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<title>緑川のブログ</title>
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<title>中嶋敬介著作集　Ⅷ　地名</title>
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<![CDATA[ ９地名<br><br>歴史９－１<br>歴史の抹殺と創造<br><br>　田上さんは怒る<br>　他県では誰も「たのうえ」と呼んでくれない、と田上さんは嘆く。<br>　しかし「たがみ」とは絶対に呼ばれたくない。それは田上が阿蘇南郷谷田上（たのうえ）の地名を起源とする由緒ある苗字だからである。<br>　そういう事もあって知人の田上さんは福岡で開業するとき、わざわざ平仮名で「たのうえクリニック」として、自分の出自を明らかにした。当然の事である。<br>　それを「今後は全国的に通用する”たがみ”とします」と言ったら、田上さんが怒るのは当然であろう。<br>　以上は苗字についての例え話であるが、地名についても全く同様である。<br><br>　土地に書かれた歴史<br>　地名は単なる便宜的な符号ではない。<br>　それには歴史的な意味があり「地名そのものが文化財である」と言われる。<br>　地名を見ればその土地の歴史や風景が自ずからわかり、そこに住む人々の息吹が聞こえて来る。<br>　それは祖先から代々受け継がれ、現在の我々に委ねられた文化財であり、我々はそれを忠実に次の世代に受け渡す義務がある。<br>　地名はそこに住む人々にとって限りない誇りと愛着があり勝手に変えることは何人であっても許されない。<br>　いま「平成の大合併」が行われており、それに伴い市町村名や行政区名が話題になる事が多い。それはそれで結構な事であるが、なかには的はずれな議論や感情的な意見もある。熊本日々新聞の記事によれば、合併に伴うもめ事は一に庁舎の位置、二に名称、三に財政格差とある。（九月十日付）<br>　一と三については言う立場にないが二の名称（地名）については大いに関心がある。何故なら地名そのものが文化であるからである。そこで地名について若干基本的な事柄を述べ、のちのち後悔しないようにしておきたい。<br><br>　地名には意味がある<br>　例を挙げよう。<br>　熊本市に西原中学校というのがある。阿蘇郡にも西原中学校がある。<br>　熊本市は「はにばる」中学校、阿蘇郡は「にしはら」中学校と読む。どっちでもよいではないか思う人がいるかも知れないがそうはいかない。<br>「はる」は墾(は)る、つまり開墾した土地を意味し、表記するときに麻生原・春田などとした。一方「はら」は原野の意味で大矢野原などと表記した。<br>　したがって勝手に読み替える事はできない。<br>　もう一つ甲佐の例をあげよう　<br>　「豊内」は「どい」であって絶対に「とようち」ではない。<br>　どい（土井・土居）は中世の居城に付けられた由緒ある歴史的地名であり、この地では漢字で表記するときたまたま「豊」と「内」を充てたに過ぎない。<br>　いま一つ例を挙げよう。白旗小学校の裏に坂道があり、この坂は緑風苑の側を通り妙見坂に至っている。御船台地を挟んで向こう側に妙見さん、こちらに阿弥陀堂があり地元では「やみだどう坂」と呼んでいた。それを「山大道」と標記したものだから「やまだいどう」という意味不詳の字(あざ)名の行政地名になってしまった。<br>　地名については先ず地名があって、のちに地名を漢字で表記するようになったのが経過であり、その逆ではない。　それを、漢字を読めない無知の民百姓が訛って読んだのだろうと、昔の役人共が勘違いして勝手に振り仮名を付けて読み替えられており、これは文化に対する冒涜である。<br>　近年、郵便局と役所の陰謀によって付けられた効率一辺倒の、例えば○○一丁目などの新地名が”駕町通り”とか　”唐人町”とか旧地名が復権し、新町三丁目となっても「尉山」の電停が残っているのは、心ある人の知恵である。<br><br>　名は体を表す<br>　もう一つ例を挙げよう。鹿北町では昭和の町村合併に際して鹿北第一小学校・鹿北第二小・・・などとした。それを熊本地名研究会の古川成利氏が教育長になられてから岳間小、岩野小などと旧名に復した。誠に学識のある処置であった。<br>　また、松橋校区には一区から十三区までナンバーで表示される行政区があったが、このたび案内表示板には、例えば四区（港町）と旧地名を表記した。<br>　逆の悪しき例もある。芝原と八丁の間に「江湖」（えご・・・川の入江を指す地形語）という字(あざ)があり、これは旧緑川が吉田と芝原の間を流れていた事を示す貴重な地名であった。これが「元白旗第一」の字名で統一されて歴史上から抹殺されてしまった。<br><br>　下駄の歯はすり減る<br>　さて、平成の大合併に際して新しい市町村名が報道され、その傾向の一つとして「あさぎり町」などの平仮名の市や町がが誕生して、新鮮な響きを持つものとしてもてはやされている。<br>　しかしちょっと待っていただきたい。地名にはいくつかの原則がある。それを離れて言葉遊びや抽象的な語句で飾っても、やがて陳腐なものとなり、その地名は魅力を失うであろう。<br>　下駄の歯も言葉も使えばすり減る<br>　クマ婆さんもトラ婆さんも名前を付けられた当時は新鮮な響きを持っていた。それが時代とともにすり減って魅力を失ってしまった。今の親は難しい漢字を難しく読ませる命名が流行っている。しかし彼女達が成人する頃には、依葡璃ちゃんも玖菜紗ちゃんもフレッシュさがすり減ってしまい、誠に平凡な何の魅力もない名前になってしまっているであろう。　　<br>　地名もまた同様である。<br>　かって「○○荘」などは高級感のある命名であったが、いまや安アパートのイメージになってしまい、業者は「××マンション」などと称してきた。しかしそれも魅力がうすれたのか、今や「△△ヴィラ」などが流行っているがこれもやがてすり減ってしまい陳腐なものとなるであろう。<br><br>時流に流されない<br>　そういう意味で地名は今後何十年も使うものであり、無機質的な地名や現在大衆受けする地名は決して「ふるさとの地名」として愛着されないであろう。<br>　例えば昨年大宮市が合併して「さいたま市」になり区政を敷いたとき、ある町の土着民は、そこがかって万葉の頃のやまと言葉で水沼（みぬま）と呼ばれていた事もあってそれにちなんだ地名を支持した。新住民は低湿地をイメージするといって反対した。不動産の値上がりを期待して「見晴丘区」や「富士見台区」などの高台のイメージが良いというのであろうか。結局は「見沼区」になったが、それは賢明な選択であった。<br><br>　甲佐は熊本市の東にはい<br>　熊本市が甲佐の西にある。禅問答みたいであるが、地名を考えるについては先ず誇りと矜持が必要である。<br>　平成十三年に西東京市が誕生した。誠に判りよい市名で、自分の住所を説明するには都合が良かろう。<br>　しかし、ちょっと待っていただきたい。<br>　地名を考えるにあたっては、先ず自分の住んでいる所に視座を据えて、そこから周囲を見回してもらいたい。<br>　かって埼玉県に住んで東京に通勤する者が、東京都政には関心があるが、自分の住んでいる所の地方自治には何の興味も示さず、埼玉都民と揶揄された事があった。<br>　地名を考える場合には、他の場所に視座を据えて自分の住んでいる所を見ないで欲しい。どうしても地方自治が他人事になってしまう。<br>　それからもう一つ。地名に東西南北や上下を付ける事がある。東寒野や上田口の如くにである。ここで考えてもらいたい事は下糸田は糸田の下にあるから下糸田ではなく、上豊内は豊内の上にあるから上豊内ではないという事である。<br>　向島は島の向にあるのではなく、向にある島であるのと同様に、下糸田も糸田の一部であり、糸田のうちの下にある部分を指す地区名である。上豊内も豊内の一部であり、豊内のうち上にある部分を指す地区名である。したがって東西南北や上下を地名に取り入れる場合は安易な考えは禁物である。<br><br>　ふるさとの地名が恋しい<br>　地名は符丁とは違う。<br>　人々の営みや歴史的背景や自然から遊離しては考えられない。<br>　御船台地に団地を造る時、そこはかって近くに屎尿処理場があったが、「屎尿処理場跡団地」とはせず、「御船インター団地」とした。これは当然のことである。<br>　「昭和の大合併」に際しては合成地名（例えば六嘉と大島が合併して嘉島となる）や、「和」の付く地名（例えば五か村が合併して五和町）などがやたらとはやった。私は当時天草の太多尾という漁村に住んでいたが、この村は新和町となった。今でも「大多尾」と聞くとある種のときめきが心をよぎるが、「新和町」では何の感慨も起きない。無機質な人工的な地名の故であろうか。<br>　例え利便性や効率から考えて命名しても、ふるさとを語るとき、ときめきや熱き想いを持って心の中をよぎる地名には決してならないであろう。<br>　繰り返して言うが、地名は先人が土地に書いたメッセージであり、新しく付ける地名は私たちが後世に残すメッセージとなる。<br>　　　　　　　　（熊本地名研究会員）<br><br><br>                             <br>９－２　<br>くまもと地名あらかると　　豊内　　　　　　<br>　もともとは　ドイ<br>　鮎で有名な「甲佐の簗(やな)」はここにある。藩政時代は「殿様の御簗」として藩で厳重に管理され茶屋も設けられていた。今は初夏から晩秋にかけて美味や風情を求めて来る人も多く「熊本の奥座敷」の観がある。<br>　もともと豊内はドイと呼んでいた。ここにあった豊内城はドイノウチジョウと呼ばれていた。現在でも上豊内をカミドイ、下豊内をシモドイと呼んでいる。<br>　ここには中世、比高60ｍの台地の上に「陣の内の館」があった。崖下には緑川が流れていたとされ要害の地であった。<br>一般に中世の土塁に囲まれた屋敷を「堀の内」とか「土居」（ドイ）とか呼ぶ。<br>ドイは豊内と記される事もある。益城町の「豊ノ内」（どいのうち）がその例である。<br>　館のあった台地（面の山）は、後背の山地とは長さ３００㍍、幅２０㍍、深さ5㍍の空堀で仕切られ、掘り上げられた土は高さ6㍍の土塁となっている。<br>　これが地名ドイの起こりである。　その規模からして中世の一土豪の館とはとても思えず、現在館跡の発掘調査が行われており、緑川から運び上げた石列などが大量に出てきている。<br>　なお、甲佐町役場は四年前に国道４４3号線沿いに移転したが、その所在地は豊内である。<br><br>９－３<br>くまもと地名あらかると　岩下　　　<br><br>　対岸から持ってきた地名<br>甲佐町の中心市街地名。町の中を貫流する「大井手」には、加藤清正が緑川に築いた鵜の瀬堰(せき)からの清流が流れている。水車が廻り岸辺の柳が風になびく風情は古き良き時代の街並みを想わせる。<br>　もともとこの地は緑川と津留川（佐俣川・釈迦院川）に挟まれた中州であった。そこへ天正十一年（一五八三）津留川を隔てた左岸の岩下（現美里町）から「計屋と号する伝右衛門」が移住したのが始まりで、その後、加藤清正の河川改修により、緑川の流路を掘り替えて津留川に合流させたので洪水の危険も少なくなり、おいおいと付近の集落からの移住者も増えた。以後「岩下村より出候故岩下町と唱えるべき由改め」（岩下町根元記）たとある。<br>江戸時代は緑川の水運を利用した物資の集散地として発展し、寛政八年（一六六八）に九の日市が始まった。これが今も続く三月九日を初日とする「甲佐初市」の始まりである。<br>しかし岩下は常に洪水の危険にさらされ「塘を壁としている村立は、万一塘筋に破損御座候はば、荒地は勿論人命にもかかり申すべき危難の土地」の状況にあった。<br>　明治十年（一八七五）の西南戦争では薩軍の兵站地になった。対岸の堅志田（現美里町）に陣を構えた政府軍と交戦になり、政府軍により放火され、寺院と豪商の二軒を残し街並みの殆どが焼失した。<br><br>９－４<br>くまもと地名あらかると　　　甲佐　　　<br><br>花と緑と鮎の町<br>　昭和３０年、緑川中流域の宮内村、甲佐町、竜野村、白旗村、乙女村の５か村が合併して甲佐町となった。緑川が町を貫流し左岸に旧乙女村、右岸には他の4か村がある。<br>　江戸時代、今の市町村に当たる行政区画を手(て)永(なが)といい、甲佐町は甲佐手永と称した。甲佐手永の区域は現在の甲佐町と全く同じである。このように市町村名も区域も江戸時代と全く同じなのは細川藩では甲佐町と津奈木町だけである。<br>細川氏の入国初期は横田手永と豊内手永の2つに分かれていたが、やがて甲佐手永に統一された。甲佐の地名は肥後国二の宮である甲佐神社に由来する。「甲佐」の初見は保延3年（1137）の阿蘇文書の「除甲佐社定」である。<br>　甲佐の字義については、神功皇后が甲冑を納められたので「甲」佐としたとの説が古文書にあるが、これは後世漢字に引きずられての付会であろう。<br>甲佐神社の上宮は甲佐岳（753㍍）にあり、その始原を山岳信仰として考えると、「コウ」は神戸、神山、神野の「神」であろう。高千穂では夜神楽を舞う庭を神庭（こうにわ）、高千穂神社のある地区を神殿（こうどの）という。<br><br><br>９－５<br>くまもと地名あらかると　白旗　　　<br><br>今も残る里山の風景<br>熊本市から県道106号線で甲佐町に入ると、やがて右手に緑川、左手に小高い白旗山（138㍍）が見えてくる。辺場(へば)山ともいい、秋には紅葉が美しい典型的な里山である。旧白旗村の地名はここからとった。<br>鎮西八郎為朝が木原山から白羽の矢を射たら、この山に刺さったのでこの地名が付いたとも、為朝が白旗を立てて武威を近郷に示したのでこの名があるとも言われている。しかしこれは地名説話の一つで、白旗山の東端に白岩という地名がある事から推察すると「白畑」が起源かも知れない。<br>天正9年（1581）、御船城主の甲斐宗運は、響ヶ原に陣を敷いた相良義陽を討つために出陣の途中、白旗山の麓にある大武大明神に戦勝を祈願して緑川を渉り合戦に赴いた。<br>現在、ＪＡ上益城本所は白旗山の尾根が緑川に突き出た所にあるが、ここはかって加藤清正が緑川治水の際に床机をおいて指揮した場所であり、そこに植えた「床机の松」は昭和３０年頃まで白旗村のシンボルであった。<br>西南戦争の際には、田原坂や熊本城攻囲から退いた薩軍は、益城から御船に至る長い守備陣を敷いて政府軍を迎え撃つ態勢を整えた。その最左陣の妙見坂の薩軍を討つために、政府軍の一隊は虚に乗じて緑川を渉り白旗山の高台を占領して攻撃したので薩軍は敗走した。<br><br>９－６<br>くまもと地名あらかると　　　早川　　　<br>上益城郡甲佐町早川<br><br>肥後の司馬遷、渡辺玄察<br>熊本市から国道４４３号線で御船町を通過し、トンネルを抜けるとそこが甲佐町早川である。背後に早川山（195㍍）があり、水田地帯に岬のように突き出た所を城山と呼んでいる。加藤清正の緑川改修以前は、緑川はこの真下を流れていたとされ、交通の要衝であるとともに守るに易く攻めるに難い場所であり、鎌倉時代に渡辺秀村がここに早川城を築いた。<br>天正8年（1580）、早川城主の渡辺吉秀は、御船城主の甲斐宗運に従って隈庄合戦に参加し、舞の原で戦死した。<br>江戸時代の初め、吉秀の曾孫に渡辺玄察という早川神社の神職がいた。彼は身辺雑記のみならず、政治、経済、世情、天変地異など多くの記録を残した。また、父などから聞いた戦国末期の肥後の状況など詳しく記録していて、江戸初期の肥後の様子を知ることができる一級資料として非常に貴重である。<br>江戸時代、早川は裕福な村として近隣に知られていたらしく、古文書には裕福の度合いを早川と比較しているのが散見される。<br>早川の地名の起こりは、緑川の急流によると言われているが、通常は流れの速い川は、ハヤカワといって（反対は淀川）、ソウガワとは言わない。ソウガワの地名は緑川支流の竜野川沿いに「上早川」として続いており、緑川の「大川」に対して、サワガワ（沢川）が転化したものであると考える。<br><br><br>９－７　くまもと地名あらかると　　　乙女　　　<br>上益城郡甲佐町<br><br>家族づれで賑わう津志田河原<br>甲佐町は緑川が貫流しているが、その左岸の大部分が旧乙女村である。明治２２年の町村制の施行により、津志田など８か村が合併して乙女村になった。地形的には緑川流域、乙女台地、浜戸川流域に分けられる。<br>乙女台地は城南町の舞の原台地と続いており、戦時中は隈庄飛行場の一部として使用された。<br>もともと養蚕が盛んな土地であったが、戦後、船津地区で正月用の南天の葉を紅葉させる栽培技術が発見され、樹芸や花卉栽培が盛んになった。<br>麻生原地区にあるキンモクセイは国指定天然記念物で、秋に２度開花し、その香りは対岸の糸田地区まで届く。開花の時期には地元の人たちのもてなしもある。<br>　近年、津志田地区の緑川河原に自然公園が整備され、熊本市に近い事もあり、小中学生の校外授業や遠足として利用され、休日にはピクニックの絶好の地となり賑わっている。<br>村名は明治２２年の合併のとき、田口地区にある五色山（乙女山ともいい乙女山城があった）に由来する。<br><br><br>９－８　くまもと地名あらかると　　　田口　　<br><br>太宰府の荘園<br>甲佐町の緑川右岸にあり、乙女台地と接する。江戸時代は近隣の和田内、下田口を含めて呼ぶ事もあった。<br>平安時代には太宰府天満宮安楽寺の荘園として田口庄が見える。この庄の鎮守として菅原神社が勧請された。また、田口と接して府領という集落（九州高速道路の緑川パーキングエリアがある場所）があるが、この事の傍証として論じられている。<br>康治２年（１１４３）には田口新太夫行季が緑川を隔てて対岸にあった山出の官物などを奪取している。<br>江戸時代、隣接する乙女台地の畑一部は田口村に属していたが、遠くて耕作するのに難渋していた。嘉永３年（１８５０）に田口の地侍の守田恒助が自分の荒れ地に井戸を掘ったら水が出たので１３戸が移住した。ここは戦後、樹芸産業が盛んになり、田原地区として発展している。その後甲佐町グリーンセンターが開設された。１０月から翌年の５月まで日曜日ごとに開かれるセリ市には誰でも参加できるので賑やかである。現在は緑川森林組合が運営している。<br><br>９－９　くまもと地名あらかると　　　糸田　　　<br><br>緑川をまたぐ甲佐大橋<br>近年緑川をまたぐ大きな橋ができたが、そこが糸田である。<br>　もともとこの地は緑川と津留川の間にできた中州であった。戦国末期ななり、洪水時も大丈夫な事がわかると、瓜山（現御船町）などの近隣の者や浪人などが移り住んできた。その後、加藤清正の改修により、緑川の流路が変わり、鵜の瀬堰からの用水も引かれ人口も増えた。<br>しかし常に洪水の危険にさらされ、ひとたび堤防が切れると流路が変わり川底になった。また用水路の末端にあるため、梅雨や台風で上流の堤防が切れると復旧に手間取り、稲にとって一番大事な時期に水不足になった。<br>そのようなこともあり、天和３年（１６８３）年に庄屋と百姓の間で隠田の事で争いが起き、庄屋と百姓７名が処刑されている。<br>近年では「大正元年の大水」（１９１２）に堤防が切れ、熊本では珍しい３連の目鑑橋が流れてしまった。<br>　糸田堰は受益面積５００㌶余り、その用水は甲佐、御船を潤して余水は御船川に注ぎ、その水を川田堰で受け止め、嘉島町を潤して末端は加勢川の中ノ瀬橋付近まで及んでいる。<br><br>９－１０<br>くまもと地名あらかると　　　宮内　　　<br>竹崎季長ゆかりの願(がん)成(じょう)桜<br>甲佐町の旧町村名の一つ。甲佐町の緑川上流の山間部分を占める。明治２２年坂谷など４か村が合併して宮内村となった。村名は同村上揚にある甲佐神社の御内郷だったことに由来する。<br>甲佐神社は肥後国二の宮としてとしてその社領は海東、小川方面に及び最盛期には３００町を超えた。元寇の役の際、竹崎季長が甲佐神社に参詣しで祈願したら境内の桜の枝に甲佐大明神が顕われ成就を約束したと「蒙古襲来絵詞」にある。近年、この「願成桜」が整備され、願い事の成就を祈願する参拝客が絶えない。<br>緑川沿いにある井戸江キャンプ場にはバンガローや炊事場があり、緑川での川遊びも楽しめる。また甲佐岳の麓にある「川平キャンプ場」には宿泊施設もあり、ここから甲佐岳（７５３ｍ）への登山ルートも開かれている。<br>坂谷には雨乞いの棒踊り「ボシドラ」があり、現在は子ども会が伝承して行事等でその勇壮な踊りを披露している。<br>
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<link>https://ameblo.jp/knakashima/entry-11440569513.html</link>
<pubDate>Wed, 02 Jan 2013 15:01:46 +0900</pubDate>
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<title>中嶋敬介著作集　Ⅶ　伝記</title>
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<![CDATA[ 中嶋著作７伝記<br>人物伝７－１<br>　生涯一教師　佐藤儀次郎伝<br>　昭和三十三年に白旗小学校は創立五十周年を迎えた。<br>　そして何か記念事業をしようという事になった。<br>　そのとき期せずして、佐藤儀次郎先生の遺徳を頌（たた）える碑を建立しようという話が持ち上がった。<br>　儀次郎先生が没せられてから既に十五年、なお先生は教え子の心の中に生き続けて慕われていたのである。<br>　それでは儀次郎先生は、一体何をしたのか。<br>　実は校史に記されるような事は何もしなかったのである。<br>　それでは何故建てたのか。<br>　儀次郎先生こそが、住民が求めている教師としての理想像であったからである。<br>　話は違うが、七月二十四日の熊本日々新聞のコラムに次のような話が出ている。<br>　明治二十八年に某巡査はコレラが発生した村に派遣されたが、その巡査もコレラに罹患し死亡した。村人達はその巡査を神として祀（まつ）り神社を建てた。　その神社の五十年祭に招かれた子孫の言葉がいい。<br>　「神として祀られた叔父が神様か、神として祀っていただいた村人の誠心が神様か・・・・」。　<br><br>　さて、前記の村人の話と全く同様で、佐藤儀次郎先生の遺徳も勿論であるが、それよりも先生の頌徳碑を建てた白旗校区民の心根がいい。<br>　心が健康である。<br>　そのような先輩がかっていたことを誇りに想い、現在の世相と合わせて考えるとき、校区民の心意気に唯々頭が下がるばかりである。<br>　　　　　　　　　　　（文中敬称略）<br>緑壁小学校　？<br>　先生は明治六年に白旗村早川に生まれた。<br>　前年の明治五年はわが国で初めて「学制」が実施された年である。それまでの「寺子屋」にかえて「邑（むら）に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」として、甲佐町でも明治六年に甲佐小学校、明治七年に上揚小学校、同年田口に碧陽小学校、八年坂谷小学校が設立された。<br>　それにともない、宮内の二私塾、甲佐七、竜野四、乙女七、白旗五の合計二十五私塾が廃止された。<br>　上白旗で廃止されたのは早川の渡辺揖人、糸田の宮地一の二私塾である。　<br>　明治十二年の記録によると、上白旗では糸田に「人民共立小学校」があり、男三十五名、女二十六名が在籍している。<br>　そして明治十九年になって上白旗に早川尋常小学校、下白旗地区に白旗尋常小学校が設立された。当初は四年制であったがやがて六年制となる。<br>　正史には載ってないが、早川尋常小学校の校名は明治二十三年頃から明治二十六年頃まで緑濱尋常小学校となっていたらしい。<br>　明治二十三年、佐藤儀次郎はその設立されて間もない早川尋常小学校の教壇に立つ。十八歳であった。<br>　その後同校訓導兼学校長に栄進した。<br>　明治四十一年、早川尋常小学校と白旗尋常小学校は合併した。また高等科を併設して、校名も白旗尋常高等小学校となり現在の地に移った。<br><br>全部が教え子！！<br>　そして佐藤儀次郎も白旗尋常小学校訓導に転じた。<br>　その後大正十四年に退職するまで十七年間を白旗尋常高等小学校で過ごした。　十七年を同一校に勤務するということは当時としても異例であり、白旗小学校五十年の歴史の中でも十年を越す者はいない。<br>　しかし単に長期間勤務しただけで頌徳碑（しょうとくひ）が建つ訳はない。<br>　それでは何故建てたのか。<br>　この十七年の間、佐藤儀次郎は一年生を続けて担任している。<br>　そうすると、どういう事になるか。<br>　六年目には全校の児童が自分が担任した子どもになる。<br>　また当時は兄弟姉妹が五、六人いるのは普通であったが、十数年も担任すれば一家全員が佐藤儀次郎に教わった事になる。<br>　子どもが佐藤儀次郎を知っているという事は、当然の事ながらその親からも知られる存在であり、かくて校区民全員から熟知される存在になる。<br>  教師が校区民の全員を知り、全校区民がその教師を知って信頼すればこれほど良い教育環境はないであろう。<br>　また、今は制度上求むべきもないが、このような「生き字引的」教師が学校に一人いるという事は、学校運営上からも、また他の教師からもどれほど頼りになった事であろう。<br>　佐藤儀次郎を語るとき、「校区民全員が儀次郎先生の家を知っていた」というエピソードがよく引き合いに出されるが、これもなるほどとうなずける。<br>　しかし、一人の教師が一つの学校に永年に亘り勤務するとるという事は、まかり間違えば学校運営上の障害にもなりかねない。一にその教師の資質いかんにかかっている。<br>　つまり白旗小学校は佐藤儀次郎を必要としたのである。<br><br>慈父と慕われる<br>　波瀾万丈の人生を書き残す事はたやすいが、平凡な人生を語るのは容易な事ではない。<br>　しかし、その平凡さのなかに佐藤儀次郎の面目躍如たるものがある。<br>　「真面目」「実直」「人がよい」「和顔」「高徳」「慈父」「人情家」。儀次郎を語るとき誰からも出る言葉である。<br>　このように教え子から慕われた教師であるが故に、故郷を離れた卒業生が白旗に帰ってくると、まず儀次郎の元に訪れたという。　<br>　また教え子の一家が生活費に困っているのを見かねて、度々お金を渡していたともいわれている。<br>　儀次郎を語るとき、よく使われる言葉がある。「子どもが好き」「やさしかったのが忘れられん」「先生の大きな手と、そのぬくもりが今でも私の手に残っている」「威厳があって、しかも慈父のようであった」<br>　これこそが校区民が畏敬の念を持ち続けた一番の理由であろう。<br><br>一教師として生きる　<br>　儀次郎がどのようにして教師の資格を取ったかは、現在となってはいまひとつはっきりしない。<br>　明治四十年の早川尋常小学校の卒業証書には「校長佐藤儀次郎」とあることから考えると、当時の教師がそうしたように、上益城郡教育会が御船に設立した「尋常小学校本科正教員養成所」を修了したことが十分考えられる。　<br>　いまひとつ、儀次郎を語るときよく使われる言葉がある。「栄達を求めず」「出世を考えず」。<br>　そうすると白旗小学校では「校長になれなかった」のではなく、前任校で一旦校長になったが、以後「校長にならなかった」のである。<br>　それは何故か。<br>　理由は簡単である。佐藤儀次郎の人生観からして、日々子どもと接することに生き甲斐を感じていたからである。<br><br>子どもが好き<br>　通常一年生を担任するのは女教師であろう。それをなぜベテランの、後には老練の男教師が続けて担当したのか。そこには単に「低学年が好きだから」とか「一年生が向いている」とか以上の理由があった。<br>　当時の新入生の教育は現在では考えられない苦労があった。<br>　まず幼稚園や保育園で集団による躾を受けていないのは勿論であるが、「士族」「平民」の身分差や「地主」「小作人」の貧富の差がストレートに教室に持ち込まれ、それらの子どもが机を並べていた。<br>　また弟や妹を学校に連れてきて子守をしながら勉強する風景も珍しくなかった。<br>　それを「子どもと子どもとの関係はすべて平等」という意識を一人一人に植え付けさせなばならない。<br>　そのような子どもを入学後一年間で「学習訓練」をした上で二年生に送り出さなければならない。<br>　そうしてはじめて学校全体が正常な教育が出来るのである。<br>　そのためには先ず教師が全児童を分け隔てなく扱う必要があった。<br>　その点、儀次郎は頌徳碑の銘文にもあるとおり「性格は優しく」、しかも「時には厳父の如く」教育し、「権勢に媚びず」に生きる事を人生観としており最適任であった。<br><br>わが人生の指針　<br>　さて、昭和三十五年、校区の住民はもとより遠く沖縄や東京からも基金が寄せられて「佐藤儀次郎先生頌徳碑」は完成した。<br>　その石碑は校門を入ったら校庭を隔てて正面にあり、よく目立った。<br>　その碑文には「子弟には慈父として慕われ、父兄には尊父として仰がれた先生の高徳は実に世の木鐸として永劫に輝くであろう」と記してある。<br>　私はその碑を見るたびに、佐藤儀次郎の業績よりも、ただの一教師にすぎない恩師の遺徳を偲（しの）ぼうとして碑を建てた校区民の心根に心打たれた。<br>　そして、このような碑を建てた先輩諸氏を誇りに思い、そのような健全な思想が支配する校区に生まれた事を幸せに思った。<br>　そしてこのような風土では、子どもに郷土愛や愛国心を声高に教えなくても、それらは自然に育つもだと思った。<br>　実際この碑を前にすると、名誉や地位や位階勲等や財産は如何なる意味も持たなかった。　<br>　また、この碑と対峙して、自分自身の生き方を恥じるところはないか、自問する事もしばしばあった。いわば私の心の鏡であった。<br>　そしてこのような教え子を育てた佐藤儀次郎の偉大さを改めて感じた。<br><br>　しかしいつの頃からか、またいかなる理由によるか知らないが、この碑は校庭の一番奥まった所に移転されてしまった。<br>　今では孫にあたる早川の佐藤多恵子さん達がときどき訪れるのみである。<br>　もともとこの碑は先述した通り慰霊碑ではない。この碑は「人生は斯くあるべし」と校区の先輩が私たちに示した「道しるべ」であり、訪れなければならないのは町民であろう。<br>　<br>　なお佐藤儀次郎の次男福田幸雄は昭和二十八年に白旗小学校の校長に、孫婿の佐藤学は昭和＊＊年に同小の教頭に赴任している。<br>　誠に「衣鉢を継ぐ」とはこの事であろう。<br>    <br> 人物誌７－２<br>　清村　勉<br>    ────　コンクリート建築にかけた男                                                                <br>どの建物にも清村の名前が<br>　戦後もアメリカの占領下にあった沖縄は、昭和四十七年に日本に返還された。そして本土復帰に伴う特別措置として学校建築が盛んに行われた。<br>　学校を建てるためには、先ず今ある校舎を解体しなければならない。解体すると、めぼしい校舎の「棟上げ板」の殆どに「設計監督 清村勉」の名前がある。その中には大正十一年に造られたコンクリート建築の小学校もあるではないか。<br>　建築史の示すところによると、学校建築にコンクリートが用いられ始めたのは関東大震災（大正十二年）の後とある。一体何故沖縄の地で、まだ本土でも数少ない時期に六十数棟のコンクリート建築をしたのか。<br>　（ちなみに熊本県における学校の鉄筋コンクリート建築の嚆矢として有名な慶徳小学校は昭和元年、大島小学校（現嘉島西小）は昭和二年である）<br>　その前にそもそも清村勉とは一体何者なのか。<br>　このような事があって戦争をはさんで四十年の空白を飛び越え、昭和五十五年になって、今は静かに余生を送っている一人の老人に注目が集まった。<br>　地元の甲佐では無名に近いが、今なお建築学会では評価が高いその男の仕事をたどり、仕事とは何か、われわれは何をなすべきかを共に考えたい。        　<br>　　　　　　　　（文中敬称略）<br>請われて沖縄へ<br>　清村勉は明治二十七年に甲佐町豊内に生まれた。甲佐小学校高等科卒業後、地元の大工の弟子入りをしていたが、思うところがあって熊本県立工業学校に入学、建築専攻科を卒業後、鹿児島県加治木工業学校の教師として赴任した。<br>　清村はかねてからコンクリートに興味があり、関係の図書を読みあさる一方、学校前の河原でコンクリートの諸実験を重ねていた。<br>　大正九年、コンクリート研究が縁となり沖縄県国頭郡役所長から請われて郡役所技手として赴任した。<br>　 清村は沖縄については殆ど無知であった。そこが先ずやったのは、郡内の地勢・風土・公共施設の現況の調査であった。それに加えてコン<br>クリート用のバラス・砂・水の塩分含有量などを郡内くまなく綿密に調べた。<br>　また、イギリスから専門書を取り寄せ独学でコンクリート建築を体得した。<br>　当時沖縄の民家は茅葺き屋根が多く、公共施設も台風や白蟻の被害がひどく危険な個所も多かった。二か月の調査を終えて出した結論は、沖縄の建築は台風と白蟻対策のためコンクリート造にすべきだという事であった。