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<title>k.okuharaのブログ</title>
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<description>自分が興味を持つ歴史上の人物を描いてゆく</description>
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<title>壇ノ浦</title>
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<![CDATA[ <p><b>　</b></p><p><b>二位殿は、知盛卿(とももりきょう)の二番目のお子さんに、お衣装をお着せになって、須磨の宮殿でなくなったと聞いていた御剣(三種の神器の一つ)のようなものを、お持たせになって、 海にお入りになった。</b></p><p><b>そのありさまを見たものは、身の置きどころもなく暗澹たる気持 になり、敵も味方もみんな嗚咽をこらえ、念仏を唱えながら、潜って(お二人を) 水上 にお引き上げようと騒ぐ。</b></p><p><b>二位の尼(平時子)とともに海に沈んだのは平知盛の子</b></p><p>&nbsp;</p><p><b>　天皇の身替わりとして、二位の尼(平時子)が選んだのは、知盛の乙(おつ)の子でした。乙の子というのは、二番目の子の意味で、知盛には、知章(とおあき)、知忠(ともだた)、知宗(ともむね)の三人の男児がありました。<br>長男知章は生田(いくた)の森の戦いで、父知盛を助けるために敵に討たれました。</b></p><p><b>&nbsp;息子が首をきられるのを見た知盛は、「目の前で、子が親を助けようとして敵とたたかうのを見ながら、なんという親であろうか、その子を助けないで逃げ帰ってしまった」と激しく泣きます。</b></p><p><b>　源平合戦最後の日、御座船の中を掃き拭い、きれいに掃除して、浮び上がらないようにと鎧二領(よろいにりょう)を身につけ、「見るべきほどの事は見つ」(この世で経験すべき事のすべてを見た)の名台詞を残して、海に飛び込んで果てました。</b></p>
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<pubDate>Sun, 26 Jan 2025 10:53:58 +0900</pubDate>
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<title>木曽義仲　その2</title>
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<![CDATA[ <p>　武士道精神に繋がる価値観を一瞬輝かせていたというところに我々はどうしても木曽義仲は愚かな先見性のない欲得者の敗者と片付けることが出来ない。彼に国を思う純粋な精神を見るのである。</p><p>義仲の最期の三年がこの国の歴史にどのような意味があったのか、彼が後世に何を残したかを知りたいと思い立ち平家物語や、その他の義仲奮戦記を読み漁ってみたり、義仲が二歳から育った木曽の日義村を訪ねたりした。だが源平合戦のこの時期の資料を集めるほどに私は歴史の迷路の中にますます迷い込んでゆく事になる。</p><p>それは二歳から二七歳までの間、彼を育てた木曽に戦略的兵法を教える学問所があり、指導者に必要な仁義礼知親の儒教教育がなされ、勿論義仲の性格もあっただろうが、義仲乳兄弟であった四天王をはじめ信濃の武将が何故かくも積極的に木曽源氏の旗下に集結したのか、それは誰がその流れを作ったのかを知らねば歴史の構造が見えてこないような気がするのである。従ってこの物語は義仲が討ち死にした一一八四年正月より四十年以上遡ったところから始まる。</p><p>木曽義仲を育てた中原兼遠とは何者であろう</p><p>斎藤実盛が中原兼遠の元に駒王丸を運んだのは久寿二年（1155年）の事である。鳥羽天皇が没して勃発した応仁の乱の２年前にあたる。</p><p>&nbsp;</p><p><b>木曽義仲を育てた信&nbsp;濃権守中原兼遠とは　　</b></p><p>兼遠の父は中原廣秀飛騨の守従四位下。中原家は代々、太政官所轄の局務に携わり大少<ruby>外記<rp>(</rp><rt>げき</rt><rp>)</rp></ruby>を世襲する家系で、加えて明経(終身・政治)明法道（唐の律令を学ぶ法律家）博士である。彼は最初の結婚で３人の男児をもうけた。長男は早世したか、名は出てこなかった。次男兼保、三男兼遠である。</p><p>兼遠は廣秀の三男として生まれたが、その誕生にはいくつかの説がある。</p><p>従って残された除目記録から類推してみようと思う。</p><p>最初に大治元年（1126年）中原兼遠の叙位は六位史とある。武蔵国へ目代として下る前に叙位されたか、叔父の季之と共に武蔵に下向している。ここで児玉党の貞近の娘と千鶴御前を娶っている。千鶴御前は巴御前の母である。この時兼頭は１６才でああったという記録がある。大治元年（１１２６年）１６才とすれば天永二年（１１１１年）生まれという事になる。そして叙目は１４才の時となる。世代的には白河上皇の養女で、後に鳥羽天皇に嫁いだ待賢門院璋子と同年となる。</p><p>。平清盛が1118年なので、彼よりも８歳年上位の年齢か。そして彼は義仲が最初に大きな戦いに勝った1181年、没している。享年八一歳となる。</p><p>兄は兼保、信濃權守（従五位下）</p><p>後に信濃へ下って受領となり、信濃小県郡で勢力を持った清和源氏系、滋野一族の宗家である海野家へ養子に入って、海野小太郎幸親と名乗った。</p><p>&nbsp;</p><p>生没年は不詳だが、弟中原兼遠の年齢に近い。