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<title>klabのブログ</title>
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<description>研究室非公式ブログ</description>
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<title>できる・できないの評価＠学会</title>
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<![CDATA[ <p>グルダイも、日本心理学会も、社会心理学会も終わり。</p><p>研究室メンバーにとってのメジャーな学会は、とりあえず、一段落ということでしょうか。</p><br><p>さて、学会に参加し、他の人の発表を聴き、きっと、いろんな感想をもたれたことでせう？</p><p>その感想の多くは、結局のところ、「面白かった―しょうもなかった」をアンカーとする、評価軸に位置づけられるのではなかろうか。</p><br><p>「あの先生、なに、あれ？ったく、面白くないというか、なにいってるわけ？」</p><p>とか</p><p>「ほんと、面白かった。いろいろ考えさせられて、すごく刺激になった、さすがっ」</p><p>とか････。</p><br><p>そのような評価を向ける対象は、決して、「若い他の大学院生」だけではなく、ばりばり長期のキャリアがある教員に対しても、シビアにいろいろ思うところがありますでしょ？</p><br><p>つまり、学会とは、そういうところなわけですよねぇ・・・。</p><p>そのときの発表、指定討論、コメント。それらは評価される対象。</p><p>そして、それは、職を得ても、学会の中で一定の知名度を得ても、一生続く。</p><p>いや、むしろ、「埋もれず」、「活躍する」ほど、しゃべる回数はアップするから、</p><p>その対象になる確率は上がるわけ。</p><p>浦さんの言うように、受けてなんぼ、しかし、受け狙いだけじゃあ、見透かされる。</p><p>企画者ですら、発表者がいまいちだと、「人を見る目がない」とか何とか言われるし。</p><br><p>なかなか大変な世界と申せましょう。</p><br><p>これがずっと続きます・・・が、もちろん、若い間は、「まあ、若いからねぇ・・・・」で許されちゃったりなんかする（こともある）。</p><p>したがって、「万全の準備」で発表に望む、質問には誠実に答える、このことを繰り返しながら、「しょうもなかった」と評されない方向に、少しずつ近づくように･･･。</p><br><p>学会がある意味過酷なのは、比較が簡単だからです。</p><p>同じセッションで発表する複数の人たち。</p><p>誰の研究が面白くて、誰のが面白くないか、わかりやすい。</p><br><p>今は、むしろ、そういうことが減っているようにも思うのですが、</p><p>私が駆け出しのころは、発表者が誰なのかで、口頭発表のオーディエンスの数がすごく変化していました。</p><p>みなが聞きたいと思う発表者の時には、立ち見が出る教室で</p><p>その人が終わり、次の人が「いまいち」だと、さっとみなが別の教室に移動して、がらがら・・・。</p><br><p>もちろん、評価対象の第一は論文だけど、</p><p>学会も「人に伝える場」としては、非常に印象に残りやすいので、</p><p>次回も、こころして、準備をして臨む。</p><p>そして、面白いものと、しょうもないものを、ちゃんと見極めて、</p><p>見習うべき教師と反面教師をうまく使いましょうね。</p><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/klab-socipsy/entry-11023761255.html</link>
<pubDate>Tue, 20 Sep 2011 15:40:20 +0900</pubDate>
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<title>学部演習</title>
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<![CDATA[ <p>今年の学部演習授業は、なかなか充実していたと思う←自画自賛。</p><p>いや、ひとえに、TAの皆様がたのおかげさまですが。</p><br><p>各TAが中心になって行っているKarasawa Lab発の研究テーマを3つ選び、それぞれについて</p><p>１）ターゲット論文を読む</p><p>2）それを元に、まずは、各自が研究仮説を考える</p><p>3）グループに分かれて議論</p><p>4）各グループで「研究計画」をつくり、発表</p><br><p>という手順で行ってきました。</p><p>授業では、3つのグループに分けたので、3グループ×3テーマ、計9つの、「新たな研究仮説」および、「それを検証するための研究計画」が生まれたことになる。</p><br><p>なんて、生産的なんだろう。</p><br><p>いや、冗談はともかく。</p><br><p>社会心理学の研究と言う点では「ほぼ素人」の3年生と、「すこし素人を脱した」4年生。</p><p>仮説導出のロジック、実験条件の統制や操作など、「それではだめだよ」という点は多々ある。</p><p>また、実施可能性については、とりあえず、無視して作るよう指示していたから、参加者数とか、手間隙などを考えると、「夢の研究」に終わるものもあったけど･･･。