<br>　 清村は役所の仕事が終わると自宅の庭先で塩水や真水を用いて鉄筋の腐食状況などの比較実験を繰り返した。<br><br>まず見本に公営質屋を<br>　赴任して二年、コンクリート造は墓みたいだという村民を説得するために、見本として瀬喜田小学校の便所を造ることになり、学校・父兄の協力で台風や白蟻に強い鉄筋コンクリート建造物第一号が完成した。<br>　当時庶民の金融機関として公益質屋というものがあった。大宜味村公益質屋は改築の時期になっていたが、 清村は村民の貴重な財産を盗難や台風や火事から守るためには鉄筋コンクリート以外にはないと考えて村民を説得した。<br>　次に建てたのが金武小学校である。<br>　便所と公益質屋の建築で、コンクリート建築に対する理解が少しは深まったとはいえ、二階建て十四教室は膨大な経費がかかる。木造が三万三千円なのに対して鉄筋コンクリートは五万二千円にもなる。しかし教育の重要性と鉄筋コンクリートの必要性を十分認識した村議会は村債を四万円とし、残りの一万二千円は寄付金を充てる事を議決した。村長は寄付を募るために、村出身者を頼って遠くハワイ・北米・南米まで出かけたという。ちなみに当時の村予算は四万五千円だったそうである。<br>　南部の首里などだったらとにかく、北部の山原（やんばる）の寒村に沖縄初の鉄筋コンクリート二階建ての堂々たる校舎が完成したものだから、沖縄各地からの見学者がひきもきらなかったという。<br>　なお、この建築の申請書を県庁に持参したとき。建築課の担当者は鉄筋コンクリート建は見聞したことがないと、上級官庁に問い合わせたなどのエピソードが残っている。<br>　 清村には子どもが四人おり、長男が中学に進学する昭和十四年に郡役所を辞職して、熊本市に居を構え六師団の経理部に勤務した。<br><br>証言１　佐村智幸<br>　　　　　（一級建築士・文化協会理事）<br>　 清村勉氏の自宅を建築したとき、建築家同志として技術的な問題でやりとりしましたが、専門的な知識もさることながら、建築に対する深い哲学をもっておられる事を感じました。<br>　沖縄でやってこられた事については殆ど話もありませんでしたが、テレビの「We  Love九州」に特集番組として「草の根建築家 清村勉・コンクリート建築にかけた男！」という三〇分番組があり、これほどの事をやってこられた方かと驚きました。建築家としてどうあるべきか、学ぶべき事が多々あります。<br><br>証言２　清村　守<br>　　　（ 清村勉の甥・文化協会顧問）<br>　沖縄から帰省しても、建築関係の仕事をしていたとの話は聞いたが、仕事の内容や、まして自慢話などは聞いた事がなかった。意志が強く、寒い朝でも井手の氷を割って氷水を頭からかぶっていたそうです。仕事については「今日の仕事は明日に延ばすな」がモットーでした。<br><br>　沖縄在職二十年、その間に 清村が設計監督した建造物は六十数件といわれる。その中で鉄筋コンクリート造の主なものは大宜味村役場・名護村公益質屋・護佐喜宮・宜野座小学校・伊江小学校・伊是名小学校・塩谷小学校・伊平屋小学校などがある。<br>注目が集まる<br>　さて、先述した通り、本土復帰に伴い校舎の建て替えがブームになった。<br>　金武町でも、本土復帰特別措置法が期限切れになる昭和五十六年を前に、老朽校舎の金武小学校を改築しなければならないとして、昭和五十五年に町議会は改築を決議し、先ず校舎を半分解体した。<br>　そのような状況下にあって北部工業高校の木下義宜教諭は解体されるめぼしい建物の設計施工法などをチェックしていたが、棟上げ板に頻繁にでている清村勉について調べていくうち、清村が元気で熊本にいるという事がわかり、沖縄と清村の交流や学術的な問い合わせなどが始まった。<br>　そして木下教諭と熊大の木島安史助教授は本格的調査を行い、昭和五十五年に日本建築学会に「 清村勉設計の沖縄における初期コンクリート造り建築」と題して報告している。<br>　同年、「 清村先生を囲む会」が熊本で開催され、大学・建築・沖縄関係者百名が集まり<br>木島から「 清村先生の業績と時代の背景」、木下から「現地の状況と今後の課題」として報告があり、金武小学校の半分解体時の鉄筋が披露され、五十余年を経過して今なお錆一つない鉄筋を目前にして参加者から感嘆の声が上がった。清村は「沖縄の建築と私の人生」と題して講演をした。<br>　同年、日本建築学会九州ブロック会長より、沖縄の地域に即した建築の推進及び鉄筋コンクリート建築の先駆者としての表彰があった。<br><br>文化財として残す運動<br>　一方沖縄では数少ない文化財が次々に取り壊され、また金武小学校も解体されつつあるので、名護市役所の原昭夫建築係長は日本大学の山口廣教授（日本建築学会理事）に保存の必要性を強く訴えた。<br>　山口は聞き取り調査のため二度も清村の自宅を訪れ、また沖縄の現地を訪れ調査をした。<br>　そして金武小学校は貴重な文化財として保存すべきだとして、関係機関へ文書を送付した。<br><br>資料１　琉球新報（昭五七・四・七）<br>　　数少ない貴重な文化遺産<br>　　　　　金武小校舎保存を     <br>　　　　　　　　　　     山口　廣<br>・・・しかしここで申し上げたいのは金武小学校が単にその完工年が他より早かったというだけでなく、その設計の質の高さを評価したいのです。東京では関東大震災後百十七校もの鉄筋コンクリート造を設計しましたが、基本的には同じ構造設計をなしています。　　もし清村氏の研究が未熟であったならば一見似ていても、現物の校舎そのものは五十余年の風雨に耐えずもう消滅していたでしょう。それが今に残り、多くの児童の学び舎として使命を永く果たしてきた事は、 清村氏の研究の優秀さと、これを支え校舎建築を可能にした村当局の熱意、これに応える誠意ある施工業者・職人など全てを高く評価したいのです。この故に私は金武小学校こそわが国の学校建築史上貴重な文化遺産であることを申し上げたいのです。            （抜粋）<br><br>資料２　琉球新報（昭五七・五・二）<br>　学校建築史上貴重な財産<br>　　 沖縄空港ターミナル会長<br>　　　　　　　　　　　　大城龍太郎<br>・・・琉球大の具志教授からも、金武小学校は永久建築物との鑑定を受けている。金を遣うのは金を儲けるよりも難しく、使い方を誤れば大変な不幸を招く。ありあまる町予算や補助金を良いことに五十年の歴史の固まりである大切な文化遺産を壊せば金武町全体の不名誉であることを知るべきである。（抜粋）<br><br>金武小学校解体される<br>　デザイン、技法、構造に優れた名建築物として金武小学校の保存運動が起きる一方で、<br>特別措置法の期限切れを目前にして町議会は、記念として屋上の鐘突き堂や校舎入口のアーチを新校舎に取り付けることで決着し、ついに全校舎が解体された。<br><br>先駆的な設計思想<br>　 清村は沖縄特有の高温・多湿・台風・白蟻などに適した建築を進めた。そのため清村は風土建築家と呼ばれるているが、いっぽうで別の面からの積極的な評価もあるる。それは沖縄の厳しい自然を前にして屋根を低くして高い石垣をめぐらすという従来の消極的考えから、鉄筋コンクリートで堂々と自然に対して立ち向かったという評価である。革新的建築家といわれる所以である。これらの評価をふまえ、その特色をまとめると<br>一　北部は飲料水に乏しかった。　<br> 清村は小学校建築が瓦屋根の場合は地下水槽を設けて樋で地下タンクに集め飲用水にした。<br>二　白蟻の木材侵食実験をした<br>　沖縄の高温多湿の気候は白蟻の繁殖に適し、その被害が多かった。 清村は沖縄に育つ松・杉のほか各種の木材を一尺に切って地に埋め白蟻の好む材料のテストをした。殆どの木が白蟻に喰われたが槇の木だけは表面をなめる程度だった。校舎の白蟻対策もこれらを考慮してなされたという。<br>三　快適な校舎づくりに心がけた<br>　特に沖縄の夏の暑さを考えて防暑対策に心がけた。窓を大きく取り、教室と廊下の間のしきり（ガラリ・無双戸）をつけて、空気の流れを図った。また天井の四隅には換気孔を設けて熱気が抜けるようにした。<br>四　自然と調和のとれた建築に留意した<br>　やんばるの森の緑・海の藍・空の青にマッチした赤瓦色が、伊是名小学校の卒業生にも伊平屋小学校の卒業生にも強く印象に残っているという事である。伊是名小学校も文化財として残すよう運動が激しかったという。<br>　<br>今なお生きる<br>　 清村勉は昭和六十年七月一日死去した。　　　　　　　　　　　　　享年九十一才。<br><br>資料３　沖縄タイムス（六〇・七・三）<br>　沖縄の”コンクリート建築の父” 清村勉　さんを偲ぶ　　　　　<br>　　　　　　　　　　名護市役所　原昭夫<br>　風土建築家清村勉氏はいかにも職人然として謙虚そのものであり、氏の風貌に接して技術者の在り方、生き方という面で大いに教えを受けました。建築のみならず社会の全領域で専門化・分業化が進む今日、氏のような個人の人格の中で気象・生物・土壌・材料・工法・環境などの全てが把握され、それが建築という「モノ」に結実していった姿を見るとき、氏が残された仕事（現在は取り壊されて数少ないが）の中からもっと多く学びたいものである。                     （抜粋）<br><br>資料４　琉球新報（昭六〇・七・二六）<br>　建築家　 清村勉氏を悼む <br>　コンクリート建築を沖縄に初めて導入<br>　　　　　　　　美里工業高校　木下義宜<br>　大正末期から昭和にかけてのコンクリート建築について、気候・風土・地勢に適した建築の在り方は今日でも充分参考になるものがある。 清村氏と接することにより建築とは何か、鉄筋コンクリート造の構造的強さのみを求めているような昨今、気候風土に適した建築とは何かを考えさせられた方である。<br><br>九割が鉄筋コンクリートに<br>　今から八十年前、一人の若者がセメントという当時のハイテクに出合った。彼は自分は何を成すべきかを悟り、その技術を地域住民の為に心血を注いで生かした。そこには功名も地位も無縁であった。<br>　もし今度沖縄に行かれたら車窓から見える建築に注意していただきたい。そしてそれが、甲佐の今は名もなき先輩の先見の明の結果であることに想いを馳せていただきたい。<br>　そして、仕事とは何かを考えていただきたい。        （甲佐町郷土史研究会）<br>
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<link>https://ameblo.jp/knakashima/entry-11440568200.html</link>
<pubDate>Wed, 02 Jan 2013 15:00:01 +0900</pubDate>
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<title>中嶋敬介著作集　Ⅵ　民俗</title>
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<![CDATA[ 中嶋著作６民俗<br><br>民俗誌６－１<br>民話「おとぼなまず」の背景<br>                <br>あらすじ<br>①むかし山出に美しい年頃の娘がいた。<br>②そこへ夜な夜な通ってくる上品な若者がいた。<br>③その若者はぬめるような肌をしており、去った後生臭いにおいが漂った。<br>④これはただ者ではないと感じた家人はその正体を暴くべく入口に灰をまいておいた。<br>⑤その足跡を調べたら何かが這って蛇行したような跡が続いていた。<br>⑥そこで針を灰の中に立てておいた<br>⑦翌朝、血が流れてのたうったような跡があり、それを辿って行くと緑川対岸の五色山の麓の池につき、そこにオトボ鯰が死んでいた。<br>⑧祟りを恐れた山出の村人は幟をたて鉦太鼓をならして緑川を渡り、供養した<br>⑨以後毎年七月、幟をたて鉦太鼓をならして緑川を渡り供養した。また、山出の村人は以後鯰を食べない。<br><br>為朝伝説<br>この「おとぼなまず」の話は、甲佐に伝わる通常の民話（例えばウサヒコさんの笑い話や飯田山の地名説話など）と違い、何かいわくありげでおどろおどろしており、古来多くの人の関心を引いてきた。<br>例えば江戸時代の初期、早川に住んでいた早川神社の神職渡辺玄察は次のように考察している。<br>昔、山出大武明神社の上にある白旗山には鎮西八郎為朝が在城していた。後に為朝は都に召されて再び帰って来なかった。留守居を守っていた御内室（奥方）は「悲嘆止むことなく、昔を偲びつつ遂に詮方なく渕に身を沈め給う」として、その渕を往時の緑川筋のヒナイ神付近に比定している。そして「山出城下の者共はいたわしく思い、その七月彼の渕に至り鉦太鼓を鳴らして念仏踊りをなし、源氏の白旗とて白布を竿頭につるし笹踊りをなして亡霊を弔慰せり。その後、例となり盆毎に山出村よりヒナイ神に詣で踊りをなすにあらずや」としている<br>　この考察は<br>　①江戸時代初期には既に辺場・古閑・八丁・山出の村人が緑川対岸のヒナイ神付近で念仏踊り（鎌倉時代、一遍上人らによって始められた踊り、念仏を唱え鉦・太鼓を打ち鳴らし踊る）をしていた。<br>②為朝伝説と笹踊り（神事舞の一つで笹を手に持って踊る）とを結びつけて推察している。<br>③ナマズが出てこない<br>このように、民話「おとぼなまず」は為朝伝説を背景にしているのであろうか。<br>　それを考察する前に、今では聞きなれない曰くありげな「オトボ」とは何だろうか、また「ヒナイ」とは何だろうか。<br><br>おとぼ<br>甲佐だけではないが一般に語尾の「ウ」は省略される傾向にある。例えば「牛蒡（ごぼう）」をゴボ、「吝嗇坊（けちんぼう）」をケチンボという類である。オトボとはオトボウであることに異論はなかろう。<br>そうすると、山がオト女山であり池がオト坊であって一対をなしており、緑川を夜な夜な渡って山出にきたのは対岸の男であるという話になるが、これには難点がある。<br>それはオトボウの伝説は全国に散らばっているからである。<br>①前橋市の清水川にはオトボウナマズという主が住んでおり、「オトボウ、オトボウ」と言いながら釣り人を追いかけてくるという。<br>②オトボウ池　群馬県天川大島町のオトボウ池は野中清水といって清水が湧いていた池であった。この池には大きな鯰がいた。ある人が鯰を捕ってザマの中に入れてきたら、その鯰が「オトボウ、オトボウ」と呼んだという。その人はあとで病気になった。<br>③おとぼ沼　昔、群馬県西片貝町に「おとぼ」と呼ぶ越後の毒消し売りが、この沼に生き埋めにされたという。沼の渕で「おとぼやーい」と呼ぶと、かすかに「おーい」と答えるといわれている。<br>④　静岡県の天竜川上流の水窪町に「オトボウ渕」というのがあるが、その由来は「ある金持男が、渕の縁に住んでいた親交のある男に、タブーとされている蓼（たで）汁を飲ませたら、男はもがきながら渕へ転がり落ちてしまった。今まで人間の姿をしていた男は赤い腹をした魚になって、しきりに「おとぼう、おとぼう」と連呼しながら川を流さて行った。<br>⑤　熊本県甲佐町坂谷の人がウナギを獲って夜道を帰っていると谷川の渕から「オトボウ、ぬしは何処へ行きよっとかい」と声がした。するとカゴのうなぎが「おれは今夜切り刻まれて殺されるたい」と答えた。それを聞いた坂谷の人は怖くなってウナギを渕に投げ捨てて逃げかえった。<br>以上、五例をあげたが共通することは<br>①オトボウは川や沼と関係している。<br>②おどろおどろしている話である。<br>それにしてもオトボウとは何であろうか。<br>柳田國男は「物言う魚」で<br>岡山県吉野村の釣った鯰が物を言う「まつぼう渕」の例を挙げ「魚には○○坊」という子どもみたいな名を持つ者もあった」と述べている。<br>上記④の静岡県の天竜川上流の水窪町あたりでは「オトボウ」というのは「父」という事であり、死にかけに父の名を呼んだのではないか（「民族」三巻五号　早川幸太郎）と記している。<br>　「オト（乙）」は古語でオトゴ（末子）の意味があり、実際「阿蘇湯浦平成風土記」（高本高綱）によると「オトゴ　最後に生まれた子・末子」として、現在も使われている。<br>　また、「肥後の昔話」には矢部の川内に伝わる民話として上記⑤（坂谷）に類似した話があり「川底から『おおい、どけ行きよっとかー』って、おめきよる。うなぎの名前を言って」とある。この話にはオトボウという言葉は出ていないが「うなぎの名前」とは坂谷の話に出てくるオトボウという事であろう。　<br>以上の事から考えて、オトボは乙女とは関係なく人格を持った鯰につけられた名前という事になろう。<br><br>ヒナイ<br>つぎにヒナイ神である。これも字義不詳であるが、ヒナイはヒナ・イであろう。ヒナはひなた（日向）の意で用いられ、日向田・日南・朝比奈などと表記される。<br>　イは中世では井手（用水）の意に用いられる事が多い。<br>上益城郡誌によるとヒナイ神を「船井神」としている。<br>フナイは一般にはフナ・イであろう。フナは船の形をしている意で、船山・船窪などと用いる。<br>　前記「拾集昔語」には「ヒナイ神という故事は「ヒナ人のカミ池」と言えるにはあらずや」としている。鄙（ヒナ・いなか）人が崇拝する神がおわします池という意味であろうか。しかしこれは当たらない。都からみれば鄙人かもしれないが、村人が自ら自分を鄙人として、その神を鄙人神というはずがない。<br><br>いつごろの話か<br>　この民話は「肥後の民話と伝説」（熊本史談会）・「肥後の伝説」（牛島盛光）・「熊本の昔話」（大塚正文）や「甲佐の民話」（甲佐町教育委員会）などに掲載されているが、大事な事を書き落としている。<br>それは冒頭のあらすじの③④⑤⑥の部分の欠落である。<br>つまり、地元に伝えられている古い話では「妖怪と思われた」から殺されたのであって、「娘の所に夜な夜な通ってくる」から殺されたのではない。<br>手懸りはそこにある。<br>というのは、この話は「婿入り婚」が容認されていた時代の話である。古代は夫が妻の家に通うのが一般的であり、妻が夫の家に嫁入りする「嫁入り婚」が普通になったのは室町時代からである。そうすると移行期も含めてこの話は平安から室町時代の頃の話ということになるのではないか。<br>もうひとつ手掛かりがある。それは何故わざわざ対岸まで出かけたかという事である。<br><br>背景に田口荘と公領山出村との争いが<br>　田口と山出のかかわりをみると<br>平安時代の康治二年（一一四三）四月三日、田口新太夫行季は一族郎党とともに山出に押しかけ、米稲・大豆・塩・麦・胡麻などの食料を奪い、女六人を掠め取り、役人二人を傷つけ家を焼き払った。（肥後国訴状）<br>この争いの背景には山出村は国衙の公領地ではあるが、砥川経盛が私領としての特権（税の徴収権・納入の免除）を持っていた。砥川経盛はその山出村を在庁官人の権介季宗に売ったが、経盛の甥の田口新太夫行季はこれを認めために起きた事件である。<br>当時、古閑・八丁・芝原・吉田の村々はまだなく、山出は豊かな後背地を持つ物資の集散地であったと思われる。<br>対岸の田口は、かつての大宰府天満宮安楽寺領の荘園であり、それを背景にした田口氏が勢力を持っていた。<br>「オトボなまず」は、この両氏の抗争や和解を背景に、阿蘇氏の勢力拡大に伴うその眷属である鯰がからんだ話ではなかろうか。<br>  <br>  <br>  民俗誌６－２<br>  なぜ孟宗竹は短期間に全国に植栽されたか<br><br>二百年で全国に<br>孟宗竹はもともとわが国に自生しておらず、寛文元年（一六六一年）に隠元禅師が中国から持ち帰り京都長岡京市の奥海印寺に移植したのが最初と言われている。<br>確実な記録としては元文元年）（一七三六）に中国から琉球を経て薩摩藩主に二株贈られたのが最初で、磯公園にその記念碑が建っている。<br>その後の伝播については、仙台へは宝暦明和（江戸中期）の頃に藩士の中目六左衛門が江州から株を持ち帰ったとか、金沢へは藩士の岡本右太夫が武蔵野から移植したとか、江戸へは海運業者の山路勝孝が移植したとかが文献に散見される。<br>いずれも株を分けて移植したという点に留意していただきたい。<br>それが幕末には全国的に分布するに至った。この間たった二百年である。これは異常なことである。例えば、杉は挿し芽で大量に増やせるしヒノキやマツは種子を蒔けばよい。ところが竹を殖やすには株分けをしたり地下茎を切り取って殖やすのが一般的である。<br>しかも竹は移植した株が成長して、いきなり竹林になるわけではない。<br>杉や松や檜は年々成長するが、竹は一年で成長が止まる。移植しても一年目は鉛筆位の竹が生えるばかりである。<br><br>二，三年目で七夕竹ぐらいの竹が地下茎の他の節から立ち上がり、その後段々と大きな竹が生えるようになり、立派な竹林となるのは十年もかかる。<br>竹は成長が早く繁殖力が旺盛ではあるしかし例えねずみ算的に株分けしても二百年で日本中に植栽されるには何か必然的な理由があったはずである。<br>それは何だったのか。<br><br>理由にならない<br>先ず考えられるのが食料としての筍であろう。<br>確かに孟宗竹のタケノコは商品作物としては優れている。しかし京大阪や江戸近郊ならとにかく、全国的に広まった理由にはならない。田舎には在来種のハチクやコサンチクなどもあり、飢饉にさいなまれている百姓がわざわざ食料として移植する必然性はない。<br>食用以外の利用としては工芸品があげられる。<br>竹はザル・カゴなどとして、生活用具や農具・漁具として広くつかわれてきた。樽用のタガや竹箒も必要不可欠な竹の利用であった。<br>しかしこれらには弾力性に富みしなやかなマダケが用いられた。茶道具にみられるような竹工芸品や和傘・団扇などに至っては需要が限られていて、とても孟宗竹が全国に移植される必然性はない。<br>「日本における竹林経営」（電子版）には、もう一つ「建築用」として竹の効用をあげている。<br>まず、建築用材として銘竹（例えば床の間の床柱に使う角竹）がある。これには孟宗竹が適しているが需要が極少である。土壁のエツリカキも考えられが、これはマタケやメダケでもよい。<br>「土木用」としても草堰や橋の資材として使われる事もあるが、これも孟宗竹でなければならない事はない。<br>以上、いずれも孟宗竹が急速に広まったであろう理由をあげ、その必然性を否定した。<br>それでは何故爆発的に全国的なブームとなって植栽されたであろうか。<br>私たちは江戸時代の中期から明治にかけて孟宗竹を必要とする、ある必然性を見落としていたのである。<br>その答えは意外なところにあった。<br><br>官軍から焼き討ちにされる<br>明治十年、薩軍に包囲された熊本城を救援するため、政府軍は八代に上陸し薩軍の背後を衝くために進軍して、堅志田に陣を構えた。<br>そして四月三日、政府軍は緑川を渡り甲佐町の集落に火を放ち一面を焼け野が原にした。特に岩下町と大町、仁田子は殆どの家が消失した。<br>西南戦争が終わり、焼き討ちにされた住民に対して（見舞金が支払われることになり、焼失家屋の調査が行われた。<br>その報告書により、私たちは当時の住宅事情を知ることができる。<br>そして明治初期の家並みは、私たちの持っているイメージと随分異なっている事に気づく。浮世絵や絵巻物に見られるような景観や大正時代に撮られた「古民家」の写真とも全く異なる。<br>資料一は中程度の家が焼失した例で、母屋の一部が二階建てになっている。母屋は建坪二十四坪あり、そのうち二階部分は瓦(かわら)瓦(かわら)屋根(やね)屋根(やね)で一階部分は藁(わら)藁(わら)屋根(やね)屋根(やね)になっている。下屋(げや)が九坪あるがその内の四坪半は竹屋根になっている。<br>また小屋一軒も焼失しているが、この小屋は竹屋根である。<br>資料二は平屋建て十五坪の母屋の例である。十一坪の藁屋根に八坪の下屋がついているが、この下屋は竹屋根である。<br>資料三は平屋建て十坪半の母屋の例である。本体も下屋も竹屋根で葺かれている。<br>小屋が一棟焼けているがこれも竹屋根である。<br>資料四は十八坪の貸家の例である。本体の十坪は藁屋根でそれに八坪の竹屋根の下屋が付いている。<br>以上四例はいずれも岩下町の例である。<br>岩下町は緑川流域にあり、江戸時代は「在町」（熊本や川尻などの町と違って在（田舎）にある町として特権や制約があたえられた）の一つとして栄えた。<br>さて、岩下町で焼失した家は百七十戸のうち判読可能な八十棟を集計したのが次の表一である。<br>母屋の本体で竹屋根は四棟にすぎない。<br>しかし母屋の下屋(げや)下屋(げや)となると竹葺き屋根だけで十四％、瓦との併用が十九％、あわせると三棟に一棟が竹屋根であることがわかる。<br><br><br>表二は小屋の屋根の状況である。藁屋根や瓦屋根よりも竹屋根が多く十棟に四棟の割合で竹屋根になっている。<br>これらの屋根は孟宗竹で葺かれるのが一般的である。<br>新建材としての孟宗竹<br>孟宗竹は真竹と比べると耐久性にやや劣るが剛直であり太いために総合すると優れた建材である。<br>これこそが孟宗竹が二百年で全国に広まった理由であろう。<br>中世や近世初頭にかけての家屋の絵を見れば解かることだが、「町」の家並みには下屋が葺かれていることもあるが「在」の百姓家には下屋は殆どない。板葺きや檜川葺きが高価であったためと思われる。<br>そこへ孟宗竹がわが国に持ち込まれた。<br>新建材として孟宗竹は安価で簡単に葺けるため生活空間が広がり快適なものになる。<br>これが孟宗竹が全国に急速に広まった理由であるというのが私の推論である。<br>（アルミサッシが使われるようになった頃を想起すればよい。アッという間にすべての家がアルミサッシの家になった）。<br>しかし現在では古民家の竹屋根は完全に無視されている。<br>資料五は単行本「古民家・屋根ものがたり」の目次であるが、茅(がや)茅(がや)屋根から始まって土屋根まで七種類の屋根の図版が出ているが竹屋根の項目はない。<br>古民家の調査報告や写真集にも竹屋根に関する記載はない。（一例だけあるがそれは後述する。）<br>何故であろうか。<br>理由は簡単である。建築物としての「民家」に関心が集まったのは昭和になってからであり、その頃になると竹屋根は瓦屋根に取って代わっていたからである。<br>表三は三種類の図書に載っている古民家の写真の分析である。大正から昭和にかけて竹屋根は完全に姿を消したことに気づく。<br>孟宗竹の屋根の耐用年数は七年位であり、経済力が向上するとともに竹の下屋は瓦の下屋に葺きかえられた。<br>この頃の百姓家は藁屋根に瓦の下屋が一般的な姿であり、これは戦後まで続く。<br><br>さて、三尺の下屋を竹屋根で葺くには、まず六尺に切った竹を二つに割って中の節を落とし、中を上に向けて並べる。竹は先が小さいので割った二つをペアにして互いに並べると平行になる。残った先をまた六尺に切り同様にして継ぎ目から雨水が入らないように伏せてかぶせる。<br>一間(けん)間(けん)に大竹で二十～二五本並べなければならないから、竹の太さにもよるが一間に必要な孟宗竹は十本～十三本位であろう。耐用年数は七年位であるが、竹林の孟宗竹は七年で更新しなければタケノコが立たなくなるのでこのサイクルとも一致する。<br>このような需要が孟宗竹を瞬く間に全国に広めた理由と考える。<br><br>終わりに<br>　編集部から、四ページ分の穴が空いたので明日までに埋めてくれ、というキツイ注文があった。<br>そこで、かねてから疑問に思っていた孟宗竹の伝播について図書館で資料を引っ張り出して我田引水的にまとめたのが、この文である。<br>なにしろ学際的であり、歴史学・民俗学・建築史学・植物学などがからみあっており、全く的外れな推論かも知れない。学会誌など専門誌に目を通す時間がなかったので断定的なことは言えないが、このことについて論及したのは他になかった。<br>ただ、気がかりな事が二つある。<br>一つは岩下「町」の例を引用したが、同様に焼失した大町や仁田子の「在」には竹屋根が殆どないことである。報告書の作成にあたって何らかの思惑が働いたのであろうか。それとも、このことについては確か火災防止のため「町」での藁屋根葺きの禁令が出ていた記憶があるが、調べる暇がなかった。<br>二つには竹屋根について唯一述べてある「滅び行く民家」（川島宙水）の記述である。<br>これには「（竹屋根は）九州の熊本・大分・宮崎などの諸県と京都府の山城地方に多く見られる」とある。<br>これから見ると、甲佐の例を全国に広げて論じる事には無理があるような気もする。<br>しかしこの「滅び行く民家」は昭和になってからの観察であり、幕末から明治初期にかけて他の地方に竹屋根がなかったとの証拠にはならない。（例えばマイカー時代が到来するちょっと前にどこの家にもオートバイがあった。どこかの地方で今もオートバイが使われていたとしても、他の地方では最初から自家用車が使われておりオートバイの時代はなかったとの証拠にはならない）<br>以上、孟宗竹が全国に急速に植栽された理由について述べたが、これは私のモーソーで全く別の理由があったかも知れない。そこは素人の気安さである。ご訂正をお願いしたい。<br>    <br>    <br>    民俗誌６－３<br>      天保十三年　マイホーム新築事情<br>　（これは一級建築士の佐村智幸氏との共著である）<br>天保十一年というから、明治維新まで三十年ばかり前の話である。<br>糸田村の本郷平九郎は自宅を新築しようと思い立った。それも建坪六十七坪の居蔵仕様の母屋を、である。<br>それから百六十五年、平成十七年になって、御当主の本郷道子さんは佐村一級建築事務所に全面改築を依頼された。その改築の際出てきたのが四十七枚からなる「天保十三年辛丑三月居蔵建築日記帳」である。<br><br>　　（写真1　：居蔵建築日記帳）<br><br>「民家の普請帳はたいへん珍しく、資料として貴重である（文化庁）」（「永富家住宅普請帳」鹿島研究所出版会）が、佐村は古文書が読めず、中嶋は図面や建築用語がわからない。<br>以下は二人で分析した、ハウスメーカーもホームセンターもない頃の建築事情である。<br><br>居蔵<br>　ある年配以上の方々にとって「居蔵（いぐら）」は日常語として普通に使われている。しかしこれは方言であり、「居蔵とはどんな家か」と問われると考え込んでしまう。<br>居蔵<br>・　方言（山口県・熊本県上益城郡）　かわら屋根の家　　（小学館「日本国語大辞典」）<br>・瓦葺きの家　（注）飯倉か　　　　　　　（松野国策「肥後方言調査草稿」）<br>・瓦葺き土壁漆喰塗りの家　　（高本隆綱「阿蘇湯浦平成風土記」）<br>とあるが「蔵仕様の母屋」と考えるのが一般的であろう。というのは<br>・肥後では細川氏入国の四年目の寛永十三年（一六三六）七月に、百姓は三間梁（はり）以上の家や座敷の長押（なげし）と縁付（へりつき）の畳などを禁止しているが、火の用心のために瓦葺きは許した。しかし<br>・文政二年（一八一九）在中瓦葺きは宿町・在町のほか農家は叶い難し。蔵と鍛冶屋は別段。（「在」とは府中（熊本以外）の町や村）<br>・文政三年一月　在中にて農家の瓦葺きを許さず。只、土蔵は例外。<br>として百姓が瓦葺きの母屋に住むことを禁止している。<br><br>その中にあって本郷家は苗字御免の在御家人（寸志侍）であり、「村人離れ」しているので近所近在にもない居蔵を建てたと思われる。なお、現在でも本郷家は通称（屋号）「居蔵」と呼ばれている。<br><br>　（写真1：　本郷家の写真）<br>　（図1　：　平面図）<br>　　<br>このことがいかに際立っていたかは、これより六十五年前の宝暦五年（一七七五）に八丁村で五軒の母屋が台風で倒されたが、「貫屋（ぬきや）」（床（ゆか）のある家）が二軒、「掘立家」（床のない家）が三軒であったことからもわかる。しかも建坪六十七坪は、下女や名子がいた庄屋でも二十坪に満たない程度であり、際立って大きい。<br>　<br>湯殿<br>もう一つ、今では死語になっている「湯殿」という言葉が数ヶ所に出てくる。例えば<br>    一　銭十四匁　　　但し湯殿土台居方　　　勘助<br>これは湯殿の基礎工事をした左官の勘助に十四匁の日雇賃を支払った記録である。<br>・湯殿　方言　便所（徳島県祖谷・熊本県玉名郡）　大便所（（広島県高田郡）<br>                                                      （日本国語大辞典）<br>甲佐でも「湯殿」は昭和初期まで「便所」を意味していた。<br>それにしても、何故トイレをバスルームと呼んでいたのであろうか。<br>江戸時代は母屋とは別の場所に、厠と風呂を同じ棟で建てていた<br><br>    （図2：　湯殿の平面図）<br><br>  案ずるに、今でも「お手洗いに行く」はトイレに行く事を意味している。と同様に当時は「湯殿に行く」は婉曲的に厠に行く事を意味していたのではないか。それが近代になり、便所だけが母屋に造られるようになっても「湯殿に行く」は便所に行くことであり、湯殿が便所を指す言葉として残ったと思われる。<br><br>材木の手配<br>家を建てるには材木を買わねばならない。建材店や材木屋があるはずもないから、前年の七月に四堂崎の清作を上野村（七滝）に材木の見繕いにやっている。この賃銭は三匁であるから一日の日程であろう。<br>　そして木倉手永の東上野村、大平村、七滝村から杉を九十四本、同じく粒麦（つづむぎ）から松を百本余、雑木を五十本余買い、代金として八百八十目（匁）を支払っている。