</p><p>（他の滋野一族は根津家・望月家）</p><p>長兄は早世したようである。中原家は学者一族であった。</p><p>局務とは朝廷組織の最高機関・太政官に属した職の一つであり、外記を計４年間務めて叙爵されることになる。五位に叙された者は受領に任じられる資格があり、叙爵後一定の待機期間を経た後に受領に任じられた。</p><p>二條藤原敦兼（参議正四位上）の屋敷で育つ。</p><p>祖父藤原敦兼（参議・正四位上・刑部卿）は中原家とは異なり楽人で<ruby>篳篥<rp>(</rp><rt>ひちりき</rt><rp>)</rp></ruby>の名人であった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokuhara/entry-12883274672.html</link>
<pubDate>Tue, 21 Jan 2025 10:54:35 +0900</pubDate>
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<title>小説　木曽義仲　その1</title>
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<![CDATA[ <p><b>源義仲</b></p><p>&nbsp;</p><p>源義仲、幼名駒王丸は２歳の時に父を失い、かつて祖父為義の家臣であった斎藤実盛によって<ruby>木曽<rp>(</rp><rt>きそ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>権守<rp>(</rp><rt>ごんのかみ</rt><rp>)</rp></ruby>・中原<ruby>兼<rp>(</rp><rt>かね</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>遠<rp>(</rp><rt>とお</rt><rp>)</rp></ruby>の下に届けられた。木曽にて兼遠の子女と共に養育され、１３才になって京の石清水八幡宮で元服した。そして<ruby>源<rp>(</rp><rt>みなもとの</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>次郎<rp>(</rp><rt>じろう</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>義<rp>(</rp><rt>よし</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>仲<rp>(</rp><rt>なか</rt><rp>)</rp></ruby>と名乗った。２８歳の時に以仁王の令旨に呼応して平家打倒蜂起し、そしてわずか3年後、滋賀の粟津の戦いで矢を眉間に射ぬかれて討ち死にしている。享年31歳であった。前の年に上洛して翌年の正月の最期であった。木曽義仲が宮中の公家達に知れ始めたのはこの蜂起以降、たったの３年間の事で、それにもかかわらず後世の歴史に残る快挙を成し遂げ、武士の世の中を創る先鞭を切ったが、後白河上皇院宣による源頼朝に謀反人として討ち取れた。討った頼朝と討ち死にした義仲２人の関係はいとこ同士であった。</p><p>権謀術数渦巻いて誠が通じない洛中で治天の君後白河上皇の命に従い人事を尽くし、そして追い詰められて死んでいった三一才の木曽義仲ではあったが、なぜか平安末期と武士社会の画期に必要不可欠の存在であった。</p><p>武士道精神に繋がる価値観を一瞬輝かせていたというところに我々はどうしても木曽義仲は愚かな先見性のない欲得者の敗者と片付けることが出来ない。彼に国を思う純粋な精神を見るのである。</p><p>義仲の最期の三年がこの国の歴史にどのような意味があったのか、彼が後世に何を残したかを知りたいと思い立ち平家物語や、その他の義仲奮戦記を読み漁ってみたり、義仲が二歳から育った木曽の日義村を訪ねたりした。だが源平合戦のこの時期の資料を集めるほどに私は歴史の迷路の中にますます迷い込んでゆく事になる。</p><p>それは二歳から二七歳までの間、彼を育てた木曽に戦略的兵法を教える学問所があり、指導者に必要な仁義礼知親の儒教教育がなされ、勿論義仲の性格もあっただろうが、義仲乳兄弟であった四天王をはじめ信濃の武将が何故かくも積極的に木曽源氏の旗下に集結したのか、それは誰がその流れを作ったのかを知らねば歴史の構造が見えてこないような気がするのである。従ってこの物語は義仲が討ち死にした一一八四年正月より四十年以上遡ったところから始まる。</p><p>木曽義仲を育てた中原兼遠とは何者であろう</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokuhara/entry-12883143061.html</link>
<pubDate>Mon, 20 Jan 2025 10:07:46 +0900</pubDate>
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<title>馬上の巴御前</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250120/08/kokuhara/b4/c2/j/o0800095115535097708.jpg"><img alt="菊池(有)さい" contenteditable="inherit" height="737" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250120/08/kokuhara/b4/c2/j/o0800095115535097708.jpg" width="620"></a></p><p>菊池容斎画</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Sun, 19 Jan 2025 16:48:15 +0900</pubDate>
