応じた物を提供するのが商売の基本だと思うので、大袈裟に言えば人類の意識次第なのかな？と思うが、未来は私にも分からない。</p><p>&nbsp;</p><p>以前にもどこかで書いたがゼロ出力。自分の脳内でイメージしたナニカを鮮度の高い状態で、素早くダイレクトに具現化するには、絵であれば画力を上げるしか方法は無いように思える。音楽にも同じことが言えるが、紙とペン、あるいは鍵盤が「それら」を素早く具現化できる道具なのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>【２つのAI】</p><p>1.無意識的に出てくるクリエイティブの原形とは、積み重ねによる意識的学習や、その時々の環境（運）による複合的要因がもたらす産物と言っても過言ではない。例えば無意識に委ねてみても碌なものが降りてこなければ学習や努力、センスが足りていないのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>「この人だから」というのは、これが大きいように思える。たとえば双子であっても全く同じ経験と記憶が重なるわけではない。物理的に言っても同座標に同じ人間が存在し、行動することは不可能である。必ず差異が生じこの差が出力に影響を与えるのである（限りなく似る可能性はあると思うが）</p><p>&nbsp;</p><p>例えば、ゲーム音楽にしても曲を聞いた瞬間、あ～この人っぽいな、と言うのはだいたい分かってしまう。それは原形部分が強烈だからだろう。すでに億ったような人達には貯金があるので、脅威になる事はないと思う。しかし、これからはそうもいかないだろう。今まで我々が聴いたことも見たこともない個性をAIが創出してしまう可能性がある。AIと人力の競合、競争状態となった時、何を見ても聞いても既視感を覚えられてしまうだろう、「またあれか？」になるのである。</p><p>&nbsp;</p><p>AIが恐ろしいのは、瞬時にこれらを獲得し取捨選択し、それでいて既存のデータと被らないようにノイズまで入れてしまう。この処理を人間では不可能な速度でやってしまう事だろう。</p><p>クリエイティブの大元とは、目的物とは一見無関係な概念を含む、複合的タスクの集合である。正確にはこちらの分野は、AGI「Artificial General Intelligence」 と呼ばれるが、非常に高度な自律性を持ち、人間に近い形で柔軟に対応してしまう恐るべき技術である。一般に人工知能と言われ、SFの題材としてもしばしば用いられる。</p><p>&nbsp;</p><p>簡単に言ってしまうと、想像、創造の大元の部分、この主導権を自分以外に渡してしまうAIの利用法である。</p><p>&nbsp;</p><p>2.もうひとつは、特定タスクの補助、前述でもあったが、細部の色塗りや修正。元のアイディアは委ねずに技術的補助として活用する場合。例えば、絵の初心者がいきなり商業クラスのものを描けるわけもなく、技術の習得には長い年月を必要とされるわけである。今イラスト界隈でズルイと言われてるのは、主にこの部分であろう。</p><p>既に習得している場合は、大いに時間短縮になるが、プロ側からすれば素人でも修業期間を得ずにアイディアのみで完成体を短時間で制作することが可能であり、仕事を奪われてしまう可能性も高い（当然ながら、仕事獲得は技術のみではなく、人間関係も影響するので、素人が誰でも即商業プロになれるわけではないが）</p><p>こちらであれば、原形が粗削りであってもAI補助により完成系を見せてくれる。当然ながら100％その通りではないだろうから、そこから戻してゆく、といった方法もあろうかと思う。特に時間の無い人にとっては有用かもしれないし、その過程自体が修練になろうかとも思う。</p><p>&nbsp;</p><p>例えば商業的価値の大きいハイティーンが不安定な心理や葛藤、それらを表現しようとする場合、どうしても粗削りになろうし、経験値の低さゆえに、頭で思っている事と出力されるものの未熟さに苦悩することもあろうかと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>・AI技術の目指す世界。アイディアを即完成品に、このコンセンプトは消費者側からすれば、非常にありがたいものと言えるだろう。音楽界隈においてその革命は昨今著しい。しかし、こだわりの強いクリエイターからすれば到底受け入れられるものではないだろう。漫画界隈においても、似たような現象がみられる。が、完成系（表現したいもの）を主とすれば、過程は全て属ということになるわけで、立場によっても異なってくるだろう。その辺りのせめぎ合い、今後どうなるか様子見といったところだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>・分野にもよるが、「混ぜる」といった行為は外部から簡単に分かるものではない。自己申告した人だけが損をするようなことになれば本末転倒である。規制をかける場合、性善説に立った施策はよろしくないように思える。むしろ、利用されることを前提としてしまったほうが公平かもしれない。</p><p>例えば、イラストであれば手描きの方が味がある云々の話は、一切情報なしでも見分けられる「神眼」「第三の眼」を持ち合わせていなければ、無害だけならともかく、有害や妨害になりかねない『意味のない美しい言葉』なのである。</p><p>これは絵の話のみならず、１００％の証明をしようとする場合、膨大な作品ひとつひとつに最初から最後までの過程動画を添付する。事前トレースや、覚え込みが無いといった、アイディアが生じる瞬間の脳内部まで可視化できねば不可能となる。</p><p>&nbsp;</p><p>１番目と2番目は同じAIながらも正反対の性格を持つように思える。例えば音楽の場合、原形部分が飽和した時、希少性が高くなるのは編曲力や流麗なアレンジ力になろうかと思う。編曲と言っても解は一つに限らず、こちら側でも個性を出すことは充分に可能である。2番目の場合、アレンジをAIにやらせるようなものであるから、元のメロディに重心が置かれることとなる。しかし、両方揃ってしまった場合、まだ先の話かと思うが、真にAIとの戦いとなってしまうのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>現在のAIの侵攻(笑)について思うのが、奇抜で意外なものを偶発的に乱発するといった次元の話はオマケ程度のものであり、実際に使用してみれば分かると思うが質に関して言えば（大元のビッグデータがある故に当然だと思うが）笑い事で楽観視できる次元ではない。</p><p>私は興味の無い部分に関しては徹底的に楽をしたい性格なので、例えば絵が完成品の部品のひとつであれば質とコストを鑑みて、特にスピードのある方を選択する。また、非商用や遊び、実験的な部分においてAIを使う事に躊躇いはないが、こだわりたい部分には生じた余剰時間を徹底的に当てる。こういうスタンスなので、手作業に関して妄信的な精神論で非論理的な勢には関わりたくないものである。モーターがあるのに車輪を手で回し、自己満足に浸るというのはやはり異常としか思えないのである。</p><p>&nbsp;</p><p>やや強引なこじつけにも思えるが、1番目はタロットのⅧが示すように己の内面に深くかかわる事象。２番目は外的な要因として、Ⅶの戦車のカードが近いように思えるが、AIを万能視してしまえばメルカバーであろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>何はともあれ便利な道具は使うだけであり、クリエイトの本質は作りたいものを作る。ただ、それだけでありAIにより何かが変わるといった話でもないのだろう。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kizinecoclub/entry-12806317985.html</link>
<pubDate>Thu, 01 Jun 2023 21:22:26 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>♰</title>
<description>
<![CDATA[ <div>＜完全体＞</div><div>・何か思わせぶりで謎めいたものの多くにも元ネタがある。そこを見抜いたとき「その程度か」になる。完全にカオスな意味不明なものになるとある種の芸術性を感じるが、これはギャグや病であろうか。この「繋がりを見いだせない完全なハズシ」が難しいのである。今までにないオリジナルを見つけることが覇者への道である。つまり、AとＢの合により全く新しい「価値あるＣ」を生み出す能力である。されど、これは非常に困難であり選ばれた者にしか到達できぬ領域なのであろう。</div><div>また、特に音楽をやる人間はナルシシズムの塊であり、究極的に目指すのは「外見、内面含め、自他共に認める格好良さ」であろうかと思う。格好良さの哲学も「ジャラジャラ」と長くなるので「別の場所」で。</div><div><p>&nbsp;</p><p>＜U戦＞</p><p>・ウ国東部全てを解放し、ロシアが撤退しプーチン政権が崩壊すれば、今回の戦争は一件落着である。しかし、仮に東部四州がロシア領となり停戦合意でもすれば、台湾、尖閣が怪しくなってくる。部分的とは言えロシアが勝利したことになるからである。</p><div>また、ロシアは３０万近い兵を動員するようである。仮にその戦力が壊滅的打撃を受け全面撤退となればロシアの面目は丸つぶれである。ここで核の使用に関しては何とも言えない。が、これはロシア国内のヘイトにも左右されるだろう。</div><div>戦場においてもっともやってはいけない事がある。それは士気と統率を欠く事。各個撃破と敵前逃亡の前に命は消えてゆくだろう。戦場に出ればあらゆる私情を捨て「殺る覚悟」で向かわねば死しかない。武器を持った敵は自身を守る為、躊躇しない。しかも今回の戦争、防衛する側には大義があり士気も高い。</div><div>兵士が畑から取れるかのようなロシア側のやり方を見ると本当に怒りしかない。降伏勧告という話もあるかと思うが、督戦隊のような存在がいる以上難しいだろう。降伏を促す場合は一般兵よりも上級将校の方が効果が高い。このようなミラクルが戦闘中に起きてくれれば損害も激減するだろう。しかし、情報が漏洩すればそれまでである。現代戦で大規模な寝返りが可能なのかは不明である。仮にそのような事が起きるとしたらデータとして興味深くもあるがまず起きないだろう。</div><div>&nbsp;</div><div>・ロ側は「プーチンのせいだ」と冷静な判断に至る前にまず、身内の怒りは直接殺したウ国に向かうだろう。これらはプロパガンダにも大いに利用されるであろう。内戦や革命を誘発させたければ、この部分を執拗に修正するしかない。そしてロシアに厭戦気分を蔓延させ、ゆっくりとプーチンの死を待ち、後継者が非戦的な人物になる事をお祈りするしかない。西側資本主義にはシステムとして富むものは富んでしまう感情を非常に揺さぶる部分があるので、特に貧困層の多い国家では悪の象徴が如きであり、弁士等に利用されやすい。思考停止してしまう層に対してこれらは利用しやすいのだろう。</div><div>&nbsp;</div><div>そして思う、偶然ロシアに産まれ、海外に脱出する術も持たない低所得層。今残っているロシア人には「仕方なく」もいるのではないだろうか。部外者は言う、プーチンを選んだロシア人にも責任があると。しかし、それは安全な場所だからこそ言える。力で抑えつけられているに等しい状況、例えば東側、過激な一部中東やアフリカは国家ＬＶで特殊な事情を抱え自由が制限されている。内部から、命の危険があるにも関わらず自らの力で変えよ、など。私が逆の立場なら「貴様がやってみろ」と言うだろう。