これらは構造材（柱や梁）に用いられたと思われる。<br>材木は八月六日より十一日まで延べ五十人を雇って切り倒し、一人当たり賄い付きで四匁を支払っている。これらの村々はいずれも御船川沿いにあり、水運を利用して下すために延べ百四十五人を一人四匁で雇って川下しをし、横野では水揚人夫九人を一人四匁で雇って揚げている。<br>また、杉丸太百二十四本を山床より横野まで夫役を延べ百四十五人雇い五百八十目の請銭を払って運んでいる。これは九寸角の三間物（二階までの通し柱用）や二間物（柱間の胴差し・平屋の柱用）であり、五寸角で三百十本とれる材木であるので、構造材である。ヒノキは使われていない。<br>なお、この頃の物価は<br>大工賃金　　一日　三、五匁　～　四匁<br>日雇い　　　　　　三匁<br>材木出し　　　　　四匁<br>木挽き　　　　　　四、五匁<br>酒　　　　　一升　一、三匁　～　一、六匁<br>米　　　　　一俵　四十匁程度<br>である。<br>ここで出てくる貨幣は銀貨（藩札）である。なお、一〇〇〇匁＝一貫目　　一匁＝十分（ふん：金貨の単位の分（ぶ）ではない）　匁は10単位のときは慣習的に目を使う（例19匁　20目　21匁）。なお肥後では一匁は銭（銅貨）七十文との交換レート（公式）であり、この年は金貨との交換レートは金一両＝銀六十匁であった。<br>なお、賃金や職種別の比率は時代や場所によって異なってくる。原田聡明・北野隆「文政<br>五年大工木挽星帳について」によれば、この頃の球磨での一日当たりの賃金は、大工、左官共に二匁五分、木挽が一匁六分である（日本建築学会九州支部研究報告第四七号）<br><br>勿論、材木はこれだけでは足らないから、諸所より買い入れている。<br>杉　　下鶴82本　　田代1本（30目）　　小鹿77本　　安平　34本<br>    杉丸太60本（垂木）小鹿村　　　　34本　安平村　<br>せんだん　下糸田3本　　北早川村6本　　糸田村2本　　麻生原村２本（80目）　　　<br>      　太左衛門より（80目）<br>センダンはケヤキと見分けがつかない木目をしていて安価なのでケヤキの代わりに使う。また、水に強いので腰板にも用いた。<br>こうかん　寒野村1本　　　<br>榎　　4本　　３人より（百二十目）<br>樫丸太　2本　寒野村<br>　　樫は強くて磨り減らないので、上がり框（かまち）や戸口の敷居に用いる<br>松　　1本5尺廻（32匁）　　田代より1本（27匁）<br>杣取　六十人　　木挽　順助　この請負銭　二百七十目　但し一日につき　四匁五分<br><br>木挽きと杣取り（そまどり）<br>材木はワく（方言：材木をのこぎりで挽いて製材する）必要がある。これが大仕事で「木挽きが終れば四分の出来」といわれた。<br>　杣取り（そまどり）　この頃は製材で板にする事が出来ないので、木を二つにワき、内面だけ平にして表皮の面はそのままにしておく。根元が根太く先が薄い木材が二本できる。一面だけが平面になるので垂木などに用いる。垂木は平面の方を下にする。上を向いた方に凹凸があるが赤土を乗せて平らにし、その上に瓦を載せる。<br><br>  　（写真2：天井裏の構造材）<br><br>一　杉角　百五十二本六合四勺　角六分　　この銭　九十一匁五分一厘<br>一　材木わき方　　この請負銭　四百九十七匁二分四厘<br>材木としてではなく木挽き人が梅木村や横野村、山口などの現地で製品にして運び入れたのもある。<br>杉五寸角　十一本　二間もの（柱材）　　同七本　一丈二尺<br>平物一丁（七匁五分）　　　平物十六丁（百四十八匁）　　　梁二十三本（二十七匁）、<br>貫（ぬき）三十丁（三十七匁五分）<br>四分板五坪（三十一匁）　　四分板二坪（六匁四分）　材木平物二十八丁（請賃四十五匁）　梁大小打込三十七本（百四十二匁）　四寸貫二十丁（二十一匁）　　四寸貫十丁（十一匁）　五寸敷二口（五匁）　四寸敷一口（二匁）　縁板十間分（九十匁）　二寸小割十本（五匁）<br>玄関戸板二枚　二坪（二十五匁五分）<br>四分板（三坪三合）<br>これは縁（えん）の上の土板用。縁には天井板は張らないので見栄えが良いように化粧野地板を張る。天井板のある部屋は竹で編み土をのせるので土板は使わない。<br>雨戸十二枚（二百三十四匁）　下早川<br><br>材木以外の建築用品<br>大竹二本　　　五匁　　寒野より<br>これは途方もない値段で、特殊用途（例えば二つに割って節を取り、水を満たしてレベル用にする）に用いたのではないか。天保三年「銭塘手永弐町村潮塘石垣損所御普請出来目録」（永青文庫）によれば五寸竹十本で四匁である。<br>小竹四十杷（五十二匁五分）　　川尻より　　八寸竹九十四本（百十七匁五分）<br>竹百二十五本　　辛竹二束　　苦竹九束（二十七匁）<br>縄二十四束（三十一匁二分）　　　　　　　　　　　　　　　　<br>竹は編んでから土板がわりに乗せた。また、エツリカキ（竹を編んで土壁の素地とする）にも用いた。<br>・金釘代銭　　一貫三百目　　釘代　五十匁<br>　この頃は釘の確保が大変であった。鍛冶屋に頼むのであるが「釘がなあ」というのが施主のぼやきであった。<br>・瓦　一万千百枚　一枚につき三分二厘　　　この代三貫七百七十目<br>　　一枚三分二厘は平瓦の値段であろう。鬼瓦は米一俵と言われていた。大工一日の賃金で平瓦一枚の価格（現在は土瓦を三十枚程度買える）<br>・土台石　八十二間分　六百四十六匁　　<br>  六寸に八寸角、長さ五間のヒャー石（灰石：凝灰岩）であり、緑川の上流で切り出して四百匁を支払い、川下しに二百四十六匁を支払っている。<br>双盤石（そうばん石）　四ツ　この代　四十匁<br>  玄関の柱の土台石で特殊な装飾が施されている。<br><br>大工小屋入り<br>明けて天保十二年の正月十二日に大工小屋掛けをし、小屋入りをしている。<br>　この頃は毎年正月十二日が仕事始めにあたった。本郷家から五人、加勢人を含めて総勢二十人で大工小屋掛けをしている。<br>　棟梁は間棹（けんざお・長さを測る物差し）を作り、大工は「研ぎ水入れ」（鉋などを研ぐ際の水入れ）を作って明日からの仕事に備える。<br>小屋入りは施主が普請関係者を招待して、工事の安全と完成を祈願してお神酒あげするものである。費用は施主が負担する。<br>招待されたのは棟梁の政平ほか大工十名と木挽など四名。ほかに近隣の嘉七ほか三十名が招待されている。苗字のあるのは市下儀太郎、佐藤勝之助、佐藤喜兵衛の三名で、本郷家と同じ在御家人であり、祝儀の額からして縁家と思われる。<br>施主側を含めると七十人余の祝宴となった。総費用は百五十目八分三厘で、その内訳は<br>　酒　四斗八升　　代　八十目<br>　肴品々　　　　　代　四十目八分三厘<br>　飯米など　　　　代　三十目<br>となっている。<br>　肴代四十目に対して酒代八十目は不釣合いで、現在では酒代は肴代の三分の一程度であろう。これは自家製の肴を出したためか、酒の価格が高いこともあろうが、一人平均七合の酒を飲んでおり、当時の百姓の暮らしの反映であろう。<br>酒は一升が一匁七分にあたり、大工の日当の半日分になる。酒は同村の緒方家からの購入である。揚酒（酒の小売）は在（村）では通常認められなかったが、在御家人で代々庄屋であった緒方家が本手（免許）を受けている。<br>　小屋入りに先立ち居屋敷祓い（地鎮祭）に神主を呼び、供え物代を含めて五十六匁五分を支払っている。<br><br>土搗き<br>三月六日、七日の両日に地元の「惣若衆」を勢子に雇って土搗きをした。<br>音頭取も四人雇い、礼銭を四十七匁支払っている。土搗き音頭は音頭取が勢子と掛け合いながら謡う労作民謡である。<br>　平助（二十目）　藤七（十五匁）とあり、後の二名は下田口村（七匁）　上田口村（五匁）とあり名を記していない。二十目の平助は「音頭の司」であろう。礼銭としているので日雇として雇っているのではない。<br><br>棟上げ<br>  五月十日に棟上げをしている。棟上にかかった費用は一切で四百五十目である。<br>主賓が庄屋など八人、大工が棟梁の政平ほか九人、木挽が二人、一般客が六十人であった。<br>呼ばれた者は樽代として二匁から一匁を包むか、酒を一升持参している。<br>　「素手ぶり」の招待客もあるが、これらはこれまでに、例えば親戚は「酒五升に赤飯三升」、「酒二斗に煮しめ、酒粕、縄五束」などを差し入れ、近隣の者は縄一束を持って加勢をしている。<br>　棟上の儀式は<br>・打手小槌　・鏡三重　・白米三升三合　・赤紙三枚　・青紙三枚　・鰹一節　・扇三本<br>・水引十二把　・二百状紙二帖など用いており、餅三百三十を撒いている。<br>酒九斗（百八十目）、肴（五十五匁）、飯米などに五十目を支払い<br>祝儀として棟梁に二十目、大工はその段格に従って十五匁二人、七匁五分七人、五匁二人、木挽き二人には十匁をやっている。　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br>内普請<br>この頃の内普請は非常に簡単で、しかも新築の時一度にするというものでもなく、例えば近々祝儀があるから襖や障子を調える、というような具合であった。　<br>・床（とこ）の間<br>床板　檜六合（二十目）正椀板（書院板？）一板　ケヤキ　幅一尺五寸（六十目）<br>床かまち　長さ一丈一本（十二匁）　　<br>檜木板　一坪半（五十目）　釘（十匁）<br>長押、床、障子の取り付けに大工百五十人を要し七百五十目を支払い、玄関作りには材木代三十目を支払い、六人の大工に三十目を支払っている。<br><br>是まで合二十貫目<br>これまで二十貫目を支払っている。<br>この中には瓦葺きの左官代（一日五匁）を含めて左官賃百二十四匁、これまでの加勢人や大工や左官の酒肴代三貫目が含まれている。（「向こう飯」といって施主が出すのが通例であった）<br>　この二十貫目は現在ではいくら位の価値であろうか。これがなかなかむつかしい。米一俵が四十目であるから米五百俵となり、六百五十万円となる。<br>　また、大工の賃金に換算すると五千七百日分にあたり、それは現在の大工の賃金に換算すると八千六百万円になる。<br>別に「加勢人千人余」、　「米五十俵、一俵四十匁、この代二貫目」とあるから加勢人と米は別建てであろう。加勢人の所には今後普請の際に人手を出さなければならないし、米は自家の貯えを充てたと思われる。（別に粮米買足しとして十俵（四百十目）を支払っている）<br>外に<br>・　縁（えん）板十間分（百十目）　玄関戸板四枚（百二十五匁）<br>　　六分板四間（二十四匁）　八分板十間（百十目）　御船町<br>　　六分板と八分板は床（ゆか）板用<br>・　釘大小（三十目）　釘千本（五〇匁）　縁（えん）張釘（五十目方）　<br>  長押釘三百六十本（三十二匁五分）<br>　また、湯殿、縁、長押には棟梁の政平はじめ延べ百五十五人を雇い四百六十五匁を支払っている。<br>これらの普請には、せんだん一本、榎一本、杉一本などを用い代金九十六匁を支払っている。<br>この内の二本は幾右衛門方の木であり、仲介した内蔵助に内払いしたが幾右衛門が別の所に売ってしまったために、面倒な事になった。<br><br><br>民俗誌６－４<br>伝統漁法<br>　<br>民俗誌６－４<br>伝統漁法<br>　<br>たかぼうきエビ<br>ムッカラ帽子に８０００円の釣り竿で鮎を釣っていると、向こう岸からポケットのいっぱいついたベストに身をかため、チロルハットを被った優男がカーボンの１０ｍ竿を片手で出してくる。<br>　こちらは気後れして、あれは２０万円はするな、昔はこうじゃなかったと、ぼやきながら引き下がらざるを得ない。そう、一昔前は漁具さえ使わないで鮎を捕っていた。<br>　笹濁りの後に両手のてのひらを逆八の字に拡げ浅い川底をこするようにして押していくと、鮎がボスボスと掌に入ってくるのを手掴みにする。「ておし」というこの漁法は女、子どもでも容易にできた。<br>　この「さぐり」という技法は先ず幼年の頃の「ゴ－リン」から始まる。鮴(ごり)は早瀬の石の下にいくらでもいたが小さくてすばしこくぬめりがあって捕るのに難渋した。<br>　先年乙女橋の橋桁の修理の際、「ゲジキ」を入れたら絶滅したはずの鮴がたくさん捕れた。甘露煮にしたら寒バエの比ではない。金沢のゴリ料理が名物のはずである。<br>　昔の味を思い出して食べてみたが不味かったのはサエビである。昔は「井手落とし」の夜など、こいつがゾロゾロ上がってきて「上りウケ」に入った。それをやきダゴに入れたり、生干しの大根と一緒に煮染めにすると滅法うまかった。<br>　このサエビが鯛の餌として、今や釣具店で１００ｇ１０００円である。あまりにも阿呆らしくどこかにいないかと探したら糸田堰にいた。これをショウケで掬い。明日の天草での大漁を夢見ながら持って帰ったら、家族が「明日の鯛より今日のサエビ」と言って天麩羅にしてしまった。パサパサしており、おまけにヒゲがのどをこすぐり少しもうまくない。サエビが旨いというのは、昔いかに不味いものを食っていただけの咄である。<br>　しかしダグマエビは美味しい。今は田口橋付近でガネテボに時々入ることがあるが、以前は捨て石に掃いて捨てるほどいて、ギッチンタビで容易に捕れた。<br>　掃いて捨てるといえば、夕暮れ時、タカボーキで捨て石を２，３回掻き回すと運の悪いダグマやギッチンがヒゲをからませてあがってくるので、それを夕飯のシャーにしたという法螺話もある。<br><br>のこぎりなまず<br>　豊饒だったのは川だけではない。井手にも魚がうようよいて、すべて食欲の対象であった。<br>　田植えの水取りの晩はアガンナマズや鮒が水田に入ってくる。その上がり鯰をホーボリやヨギリにいき、松明で照らしながら泥だらけになって追いかけ、錆びて使えなくなった鋸で切り殺すのである。まるで夜盗である。膾になった鯰にとっては「ひょうたんなまず」同様、不条理な話である。<br>　秋になり「井手落とし」の翌日は総出でクリホシをする。井手を仕切りバケツで干し上げると鯰、ハエ、泥鰌、時には鮎などが１人あたりショウケ一杯ほども捕れた。これらは竹串に刺して干しあげ、ムッカラ（麦わら）ツトに刺して吊して「ハザシ」にしておき正月の雑煮のダシになった。<br>どうしても石垣の穴から出てこないしぶとい魚には、最後の手段として石灰を水で溶いて流し込むと鰻や鯰やアナドグラがのたうちまわって出てくる。<br>　冬には竹や木や藁を沈めてヌクメをつくり、集まった魚をクリホシをして捕った。この漁法は稚魚まで捕ってしまうので、ゴリヒキ同様現在では御法度である。<br><br>ちきりあゆ<br>　ゴリヒキは数一〇ｍの荒縄に石と藁を交互につけ川が浅くて淀んでいる場所を両端を地引き網のように引く。驚いた小魚はあらかじめ沈めてあった帷子や蚊帳の中に逃げ込む。それを引き上げて捕るのであるが、部落総出の夏の日のレクレーションであった。ゴリやシビンタ、ハエゴ、それに縞ドジョウがよく捕れた。川下では貝殻を付けて引いたのでカラカラと呼ばれている。<br>　最後にチキリで鮎を捕る話を一つ。<br>　闇夜にチキリを引いて河原を歩くと、その音が巡査さんのサーベルの音に似ているそうである。密魚者はあわてて対岸に逃げ、智恵者は魚籠とその中の鮎を手中に治めることができるという。<br>　これは官名詐称並びに威力業務妨害及び占有離脱物横領の罪であるが、何とものどかな時代の話である。<br>　西鶴は既に３００年前に「本朝二十不幸」で「（孟宗は年老いた母に食べさせようと雪中に筍を探し、姜詩は老母のために苦労して鯉魚を捕ったが、今は）雪中の筍は八百屋にあり鯉魚は魚屋にあり」と「本朝二十不幸」で揶揄しているが、わが甲佐では、鰻を食べたければ先ず裏山に行って竹を切ることから始めなければならない生活が、戦後まで続いていたのである。<br>
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<link>https://ameblo.jp/knakashima/entry-11440567309.html</link>
<pubDate>Wed, 02 Jan 2013 14:57:15 +0900</pubDate>
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<title>中嶋敬介著作集　Ⅴ　対談</title>
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<![CDATA[ 中嶋著作５　対談<br>対談５－１      <br>　　　　沖縄　佐喜眞美術館長　　　佐喜眞道夫さん<br><br>　甲佐出身の方で、文化の面で全国的な活動をされてる方はまことに少ないですが、そういう中で佐喜眞さんの名前が近頃マスコミに頻繁に登場しますので、ご登場願った訳でございます。<br>　甲佐のお生まれだそうで<br>　ええ、そうです。<br>　戦争の時、家族が沖縄から竜野村に疎開していました。<br>　父は熊本部隊の軍医でした。<br>　沖縄が危ないという事で熊本に疎開してきたのです。<br>　最初は市内に家を借りていたのですが、その内に空襲が始まりました。<br>　父は司令部の巨大な九州地図を前にして、家族を守るのに一番安全な場所として考えたのが竜野でした。<br>　いざという時に九州山脈に逃げ込めて、しかも熊本から近くて交通の便がよいのは竜野村が一番、というわけです。<br>　母と姉三人、兄一人の五人家族でした。　戦後、父は竜野で開業しましたので、私はそこで生まれたのです。下知行の佐藤つや子さんの家でした。　高校を卒業するまで竜野で暮らしました。<br><br>　どんな思い出が・・・<br>　くんずほぐれつ、じゃれあって遊んだ幼な友達にもいっぱい思い出があるのですが、なんといっても水と緑の豊かな自<br><br>然が残る農村そのものがすばらしかった。そこから多くのものを学んだと思います。<br>　春、夏、秋、冬と巡る季節の中で、農道を道草しながら通学をするのですが、当時はみんな野良に出て一生懸命働いていました。<br>　大人たちの農作業の体の動きには全く無駄がなく、美しかった。<br>　あちこちの泉も、コケの生えた水路も、神秘的なほど美しいと思いました。<br>　時々やってくる大水では橋も流され、田畑も河原のように激変しました。その荒れた地で黙々と働く農家の人々。<br>　そんな中で子ども達は無邪気に遊んでいたわけですが、しばらくすると元の美しい姿にもどっている。<br>　何百年もの人々の労働の積み上げられた風景の中で育まれるものは大きかったと思います。<br>　友人の家に遊びに行くと、古い農具や道具がいっぱいある。<br>　疎開家族である私の家には古いものがないんです。新しい物しかない。それは淋しかった。<br>　一九五四年、小学二年のとき沖縄に初めて行ったのですが、ただただ驚きました。父や母がたくさん語ってくれた、美しい沖縄の風景はどこにもありませんでした。<br>　一坪一トンの爆弾が撃ち込まれた沖縄戦で、自然の風景も街も歴史もすべてが吹っ飛び、地表下のサンゴ礁はむきだしになって真っ白でした。<br>　甲佐では立派な人を「あの人は目が涼しか」と言いますが、沖縄の私のおばさんたちも、涼しい目をしてたくましく生きていました。<br>　子どもをたくさん抱えて大地にすっくと立っている伯母たちは、沖縄で生まれそこねた私に情熱を込めてたっぷりと沖縄の話をしてくれました。　その後、私は甲佐の豊かな自然と「沖縄」を比べながら「戦争」というものを考えるようになったのです。<br><br>　美術館のパンフレットを見ますと「もの想う空間」「お寺のようなやすらぎのある美術館」とありますが　<br>　母が早死にしました。<br>　恋女房を失った父の落胆は大変なものでした。<br>　毎月の命日には皓月寺の粟田先生がいらっしゃって、お経と仏教の話をしてくださいました。<br>　その時覚えた正信偈（しょうしんげ）は、今でもあげる事ができます。<br>　高校生になると「歎異抄」と「教行信証」を読みました。<br>　後に、画家の丸木位里さん・丸木俊さんと、とても深いお付き合いが出来たのも、実は仏教のおかげなのです。<br>　お二人は親鸞の思想をしっかり学んだ方でした。<br>　その思想的なつながりが「『沖縄戦の図』を君にまかせる」という事になっていったと思います。<br>　私の仏教への尊敬は甲佐で培われましたが、根元の願いとして「お寺のような場」にしたいと思ったのです。　<br><br>　美術に興味を持たれたのはいつ頃からですか<br>  父は猛烈に忙しい開業医でしたが、絵が好きで、画家の本田景風先生とよく絵画談義をしていました。<br>　小学生の私は、横にチョコンと座って話を聞いていました。<br>　景風先生の漠然とした話は、とても面白かった。<br>　また、父は時々家族を美術館に連れていってくれました。<br>　当時はまだ、県立美術館がなかったですから、福岡県立美術館やブリジストン美術館に行きました。<br>　久留米で見た青木繁のいくつかの作品は私の心の中に強烈に残りました。<br>　この美術館の建物そのものが、沖縄の歴史と風土を感じさせる珠玉の美術品ですね。<br>　美術館の建物で一番大切な事は、その規模でもお金をかける事でもありません。<br>その土地の歴史や風土としっかりマッチしている事が大事です。沖縄に徹底的にこだわりました。<br><br>（「沖縄戦の図」の前での写真）<br>　「佐喜眞」というと珍しい姓ですが、民俗学者で有名な佐喜眞興英とは何か・・・<br>　母方の祖父です。<br><br>（中嶋）ああ、あの方のお孫さんですか。柳田国男なども、よく佐喜眞興英の「霊の島々」などを引用していますね。<br>　私は民俗学を少々やりまして、以前「佐喜眞興英全集 」の中の「女人政治考」を読んだ事がありますが、あれを読んで日本史に必ず登場する卑弥呼の「鬼道に仕えてよく衆を惑わす」意味が判ったような気がしました。<br><br>（佐喜眞）母は佐喜眞家の一人娘でした。十九歳で父（花崎為康）に嫁ぐとき、祖母が「男の子を二人生んでくれ。長男に花崎、次男に佐喜眞を継がせる」と願ったそうです。<br>　私は次男ですから佐喜眞を継ぐ人間として育てられたのです。<br>　小さい時に「あなたは佐喜眞の養子に行きなさい」という母がうらめしかった。<br>　家族から、自分一人が突き放されたようでショックでした。<br>　しかし二十歳の時、自分で「佐喜眞」姓を継ぐことを決めたのです。<br><br>　それにしても、なぜ美術館を建てようと思われたのですか<br>　作家の司馬遼太郎は「街道をゆく」で、奈良の道を歩いている時、同行の須田刻太に<br>　「そういえば戦前の首里の街はすばらしかったですね」<br>と言います。須田は<br>　「『平城』なんか問題にならい。」<br>と答えています。千年を越える歴史をもった奈良の街よりも沖縄の首里の街が素晴らしかった、と。<br>　私はドキンとしました。戦争ですべて吹き飛ばされた沖縄では、道行く人は電柱の陰でバスを待っている。私はつくづく、沖縄に樹木が欲しい、と思った。心のよりどころとなるものが必要だと思ったのです。<br>　沖縄は、かってすばらしい琉球文化を持った国でした。多くの人々が独自の文化を見たい、とやってくる場所でした。<br>　心のよりどころを吹き飛ばされ、失ってしまった精神を芸術の力で取り戻せるのではないか、と考えたのです。「心の緑陰」をつくりたい、と思いました。<br>　母方は旧家の地主だったのですが、その土地は米軍に占領されて普天間航空基地になってしまいました。沖縄の日本復帰後、返還運動が強くなるのですが米軍はそのまま居座り、見返りとして用地代が出るようになりました。その金を何か形あるものとして残したいと考え、絵画のコレクションを始めたのです。<br>　美術館を建設する場所は、奪われた土地を奪い返して建てよう、と運動をしました。<br>　これには沖縄県民はじめ、市長さんや議会など多くの方々も共感してくれました。そしてついに米軍を動かして、これまで絶対に不可能と思われていた普天間航空基地の一部を返還させる事に成功しました。<br>　それで美術館は基地のフェンス沿いに建っています。<br><br>　佐喜眞美術館というと、丸木さんの「沖縄戦の図」が有名ですが　<br>　日本人の感性はすばらしいものでした。江戸の庶民が創り出した浮世絵は、国内ばかりでなくヨーロッパの画家をも感動させるほど洗練されたものでした。<br>　それで、私たち庶民の文化を豊かにしたのはやっぱり浮世絵だと、二百枚ばかりコレクションしました。<br>　しかし、何しろ原資が米軍用地代ですから、だんだん違和感が出てきました。<br>　そこで、長野県出身の版画家上野誠の原爆をテーマにした作品を百七十点ぐらい、それにドイツの作家ケーテ・コルヴィッツの版画五十点、フランスの作家ジョルジュ・ルオーの版画百七十点ほどを集めました。<br>　コレクションを始めて十年目の頃に丸木ご夫妻と出会いました。<br>　「君に『沖縄戦の図』十四部を全部まかせる」という事になって、今では一〇〇〇点ほどあるコレクションの中で、それらがメインになっています。<br>　三〇年間コレクションをしてきた作品を全体的に見てみますと、大切な命を壊すものへの抵抗の意志をもった作品が多いようです。<br><br>　「佐喜眞美術館」も「佐喜眞道夫」も、近頃よくマスコミに登場しますね。私立美術館としては全国一ではないですか<br>　会館して十一年目になります。<br>　全国から修学旅行の生徒も多く来ます。<br>　戦争が終わって六十年経ちましたが、沖縄では今なお遺骨も不発弾も発見され続けています。<br>　ここはまだ戦争が終わっていないのです。そういう土地ですから、一年間に四十万を越える中高生が平和学習にやってきます。そのうちの一割強が佐喜眞美術館にやってきます。　「次代の鐘を打つ」（旧甲佐中学の校歌の一節）子ども達ですから、大切に真心を込めて、絵の説明をします。<br>　地上戦という想像を絶する世界を、現代の子どもたちに見聞させるわけですから大変ですが、芸術の力によって戦争の真実が彼等に伝わっていきます。彼等の瞳がどんどん変わっていくのですよ。<br><br>　私はそうした若者達からエネルギーをもらって仕事をしています。<br>最後に甲佐へのメッセージを<br>　すべてが破壊された沖縄から見ますと、歴史が積み重ねられた甲佐の風景は貴重なものです。<br>　甲佐の豊かな自然は、これからの時代にますます重要なものになっていくと思います。<br>　豊かな自然というものは、かって私が教えてもらったように、人々を整え、育む力を持っています。<br>　大切にしてほしいと思います。<br>　最後になりましたが、沖縄にお出での節は、是非美術館へも足をお運びください。<br><br>　（中嶋）昨日インターネットで調べましたら、「佐喜眞美術館」が一七七〇〇件、「佐喜眞道夫」が五二一件もヒットしてびっくりしました。<br>　二、三,読ませてもらいましたが、ほかの美術館にはない反響が多くあり、感動しました。これを機会に、甲佐からも多くの方が来館すると思います。<br> 本日はありがとうございました。<br><br><br>対談５－２<br>甲佐に住めば大丈夫    　　谷田末高氏<br><br>　  医者の不養生<br>問い（中嶋）　先生には甲佐町文化協会の草創の頃から、蔭になり日なたになり大変お世話になり感謝しています。<br>　最近、会員の間から、先生のお姿を拝見する機会がめっきり減ってさびしい。健康を害されていられるのではないかという心配の声を聞きますが・・・、<br>谷田　一年前に体が不調になりまして精密検査しましたら、脳梗塞の一種と診断されました。<br>　医者が病気になったときは因果な話で、主治医の言う事をなかなか信用しない、指示に従わないなどで快復が遅れていましたが、徐々に元気になりました。<br>　現在は足が若干不自由ですが、週二回午前中病院に出て診察しています。<br>　ヘビースモーカーだったのがい　なかったかもしれません。<br> 中嶋　いつか先生から、「医者はい　急患があるかもしれない、その時酒　を飲んでいたら助かる命も助から　い、それで好きな酒をピタリと止て、かわりに煙草に手を出した。」とお聞きしたことがあります。<br>　その話をお伺いし、先生の職業倫理の厳しさに思わず襟を正したことがあります。<br><br> コレクションの楽しみ<br>中嶋　先年甲佐町在住の有志の方のコレクションを集めて「お宝・家宝展」をしましたが、先生からは、色鍋島（陶器）や小堀遠州の書（手紙）など、滅多にみらねぬものばかりを出展していただき、改めて美術品に対する造詣の深さを知りました。<br>　これらの美術品にはいつごろから興味を持って集められたのですか。<br>谷田　下手の横好きで、しかも好奇心旺盛ですので、全国のあちこちで学会の発表会がある度に、会議の合間をみつけて、博物館やら史跡やらを見て廻り好奇心を満足させています。<br>　そういうこともあって自然にいろいろな物が集まりました。<br>　今は自宅に飾って楽しんでいます。<br>　こういうものは医者の専門性とは　関係ないようにみえますが、医者は　日々、人と接するのが仕事でしてそこには幅広い教養と豊かな人間性こ　そが、必要不可欠な事だと、近頃特　に痛感しています。<br><br>　　　青くなる<br>中嶋　砥用町のお生まれだそうですね。<br>谷田　ええ、昭和二年、名越谷で生まれ、そこで育ちました。<br>　御船中学校（旧制）に進みまして、文化協会の会員では新本敬士君（日本吟声流）、本田豊君（日本吟声流）、古閑昭男君（民謡緑川会）、村山信一君（桜友会）、井上昭人君（緑石会）などがが同級生でした。<br>　何しろ戦時中のことで大村に学徒動員に行きましたが、隣の防空壕に爆弾が落ちて、大勢の同級生を失いました。<br>　熊本大学医学部を卒業して、昭和二八年に吉村春次先生の病院跡に開業しました。<br>　もう五〇年近くなりますね。<br>　初日の患者さんは二五名でした。　しかし、みかんの色づく十一月に患者が激減しまして、みかんが黄色くなると医者が青くなるということを実感しました。<br>　往診は自転車とオートバイでした。　このオートバイがまた大変な代物で、坂谷などへ行くときはブラシを用意して、途中でプラグを二～三度を磨いて行きました。<br><br>　　地域に開かれた施設<br>中嶋　桜の丘に「陶芸館」をつくられましたね。陶芸クラブの「桜友会」をはじめ良く利用されているようですが、どういういきさつで始められたのですか。<br>谷田　「桜の丘」を開設するにあたって「生きがいづくり」と「文化施設」を考えたわけです。<br>　また、入所者だけでなく地域の皆様にも広く解放して交流の場を提供する目的もありました。<br>　今では沢山の方が利用されるのみならず、作品の質も年々向上しており大変喜んでいます。<br>　また、若者が甲佐の地を誇りに思い、人生の指針にしてもらうために、「甲佐三賢人」として井芹経平先生・永田市次郎先生・西村展蔵先生の生涯と業績を紹介した部屋もありますので、子ども達を是非つれてきてください。<br>　尊敬する人物を持つこどもは、やがて尊敬される人物に育ちます。<br>　郷土には、もっと有名な方や、立身出世された方もたくさんおられますが、青少年の行くべき方向を示した人間として三名を挙げておきました。<br><br>　　甲佐の三賢人<br>　井芹経平先生は、慶応元年甲佐町　の豪商であった東天野屋に生まれま　した。三十三歳で済々校の校長にな　って以来、二十六年間校長として教　育に尽くしました。その間二三学舎　を設立し甲佐中山白旗等から多くの　人材を入居させ郷土の発展に貢献し　ました。<br>　　人情に厚く、思いやり深く、人格　円満で識見が高く、その人間性は多　くの人に慕われました。<br>　　永田市次郎先生は、明治一五年吉田の大地主の家に生まれました。早稲田大学を卒業して家業の農業を継ぎ、「永田農会」を設立して農道精神を説き、「昭和農道塾」を開いて農業後継者を育てました。<br>　また、貧しくて上級学校に行けない農家の少年のために奨学金を出し　て進学させました。<br>　西村展蔵先生は、津志田の長田家に生まれました。熊本師範学校後、二九歳で甲佐小学校の校長になりました。その間、仁田子の西村家に婿養子になりましたが三一歳で校長を退職して製糸業を行い、その後大陸に渡り「亜細亜兄弟運動」を展開しました。<br>　終戦直前は内閣中央委員となって戦争終結に努力しました。一切の私情を顧みず常に天下一家の思想を中心に世界人類の平和と幸福を求める姿は「国士」と呼ばれるにふさわしい人生でした。<br>　この三人の生き方は、人それぞれで時代も違いますが、こどもの心のよりどころとなると思います。　<br>　同室には甲佐の人が折角集めた美術品が散逸しないようにコレクションの収蔵もしています。元熊本市助役の下川貞嗣氏が収集された「こけし」も展示していますのでこれも是非見に来てください。　<br><br>　　先ず文化会館と図書館を<br>中嶋　甲佐町の文化的状況をどう思われていますか。<br>谷田　甲佐町文化協会はよくがんばっておられます。<br>　しかし、文化ホールと図書館がないのが致命的です。<br>　近頃インフラ（社会的生産基盤）の整備がやかましく言われていますが、インフラの整備は何も産業分野や社会分野の専門用語ではありません。<br>　甲佐町民が豊かな暮らしをするためには先ず文化活動のインフラ整備として、ホールと美術館を併せ持つ文化会館と、図書館の建設を最重要課題して取り組むべきです。