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<title>木曽義仲の遺志</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250119/16/kokuhara/04/4d/j/o1650113515534848762.jpg"><img alt="白河上皇から安徳天皇が滅びるまで" contenteditable="inherit" height="426" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250119/16/kokuhara/04/4d/j/o1650113515534848762.jpg" width="620"></a></p>
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<pubDate>Sun, 19 Jan 2025 16:34:44 +0900</pubDate>
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<title>15.　妙伝寺如意輪観音と観松院弥勒菩薩像の共通点</title>
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<![CDATA[ <p>　<b style="font-weight:bold;">15.妙伝寺如意輪観音と観松院弥勒菩薩像の共通点</b></p><p>&nbsp;</p><p align="left"><!--[if gte vml 1]><v:shapetype id="_x0000_t75" coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" filled="f" stroked="f"> <v:stroke joinstyle="miter"/> <v:formulas>  <v:f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"/>  <v:f eqn="sum @0 1 0"/>  <v:f eqn="sum 0 0 @1"/>  <v:f eqn="prod @2 1 2"/>  <v:f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"/>  <v:f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"/>  <v:f eqn="sum @0 0 1"/>  <v:f eqn="prod @6 1 2"/>  <v:f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"/>  <v:f eqn="sum @8 21600 0"/>  <v:f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"/>  <v:f eqn="sum @10 21600 0"/> </v:formulas> <v:path o:extrusionok="f" gradientshapeok="t" o:connecttype="rect"/> <o:lock v:ext="edit" aspectratio="t"/></v:shapetype><v:shape id="図_x0020_2" o:spid="_x0000_s1029" type="#_x0000_t75" alt="自動代替テキストはありません。" style='position:absolute;left:0;text-align:left; margin-left:322.2pt;margin-top:1.65pt;width:126pt;height:225pt;z-index:251658240; visibility:visible;mso-wrap-style:square;mso-width-percent:0; mso-height-percent:0;mso-wrap-distance-left:9pt;mso-wrap-distance-top:0; mso-wrap-distance-right:9pt;mso-wrap-distance-bottom:0; mso-position-horizontal:absolute;mso-position-horizontal-relative:text; mso-position-vertical:absolute;mso-position-vertical-relative:text; mso-width-percent:0;mso-height-percent:0;mso-width-relative:page; mso-height-relative:page'> <v:imagedata src="file:///C:/Users/奥原國~1/AppData/Local/Temp/msohtmlclip1/01/clip_image001.jpg"  o:title="自動代替テキストはありません。"