</p><br><p>とはいえ、出てきた仮説は、少し洗練させれば「卒論」、場合によっては「修論」レベルでも、検討するに値するものもあった。</p><br><p>東大生の観察学習能力は、結構すごいと思う。</p><br><p>授業では、各自が提出した仮説・計画のなかから、「よいもの」を選んで「表彰」したりしてたのだけど、そこでのTAや私の「なぜこれが良いと思うか」に関するコメントから、「社会心理学の良い研究」にみられる、ある種の型を読み取り、それをディスカッションや次の課題に生かすことが、ちゃんとできているなあ、と素直に感心しました。</p><br><p>隔年でこの形式をやってみようかと思案中。</p><p>ただそのためには、当研究室発の研究がコンスタントに出ていなくてはなりませんからね。</p><p>院生の皆さん、がんばりませうね。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/klab-socipsy/entry-10938095249.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Jun 2011 14:28:29 +0900</pubDate>
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<title>良識の有無　×　素人・玄人</title>
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<![CDATA[ <p>他者と認識を共有するためには、その認識の前提となる世界に関する理解が、ある程度共有されてなければならない。</p><br><p>と、書くと、なにやら大げさだけど、</p><p>話が通じないなあ、という感覚は、誰もが持ったことがあるだろうから、</p><p>言いたいことは、お分かりいただけるでしょう。</p><br><p>自分とは異なる「世界観」を持つ人について、</p><p>それを頭から否定しようとは思わない。</p><p>単に、会話で話が通じない程度のことなら、ま、どうでもいい。</p><br><p>しかし、仕事上、どう考えても、あなたの立場で、これは、ちょっと･･･と思う人に出会うと、くらくらする。</p><br><p>立場とか、役割とかに応じて、取得を「要求される」ものの見方というのは、あるはず。</p><p>それができていないと、常識がないということになるし、</p><p>判断に影響すると、良識のある判断ができないということになるのだろうなあ。</p><br><p>特に、自分が引き受けるべき責任とか、周囲への信頼や配慮の必要とか、ものごとを決める前提となる事柄にかんすることは、どうしようもございません。</p><br><p>厄介なことに、立場や役割に伴う何かって、</p><p>その立場や役割が、高いもの・重いものほど、</p><p>当人がそこにいる正当性が暗黙に前提されるので、</p><p>そのことにより、当人の「妥当性」が保証されてしまう。</p><br><p>本人が変更の必要を認めにくい。</p><p>かくして、間違ったことが、まかり通るキケンが高まる。</p><br><p>仕事上、ある立場・役割を背負うというのは、つまりは、それについて玄人であるということだ。</p><br><p>良識のない玄人が行う、誤った判断や行動が、「いかに誤っているか」は、</p><p>良識のある素人には、明らかに分かるんだろう。</p><br><p>良識のない玄人になってはいけませんね。</p><p>注意しなくちゃねえ・・・。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/klab-socipsy/entry-10907618976.html</link>
<pubDate>Mon, 30 May 2011 09:04:20 +0900</pubDate>
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<title>ビジネスルール、及び仕事の仕方</title>
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<![CDATA[ <p>大学院生の人たちの書類作成⇒私の印鑑・確認の作業に関しての「苦言」記事。</p><br><p>UCLA留学中に向こうの教員の仕事をみて感心したことは、書類作成の仕事をその場でやっちゃうことである。</p><br><p>仕事を手元にためない、というのは効率の良い仕事の仕方をする上で鉄則･･･と言う以上に、時間の自己管理が必要な、ほぼ自営業みたいな我々の商売には重要なことなんだろう。</p><br><p>もっとも、こういうことは、「ビジネスルール」としては、ごく普通のことかも。</p><p>ぎりぎりまで仕事をしない人、と言うのは、ビジネスの相手としては、頼りにされないし、信頼もされない。</p><br><p>さて、大学院生の人たち・・・。</p><p>大学の中で、また、学会や研究関係で、書類を作成したり、他者に連絡を取ったり、いろんな作業をするとき、どうだろう。</p><br><p>「学生」という立場を「客」として位置づけるなら、ある程度の我侭は許されるというスタンスも取りえる。</p><br><p>しかし、相手のある作業において、将来大学と言う組織で働くためのトレーニングとしての院生期間として、自分の今いる位置を考えるなら、「ビジネスルール」の視点で、自分がどう動くべきかを考えるのも必要なんじゃないだろうか。</p><br><p>もちろん、タイトなスケジュールで動くこともたくさんある。ぎりぎりでみんながやっているとき、余裕がないのはその通り。