<br><br>     佐久病院に学ぶ<br>中嶋　話は変わりますが、病院の経営理念を見ますと「地域の医療に徹し」とか「地域の健康管理に留意し」など地域医療に貢献する姿勢が一貫して窺えますが、これはどういうことからですか。<br> 谷田　もともと甲佐は医療のメッカでした。しかし戦後、小児科医がいなくて住民が困ったいる事情もあって開業したわけでして、当時から地域医療のありかたについては深く考えるところがありました。<br>　それで「住民のために」をモットーにやってきたわけですが、これでは何かが不足していると次第に思うようになりました。<br>　それが何であるかを求めて研修に行った先が「佐久病院」でした。<br>　ご承知の方も多いと思いますが、長野県佐久平にあるこの病院は、田舎にありながら日本の農村医学・予防医学の最先端を行く病院です。<br>　そこで私が学んだものは、病院は「住民のために」医療をするのではなく、病院は「住民とともに」健康な　くらしを構築していくというものでした。<br>　まり、病院は住民に向かいあうのではなく、住民とともに手を携えて健康で幸せな暮らしを求めるということで、これがその後の谷田病院の基本理念になりました。<br>　同様な方針は「桜の丘」にも受け継がれています。「甲佐に住めば大丈夫」の健康と福祉の町を目指しています。<br>    <br><br>      威あって奢らず<br>中嶋　今日は久しぶりに先生のいつものような飾らぬお話をお伺いしま　て、すがすがしい気持ちになりました。<br>　足が少し御不自由なようですが、一日も早くもとの元気な姿になられて地域の医療と文化の振興のために活躍されることをお願いします。<br><br>（インタビューを終えて・・・自戒の為に掲げられたという恩師の色紙「威あって奢らず」そのもののお話でした） <br><br>対談５－３<br>「徒空然咄」出版事情<br>―――　古文書の現代語訳を書こうと思われたきっかけは<br>中嶋　４年前の台風で八丁部落の旧家の小山田実さんの土蔵が半壊し、その時に発見された古文書が教育委員会に持ち込まれました。このようなものがあるとは聞いていましたが、単に年貢の払いや掛け売りなどを記した「庄屋文書」だと思っていました。しかしそうではなく、甲佐には殆ど残されていない江戸中期の「農民日記」それも肥後藩の歴史の中でも最も重要な「宝暦の改革」の頃の宝暦４年から明和２年（１７５４　～　１７６５）の記録だったのです。<br>　この文書の持つ意味が直ちに理解できたので「是非研究させてほしい」と申しでました。<br>　「宝暦の改革」を書いた文書はたくさんありますが、百姓が書いた記録はこれまでありませんでした。それで内容はというと意外なことに「宝暦の改革」をほめているのです。<br>　最初は読み下し文（送りがななどを入れた文）にして、数人に配ったところ「これは読めない、意味がわからない」というのです。それで現代語訳にしました。そして年代順でなくテーマごとに並べかえました。<br>　しかしこの現代語訳が難しかったのです。例えば「宿には・・・」とか「当時は・・・」とかあったとします。何気なく読み進める所ですが、この頃は「宿＝自宅」「当時＝現在」の意味で使っていました。まずそのような広範な知識が必要です。それに日記だから次郎兵衛（著者）の言葉で書かれています。農民の語り口を不自然でないように表現することも非常に困難でした。<br>　史実と違う部分をどう扱うか、という点でも悩みました。次郎兵衛は田舎の人だから情報が正確に伝わってない部分があります。日記だから訂正できないし、苦肉の策として、本文の横（ふりがなの部分）に訂正文を入れました。<br><br>―――　著者の次郎兵衛はどんな人ですか。徒空然とは<br>　次郎兵衛はいわゆる貧農ではなく富農ですから農民全体を代表しているわけではありません。しかし非常に心が温かい、そういう面が端々から見てとれます。例えば飢饉の際、配給になった米をみんなが奪い合うさまを見て、その心の貧しさに胸を痛めるのです。<br>　若い頃には甲佐手永会所（手永＝町村、会所＝役場）に勤めていましたが、大病を患い辞めています。5年後快癒しますが気力も体力も出ずに無為な日々を送ります。このさまを「徒空然とし・・・」と表現しています。徒空然とは広辞苑によれば「なにもしないでぼんやりしているさま」です。　<br><br>―――郷土史研究の魅力と意義は<br>　推理小説のような謎解きが魅力です。誰も手をつけていない謎を解明することができればそれは大きな喜びとなります。<br>　江戸時代の甲佐の事を書いた文書の殆どは、細川家に伝わる「永青文庫」に残っています。現在では熊本大学や県立図書館で見ることもコピーをとることもできます。ところが甲佐町史（昭和41年発行）が編纂された頃は利用できなかったようです。それで町史には江戸時代の記述が少ないのです。<br>　甲佐町郷土史研究会では町史から抜け落ちている町の近世史（戦国時代から西南戦争まで）の正確な年表を作りたいと思っています。<br><br>―――甲佐町文化協会長として伝えたいことは<br>　甲佐の子ども達に「郷土を愛しなさい」という前に、大人が先ず郷土を愛し祖先に尊敬の念を持つことが必要です。<br>例えば緑川水運を開いた渡辺寛太の碑は倒れたままになっています。これをそのままにしておいて子ども達に「郷土を愛しなさい、緑川を愛護しなさい」とは、とても言えないでしょう。<br>先人の苦労を知ることが郷土愛につながると思います<br>（「広報甲佐」１８   June 2003）<br>
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<link>https://ameblo.jp/knakashima/entry-11440565985.html</link>
<pubDate>Wed, 02 Jan 2013 14:55:15 +0900</pubDate>
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<title>中嶋敬介著作集　Ⅳ　歴史　②</title>
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<![CDATA[ 歴史　４－５　<br>あの穴は何だ<br>　東寒野付近の緑川左岸の改修工事にともない、鵜の瀬堰の石畳（巻石）の上に掘られた穴列に関心が集まった。<br>　穴は二列で計十四個、穴の直径は二十五㎝から十五㎝、深さは二十㎝から十㎝でまちまちである。　<br><br>　橋ではない<br>　先ず誰でも、橋を架けるために掘られた柱穴であろうと考える。<br>　しかし地勢的にはここに橋を架ける必要は全くない。<br>　対岸上流の上揚に行くためにこの橋を利用したとすると、鵜の瀬堰を七〇〇ｍ近くも徒渡り（かちわたり）して斜めにくだって簗にたどりつき、そこから対岸を歩いて上揚まで行かなければならない。<br>（図１：鵜の瀬堰付近の地図）　<br>（鵜の瀬堰は堰の長さだけで「緑川絵図」によれば百八十五間、「郡村誌」によれば堰長四丁十六間三尺とある）<br>　そんな事をするより少し上流にある「尾北の渡」を渡し船で行けばよい。<br>　ここの渡し船は現在でも町道なみに使われている。徒歩が主な交通手段であった頃にはもっと重要な交通の要衝であった。一つには甲佐神社の社領がここから南に広がっていた事もある。<br>　明治の初めに書かれた「郡村誌」には「尾北渡」として「一等里道に属す。村の東の緑川の上流にあり。深い処十一間、浅い処四間、広さ四間、渡船一艘」と記されている。　<br>　それでは対岸下流の豊内に行くにはどうか。ここも鵜の瀬堰を徒渡りせずとも原町往還を日和瀬まで下り「日和瀬渡」で渡ればよい。渡しの川幅は十一間とある。<br>　昔は砥用（原町）行く道は西寒野、東寒野、尾北を通っていた。<br>　つまり、対岸に渡るためには、ここに斜めに橋を架ける必要は全くない。<br><br>土橋は冬に掛ける<br>　途中には中州があり、桑畑があった。<br>　そこにに行くために橋が必要だったか。<br>　養蚕が盛んな頃は対岸まで桑摘みに出かけるのは珍しい事ではなかった。例えば吉田の人々は舟で緑川を渡り府領まで出かけていた。<br>　しかし中州の畑は豊内の所有であり東寒野から行く事はない。<br>　たとえあったとしても、緑川は大河であり、しかも交通の要衝でもない所に本格的な桁（けた）のある橋を架けることはないので、もし橋を架けていたとすると、その橋は板橋か土橋ということになる。<br>　かって戦後、津志田と糸田の間に冬場だけ土橋が架けられていた。このような<br>土橋は夏の洪水で必ず流された。したがって橋を架けたとすると冬場に利用されたという事になる。桑摘みは夏場の仕事であり、中州に行くために架けられたという説はこのことからも成りたたない。<br><br>桟橋か<br>　橋だとすると、あとひとつ考えられるのは、舟に積み込むために桟橋として利用した事が考えられる。<br>　甲佐では物資の集散には平田舟を利用していた。年貢を川尻御蔵に運ぶのも緑川の水運に依った。それでは「俵転がし」のような機能を持っていたのであろうか。<br>　しかしここは「鵜の瀬」の地名が示すように「瀬」である。このような急流を船着き場にすることはあり得ない。少し上流か下流に淀渕がいくらでもある。<br><br>　橋杭の問題<br>　橋を架けるとするとあの場所は確かにに都合がよい。橋杭（橋脚）が立てやすいからである。<br>　昔は大きな橋の杭を立てるときには杭の頂部に架台を組み、その上に土嚢をのせて加重して綱をつけ多人数で杭をゆすってのめり込ませる工法をとった。<br>　また、小さな土橋や板橋は橋脚を堀り立てたり打ち込んだりして固定した。その点で鵜の瀬堰は露出している大石に穴を穿つだけで固定できるので誠に都合がよい。　<br>　しかし、あれを橋脚の穴とするには大きな疑問が残る。<br><br>　下流の穴が小さい<br>　それは穴の位置である。対をなしている二本の橋脚は必ず流れに沿って平行していなければならない。もし乱杭のようになっていたら水流は塞き止められ、洪水時にはゴミがかかり、ひとたまりもない。<br>　図３を見ていただきたい。 このような橋脚の橋は見たことがない。<br>　橋杭の穴跡だとすると、もうひとつ問題がある。<br>　それは対をなしている二本の穴の大きさである。いずれも上流の穴が大きい。<br>　上流の平均は二四、六㎝、下流の平均は一五・七㎝である。<br>　橋脚では絶対にこのような事は起きない。<br>　何か必然的な理由かあるはずであり、これこそが穴の謎を解く鍵である。<br><br>　草堰か<br>　用水路に水を導くには川を塞き止めてるのが一般的である。強固な堰としては石畳（石巻）がある。しかしこの方法は莫大な労力と費用がいる。<br>　そこで昔は苗代の水取り期に杭を打ち込み、杭と杭とを竹で杭を編んでいく工法をとった。そして隙間には水が漏れないように葦や麦藁やササをウッパメた。　このような作業を「水取クヤク」といい、このような堰を「草堰」といった。　所によっては水漏れを塞ぐに柴を充てる地域もあって、それは「シバゼキ」と呼んだ。<br>　このような堰では水勢を杭だけで支える事は出来ないので、下流方向より支え棒を必要とする。支え棒も別に小さい杭を打って下端を固定した。<br>　戦前まではこのような工法による堰が殆どであった。<br>　橋の遺構としては説明がつかない穴の大小もこれで説明がつく。<br>何のための草堰か<br>　あの穴が草堰の遺構だとしても問題が残る。一体何の目的で作られたかということである。<br>　いくつかの仮説を立てて見よう。<br>〔仮説１〕　<br>　下流にある水車（くるま・精米、製粉所）への導水のために塞き止めたという事が考えられる。図５は「甲佐町の文化財第二集」による水車の位置である。<br>　「ふな水戸」（筏や舟の通路・周辺の石塁より低くしてある）に導いて水勢を強くしていた事が考えられる。<br>〔仮説２〕　<br>　「刎（はね）」として増水時に左岸を守った事が考えられる。<br>　緑川には護岸のための「石刎」がいたるところにある。ここの左岸には川沿い<br>に道路があり、民家や水車があった。<br>　それを守るための簡易な「刎」として<br>〔仮説３〕<br>　第三に柱穴の先にある「ふな水戸」との関係である。<br>　「ふな水戸」を「簗」として使うために鮎を導く「瀬張り」を作ったのではないかとも考えられる。<br>　かって鮎を獲るための「瀬張り」（仕掛けは簗と同じ）は緑川のいたるところで行われていた。<br>　鵜の瀬堰にも現在ある御簗だけでなく「ソト簗」があった。当然対岸にもあったと考えられる。その「瀬張り」の遺構だとも考えられる。<br>〔仮説４〕<br>　最後に大井手の取水のためのクサゼキが考えられる。<br>　そのためには漏斗口（じょうごぐち・簗に導く水路の入口）まで柱穴を掘らなければならず、その遺構が残っていなければならないが、今はコンクリートに覆われて見ることが出来ない。<br>　しかし昭和十四年の観察記録に次のようなものがある。<br>　「一個一個の石が水の中や水面上に見えていた。石質は凝灰岩で中央に三十㎝位の穴があり、穴には松の丸太が全部打ち込まれている」（「甲佐の文化財・第二集」の一部要約）　<br>　これが事実とすると鵜の瀬堰全部にわたり穴が穿った石畳があったことになる。　勿論、この穴は洪水で堰が壊れないために松材で補強するのが目的であったのであろうが、不足する用水を確保するために用いることは簡単にできる。<br>〔仮説５〕<br>　近頃、書店に行くとボケ防止のための「頭の体操」関係の本がやたらと多い。<br>　この穴の問題はタダでできるのであなたも考えてください。案外それが正解かも知れません<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（「ふるさと78号」　２００７）<br><br>歴史　４－６　<br>徒空然咄序文  <br>　平成十一年の台風十七号は熊本県中を荒れ狂い、不知火町に高潮の被害を与えるなどしたが、甲佐町の旧家小山田實氏の土蔵をも半壊した。その中から出てきたのがこの文書である。<br>　これには宝暦四年（一七五四）から明和二年までの十二年間の出来事を、後世に残す意図を持って書かれていた。<br>　この文書を書いた次郎兵衛は甲佐手永八丁村（現熊本県甲佐町白旗）の、富農ではあるが唯の百姓である。しかし江戸中期の百姓にあっては希有の事であるが、四書五経に通じ我が国の古典にも親しむ知識人でもある。<br>　若い頃には手永会所役人にもなったが、まもなく病に冒され、以後は療養と農業経営にいそしみ、また手習いの師匠をしながら世の中の事共を書き留めていた。その中から自身の手で抜粋して後世のためにまとめたのがこの文書である。<br>　肥後藩はこの時期、細川重賢と宰相堀平太左衛門による「宝暦の改革」の最中であった。<br>　「宝暦の改革」については、藩政の視点から「肥後物語」「銀台遺事」等数多く、近くは「非常の才」などもある。また領民の立場からは改革を批判的に捉えた「仁助咄」もある。<br>　これらに対して、この「徒空然咄」は百姓の眼を通して、当時の社会的状況を点描しながらも改革にも眼を向け、善政を悦び、飢饉に心を痛め、村役人の圧制を憤り、百姓の心の貧しさを嘆き、作柄に一喜一憂しながら、揺れ動く世の様を率直に記している。<br>　その根底には「隠遁の身となり寂寞の域に心を澄まし、安静を楽しみ菩提を求め申す覚悟にて門外不出を決め」ている次郎兵衛の姿勢がある。<br>　宝暦の改革は、要するに三百諸侯の中でも最悪といわれた肥後藩の財政の立て直しである。そのため中堅層の藩士を起用し、行政改革を実施して経費を節減し、質素倹約を徹底して封建的身分制度を揺るぎないものにした。また養蚕などの産業を起こす一方で検地を実施し、刑法を策定し、時習館を設立した。<br>　これらの施策は一応成功して藩財政は立ち直った。<br>　しかし、それが領民にとってどうだったかは全くの別問題である。この「咄」はその解答の一つになろう。<br><br>　表題の「つくねん」は宝暦の改革で揺れ動く世の中にあって、一人世情を憂う次郎兵衛の心情をあらわすものとして「自序」から採った。<br><br>歴史　４－７　<br><br>願成桜<br><br>鎌倉時代、元の大軍が二度にわたり日本に攻め寄せてきました。文永の役（一二七三）弘安の役（一二八一）といいます。<br>当時、甲佐神社は肥後国の二の宮として松橋や小川にいたる広大な社領を有していました。<br>松橋の竹崎に住んでいた鎌倉幕府の御家人竹崎(たけざき)季(すえ)長(なが)は文永の役に出陣して手柄をたてましたが恩賞からもれてしまいました。<br>くやしい思いをとしているところへ、夢の中で「甲佐神社に参れ」とお告げあり、甲佐神社に参拝しました。<br>そのとき境内の東にある桜の枝に甲佐大明神があらわれてお告げがあり、それにしたがって鎌倉に行き直訴しましたら幕府から海東の地を賜わりました。<br>「弘安の役」が終わり、季長は願いが成ったのも甲佐神社のおかげであると、「蒙(もう)古襲来(こしゅうらい)絵詞(えことば)」を作り甲佐神社に奉納しました。<br><br>それから七百年が経ちました。<br>私たちは、枯れかけている桜を継ぐものとして若桜を植栽し、願いが成就する場にしました。<br>平成十八年十二月二日<br><br>歴史　４－８　<br>糸田村百姓一揆<br>　かくし田がある<br>　江戸時代の初めの事である。熊本に孫兵衛という侍がいた。姓は判らぬ。故あって浪人し糸田村で百姓になった。土地は甲佐手永の惣庄屋（今の甲佐町長にあたる）の横田源左衛門が開いた新地である。<br>　糸田は緑川の中州にある。戦国時代も末になり、近隣からの移住が始まり新地も開けてきた。勿論満足な堤防もなく常に洪水の危険にさらされていた。<br>　孫兵衛の子を里左衛門という。里左衛門の代になって小作米が滞り始めた。惣庄屋も子の甚兵衛の代になった。それを期に甚兵衛は滞納を理由にして貸していた田畑を取り上げてしまった。<br>　腹の虫が治まらないのは里左衛門である。<br>　「恐れながら・・・」と奉行所に訴え出た。隠田があるというのである。<br>　天和三年（一六八三）、村中を騒動に巻き込み「眼前ニ村中ヲ亡所ト成ス」一揆はこのようにして始まった。<br><br>談合を重ねる<br>　隠田は重罪である。何しろ小作をしていた里左衛門が言うのだから、これ程確かな証拠はない。おまけに証人には九左衛門がいる。彼は有安村の百姓であるが、糸田村にある惣庄屋の田を「出作り」していた。<br>　年貢を基礎に成り立っている藩にとって、隠田などもっての外であり、惣庄屋が隠田をしたとなれば死罪は免れない。<br>　隠田かどうかは名寄帳などの帳面を見れば判る。その名寄帳は糸田村の庄屋伊右衛門方にある。公事（訴訟）の行方を握るのは伊右衛門ということになった。<br>　そこで惣庄屋側は伊右衛門を鬼丸（惣庄屋の居宅）へ呼び出す事にした。<br>　一方、村人達からは「この公事には公平に証言をしていただきたい。もし惣庄屋側の談合に加わったなら、庄屋も隠田がある、と訴える」と言われていた。<br>　伊右衛門は困った。十八年もの間、庄屋をし、「慈悲深キ人ナリ、貧者ニハ夫々ニ応ジ米ヲ配当シテ村中ニ配ツタリ」したので人望もあった。<br>　しかしそこは封建社会の事でもあり、惣庄屋の呼び出しを断る訳にもいかない。「人目ヲ恐レ夜々我家ヲ忍ビ奥ノ部屋ノ裏戸ヨリ」抜け出して鬼丸へ通い、内談を重ねた。<br>　孫の弥右衛門はこの時八歳であったが、子ども心にもこの時の事を鮮明に覚えている。<br>　「我等構イ申サズバ、モハヤ鬼丸ハ、訴ヘタ里左衛門ノ申ス通リニナリ、先祖以来ネンゴロニシテキタ鬼丸ハ取リ潰サレ、後ニ残ルノハ黒土」のみになるであろう。されど偽証すれば自分の隠田もあばかれる。「イカガ仕リ候ハバ遁ゲ申サレルベキ候ヤ」と夫婦で部屋に籠もり嘆いていたのを覚えている。<br>　<br>　帳簿を書き直す<br>　窮地に立った惣庄屋側は、証拠になる帳簿類を「ヒソカニ奥に取リコモリ、古キ紙ヲ改メ古帳ニ似セテ整ヘ直シ」た。書き手は横田の正宗寺の了益である。惣庄屋の叔父にあたる。<br>　また、庄屋伊右衛門の口上書には「御惣庄屋甲佐甚兵衛殿申シアゲラレ候通リ相違少シモ御座ナク候」とした。<br>　緑川の河原を拓いて造った水田は、今のようにきちんとした堤防で守られ区画されたものではなく、水田といえば水田、川床といえば川床と、どちらにもとれる所があった。また、堤防があっても洪水の度に決壊し、その修復には数年もかかった。決壊場所の水田は地床がなくなり、永荒地として届けられ、その後また開田した川成田もあった。<br>　ちなみに糸田を緑川から守っている堤防が完成したのは、この事件から九年後、元禄五年である。<br>　さて、諸帳面と口上書が差し出されてからしばらくして、奉行所より糸田へ出向いて取り調べがあったが「御惣庄屋ガ前モッテ申シ上ゲ置カレ候通リ少シノ相違ナク」惣庄屋側は無罪となった。<br>里左衛門死刑となる<br>　一方、里左衛門は人を偽って罪に陥れようとしたとして捕らえられ、翌朝熊本へ送られた。証人の九左衛門も捕らえられた。<br>　その結果、里左衛門は「隠田コレナク、言イ掛カリニ相極マリ候ニ付、御在所デ御誅罰仰セ付ケラレ」、隠田があるとされた糸田の新地で誅罰、つまり打ち首ではなく胴切りにされた。<br>　天和三年二月二九日の事である。<br>　なお、この事件については不明な点が多いが、庄屋伊左衛門の孫に当たる弥右衛門が「古今集覧」としてまとめた本の割注に「里左衛門事、十分利ヲ持チナガラ不ビンナ事ト諸人言イタリト申シ伝ヘル也」との書き入れがある。また、惣庄屋の弟も「不届之儀有之」として筑後に追放になった事から考えて「お上を訴える事はまかり成らぬ」という判断が先にあったと思われる。<br><br>庄屋も死刑<br>　事件はこれだけに終わらなかった。<br>　糸田村の百姓二十八名が連判で、庄屋の伊左衛門が隠田をしていると訴え出た。また、庄屋にあるまじき悪事非道なふるまいがあるというのである。<br>年貢は村庄屋が村請けして、それをもとに各百姓に割り付けられる。「御達」や村の申し合わせの順守なども庄屋の匙加減一つである。それに、里左衛門の公事の際に公平な証言をしなかった恨みもある。<br>　訴え出た中心人物は北村の清右衛門である。清右衛門は川原の七郎兵衛と談合するのに道路を通らず藪の中を踏み分け日夜通い同志を集めた。後年この藪の中の踏み分け道を地獄道と呼ぶようになった。<br>　訴え出た二十八名と庄屋の伊左衛門は、奉行所で厳しい取り調べを受け「段々召シ籠メラレ」た。その間、逃れるために床の下に隠れてそのまま死んだり、弟を身代わりに立て逃亡したりする者もあらわれた。<br>　吟味の結果、庄屋の隠田については、寛文九年（事件の起こる十四年前）の洪水で田畑が荒地になり年貢の減免を受けたが、その後復旧したにもかかわらずそのままにしておいたので有罪、悪事非道な振る舞いについては証拠がなく無罪であった。百姓については悪事非道な振る舞いが無いにもかかわらず連判状を出したので有罪、リーダーの五名については隠田もあり死罪となった。<br>　また、先の事件で追放になった有安村の久左衛門は勝手に立ち帰って捕らえられていたので、これも死罪になった。<br>　庄屋・百姓五名・有安村の久左衛門の計七名の処刑は天和三年三月二十九日、糸田村の外川原（いま甲佐大橋が架けられている）で行われた。いずれも誅罰である。<br>　処刑されるとき伊左衛門は「自分は役儀故、無実の罪を受け相果てる。子々孫々まで庄屋役はしてはならない」と言い残したと伝えられる。<br><br>新たな年貢が<br>　死罪を免れた他の百姓には過酷な罰が課せられた。<br>　「御誅罰仰セツケラレル筈ノ所ニ御慈悲ヲモッテ」上豊内の石川原で一日一束二荷の縄をなわせた。親も同様な罰を受けたため「悉ク手ノ腹ヲカキ破リ、傷強ク煩イトナリ、ソノ節死ヌル者、数多クアル」。<br>　公事人の子どもには鵜の瀬堰の改修のために大石を担わせた。これが四月より六月まで続いたために麦刈りも田植えもできず、その後滅亡する家も出てきた。<br>　また、糸田の田畑を調べ直したために百三十石の新地が増えて、以後糸田村の百姓は年貢に苦しむ事になる。<br><br>騒動の底流<br>　死罪をも覚悟して村役人を訴えたのは何故か。ここにいくつかの手がかりがある。<br>　この頃、隣村の早川厳島神社に渡辺玄察という社司がいた。祖父は渡辺軍兵衛といって戦国時代に活躍した武将である。玄察は身辺の事象について詳細な記録を残している。しかし彼が五十一歳の時に起きたこの事件に関しては誠にそっけない。「糸田村庄屋百姓口舌事申出、公儀より御穿鑿あそばされ庄屋百姓五人御誅罰」とあるあけで何らかの作為が感じられる。<br>　玄察に関したもう一つある。下早川の孫左衛門は、この事件のとき惣庄屋の手代（手永会所（今の役場）の助役にあたる）をしており、惣庄屋側のすべてを取り仕切っていた。それがふとした事で玄察と仲違いになった。玄察が中村庄兵衛（細川家の家臣。下早川は中村氏の知行地）に申し出た事により、筑後国に追放になってしまった。<br>　あと一つある。<br>　この事件と前後して起きた糸田の植木神社の宣明（神主）をめぐって起きたトラブルである。<br>　まず御神体の胸に何者かが釘を打ち付けるという事件が起きた。そして宣明役を勤めていた津志田八幡宮の中村兵部の祭祀の仕方について玄察方からクレームがつき、交代させられるという事態となった。その後、村祭りは古庄屋側の公事方三十一人（死罪になった五人も含む）と、公事に加わらなかった庄屋方三十六人とに分かれて執り行われるようになった。<br>　これらの事から考えると、戦国時代まで早川城主としてこの地に勢力を誇っていた渡辺氏は、当然のことながら目と鼻の先にある糸田は自領だと思っていた。その場所へ佐々・加藤・細川と目まぐるしく変わる御時世に主君を失った人々が移住を始める。糸田には加藤以後、堤防も作られ新田も増加して「村」が形成されていく。あまつさえ洪水で流れ着いた御神体を氏神として祀り、こともあろうに早川神社の真正面から数丁先に境内を造って木を植えて植木神社と称し、宣明は川向こうの津志田八幡宮から呼んでくる。<br>　これらの事に対して、渡辺氏と古庄屋側が手を組んで、惣庄屋・庄屋側と抗争したのが、この事件の底流にあったと考える。<br><br>　（刑場の「さし札」の写し）（永青文庫蔵）<br>斬罪人①<br>　益城郡糸田村庄屋　<br>　　　　　猪右衛門②<br>此もの隠田をいたす<br>久左衛門③<br>傳右衛門④<br>善兵衛⑤<br>権右衛門⑥<br>平左衛門⑦<br>此の五人庄屋に無実を<br>申かけ剰(あまつさえ)隠田をいたす<br>　益城郡有安村<br>　　　　　久左衛門⑧<br>此のもの令追放候処に<br>立帰<br>右依罪科如此申付者也<br>　天和三年三月二十九日⑨<br>①　胴切りにした。胴は「望帳」に付け置いた者の中からクジで決め、刀で試切りにした。この日は胴の数が多く「スタリ申シタ」<br>②　伊左衛門。庄鶴（糸田村が成立する以前の地名の一つ）の名主緒方監物の孫にあたる。なおこの事件を記した「古今集覧」の著者弥右衛門は伊左衛門の孫にあたる。<br>③と⑦は兄弟で、古庄屋の子。公事の中心人物<br>④と⑥は兄弟で公事の頭取<br>⑤兄の清左衛門は公事の頭取であったが逃亡したので善兵衛が身代わりになって誅罰された<br>⑧惣庄屋と孫兵衛の公事のとき、証人となり追放されたが立ち帰っていた。<br>　（参考「誅罰帳」（永青文庫蔵）・「古今集覧」（緒方昭二氏蔵）「渡辺玄察日記」（熊本県立図書館蔵）<br>　　　　（「ふるさと63号」１９９９）<br><br>歴史　４－９　<br>清正公に米１５ｋｇ？<br>　いつの事かはっきりしないが、甲佐が加藤清正の領国になってから鵜の瀬堰ができるまでの間と思われるから、多分慶長10年の前後だと思われる。<br>「甲佐の文化財第二集」に次の記述がある。「（早川井手は完成した）翌年、（加藤清正）が巡検の時、軍兵衛は開田地から穫れた米百合（今の15Ｋ）を家来喜六に担がせてその途上で献上しました」<br>　これは「甲佐町史」の「（巡視にきた加藤清正に対して）軍兵衛は開田地から穫れた米百合を下人喜六にかつがせて、その途上で献上しました」からの引用だと思われる。<br>　軍兵衛とは早川神社の社司職である渡邊軍兵衛である。当時は牢浪の身であるが、かつてはは肥後の有力な国人の一人として勢力を誇っていた。<br>　この前年、矢部より間谷を越えて甲佐にやってきた清正に対して軍兵衛は次の進言をした<br>　「早川の前にある耕地は水懸かりが悪く畑になっている。そこへ湯田・鬼丸・立岩・内田の谷水を集め、浅井を掘り割って井手を作り、四堂崎で上早川・宮の尾・目野谷の水を受け込んで早川の前の畑地に注げば立派な水田になるであろう」<br>　この我田引水は浅井の住民にとっては迷惑な話である。しかし開田に力を注いでいる清正は、反対する名主に対して「背中を割り、塩をつけてくれようぞ」と怒ったので、名主は逃げ去ったとある。<br>（浅井の住民の反対は当然で、このために後年、付近の住民は洪水に苦しむ事になる）<br>竜野川は天井川になっており、井手と川が交わる所は洪水の度に壊れ、その都度「底井樋」にしたり（川底をくぐらせる、現在がそうなっている）、筧（かけい、川の上を樋で横切る）にしたり色々工面しているが、「下横田・小鶴までも田に水がつかえ、四堂崎は横水が打通し」住民は難儀するようになる。<br>この井手は程なく完成し、早川の前の畑は水田になった。<br>翌年清正が早川を巡検したとき、軍兵衛は新田から穫れた米を清正に献上した。それが右の「甲佐町史」の記述である。　<br>それにしても「米百合」とは奇妙な書き方である。<br>ところで、このことに関しては軍兵衛の孫にあたる渡邊玄察が「拾集物語」として書いている。それにはこうある。<br><br>（右の井手首尾いたし候秋御廻国遊ばされ畠成田の籾にて平米を拵え喜六という小者に平米をゆりというわげ物にいれ担がせ前川向こうの大道に罷り出）<br>「畠成田」とは畠だった土地を水田にした耕地、「平米」は焼米のことで、もともとは未熟な青米を焼いてつぶして祝い事に用いた。矢部では今でも土産物として売っている。「ゆり」とは竹で編んだ楕円形の曲げ物の容器の事で、籾などをゆすって選別したので、この名がある。「わげ物」は杉やひのきを薄くして折り曲げて作った容器である。<br>　甲佐町史の記述と殆ど同じであるが、献上した米がどれだけだったかは書いてない。<br>　とすれば、このことについては別の史料が存在することになる。そこで「甲佐町史」が根拠とした古文書を探していたが、途中で次の事に気がついた。<br>　「拾集物語」のこの部分は「肥後国志略」の一部として出ているが、それには次のようになっている。<br>　翌秋また巡検の眨（そう）軍兵衛百合に平米を盛りて下人喜六に担がせ即ち途中にて清正侯に献上す。乃ち馬上にてこの平米を祝はれ末々迄これを賜り<br>　さすれば、もともと穀物を入れる「ゆり」が翻刻の段階で「百合」となり、町史に編修するとき「ひゃくごう＝１斗＝15㎏」とされたのではないか、これが私の推論である。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　（「ふるさと61号」　１９９８）<br>
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<pubDate>Wed, 02 Jan 2013 14:52:37 +0900</pubDate>
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<title>中嶋敬介著作集　Ⅳ　歴史</title>