</div><div>&nbsp;</div><div>・ウ国に対する援助を代理戦争や命といった言葉で皮肉る向きもあるが、本質的な問題として、さまざまな経緯はあろうとも今現在とは「国を奪われる状況」である。武器を含めた支援を行わなければ、ウ国は多くの命を加速度的に失う事となる。<u style="text-decoration:underline;">祖国を守ろうと思う人のみ</u>は竹槍一本でも戦うように思える。ロシアの侵略行為に対してどうアクションするのかで選択は割れる思うが、国など知らんよ、という人はとっとと逃げ出すと思うので、あくまでもウ国で残り戦う者のみに限った話として続ける。</div><div>命の観点から優先すべき点があるとすれば、祖国を守る為に残っている兵士の被害を減らす事。その為には核を持つロシアを刺激しないように、強力な武器を送り続ける必要がある。また、世界的に見ればこれは千載一遇のチャンスなのだろう。戦争を長引かせてロシアの戦力を徹底的に削ぐ、弱体化したところで交渉。西有利の状況で、双方核兵器を少しずつ減らしてゆく。が、これは核の脅威前提の話である。</div><div>&nbsp;</div><div>ロシアが仮に核を使用すればアメリカもそれ以上の核を持っている。常識から考えれば、核の問題は相殺状態であり、ロシアが勝たんとするならば、ハッタリ以上の効果を持たない。核使用による引き分けという選択は即ち人類滅亡であり、そのような選択をロシアがする確率はほぼ無いに等しいと個人的には思うのだが・・・。短期的解決であればウ国の一部をロシアに割譲と思うが、その選択をウ国がするとも思えない。</div><div>&nbsp;</div><div>そもそもにおいて、今回ウクライナで犠牲者が増え続けるのは西側の態度によるところが大きいだろう。本当に短期で終わらせようとするならば、超法規的措置で、<u style="text-decoration:underline;">ロシアは絶対に核を使わない前提</u>のもとにポーランドあたりに集結し一大攻勢に出ればよいだけの話である。4州を奪還したのち、速やかにウ国に核兵器を搬入、停戦協定を結ぶのである。現在は中途半端な戦力の逐次投入によりウ国人に犠牲を強いているに過ぎない。仮にロが核を使用したとしてもウ国以外には使用しないだろうから黒海に適当に艦隊を展開すれば迎撃も不可能ではないだろう（多分）</div><div>&nbsp;</div><div>核を撃たれたらどうするのか？といった話もございますが、続きは偉い人にお任せしましょう。とはいえ、戦争が長引けばエネルギー高騰は続き、シャモジ（Shamoji<span style="white-space: normal">）や金が垂れ流され続けますので、日本も他人事ではなくなるでしょう。</span></div><div>&nbsp;</div><div><div>※非常に威勢のよろしい話とは逆になるが、国家に対する個人的考えは過去に書いてあるので重複させないが、国家を会社に例えてみると分かり易いだろう。軍事侵攻を受け敗北するとは倒産である。我が国が軍事侵攻を受けた場合、それは外交的失敗と言える。また、自衛のための準備といった話もあるが、それにより債務超過で飛んでしまえば敵対社の思う壺である。脅しだけで勝手に倒産してくれるわけだからこれほど効率の良い話も無いだろう。</div><div>若干話は逸れたが会社が倒産するまで付き合う、倒産しないように必死に戦うとは戦争になったとき文字通り命を懸ける行為であり、例えば世界は日本だけなのか？といった視点で見た時、国を守る以外の選択肢も出て来るであろう。この選択を許さない国家とは退社を許さないブラック企業。またコンプラ違反するような不適切な企業であれば転職や独立といった選択もある。国家を特別なナニカと考えるよりも特に命が係わるような事案が起きた時、思考停止せずに会社におきかえてしまう方が健全かもしれない。</div><div>&nbsp;</div><div>・戦争の場合はリアルに死にますので、私ならこうするだろう程度で付け加えておきますが、欲しければくれてさしあげます。しかし「二回目はございませんからね？」と<u style="text-decoration:underline;">核</u>約させるのです。つまり、これ以上侵攻する場合は先制核使用の正当性を得るのです。</div><div>防衛の為に喪失する命の量について考える事もリーダーには必要でしょう。正義とプライドを貫くことは確かに大事ですが、それにより、この先失われる命や引き時にも英断が求められます。仮に勝てたとしても失う量が甚大すぎれば、もはやそれは勝利とは言えません。また、優勢な状況だからこそ停戦する方法もあろうかと思います。</div><div>誰が悪いのか？といった話は当然ありますが、戦争の場合、彼我の戦力といった現実と向き合う必要があります。また敗色濃厚となり困難な状況に陥った時、玉砕か種を残すのか？といった決断もリーダーには求められます。個人的には日本も核武装すべきと思いますが、管理能力が気になります。うっかりボタンを押してしまったでは始末書では済まないでしょう。</div><div>&nbsp;</div></div><div>核の可能性について追記しておきますが、２点。ウ国に核が渡った時と、プーチン以外の将校による暴走。まず、戦中にウ国に渡った時、戦況次第では間違いなくモスクワに打ち込むでしょう。そうなれば世界核戦争。次にプーチン以外の決定権を持つ将校、凄惨な現場に近い人間と、机上で上がってくる数字を見ている人間とでは精神状況が異なります。現場ほど、さっさと核を撃ちこんで終わりにしてくれ、と思うでしょう。気化爆弾、クラスター、地雷、核、どのような方法であれ死は同じです。西側優勢になったとしても停戦の時期を誤れば最悪の結末が待っているかと思います。</div><div>忘れてはならないのはウ国の滅亡やモスクワが核の炎に包まれる事、ロシアの崩壊＝「彼らにとって」世界の終わりだという事。窮状においてもなお、世界的視点で状況を俯瞰できるものでしょうか？とコタツに入りながら思ふ。</div><div>&nbsp;</div><div>・ロシアの未来が制裁により絶望的になったとき、「核後」を見据えた行動に出る可能性もある。世界核戦争になった後、地球の支配者を決めるアドバンテージとなるのが「残存兵力」と「残存核」である。恐らくすべてを打ち尽くす前に、核戦争は一旦終結を迎えるだろう。そして、長い冬の時代。復興後も人類は残った核兵器や兵器を「正義」と「安全」の名のもとに奪い合う。</div><div>&nbsp;</div><div>正義には代償がつきものであり、誰が血を流すのかを忘れた時、心は独り歩きし、本人が気が付かないままに邪悪へと反転する。</div><div>&nbsp;</div><div><p>♰　幾霜星　泡沫の年代</p><p>　　惨月の廃晄にて　芽那（ニシナ）の番いが饗す</p><p>　　　極白の千野にて　黒彩之百合　聯戟を従へ</p><p>　　　　馬骸の王降れり　十十壱九「totoiku 呪」　海龍より</p><p>　　　　　壱八七六「言わ（は）なむ　祝」　山河に燃ゆり</p><p>　　　　　　愛しめども　雅蘭　蒼穹</p><p>　　　　　　　惜しめども　華煉　早急　♰</p><p>&nbsp;</p><p>続・2025期</p><p>&nbsp;</p><p>紗布津　真軌火　灰　掌　死　転　鳳　雲　神　無　??&nbsp; 時　</p></div><div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221022/22/kizinecoclub/3c/1a/p/o1041084015192131415.png"><img alt="" contenteditable="inherit" data-tc-id="w-0.6165625868528735" height="339" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221022/22/kizinecoclub/3c/1a/p/o1041084015192131415.png" tc-textcontent="true" width="420"></a></div></div>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kizinecoclub/entry-12772469615.html</link>
<pubDate>Fri, 24 Mar 2023 00:00:27 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>曖昧さの限界</title>
<description>
<![CDATA[ <div>物事には、変えようのない軸、核のようなものがあります。黒は黒であり、白は白。どこかでキッチリとした線引きは必要でしょう。私どもからすれば、「日本の美徳」的解釈はありふれ過ぎていて既に食傷気味だったりもします。また、よく分かっていないが故に曖昧な表現で逃げる。あるいは白を黒と言ってしまう、自己陶酔、自己満足、と見る事も可能です。言語化はタネ明かしのように、実はこの程度。なんだ、こんなに簡単な事だったのか。を与えてしまいます。人によっては気づきにもなるでしょう。</div><div>&nbsp;</div><div>最終的には旨く言語で説明できなくなりますが、「説明できない事を美徳」としてしまう事には逃げや問題放棄の「影」があることも忘れてはならないでしょう。徹底的に因果を思考する哲学とは真逆の方向と言えます。むしろ宗教と親和性が高いのかもしれない。考える事そのものが「悪」であるかのような「センスがない」かのような詭弁により蓋をする事はナンセンスです。</div><div>&nbsp;</div><div>黒を黒と言う表現は別の言い方を用いれば、１を見て１しか見えないとすることもできる。では１０に膨らませる別の彼らが、果たして根拠を示す事できるのか？説明できるのか？といった話になったとき、「説明できません」「説明する必要が無い」「説明しないのが日本の美徳だ」と返されたときモヤっとするはずでしょう。それを持ち出されたとき何でもアリになるのです。</div><div>&nbsp;</div><div>特に具体性を必要とされる状況において、この「重要な部分」を曖昧にし濁すようなことがあれば、論理的に即答できなければ、分かっていない証拠です。このやり方は昭和では通用したかもしれませんが、現在では通用しないのでしょう。審査の曖昧さ、不透明さ、生じる弊害の方がむしろ多い。例えば、雇用のルールがカルチャーだから曖昧が許される、といった話はいずれ過去のものとなるでしょう。忖度する力が衰え感受性が低下した、というよりも厳密に定義せねばクオリティの高いモノづくりへは至れなくなった。つまり、全体のレベルが飛躍的に上昇したという事なのでしょう。</div><div><p>&nbsp;</p><p>新世代と対等に張り合おうとするとき、「昭和のハッタリ」がいつまで通用するのか？といった疑問もわいてきます。我々は第三者視点から他人事のように言えますが、他人事だからです。</p></div><div>&nbsp;</div><p>新世代の一部には、「そんなん分かってんだよ、その上でな～」「どっちに転ぶんだ？」といった次次元からの非常に鋭い視点を持っているな？と思える勢もいる。とてもドライで無感動で人によっては慇懃無礼に映るかもしれない。</p><p>ただ、善や悪に対する考え方がやや硬直している感じもうける。表現が難しいが、悪の動機が単純という話ではなく、複雑にしようとする努力は感じるが結局単純だったり等。