したがって、教員の確認が必要なときは、何日前までに提出するように、なんていうような、あほな研究室ルールを作る意図はさらさらない。</p><br><p>でも、かなり以前からアナウンスされている書類に関して、その作成をぎりぎりまで待つ必要がないのも確か。他者と諸般の書類をやり取りするときに、相手が常に、自分の依頼を最優先の仕事として片付けてくれるとか、対応可能な状況にいるとかという前提で動くのは、ビジネスルールとして、大変危険である。</p><br><p>上にも書いたように、我々の仕事は自営業みたいなもんで、仕事の動かし方についてのスケジューリングも、裁量の範囲が大きい。それだけに、メタな視点をもって動くことのできないと、「使えない人」になっちゃう。</p><br><p>そういう意味で、院生の人たちは、</p><br><p><font color="#ff0000" size="6">「時間に余裕を持って書類を作りなさい」</font></p><br><p>と言いたいの。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/klab-socipsy/entry-10889192014.html</link>
<pubDate>Thu, 12 May 2011 09:36:42 +0900</pubDate>
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<title>社会心理学者ができること</title>
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<![CDATA[ <p>震災以降、学術会議や各学会が、それぞれの専門に基づいての情報発信を行っている。社会心理学会も、「防災」や「災害時の心理」などに関する知見をまとめたページが、広報委員会によりウエブ上に構築されている。</p><br><p>このような機会に一定の知見が集約され、また、各研究者が「何が出来るのか」を考えるのは、意味のあることなのだろう。</p><br><p>ただ、このように集約された知見は、誰がどこでいつ使うんだろう。そのことを考えたとき、やはり、緊急時ではなく、普段からの情報発信が重要だと思う。</p><br><p>社会心理学の知見を日常に応用する際、おそらくその知見を「マニュアル的」に参照しつつ用いることは難しい。知見を自らの生活の中での社会的な思考・行動と結び付けつつ、自己理解の中で意味づけていく作業があってこそ、知見が生きる。その作業は、授業で聞いたことや本で読んだことのなかで、心に残ったわずかな情報が、ある社会的な場面で「自分に対しての意味」という観点から再構築されることでもあるだろう。</p><br><p>研究者がもっとも直接的に働きかけることのできるメディアのひとつは、「語ること」であるが、職を得ている研究者なら、だれもが持つ授業は、それを90分×15回行う機会である。普段行っている「語る機会」をおろそかにしているようでは、研究者として最低限、果すべき責務を果していないと断罪されるだろう。これは授業のうまいヘタの問題ではなく、語る機会を持つものとしての「態度」の問題。つまり、緊急時だけ「ばたばた」と動くのではなく、普段から、社会とのかかわりのあり方に関する責任の自覚に基づく仕事のしかたが求められるということ。</p><br><p>ところで、京大工に所属する藤井さんは、さっそく、日本を復興させるための緊急提言を出している。</p><p>時間があれば、社会心理学者としての顔も持っている彼のページを見てください。</p><p>社会心理学も、こういう提言がすぐに出てくる研究領域となるポテンシャルを持っているのではないかという、かすかな期待と、だとしてもそれには至っていない現状への反省を喚起されるものではあるが･･･。</p><br><p><a href="http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/index.php/fujiilab/fujii.html">http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/index.php/fujiilab/fujii.html</a></p>
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<link>https://ameblo.jp/klab-socipsy/entry-10848925245.html</link>
<pubDate>Sat, 02 Apr 2011 11:03:37 +0900</pubDate>
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<title>院生教育シンポ準備で思ったことの一部</title>