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<![CDATA[ 中嶋著作４歴史<br>歴史４－１<br>江戸時代の暮らし<br>　私たちの祖先はどのように暮らしてきたのであろうか。<br>　甲佐町にある古文書を現代文に直して日本国憲法と比較しながら、そのいくつかを紹介する。<br>　なお、難解な語句や時代的背景は本文に割り込む形で加筆して理解できるようにした。<br><br>日本国憲法二二条　　何人も居住、移転の自由を有する<br>江戸時代　緒方文書（甲佐町糸田・緒方昭二さん所蔵）<br>　糸田村の百姓の子の尋五郎が帰ってきたのでお届け致します。<br>　尋五郎は今から二年前の享保二十年の十一月に突然行方不明になりました。そこで五人組はもとより村中総出で捜しましたけれども見つかりませんでした。<br>　このことについては、その時書状をもって庄屋から御惣庄屋に届けてあります。<br>　ところがこの度突然自宅に帰って参りました。それで厳しく問いただしましたところ、この間は馬見原へ行っていたことがわかりました。<br>　馬見原では日給取り(ひゆうとり) などして渡世していたそうです。しかしそこでの暮らしは極々難儀していたそうで、仕方なく帰ってきたとの事でございます。<br>　もっとも先方でも何ら悪事などはしたことがないそうです。<br>　そこで以前の通り、御慈悲をもって再び糸田村の村人数に入れてくださるようお願いする次第です。<br>　勿論、彼の者は転びキリシタンの子孫でもありません。<br>　したがって、村人数に加えられても何ら村人やその外の者に差し支えが出る事もありません。<br>　よろしく御沙汰くださいますようお願いします。<br>元文二年六月<br>糸田村庄屋　久右衛門<br>同村横目　　吉助<br>同村五人組　清吉　　<br>　　　　　　三助<br>　　　　　　善七<br>　　　　　　忠右衛門<br><br>甲佐手永御惣庄屋　甲佐善之丞　殿<br><br>日本国憲法二四条　婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する<br>江戸時代　小山田文書（甲佐町八丁・小山田実さん所蔵）<br>　冠婚葬祭については、四禮として古より聖人の立ておかれている礼があるが、その礼が末代に至って我が儘のみ多くなってきた。<br>　特に近代になってから縁約(婚約)の儀について、下々では双方の親へも告げず媒酌人も頼まずに銘々が相対に契約する者がいるようである。<br>　親々の仰せにも随わず勝手次第に押し取る事は大方世上の慣わしの様になりつつあるので、宝暦十四年に御改められて御書付を以て仰せ渡された。<br>　この度の仰せ付けは格別に重き御様子で、御惣庄屋殿が村々を打ち廻られて、十五才以上六十才以下の男女を残らず集められ、申し渡された上で判形を仕せられた。<br>　その御書付の写は左の通りである。<br><br>一　男女縁約の儀は双方より親が媒酌人を仲立ちにして申し談じる。<br>　親のない者は一家縁類の内で親同然の者を相談して決め、一家親類のない者は五人組で相談して宜しく取り計らうようにすべきである。　　<br>　縁約が調い次第、上下貴賤にかかわりなく縁約の作法により、相対に夫婦の約束をすることは古よりの聖人の立ておかれている作法である。それに背いて男女でいかに堅く申し置いても、それは密通であり禁じている事である<br>　末々には間々この事を心得違いして、右の密通を実の縁約をしたと思い違いをして、追ってその女の親などが納得しないときは、押し掛けて奪い取るような放埒(ほうらつ)の振る舞をする者もいる。そして終(つい)には口論にもなる。このことはつまるところ親の教えが良くないからで、またその所の役人どもの示し方も行き届かないからである。<br>　そのような所は自然と右の通りの風儀にもなって不届きに至る。今後縁組みする時は作法の通り双方の親か、親のないものは一家親類が相談して媒酌人を立て、以て順熟に縁約を決めるようにすべきである。<br>　万一男女だけで相対に約束する密通が露見したならば、その分にては済まないで有ろう。<br><br>　右の趣はすべての人々に申し渡し、そして親々が教えることは勿論であるが、その所々の村役人よりも常々示しておくように申し渡された。<br>   <br>　　　　　　　　　　　　　　　　覚<br>　男女縁約については御奉行衆より申し渡されて以来、右の御書付の趣に背いた者は勿論であるが、なおまたこの事に荷担した者迄御咎めになるので堅く相守り申すべきである。<br>　平生、親より子供には右の書付の趣を絶えず申し聞かせる事は勿論であるが、庄屋や頭百姓共も銘々が村々の男女が不義なる仕方をしないように仕るべきである。<br>　則、右の御書付を御惣庄屋へ相渡して写し取り、村々においてはそれを八才以上の者共を召し寄せて申し渡すべし。<br>　そして承知奉る趣を人別に判形仕せて御惣庄屋へ差し出すべし。<br><br>　　　　　　　　宝暦十四年八月<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　上益城御郡代<br><br><br><br>二　日本国憲法二二条　何人も職業選択の自由を有する<br>　　江戸時代　緒方文書（甲佐町糸田・緒方昭二さん所蔵）<br>　私の家は代々上益城郡糸田村で御百姓をしてまいりました。<br>　特に私の親の代からは、糸田村の周辺にあります未開地の開田に心懸け、昼夜となく開墾をしてきました。<br>　このようなことが認められて、次第に藩所有の御新地の開田も仰せ付けられるようになりました。その結果余力も出てきましたので、その貯えで平太船を数隻造る事が出来ました。<br>　この平太船は緑川の水運に欠かせない舟で、特に上下益城郡の御年貢米を川尻に積み下すときに利用されてまいりました。<br>　また、藩の御用船として使われたり、川尻から米の積み出しに必要な時の人馬などを運んだり、緑川の川渡しなどにも召出されてきました。<br>　このような事で、藩の御為にもなってまいりました。<br>　ところが今年の六月十七から十九日にかけて、今までにない大洪水が襲ってきまして、新しく開田したところは勿論、清正公以来の田畑共に打ち流されて荒地になってしまいました。<br>　特に私の屋敷は水当たりが強く家財や農具は勿論、食糧も流失しました。馬や平太船も流れてしまいました。<br>　右のような状況ですので渡世の手だてもなく途方にくれています。<br>　そこで恐れ多くございますが、何とぞ御慈悲をもって徳利酒売りをお許しいただければ有り難く忝なく存じます。<br>　もしお許し頂ければ、糸田村のうちの御船町の往来筋に小屋を懸けて草履や菓子、徳利酒を売りたく思います。<br>　その利益でもって親類をも養い、荒地になってしまった田畑も元通りにし、また前々のように平太船や馬も調えて行く行くは御百姓も務めたく存じます。<br>　この段よろしく御沙汰くださるべくよろしくお願いします。<br>　　　　　　　　　元文四年九月<br><br>歴史４－２<br>大平堤物語<br>　三賀村（今の南三箇）の百姓は重い年貢に苦しんでいた。<br>　江戸時代も終わりに近い頃の話である。<br>　年貢は村請けといって先ず村に割りあてられ、それを庄屋が各戸に割り振るのであるが、村の請け前が皆済されないと協同責任をとらされる。　　<br>　この頃甲佐手永（今の甲佐町）で年貢を払えない村は三賀村の外に八丁・山出・府領などがあったが、三賀村は殊のほかひどく「比類稀なる零落所」といわれた。<br>　村人は勤勉で人柄もよく不正直な者は一人もいない。それでいて年貢が払えないのである。<br>　原因はわかっていた。<br>　一つには水田に問題があった。湿田であり稲作のあとに麦作などの冬作が出来ない。<br>　二つには畑の土は白真土（しろまつち）で土性が悪く、日照りが続けば硬くなって鍬も入れられなくなる。　<br>  三つにはこれが一番の原因であるが、村高が高すぎる事にある。年貢は村高に応じてかかってくる。その村高に比べて村人が少なすぎるのである。<br>　おおざぱに言ってこれより五十年前の手鑑（てかがみ）によると世持村は石高二百六十石に対して村人百三十二人、中山村は四百十石に対して二百人、ところが三賀村は七百石に対して百七十人であった。<br>　そのため耕作を放棄した荒れ地が畑だけで六町（六ヘクタール）余りもあるが、これにも年貢は容赦なくかかってきた。<br><br>　まず水田を改良する<br>　すでに沼田を乾田化して二毛作を可能にする試みはなされていた。<br>　先ず文政二年（一八一九）の松汁除井手がそれである。<br>　大平の谷間の水田は両側の松山から流れ出た水により湿田になっていた。当時は松汁は稲作に良くないとされていた。そこで村人は協力して、長さ六五〇間（一一七〇ｍ）の井手を作りそれを掘りさげて下流（今の陽南町鰐瀬）に流した。<br>　そして井手の要所には堰板（せきいた）をはめて水田の用水とした。強雨の節は堰板をはずして松汁を抜き通した。また、冬場は堰板をはずして水田を乾かし裏作ができるようにした。<br>　次にに文政三年（一八二〇）より五ヶ年かけて大平に堤を作った。<br>　大平にある七町余りの水田はわずかの日照りにも干上がってしまい干害がひどかった。　堤の広さは三反あまり、これにより水不足が解消された。、<br>　しかしそれでも村は立ち直らず、年貢の減免も申し出て認められたが、なお村が立ち直るきざしは見えなかった。<br><br>　畑を水田にする<br>　そこで村人が考えたのは畑に水を引いて水田化する、つまり段々畑を棚田にする事である。畑を水田化すれば生産力が飛躍的に高まる。<br>　しかし問題は用水である。<br>　上流の三賀山は藩の御山藪になっており勝手に薪を取ったり秣（まぐさ）を刈ったりすることも出来ない。しかし上益城と下益城の境にあり、監視の目が十分届かないこともあって「狐狸も住めないような」裸山になっていた。　そのため山の保水力は全くなく日照りが続けば川はたちまち涸れてしまった。<br>　「大きな堤さえあれば」と庄屋の庄助は考えた。<br>　庄助は三賀村の村庄屋になって二十五年、六十九歳になっていた。<br>　「律義者にてそのうえ精農にして、その身を先ず立て勧農相誘い万端親切に心くばり」する男で、そのため村人も「帰服仕り農業に精を出すようになり、村の難渋も少なく」なってきた。これもひとえに「三賀村庄屋の庄助の働きによる」と記録されている。<br>　その庄助が中心になり村人と共に出した結論はこうである。<br>　三賀山の麓に小さな堤がある。この堤は広さ三畝、堤防の長さ十八間、堤防の底幅五間半、上幅一間半である。この堤防を補強して水を溜める。用水は取り入れ口から左右に分配して山裾をめぐらして用水路を作り、右手の井手は途中で尾根にトンネルを掘り、水不足に悩んでいる錦川流域に流し込む。<br>　しかし水田は生産力は上がるが、それに比して年貢を取られるので、折角水田化してもそのままだったら村には何の恩恵もない。そこでその増額された年貢分は藩に上納せず村が取って、それを元手に村が立ち直る。村がもらう期間は二十ヶ年とし、それが過ぎたら通常に年貢を支払う。<br>　このような計画がまとめられ、藩に願い出たら認められて堤の工事に取りかかった。<br><br>　堤が決壊する<br>　この工事は天保十五年（一八四四）に始まり翌々年に完成した。<br>　堤の広さは七反、堤防の高さ七間、底幅二十二間、上幅二間で堂々たる堤である。　<br>　村人の悦びはいうまでもなかった。<br>　ところが完工した翌年の弘化四年（一八四七）の五月に強雨のため山から打ち出した水勢で堤防が打ち流されてしまった。堤防の下に埋め込んであった底井樋（用水路の取り入れ口の石造の導水管）も吹き破れて破損してしまった。<br>　もともとこの地はザレ岩の小石交じりの地床で、その上に堤防を築いても喰い合いが悪く水圧に耐えられなかったのである。<br>　これまでかかった費用は三貫目近くあった。これは米六十俵にあたる値段である。人夫は村人が出るにしても、堤防底の水の取り入れ口の石塁や導水管などの工事は石工を雇わなければならない。<br>　もともと村を立て直すために計画した堤である。破損した個所をそのまましておけば当然新田は出来ず、今までにかかった費用はそのまま村の借財となる。<br>　修繕さえすればよいが、年貢さえ払えないのだから資金の余裕などあるはずがない。村人の落胆と苦悩は大きかった。<br><br>　再び工事にとりかかる<br>　進退窮まった末、再び村人が出した結論はこうである。<br>　もう一度修復をしてみよう。幸い堤に添って今は放棄された水田がある。この土は水を通さない真土（まつち）なので、これを堤防に刃金土（はがねつち）として入れる。また、堤防の底土と谷の両端の山土は削り取ってそこに刃金土を食い込ませる。<br>　必要な費用は甲佐手永の会所官銭（今でいうと甲佐町役場の経理）から借りてまかなう。<br>　この願いは認められて今までにないような大きな堤が完成した。近隣からの人夫も含めて延べ二万八千人を要した。<br>　そして水が段々畑に引かれ、一町六反余の美田が出来上がった。<br>　嘉永二年（一八四九）年の事である。　村人の悦びようは大変なもので、この年の秋、収穫を感謝すると共に再び決壊しないように堤防上に観音堂が建立された。<br><br>　重くのしかかる借財<br>　しかし村には借財の返還が重くのしかかってきた。甲佐手永の会所官銭からの借金が四貫百四十目もある。当初は人夫に対する昼飯代も入れるはずであったがそうすれば費用が益々かさむのでこれは計算しないことにしたのにこの金額である。<br>　もともと村の立ち直りのために造った堤である。<br>　計画では新田に掛かる年貢分を藩に上納せず、村の立ち直りの為に使いたかったのであるが、先ずその借入金を返済しなければならない。<br>　新田に新しくかかる年貢は一石三升であり、この年貢分を免除してもらって借金の返済に充てる計画であったが、一俵五十目と計算して一年に返済する事ができるのは百四十目余りである。そうすると借金を返済するのに二十八年かかり、村の立ち直りに使われるのは二十九年目からになってしまう。それでは何のために大平堤を築いたか全く意味をなさなくなる。<br><br>　四十四ヶ年で返済する<br>　そこで村方へ半分、甲佐会所への返済に半分ずつ分ける事にして願い出したらその通りに認められた。　<br>　具体的には四十年間を半分ずつに分け、四十一ヶ年から四十三ヶ年の間は全額甲佐会所へ返還し、四十四ヶ年以降は通常の通り年貢として藩に納める事になった。<br>　これは村の立ち直りに十分な手だてだったかというとそうでもなく、このことがあって六年目に三賀村に対しては再び年貢の減免措置がとられた。<br>　<br>　そして大平堤完成から百十年、昭和三十五年になって大平溜池は熊本県の直管工事として大規模改修が行われた。　この時の総工事費は五百万円、受益面積六ヘクタール余、受益戸数六十九戸であった。<br>　また平成元年には南カントリークラブのオープンにともない改修が行われ今日に至っている。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（「ふるさと7２号」　２００４）<br><br>歴史４－３<br>地蔵峠を越えて<br>　　　　ーー阿蘇古道を往くーー<br><br>最後の旅<br>　昭和三〇年秋。早川の若者六名が徒歩で地蔵峠を越えて阿蘇へ旅をした。　古代から近世にかけてのメインロードであ<br>ったこの峠を、以後、甲佐を徒歩で出発し阿蘇へ至った者は絶えてない。<br>　往古は、甲佐を一番鶏と共に出発して七滝で提灯を消した。吉無田でのどを潤し、地蔵峠で昼飯をとり、夕方地獄温泉に着いたという。<br>　この古道は如何なるものであったろうか。<br>　それよりも果たして一日で行けるものであろうか。以下は今年の夏、全行程を踏破した記録である。　<br><br>この道の重要性<br>  古代の道路は官道（今の国道三号線に沿って延びていた）がよく知られているが、益城地方ではこれとは別に阿蘇へ行く往還があった。<br>  阿蘇社には一八〇余の末社があり、中でも甲佐・健軍・郡浦は三摂社として勢力を誇っていた。<br>　特に甲佐社は根本神領一〇〇町を基礎に、平安末期には砥用・小北両山の寄進をうけ、南方に勢力を拡大した。また、鎌倉初期には小川・松橋に至る地方が甲佐社領としての特権を確定した。ここにおいて阿蘇家の勢力は甲佐・郡浦をつなぎ不知火海へ至る回廊が完成した。<br>　戦国時代に入り、阿蘇家は武装勢力として矢部を根拠地にしたが、甲佐には阿蘇二十四出城のうち早川・甲佐の二城があり、なお強力な支配下にあった。<br>　およそ道路は権力のあるところに集中する。<br>　阿蘇家へ年貢済物を納め、塩などの海産物を運び、また近世になってからは氏子代表として阿蘇社の「御神札」を受け取りに行くのに、この阿蘇路は極めて重要であった。　また部落で「講」を作り仲間数名と地獄温泉へ湯治へ行く道としてもこの道が使われた。<br>　（今日の常識では考えられないが、昭和初期まで名連川（矢部町）人たちは、熊本市へ出るのに阿蘇下田駅まで歩きそこから汽車に乗った。地理的にも心理的にも阿蘇は近くて重要な場所であった。）<br><br> 早川神社　→　玉虫　 →　下鶴　    一時間<br>　往古の旅人がそうしたように、早川神社で旅の無事を祈って出発する。古道は現在の北早川<br>から玉虫団地を通る道と同じである。<br>　途中で団地を左に見て右折し、玉虫姫の伝説のある塚を過ぎると、すぐ御船川に出る。<br>　古道は玉虫橋の五〇米下流を飛び石で渉っていた。やがて浜線に出る。浜線を矢部に向かって進み下鶴に着く。<br>　下鶴のめがね橋は、明治になり大矢野演習場に行くため架橋されたもので、これから先の道はなかった。<br><br>下鶴  →   川内田　→　茶屋元　　　　　　　　　一時間<br>　めがね橋と発電所を右に見て、坂道を上がって行く。右下に八勢川の清流が光る。この川の源流は旅人が目指す吉無田である。<br>　うぐいすの声がしきりに聞こえる。木立を抜けると突然人里が現れる。川内田である。<br>今は隠里の風情があるが、当時は交通の要所として重要であったとみえて、猿田彦や立派な社がある。<br>　人家を抜けてしばらく行くと、巨大な橋が眼に飛び込んでくる。糸田の大橋につながる道路の一部である。<br>　古道の両側は、かって元禄嘉永井手の水を取り入れて美田が続いていたが、今はうち捨てられ雑草の生い茂った棚田の跡が無惨である。<br>　やがて古道は木立の天蓋の続く下を通り、日向街道に着く。現在の郡見坂ーー吉無田線である。<br><br>茶屋元　→　三間伏　→　吉無田             三時間<br>　古道は茶屋元で二つに分かれる。分岐点には追分け（昔の道路標識）があって、右ひうが、左あそ路とかすかに読める。傍らの地蔵にも同様な字が彫ってあるのは、旅の安全の祈願であろうか。<br>　阿蘇路は、ここから吉無田まで、ずっと元禄嘉永井手にそって進む。一時間余で三間伏（みつまぶし）に着く。<br>　かって、吉無田に行くにはここを直進し、途中で左折した。大矢野に行くこの道は吉無田川沿いの曲折した細道で大型車の通行は無理であった。そこで、昭和四〇年代に現在の矢形川沿いの道路が開通した。<br>　古道はそのいずれでもなく、三間伏からいきなり尾根に上がり尾根をずっと進む。ここはまた元禄井手が通っている尾根でもある。<br>　馬の背のような尾根は、両側の谷からの浸食が進み、狭いところでは幅三ｍ。そこを古道と用水路が通る。三〇〇年間営々として保守してきた先人の苦労を偲びつつ歩を早める。　往古の道は尾根を通っていた。谷沿いの道は地形が複雑で、橋を架けたり隧道を掘ったりしなければならないが、尾根だと辿り着くまでは急坂で大変であるが、一旦尾根に上がれば後は平坦で真っ直ぐな道が続くことになる。（郡見坂が良い例）　吉無田高原の若草を遠望しながら、高原野菜と「ひぐらし窯」を左に見て登り詰めると、西原ーー吉無田の大規模林道に出る。右折して五〇〇ｍで吉無田水源である。<br><br>吉無田　→　十文路  →  地蔵峠                          三時間<br>　旅人は、ここの清冽な水で喉を潤し、しばし休憩して鋭気を養ったであろう。<br>　十文字に至る古道は、尾根に上がり今のキャンプ場を左に見ながら行く道と、吉無田川沿いに谷を行く道とがある。　谷沿いの道を進むことにする。胸突き八丁の道が続く。幕末までは雑草の中を進む急峻な道であった。「峠の岩を目当てに進め」といわれていたが、今は美林に覆われて見通しが全然きかない。<br>　小一時間で十文字に着く。矢部から大津に行く道と、御船から阿蘇に行く道がここで交わりこの名がある。近年西原の酪農パークからグリーンピア南阿蘇へ行くグリーンロードが完成し、十文字には駐車場と史跡案内板が整備されている。<br>　ここから地蔵峠までは、古道が「九州自然遊歩道」として整備されており、昔のままの道を歩くことになる。木立の中の緩やかな坂道を、途中で小松姫の塚や展望所に立ち寄りながら約２時間、にわかに視野が展け大阿蘇の大パノラマが展開する。<br>　地蔵峠である。標高一〇八六ｍ。谷から吹き上げる涼風に疲れをいやし昼食をとる。　阿蘇古道一番の難所で、地蔵が幾体も祀ってある。近くは矢部の父子がここで霧に巻かれて果てたという。その地蔵もある。<br><br>地蔵峠　→　下田　 →　地獄　　　　　　　　　三時間半<br>　古道は、ここから標高差六〇〇ｍの外輪山を一気に下る。途中までは、けもの道かと惑うほどで、往古の旅の苦労が偲ばれる。　やがて、駒返り峠から来た道と出合う。矢部の者が利用した道である。グリーンピア南阿蘇が谷を隔てて右に見える。　南郷谷の平地に出ると、古道は屋敷森に囲まれた集落と美田の続くのどかな農村風景の中を縫うようにして進む。<br>　二時間半で阿蘇下田温泉駅に着く。　下田から地獄までは、約一時間。急峻な山路が続く。終日歩き続けた者にとって最後の難関である。地獄温泉で湯治をする者は、米・味噌からわらじにいたるまでの荷物を背負っての旅であったから、夕闇せまる中に硫黄のにおいを嗅ぎつけ旅の宿が近いことを知ったときの喜びはいかほどであったろうか。<br><br>最後に<br>　地獄で旅の疲れをいやし、翌日阿蘇山上神社へ参拝し、古いお札を納め新しいお札をいただき帰路に着くことになるが、阿蘇山上まで「車で一五分」の案内板を見て、もはや気力が続かない事を悟り、ここで旅の終わりとした。　<br>  さて、興味のある方には十文字から地蔵峠まで、グループでのハイキングをお勧めする。　森林浴をしながら二時間。車二台で出かけ、一台を十文字、一台を地蔵峠の下のグリーンロードの駐車場に置くとよい。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（「ふるさと65号」　２０００）<br><br>歴史４－４<br>幕末の「在町」　岩下町<br>　江戸時代、肥後藩は「町」と「在」を厳格に区別した。<br>　「町」は五ヶ町・准町・宿町・在町に区分し、商人の身分や商品を制約した。<br>　「在町」は木山・浜町・堅志田・隈庄など五十余あった。。<br>　岩下はその「在町」のひとつである。<br>　「在」（村）は商札を持っている者の「振り売り」（行商）のみをみとめ「店」は禁止した。<br><br>封建社会の矛盾が集約される<br>　幕末の岩下に関する古文書には次のような記述が目につく。<br>・岩下町の儀、日々渡世難渋のもの　　多く<br>・岩下町の儀、近年零落（年貢未納）　につき<br>・岩下町の儀、不取り締まりにて風儀　よろしからず<br>・岩下町の儀、町備金とてなく<br>・岩下町の儀、極々零落所にて諸事不　取り締まり、御年貢や諸出銀は取立　かね候　<br>　もともと岩下町は<br>　「五ヶ荘・砥用・矢部・中山通行の御役人の休泊や人馬繋ぎ替え」（幕末に町役宅を建てるための上申書）にみる<br>ように、交通・物資の集散などの要衝の地であった。<br>　幕末になり貨幣経済が浸透すると、豪商が現れる一方で、その日暮らしの者が増加してきた。<br><br>　岩下町の往還　<br>　下の次の地図を見てみよう。<br>　これは西南戦争が終わった明治十三<br>年頃の様子であるが、幕末の様子を類推する事ができる。　<br><br>　先ず地図でいうと大井手の手前（大井手の左岸・・・旧役場側）に幹線道路（往還）が描かれてない事に気づく。<br>　熊本から砥用に通ずる往還（原町村道といった。原町・・・砥用の中心地）は現守口屋の所から左折して大井手を渡り横町を通り、右折して本通りになり、現村上種苗店前で甲南橋を渡っていた。その先は仁田子村（現緑町）を通り原町へ通じていた。<br>　なお、大井手を渡る二ヶ所は木橋であったが、幕末に目鑑橋になった。<br>　寛文九年（一六六九）に「町並みに大道を造り替え、上下の門構えを建て、その内部を町民の住所と定める」（岩下根本記）とあるので、この橋の二ヶ所が町の入口となり、上町・横丁・角・下町・横町からなっていた。<br>　天和元年（一六八一）に岩下の戸数が六十竈となり、これ以上町の人口が増えないように、分家や株養子以外の入籍を禁止した。<br>　往還でいまひとつ目に付くのは浜町道（三本松・万坂経由で浜町に行く往還）が、もと「いずみ屋」の所から始まり、現「いこいの家」の前を通り、現「よねむら」の所で現国道を突っ切り、下豊内に突き当たって右折している点である。<br>　現茶屋呉服店から現公民館の前を通り上豊内に行く道はない。<br>　つまり、「えびすさん」のあるあたりが岩下町の要衝で、ここに商売繁盛を願って「市えびす」を勧請した事もうなずける。<br>　なお、この浜町道は簗を右手に見て上揚に入り、甲佐神社から左折して安平の村中を通り、小鹿入口で再び今の県道と一緒になった。甲佐神社から直進しないのは、滝下あたりの通行が困難だったためである。安平経由は坂を登り下りしなければならず、大変な苦労があった。幕末に今の県道が通じた。<br>　往還以外にも裏町などの「小路」（しゅうじ）があったと思われるが、この地図には描かれていない。<br><br>どんな店があったか<br>下の表は安政四年（一八五七八月二十一日）に藩主細川斉護が簗にやってきたとき、甲佐手永御惣庄屋（今の役場）の下代（今の役場職員）の本郷純次が岩下村の町屋から購入した物品とその購入先である。<br><br>　                                                                                                      <br>茶屋（ 小筆・九折葛・あんどん紙）　新丸屋（ 豆腐・味噌・鮎） 　<br>小鹿屋（ 酒・生しび・豆腐）　下駄屋（ 炭）　芳野屋（ 豆腐・酢・玉子）<br>角芳野屋（干物・豆腐　味噌 竹の皮草履  味噌）　吉田屋（ 油・醤油・茶）・<br>茶碗屋（ぞうり・茶碗）　飴屋（くず・しいたけ）　天野屋（ 酒・塩・水引 ）<br>新茶屋（ 米・味噌・九年ぼう）　小間物屋（干物）天野や出店（半紙・草履・鰹節）<br>のだ屋（ 揚げ豆腐）　新＊屋（ ごぼう・人参）　なべ屋 （ ろうそく）<br>萬屋（ 海老・こんにゃく・ 六分板）　かめ屋 （こんにゃく ）<br>松岡屋（ 水田子・七島むしろ）<br>                                                                       <br>　これらの中には今に続く屋号もある。　先年亡くなられた渡辺敏子さん（明治三十九年生まれ）の記憶によると、これらの屋号の大部分は小路（しゅうじ）にあったとのことで、そうすると本町通りは、旅籠（はたご）や豪商・大店（おおたな）が軒を連ねていたことになる。<br>　なお、「在町」での「店商い」は五ヶ町より制限が厳しく、認められた「商札」は次の品目である。<br>　　酒・糀・馬・塩・小間物・豆腐・野菜・苗類・柿・蜜柑・久年母・栗<br>　　　　（寛永十三年の例）<br>　岩下町では文政七年（一八二四）には八十四枚の商札が認められていた。<br>　明治十一年の調査によると、岩下町には「雑業百十一戸」とあるが、この「雑業百十一戸」が小商人にあたるのであろうか。<br>　商札以外にも「本手」（職札）が認められたが、それは次の品目である。<br>　　　造酒　　糀　　油　　　揚酒（酒の小売）<br>  岩下町では文政七年（一八二四）に認められた「本手」は次の通りである<br>　　油〆本手二　　糀本手一　　造酒本手二　　鋳物師札一　　合薬札二<br>　他に質屋札・左官札<br>明治十一年には<br>　　造酒職二戸　造酢職一戸　　鍛冶職五戸　　紙漉職一戸　　染物職一戸　　質屋三戸<br>　　絞油職一戸　水車職一戸　　<br>の職があった。<br>この安政四年に藩主が簗にやってきたときは総勢二百名位が岩下に宿泊した。  <br>　天保七年より藩主の御簗御出の節の本宿（本陣）は、<br>　　渡辺万太郎宅<br>　　渡辺猪左衛門宅<br>　　井芹忠左衛門宅<br>となっており、藩主をはじめ、御一門の御家中や御側用人、御女中衆は天野屋や東天野屋や万屋に宿泊したと思われる。<br>　<br>　旅籠が十四軒<br>　このとき下級の役人や仲間（ちゅうげん）荒仕子が宿泊した屋号と宿泊者は下の表の通りである。<br>　このうち、綿屋・東紺屋・角紺屋・丸屋・油屋・稲荷屋・橋本屋・大黒屋・舛田屋・河内屋・ い＊屋・新米屋は物品を販売していないので、「旅籠屋」の屋号であろうか。<br>                                                                                                        <br>茶屋（御小姓衆６人）　　綿屋（御手廻中９人）　東紺屋（傍所横目２人）　<br>角紺屋（歩頭衆付御手付２人）　　丸屋（御郡中見締衆１３人）　油屋（下横目８人）<br>稲荷屋 （御手廻衆中１４人）　橋本屋 （歩御使番衆３人）　大黒屋 （御駕方７人）<br>新丸屋 （御用人衆中家来上下２２人）　舛田屋 （御医師上下９人）<br>小鹿屋 （御雇頭家来等９人）　下駄屋 （御馬飼方８人）　芳野屋（御長柄持６人）<br>河内屋 （御側御小姓衆家来４人） 　い＊屋 （御度方衆３人）<br>角芳野屋（歩御小姓衆１４人）<br><br>元治元年（一八六四）には<br>　左記にも宿泊している<br>　新米屋・紺屋・塩屋・宮島屋・坂本屋・染屋・岩見屋<br>　明治十一年の調査によると、岩下町には旅籠が十四戸あった。<br><br>どんな家に住んでいたか<br>　西南戦争の折り、堅志田に陣を構えた政府軍は、明治十年四月三日に緑川を渡り甲佐町を焼き討ちした。<br>　政府軍の焼き討ちで焼失した甲佐町の家屋３３４戸ある。<br>　岩下町は７１戸が焼けてしまった。<br>　戦争が終わってから政府は焼失家屋の調査を行った。<br>　それにより当時どんな家に住んでいたかがわかる。<br>　家の程度は上中下に分けてあるのでその代表例をあげると。<br>ランク　下　　全体の60％                                                                              <br>岩下町　某                                                                                        <br>　　　　居家一軒　７坪<br>　　　　　　母屋　４坪半(わら葺き)　     下家　２坪半(竹瓦葺き)<br>ランク　中　　全体の24％                                                                              <br>岩下町　某                                                                                          <br>　　　　居家一軒　49坪                                                                                <br>     　　　　母屋　31坪（わら葺き）　　　２階　12坪（わら葺き）                                                                      <br>      　　　 下屋　３坪（瓦葺き）     下屋　３坪（竹瓦葺き）                                                                       <br>   　　　　　小屋一軒　10坪（わら葺き）                                                                          <br><br>ランク上　　　全体の16％                                                                              <br>岩下町　某                                                                                          <br>　　　　居家一軒　66坪<br>　　　？母屋　３２５坪（わら葺）  二階４６坪（瓦葺き）   下屋　17坪（瓦葺き）<br>　　　　土蔵一軒14坪（瓦葺き）　小屋一軒6坪（竹瓦葺き）<br>　小屋一軒　４．５坪（竹瓦葺き）<br>                                                                      <br>　これを見ると、幕末から明治初期にかけての住居は、わら屋根に竹のゲヤをおろした家に住み、小屋も竹屋根が一般的であったことがわかる。<br>　孟宗竹が中国から日本に入って来たのは、江戸時代の初めといわれているが、幕末には全国に広まった。<br>　このように爆発的に広まった理由は、孟宗竹を新建材として利用されたのではないかと思われる。<br>　八畳に六畳の母屋でも、片側に一間の下屋を下ろして土間と炊事場とし、もう片側に半間の縁側を付けるという簡単な施工で、居住空間は倍近くに広まる事ができた。<br>                       <br>どんな暮らしをしていたか<br>　西南戦争が終わってから焼き討ちにされた家にはそのランクに従って 賑恤金（見舞金）が支払われた。<br>　しかし一旦支払われたこの見舞金も、薩摩軍に加勢した者と借家住まいの者には返還を命じられた。<br>　甲佐の住民は殆ど薩軍に加勢しており、また見舞金は家を建てるために支出してしまっていて、もとより返還など出来るはずはなく、まさに泣きっ面に蜂でで悲惨な結果になってしまった。  そこで年賦による返還を願い出たが、その願いには戸長（現村長）の「財産目録の添書」が付いていて、当時の生活の一端を知る事ができる。<br> <br>  財産高調                                                                                              <br>　　　某                                                                                    <br>　　　　　堀立居家　１軒　　 但１間半梁長３間半<br>  　　　　　鍋２ツ   茶碗１４    古畳５枚    目籠２荷<br>      某<br>    　　　家１軒　但し借家<br>   　　　　　 鍋１ツ   夜具１ツ    茶碗１２     桶１ツ    手桶１荷    箱１ツ<br>                                                                                   <br><br>　勿論これは焼け出された者の調書であり、また見舞金の返還猶予のための証明であるので、割り引いて考える必要があるが、生活の一端を見る事が出来る。<br><br>どんな食事をしていたか<br>　日常の食事についての記録は持たないが「おれの村では自慢じゃないが盆と正月は米の飯」の通りであったろう。<br><br>　先述の安政四年の藩主細川斉護が御簗に河遊びに来たときのメニューがある。<br>いかりや<br>　　御厩の者　７人　　計４６匁６分<br>  　　　賄代  ２１匁<br>　　　　酒三升五合　１２匁９分５厘<br>  　　　焼鮎１４匹　５匁６厘<br>  　　　白焼鮎７匹　４匁<br>  　　　えび　　　　１匁７分<br>  　　　こんにゃく　２匁<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（「ふるさと76号」　２００６）<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/knakashima/entry-11440563746.html</link>