/> <w:wrap type="square"/></v:shape><![endif]--><img align="left" alt="自動代替テキストはありません。" contenteditable="inherit" height="NaN" hspace="12" src="file:///C:/Users/奥原國~1/AppData/Local/Temp/msohtmlclip1/01/clip_image001.jpg" v:shapes="図_x0020_2" width="1">このほど、京都にある、日蓮ゆかりの寺「妙伝寺」に伝わる半跏思惟像が７世紀の百済で製作されたモノであろうと、阪大の藤岡教授の金属組成比率によって推定された。<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/e0/a7/j/o0350064015534442445.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="402" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/e0/a7/j/o0350064015534442445.jpg" width="220"></a><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/88/06/j/o0498064015534442215.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="283" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/88/06/j/o0498064015534442215.jpg" width="220"></a><br>観松院弥勒菩薩の宝冠にあるターバン冠飾と同等の文様が施されているのが分かる。ターバン冠飾はもともと釈迦が出家するときに脱いだターバンを象徴するもので、ガンダーラではこれを拝していた事もあった。弥勒菩薩はもともとは若き釈迦を模ったものであった。そういう意味ではガンダーラの面影を残しているこの京都の妙伝寺の弥勒菩薩もそれなりの古さを持っている。<br>しかし、伝来は７世紀の蘇我氏の時代ではなく、大化の改新以降の斉明、天智天皇の頃になるだろうと推定される。火災に逢うことなく美しい像である。</p><p style="text-align: right;"><!--[if gte vml 1]><v:shape id="図_x0020_1" o:spid="_x0000_i1029" type="#_x0000_t75" alt="自動代替テキストはありません。" style='width:473.25pt;height:267pt;visibility:visible;mso-wrap-style:square'> <v:imagedata src="file:///C:/Users/奥原國~1/AppData/Local/Temp/msohtmlclip1/01/clip_image002.jpg"  o:title="自動代替テキストはありません。"/></v:shape><![endif]--><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/9f/80/j/o1355102315534442166.jpg"><img alt="" height="317" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/9f/80/j/o1355102315534442166.jpg" width="420"></a><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/62/6a/j/o0225030815534443066.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="301" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/62/6a/j/o0225030815534443066.jpg" width="220"></a></p><p>後頭部には後背を取り付ける突起が出ている。これも様式としては観松院弥勒菩薩、妙伝寺弥勒菩薩とも共通である。</p><p>&nbsp;</p><p>妙伝寺の半跏思惟像の出所の探求はこれからの課題なのだろうが、観松院の弥勒菩薩半跏思惟像の作者とのモチーフの共通性をこの像２体を見比べると感じることができる。観松院の弥勒菩薩の失われた右手の形状のヒントはこの妙伝寺の半跏思惟像にほぼ同一形状であったのではあるまいか。完成度の高さはもちろん妙伝寺の菩薩像だが、同一の作者のものなのかもしれない。造仏師としての力量は同一とみてよい。</p><p><!--[if gte vml 1]><v:shape id="図_x0020_5" o:spid="_x0000_i1027" type="#_x0000_t75" alt="自動代替テキストはありません。" style='width:425.25pt;height:210pt;visibility:visible;mso-wrap-style:square'> <v:imagedata src="file:///C:/Users/奥原國~1/AppData/Local/Temp/msohtmlclip1/01/clip_image006.jpg"  o:title="自動代替テキストはありません。"/></v:shape><![endif]--><img alt="自動代替テキストはありません。" border="0" height="280" src="file:///C:/Users/奥原國~1/AppData/Local/Temp/msohtmlclip1/01/clip_image007.jpg" v:shapes="図_x0020_5" width="567"></p><p>宝冠の象徴的なモチーフの共通性：宝珠やターバン冠飾（法輪）、そして唐草模様</p><p><br>火中の災害に逢っていないという事は、蘇我氏系の所有ではなかった事を暗示する。