経験不足により情報に対する過剰反応ゆえなのだろうか？という気もするが。いわゆる独りよがり、チューニビョーとはその辺りにあるのだろうか。クリエイティブの場合、そこはむしろバランスを無視して、全てを振り切った方が面白いと個人的には思う。</p><p>つまり、中途半端にリアルに寄せようとしなくてもよい、という話である。リアルに寄せ過ぎた時、単純で分かり易い面白みのない動機、グレー同士のぶつかり合い、あるいは悪悪の小競り合いだったりでまずエンタメにはならない。また、善側に見えても独り善がりがほとんどであり、それは結果としてむしろ害悪。その状態の中途半端な正義が力を持ってしまったとき、まず被害を受けるのが無関係な真っ当な層である。</p><p>完璧なヒーローをリアルで探すのは難しい、仮にそのような者が存在したとしても、一瞬で全てを蝗に食い尽くされる如くであり、情報としては出てこず、存在すら怪しまれるだろう。リアルとは大なり小なり侵食し合って成立している。</p><p>完全無欠な自己犠牲チート主人公、作者により結果（主人公の事故死など含む）をも自在に操作できるのがエンタメの強みであり、そこをあざとくではなく自然な感じで盛り込むのがセンスなのだろう。結果としてご都合主義や予定調和が起き、リアルを題材にしたとしても結末や過程を自由を変更できるのも売れるエンタメである。</p><p>また、イケてるスタイルもやや記号化が起きつつある、と個人的には思う。例えば、とりあえず日本刀持たせておけば的なものは既に新しさを欠くのかな～等。そこでもうワンステップ捻りが欲しくなるし、次の発想ができてしまうのもZ世代なのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>オールド世代が例えば、１０年かけて築いてきた物語は、アーカイブによる数年、あるいは数か月で吸収されてしまう。昭和の「上澄み」を効率的に採集し自身の作品に取り込む、子宮内部で高速に成長する胎児と同様に。センスというのは時代が進むにつれて洗練化されてゆくと思うし、例えば昭和のヒーローを見て目を輝かせるような方は少ないかと思う。そこで「使える一部」を拾うという事なのだろう。普遍的に価値があると思えるものもあるが、それはごくごく一部である。</p><p>&nbsp;</p><p>これらを経験不足、未熟で切り捨てることは既にできなくなっている。以前にも書いたが、人は同調圧力を嫌い、上からの押しつけを嫌う。とかく、論理的に説明できない「感性」部分の強制（俺の言う通りにすればいい的な）は、凄まじいほどの嫌悪感を抱かれるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>住み分けは重要だが、不要な情報も求めなくとも目に入ってくる時代になっている。</p><p>&nbsp;</p><p>汝、宝欲するならば、多くの影を踏み幽玄へと至れ</p><p>位山にて帰るすべなく、夢幻へと泡影するとき</p><p>夜を這う三眼の帳が峰を覆うだろう</p><p>&nbsp;</p><p>地は混沌に酔い、天は四海（界）からの”号令”を待つ</p><p>神背の名轟き、それは降雨の如く降り注ぐ</p><p>人の円環砕きし三つ首、西旗翻り守護星が灯る</p><p>&nbsp;</p><p>海は割れ、九頭龍が地に潜る　</p><p>尖鋭なる爪、鉄を削ぐ</p><p>やがて痩せた”鴉”力尽き、東旗翻り星灯る　</p><p>&nbsp;</p><p>二星争い幾年月</p><p>地に這うかつての面影</p><p>されど夢潰えることなく探せし人</p><p>再び星灯す</p><p>北天の星妖しく朧げなり</p><p>&nbsp;</p><p>遷化万雷</p><p>&nbsp;</p><p>律導の弐拾八・退平奇（ン？これは）</p><p>&nbsp;</p><p>♰戒ッ！</p><p>&nbsp;</p><div>（以下余白）</div>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kizinecoclub/entry-12771956122.html</link>
<pubDate>Sun, 30 Oct 2022 00:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ファニメ評</title>
<description>
アメンバー限定公開記事です。
</description>
<link>https://ameblo.jp/kizinecoclub/amemberentry-12771672333.html</link>
<pubDate>Thu, 27 Oct 2022 00:20:23 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>根源論</title>
<description>
<![CDATA[ <p>1</p><p>私はsynchronicityの話を時々書いたりするが、それはもちろん科学ではない（持ち出さなければよいだけなのだが）。カールユングにしても後期はキワモノ扱いであり、心理学というよりはオカルト扱いだったと言われる。</p><div>&nbsp;</div><div>現代においては「科学」の力が優勢であり、神様や仏様と言われても「はっ？」と思う者が多数だろう。これらは、年々信者も減ってきているという話も聞くから、この先、数十年も経てば哲学やアートとしてのみ残るのではないか、と思う。例えばソシャゲにしても、古代の神々は美少女化し非常に身近なものとなっている。時々暇つぶしにやっているがイベンツでSSRの美少女化した尊乳の女神を引くと嬉しいし、別にバチが当たるとも思わない。</div><p>&nbsp;</p><p>祖母などからは「悪い事をすると神様のバチが当たる」と言われたものである。しかし、その因果を科学しようと試みた時、それはオカルトの扱いとなり、上記のシンクロニシティのような世界に向かう。</p><p>神とのあるべき向き合い方は、以前にも書いたが、人間の上位概念を常に想像し自制や謙虚を喚起するための触媒、トリガー。しかし、適度な距離を保てない、洗脳されやすい（信じやすい）性格になるとそうもいかないので、そのあたりが昨今の社会問題となっているのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>では、神々の力が通用しなくなったとき、次に出てくるものとは何だろうか？現代物理学に詳しい人は一般にはあまり多くはない。例えば、「量子力学」といった言葉くらいは聞いたことはあっても、その根本に興味を持つのは理系か、よほどの暇人かと思う。しかし、理系の知り合いに聞いたことがあったが、大元の哲学的な話になると「知らん」「必要ない」になるので、哲学的な話が好きな文系に多いのかもしれない。※文系・理系のカテゴライズもあまり好きではないが便宜上使わせてもらう。</p><p>&nbsp;</p><p>2.</p><p>量子力学の大元は確かに不明である。しかし量子効果は電子レンジ（高校物理程度で習うが、ローレンツ力を用いて電子軌道を曲げる）のような日用品にみられるが身の回りで当たり前のように利用されている。つまり、式としてはその通りであるが、因果の大元は未だ解明されていない。不思議な現象であるが、とりあえず計算上は結果を伴うので使っているに過ぎない。</p><p>&nbsp;</p><p>それを発生させる内部構造に少しだけ想像力を駆使できれば理解は早い。例えばマクロ系の我々の生活圏や脳内で気軽にエンタングルメントが発生するのか？絶対零度とは？といった諸問題。つまり、量子効果をマクロ系で顕現させるための条件が非常に厳しいのである。簡単に言ってしまえば、マクロ世界とミクロ世界で起きる現象は異なる。しかし「マクロとはミクロの集合体ですが？」といったところで永遠に議論が続いている。</p><p>&nbsp;</p><p>が、やや乱暴ながら、ここは発想を「逆転」させた方が分かり易いかもしれない。ミクロ的な量子視点とは無限遠点状態と言える。それ故に全てが同接に見える。この状態は、実証の必要がない（できない）ため死後の世界と相性がよいのかもしれない。逆に（物理的には矛盾のある表現だが）視点を近づけた時、マクロ世界が見えてくる。即ち、物質依存、人間であれば神経系に依存する全ての活動とはこちら側であり、無意識とその線上に浮き上がる意識もこちらに含まれる。</p><p><br>確かに「ペンローズの量子脳理論」といった仮説もあるが、実証は今のところ不可能とされる。脳内で量子現象が確認されたとしても、それが人の意思決定や意識にどの程度影響を与えるのか？といった部分にも疑問が生じる。仮説ゆえに１００％無しという話でもなければ、１００％有りとも言えないのが何とももどかしいころである。</p><p>&nbsp;</p><p>人間の意識の話とは、マクロ系の古典物理学でも一応の整合性を付ける事は可能である。脳内で起きるシナプス反応（神経伝達物質）、長期記憶と短期記憶の仕組み、そこから発生する認識など。死後生前の意識や記憶がどこかに残るというのは常識的に考えて無理がある。</p><p>また、日本には火葬の文化があり、炭素に還元されてしまった時、復元は不可能であり死後は腐敗が進む。生前の記憶や輪廻転生といった話も基本的にはファンタジーなのだろう。輪廻転生が正しいのだとすれば、今頃前世の記憶を持った人間で溢れているはずである。また、前世の記憶が今生では復元されない特殊なルールがあるのだとしたら、それは「無い」に等しいと言えるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>あるいは、ハメロフの仮説のように意識をはじめとする情報は別空間にあり人間は器に過ぎないのだろうか？意識は無限普遍で、人の器に入った瞬間、収縮が起き限定されてしまうのかもしれない。開閉装置の脳、肉を得る代わりに喪失する。意識が脳の外部にあると言う仮説を用いれば多くに合理性を与えるのも確かである。例えば、我々が霊と呼ぶ漂う概念にも可能性を与える。が、所詮は証明できないファンタジーである。</p><p>&nbsp;</p><p>よく量子力学を持ち出し、思えば叶うといった疑似科学も出てくるはずであるが、それは自己暗示により行動に変化が起きたといった程度のものだろう。また、偶然を引き寄せるといった話も、たまたま重なっただけであり、母数が大きすぎる時、それが起きる稀有な事例は時として必然の錯覚を引き起こす場合もある。むしろ、そのような曖昧なものに頼らずとも、自己啓発書でも読んでやる気を出した方がマシであろう。また多くは個人の努力である程度は何とかなるものである。この手のスピにはまったとき、勉強する時間よりも「願う時間」が多くなる、と言った本当に笑えない話も出てくる。</p><p>&nbsp;</p><p>3.</p><p>量子力学に限らず、相手がよく知らない場合、いかなトンデモ理論であっても整合性さえつけば一定の説得力を与えてしまう。宗教の世界においては、整合性さえつけばあとは、信じる/信じない、といった自己判断、自己責任にゆだねることが可能なので、信じやすい人にとっての宗教はとても危険なものとなる。洗脳とは、「それが１００％」だと思い込まされることにより生じる。この「１００％だと思う」に物理法則を持ち出した時、この『思う』といった部分をスッ飛ばす事ができる。つまり、問答無用に１００％にさせるのが「これ」なのである。</p><p>&nbsp;</p><div>厳格に物理法則から定義する「心や意識」の話になると。例えば、Aのスイッチを押すと被験者の心に変化が生じて、プログラム通りの動きをする。などの１００％が起きねばならないのである。それが可能だとしたらノーベル賞ものだろう。</div><div>&nbsp;</div><p>非常に大雑把な思考実験の例として、被験者の目の前に全く同じ条件の「右」「左」の道があるとする。