<pubDate>Wed, 02 Jan 2013 14:48:52 +0900</pubDate>
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<title>中嶋敬介著作集　Ⅲ　随筆</title>
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<![CDATA[ 中嶋著作３随筆<br>３随筆　１<br>私の釣魚大全<br>　釣りは王者の趣味であり趣味の王者であるという。されば私は今や釣道を極めた王者である。アイザック・ウォールトンの古典的名著「釣魚大全」は釣人のバイブルであるが、それになぞらえて、ビギナーのために二三箴言を申し上げたい。<br>一　ほらを吹かない<br>　釣果を聞くと「それにつけても、逃げた魚を見せたかったよ」とは先輩校長のA先生の口癖であるが、未だ解脱していない証拠で見苦しい限りである。私は去年の十月二十四日に緑川で十二Kｇ、九十五ｃｍの大鯉を釣り上げたが、このような自慢話は決して言わぬ事にしている。<br>二　食べぬ魚は釣らない<br>　リリースなどという妙なものが流行っているが、あれは外道で嘆かわしい限りである。<br>  釣りはスポーツではない。「釣りは鮒に始まり鮒に終わる」というが、半分は正しく半分は間違っている。いまの釣の対象魚は銀鮒であり、これは食欲の対象ではないのですべてリリースして帰る。「小鮒釣りし」の鮒は金鮒でありこれはチョー美味である。<br>三　自然にとけ込むこと<br>　この意味でわが国第一の釣り師は佐藤垢石であろう。開高健などとても及ばぬ。井伏鱒二は垢石が「服装は粗末で古風だが竿をかまえている姿が自然と一体となって」いる姿に驚嘆している。　<br>釣具店に行くとフィッシングウェアとしてきらびやかなファッションが売っているが、あれは狂気の沙汰である。<br>四　良き師につくこと<br>　我流は駄目である。誰が良き師か、自分の口からは言えないのが残念である。<br>                                                                                      平成１８年５月５日<br><br>随筆３－２<br>チョコレート<br>　その夜の公民館での話し合いは「子どもの健全育成」でした。先生やＰＴＡは勿論、町会議員さん、自治会の役員さん、民生委員さんなど多くの方々から多くの意見が出ました。<br>会が終わり近くなったとき、ＰＴＡの母親部長をしている友田さんが言いました。<br>「私の息子は、不器量で愛想も悪いですが、先日、バレンタインデーにチョコレートを貰ってきました。ガールフレンドが出来たか、と嬉しくなりましたが、よく聞いてみると山本さんの奥さんからだったそうです。朝、新聞受けの所に立っておられて『毎朝ありがとう』と言って手渡されたそうです」<br>　いきなり名指された老人会長の山本さんは<br>「俺にはやらんで！」と、ぶっきらぼう言われましたが目元は笑っていました。あれは照れ隠しで、きっとご夫婦で話し合われての事だと思いました。<br>　会は間もなく終了し、私は家路を辿りながら、明朝、凍てついた道を自転車で新聞配達する友田君の事を想っていました。<br><br>随筆３－３<br>玉虫<br>「園長先生、何かきれいなものがあるよ」<br>最初に気づいたのは、夕餉の煙の立ち去る方を眺めていた園児である、<br>飯盒炊飯の支度をしていた私は、子どもの視線を追いながら立ち上がった。<br>玉虫であった。それは半ばうつろのなった欅の幹の斜陽をあびて金属製の光沢を放っていた。<br>　どこかで見た風景だった。その妖しい光は私の遠い記憶の底をしきりにかきまわしていたが、それがいつのことか、どこの風景か、どうしても思い出さなかった。私はぼんやりしながら突っ立つていた。<br><br>　塩井神社は益城町のはずれにある。阿蘇外輪山の伏流水はここで地表に噴きでて滝となり、吹き下ろす風は木立を抜けて心地がよかった。<br>　辺鄙な所にあり、開発されていないことも幸いして夏になると世俗を離れて涼を求めるには格好の場所となっていた。<br>　私の勤める幼稚園ではいつの頃からか、ここでキャンプするのが習わしになっていた。<br>　今年も夏休みになるとすぐここに来たのであるが、私は心中おだやかではなかった。<br>　それはキャンプに来ている市内の小学生達のせいであった。五六年生と思われるこの集団は我々を完全に無視していた。私たちが厳粛な気持ちで開村式をやっているところに彼らは嬌声を上げて乗り込んできて、きのう私たちが掃除しておいたキャンプサイトに勝手にテントを張った。<br>  とりわけ児童から友達言葉で話しかけられている青年教師が私のカンにさわった。この若者は第一に同業者である私に、何の敬意も払わず会釈さえしなかった。第二にこの若造は長髪でジーパンを履きギターを肩にかけていた。第三にいつも数名の女の子に取り囲まれていた。その中でとりわけ目立つ少女がいたが、彼女はかって私が知っていた一人の少女の面影と似ていた。しかしその清純さは少しもなく、さかんに若造に媚態を振りまいていた。第四に、要するにすべてが気にくわなかった。<br>　お前達になめられてたまるか、今にみておれ。俺の存在をいやという程示してやるぞ。私はチャンスをねらっていた。そしてそのチャンスが来たことを知った。<br>　<br>  園児の声でわれに帰った私は、園児の肩に手を掛けながら「玉虫だよ」と、そしてわざと大きな声で言った。<br>「玉虫がいるよ、あれが玉虫だよ。見に来てごらん」<br>沢でザリガニを捕ったり、木立でネットを振り回していた園児が集まってきた。<br>　園児達は空を見上げながら「玉虫、玉虫」と叫び声をあげた。<br>　「園長先生、捕って」と園児たちが言い始めた。小学生たちも捕まえる方法を論じあっていたが、十メートル近い大木にいる玉虫を捕る方法などあるはずもなく、小石を投げる者まで出てきた。<br>「園長先生、何とかなりませんの？」<br>　たまりかねたのか、私の園の先生が信頼を込めた眼差しで頼んできた。このような眼で若い女性から見つめられたのは、いつの日だったろう。<br>　あなたのためならお月様だって捕ってあげますよ、私は久しぶりに若い血が体中に満ちるのを感じた。<br>　私には成算があった。<br>　ゆっくりとした足取りで駐車場におもむき、釣り竿を持ってきた。この竿は、去年一年間義理を欠きながら貯めて買った自慢のカーボン製だった。<br>「すげー。ダイワの××だ」小学生が私の知らない製品名を言った。どうだ、参ったか。私は得意になって竿を伸ばしたが、そいつはつづけて「ボクも同じのをパパに買ってもらったんだ」と周りを見回しながら自慢した。このドラ息子め、お前の親父はやがて甘やかした事を後悔するだろう。その時はざまあ見ろだ。わたしは口のなかでののしりながら、竿の先端にガムテープを取り付けた。<br>　これから何が行われるか皆は納得し、やがて獲物を掌中にするであろう私に羨望の声が集まった。竿は空高く上がった。ところが竿の軟調子が禍いし狙いがなかなか定まらなかった。何度か試みた後、今度は大丈夫だと押さえたが、玉虫はするりと横に逃げ、西日に一段とさえた光沢を放っていた。それはまさしく宝石であった。<br>　私は態勢を整え直した。今度は大丈夫だ。ガムテープは標的を正しく捕らえていた。誰の目にも玉虫の命運は決まったかに見えた。そのとき例の少女が「かわいそう」というのが聞こえた。続いて何人かの少女がそれに和した。男の子が「逃げろ」と叫んだ。私は虚を突かれて手元がくるった。悲鳴が上がったが<br>玉虫は依然としてそこに光を放っていた。<br>「にーげろ、にげろ」男の合唱が始まった。私は益々あわて竿は空を切った。その度に悲鳴と拍手がわいた。危険を察知した玉虫は隣の木に飛んだ。私は標的を見上げ、つまづきながら突進した。まわりの空気は一変し、私は敵意に包まれた。玉虫が逃げる度に拍手がわき、私がつまづくと笑いが起きた。<br>　私は自分自身がピエロになった事を知った。この中年過ぎのピエロは形相を変えて竿を振り回し、さかんに敵役を演じて皆の笑い者になっているではないか。園児でさえ小学生を真似て「にーげろにげろ」と、はやしたてているではないか。<br>　たまりかねたのか、園の先生が園児を集め始めた。<br>　絶望的な戦いの後、獲物はようやく私の手に落ちた。私は呼吸を整え怒りをしずめながら、去りかけている園児数名を無理やりとらえ、悪ガキどもに背を向けて「さあ、これが玉虫だよ、手にとってよく見てごらん、日本にはもう殆どいない幻のオオヤマトミヤマ玉虫だよ」と大声ででたらめな名前を口にした。<br>背後に悪ガキどもが近づいてくる気配がした。私は最後の勝利者になるため更に追い打ちをかけた。<br>「法隆寺の玉虫の厨子はこのように羽をむしり取って貼り付けたのだよ」<br>園の先生がぎょとして立ち止まり、若造の教師も近づいてきた。<br>「さあ、よく見ましたね。こういうのは自然に帰さなければなりませんよ」<br>私は思いきり玉虫を放り上げた。<br>玉虫は一旦落下しかけたが、金属製の光沢を輝かして夕映えの空へ消えていった。<br>　私はしばらくの間ぼんやりとして、それが消え去った空を見上げていた。<br>　気がつくと園児も小学生も既に去り、木立の下は夕闇が迫っていた。<br>　私は急に疲れを覚え近くの会談に腰をおろした。キャンプサイトからは若いお母さんたちの華やいだ声に混じってビートのきいた曲が聞こえてきた。<br>　そして私は、私が主人公であった時代が終わったのをしった。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　（｛土｝五十五号　一九九〇）<br><br>随筆３－４<br>鈍行の旅<br>　仙台駅に降り立って地図を広げると、秋田市は北北西、十一時の方向にある。<br>　この地に嫁いでいる娘は、私の初孫をしきりにあやしながら、まず東北新幹線で盛岡まで北上し、田沢湖線で奥羽山脈を越えることを勧める。アクセスもいいし新型車で快適な旅が約束されるであろう。それに、と娘婿も口を添える。雫石あたりでは折からの紅葉を楽しむことができるでしょう。<br>　しかし私は山形まで西行し、それから奥羽山脈の盆地を縫うように走る奥羽本線で北上することにした。乗り継ぎは悪い。それにすべて鈍行である。<br>なにしろ時間はたっぷりあった。<br>　会議は明日から始まる。今日中にホテルに着けばよい。汽車は七分の乗客を乗せて十一時十分に仙台駅を離れた。九時間の旅が始まる。<br>差し入れの仙台名物笹かまぼこを肴にポケットウイスキーを飲みながら向かいの席の国訛りの会話を聞くとはなしに聞く。二人は叔父甥の関係で山形まで祝事に行くらしい。<br>　仙台平野を抜ける頃から、二人は車窓にうつる谷間の稲をしきりに話題にしだした。十月だというのに青立ちのままである。穂さえ出ていない田もある。賢治の“寒さの夏はおろおろ歩き”が実感として伝わってくる。<br>　「ひどい状態ですなあ。テレビでは知っていましたが」<br>　私は幾分の酔いも手伝って話の中に入った。<br>　「お好きなようですなあ」と年配の方が私の手にしている缶ビールを指しながら笑顔で答えた。<br>　「塩釜あたりでもこんなにひどくはないですよ。はあ、熊本の方ですか、あちらも不作だと聞いていますが」<br>　私は耳学問で得た農業知識を駆使し、圃場だの、ミナミニシキだの、穂首イモチだの業界用語をちりばめて話した。<br>「どうですか、一杯」缶ビールをすすめながら、大は日本の食糧問題、小はキャベツの植え付け時期に至るまで論じあった。この際、趣味にしている家庭園芸が大いに役立った。ただし、一ウネしか作らない玉葱が一反になり、去年の初市で二本買った苗木が広い梅園になったりした。<br>　山形駅で別れるとき、私は昨年、農業を息子夫婦に譲り、一人で東北の温泉を旅している自分を発見した。<br>　秋田まで持つはずのビールはとうになくなっていた。<br>　山形駅で銘酒大関のカップ酒を買い込み、十四時二十三分の秋田行きに乗り込んだ。<br>　発車間際に高校生がどやどやと乗り込んできた。いずれも垢抜けしていて、きれいな標準語で話している。<br>　車窓からは色づいたリンゴ畑や、手入れの行き届いた桜桃畑が見える。列車が止まる毎に高校生が降りて行く。新庄盆地にさしかかる頃には喧噪も去って五十年配の女性と私とが取り残される形にになった。<br>　表紙を丸め「中学校社会科地図帳」の文字が見えないようにして地図に見入っていた私に「どちらまで」とその女が話しかけてきた。私が熊本だと知ると、知り合いの故郷が鹿児島にあり、一緒にそこを訪れた事、楽しい旅だった事などを話した。<br>　やがて汽車は盆地を抜けて山地にさしかかった。勾配が急になり回転音が上がる。<br>　「この辺は冬になると二メートル位積みますよ。」女は錆びたような声で言い、自分の家は駅から三十分位かかること、三八豪雪のあった年に故郷を出たこと、今、熱海に住んでいること、父が急死したので山形新幹線を乗り継いで十年ぶりに帰っていることなどを話した。<br>　昭和二八年―三八会―浜町中―離郷―集団就職―北岡神社―熊本駅―冷凍みかん。私は三十年前就職列車で出ていった生徒に思いを馳せた。<br>　熱海―父の死に一人で帰る女―熊本駅で見送った生徒とは何の脈略もないけれども、毎年繰り返されたあの光景が思い出し、心が痛んだ。<br>「あのように」と無人駅でたった一人降りた女子高生を目で追いながら女は言った。「ここで卒業しても就職口はないし、結局出て行く定めですよ」<br>　女は次の無人駅で降りて行った。駅舎のまわりに人家はなく、ホームの反対側にはすすきが輝いていた。そこからすぐ深い谷になっていて、その向こうには杉に覆われた山塊が迫っていた。<br>　やがて汽車はトンネルにはいり県境を越えた。<br>　秋田のホテルには、その日の夜遅く着いた。<br>                    （「土」六十五号　一九九四年）<br>随筆３－５<br>忘れかけていた風景<br>　バスは夕陽に向かって走っていた。平坦な大地である。カボチャの上に乗れば国中が見えるという。<br>　太古に湖底であったという肥沃な国土はよく耕されていて、目を遮るものとてない。点在する農家がその風景にアクセントを添えていた。そのような旅がもう三時間も続いたろうか。<br>「今のを見たか」突然、前の座席で団長が大阪なまりで叫んだ。「見た。バスストップ」後ろの方で東北弁が答えた。<br>　セルボクロアチア語しか解せぬ運転手にも、この言葉はわかったらしくしばらく行って停車した。何事か、という顔をしている。反対側の座席にいた者は、簡単な説明で状況を理解した。<br>　「写真を撮りたい、車をバックさせてくれ」通訳氏への説明には若干手間取った。十五年前留学でこの地へ来て以来、日本へは帰っていないという。いつも冷静で学者肌の彼も、訪問校のレセプションで「ふるさと」を歌ったとき、傍らで涙をためていた。<br>　運転手にはなかなか理解してもらえなかった。<br>　夕陽の中で若い夫婦が鍬を手に大地を耕し、それを子どもが手伝っている。幼い一人はじっとたたずんでその三人を見つめている。そのどこに関心があるというのか。はるばる東洋から来たこの異邦人は、中世の古城にもゴシックの教会にもさして興味を示さなかった。それがどうだ、この何でもない風景に大騒ぎをし、しかも車を引き返せという。・・・やがてバスはゆっくりＵターンした。<br>　「席は立つな。写真も撮らないことにしよう」大阪弁が静かに言った。<br>　そこにはミレーの「晩鐘」の中にこどものシルエットをはめ込んだような風景があった。決して豊かではないが、幸せそうな家族の姿があった。かって日本のどこにでも見かけた風景である。<br>　バスの中に、しばらく静かな時が流れた。<br>　「今頃、日本では麦播きですね」通訳氏はぽつんとつぶやいて、気をとりなおしたように言った。<br>「急ぎましょう。そろそろベオグラードの灯が見える」<br>　<br>（「土」51号　１９８９）<br><br>随筆３－６<br>霧島<br>　山の名前ではない。勿論、相撲取りの四股名でもない。列車名である。<br>　今でも盆暮れには、臨時急行のブルートレインとして走る事があるが、旧国鉄時代には鹿児島から東京まで三等中心の十五両編成を蒸気機関車が引っ張っていた。山陽から先は電化されていたにもかかわらず、である。<br>　私は昭和三十三年から十年間、毎年、七月十九日にこの汽車に乗り込み上京した。<br>　汽車は十時頃、熊本駅を発つ。鹿児島からの客が六分の入りである。<br>　二十三時間の旅が始まる。煤煙が入り込む。特急の「あさかぜ」や「かもめ」がどんどん追い越していく。堅いシートに座ったまま一夜を明かす。<br>　朝方、東京に着く。四十日間の勉強が始まる。帰りも勿論「霧島」である。<br>　何故、特急に乗らなかったか。お金がなかったからである。<br>　何故、十年間も上京したか。勉強したかったからである。<br>　何故、勉強したかったか。<br>　私は教師になってすぐ、自分が教師としての力量に欠けている事に気がついた。それは知識とか、技術とか教育愛とかいったものではなく、教師としての根底にあるもの、いわば、教育哲学とか教育思想に類するものであった。勿論功利的な面もあった。小一の免許や、学士の資格である。しかしそれは二年でとれた。その後は全くの自己研鑽である。<br>　機会はいくらでもあった。通信教育があったし、各大学での夏期講座があった。聴講生としていくつもの大学の、主に西洋教育史に関する講座を受講した。そして私の教育観の根底が形成されていった。<br>　片道二十三時間の旅と、７・８月の月給と夏のボーナス費やす研修は、今で言えばどこで研修することになるであろうか。文化において、当時の熊本と東京はそれ以上の落差があった、<br>　この十年間に結婚し、三人の子どもが生まれた。妻の理解と協力があったが、経済的には質素な生活を送った。<br>夜間急行霧島で妻が作った弁当を食べながら、次々と追い越して行く特急を眺め、俺もいつかは寝台特急に乗って食堂車で飯を食ってやるぞと思ったのも、今では楽しい思い出である。<br>（「土」６８号　１９９５）<br>随筆３―７<br>少年たちの夏<br>楽しみにしていた新学年が始まったが、勉強は部落毎にするようになり、学校での勉強はなくなった。部落での勉強も桑の皮剥きやらタニシやイナゴ捕りが主で、机に向かう事は殆どなかった。<br><br>その日は朝から晴れていた。<br>いつものように御堂に集まり、先生の話を聞いた後、いつものように学年ごとに仕事をする事になった。<br>六年生は裏山に松根油を集めに出かけた。出かけるとき山本先生から「きのう松の木に傷を付けた場所はわかっていますね。お国の為に頑張ってください」と言われた。山本先生は去年女子師範を卒業されたそうで、事あるごとに「お国の為」と言っていた。角を曲がるとき悪ごろの和シャンが「××して子持つも国のため」と大声で言って裏山に駆け込んだので、みんなも歓声をあげながらそれに続いた。<br><br>下級生の私たちは河原に行ってポンポン草を採ることになった。<br>和シャンの家の前を通りかかると、爺さんが裸足の僕たちを見て「可哀想になあ」と言ったが、その頃は裸足で暮らすのが当たり前だったので、裸足がなぜ可哀想なのか理解できなかった。<br><br>堤防に上がると松子ちゃんが「あ、こんな物が落ちてる」と黒い物を拾い上げた。万年筆だった。班長の三チャンが受け取って眺めていたが「万年筆爆弾かも知れん」と言った。皆で「これが万年筆爆弾か」と見入った。<br>　キャップをひねると爆発する仕掛けになっていて、それで死んだり両手を失ったりする人が沢山いるとの噂が絶えなかった。そんな物が落ちていたら駐在所に届けるように、と事ある毎に言われていた。<br>この頃は夜になるとＢ29の編隊が宮崎の方から九州山脈を越えて有明海の方に飛んでいくようになった。初めのうちは恐れおののいて防空壕の中で身じろぎもせずにいたが、そのうちに慣れて防空壕から顔を出て恐る恐る見上げる事もあった。<br>何でも噂によると、夜は緑川が光って見えるので、それ沿って有明海上空に出て爆撃に行くらしかった。<br>やがて昼間もＢ29だけでなくグラマンやら胴が二つある飛行機が飛んできて色々の物を落としていった。Ｂ29からはビラやらジュラの長いテープ（ジュラルミン・レーダーを攪乱するため）がよく落ちてきた。触ったら手が腐るとも言われていた。<br>そういう事もあって、三チャンは万年筆をそうと草むらに置き、皆で大騒ぎをしていたら、区長さんが馬を牽いて通りかかったので皆でがやがや言って訴えた。<br>区長さんは、駐在所に届ける、と言って無造作に荷馬車のフーゾカゴに入れて、立ち去った。<br><br>万年筆で手間取った下級生の私たちは、急いで河原に降りて朝露に濡れながら背丈ほどもある雑草の中からポンポン草を見つけて刈り採った。<br>一束になると榎の下の木陰に集め葉をちぎり、幹だけにして皮を剥いだ。やがて一握りほどの皮が集まると、雑草の中をかき分けて石原に出て、そこに皮を拡げて干した。<br>先月は同じ場所に桑の皮を剥いで干したが、それと比べてポンポン草は薄くて短く、わずかであった。しかし、秋に配給される霜降り色の学生服の原料になる、と先生から言われていたので、照り返す太陽を浴びながらポンポン草の皮を満足して眺めていた。<br>　そのうち、真夏の太陽に照らされて喉がひどく渇いたので、誰言うともなく川岸に出て水を飲んだ。<br>川下では兵隊さんが馬を洗っていた。<br><br>大シャンは今日はあまり元気がなく、頭には矢旗を引き裂いて包帯がわりの鉢巻きをしていた。彼は河原に降りると先ずフツ（よもぎ）の葉をちぎって汁が出るまでもみ、包帯の下の化膿止めのフツと取り替えた。<br>　鉢巻きは血が乾いてごわごわになっていた。それを剥がすとき痛がったが、私はかねていじめられている仕返しに思い切り引き剥がした。<br>　傷口は血糊でふさがっていたが、やがてそこが禿頭になると思うと愉快であった。<br>　<br>大シャンが怪我をしたのは昨日の午後の事である。<br>緑川で泳いでいると向こう岸の小学生たちも集まってきた。今のようにスポーツの対抗試合もないし、よその学校との交流は全くなかったので、顔見知りと言うことは先ずなかった。それでジネーンと言い合いになる。<br>「白旗ん学校はツッパリ学校！」<br>「乙女ん学校はワクド学校！」　<br>白旗小学校は二階建ての学校だったが、両側から斜めの支柱が入っていた。<br>乙女小学校は平屋建てでその格好がワクド（ガマガエル）のようにつくばって見えた。<br>ということで、お互いの罵り言葉になっていた。<br>「乙女のガッコの先生は、１たす１も知らないで、黒板たたいて泣いていた！」とリズムをつけ、声を揃えて怒鳴り返すと、向こうからも<br>「白旗ン学校の先生は・・・」<br>とやり返してくる。<br>この言い合いが序盤戦で、やがてどちらともなく石を投げ始め、石投げ合戦になる。お互いに届かない所まで下がって投げ合うのであるが、中には平べったい石がカーブを描きながら飛んでくることもあり、頭をウッポガレて傷跡が禿になる者もいた。<br>　大シャンは運の悪い事に、石投げ合戦が始まった時、水泳ベコを河原に干してムチンで泳いでいた。それを取りに帰ろうとして頭をウッポガレたのである。<br>　<br>ポンポン草の仕事も済み、がやがや言いながら堤防に上がると女の子たちがポカンとして西空を眺めていた。<br>「あれは何ネ」<br>征子ちゃんが私たちの方を向いて言った。<br>　雲仙岳の上に何とも言いようのない異様な大きな雲がぽっかりと浮かんでいた。雲の上部は桃色で、下になるほど細く黒くなり、松茸のようであった。太陽が私たちの頭上にあったので雲の一部は白く光り輝いていた。雲は全体が大きくなり上に膨らんでいった。<br>「何だろう」<br>騒ぎを聞いて、部落に人たちが堤防に上がってきた。<br>　榎の木陰で一休みしていた兵隊さん達も騒ぎに気づき土手を上がってきた。<br>そして、みんな呆然と立ちすくみ、不安の言葉を出して西空を眺めていた。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（「ふるさと」８３号　２００９）<br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/knakashima/entry-11440560927.html</link>
<pubDate>Wed, 02 Jan 2013 14:43:51 +0900</pubDate>
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<title>中嶋敬介著作集　Ⅱ　コラム</title>
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<![CDATA[ 中嶋著作２コラム<br>２－１<br>王様に会えない<br>　例えば銀行のない町や村の事を考えて見よう。上益城では嘉島町と清和村がそうである。<br>　経済活動が盛んでない村や、その町に銀行がなくても近くに大都市があり不便を感じない町がそうであろう。<br>　逆から言うと銀行の支店があるということは、一つの地域経済の中心であり物流や人の集まる所であり、結果として交通の拠点にもなっている。<br>　もう一つ高等学校のない町や村の事を考えて見よう。上益城では嘉島町と清和村、それに加えて益城町がそうである。これらの町や村は隣接する市や町に高等学校があり不便を感じない町村であろう。<br>　逆からいうと高等学校があるという事は、一つの文化の中心地であり、人の集まる所であり、結果として交通の拠点にもなっている。<br>　つまり銀行があり高校があるということは、そこが経済や文化の中心地で、住民はそこだけで暮らしていける事を意味する。<br>　逆にいうと、そこに必要なものがなければ人々は遠くまでそれを求めて出かけなければならない所であり、極めて不便な場所となる。<br>　ところで甲佐町には銀行もあり高校もある。<br>  しかし、しかしである。<br>　書店がない。図書館もない。<br>　（図書館は機能概念であって司書がいない、閲覧室がない、土日に開いてない、相談業務がないのは図書館とは言わない）<br>　頼みとする学校も、小学校には司書がいない。<br>　こういう状況下で、大人はともかくとして、高校生や小中学生はどうしているであろうか。<br>  千円の交通費を払って五百円の本を買いに熊本へ行っているのであろうか。<br>　お母さんはどうしているであろうか。<br>　膝の上で読み聞かせる絵本や童話を一々熊本まで買いに行っているであろうか。<br>　子どもの健全育成とか、豊かな心を育てるとかいっても「心がけ」だけでは駄目である。<br>　本は文化の王様だという。　<br>　その王様がいない。<br>　いま計画されている生涯学習センターは図書館が中核をなしているということである。。<br>　まのなく、その王様に会える<br><br>コラム２－２<br>　砦<br>　「ごく普通の日本人がどんな暮らしをしているか知りたいでしょう。どうぞ私の家を自由に見てください。」<br>　中国の柳州市から環境問題の視察にやってきた八名は、行政の責任者や専門家を中心に構成されていた。<br>　窓口になっている甲佐町国際交流協会の清村一男さんから申し入れがあり、熊本の三日間を手伝う事にした。<br>　さて、初日の甲佐町の視察は予定より早く終了した。<br>　そこで冒頭の提案となったのである。<br><br>　何の準備もしていない居間に招き入れ、私は次のようにいった。<br>「以前、ヨーロッパとアメリカを視察しましたが、一番印象に残ったのは、アメリカの一教師から”私の家を自由に見てください。”と招待され、それこそ冷蔵庫の中まで見せてもらった事です。この事で私はアメリカが好きになりました。その経験を生かします。どうぞ自由に見てください。」<br>　家の内外の写真がとられ、いろいろの質問がでたが、その中には座敷に飾ってある父の軍服姿の遺影があった。「父は青島上陸作戦に参加しました。その時は貴国に随分被害を与えたと思います。その後マーシャル群島に赴き、一九四四年にアメリカと交戦中に戦死しました。」<br><br>　その日の夜に歓迎会があった。<br>　双方の挨拶が終わったらすぐ、団長が私の席に通訳と共にやってきた。　団員の中で一番若く、長身で明哲な風貌はリーダーとしての資質が十分に窺える若者である。<br>　「私の祖父は日本兵に切り殺された。」と、彼は言った。<br>「それで日本人に対して良い感情は持っていない。しかしあなたはアメリカ人の家庭に招かれ、その生き方を好きになった。同様に私もあなたに学んだ。　今日からわだかまりを捨て人生観を改める。」<br>　そして、祖父を日本人に殺された中国の若者と、父をアメリカ人に殺された日本の老人は堅く握手を交わした。<br>　彼は「今までの人生観を改める」と再度言った。<br>　後日その団長から中国の花器が贈られてきた。昨年の十二月のことである。<br>　<br>　戦争は心の中に生まれるものであるから、心の中に平和の砦を築かなければならない。（ユネスコ憲章前文）<br><br><br>コラム２－３<br>子育ての風景<br><br><br>  たのしみは　まれに魚(うお)煮(に)て児(こ)等等(ら)皆が<br>　　　　うましうましと　いひて食う時<br>　橘(たちばな)曙覧(あけみ)は幕末に生きた福井の人で、「たのしみは・・・」で始まる五十二首を「独楽吟」として詠んでいる。藩主の松平春嶽が立ち寄るほどの人物だったが、大変な貧乏暮らしで、その貧乏振りは<br>  たのしみは　あきあき(空)米櫃に米いでき　<br>          今一月は　よしというとき<br>からも窺える。<br>  そういう中にあって、子どもにも十分な暮らしをさせることも出来ないが、たまたま手に入れた魚を食べさせることができ、親としての幸福感にしたっている情景である。<br>  ところで、橘曙覧は一緒に魚を食べているであろうか。目を閉じてこの風景を想像すると、どうもそうではなく、こどもが喜んでいるのを見るだけで満足している姿が浮かんでくる。<br>　近頃は夕食にカップ麺を与え、夫婦でパチンコに行く保護者もいるそうである。<br><br>お月見<br>  非行を犯した少年が社会復帰にための訓練を受けている施設を訪問したことがある。<br>　見せられた資料に、ここの少年と警察学校生との幼少期の体験の比較があった。比較対象が東大生でないところが面白い。<br>  調査の目的は、「このような育て方をすれば非行少年にはなりませんよ」というデータを示したかったであろうが、「家族旅行」も、「誕生会」も「クリスマス」も「運動会で手作り弁当を食べる」も「父親がＰＴＡに出る」も三十項目ほどある殆どが両者の体験に差はなかった。<br>  ただ一つ、おや、と思ったのは「家族とお月見をしましたか」という項目があり、非行少年の体験が極端に少なかった。例えば「クリスマス」と「お月見」を比べ、その雰囲気を想像してみるといい。ここらに家庭教育の手懸りがありはしないか。<br>  <br>  雨傘<br>  ある小学校に勤めていた時の話である。<br>  私が通勤路にしていた野道は児童の通学路にもなっていた。ある風雨の激しい朝、私の車の前をハザードランプをつけながら徐行している車があった。何気なく追い越すと、車の前には兄弟が雨合羽を着て笠をさし、一列になって登校していた。