京都から発見されたという事は秦の川勝由来のものであった可能性がありはしないか。早晩妙伝寺の半跏思惟像は国宝となるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;">なんとなく見え始めた八瀬近衛地区と百済半跏思惟像との関わりと安曇野との関わり<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/63/61/j/o0140015515534442937.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="155" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/63/61/j/o0140015515534442937.jpg" width="140"></a>　　　　　　　　　　り。</p><p><!--[if gte vml 1]><v:shape id="図_x0020_6" o:spid="_x0000_s1028" type="#_x0000_t75" alt="画像に含まれている可能性があるもの:テキスト" style='position:absolute;left:0;text-align:left;margin-left:88.95pt; margin-top:25.65pt;width:336pt;height:252pt;z-index:251659264;visibility:visible; mso-wrap-style:square;mso-width-percent:0;mso-height-percent:0; mso-wrap-distance-left:9pt;mso-wrap-distance-top:0;mso-wrap-distance-right:9pt; mso-wrap-distance-bottom:0;mso-position-horizontal:absolute; mso-position-horizontal-relative:text;mso-position-vertical:absolute; mso-position-vertical-relative:text;mso-width-percent:0;mso-height-percent:0; mso-width-relative:page;mso-height-relative:page'> <v:imagedata src="file:///C:/Users/奥原國~1/AppData/Local/Temp/msohtmlclip1/01/clip_image008.jpg"  o:title="テキスト"/> <w:wrap type="square"/></v:shape><![endif]-->忘れ去られたこの念持仏は何故か不遇に追いやられた天智天皇の七人目の皇子早良親王（さわらしんのう）の持ち物では無かったか。その子、光仁天皇は他戸親王（母井上内親王）と桓武天皇（高野新笠夫人百済帰化人）と早良親王がいた。しかし、</p><p><b>（天智天皇の血を引き継ぐ孫である光仁天皇は弥勒菩薩自念仏を持</b><b>っていた可能性がある）</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p><!--[if gte vml 1]><v:shape id="図_x0020_7" o:spid="_x0000_s1027" type="#_x0000_t75" alt="自動代替テキストはありません。" style='position:absolute;left:0;text-align:left;margin-left:-4.8pt; margin-top:.9pt;width:168.75pt;height:252.75pt;z-index:251660288;visibility:visible; mso-wrap-style:square;mso-width-percent:0;mso-height-percent:0; mso-wrap-distance-left:9pt;mso-wrap-distance-top:0;mso-wrap-distance-right:9pt; mso-wrap-distance-bottom:0;mso-position-horizontal:absolute; mso-position-horizontal-relative:text;mso-position-vertical:absolute; mso-position-vertical-relative:text;mso-width-percent:0;mso-height-percent:0; mso-width-relative:page;mso-height-relative:page'> <v:imagedata src="file:///C:/Users/奥原國~1/AppData/Local/Temp/msohtmlclip1/01/clip_image009.jpg"  o:title="自動代替テキストはありません。"/> <w:wrap type="square"/></v:shape><![endif]-->次期天皇を桓武天皇にするために、他戸親王とその母井上親王を毒殺し、実の弟の早良親王を流罪とした。早良親王は、一時乙訓寺に幽閉されていた。此の面倒を見たのが八瀬童子達であっただろうと察する。