観察している科学者が「彼は右に曲がります」と言う。１００回実験をして１００回同じ結果を出し、尚且つ、それを導き出した式が必要となる。人間の選択の際に生じる不規則性、曖昧さ。それに対するとりあえずの概念として『確率』。選択が社会生活に関わるような事柄へと至れば「心理学」となる。この場合は純粋な50/50ではなく、合理的な分析や統計により選択先を的中させることもできる。占いの世界に至れば「予言」であろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>人間の脳を限りなく削いで単純化してゆけば、解析も可能かもしれない。左右選択実験の最終段階の決定における、今「我」と感じ「選択できる」と感じている意思。往々に自由意志と呼ばれるものだが、非常に複雑な「ソレ」の解明、法則を導き出すことが可能なのか？といった途方もない謎である。しかし、その大半は「欲求」によって引き起こされる合理性の塊であり、それを分かり易く解説したものに心理学というものがある。例えば、人が水を欲する時、生命維持に必要、不快感、多くの「合理的理由」が積み重なり行動が起きる。つまり、これがマクロ側の話である。量子的に確率的に、このような行動が決定されることはまず起こりえないと言ってもよいだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>｢脳を限界まで削いでいく｣と思考したとき人の選択は｢シュレディンガー方程式｣により決まるのか？といった疑問もわくが、これは脳内で量子現象が確認された場合に限られるだろう。しかしマクロ系においては別の法則が生じ、確率的選択は排除されるはずである。</p><p>よく持ち出される、シュレ猫実験とは、実験を巨視的に分かり易く表現するために、猫の死生を決定する装置を量子確率に委ねた、だけの話である。別に、その辺を歩ている猫を意識でどうこうできるというお話ではない。また、例えば、人間がブレーキを踏もうとする時、そこには合理的な意思、計算が働いており、量子確率的に歩道に向かってアクセルを踏み込もうとはしないだろう。「観測するまで両方の可能性が重なり合っている」といったセンセーショナルな部分のみを切り取り独り歩きしているのが、そちらの界隈なのであろう。</p><p>これが疑似科学の話になると、マトリックス的世界観になる。思うだけで空中浮遊出来たり、壁のすり抜けができるなどは「人間を捨てない限り」不可能であろう。人間を捨てるとは即ち肉体を放棄し、意識体のみになるということである。こうなると完全に宗教やオカルト世界の話であり、<s style="text-decoration:line-through;">色々な意味で</s>一線を超えてしまうだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>4.</p><p>一つだけ言えるのは「完全死後の世界」は確認しようがない。たとえば、臨死体験と呼ばれるものがあるが、それはまだ生存できる可能性があった段階からの話であり、「戻れなくなる状態」ギリギリ一歩手前と言える。そこで生じる共通する不思議な現象も、まだ生きている脳細胞からもたらされたものであり、死の先からのものではない。つまり、戻ってこれた人とは、その間の「夢」を説明できるだけの脳機能と生命維持機能を有しているという事である。覚醒する寸前に生命機能喪失寸前の異常体験がフィードバックされ、ヒト科に共通するストーリーが作られるのかもしれない。この辺りは夢が発生する仕組みを少し調べればわかるはずである。</p><p>しかし、「逝ってしまった場合」全く違う体験が待っていると思うが、それを戻って説明することは不可能である。繰り返しになるが、死亡判定から数時間が経ち、脳細胞が一つ残らず死滅した「超えてしまった後」からの帰還が起きない限りは証明にはならないのである。仮に帰還が起きたとしても（絶対に起きないであろうが）、証明しているナニカが生前のナニカと同じという保証はない（意識問題）</p><p>&nbsp;</p><p>死後に関して「～である」を持ち出した時、「～ではない」が起き矛盾が生じる。科学とは「～かもしれない」といった可能性を含むこと一切が許されない概念であると言える。残念ながら科学は宗教とは違う。むしろ、意識とは組み合わせである説の方が科学よりの可能性としては高いだろう。（AIに自我は芽生えるのか）・・・意識とは無意識（法則）の集合上に生じた後付けの幻想など。この場合、ミクロレベルまで生前と全く同じ形状で復元できたのなら、復活したナニカは常に同じナニカであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>5.</p><p>意識幻想説からの派生として（絶対に確認や法則化が不可能だと分かるので書いてしまうが）この仮説に基づけば、synchronicityのような偶然がどうして起きるのか？あるいは予知感覚の発生にも整合性を付ける事ができる。</p><p>&nbsp;</p><p>※分かり易い例のひとつとして、生活習慣を変えることによってよい事が起きたとする。健康面の話であればそれは偶然ではなく必然として起きるように思える。では、その生活習慣を変えようとする「意志感覚」はどのようにして芽生えるのか？</p><p>&nbsp;</p><p>最初に結論を書いてしまうと、生まれた時点の環境→生じる意志と行動→次のステージの良き環境→生じる意志と行動のサイクルについてである。</p><p>&nbsp;</p><p>※能動的な意味を持つ「意志」と書いているが、この場合生じる「意思」と「行動」もまた受動前提の話である。その為「意志感覚」と書く。</p><p>&nbsp;</p><p>受動意識説に基づくならば、その為の良い無意識領域を作る為には意志（行動）が必要となる。その意志へ繋げるためには最初のスタートボタンが必要である。あるいは歯車の回転、これが「生」の瞬間なのだろう。</p><p>最初のスタート地点（生まれ）により他者より優位の者も出てくるだろう。また、DNAを含んだ個体差もある。例えば、ゴミ屋敷に住んでいても平然としているような人間は恐らく個体LVが相当に強靭なのかもしれない（環境に影響されにくい）、しかしそれでも負荷はかかるのではないかな？と個人的には思ってしまうが。</p><p>だが、ゴミも哲学(笑)していくとそれは乱雑に配置されている物質に過ぎず、その状態がシックリ来る個体もあるように思える。健康に害を与える不快なものを感知外へ移動させるといった考えもあるが、乱雑に配置されたものの全てが身体に害を与えるものばかりではないので厳密に定義することはできない（長くなるのでこの辺で止めておくが）</p><p>住まいの話だけに絞るが、多少高くなっても良い環境に住めとはよく言われる。私も親によく言われたものである。少しオカルト的なマユツバな話も含むが、例えば風水的に良い場所だとか、どういうわけか地価が異常に高い場所などもある。あるいはパワースポットなど。逆に誘惑が多かったり、事故が多発するような凶とされる場所もある。重要なのは自分が一日の大半いる場所であろうかと思う。それが無意識領域に与える影響。勤め人なら職場の環境だろう。</p><p>例えば、机に一輪の花が置いてあるだけで影響されやすい人もいるかもしれない。ここでは関係ないが、「花が机に置かれているという状況」は大袈裟に言えば世界法則（自身が関わらない因果）から導き出された必然とすることができる。</p><p>人も環境ピースの一部と考えればより事態は複雑化するだろう。そして、複合的にそれらが混ざり「意志」が生じ（トリガーを引く感覚を得て）行動が発生する。それが上昇する螺旋階段のように良い方向にのみ進み続ければ、良い結果と思しき必然が起きるのではないか？人によっては運を引き寄せた、と思ってしまう人もいるかと思う。ここまでのプロセスも全て必然であり最初から決定したという考え方もある。といった至極簡単な理屈である。</p><p>&nbsp;</p><p>6.</p><p>宇宙の全てが法則支配により形成されており、人間もその線上の存在に過ぎないとするならば、一見因果関係不明に思える偶然の一致も、必然とするいくつかの仮説を立てる事ができる。つまり「意志的行動理由の排除」である。意志を持って行動していると思ったら予定調和通りに動いていた。こちらは決定論に近い考えである。例えば、今これを書こうとする意志も、何の合理的理由や欲求も無く無意味に身体を動かす行為も、あらゆる全てが「最初から決定している」である。この決定論の考えは古くからあったが受動意識仮説の登場によりいくばくかの説得力を与える。</p><p>不確定要素として量子領域の話が出てくるが、運とされるような要素をこれらに含める事も可能かもしれない。しかし、現実世界とはマクロ支配であり、簡単に上書き、消滅が起き、影響があるとしてもかなり微小なものではないだろうか。当然ながらこれが正しいというわけではない。</p><p>&nbsp;</p><p>いずれにしても、とかく死後の世界のような「死なねば分からないような事」を、一部のデータを妄信し、さも分かっているかのように語ることは愚の骨頂と言えよう。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」といった名言もあるが、私自身への戒めとしても肝に銘じておきたい。<u style="text-decoration:underline;">それ</u>はいずれ死ねば、皆分かるだろうし、生者は今いただいている生を精一杯生きればよいと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>ここで天国と地獄や生前の行い云々といった倫理的な話に繋げたがる者もいるかもしれないが、ここも本来であれば「沈黙」が必要なのである。たとえ結果が善であっても、それは逆に神（大いなる概念）への背徳と言えるだろう。また、これらを脅迫の為に用いることも神を利用する（人間以下に扱う）と同義であり背信と傲慢と言える。これは神の威光を笠に着た暴力である。</p><p>&nbsp;</p><p>全ては自らが気が付き、それすらも正しいかどうかを疑い、特に<u style="text-decoration:underline;">「語りえぬもの」については粛々とその刃を自身にのみ向ければよいのである。</u></p><p>&nbsp;</p><p>我々小さき人間は成るようにしかならず、行雲流水、生生流転であり、歴史の一通過点である。</p><p>※この考えに至るは、過去に宇宙創成前、そして宇宙の外側に思考を向けた時、強烈に感じた概念があった。それを一瞬思い出したからである。例えるならランダムに生成され続ける数字が「全ての場所」で発生し続けており、今我々が存在している宇宙とは、例えば、787685555555886のように「５が偶然連続している一時」なのではないか？この先はエントロピー云々とは違った視点から時間を再定義する哲学も必要になる。また、この問題がクリアされたとしても、無からどのようにして有が発生するのか、一体何がどのようにして『最初のスイッチ』を押したのか？といった超根源的な問題がある。こちらは非常に長くなるので別の場所で書いていこうかと思ふ。</p><p>&nbsp;</p><p>7.</p><p>量子力学から派生するテーゼとして「人の認識・意識そのものとは何か？」といった根源哲学的な話もあるが、一歩違えれば宗教であろう。仮にAIのようなものに意識が芽生えた証明がされたならば、人の意識こそが妄想であり、意識は「法則の集合上に生じる幻想」という事になる。この場合「人」とは何だ？といった非常に興味深い最終命題へ近づくこととなる。</p><p>&nbsp;</p><p>哲学的命題として「存在」とは何なのか？