後をついて運転していたのは彼等の父であった。<br>  学校に着いた私は、やがて登校口の下駄箱の前で、父親から着替えの入った袋を受け取っている兄弟を見た。その後も何度か同じ状況が見られた。<br>  集団下校で班別下校をさせると、校門でわが子を待ち受け、列から引き剥がして車に押し込んで帰る親もいるとき、これはまた何と言う風景であろうか。<br>  <br>  橘曙覧はこんな歌も詠んでいる。<br>　たのしみは　三人の児ども　すくすくと　大きくなれる　姿みる時<br>コラム２－３<br>  チョコレート<br>　その夜の公民館での話し合いは「子どもの健全育成」でした。先生やＰＴＡは勿論、町会議員さん、自治会の役員さん、民生委員さんなど多くの方々から多くの意見が出ました。<br>  会が終わり近くなったとき、ＰＴＡの母親部長をしている友田さんが言いました。<br>「私の息子は、不器量で愛想も悪いですが、先日、バレンタインデーにチョコレートを貰ってきました。ガールフレンドが出来たか、と嬉しくなりましたが、よく聞いてみると山本さんの奥さんからだったそうです。朝、新聞受けの所に立っておられて『毎朝ありがとう』と言って手渡されたそうです」<br>　いきなり名指された老人会長の山本さんは<br>「俺にはやらんで！」と、ぶっきらぼう言われましたが目元は笑っていました。あれは照れ隠しで、きっとご夫婦で話し合われての事だと思いました。<br>　会は間もなく終了し、私は家路を辿りながら、明朝、凍てついた道を自転車で新聞配達する友田君の事を想っていました。<br><br><br>コラム２－４<br>読めないような名前は付けるな<br>　<br>　知人の子どもが通う小学校の名簿を見て驚いた。<br>半数近い名前が素直には読めない。<br>読み進めていくと「夢」いう名前がありホッとしたら、何と「どりむ」ちゃん、だそうだ。<br>以前にも確かに読みにくい名前はあった。しかし友人の「恕」君や「不羈雄」君の如きは親の漢籍に対する学識の深さがわかり、逆に読めなければこちらの教養のわかってしまう、そのようなものであった。<br>また、例えば「ヨウコ」と言われたとき、「ヨウコのヨウはどんな字を書きますか」というように表音文字（例えばアルファベットやハングル文字）を使っている人々からすれば煩雑で手間暇がかかった。<br>しかし今流行している読めない名前はそれとは少し違うようだ。<br>「見野留」君は、男の名前に多い「実」を漢字に置き換えたものであろう。付けた親は奇を衒って粋がっているであろうが、既に千数百年も前に同じ手法で万葉仮名が発明されている。<br>「朋弓桂」君にいたっては、これがどうして「りゅうじ」と読むかは全く判らぬ。<br>漢字を表音文字として、あるいは字づらが整っているということだけでデザイン的に命名するならば表意文字としての漢字の良さは失われてしまう。<br>確かにわれわれの祖先は、大和言葉を表記するには数ある表記のうちで漢字が一番適しているから取り入れたのではない。<br>たまたま最初に出会ったのが漢字だったからにすぎない。漢字だけでは表記できないということで仮名文字が発明され現在では漢字かなまじり文を使用している。<br>戦後、一時期漢字による表記を廃止して表音文字を採用しようではないかと議論になった事がある。<br>表音派は破れ去ったが、書く方法としてはパソコンではローマ字派が、ケータイでは仮名文字派が勝利を得、広告やブランド名ではカタカナ派が勝利した。<br>日本人同士が外国人の前で「あなたの名前は何と読むのですか」と聞いたりしたら、日本の識字率100％は嘘かと唖然とされるであろう。<br>漢字を表意文字として使うような者は、いっそうの事、出生登録にはカタカナも認められているから、そうしたらどうであろうか。<br>何と読むのか判らない、しかも意味不明の人気漫画の主人公の名前ばかりで教室が満たされたら、個性もへったくれもあったものではない。<br>今は世間が驚くような名前でも、人間の考える事は大体同じだから、成人した頃は皆同じ名前ばかりになり、何の変哲もない平凡な名前になってしまうであろう。<br>案ずるに、文化協会の会員には生まれた子どもに命名権を行使するような元気者はいないようだから、せめて孫のために遠慮せずに老婆心を働かせるべきである。<br><br>コラム２－５<br>  個の中に普遍が宿る<br>誰の言葉か思い出せないが、若い頃読んだ哲学書にあったような気もして調べたらカントの言葉に似たのがあるが、どうも少し違うようだ。<br>　何故この言葉を思い出したかというと、「白旗小学校百年誌」の編集に携わったからである。<br>  深遠な形而上学的意味が込められているかも知れないが、「俺流に」単純に解釈した。<br><br>みんなで勉強うれしいな　国民学校一年生<br>　私は昭和九年生まれであるが、この年に生まれた者が際立って憶えている唱歌に「元気で体操一二三　国民学校一年生」がある。高等学校の同級生にも聞いてみたが同様であるので、白旗小学校の一年担任だけが熱心に教えた訳ではないようだ。<br>この年に小学校は国民学校に名を改めたのだから、一級上の者が懐かしむ歌ではない。また、五、六年後輩も歌えない人が多い。<br>このように記憶に残る唱歌一つの事から当時の教育の様子や、日本の政治状況、ひいては国際情勢が解かってくる。何故、世界中を相手にした無謀な戦争に国民の誰もが反対できなかったのか、何も「日本近代史」を読まなくても白旗小学校で何が起きていたかを知れば解かる。<br>同様に今の私たちの子どもや孫に、自分の経験してきた事を話せば、その事を通じて「現代史」は解かるというものである。<br><br>蓑着て笠着て鍬持って　お百姓さん御苦労さん<br>「今年も豊年満作で」と続くこの歌は、戦後、ラジオから流れてきた歌だ。少年ながら私も文字通りの姿で田植をした。<br>　政府も三百万人餓死すると予測して多大の予算を注ぎ込んだので農村は復興した。<br>時移り時代は変わって細川内閣のとき、ウルグヮイラウンドで米の輸入を認めた見返りに二十兆円もの農林予算を注ぎ込み農産物の自由化に備えた。私たちに見える形では、県南からの農産物を熊本空港から輸出するために架けた甲佐大橋がそれである。<br>今頃は農産物を満載したトラックが轟音を響かせながら甲佐大橋を駆け抜け、世界中に熊本の野菜や果物が輸出されているはずである。０が９つ並んだ農水省の予算を見るより、何に税金が投入されたかがよく判る。<br><br>トントン　トンカラリンと隣組<br>この歌は「あれこれ面倒　味噌醤油、ご飯の炊き方垣根越し」と続き、「カチャリ」の良き風景を醸し出していた。　<br>いま、一人暮らしの老人が多く、専業農家に若者がいず、若者は結婚しないのは私の部落だけの話ではないので、自分の部落の状況をよく観察すれば、日本の現況がよく解かる。<br>また、十年後、自分の住んでいる部落がどうなっているも容易に予想ができる。それが日本の農村風景である。<br>何もテレビのルポを見たり、評論家のご宣託を聞いたり、統計を見る必要はない。<br><br>コラム２－６<br>      五百円の幸せ<br>年を重ねると、ろくでもない事が多くなるが、時には思いがけぬ幸運に出合う。<br>全映座、太洋デパート横にあった三番封切りの映画館の小便くさい座席で、進駐軍と共に観た映画に五十年後再び出会うなんて、夢のような話だ。<br>しかも名画のＤＶＤがワンコインで、甲佐の店頭で買えるなんて十年前まではとても考えられなかった。<br>若い頃は心をゆさぶった映画でも、社会派の作品を茶の間で観るには気が重いが、今また年寄りに感銘を与える作品もある。人それぞれ想いは異なると思うが、以下は私の思い入れで選んだ数編である。<br><br>カサブランカ<br>　今でも時々、コマーシャルで「昨夜？そんな昔は覚えてない。今夜？そんな先の事はわからない」なんてやっているから、皆の心に残っている名画であろう。<br>第二次大戦のさなか、ドイツの支配下の北アフリカ。明日の命も知れぬ中にあってフランスのレジスタンス運動に身を捧げる人々や亡命者。圧巻はドイツ将校が合唱する第三帝国国歌に対抗して、お客が総立ちになってラ・マルセイエーズを合唱する酒場の場面である。アメリカの戦意高揚映画でもあろうが。<br>それにしてもイングリッドバーグマンの美しい事よ。「君の瞳に乾杯」<br><br>心の旅路<br>　記憶喪失者がマスコミを賑わすと、「心の旅路は・・・」という言葉が出てくる。　　今でも好んで取り上げられる格好のテーマであるが、その嚆矢はこのイギリス映画であろう。<br>第一次大戦後のイギリス。戦いで頭を傷ついた若者と、その記憶を取り戻そうと寄り添う踊り子のラブストリー。<br>このテーマは安直になり易いが、この映画はブロットがしっかりしていて、前半の何気ない場面、例えば霧や群集の騒音や楽器の響きや戸の軋みや会話が伏線となって後に重要な意味を持ってくる。主演のコールマンの口髭、つまりコールマンひげが懐かしい。<br><br>怒りの葡萄<br>世界恐慌の最中のアメリカの農村で流民となった一家の物語である。悲惨な暮らしの中にあっても心豊かな人々が登場し、最後の場面でかすかな希望の光が見える。<br>土地を奪う大地主を大企業、土地を追われる農民を派遣社員に置き換えれば、この映画は「第一次世界恐慌」の時何が起きていたか、どう考え何をすべきかを「第二次世界恐慌」の最中にいる私たちに贈るメッセージである。<br><br>静かなる男<br>他愛もない映画で、アイルランドを舞台にしたジョン・フォード監督の人情喜劇の西部劇だと言ってしまえばそれまであるが、アイルランドの田舎の風景と民俗習慣や民謡が、どういうものか私たちを昭和初期の古きよき時代の日本に経ち帰らせて心和ませてくれる。私もジョン・ウェインを真似てハンティングを冠った事があったなぁ。<br><br><br>コラム２－７<br>花の文化<br><br>　幕末、日米通商条約批准のために咸臨丸で渡米した木村摂津守は、ある日アメリカの要人の求めに応じ、小判など日本の貨幣を贈った。随員の福沢諭吉は、それについて次のうに述べている。<br>　「その翌朝、昨日は誠に有り難うと云って、そのおかみさんが花を持って来てくれた。私はひそかに感服した。人間というものはアアありたい。いかにも心の置き所が高尚だ。金や銀をもらったからといってキョトキョト悦ぶのは卑劣な話だ。アアありたいものだ」<br>　花を贈る社会的風潮をもってアメリカ社会の文化的レベルの高さを見事に喝破している。<br>　面白いことに、室町時代に初めてヨーロッパから日本にやってきたフロイスなどの宣教師は、わが国の庶民が朝顔や菊を丹精込めて栽培し観賞しているのを見て、当時の日本の文化と民族性を高さを賞賛している。<br>　つまり、花とどのようにかかわっているをもって文化水準を計る指標としており、このことは現在でもわれわれは、無意識のうちに使っている指標の一つである。<br>　例えば延岡から国道をドライブしてくると、沿線に咲きこぼれていた花が熊本県に入ったとたんに途絶えてしまう。逆に熊本市から県道を甲佐方面にやってくると甲佐町に入ったとたんに道端の花が出迎えてくれる。<br>　旅人はそのことで県民性や町民性を類推するであろうし、その結論は概ね妥当である。<br>　さて、来年の「県民文化祭」は二巡目３番バッターとして上益城郡が会場となる。残念ながら一巡目は上益城郡だけが開催出来ず素通りしてしまった。　<br>　熊本県は一巡目の反省に鑑み、今回は「今後の産業振興、地域振興につながる文化祭」とし、「今あるものに磨きをかけ、気づかなかったものを発見する」ことを基本方針としている。<br>　甲佐町は、花の生産量とその種類の豊富さにおいて熊本県随一である。<br>  冒頭に述べてとおり「花あるくらし」は文化そのものである。来年の県民文化祭を機会に町の基幹産業である「花」を文化の面から見直したいものである。<br><br><br><br><br><br><br>コラム２－８<br>    映画「西住戦車長」<br>          ―――　何とも不思議な映画　―――<br><br>ある時期、「甲佐」の地名が「西住戦車長」とともに全国に知れ渡ったことがある。週末ともなると、甲佐駅から降りた人並みが延々と仁田子まで続き、出店が立ち並んだという。<br>　考えてみると肥後熊本の人物で劇場商業映画の主人公となったのは、宮本武蔵と西住小次郎だけであろう。<br>　西住小次郎は昭和十三年五月、徐州作戦の途中で戦死した。二十五歳の青年の平凡な死はそのままで終わるところであったが、同年十二月になって突然「軍神」として発表され、「昭和の軍神第一号」として世の賞賛を集めるところとなった。<br>軍神になった理由として、作家の司馬遼太郎は「日中戦争を拡大するために」「日本にも戦車があるぞ、という事を内外に宣伝する必要があった」と述べている。<br>　さて、翌年になり菊池寛は「西住戦車長伝」を書き、それにもとづいて昭和十五年に松竹映画「西住戦車長伝」が作成された。上原謙が主演するこの映画は、この年の選考で二位となり、興行的には首位になった。<br>　それから六十七年の歳月を経た今年の六月十日に町の生涯学習センターで文化協会主催で上映され、六百名の会員が鑑賞した。<br>　この映画や西住戦車長に対する想いは人それぞれであろう。<br>以下は映画そのものに対する私の個人的な感想である。<br>　なにしろ作られたのが太平洋戦争の前年であり、国家総動員法のもと、陸軍省の援助で戦車や弾薬が惜しげもなく使われれば、敵愾心をあおる戦意高揚の国策映画であろうと誰でも思うであろう。<br>事実私もそのような戦争映画だと思っていた。西住戦車長が敵弾にあたり「天皇陛下万歳」といって、にっこり笑って死ぬ場面を想像していた。<br>　しかしインターネットをみていたら「あれは日本版『西部戦線異状なし』だ」という感想が出ていた。<br>　もし主人公が無名の青年で前後のナレーションがなかったら、そういう反戦映画としての評価も出てくるであろう。<br>なにしろ重傷を負ってから死ぬまでがやたらと長く、夜の野戦病院に負傷者が続々と運び込まれ敵弾が破裂する轟音で何と言っている聞こえないなかで死んでいくのである。<br>暗澹たる気持ちになり、とても敵愾心など起こりようもない。<br>非戦映画とまでは言わないが、少なくとも勇敢さを誇示してヒロイズムを煽る戦争映画ではない。<br>私はそこに治安維持法のもとであっても出来る限りの抵抗を試みた文化人の心意気を見る。<br>菊池寛は同名の脚本を書き、それは東京劇場で上演されたが、場面は戦死した兄の事を思う弟の手紙の場面と、死んだ中国人の嬰児を弔う二場面であった。<br>松竹の城戸四郎社長しかり、脚本の野田高梧、監督の吉村公三郎もそれぞれの立場で良<br><br><br>２－９<br>オハイムスメ<br><br>          甲佐町文化協会長<br>　　　　　　　　　　　　中嶋　敬介<br><br>　その日の英語は先ず私が発表する番になっていた。予習は十分にしてきた。<br>自信はあった。　授業が始まった。<br>　「中嶋！訳しなさい。」　<br>　「あるところにオハイムスメという・・・」。<br>　「何だって？オハイムスメ！？」<br>　先生は素っ頓狂な声を上げられた。何かしくじったかな？　わたしはあわてて単語帳を見た。もう一つ訳が書いてある。<br>　「ハイカブリ・・・」。<br>　「エッ、何だって？」<br>　先生は絶句された。沈黙が教室を支配した。ややあって先生は声にならな笑いをされた後、おだやかに言われた。<br>　「すまん、すまん。それはそのままシンデレラでいいんだよ。」<br>　ああ、何たることか。今にして思えば、国民学校の卒業生は戦争が終わって四年経っても、世界中から愛されている美少女を知らなかったのである。<br>　（付言すれば、たばこの巻紙になるのをまぬがれた研究社の「英和中辞典」には「お灰娘」「灰かぶり娘」の訳が出ていた）<br><br>　まだある。活字に飢えていた「少国民」は、戦前に発行された「少年倶楽部」の古本を物置から引っぱり出してはむさぼり読んでいだ。<br>　その中に理解困難な四コマ漫画があった。<br>　都会の少年が広場で遊んでいると、犬が紙袋を盗む。少年が追いかけると、犬は土管に住んでいる目の不自由な老人にそれを渡す。それを見て少年は取り戻すのをあきらめる。紙袋には「アンパン」と書いてあった。<br>　「アンパンってなんだろう。よっぽど美味しいものだろうなあ。」<br>　ああ、何たることか。今にして思えば、戦時中の田舎のこどもは小学五年生にしてアンパンを知らなかったのである。<br><br>　さて、今日では外国と日本、都会と田舎の文化の格差はなくなった。<br>　しかし今、それ以上の格差が世代間に生まれている。<br>　「ケータイを持ってない？　ウソー、信じられなーい」<br>  「テレビ番組の予約ができないの？ウソー、信じられなーい、」<br>  「インターネットで情報検索ができない？　ウソー、信じられなーい」<br><br>コラム　２－１０<br>チョー気持ち悪ィー<br><br>　コンビニで買い物をして千円札を渡す。<br>　「千円からよかったですか。」レジの若者の声。<br>　近頃は妙な日本語をつかうようになったものだと、口から出かかるが、どうせこの茶髪の若造には理解できないだろうと店を出る。<br>　「アリガトゴザイマあース」と、歌うような、人を小馬鹿にしたような声が追いかけてくる。不愉快だ、次回から別の店に行くとするか。<br><br>　ガソリンスタンドに寄る。<br>　ここでもアルバイトの店員が注油口を開けながら「満タンでよかったですか。」<br>「ヨカッタとは何だ。まだ入れもしてないのに過去形で、ものを言うな。〝よろしいですか〟　と言え」と口から出かかるが、まあいいか、気分なおしに飯でも食うか。<br><br>　カワイコちゃんが「昼定でよかったですか。」と応対する。<br>「よかった」とは何事だ。日本中いつからこうなってしまったんだ。<br><br>　帰りに地元の農産物を売っている店に立ち寄る。<br>　ドライブ帰りの若夫婦が「すごいきれい。このキャベツとか、生で食べれる？」店主に尋ねている。<br>　傍らでジーパンの夫は「自分的にはロールキャベツがいいと思うよ」と言う。<br>　ここにきて怒り心頭。　<br>　「〝スゴイキレイ〟　とは何事だ。形容詞を修飾するのに形容詞を使うな。〝スゴクきれい〟　と副詞を使え。キャベツしかないのに並立助詞の”トカ〟　を使うな。<br>　まだあるぞ。受身の助詞の〝ら〟を抜くな。〝食べラレル〟　と言え。<br>　もっとあるぞ。〝家庭的〟　や〝国際的〟とかは聞くが〝自分的〟など聞いたことがないぞ。どうなってるんだ、日本語は。」<br><br>　私も昔は〝頭の切れる男〟と言われていたが、年のせいか今は別の意味でキレ易くなっている。<br>　本当に切れてクモ膜下出血でも起こしたら大変だ。<br>　早く帰って、昨日つくったコノシロ鮨が食ベレルようになっているから、スゴイおいしい焼酎トカ飲む事にするか。<br><br><br>コラム２－１１<br>下校時が危ない <br><br>潜在危険予知能力<br>　「下校時が危ない、この時間帯に通学路を散歩して児童生徒を守ろう」と、本会の「教育の日推進委員会」が決定したのは、昨年の七月十六日である。<br>　この期日に注意してほしい。<br>　あの痛ましい奈良や栃木の事件が起きる四か月も前のことである。<br>　この時期、いま新聞を賑わしているようないろいろな団体の警戒や、ましてや行政やマスコミのキャンペーンは一切なかった。<br>　それでいて、何故このような決定をしたのか。<br>　事物の本質の裏側に潜む危険を予知する能力、いわゆる潜在危険予知能力は、多年にわたる経験積み重ねと専門職としての洞察からくる「このままでは何かが起きる」というカンである。<br>　つまり、上益城退職校長会の会員二百八十名余の研ぎすまされた直感の収束の結果でそうなったとしか言いようがない。<br>　さて、この運動は本会の独自の運動であり、その趣旨の徹底、参加者募集、教育委員会・学校・警察等などへの連絡をなど、二か月半の準備を経て「くまもと教育の日」制定の記念行事の一環として、十月一日より開始された。<br>　なお、関係機関へは、この運動の趣旨と必要に応じてその場で適切な処置をとったり場合によっては関係者に連絡をすることがあるかも知れない旨通知を出した。　　<br><br>　われわれは当初から、この運動の重要性を深く認識していたが、当時世間は無関心であった。<br>  そして、あの忌まわしい事件が起きた。<br><br>徳孤ならず必ず隣あり<br>　善い行いは、さりげなくやっていても、誰かが見ていて見習うものである。<br>　目立つような制帽やジャンパー、腕章、タスキ等つけてはいない。まして、街頭に立って旗を振るのでもない。<br>　ただ、子どもの下校時に合わせて子どもとすれ違い、ある時は寄り添いながら歩き、必要に応じて適切な処置をとったり場合によっては関係者に連絡するだけである。<br>　しかし、この通学路を歩くという単純な行為は「定点」から「面」への広がりを意味していた。<br>　十一月にはいり、ある人はわれられの取り組みに共鳴して個人で「通学路の散歩」を始めた。<br>　また、ある団体は本会にその具体策を問い合わせてきた。<br><br>　七十五名の陰徳善事<br>　本会員の「下校時通学路散歩」は上益城一円から熊本市の一部に広がっている。<br>　関心のある町や学校からは励ましの言葉や、会合に呼ばれて意見を求められる校区もある。<br>　また、抑止力を期待して制帽やジャンパーを寄付いただいた校区もある。<br>　社会のためと思って始めたこの取り組みも、「お陰で散歩が日常化して自分の健康にはねかえってきた」という話も耳にする。<br>　陰徳あれば必ず陽報あり。<br>　人に知れぬようにやっても、よい報いは必ずある。まさに准南子の言葉の通りである。<br>　いま、会員七十五名が次の場所で、さりげなくさわやかに散歩している。<br>
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<pubDate>Wed, 02 Jan 2013 14:41:13 +0900</pubDate>
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<title>中嶋敬介集著作集　Ⅰ　博物</title>
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<![CDATA[ ・　博物誌　１　<br>やまいも <br>五十過ぎたら八味丸<br>　やまいものシーズンである。掘りたてもおいしいが、一冬越すとねばりも甘みも増して美味になる。　<br>　やまいもはジアスターゼなどの消化酵素が多いのみならず、スライスして干し上げた八味丸は、古来より漢方薬として腎虚（西洋医学ではINPOという）の強壮精力剤として用いられている。やまいも掘りを趣味としているＨ氏はこの季節になると、家内から、また今夜もですか、と言われると嘆いてみせる。「山うなぎ」と言われる所以である。<br>　さて、世界にはジャガイモ・サツマイモなどイモ類は多いが、生で食べられるのはヤマイモだけである。<br>　ヤマイモは世界に六〇〇種類ほどあり、そのうち日本で食べられているのは、自然薯（ヤマイモ・山野に自生する）・長イモ（スーパーで市販されている、主に北国で栽培される）・大薯（暖地で栽培されている）の三種類である。<br>　そのうちの長イモはその形によって、ながいも（自然薯に似て長い）・いちょういも（銀杏の葉の形をしている、甲佐では家庭菜園で栽培する）・つくねいも（球状、関西で栽培される）に分けられる。<br>　いずれも「やまいも」と呼ばれているが、以下述べるのは自然薯の事である。<br><br>掘る　　　　　<br>　この章は竜野の森本秀夫さんの話をである。<br>　秋から冬にかけてが、山芋掘りのシーズンである。晩秋になると山芋の細長いハート型の葉がきれいな黄色に染まるので素人でも容易に見付ける事ができる。よく似た葉に「ところ」があるがこれは扁平なので見分けだつく。<br>　冬になると山芋のカズラは一節毎にバラバラになって落ちているので、山芋の所在を見付けるのは容易ではない。<br>　熟練者はこうする。<br>　先ず木の梢にからみついて残っているカズラを探して山芋の大小を見分ける。近くにハゼやウルシの木がないか見定める。穴の中に首を突っ込んだようにして掘るので、かぶれないためである。<br>　そして落ち葉と混在してバラバラになっている一本一本の節を探し出して、山芋のある方向を、あたかもホームズが犯人の足跡をたどるように探す。これに通暁するのは大変な経験が必要だが、例えばカズラの節は末端に行くほど長くなるので、短いカズラがまとまって落ちていたらその近辺に山芋があるということになる。<br>　もう一つは「ヒゲつなぎ」といってヒゲ根をたどる方法がある。山芋は本体の芋とは別にヒゲ根（正しくは吸収根という）が八本程度あり地表を放射線状に走っている。長さ一ｍもあるこのヒゲ根は腐葉土から栄養分を取り本体に溜め込む働きをする。それを二本見つけて延長すれば、交差する所が即ち山芋の所在地である。<br>　一番判りやすいのは、まだ茎が切れていない秋に、目印に麦種を播いて置けばよい。<br>　満山冬枯れの時節に青麦が伸びているのでいやでも目に付く。ただ他人に先を越される心配がある。<br>　山芋を見付けたら、首の所を爪先で削って見る。しばらくそのままにしておくと茶色のアクで白い芋が染まる事がある。これは虫食い芋で食用にならないので次を探す。<br>　先ず五センチ位離れた場所に長径五〇センチ位の縦長楕円形の穴を掘る。穴は斜面だったら下の方、木があったらその反対側を掘る。「山芋掘り」の細長い鍬を使って三〇センチ位掘り下げたら山芋が見えるまで穴を慎重に広げていく。山芋の茶白の肌が見えたら、そこで広げるのはストップして山芋の方向を見定める。天然物に真っ直ぐな芋はない。二叉になっているのもある。山芋は絶対に穴の壁面から離さない。<br>　掘り穴は小さい程良い。穴が倍になれば土量が四倍になるのは小学校五年の算数の問題である。<br>　しかし穴が小さいと作業がしにくくなる。そこで特別な工夫が必要で、掘った土は鍬にペタリとくっつけて上げる。この技術が全体の成果を左右するので、土が着いて上がるように工夫した鍬を鍛冶屋に別注する人もいる。<br>　深くなるにつれて山芋がだんだん大きくなる。そして肌が白くなる。先端から生長するからである。<br>　ただし、去年の芋が再びまた肥大するかというとそうではない。芋の首から別の芋が生長して去年の芋を栄養分として吸い取って大きくなるのである。だから何年もそこに生えていた山芋でも食べる時は首から尻尾まで今年生長した山芋である。これはなかなか理解し難い事であるが、家庭菜園にジャガイモを植えると種芋は肥大せず、新ジャガイモに栄養を取られて干からびた種芋になっているが、あれと同じである。故に六月頃山芋を掘ると新旧二本の山芋を手にする事ができるが、そんな馬鹿はいない。<br>　さて、山芋は五～六年で一ｍ程になる。先端まで穴を掘ったら、いよいよ至福の時を迎える。一服した後、穴の壁面から山芋を剥ぎとる。下の先端から少しずつ慎重に剥がす。そして地面から二〇センチ位の所で折って全体を引き上げ、収穫の歓びを味わいながら折れないように添え木をする。<br>　絶対に折らないというのが山芋掘り人のプライドであり、男の美学である。<br>　これで終わりではない。穴を埋め戻さなくてはならない。最後に、残しておいた首部を植える。五年後を期待しながらその場所を覚えておく。<br>　一本掘ると土質が判るのでその近所を探す。表土が腐葉土で、下が赤土の層がよい。こういう場所は山芋の質が緻密で美味しく、土が鍬に付いてくるので作業がしやすい。甲佐では御船台地・船津台地・竜野などがそうであるが、竜野は猪の害がひどく五〇センチも掘って食べられていて昔日の面影はない。<br>　一本掘るのに小一時間かかる。若い頃は一日に萱で編んだカゴいっぱい掘ってきた事がある。大きなのは一五〇センチもあった。<br>　山芋掘りは孤独な仕事である。前屈みになって「こん畜生」とか「こら太か」と独り言を言いながら掘るのであるが、この姿勢は酔っぱらいが首をうなだれてご託をならべている姿に似ていて、「山芋を掘る」という慣用句はそのような酔っぱらいを指すようになった。<br><br>採る　　　　　<br>　山芋には雌株と雄株がある。受粉して出来た種が「てんぐの鼻」である。<br>　だから「てんぐの鼻」があるのは雌株だけで雄株にはない。<br>　「てんぐの鼻」の中には小さな種子が入っており、これが飛ばされて子孫を増やしていく。<br>　山芋が子孫を増やすには今一つ栄養生殖がある。ムカゴがそれである。栄養生殖（クローンといったが解りやすい）は受粉によらずに繁殖する方法で人為的には挿し木などがある。<br>　カズラは上に向かって伸びるが、カズラが低木にからみつくとそこで行き止まりになる。余った栄養分は葉の付け根に葉腋としてにじみ出て大きくなる。それがムカゴである。したがってムカゴは雌株にも雄株にも着いて、やがて地上に落ちて発芽する。組成は山芋と同一である。<br>　そのムカゴ取りの時節になると気分が高揚してくる。<br>　まず釣竿を二本用意する。野鯉用の太棹がよい。<br>　晩秋の良く晴れた一日、それを積んでドライブに出かける。黄色く色づいた山芋の葉を見つけると、やおら自動車を路肩に止めて一本の竿先に洋傘を開いて括り付ける。一人が洋傘をさしのべ、一人がムカゴをたたき落とす。<br>　一箇所で一合位は獲れるが、異様な風景となる。何事が起きたかと、物見高いドライバーから好奇の眼差しで見られることを覚悟しなければならない。一升も集めると一冬のビールのつまみには事欠かない。<br><br>食する　<br>・なんといっても「とろろ汁」に優るものはない。<br>  おいしく食べる留意点をいくつか。<br>　① 皮をむき、薄い酢水につけてアク抜きをする。<br>　　手がかゆくなる事があるが、これは皮付近に含まれる蓚酸カルシウムのせいで、この　　物質は酸に弱い。後で薄い酢水で洗うとよい。<br>　②カッターやミキサーですり下ろしてもよいが、最後は舌触りと旨味を出すために、す　　り鉢で摺る。表面にアワが出るまで摺る。卵黄を入れてもよい。<br>　③冷たい出し汁を入れる<br>　　麦飯にかけるのは、やまいもの中にデンプン分解酵素ジアスターゼが含まれている（大根より多い）からである。この酵素は熱で破壊されるので必ず冷めた汁をそそぐ。<br><br>・むかご<br>　スナックなどではフライパンで煎ったり、ボイルしたムカゴを出される事があるが、あれは駄目である。<br>　①洗う。<br>　②皿に入れ精製塩（自然塩では駄目）を振りかけてまぜる。<br>　③ラップをかけないで電子レンジでチンする。　<br>  ④水分が蒸発して、ムカゴに着いた塩が白くなったら出来上がり。<br>  そとからの熱でないのでフックラとふくらんだ、いい塩味のつまみが出来上がる。無農薬有機自然物。これに優る健康食品はない。<br><br>・いもがゆ<br>　芥川龍之介の名作「芋粥」でも判る通り、「とろろ汁」普及したのは鎌倉仏教が盛んになってからで、それまでは「いもがゆ」が中心であった。その作り方をを。<br>　①山芋は皮をむいて一センチ角に切る。<br>　②山芋と同量の米と一緒に炊飯する。水は米の十倍から二十倍とする。<br>　③調味料は入れない。山芋の持つかすかな甘みとほのかな香りは薬膳料理の真髄を堪能できる。（平安時代は甘葛を入れた。）<br>                                        　　　　　　　  （「ふるさと72号」1998）<br><br>・　博物誌　２　<br><br>ゆきねり <br>　サルが投げつけた柿<br>　白旗小学校を過ぎて少し行くと、右手に柿の巨木が数本見える。寒風吹きすさぶ季節になっても、この柿だけは実をたわわに着けてその威容を誇っている。霜が落ち始めると、なお一層旨味を増す。「雪練り」といわれる所以である。<br>　実は何を隠そう、あれは不肖中嶋家の柿であります。　清正公さんがこの柿を見上げ「見事な古木である」と感嘆したというのだから樹齢のほども知れようというものである。戦後の甘みに飢えていた時分には友人から随分羨ましがられたが、今はカラスの餌になっている。<br>　このユキネリは美味であるが商品にはならない。甘柿と渋柿が混じり、しかも一旦甘くなった柿も月夜の晩に再びカヤッテ渋くなるという。<br>　柿は完全甘柿・不完全甘柿・不完全渋柿・完全渋柿の四種に分類されるが、ユキネリは甘柿と渋柿が混じる不完全甘柿に属する。<br>　ゴマがなくても甘い「冨有」や「太秋」は完全甘柿、ゴマが多い「元山」「小春」は不完全甘柿である。　<br>　話は違うが「さるかに合戦」で、サルは高い柿の木に登り、甘い柿は食べ、渋いのは投げつけたとある。またユキネリは主幹の頂部の生長が早く高木となる。そうすると「さるかに合戦」の舞台はユキネリであろう。<br>　「富有」などの完全甘柿も幼果の時は渋く、それを投げたとも考えられるが、完全甘柿は「枝変わり」を人為的に選別して改良したのであり、昔話に時代には存在しなかった。。<br><br>ゴマは甘くない<br>　それにしてもユキネリにはどうして甘いのと渋いのと両方実るのであろうか。<br>　先に柿には四種類あると述べるたが、幼果はいずれも渋い。これは当然の事であって、タネの未熟の時から美味であったら子孫を残す事はできない。