早良親王は自らの死を覚悟し、父光仁天皇（あるいは高野新笠）から下賜された半跏像を八瀬童子に預けて淡路へ流されたのだろう。<br>　八瀬という地は京都の北東から北へ伸びる通称鯖街道（R367）と呼ばれる高野川が造る細い谷で、日本海の若狭へ通じる道である。京都を追われた者たちが日本海へ逃れるために通過する谷合の道に、かつては暴れ川だったのだろう、高野川は蛇行をし、いくつもの瀬を形成した。そのうちの一つの瀬が比叡山への登り口にあ当たる八瀬天満宮のあるこの地である。ここは京都の鬼門に当たり、平安時代の歴代の天皇はここの住人である八瀬童子を保護してきた。八瀬童子は天皇の棺を担いだり、御幸の輿を担いだりする仕事をもって天皇に仕えた。壬申の乱の折には、八瀬童子たちは背に矢を受けた大海の皇子の傷を竈風呂で癒したという。</p><p>崇導神社は小野妹子の墓跡に造られた。此の辺りは高野という地名だ。この前を走る国道３６７号線（鯖街道）を北上すると八瀬を通り大原を通過し日本海の若狭へ出る。</p><p>早良皇子（さわらのみこ）</p><p>　壬申の乱以降天武天皇の子供や孫が天皇を継承してきた為、大仏殿創建した聖武天皇の子、称徳天皇（重祚）迄、誰も天智天皇の血統が天皇になるとは思わなかった。ところが天智天皇の孫であった白壁王は斎王を辞した聖武天皇の姫（井上内親王）を娶ったことで俄かに注目されるようになった。其の上、高齢な井上内親王が他戸親王を生んだことで、天武の血を引く唯一人の天皇継承者の親になった。他戸王が天皇になる資格を得て、父親である白壁王は光仁天皇として７７０年１０月即位することになった。此の時２０歳になっていた早良内親王は、もともと皇族の母ではなく、百済王の末裔である和氏（やまと）の娘の高野新笠を母としていたため、まったく天皇後継者とは見られなかったが親王禅師と呼ばれ、大安寺の別当として僧籍にあった。</p><p>　「高野」で思い出されるのは武寧王の木棺が高野槙（こうやまき）という大和にしかない種の木材であったことである。武寧王（462年 - 523年）は筑紫の加唐島（かから）生まれたため斯摩（しま）王と呼ばれていた。武寧王は成人するまで日本で育ったのである。そして百済に戻るのだが、日本に淳陀太子という子を残している。仏教を朝貢した聖明王と淳陀（じゅんだ）太子とは腹違いの兄弟である。</p><p>　７７０年称徳天皇が崩御すると光仁天皇の即位、皇后は当然聖武天皇の子である井上内親王がなった。７７1年一子他戸親王が立太子します。しかしその翌年には夫・光仁天皇を呪詛したとされ、皇后を廃され、同時に他戸王も廃太子され、大和国宇智郡に幽閉され、２年後に２人とも殺害される。（同時に死んでいるので毒殺だろう）</p><p><!--[if gte vml 1]><v:shape id="図_x0020_10" o:spid="_x0000_s1026" type="#_x0000_t75" alt="自動代替テキストはありません。" style='position:absolute; margin-left:-11.55pt;margin-top:21.15pt;width:251.25pt;height:232.1pt; z-index:251661312;visibility:visible;mso-wrap-style:square; mso-width-percent:0;mso-height-percent:0;mso-wrap-distance-left:9pt; mso-wrap-distance-top:0;mso-wrap-distance-right:9pt; mso-wrap-distance-bottom:0;mso-position-horizontal:absolute; mso-position-horizontal-relative:text;mso-position-vertical:absolute; mso-position-vertical-relative:text;mso-width-percent:0;mso-height-percent:0; mso-width-relative:page;mso-height-relative:page'> <v:imagedata src="file:///C:/Users/奥原國~1/AppData/Local/Temp/msohtmlclip1/01/clip_image012.jpg"  o:title="自動代替テキストはありません。"/> <w:wrap type="square"/></v:shape><![endif]--><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/73/90/j/o0448033615534443030.jpg"><img alt="" height="315" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/73/90/j/o0448033615534443030.jpg" width="420"></a></p><p>　その後、やはり天変地異がおこり、光仁天皇も山部親王も大病を患うなど、井上内親王を裏切り、殺した罪悪感と祟りにさいなまれているのである。ついに光仁天皇の長女能登内親王が亡くなり、すっかり気を落として天皇を退位することになった。（７８１年）<br>　そしていよいよ百済王の血を引く和氏（やまとし）の娘、高野新笠と光仁天皇の間の一子、山部親王は桓武天皇として即位する。同時に親王禅師と呼ばれた同母弟早良親王は還俗し立太子された。</p><p align="left">　比叡山西麓に住んでいた八瀬童子達は天皇家の御輿を担ぐとか、下の世話をすることや、また亡骸を運び埋葬するなどの仕事を生業としていた。身分にそぐわない此の銅像が八瀬にあり、そして彼らは辻堂を建てこの如意輪観音像を篤く護持してきたのは、その歴史的な悲劇を知っていたか、命令によって実際に手をくだしていたからであろう。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　観松院弥勒菩薩研究会　奥原國乘</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokuhara/entry-12882933226.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Jan 2025 15:44:07 +0900</pubDate>