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<![CDATA[ <p>東洋大にて話をする予定であった、「大学院生教育シンポジウム」は、地震のため、中止。企画者の方々は、連絡等で大変だったと思います。お疲れ様でした。</p><br><p>さて、それはともかく。</p><p>シンポジウムでのトークを準備していて、いろいろ考えた。</p><br><p>大学院生教育は、確かに「優秀な研究者・教育者を育てる」ということが目標である。</p><p>例えば、東大社会心理博士過程なんかは「国際的に活躍できる研究者養成」が教育目標となっている。</p><p>それ自体、良いことか、悪いことかと問われたら、「そりゃあ、良いことでしょ」と万人がいうであらう？</p><p>私も否定するつもりはない。</p><br><p>ただし・・・</p><p>この目標、「間の大事なもの」が、いろいろ飛んでいる。それらを埋めたうえで、結果として「国際的に活躍」となるならいいのだけど。</p><br><p>研究は（そして教育も）きわめて社会的な営みである。</p><p>大学、学会、査読、科研・・・これらのシステムの中で行われている活動であり、それを支えている、重要なシステムは、ピアレビューという仕組みである。</p><p>お互いの研究の価値を、お互いに評価しあいつつ、より良質の知見を生み出していく活動は、「全うな評価者」の存在を前提としている。</p><br><p>ここでいう全うとは、単に、研究知見に対する知識や理解、それを表現する能力を持つことは当然だが、このようなシステムへの関与についての自覚と健全な動機があるということも含む。</p><br><p>もう少し具体的にいうと、自分の研究に対する没頭とプライド、そして、他者も同様にそれを持つということに対する敬意、そして、自分とは異なる視点を、いったん受容したうえで問題を検討する、寛容さ（自分と異なる意見への耐性といったほうが良いのかな・・・）と、批判的議論の能力とが必要だろう。そして、それは、いわゆる視点取得やメタ認知能力といった、もう少し一般的な能力を基盤にするのじゃなかろうか。そういう能力を持つ研究者を、いったんここでは、「優秀」と定義しておきたいというのが、今の、私の考え方。</p><br><p>大学院生の、一人一人が、優秀な・・・これは、単に「論文がたくさんかけます」という意味ではなく、教育者として、また同僚として、共同研究者として、よい存在として機能するということだが・・・社会心理学者として、大学という場に職を得ていくことは、ほんとうに大事なことなのだ。</p><br><p>個々人は、ひとりの研究者としての存立を越えて、評価の交換を媒介として、社会心理学というコミュニティ全体を支える要素となっているから。</p><br><p>さらに・・・・</p><br><p>大学という場で仕事をしていると、他領域の研究者の「社会心理学イメージ」に愕然とすることがあるが、彼らのイメージには、「自分が接した非常に少人数の社会心理学者」の存在が大きく貢献している。</p><p>もちろん、これは、多かれ少なかれ、どんな領域にでも適用されるのかもしれないけど。</p><p>とりあえずの、当面の我々の仕事の場が大学であり、他領域の研究（者）との相互作用が、社会心理学にとって重要であるのだから、その意味でも、大学院生の一人一人が「優秀な」研究者・教育者として、大学に出て行っていただきたいと思うのだ。</p><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/klab-socipsy/entry-10834968226.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Mar 2011 12:04:50 +0900</pubDate>
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<title>いろいろ</title>
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<![CDATA[ <p>このブログもHPからアクセスできるようにしてもらいました。</p><p>今のところ、「知っている人はどなたでもアクセスできる」状態ですが、内容次第では、アメンバー限定記事も、そのうち作成するかもしれません。</p><br><p>それはともかく。</p><br><p>中央食堂デビューの話をアップしようとしたら、地震が来て、なんだかんだと大騒ぎ。</p><p>地震の日は、大学に来ていた学生さん、無事に帰れた（もしくはオトモダチのところに避難）できたようですが。</p><p>その後は大丈夫だろうか。</p><p>つっきは、帰宅できず、事務室オトマリ。お疲れ様でした。</p><br><p>以前、T氏＠名古屋と飲んだときに「ついったー禁止令」というものを発令することを議論していましたけど、今回は、ああいうリアルタイム情報のありがたさが、身にしみて分かりました。</p><p>東京脱出の際、東京駅がどのくらい込んでいるか、切符の買いにくさ、丸の内線の運行状況などなど、グーグルリアルタイムでチェックした情報が、ほんとに、役に立ったわけです。</p><br><p>ツイッター、しようかなあ・・・・。</p>
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<link>https://ameblo.jp/klab-socipsy/entry-10829057881.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Mar 2011 22:57:40 +0900</pubDate>
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<title>概念分析系研究</title>