そこで植物はタネが未熟の間は食べられないように種々なガードをする。<br>　梅のように酸っぱい果実でタネを守ったり、ウルシのように辛かったり、ニガゴリのように苦かったり、バナナのように渋かったりする。<br>　シブは皮なめしに使われるが、われわれが渋味を感じるのは舌が皮なめしの状態になった状態である。だから口を濯いでも渋味は取れない。<br>　渋いのを無理に食べると「渋みのあるいい男」にはならなくて渋滞、即ちクソヅマリになり、苦渋に満ちた顔になる。<br>　さて、柿は渋いままでは子孫を残す事はできない。動物に食べられてタネを運ばれ、そこで子孫を増やさなければならない。そこでユキネリ、つまり不完全甘柿がとった方法は次の通りである。<br>　幼果にはタンニン（渋）を含む細胞と糖（甘み）を含む細胞の二種類があって、柿の実が大きくなるにしたがって、この二つの細胞はどんどん肥大していく。六月から八月にかけて甘味と渋味は極限に達するが、渋味の方が刺激が強くこのままでは食べられない。<br>　そこでタネが成熟すると、タネからエタノール（アルコール）を出す。このエタノールはアセトアルデヒドに変化してタンニンと結びついてゴマとなって固まる。<br>　（二日酔いで頭痛がするのはこのアセトアルデヒドのせいである。また酔っぱらいの息が熟し柿のような臭いがするのも同様である）　<br>　つまり、それまで液体だったタンニンが固体となる。われわれが味を感じるのは舌の味蕾であり、これは液体だけを感じとる。固体になったタンニンは渋味が感じられなくなり甘柿となる。<br>　ゴマはタンニンの固まりで甘くない。<br>　柿の受粉はミツバチなどでおこなわれるが、うまく受粉しないとタネが結実せず、したがってタンニンの凝固が十分でなく渋味が残る。また、一つの花は四個に分かれ二子室あるので八個のタネが出来る。それで受粉しない子室があると、その部分だけが渋い柿が出来る。<br>　また、ユキネリは樹勢が強く、秋になっても果実が肥大することがある。そうするとタネからのエタノールの分泌は既に終わっており、その部分は渋柿となる。<br>　昨年の八月三十日の強烈な台風は、柿の葉っぱをすべて吹き飛ばし、自然の壮大な実験場となった。<br>　小学五年の理科で習う通り「植物の葉は光合成をしてデンプンを貯える」のであるが、葉がなくなった柿の実は、八月三十日で成長が止まってしまい、その影響でユキネリの果実は全部甘柿になった。この時期までにタネはエタノールを出しきってタンニンは凝固しており、それ以後果実は肥大しなかったからである。<br>　つまり、ユキネリに渋柿が多く混じるのは、ユキネリが晩成であることから起きる現象であることの証拠となった。同じ不完全甘柿でも元山や小春に渋柿が少ないのは早生だからであろう。<br><br>タヌキが落果を防ぐ<br>　夏から初冬にかけて、タヌキの糞の中には柿のタネが数多く混じっている。翌春になって、いわば肥やし付のタネは発芽して桃栗三年柿八年の通り結実する。<br>（ついでに言うと、柿八年は実生からの結実であり、甲佐初市の苗木は接ぎ穂なので三年で初成りする。また、サルカニ合戦では「早く芽を出せ柿のタネ、出さぬとハサミでチョンギルぞ」と脅されて柿は芽を出してやがて甘柿が実るが、タネから発芽した柿は「先祖帰り」して渋柿になるのが普通である）<br>　仮に十年目にその実をタヌキが食べて百メートル先にタメグソをすると、甲佐に落ちた柿は二十万年後には北海道で結実している事になる。<br>　このようにして柿は分布を広げていく。もともと柿は温暖の地の植物であり、原種は渋柿であった。甘柿は枝変わりである。それで九州では甘柿と渋柿の割合は半々であるが、東北地方では九割が渋柿である。　<br>　近年路上にタヌキの死骸を多く見かけるようになり、それとともに柿の落果が少なくなった。両者には密接な関係がある。<br>　柿の落果は二度起きる。六月頃落ちるのは受粉不足・なりすぎ・肥料不足・日照不足による「生理的落果」で、このときはヘタごと落ちる。九月から十月にかけてヘタを木につけたまま落果するのは、ヘタ虫の害によるものである。（木枯しの吹く頃、柿の木を見上げて、ヘタが木についていたらヘタ虫の食害を受けている木である。）<br>　ヘタ虫の幼虫は果実とヘタの間にもぐり込み（柿の表皮に黒い斑点があるのでわかる）柿の養分を吸い取って生長する。成虫は樹皮にもぐり込んだり、果実とともに落果して越冬し翌春蛾となり産卵する。<br>　ヘタ虫はこのように樹上と地上を巡回するので、落果した柿を始末さえすれば四～五年で絶滅することができる。<br>　さて、狸はケモノヘンに里と書くように、もともとは人里に住む動物であった。それが例のカチカチ山の一件以来、タヌキ汁にされるのを恐れて奥山に逃げ込んでいたが、近頃その心配もなくなったのかワンサと山から下りてきた。 柿はタヌキの大好物であり、落果した柿には特に目がない。結果としてタヌキはヘタ虫防除に貢献している事になる。<br><br>あおし柿<br>　秋になるとリヤカーに柿をのせて「あおし柿売り」がやってきた。<br>　古くから、渋柿を甘くする方法として湯の中に柿を浸す方法が取られてきた。四十度で十五時間浸けておくと渋が抜ける。四十度は風呂の温度であり、あおし柿特有の臭いは、家族の入浴後柿を入れておくからだという風聞が絶えなかった。この方法の欠点は柿がすぐ軟化して日持ちしない点にあり、今ではやる人はいない。<br>　古語では「さわし柿」という。（醂す（さわす）＝さわやかにする）<br>　近頃は焼酎による渋抜きが一般的である。これはユキネリの脱渋の原理を人工的に起こさせる方法で、外からエタノールを吸収させるのである。ヘタの部分を焼酎に浸しポリエチレン袋に入れて常温で一週間おくと甘柿になるが、軟化しやすい。<br>　もう一つ、炭酸ガスによる方法がある。私はドライアイスを買ってきて、ゴミ出し袋に柿を入れて掃除機で空気を抜き、煉瓦大のドライアイスを新聞紙に包んで放り込んでいた。<br>五日位で渋が抜ける。この炭酸ガスを使う方法は「あおし柿」と同じ原理であり、いずれも酸素から柿を隔離して無呼吸状態にし、柿の体内にアセトアルデヒドを発生させる方法である。<br>　冨有や太秋などの完全甘柿は違った過程を経て甘柿になる。六月頃になるとタンニンを含んだ細胞は肥大しなくなり、糖を含んだ細胞だけが肥大して成果になり、全体として甘味だけを感じる。<br>　渋柿も熟してくると甘くなる。未熟の柿が堅いのは、セルロースが鉄筋、ペクチンがコンクリートの役割をしているのであるが、熟してくるとペクチンが可溶化してタンニンと複合して渋が抜けて熟し柿になると考えられている。<br>　熟し柿は美味であるが少々ドケダッカ。熟女と同じである。<br><br>もじき竿の意外な効用<br>　柿は二年目の側枝になる。これが屋敷や畑のクロに植えてある柿が「ナリ年と裏年」の隔年に結実する原因となる。<br>　柿の枝に実がつくと、それに養分が行き、手前にある芽は伸びないで「陰芽」となる。　翌年になり陰芽は伸びるが花を着けない。その翌年に花を着けて結実する。このようにして、なり年と裏年が起きる。<br>　これを防ぐのは剪定であるがユキネリのような高木では仕様がない。<br>　しかしわれわれは気が付かないうちに剪定をしている。普通、果樹は枝ごともぎ取ることはないが、柿だけは「モジキ竿」で柿のなっている枝の五～十センチ手前から折り取る。これは二～三の陰芽を残した剪定にあたる。また、あたりまえの事であるが、実をつけていない枝をモジク馬鹿はいないので翌年は結実する。かくて隔年結実を防いでいることになる。<br>　<br>月夜の晩には渋くならない<br>　「果物」の一般的な概念は「ジューシー」と「フルーティ」であるが、柿にはこれがなく、今の若者には一瞥もされない。<br>　シブはタネをガードするためにあるから、逆転の発想でいうと、タネがなければ渋くなる必要もない。このようにしてジューシーな「タネなし甘柿」が生まれた。（多くの植物は受粉がないと結実しないが、柿はタネがなくても結実する「単為結果」という現象がある）　<br>　タネなし柿は尻が少しへこんで扁平になる。<br>　近頃店頭に並ぶのはこの手の柿である。都会人は、柿は「冨有」のような形をしていると思いこんでいるようで、「サルカニ合戦」の挿し絵で扁平な柿が描かれているが、あの時代はタネなしの完全甘柿は存在しなかったのであり、絵空事である。<br>　さて、いったん凝固したタンニンは、通常の状態で再び水に溶けることはない。クリの渋皮煮をそのまま水に浸けておいても渋くはならない。コンクリートが再び水に溶けて生コンにならないのと同様である。<br>　もともと柿渋は漁網を強くするのに用いられていた。もし溶けて渋味が出たら、ゲジキにかかった鮎は渋い顔をして上がってくるはずである。<br>　それでも疑われる向きがあったら、来民団扇（くたみうちわ）をスワブッテみられるとよい。あれは渋染めだから。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（「ふるさと74号」２０００）<br>・　博物誌　３　<br>ダラ <br>　下肥の話ではない。ダランメの話である。<br>　左様、山菜の王者「タラノ木」である。どういうわけか、甲佐では濁って「ダラノキ」という。<br>　地元では別名「サンネンウズキ」。こちらの方が学名のような印象を受けるが、「三年疼き」、つまりこのイゲが刺さると三年間疼（うず）きがとれないというのでこの名がある。<br>　名は体をあらわすというが、春まだ浅い頃全身をトゲに覆われた一本立ちの灰色の姿はどう見ても異様である。<br>　何故イゲがあるか。<br>　理由は簡単。木の頂部の芽、つまりタラノ芽があまりにも美味であり、動物から喰われるのを防ぐための自己防御である。 その証拠に幼木が一番トゲが密集しており、高木になるにつれ食べられる心配もなくなり、イゲがまばらになってくる。<br>　何故ダラノキは山にあるか。<br>　甲佐の民話はこうである。<br>　この世の創世記に何をどこに置くか、人間共が神様に伺いをたてた。<br>　裁定するのは天ノ邪鬼である。<br>　「イゲ（野茨）は横に広がって私たちに害を与えますが、ダラノキは一本立で迷惑をかけません。それでダラノキを里に、イゲは山に植えたいと思いますが」<br>　天ノ邪鬼は例のキャラを発揮してご託宣を下した。<br>　「イゲを里に、ダラを山に植えよ」<br>　もっともこの話は、この民話全体の序章に出てくるエピソードの一つで、結びはこうである。<br>　天ノ邪鬼といろいろなやりとりをする中で、天ノ邪鬼には反対の事を言えば良いことを悟った人間共は、最後に尋ねた。<br>「これは」と異様な物体を示して言った。<br> [これは額（ひたい）に付けたほうが良いと思いますが・・・」<br>　天ノ邪鬼は厳かに裁定した。<br>　「それはマタクラに付けておけ」。<br>　<br>　さて、この落葉高木のダラノキは本来陽木であり、日陰を好まない。それで伐採して三年位経った山に行くとダラノキの群生に出合う。<br>　「これはしめた。宝の山を見つけた」と一人ほくそ笑んでいると、数年で消えてしまう。他の樹木との競争に負けて日陰になったからである。<br>　ただ、どういう訳か、ヒノキの美林の間には育つ。杉林では樹勢が衰えて消えてしまう。おそらく乾燥地を好む性質の故かも知れない。<br>　それで山菜採りに行ってダランメを狙うときは二十年生位までのヒノキ林に分け入る。<br><br>ポキンともぎ取る<br>　もう十五年も前の話であるが、毎年春になると阿蘇外輪山の波野高原に友人の数家族でダランメを採りに行くが慣わしになっていた。<br>　期日も決まっており、五月の連休の始まる前の金曜日である。<br>　その頃はまだ今のような「山菜ブーム」はなかった。しかし連休が始まると、熊本市内や遠く福岡あたりから「好き者」がやってきた。彼等には「山菜採り」として一応のマナーがあった。<br>　大きなダラノキは二階の屋根程にもなるが、ダランメはその頂部にチョコンと鎮座ましましている。<br>　その頂部の芽をもぎ取ると、ポロリとかけて手元に残る。<br>　手が届かない高木は鎌などで引き下げてもぎ採る。その際、芽鱗（袴・冬に芽を包んでいて、芽が成長するにつれて開く）も一緒に付いてくる。<br>　このような採取方法は木を痛めず、その下の側芽がすぐ伸びるので、木が枯れるという事もない。<br>　（五月中旬過ぎに行くと、この側芽が採取できるが、頂芽ほど美味しくない）　これは山菜採りの基本的エチケットで、山菜採りの美学である。　<br>　悪い事にダラノキは柔らかい。「ウドの大木」ほどではないがすぐ折れる。鎌でも簡単に切り倒せる。<br>　もっとも、山林業者にとってダラノキは厄介な代物で、容易に切り倒す事ができるのは歓迎される事でもある。<br>　なお、タラノキは「うこぎ科・タラノキ属」に属するが、ウドや朝鮮人参も同属に属する草本である。同属にはトゲの少ないメダラもある。<br>　「タラノキ属」にはサボニンが含まれており、昔から漢方薬として重宝されてきた。タラノキはその皮や葉を日陰に干して煎じて飲めば糖尿病・胃腸病に効くとされていた。　<br>連休前の金曜日　<br>それでは何故金曜日か。<br>　前の日曜日にはまだ伸びてなかった芽が、五日ほど経ってようやく食べ頃になるからである。<br>  国道五七号線を阿蘇外輪山に乗り上げてしばらく行くと、波野駅入口になるが、そこから入る。適当な所で車を四、五回止めると、雀遊小学校あたりでは肥料袋半分程にもなった。<br>　当時は例の「オウム真理教」の問題があって人が近づかない所もあり、太った芽がいくらでもあった。　<br>　その後、山菜ブームが起きた。<br>　特に民宿や田舎の温泉宿では「タラの芽の天ぷら」は山菜料理の目玉としてもてはやされるようになり、山菜採りの様相が一変してしまった。<br><br>似て非なるもの<br>　趣味でなく山菜採りを生業とする人々にとって、一本一本もぎ取って歩く方法では、どんなに山野を駈けめぐっても採取できる数が限られており、とても商売にはならない。<br>　そこで冬に頂部を剪定してきて、ノコクズを入れたトロバコに、挿し芽をして発芽させるようになった。これを「ふかし栽培」という。<br>　この方法が普及して以後、ダランメの宝庫であった波野は、旬の頃に行ってみると鋭利な剪定バサミで頂部が切り取られた無惨な姿だけになってしまった。<br>　今ではもっとひどくなり、木そのものを切り倒して持って帰り、側芽毎に十㎝位に切り分けして挿し芽をしている。<br>　このようにして採取したダランメは全く美味しくない。私も数年間やってみたが天然物のとは別物である。<br>　それは当然の話で、水だけで成長するので味も香りも歯触りも全く違う。強いて言えば小麦粉と米糠ほど違う。<br>　宿屋で出されるのが美味しくないのはこの「ふかし栽培」を使っているためで、あれを通がって食べている都会人は可哀そうである。<br><br>芽は出るが根は出ない<br>　自生しているダラノキが枯渇しているので、畑や山に栽培しようと思うのは人情であろう。<br>　幸い、ふかし栽培の終わった挿し木がある。あんなに勢いよく発芽した挿し木だから根が出ていると思うのは当然で、私も試みたが無駄であった。根は全く出ない。<br>　増やすにはこうする。<br>　ダラノキの根は地中の浅い所（落ち葉と土の間の柔らかい所）を走っているので掘り採るのは容易である。一年に二メートル位も伸びる。（かぼちゃのツルが伸びる姿を想像していただきたい。あれと同じである）<br>　三月頃、若い木の根を掘り採る。鉛筆位の太さの根を十五㎝に切り分ける。一本の成木で三十本位の苗木が採れる。それをあたかもサトウキビを植えるが如く植える。<br>　ただ注意すべきは、先ほど述べた通り、とんでもないスピードで根が走る。<br>　私の畑に植えたダラは、背丈もある崖を一年でかけ登り、隣の畑がダラのジャングルになってしまい、苦情を言われた事がある。<br>　畑に栽培して、その木で「ふかし栽培」する方法が普及してきたが、その作業を困難にしているのはトゲである。<br>　そこで近頃「トゲなしタラノ木」の苗が売られている。これにはトゲの少ない個体を選別して品種改良した「駒みどり」や「新駒」などもある。<br>　しかし私が以前購入した中には、挿し芽で根が出たのもあるから異種もあるであろう。全く美味しくなかった。<br>　<br>王者の味<br>　さてダランメの料理は「みそ和え」「おひたし」「でんがく」といろいろあるが、何といっても「天ぷら」に優るものはない。<br>　他の山菜にない独特の香味、苦み、アク。まさに山菜の王者である。<br>　繰り返して言うが「挿し芽」や「側芽」は駄目。土産店でビニル袋に入れ塩水に漬けて売ってあるのは文字通り駄芽。<br>　是非、テッペンが親指ほどもあるダラノキの頂上に、仏様が台座に鎮座ましましている姿の頂芽、それも天然物の赤芽の今朝採りを、コロモを薄くして揚げた天ぷらで食べて戴きたい。　<br>　そしたら、なぜ一日がけで県境まで行って採ってくるのか、わかろうというものである。<br>　これが田舎暮らしの特典であろう。<br><br>・　博物誌　４　<br>ガネ <br>小話を一つ<br>　矢部から来た客人にガネをもてなして曰く「先ず、ヘコをはずしてから喰ってください。」　客人はおもむろに自分のふんどしをはずし始めたという。<br>　左様、ガネを喰うには先ずヘコを外さねばならない。外すと何が出てくるか、それはガネも人間も同じである。<br>　しかし驚くことに奴には二本もある。いや驚くには当たらないかも知れない、足が八本もあるのだから。当然メスもそれに対応してある。<br>　で、合体するときはそのヘコをだらりと垂らして、つまり上半身の恐ろしく発達したエビを想像していただきたい、八本の足と二本のハサミを絡ませながらナニするのである。　しかもその位置からわかるように、畜生以下の存在でありながら、人間様と同じ正常位である。<br>ガネの一生<br>　交尾は緑川鉄橋より下流の、緑川と有明海の水が混じり合う汽水域で行う。いきなり海水に遭うと死んでしまうので先ず数日間浸透圧調整のため川底にじっとして体質を変えたのちに行う。<br>　受精したメスは有明海まで下り産卵する。　産卵は十万個程度を自分のヘコの下の毛に付着させる。つまり抱卵である。<br>　二ヶ月で孵化し海中に放出された幼生（プランクトン）は、脱皮を繰り返し一ヶ月でガネの姿になる。<br>　なお、親はここで一生を終える。<br>　そして甲羅が一㎝位になると遡上を始める。　以前は、真冬に吉田の堰（築地堰）で、遡上を水流に阻まれた稚ガニが何万匹も壁面いっぱいにへばりついていた。<br>　なにしろ数回、はたき落とすとポリバケツいっぱいになり、それを無法者が佃煮にしていた。<br>　一年目は下流域で主に数回脱皮を繰り返し、甲羅がナツマメ程になる。二年目も脱皮を繰り返し、脱皮事に大きくなりながら遡上する。<br>　この時期は、大水の時糸田堰の壁面を何十匹もの稚ガニが遡上しているのを見ることが出来る。この頃までオスとメスの区別がつかない。三年目も遡上しながら数回脱皮を繰り返しメスはヘコの幅が広くなり始める。<br>　脱皮は場所を選ばないようで、この時傷ついて死ぬガネも多い。<br>　甲佐では脱皮したてのガネを「ヤワラガネ」といって食さないが中華料理では高級食材である。<br>　遡上は矢部の低地辺りが最終地点で、大型のいわゆる「山太郎がね」の棲息する場所となる。　四～五年に数回脱皮してオスはハサミが大きくなり、メスは抱卵のためのヘアがヘコの下からはみ出してきて週刊誌のヌード写真の様になる。ガネミソも充実して二五〇ｇ位になるのもいる。真夏に最後の脱皮をして秋口から降河を始める。<br>　夜行性であり宵から行動するが、少し濁れば昼でも一斉に下る。そのときのありさまは、あたかも秋に谷川を下る落ち葉のようにひらひらと舞いながら下る。<br>　下り始めたら一晩に七瀬を下ると云われている。<br>　先ずメスが降河し、続いてオスが降河する。　それはさながら、夕方になると先ず女が厚化粧をして銀杏通りに出かけて手ぐすねをひいて待ちかまえているところに、ネオン輝く頃になって男どもがいそいそと出かける景色にそっくりである。スナック銀杏のあけみママ、金返せ！<br>　甲佐では十月頃に大型で成熟したガネミソのいっぱいのメスが捕れ、十一月末になると下(くだ)るのは小形でスカスカのオスばかりになる。<br>　十一月になっても下りそこねた小形のメスがたまにおり、落ち穂拾いガネとなる。このガネは極上の五年ものレアである。<br><br>ガネの捕獲　　<br>　三十年程前までは用水路での下りウケと、落水の夜のヨギリのガネ拾いだけであり本川では捕っていなかった。<br>　二五年程前からガネカゴが流行し漁法が一変しガネも激減した。<br>　緑川のガネはボイルした時の色といいその味と香りといい日本一の絶品であるが、このままではいずれ幻のEriocheir japonicus de HAAN（モクズガニ）となるであろう。<br>　ついでにいうと一匹数千円もする上海ガニは全くの同種である。で、誰でも考える事は同じで、日本に持って来て育てて一儲けを試みる者もいるがうまくいかない。逆に日本のをあちらで育てると大きくなる。どうも風土が関係しているらしい。　<br>　養殖はこれを克服すれば可能で、甲佐の地域性を生かしたベンチャー企業として成長するであろう。<br><br>ガネの下り道<br>　ガネカゴの餌はサバなどの青物が一番といわれているが、実は川魚に優るものはない。<br>　私たちが手慣れたうどん屋には食事にいくがイタリア料理店には足が向かないのと同様である。<br>　その中でもカマツカと鮎が良い。極上はドバミミズであるがこの時期はいない。<br>　これを入れると下流十ｍのガネは全部入る。なお、カボチャは蓄養のときに生臭さを消すのには良いが集魚力はない。<br>　秋口になり、発泡スチロールで目印を付けたガネカゴを川幅いっぱいにいくつも設置しているのを見る事があるが、ガネには下り道があり、それを少し離れたら一匹も入らない。<br>　下り道は流速（ｆ）と濁度（ｃ）、個体の大きさ（ｗ）、水深（ｍ）が関係しており、ガネカゴの設置場所（Ｐ）は一般に　<br>　　Ｐ＝２／３√ｆ＋ｃ／㎡―３／４ｗ<br>であらわされる。　<br>　この式は大陸弾道弾（ＩＣＢＭ）を打ち落とす迎撃ミサイル（ＩＢＭ）の数式と酷似している。<br>　私はこの数式をパソコンに入れてその日の設置場所を計算していたが、一夜インターネットを通じて何者かが侵入した形跡があり、これは悪名高きアメリカ中央情報局（ＣＩＡ））が盗みとったに違いないと確信するに至ったのでありまするが、日米親善のため決して言わない事にしているのであります。　<br><br>ガネの正しい食べ方<br>　食事には作法があり、ガネの食い方を知らないのはフランス料理のマナーを知らない以上に恥ずかしい。<br>①　メスを選ぶ事。メスにはガネミソがいっぱい詰まっている。あれは卵巣であってノーミ　ソではない。<br>　メスにノーミソがないのはガネばかりの話ではない。Φδη　λαηδ　ψζ　σλθ　γε（女は子宮で考える）<br>　ただし、甲羅を上にして出してあるが、ひっくり返して見てはいけない。下着を見るのは紳士淑女のやるべきことではない。オスはハサミが大きく毛が密生していて全体に角張っ　ているので見馴れればすぐわかる。<br>②　ヘコを外して捨てる。胴に付いている海綿状のものを取って捨てる。これはエラでここで呼吸するためゴミや泥が着いている。<br>③　甲羅をはずす。甲羅の中のミソを箸か指で取って食べる。　奥に小梅位のクソ袋があるが、これをはずして周りに着いているミソを、梅を食べる要領で舐める。決して噛みつぶさない。終わったら梅の種を捨てるように捨てる。<br>  甲羅は最後の甲羅酒用に取っておく。<br>④　胴を二つに折り、その一方の足を全部持ち、足が一本々々全部バラバラになるまでかぶりつく。<br>⑤  ハサミを食べる。関節を軽く咬んで割り、手で二つに引き裂きハサミの先で中の身をえぐり出す。<br>　毛に汁がついているがそれをねぶるような下品な真似はしない。<br>⑥　足の一本を手に持ち胴の方の関節をかみ切って捨てる。そのまま口に押し込み第二関節の手前を噛み切るとストローのようになるので、それを吸うとスッポと身だけ吸い出され口の中に残る。美味である。<br>以上の手順で、ガネ一匹で焼酎の四合ビンは空になる。<br><br>秘法ガネのつかみ取り<br>　これは一子相伝であったが後継者がいないので公開しておく。<br>　先ずガネ穴を見つける。穴の中の小石を外に出しているのですぐわかる。下流から近づき穴の入口にそっとひさしのように手をかざす。この時水の流れを乱してはいけない。<br>　小魚を口から番線を入れて固定し、それを穴に入れてガネの足をこそぐる。<br>　ガネはハサミで掴もうとして前へ出てくる。入口まで出てくるが、ガネは馬鹿だから手でひさしをしているのを穴の中だと思い、のこのこ出てきた所を手で掴み引きずり出す。<br>　一度餌を挟まれたら最後で、引き合いになり失敗である。（鰻の穴釣りを経験した人はわかる筈である）　<br>　難しいのはガネがどちらを向いているかを手に伝わってくる微かな信号を読みとる技術である。<br>   前向きに入っているのはすぐハサミでつかむから駄目で、横向きの小指をこそぐる。<br>　経験と勘だけの勝負で、修得するのに十年はかかる。<br>  一分間の勝負であり、昔は一時間でテボいっぱい捕れた。<br><br>水は決して入れない<br>　ガネ飯を炊くとき苦労するのは、前処理として足の付け根やエラに付着した泥やゴミをどのようにして除去するかである。<br>　ガネは生で料理してはならない。例え生で食べなくても、まな板などにジストマが付着して病気になることがある。　<br>　昔から「ガネの生煮え食傷のもとだよ」と云われたように十分ボイルする必要があるがあまり強火だとガネミソなど旨味成分が出てしまうので火加減が肝要である。<br>　ガネは湯に入れると手足がバラバラにちぎれる。トカゲのしっぽ切りなどにみられるこの行動は、「自切」といって生存のための逃避行動の一つとされる。 それでガネはバラバラにならないように炊きあげる。ガネだけ鍋に入れて、決して水は入れない。水を入れると旨味が出てしまう。<br>　死んだのを見計らって塩などを振りかけてひと煮する。<br>
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<pubDate>Wed, 02 Jan 2013 14:32:20 +0900</pubDate>
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<title>シシ鍋にしてやる</title>
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<![CDATA[ 一昨年の冬、清村さんから「鹿児島の親戚が送ってきた」とのことで、カライモを頂戴した。「安納いも」という品種だそうで、この焼き芋が滅法うまく、その美味しさは言葉では表現できないが「これがカライモなら今まで食べていたのは何だったのだろう」という程のものであった。<br>これまでも「紅あずま」などを植えていたが、御船台地にある畑が鹿児島のシラス台地の地質と似ている事もあり苗を探した。しかし誰でも思いは同じとみえて苗がなかなか手に入らず、ようやく一束20本購入できた。その苗が成長したら切り取って挿し芽にする方法で増やして全部で２ウネになった。<br>（この文を書くにあたりインターネットで調べたら「育種登録上、鹿児島県の所有となっており、種子島だけに限定許諾された品種。そのため安納紅や種子島ゴール<br>ドのバイオ苗は種子島の農家しか入手できない」とあった）<br><br>からいも畑全滅<br>ところが十月初旬、初収穫を楽しみにカライモ畑にいったら、見るも無惨、乱暴狼藉、修羅場のような畑になってしまっていた。憎らしい事に親指ほどの小さな芋まで皮だけ残して食べ尽くされていた。しばし呆然と立ち尽くしたが、やがて激しし怒りに変わった。イノシシは何度も山から行き来しているらしく、ケモノミチは一目瞭然である。<br>おのれ、今に見ておれ、シシ汁にしてやるぞ、とワイヤーで輪ッパを作り、首が絞まるしかけにしてぶら下げておいた。<br>おまけによせばいいのに、かかったイノシシは殺さなければならないとの事で、剪定バサミのネジを外し、片方を研いで竹筒に挿して槍のようにして待ち構えていた。<br>ところが、それは違法だという。<br>例え自分の畑であろうと許可なくイノシシを獲るのは御法度だという。<br>私は善良な市民として、これまで法律を犯した事は一度もなく、40キロ制限の道路は後続車にどんなに迷惑をかけようと40キロで走り、ドブロクを造って飲んだこともなく、鮎のガックリ漁など考えたこともありません。<br>そこで自己防衛のため、狩猟免許の試験を受ける事にしたのであります。<br><br>免許は四種類<br>以下は狩猟免許受験記である。七十七歳にして初めて知ることも多い。<br>先ず、狩猟免許は四種類ある。アミ、ワナ、猟銃、空気銃である。アミや空気銃でイノシシを獲ることは<br>猟銃は視力が０．８以上なければならないし、山野を駆け巡る年でもない。で、ワナの免許を取得することにした。<br>ちなみに熊本県の免許試験は年に五回あり、私が受けた最終回の試験は12月16に県庁であった。８０名の受験者のうちアミは２名、猟銃は８名位であり、残りはワナ猟であった。ワナ猟のなかには女子が数名入っていた。私が最高齢だと思って「年寄りの冷や水」と気が引けて会場に入って見廻したら私より年寄りが５～６名はいたようで安心した。<br>試験は先ず午前中に１次試験（ペーパーによる知識試験）がある。設問は３０問で７０％正解、つまり２１問合格したものだけが午後の試験を受ける事ができる。<br>各問は三つの選択肢から正解を１つ選ぶもので例えば次のようなものである。<br>問　スズメはどれか<br>　写真が4枚<br>問　キツネについて正しいのはどれか<br>　１　一夫一妻である<br>　２　一夫多妻である<br>　３　一妻多夫である<br><br>合格者だけ二次試験<br>合格者は午後１時に県庁のロビーに番号が張り出されたが、所々に欠番があり何名かの不合格者があったらしい。<br>二次試験は技能試験で、一人ずつ呼び出されて先ず各種のワナが並べられている前でその名称と使用してよいか禁止されているかを答える。<br>ちなみにトラバサミ（踏んだら足をガチャンと挟むワナ）、宙づりにできるククリワナ、カスミ網などは禁止である<br>それから指定されたワナを実際にセットする。微妙な手加減が必要で、しかも順序が違うと外れるようになっていた。<br>それが済んだら、画用紙に描かれた哺乳類を、試験官が１枚ずつ次々と出す。その名前と獲ってよいか悪いかを即座に答える。これには弱った。<br><br>老化現象である<br>事前の熊本県猟友会主催の講習会で、狩猟できるのが８種類、禁止されているのが８種類、計１６種類が予告されていたので練習を重ねたつもりであったが、とっさに名前が出てこない。<br>知人に会って面識はあるが名前が出てこないのと同じである。いくつか間違ったらしく試験官が妙な顔をした。<br>その後、視力と聴力、それに五体の運動能力のテストがあり12月の26日に熊本県知事から合格通知がきた。<br>この狩猟免許は全国どこでも通用する。熊本県公安委員会発行の運転免許が全国どこで通用するのと同じである。自動車の場合はこれで目出度し目出度しであるが、狩猟の場合はこれだけではシシワナが掛けられないという事を初めて知った。<br><br>ワナはかけられない<br>猟をするには新たに「狩猟者登録」をしなければならないという。それには狩猟税八二〇〇円　手数料一二〇〇円　それに万一の場合に備えて損害賠償保険四〇〇〇万円の保険料が必要だという。<br>免許証は3年間有効だが、この狩猟者登録は毎年必要だという。<br>これまでも免許受験料五五〇〇円、精神が正常であるとの医者の診断書三一五〇円、受験のための講習会料一〇〇〇〇円を支払ってきた。<br>ここへ来て改めて、「狩猟」が上流社会の極めて優雅なスポーツに起因していることを思い出した。わが国の殿様の「鷹狩り」、イギリスの貴族の「狐狩り」がそうである。<br>狩りは金銭など眼中にない階級の趣味であった。<br>しかし今やイノシシやシカ、サルの被害は甚大で、その駆除は生活防衛にもなっている。<br>畑を高圧電線の電気柵で囲む方法も考えたが、あれは他人の土地へイノシシを追いやるだけで、やめた。<br>そこで思い出したのは、隣の席で受験していた高森町の若者の話である。<br>「私の町では試験に合格したら受験料は町が負担する」という。<br><br>今年は残る猟期も3月15日までだし、新たに「狩猟者登録」をして当てにもならないシシ鍋を期待するより、一五〇〇〇円の「ブタシャブ」を食べたほうが得策だとも考えている。<br>何しろ猪を改良して人の口にあうようにしたのが豚だから。<br>
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<link>https://ameblo.jp/knakashima/entry-11329004388.html</link>
<pubDate>Wed, 15 Aug 2012 12:59:28 +0900</pubDate>
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