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<title>14.　天武天皇出生の秘密</title>
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<![CDATA[ <p><b>14.</b><b>　</b><b>天武天皇出生の秘密</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p>宝の皇女（皇極天皇）は舒明天皇の皇后になる前に既に高向王と結婚し漢皇子をもうけていました。</p><p>蘇我蝦夷はこれを別れさせて、敏達天皇の孫・田村の皇子（舒明天皇）と結婚させたのです。</p><p>蘇我氏は飛鳥から北に離れて斑鳩で財を成している山背大兄皇子を疎ましく思っていた節があります。</p><p>舒明天皇が没して次期天皇を決める時、中継ぎで皇極天皇が践祚していたのですが、入鹿は舒明天皇の嫡子である古人大兄の皇子を即位させるのに反入鹿を唱える山背皇子は粛清しなければならないと考えたのでした。</p><p>ところが結果として入鹿は中大兄皇子に誅殺され、皇極天皇の弟の軽皇子（孝徳）を中大兄皇子の傀儡ととして即位させています。</p><p>中大兄皇子には実の弟・大海人皇子がいた事になっております（日本書紀）、ですが彼は実弟に自分の娘を４人も献上しています。</p><p>父母共に中大兄皇子と共通の血を持つ弟に此処迄遠慮する兄は見た事がありません。大海人皇子とされている王子は皇極天皇と高向王との間に出来た王子だったのです。</p><p>従いまして日本書紀は大海人皇子を中大兄皇子の弟としていますが、実は３歳年上の漢皇子が天武天皇になったと考えた方が自然なのです。</p><p>仁科濫觴記に出てくる「皇極の太子」とは宝皇女の連れ子の漢皇子の事で、母親が天皇である為に、漢王と呼ばれていたのが「皇極の太子（天皇の子）」と変化して呼ばれた可能性があります。中大兄皇子と漢皇子は父が異なる兄弟となるので弟の中大兄皇子が娘を献上し、漢皇子の弟でありながら次期天皇になる資格を持つ皇太子として称制を続ける事が出来たと言えます。</p><p>漢皇子（皇極の太子）と大海人皇子は二つの顔を持っていた同一人と考えるのが妥当でしょう。</p><p>聖徳太子の甥であり、聖徳太子が薨じた６２２年に産まれているため、聖徳太子の生まれ変わりだと自認していてもさもありなんと言えます。</p><p>彼の父、高向王は用明天皇と敏達天皇の娘との間にできた王なので、聖徳太子にとっては母違いの弟になる訳です。ですからその子である漢皇子から見ると聖徳太子は伯父に当たる訳です。</p><p>系図の中で舒明天皇は田村の皇子と呼ばれていたことを記憶して置いてください。その子が中大兄皇子、間人皇女、大海皇子と日本書紀は書いてあります。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokuhara/entry-12882930360.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Jan 2025 15:16:25 +0900</pubDate>
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<title>13.淡海の三船</title>
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<![CDATA[ <p><b>&nbsp;</b></p><p>天智天皇と天武天皇という漢風諡号を付けたのは<ruby>淡<rp>(</rp><rt>おう</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>海<rp>(</rp><rt>み</rt><rp>)</rp></ruby>三船というとても聡明な貴族でした。</p><p>歴史に通じ、書を書くことを好んだと言います。</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/e0/dd/j/o0815118915534451785.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="321" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/15/kokuhara/e0/dd/j/o0815118915534451785.jpg" width="220"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/16/kokuhara/7a/9a/j/o0326046515534451861.jpg"><img alt="" height="465" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/16/kokuhara/7a/9a/j/o0326046515534451861.jpg" width="326"></a><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/16/kokuhara/17/93/j/o0690068815534451889.