といったテーマはつとに有名である。</p><p>&nbsp;</p><p>我々が存在していると認識できるのは「脳」があるから、これは既に科学されつつある事実である。</p><p>しかし、根源論に至った時、疑問に思うはずである。我々が世界を認識できるのは、脳の存在があるからであり、その「フィルター」を通した先にあるのが現在の姿と言える。</p><p>&nbsp;</p><p>では、その脳とは何か？それを原子から科学することはできる。しかし、これら概念もまた、脳が生み出したものであり、数式も観測宇宙も、現実の実験とされるものも、一切合切もが、根源論に至った時「それ」は何か？といった疑問と共にある。</p><p>&nbsp;</p><p>（「リンゴは重力に従って落下したとされるが、本当に落下したのか？」これが最も分かりやすい例えだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>仮に人の外部に別の認識系を持つ別次元の存在があるとしたら、人の意志的行動や、思考を含めた全てがどのように認識されるのか興味がある。例えば、点滅する光のような、人間認識からは真逆に映ったり、逆にそれら行動（仮に行動としておくが）は人にどのように映るのだろうか。ここは、意味を持たせる・探しだす方向ではなく、全くの因果を見いだせないような儀式や所作に真を探る領域の話でもある。しかし、これも根源に至れば「人間発」であるが。</p><p>&nbsp;</p><p>メンバーとも時々、この手の話はするが例えば古式にのっとった所作の数々、神々との「通じ」とは建前上の理由であるが、そこに偶然の一致を絡めた時、別の疑問が生じるのであるが、ここは非常に複雑で容易に説明しきれるようなものでもなく、益も無いので割愛させていただく。繰り返し書くが、人の認知外域についての話とは絶対に事実関係を証明できるような事柄ではなく、あくまでも、形而上の話である。</p><p>&nbsp;</p><p>今流行りの量子論も人間の脳が認識した先に生みだされたものと考えた時・・・、所謂「絶対的な真実や事実」とはどこにあるのか？といった疑問もまた拭い去ることができない、これが哲学の領域と言えるだろう。今我々が存在している世界とは「生」といった境界の内部で覆われた、あくまでも脳が認識している限定領域と言える。</p><p>&nbsp;</p><p>人は死を迎えた時、脳の活動を停止する。そして、「生」の視点からはそれを「死」だと定義している、するしかない。仮に今の私が死を迎え、全ての活動を停止した時、それを見た「他者」＝「脳が活動し、外部を認識できている状態の外部」はその現象を「死といった概念」で<u style="text-decoration:underline;">とりあえず</u>捉えるしかない。</p><p>たとえば死とは何か？といった答えの無い話ではなく、「外部領域」への想像。しかるに想像の中に発見もあり全てが無駄とも言えないのかもしれない。</p><p>非常にまどろっこしい書き方になるが「それ」に触れたような気になれたとき、その正体とは何か？自分発なのか？外部からなのか？といったような経験則のみに頼らざるを得ないような概念もあろうかと思う。そして、感覚の正しさ（神の存在）を証明しそうになるのが時に「偶然の一致」である。</p><p>&nbsp;</p><p>芸術的アイディアや発想が脳の外部からもたらされるといった、ややファンタジーに向かえば、多少興味深い話でもある。しかし、突発的に出てくる発想も記憶に蓄積されたデータからであり、意識とは無意識が見せる幻想。といった現実味の濃い科学も存在するが、概ねそうなのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>多くの疑問や予想が交錯した中で、それでも最後には戻らざるを得ないのが・・・、これを書いている私も、世界のありとあらゆるものも「脳」が見ている世界にすぎず、生の領域から認識するしかない、それが全てなのであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、思考は一周して全く変化も無く、入り口に戻ってくるのである。</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220324/05/kizinecoclub/fe/29/j/o5568371215092132947.jpg"><img alt="" height="280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220324/05/kizinecoclub/fe/29/j/o5568371215092132947.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kizinecoclub/entry-12767645933.html</link>
<pubDate>Sat, 22 Oct 2022 00:00:01 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Ideal</title>
<description>
<![CDATA[ <p>【「笑」に潜む残虐性】</p><p>「冷笑」と呼ばれるものがある。冷笑を補完するために都合の良い合理性。その為に用いられるのが、数学式、物理法則、つまり「科学的根拠」である。大昔、マキャヴェリズムと呼ばれる政治思想があった。例えば「１００人を助けるために１人を犠牲にする」。確かにこれは合理的である。しかし、そこには「犠牲になるひとり（sacrifice）」の「生」感覚が丸々と抜けている。</p><p>&nbsp;</p><p>これに関わらず、感情を含めた時、答えの出せない事柄は至る所で発生する。いわゆる「タブー（taboo)」とされるようなもの。多くの良識的な人々は、この「地雷」を踏まない。しかし、あえてそこに踏み込まねばならない状況となった時、議論せねばならなくなった時には、常に紳士的態度で臨み、人を小馬鹿にするような態度の一切は不要なのである。</p><p>&nbsp;</p><p>冷笑には概ね「それをやっても無駄ですよね？」といった意味が含まれてしまう。それで終わればよいが、そこに「余計な一言」や、他者をあざ笑うような態度がプラスされてしまうから嫌われるのである。これはディベートでよく用いられる手段である。まず、相手の感情を揺さぶり、冷静さを削ぐ。しかし、論や自身の哲学に自信があれば、そのような「小細工」は不要であり、例えば、「紳士」が集うような場所で発生することはない。これは、本質そのものに影響を与えないばかりか「品性」を著しく低下させる。</p><p>&nbsp;</p><p>感情の抑制には許容範囲の問題も出てくる。そこで「超えてはいけない一線」が登場する。真面目に真剣に、人生を賭けてやってきている事、を笑われればどう思うだろうか？揶揄されればどう思うだろうか？ここで、自分がされたらどう思うか？といった、気遣い、共感力、優しさ、想像力が必要となる。これがなければ、円滑な社会生活を送る事や、良好な人間関係を作ることが、非常に難しくなるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>特に、命や他者の不幸に関わるような、非常にデリケートな問題に直面した時、レスポンスは慎重になる。「冷笑」に潜む最たるは、他者の尊厳を踏みにじってしまう事である。これが繰り返されるにつれて社会的信用を失ってしまうのである。</p><p>&nbsp;</p><p>往々にして「冷笑」を放つ本人が体験していなかったり、犠牲者側でなかったり、異様に共感力や、他者を思いやる感覚に問題があったりと、多くは性質や教育に問題があろうかと思う。それゆえか、上記のマキャベリズム的な無慈悲な世界観を平気で持ち出し怒らせる事ができる。やがてそれが「快感」や「癖」へと変わってゆくのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>冷笑は淡々としたアッサリとしたイメージが強いが、本質的にはヌメリとした粘着質。ここを敏感に感じ取れる者にとっては嫌悪感しかないはずである。思うに、「無慈悲」な事を言える自分に酔っているナルシシズムもあるのではないか？と思ってしまうのだが。</p><p>&nbsp;</p><p>私自身も１００％完ぺきとは言えないが、時事に大いに学ばせていただくとしよう。</p><p>&nbsp;</p><p>【医療・福祉】</p><p>いかに損をしても、道理を曲げてはいけない領域は存在する。日本の古典を持ち出せば『武士道』、ヨーロッパ圏であれば『騎士道』。その行動に損得は関係ない、やらなくてはいけない。</p><p>&nbsp;</p><p>所謂「人の道」である。</p><p>&nbsp;</p><p>人間には負けると分かっていても戦わねばならない時、というものがある。そして「人はいずれ、必ず死ぬ」。卑怯で恥知らずに、恩を仇で返し、他者の犠牲の上に貪った生。そんなものに意味はあるのだろうか？ここまで厳格と言わずとも「超えてはならない一線」はあるように思える。</p><p>&nbsp;</p><p>具体的な例を書いてしまうと、今、日本では年金制度というものが度々話題になっている。そして現在の日本とは老人世代が非常に増えている。私も給料から引かれる。そして、毎年、期間中に滞りなく支払いを継続すれば、これだけ貰えますよ、といった通知が来る。それ以外にも税金をゴッソリ持って行かれる。頭に来るほどである。これが日本の現状である。</p><p>&nbsp;</p><p>「それでも」と言わなければならない。この制度を導入した時点で、絶対に終了できない。いわゆる、国家的「十字架」を背負っているようなもの。言うなれば、日本人の義務のようなもの。それと引き換えに、諸外国（特に発展途上国）に比べれば、かなりの安全と安心が約束されている。それで満足できるか否か、は個人の幸福認識度に委ねられるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>今、６５歳まで「課金」といった話も出てきている。私の頃には７０歳が当たり前になるのではないか？といった不安もある。また、支給年を先送りすれば数％のプラスも可能である。無いよりはマシだろうという気もするし、気休め程度の額だとしても、それを存続し続ける国家であったのならば、拍手を贈りたいと思うのである。問題は国家の「心意気」である。</p><p>&nbsp;</p><p>今私が払っている厚生年金は現在の老人の為であり、それを損と考えるのか？義務と考えるのか？然るに、その御老人も上の世代の為に払ってきたわけである。そして、あれこれ言われるが、年金制度は、一般生命保険では不可能なほどの還元率なのである。（まぁ、支給後１年で死亡すれば大損であるが）</p><p>&nbsp;</p><p>【終焉の刻】</p><p>終末期医療と言うものがある。身内も末期ガンを経験したことがある。とにかく入院費が高い。既に「助かる見込みはなく」痛み止めを打つのみだったが、それでも一日でも長く生きていて欲しい、と思ったものであるし、うちは貯蓄を切り崩し払い続けた。</p><p>&nbsp;</p><p>患者が、「お金もかかるしもういいよ。」と言ったからと、「ハイそうですか。」にはならない。むしろ延命を望むのは家族の方である。そして、患者にそれを言わせる国家や家庭状況は悲しいと言わざるを得ない。</p><p>しかし、かなりの貯蓄のある状態ならともかく、精神、金銭共に負担は大きいだろう。また、保険適用外の高額な先端医療を行おうとするならば、やがて支払いもままならなくなってしまうのではないだろうか？