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<![CDATA[ <p>日本思想に関する本を読んで頭に浮かんだことをFacebookに書いたのだけど、そこからの転記（若干変更あり）</p><br><p>特定の概念の構造・関連要因について分析し、その概念を定義する、または概念の定義に影響する変数（文化、言語、概念が適用される他者の属性など）との関係を検討する研究―これは、社会心理学でも行われる。テツガク系、ゲンゴガク系の研究でも行っている。</p><br><p>別の言い方をしてみると・・・</p><p>特定の「単語」--「ゆるし」とか「ひいき」とか、何でもいいけど--を取り上げて、それがどういう概念であるかを、つらつらと考える、またそのことを通して、人とか社会とか歴史とか文化とか、そういう概念を囲む存在である何かについて語る、そういう研究のことを指していると思ってください。</p><p> </p><p>社会心理学は、「実証的」を標榜するので、概念分析系も「その概念についての一般の理解」を質問紙等で測定し、その結果に基づき、分析を行う。しかし、これ、単にデータ集めて、その結果を記述するだけだったら、ただの素朴心理学の集約だし、質問紙が「アホ」だと、低質の素朴心理学に成り果てる。</p><br><p>「人に聞いた」結果を「分析した」というときの「分析」が、各質問における平均値や相関というデータ特性の記述を越えた思索を生み出していないとするなら、それは、むしろ、お金かけてデータ取っている分、罪なんじゃないかとも思う。データ取ったら、「実証的」と言えなくもないんだろうけど、だからどうなのよ・・・。</p><br><p>まあ、難しいことではあるのだけど。つまり、データを基にすることは良いとして、それを、どう分析し、研究の対象となる概念、およびそれを囲む存在を分析するかが勝負でしょう。その分析の際、データに拘束されてしまうので、自由勝手な思索は行えない。データが語る以上のことは語れないのは、思索を展開する際に、辛いことではある。しかし、やはりそれをいい訳にして、「クイズ100人に聞きました」でとどまることを許したらだめよねえ・・・。</p>
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<link>https://ameblo.jp/klab-socipsy/entry-10815986360.html</link>
<pubDate>Mon, 28 Feb 2011 16:06:00 +0900</pubDate>
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<title>＠卒論発表会・非公式バージョン</title>
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<![CDATA[ <p>「××な人は、××をする」形式や「××に対して、××だと人は思う」形式の仮説＋その根拠をしめすモデルが欠如しているってのがいくつかあったな・・・。</p><br><p>研究者個人のフォークサイコロジーが仮設に反映されること自体は、仕方ない。というか、それは、仮説生成の重要な資源であり、社会心理学を特徴付けることでもある。</p><br><p>しかし、それを、例えばアンケート調査などで「調べ」て、相関が「有意」であることを示し、それに基づいて、人間の性質として、「××な人は、××をする」・「××に対して、××だと人は思う」という主張をするのは、様々な問題を生んでしまう。</p><br><p>ひとつには、検討している変数間の関係の「強度」とは不当に対応した、決定論的言説を生むこと。</p><p>非常に低い相関でも、サンプル数がそれなりにあれば有意になるんだけど、それに基づいて、「人はこういうものだ」と断定的に語るのは、いかがなものか・・・とおもう。</p><br><p>もうひとつは、それは社会事象の限定的記述にとどまり、現象の説明を提供しないこと。データの記述的価値を否定するものではないけど、記述は、そのデータが収集された様々な周辺状況に依存する。ランダムサンプリングの手続きをたとえ踏んだとしても、地域限定・回答するしないが回答者の意図にゆだねらているのだから、その問題は回避できません。記述にとどまる主張は、概して、外的妥当性に関する批判には弱い。</p><br><p>ま、わたしは、おそらく、他の研究者と比べると、上記タイプの研究を「だめ～」と思う程度が強いのかもしれませんが・・・。いちいち、目くじら立てることじゃあないと思う人も、いるかもしんない。</p><br><p>その他、フォークに出回っている数値や概念を無批判に使用することや、何を測定しているのかわからん変数とか、そういうのも、「目がくじら」になりました。こちらについては、説明不用で不可＠Klab。ただ、自分でも、そういう問題を持った研究をしてしまう可能性が十分にあるので、気をつけないと・・・。</p><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/klab-socipsy/entry-10790894187.html</link>
<pubDate>Sat, 05 Feb 2011 12:00:36 +0900</pubDate>
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<title>非公式ブログ</title>
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<![CDATA[ <p>公式ブログがあるので、非公式ブログも作ってみました。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/klab-socipsy/entry-10790848549.html</link>
<pubDate>Sat, 05 Feb 2011 11:29:29 +0900</pubDate>
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