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<title>パソコン通信サービスについて思う</title>
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<description>パソコン通信サービスについて思う</description>
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<title>タイ語スクールの説明</title>
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<![CDATA[ 今日の――観念論的――哲学を人々は広義に於ける実証主義［＃「実証主義」に傍点］と広義に於ける批判主義［＃「批判主義」に傍点］とに分ける習慣を有っていると思うが、哲学のこの二つの種類も、哲学が自然科学［＃「自然科学」に傍点］――それは十八・九世紀に至って思想界を圧倒的に席巻し始めたものだ――に対してどういう態度を取るかによって特色づけられている。今日の哲学は自然科学を中心として態度を決めねばならぬ。そしてこれは古くギリシア哲学の歴史に於ても、その通りだったのである。<br>さてこうして自然科学に於ける範疇体系が哲学的乃至論理学的範疇体系と共軛的であるとして、同じ関係が、而もより明らかに、社会科学と哲学との間にも横たわる。社会科学の範疇体系も亦同じく、この哲学的・論理学的・範疇体系と共軛性を持っている。否両者の範疇体系は、時としては一見直接に――共軛の媒介を経る必要などなしに――安全に一つであるようにさえ見える場合がある。例えばマルクス主義経済学に於ける範疇体系は唯物弁証法と呼ばれる哲学の範疇体系そのものが歴史観となって具体化されたものに外ならないし、Ｊ・シュンペーターなどの「純理経済学」は全く実証主義の範疇体系が具体化されたものの上に立っている。<br>
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<pubDate>Wed, 09 Jan 2013 17:41:19 +0900</pubDate>
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<title>パルプ材生産とは</title>
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<![CDATA[ 之は併し決して一個人の意識の問題として取り扱われるべきではない、それは云わば社会精神病理学的［＃「社会精神病理学的」に傍点］な見地から、見られなければ解決出来ない。実際これ等の人々も、単なる精神病学にとっては全く健全な患者に過ぎないだろうから。――そして注意すべきは、之が特に宗教［＃「宗教」に傍点］と密接に連絡している場合が甚だ多いという事実である（例えば大本教）。元来宗教は一つの文化形態［＃「文化形態」に傍点］としてのイデオロギーであるが此処では夫が、何かの意味の宗教心理学を利用することによって、一つの意識形態［＃「意識形態」に傍点］としてのイデオロギーとして、社会精神病理学的に取り扱われねばならないだろう。<br>　二、イデオロギーは場合によって虚偽意識［＃「虚偽意識」に傍点］を意味する――前を見よ。併しイデオロギーの特色は、自分では決して夫を虚偽意識としては意識しない、ということにあるのである。その意味で、之はすでに一つの病的現象と見られなければならない。処が之は丁度無意識［＃「無意識」に傍点］の問題に結び付いているのであって、この病的現象は、無意識的虚偽［＃「無意識的虚偽」に傍点］なのである。吾々は之を多くのヒステリー患者に於て見ると共に、殆んど凡ゆるブルジョア・イデオローグに於て見ることが出来る。だがフロイト主義によって個人心理の奥底に動いていると考えられたこの無意識は、実は茲では、社会によって、階級［＃「階級」に傍点］によって、操られている。<br>
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<pubDate>Thu, 27 Dec 2012 09:30:40 +0900</pubDate>
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<title>鍛造機械卸について</title>
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<![CDATA[ 土地の生産物のみを考えるエコノミストの定義によれば、英蘭はその面積に比して最も富んだ国である。その農業組織は比較し得ないほどより［＃「より」に傍点］良く、従ってその剰余生産物はより［＃「より」に傍点］多い。フランスは領土の面積と人口の点では英蘭に遥かに優越する。しかしこの二国の剰余生産物すなわち処分し得る収入を比較してみると、フランスの優越はほとんど消失してしまう。そして英蘭をして、世界未曽有のかくも尨大な工業、かくも強大な陸海軍、かくも多数の自由職業に従事する人々、及びかくも大きな比率の貨幣地代により生活するものを、養い得せしめているものは、その農業から生ずるこの大きな剰余生産物に外ならない。英蘭及びウェイルズの人口につき最近行われた報告によれば、農業に従事するものの数は、全体の遥か五分の一以下であることがわかる。この報告における分類は正しくないと信ずべき理由がある。しかしこの種の誤りにつき非常に大きな斟酌を加えても、農業に従事するものの数が現実の生産物に比例して極めて異常に小であることは、ほとんど疑いを容れ得ない。実際近年は、社会のうち農業と無関係の部分が、不幸にしてこの生産物以上に増加している。しかし穀物の平均輸入は、今のところ、国内産のものに対し僅小な比例にしか当らず、従って怠惰な消費者のかくも大きな一団を養う英蘭の能力は、主としてその剰余生産物の大なることに帰せられなければならない。
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<link>https://ameblo.jp/kkduwhd2/entry-11429080989.html</link>
<pubDate>Mon, 17 Dec 2012 17:56:52 +0900</pubDate>
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<title>ひらまさ養殖について思う</title>
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<![CDATA[ 私の勉強が歴史哲学を中心とするようになったこと、あるいはアリストテレスなどの研究に興味をもつようになったこと、またパスカルなどについて書くようになったことは、その遠い原因は波多野先生の感化にあるといえるであろう。<br>　二年生の時、田辺元先生が東北から東京へ来られたことも、私の成長にとって重要なことである。ドイツ観念論の哲学について理解を深めることができたのは先生のおかげである。私は先生に就いて自分の考えを鍛えていただいた。今は亡き深田康算先生からはさらに別の影響を受けた。深田先生はケーベル博士の伝統を最も純粋に継がれた方で、私は先生において真の教養人に接することができた。その頃先生は特にフランスのものに興味を持たれていたらしく、お訪ねすると、テーヌとかアナトール・フランスとかジョルジュ・サンドとか、フロベールとか、ブリュンティエールとか、いろいろフランス人の話が出るのがつねであった。その時分、私の読書の範囲は主としてドイツの哲学書であって、広くフランスのものにまで手が廻らなかったが、フランスの文学や思想に憧憬を感じ、外国に留学した時にもパリに行くことを考えたのは、深田先生の感化によることである。<br>　私の青年時代は日本の文学や思想において自然主義に対する反動もしくは自然主義の克服としてヒューマニズムが現われた時代であった。私はその流れの中で成長したのである。このヒューマニズムというものの意味は広く、種々の形をとって現われた。そして私はそのすべてから多かれ少なかれ影響を受けた。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/kkduwhd2/entry-11416558750.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Nov 2012 14:47:55 +0900</pubDate>
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