</p><p>当然ながら、医療に付随する諸々の諸雑費や、区役所への手続きにも膨大な時間を奪われる。特に全身末期ガンの場合、緩和ケアを受けられなければ、痛みにのたうち回って苦悶の表情の中、死ぬことになる。延命のみならず、「諦める」選択肢にもお金がかかるのである。</p><p>&nbsp;</p><p>個人的に思うのは「医療的に確実に不可能」な場合のみ、緩和ケアと並行して『自然に任せる』といった選択はあるべきだと思う。これは見捨てる側の医療ではなく、むしろ救済である。一般にこちら側は「消極的安楽死」と言われる。</p><p>これとは別に「積極的安楽死」というものもある。安楽死と言うと何かとこちらのイメージが強いが、動脈注射などにより、苦しみから逃れるタイミングを患者自身が選択できるようにする行為である。</p><p>&nbsp;</p><p>前者の方が、やや自然死に近い感じがする。しかし、これは医療技術の乏しかった過去に戻すようなものである。罪悪感は薄れるかもしれないが、やはりこういった選択は精神的にキツイものがある。いずれにしても原則「万策尽きて、医療的に不可能な場合」のみの選択でなければならないと思うが。</p><p>&nbsp;</p><p>死を間近に見てきて私にはよく分かるが、患者は常に「早く死にたい」「もっと生きたい」この天秤で日々揺れ動いている。それを見る家族は、何とかしてやりたいと思う。その為の選択と「国家的な補助」はあってしかるべきだと思う。</p><p>そして、まず最優先されるべきは「延命」。同時にモルヒネや（認可については不明だが）医療大麻などによる緩和ケア。患者には可能性がある限り、生き続けて頂く。どのような姿であっても、植物状態であっても、一日でも長く、「この世界」に留まって欲しいと思うのが家族のわがままであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>やがて医療技術の進歩により延命が益々手の届く範囲になってゆくはずである。そこでの要求額が仮に兆だとしても、払いたいと思うのが人の情かと思う。宗教抜きに現実問題として、人間の死とは残念ながら「永遠の別れ」である。</p><div>&nbsp;</div><div>【国家の存在意義】</div><div>1.</div><p>本来であれば、こういった「マキャベリズム的には無駄」と思える部分にこそ税の投入が欲しいところである。ここで「～すべき」といった死側への強制が起きた時、それは個人の価値観への侵害となる。これが、真に利他的な集団であれば、国家が滅んでも税の投入はあるように思える。</p><p>&nbsp;</p><p>と言っても、多数決に向かった時、老人世代が多くなれば、結果は老人に有利なものとなるだろう。しかし、財源には限りがある。そこで、どうすべきか？といった議論は必ず巻き起こる。ここで、稀に起きる老人の犯罪や、非常に迷惑で頑固な老人の事件を持ち出せば、老人以外の共感は得らえるかもしれない。負担せねばならないのは「老人以外」である、ちょっとしたキッカケがあれば、優しさなどペロンと剥がれてしまう。そして、結集した数は老人の多数を上回るだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、今の日本を作ったのは戦後から我武者羅に働き続けた老人によるもの。そんな彼らに、病気になったから、延命治療が国の負担になるから、と切り捨てるような話に向かうのは、「人としてあり得ない」と個人的に思うのである。つまり、老人の切り捨てとは「美味しい蜜」だけを頂きましょう、という事でもある。また、「どちら側にせよ」そこで生じる不正や不公平は、本質とは別の枝葉の問題である。</p><p>&nbsp;</p><p>仕方なく国家負担を1割、あるいは0.01にすると言った議論が許されるとしても、無くすべきではない。「断つ」と「縮小する」その本質は全く異なる。ここは消費税導入と似ているが、一度導入されれば、経済状況に応じて機械的に上げ下げをすればよいだけである。しかし、制度そのものを廃止した場合は「無」である。また、その場合は、具体的な代替案が必要である。特に命の選択となった場合は死or生のみであり中間は存在しない。少し硬めの表現にすれば、有機物がこの次元に存在しているか否か？といった話でもある。</p><p>&nbsp;</p><p>仮にそれで国家が存続し繁栄したとしても・・・、その国家は「正しい」と言えるのだろうか？胸を張れるのだろうか？欧米流の正義を持ち出した時、その国家は現ロシアと同等に、唾棄すべき国家として、あの北からも蔑まれる事となるのではないだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>また、何かと言えば「北欧型」のスタイルが持ち出されるが、北欧が正義というわけでもない、そこには多くの矛盾がある。「やらない」「補助しない」とは即ち物言わぬ切り捨てであり、それが北欧スタイルなのだろう。</p><p>老人、病人への切り捨てが、１００％本人の意思であればよいが、そうでなくなりはじめた場合。ＮＯと言えない雰囲気が出来上がってしまった場合。国家としての質はどうなのか？といった話になるだろう。また、これを若者側が強制、強要するような事になればもはや国家ではなく、暴力集団である。</p><p>&nbsp;</p><p>話の本質は、「税負担が増え、国家が崩壊するかもしれないからといって、弱者（特に老人、病人）の切り捨てがあってよいのか？」である。→『ならば崩壊してしまえ、人間はいずれ死ぬ』これが答えである。</p><p>&nbsp;</p><p>税の不透明や私益による無駄遣いが一切なく、しっかりとやるべきことをやったが無理だった。これであれば「理想の種」を後世に残すことができる。</p><p>&nbsp;</p><p>2.</p><p>短絡的にしか考えない、見えない者達は、例えば傍若無人な老人の動画を見た時＝全ての老人がそうである。と、思考変換が起きる。ここで自分の親が含まれるかもしれない、といった想像力が働きブレーキがかかる者もいるだろう。しかし、例えば「毒親」のような存在もある。恩恵を全く得られないような層は全力で潰そうとするだろう。</p><p>しかし、そのような一部、先鋭化した集団に基準を合わせてしまった時、真っ当な論へとは至らない。扇動屋とは、このような生まれや環境のような如何ともしがたい部分を刺激し、極端な行動や言動を誘発しようとするのである。</p><p>&nbsp;</p><p>正しい税の使い道、本質として、金持ちから吸い上げ、努力ではいかんともしがたい貧乏人に割り当てる、といった公平性がある。税の本丸は「医療」「福祉」。この部分への切り捨てとは即ち「正道」の放棄と言える。そのような無慈悲な国家に存在価値はあるのか？といった話。そして、必ず切り捨てのターゲットになるのが、健康面からも必然的に不安定になる年寄り、および病人である。<br>&nbsp;</p><p>如何に今健康で「無敵」だと思えても、人は必ず年を取るし、老齢になれば体も思うように動かなくなるだろう。また、貯蓄があったとしても、現在の国際情勢や経済を見るに、何が起きるか分からない。最悪、コツコツと貯めたマネーが一瞬で消し飛ぶことすらある。その可能性を考えても、例えば、人生１００年時代、年金のように「死ぬまで一定額貰える制度」とは神懸ったものだと個人的には思えるのである。</p><p>&nbsp;</p><p>「滅びの美学」にとって重要なのは、維持よりも満身創痍になっても旗を離さなかった姿である。</p><p>&nbsp;</p><p>ｄデーン！</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220306/05/kizinecoclub/e0/21/j/o0640064015083805248.jpg"><img alt="" height="420" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220306/05/kizinecoclub/e0/21/j/o0640064015083805248.jpg" width="420"></a></p><p>とまぁ、自分にはあまり現実味の無い話だったりもしますが、人が生活する上で最も重要なのが衣食住の「住」かと思います。賃貸であれば毎月家賃は消えていきます。持ち家でも固定資産税がかかり、補修工事の定期イベントはあるものの「住」があるのは心強い。私は代々引き継いでいる実家があるので、よほどの事が無い限りは大丈夫かと思います（とはいえ、親に頼るつもりもありませんが）、<s style="text-decoration:line-through;">衣はマッパの民族もいます。</s></p><p>余談ですが、妹が結婚、兄が海外赴任で実家を出ていき、「この際だから改修工事」で揉めたんですよね。ジッサマは中庭をドーンと作りたい。婿養子だった親父は難色を示していました。私は「核シェルターを作ろう！」と、収拾がつかなくなったんですが。どうもお年寄り世代というのは核に対する認識が甘い（うちだけかもしれませんが）・・・、開口一番「んなわけあるかい（<s style="text-decoration:line-through;">ペシッ</s>）」と笑われました。「どうせ、じっちゃん新聞しか読まないから云々」とヒートアップし非常によろしくない事態となりました。まぁ名義が私ではないし、自分は都内独り暮らしですので「好きにすれば」と。結局庭作りやがりましたが（予定）。まだシェルターの望みはあるんですけどねぇ、まぁつくづく感じるのは年寄りは話が通じない上に、次会った時また同じ説明をしないといけないのがほんとキツイ。</p><p>&nbsp;</p><p>・基本投げっぱなしにはしないスタイルなので書いておきますが、２つほど少子高齢化社会対策として「非常に心強い解決案」を書いておきます（実現味云々は知らんです）</p><p>1.海外から若くて使える労働力を輸入（定住してもらう）する、当然税金も日本の会社員と同等に払わせる。年金受け取りも可能にする（受け取る前に帰国すれば消滅など）色々と日本人による日本人の為の<s style="text-decoration:line-through;">よろしくないあれこれ</s>は考えつくかと思います。</p><p>一番気になるのが<u style="text-decoration:underline;">外国人の政治参加</u>かと思いますが、個人的には選挙権はあっていいと思います。しかし、国会議員の大半が外国人であればどうでしょうか？そこで、外国人議員数には一定の定員や制限を設けるなどは必要かと思います。やはり、ここは日本ですから。</p><p>2.食をノーマン、ノーコストに近づける。完全AI制御による農業プラント、養殖プラントなど。マイナンバーをかざすとロボットの口からポップコーンが出てくる。蛇口を捻るとビールが出てくるなど。限りなく自給自足に近づけ「食」さえ確保さえできれば国民が飢え死ぬことは無いでしょう（核戦争後対策「まだ言うか」）。食に限らず自動化による生産力が初期投資額を超えたあたりからが始まり。フルオート化とは言うなれば不老不死で無償で働く労働者のようなもの、当然必要とされるＥの問題があるが人間よりはるかに効率的であろう（１はあくまでも一時しのぎ、日本よりはるかにヤバイ中国との取り合いになるのか）</p><p>&nbsp;</p><p>・現在は円安でアレですが、海外から若く有能な働き手を輸入するため、「魅力的な日本」を発信することがとてもとても重要だと思います（他人事口調で）で、その為には何が必要なのか？日本の伝統でしょうか？アニメでしょうか？</p><p>・逆に海外に出稼ぎに行き、外貨を日本に齎すという方法もあります。しかし、生活水準は海外に合わせねばならず、数年は忍耐と貯蓄の時間が必要となるでしょう。また、国際的な日本の扱い、田舎に行けば差別もあろうかと思います。言葉の壁、人種問題。就労ピザも簡単には下りないでしょう。かつて、東南アジアから大量の出稼ぎが日本に来たように、今度は立場が逆転するわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>なんとか楽をして日本が持ち直す方法はないのでしょうか？続きは・・・やっぱり「知らんがな」なんですね。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kizinecoclub/entry-12770327433.html</link>
<pubDate>Thu, 20 Oct 2022 00:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>沖縄基地問題～Tokyoメガロポリス計画～</title>
<description>
<![CDATA[ <p>1.</p><p>最近、色々と話題になっているが、それら表面的な部分を抜きにして、基地問題の本質を考えた時。（当然ながら個人的意見であるが）まず、米軍軍事基地を「沖縄」「長崎」「広島」に置くことは、歴史と感情面から、悪手に思える。第二次世界大戦は確かに過去のものであるが、しかし、近隣諸国の感情を見ても分かるように、まだまだ完全冷却された状態とは言えない。</p><p>&nbsp;</p><p>（「冷却」に関して少し逸れるが、ロシアがウクライナに侵攻した理由に、未だにヒトラーの亡霊を持ち出している。プーチンのような世代、個人的には戦争をダイレクトに体験した世代と、子供達が鬼籍に入って、更に数年の期間は必要なのではないか？と思うが。）</p><p>&nbsp;</p><p>悪手の理由は書くまでもないだろう、長崎・広島は原子爆弾を落とされている。沖縄は戦時中の日本軍と米軍により壊滅的被害を受けた。</p><p>有事が起きた時、真っ先に攻撃対象となるのが軍事基地である。核戦争はあり得ないと思うが、核攻撃の対象にもなる。後者であれば一瞬であるが、例えば軍事基地と周辺住人の関係が最悪であれば、有事において軍関係者は、両者に対して警戒せねばならなくなる。また、敵軍への寝返り、そこまでいかなくとも妨害が起きる可能性もある。戦略的に好位置であったとても不安要素、特に「不確定要素」は極力排除せねばならない。例えば日米地位協定などは理不尽の最たるものであるが、本土の人間が報道として伝聞されるそれと、実際の被害者の間には温度差があるはずである。それら無関心の積み重ねも潜在的なリスクを上昇させる事となるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>民意が１００％賛成であり、その確証が得られた時に初めて基地を建設するべきだったのではないだろうか？ここでの民意は、当然ながら沖縄のみであり、本土の意思の一切は不要である。</p><p>特に沖縄の戦時中の悲惨な歴史。本土との関係を考えた時。何かといえば「国防」、「沖縄を守る為」、といった言葉は登場するが、もし私が沖縄県民であれば、歴史を鑑みた時、「なんで日本の為に？」「いらんわ」と思ってしまう。</p><p>&nbsp;</p><p>身近な例で例えて見れば分かり易いだろう。目の前に高層マンションを建てます。私の家は日当たりが悪くなってしまいます。そこで自分の家族と、タワマンに住む全世帯が多数決をしたとき何が起きるのか？猿でも分かる「不条理」が発生する。沖縄の歴史を含めて考えた時、これと同じ状況が起きる。※後述で被るかもしれないが、有事に際しての沖縄防衛云々というメリットは「最初の攻撃対象」といったデメリットがあるので差し引いて考えた時、メリットは文字通り消し飛ぶだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>極端な話、台湾のような独立国家？になってもよいはずである。しかし、そのせいで台湾と中国はかなり微妙な関係である。しかし、どうだろう。沖縄が仮に独立したとしても、日本は中国とは違う、それが民主的な手続きを踏んで誕生したのであれば、さほど最悪な関係になるとも思えないが。</p><p>この場合、「沖縄国」は国防の為に基地や軍隊、あるいは核兵器を持つかもしれない。そうなったとしても、今の曖昧な状況で、しかも米軍といった他国の基地がある状況に比べて、どちらが筋の通った話か？とも考えてしまうのである。</p><p>&nbsp;</p><p>これは途方もない「...if」の話であるが。</p><p>&nbsp;</p><p>しかるに、初期反対運動に熱心だった方々も、老齢化、体力の低下と共に、座り込みなどできなくなり、自然消滅していくように思える。また、面倒を嫌う世代やグローバル化の中、「どっちでもいいじゃないか？」といった声が多くなりつつあるのかもしれない。このような状況になった時、まさに政府の思う「壺」、といった話になるのだろう。</p><p>とはいえ、公共事業として決定し着工してしまえば、それを覆すことは難しい。あらゆる妨害行為が民主主義に反すると糾弾されるだろう。デモやシュプレヒコールのようなもので「決定」を覆すことは不可能に近い。それでもやる意義とは何か？それは『意思表示』であり、こういった（理不尽な）経緯でこういったことがあったのですよ、と伝える「種」「歴史」のようなものなのかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>正直なところ、私は本土の人間なので、今の国際状況の中でロシアと戦うウクライナと同様に、かなり他人事な話でもある。しかし、有事が起きた時、真っ先に戦場になるのが軍事基地であり、かつての第二次大戦のような沖縄上陸戦の悲劇が繰り返される可能性もある。そういったリスクを含めて、公平な観点から「代替地として本土のどこかに置く」と言った議論の余地はないものだろうか？とも思ってしまう。</p><p>だとしても、その議論に至る「プロセス」も大事に思える。双方に言えるが、炎上により話題を集めるという手法もある。しかし、その場合、大いに感情が混ざり、判断力に曇りを生じさせ、冷静な議論に水を差すこととなるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>2.</p><p>基地問題の根底にあるのは怒り。戦後、建設の経緯を見れば、それは上からの押し付けであり、理不尽の被害者であることは明白。それは、決して解決したわけではなく記憶が薄れているだけであり、無関心者が増えているだけである。また、いかに立ち退き料が支払われるとはいえ、先祖や両親が住み続け、墓地があるような土地とはアイデンティティの塊である。簡単に「はい、分かりました」にはならないはずである。</p><p>&nbsp;</p><p>本土からの無関係（ある意味、基地押し付けの加害者）な人間が問題に接したとき、歴史を忖度して然るべきである。その場合、現地人とどのような態度で接するべきか？そこを蔑ろにした場合、「その程度の人間」と思われ、真っ当な議論にはならないだろう。</p><p>例えば、初対面者へ中指を立てるかのような態度で迫り「落ち着いてください(笑)、冷静な議論をしましょうよ」などは、真面な大人の態度とは言えない。初対面者への礼儀のみならず、人として何か大事なものを欠いているように思える。迷惑系の多くを最近見ることが多くなってきたが、品位というよりも人として必要な最低限の礼が失われつつあるのかな。これが自由の結末か？と思うと少し寒いものを感じる。</p><p>&nbsp;</p><p>沖縄基地問題がデリケートと言われる所以は、少し歴史を噛るだけでも理解できるはずである。しかるに、今回の時事について思うのは、人は「同調圧力」を嫌う。いかに「正しい」事であっても「賛成する者は悪」といった決めつけが起き、無理やり首を縦に振らせようとする、あるいはそれにまつろう暴力的で破壊的な行動を目の当たりにしてしまえば、元々興味の無かった層の反応はどうだろうか？真に、紳士的な話し合いの場につかそうとするならば、爪をしまう必要もあるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、人は争いを好まず安定方向、現状維持へと流れる。襟を正して「笑顔」で議論をし、その末に本土に米軍基地が移設されることは、かなりの確率で起きないように思える。誰が好きこのんで隣地に危険な軍事基地など置くだろうか。そして今、誰も引きたがらないジョーカーのカードを沖縄が持っている。国としては民意といった言質を取りたくてウズウズしているはずである。沖縄で行われる選挙や一挙手一投足が年々引き返すことのできない既成事実と建設の進捗率へ拍車をかけるのかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>では、どうすればよいのか？といった問題は民主主義が抱える本質的な問題に触れるので、ここまでとする。49対51&nbsp; 21対79&nbsp; 少数意見を尊重しつつ、といった美しい言葉が抱える矛盾である。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>【真・東京メガロポリス計画】</p><p>非常に強力な代案があるとすれば、首都東京をキーウ化（大シェルター完備）する。あるいは、東京湾を埋め立て、大規模な日米共同軍事施設を建造する。</p><p>&nbsp;</p><p>これであれば、首都防衛も兼ね一石二鳥である。そして、</p><p>&nbsp;</p><p>1.厚木、千葉、埼玉の三ヶ所に大規模原発。</p><p>2.埋め立て湾内に向けて巨大送電線とリニアモーターカー。</p><p>3.レールガン（いずれは荷電粒子砲）の建造</p><p>※超規模のレールガン基本４門とし、四聖獣の名を冠する。安定してくれば１２門（十二神将）</p><p>4.横須賀基地はそのまま利用。</p><p>5.埋め立てエリアは三浦半島を残し、横須賀以北、千葉エリアは冨津から。</p><p>6.第一次工期としてアクアライン沿いに水門を建設</p><p>7.風水的にベストな配置※重要</p><p>&nbsp;</p><p>冗談のように見えてかなり現実味のある提案である。</p><p>&nbsp;</p><p>予算、及び完成年数は不明だが、偉い人が考える事である。ＡＩ技術もふんだんに取り入れれば何とかなるだろう。今後の世界は、ロ中を「最大限の警戒感を持って注視」する時代になるはずである。円安を期に外資誘致し、軍港、商業施設を西側共同にしてもよい。各国の艦船、原子力潜水艦が並ぶ姿は、非常に力強く、心強く、壮観であろうかと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>これで万事マルッと収まるであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>＜地獄編＞</p><p>これに変わる更に”素晴らしい”国防の方法がひとつある。</p><p>&nbsp;</p><p>「巨大地下都市」を作り、核戦争が起きても自給自足できる体制を整えるのである。</p><p>&nbsp;</p><p>撃たれることを前提とし、攻撃を捨て防衛費全てを防御へと転化する。火に対して火で自滅するのではなく。地の力への回避である。また、避難用の地下のみといった考えを捨て、<u style="text-decoration:underline;">人の生存圏を地下に拡大する</u>、といった思考のクロスグレードも必要である。</p><p>しかし、これは計画段階の話である。地下で育つ植物、太陽光を浴びるに匹敵するような『疑似太陽』。地熱発電、マグマ路を結ぶ超耐熱潜水艦、等々。地下生活がメインになれば、それに伴う新しい病も出てくるだろう。そこで伝家の宝刀「AI」である。</p><p>&nbsp;</p><p>宇宙進出に比べればこちらのほうがまだ現実味があるように思える。<s style="text-decoration:line-through;">あるいは「海洋都市」を</s></p><p>&nbsp;</p><p>そろそろ人類は「地上」へのこだわりを捨てる時期に来ているのかもしれない。真の楽園は天界ではなく地下にあった。そして、古代アトランティス人に知恵を与えたと言われる、外核付近に住まうといわれる、半永共意識体・気化人Cx-ヨヒムの末裔。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kizinecoclub/entry-12769936919.html</link>
<pubDate>Mon, 17 Oct 2022 00:00:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>緩流至りて、宵の月</title>
<description>
<![CDATA[ <p>1.</p><p>未来予測を立てる時、「人は安定思考を持っており変化を好まない」これをキーワードに持って来ると概ね当てることができる。</p><p>&nbsp;</p><p>今のところ一番怖いのは戦争である。円安と今後の増税はあるにしても極端に生活に影響を及ぼすほどでもないだろうし、そのような認識層が多数なのではないだろうか。</p><p>投票率１００％と以前に書いたが、そのような状況は日本国内が経済、外交共に最悪でなければ起きないはずである。投票率の低さとは言うなれば「現状維持」を国民が望んでいる、その意思の表れでもあろう。また、議員が宗教と蜜月であったとしても、公私を分けて、国家安定という「仕事」をキッチリとこなしていれば特に不満も起きないはずである。</p><p>&nbsp;</p><p>繰り返しになるが、「選挙制度」というものがあるので、政治が下手を打った時、55年体制崩壊のように何度でも入れ替えることはできる。その前後で多少の痛みは発生するかもしれないが、政治家は常に国民の御機嫌を伺わなければ着席できない。これは民主主義の成果であろう。これが独裁、軍事政権、世襲による王政であれば不可能だったはずである。</p><p>&nbsp;</p><p>日本は敗戦国であり、形の上で自由は認められているが、軍事的にはアメリカの保護下にあると言ってもよいだろう。これがあるゆえに周辺国が迂闊に手を出すことができない。例えばロシア有事も日本が過剰に刺激し、感情レベルで激発でもさせないかぎり起きることは無いように思える。あるいはアメリカと日本の関係に修復不可能な亀裂が入った時など。現在、世界情勢は非常に不安定である。正義は確かに大事であるが、例えば無用な挑発により核のターゲットになるような事態は謹んで頂きたいものである。</p><p>&nbsp;</p><p>2-1.</p><p>今回の暗殺事件は加害者の不幸な境遇も混ざり、ドラマ的リアルに浮かされている側面もあるだろう。かなり厳しい事を書いてしまうが、家族がいかな状態であろうとも、絶縁することも可能であり、ゼロからやり直すことは不可能ではないように思える。如何な理由があろうとも暗殺は罪であり、罰を受けねばならない。</p><p>&nbsp;</p><p>常にジョーカーを引いてしまうのは、感情の獣、哀しき弱者達である。しかし、暴力で自分の思い通りにしようとするなど「赤ん坊」と同じであり、今回のそれは大と小の違いあれど、ハイブリッド戦に負け、実を動かしてしまった某国と同じに見える。血で血を洗う暗黒の時代を抜け、先人たちが紡ぎあげてきた世界が今である。</p><p>&nbsp;</p><p>他者と比べた時、どうして自分は不幸なのか？この境地に追い込まれ、ストレスを与え続けられたときモンスターに変わってしまうかもしれない。あるいはヒロイズムに酔ってしまうなど。例えばこれを期に弁護士を目指すなど、前向きな選択もあったように思える。既に手遅れであるが、報復の手段は法を犯してしまうような暴力だけではない。真なる絶対悪を探す事は神を見つけるのと同等に難しいように思える。といった甘さも付け加えておくとしよう。</p><p>&nbsp;</p><p>今回の件で特例が起きた場合、「悪しき前例」となり模倣する者が必ず出てくるので、法律改正を行わないのであれば、かなり厳しい判決になるはずである。また、減刑嘆願のようなものとは、本来被害者遺族のみから出てこなければならない。沈黙を守るご遺族、特に怒りを口にしない御身内の方々の姿が余計に重い。いずれにしても、対要人暗殺の死刑云々論があるとしても、原則、法の不遡及があるので現行法を曲げる事は不可能であろう。</p><p>&nbsp;</p><p>2-2.</p><p>これとは別に、実害を被った方々への救済はあってしかるべきである。しかし、例えば政治家が人気を得る為に恣意的にルールを曲げて制裁するようなことがあってはならないように思える。我が国は法治国家であり、全てはそれに基づかねばならない。私見であるが、解散はかなり厳しいのではないだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>宗教に依存せねばならないような体質の人間にとって、それを取り上げる事は「死」を意味するようにも思える。彼ら常に「すがる光」を求め流離い続ける。しかし、そこで全てを規制すれば問題が解決するのか？感覚的ではなくルールとしての根拠は？といった細部に至るのであるが、これはここで書くには長くなりすぎるので割愛する。</p><p>&nbsp;</p><p>また、カルトと宗教の線引きも難しい中。法を定めた時それを利用し対象を貶めようとするなど、裏の利害関係が出てくるので、その膨大な対策もセットとなるだろう。真実の証明には膨大な資料と時間が必要であり、簡単な印象だけで決めてしまった時真実は埋もれ、二次被害や真っ当な層を追い込む事にも繋がる。また、何をもって真っ当とするのか？といった厳密な議論と定義が必要となる。</p><p>&nbsp;</p><p>宗教とは基本的に弱い立場である。例えば非課税問題にしても課税してしまった時、多くの神社が消滅するだろう。ビジネス的成功と伝統の維持は常に矛盾を抱えた関係にある。今、多くの不整合が見え隠れするのはビジネスの手段とする信仰心など全く持ち合わせていない勢が「混ざる」からである。それらは伝統者達が持つ寛容さに付け込んでいるだけであり、被害と加害が「よほどのことが無い限り」外からは見分けのつかない状態になっていると言える。</p><p>&nbsp;</p><p>3.</p><p>時にネットにおける数万の感情的同意が、全国民の声に見える錯覚も生じる。しかし、それらは一部であり、1億を超える日本において、その多くは良識的な物言わぬ傍観者である事も忘れてはならない。時事に乗り話題を集める彼らもやがて熱が冷めれば忘れてしまうだろう。危険なのは一時の感情の激流に呑まれ、単眼的にやり直しのきかない変化を選択してしまう事である。</p><p>&nbsp;</p><p>例えば大学不要論などもあるが、未だ学歴社会、新卒採用の壁は残る。極端な話、中卒で大卒並の生涯給料が全ての企業で保障され、容易なキャリア官僚への道があるなどすれば話も変わってくるだろう。しかしそれは現実問題として不可能。そういった部分も含め、何が一番無責任なのか？といった話である。例えば、未だ判断力の乏しい10代に感情的、目先の話だけをチラつかせ、面倒な勉学を放棄させ、極端な選択へと誘導されたとしても最終的には自己責任となる。</p><p>&nbsp;</p><p>「こども庁」は一時話題になっていたが、最近問題になっている家出少年少女、彼らの中には件の容疑者のように将来有望だった若者も含まれていたわけである。しかし、彼ら正確な情報を知らない、それ故に「悪い大人」の餌食になる。本来であれば彼らにこそ生活保護や学費無償を国の力で何とかするべきなのだ。今の日本とは「種」を潰しているようなもの、これでは将来暗闇しかない。しかし、こういった本質的で膨大な金のかかる問題は政治家にでもならねば変えることは不可能だろう。</p><p>&nbsp;</p><p>経済的視点で言えば、賛否あるが、例えば形骸化している参議院を潰し、その余剰を彼らに当てることもできる（その額は微々たるものだが）、また「儀式的な無駄な討論」を省くことができるので、時間短縮も可能だろう。あるいは、衆議院議席や秘書を増やすなど、「実働部」を手厚くするなど。国家財政とは大きな家計、家計の計は計略の「計」でもよい。</p><p>今の日本はあまりにも無駄が多すぎる、何か削ってはいけないところを削り、わざと余計な支出を増やしているようにも見える。一般家庭の主婦が見たら発狂するだろう。これは何も国家に限ったことではなく、一度でも「社畜」を味わえば企業内においても、無駄の多さは実感できるだろう。まぁ、戦争で高額なミサイルを飛ばし、経済と命を破壊しまくっている脳筋の国に比べればマシだろうが。</p><div>&nbsp;</div><div>4.</div><p>やはり、ウクライナ戦争を見て肝が冷えるが、政治の要は「外側」「外圧」「外交」なのだろう。世界のATMと揶揄されながらも吸い上げた膨大な税を投入し、日本を安定の位置においた安部総理の成果は偉大と言えるのかもしれない。ありがちな例えだが、北風と太陽の話であれば「陽」側の極みであろうか。今回彼が暗殺されたのは天を見つめ、足元を疎かにしてしまった故だと個人的に思うものであり、とても残念だった、と悔やまれるばかりである。</p><p>&nbsp;</p><p>恐らく「国葬」はこのまま押し切られ決行されるとは思うが、何かこの話に触れることがタブーかのような雰囲気になることに対しては、ナショナリズム的な怖さを感じる。国葬には我々の税が投入される事柄故に、個人のお気持ちだけで「はいはい、そうですか」と言うわけにはいかず、国民にも発信する権利はあるはずなのである。</p><p>税を投入するのだから、それなりの理由が必要となるのは当たり前ではないだろうか？これは金額や、議論にかける時間が無駄という問題ではなく、それこそ「民主主義の根幹」に関わる話である。密室で決められるとはよくある事だが、いつの間にか日本人はこの状態に慣れてしまったのだな、と。</p><p>&nbsp;</p><p>まぁ、国葬の是非はあるが、やるならやるでそれをひとつの「秋分点」とし、新しき時代へのスタートとするのであれば大いに有意義であろう。</p><p>&nbsp;</p><p>「新しい酒は新しい革袋に」</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20221024/18/kizinecoclub/5c/13/p/o0313029615193007191.png"><img alt="" height="296" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20221024/18/kizinecoclub/5c/13/p/o0313029615193007191.png" width="313"></a></p><p>※ KIZINECOアート館秘蔵タペストリー</p><p>「至◇新時代～skorm巣～」（ニャーガー作）</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/kizinecoclub/entry-12754732836.html</link>
<pubDate>Thu, 21 Jul 2022 00:00:00 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