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="219" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250118/16/kokuhara/17/93/j/o0690068815534451889.jpg" width="220"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>彼は皇族で、天智天皇の玄孫（やしゃご）に当たるのですが、どういう訳か、殷の最期の王・紂王（ちゅうおう）が焼身自殺をした時に身に着けていた天智玉の名を中大兄皇子が天皇となった時の漢風諡号に当てました。</p><p>&nbsp;</p><p>　そして壬申の乱に勝利した大海人皇子を天武天皇と名付けたのです。殷を滅ぼした周の武王の名です。</p><p>&nbsp;</p><p>これは紀元前１１００年頃の歴史ですが、安曇族の祖先である呉の漁労を生業とする人々とも関わりがあります。</p><p>　この周の武王の伯父が本来、周を継ぐ資格があるのですが3男の季歴の息子（後の武王）に様々な瑞祥があったので</p><p>長男太伯と次男櫓仲は３男・季歴に周の継承権を譲って揚子江河口域の蘇州に下り呉を起こしたと言われています。呉が越に滅ぼされた時、彼等は捲土重来を念じて一旦九州に辿り着き奴国を建設しております。安曇族を束ねる<ruby>姫<rp>(</rp><rt>き</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>氏<rp>(</rp><rt>し</rt><rp>)</rp></ruby>の国でありました。そして初代天皇である神武天皇を産む玉依姫が奴国から天尊族に嫁いだ媛となります。神武天皇の長子が神谷井耳命でその末裔が信濃国造となった<ruby>建<rp>(</rp><rt>たけ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>五百<rp>(</rp><rt>いお</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>建<rp>(</rp><rt>たけの</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>命<rp>(</rp><rt>みこと</rt><rp>)</rp></ruby>です。これが海人族である多氏のルーツとなります。信濃は海人族が入植しやすい土地であったことは確かなようです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokuhara/entry-12882928720.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Jan 2025 14:59:52 +0900</pubDate>
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<title>12.宝祚谷殿の動き</title>
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<![CDATA[ <p><b>12.</b><b>宝祚谷殿の動き</b></p><p><b>&nbsp;</b></p><p>　仁科濫觴記から転記いたしますと、皇極の太子が仁科の里から都へお帰りになった３年後、５５６年　其の後、岡本の宮で即位した斉明天皇の二年となり、皇極の太子は密かに高根伊勢をお召しになられて、三歳におなりになる太子に乳母を添え、守役には田村の守宮という者をお付けになって、伊勢の国の守りとしての役をお与えになって二人を補佐の臣下として定め、諸事を命じ、御いとまを頂いてすぐに太子のお供をして仁品の館の御所へ御成り奉りましたこの太子を宝祚谷殿とお呼び申し上げておりました。</p><p>　６６０年、斉明天皇六年に宝祚谷殿御年七歳に御なりになりましたので、民や、臣下をお供に連れて都にお上りになりまして、「高明天王」という王号を頂いたのであります。</p><p>　其の後都に留まっていたのですが、斉明天皇は九州遠征中に崩御し、中大兄皇子は白村江の戦いに敗れ、そして実妹の間人皇后が崩じ、母子合葬の為牽牛子塚古墳が造営されました。この合葬は６５７年の春に挙行されてその年に大津遷都が行われたのでした。まるでこの催事を区切りとするかのようにして中大兄皇子は天皇即位の為大津に弥勒寺を建設し始めたのです。近江遷都後６６８年、１月３日即位する前に、光明天王は仁科王として下向することになりました。</p><p>　高明王は和泉の守として仁科の城主になりまして着任する時に、<b>太子</b>の命令には「仁品王城は日本王城（にほんおうじょう）と同訓に通ずるので、これを機に仁科の城と改めるように、又熱躬（あつみ）の字を除くために郡名を安曇郡、熱躬川は梓川と書き換える事。（王町は大町と改めるべしと」仰ったと御所の旧事に書かれております。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>仁科濫觴記はさらに高明王の行動を追いかけています。彼は天智天皇が崩じて間もなく勃発した壬申の乱に勝利した天武天皇に謁見（６７３年）し　</p><p>「<ruby>子孫<rp>(</rp><rt>しそん</rt><rp>)</rp></ruby>お役継続の永代宣旨」を受けると記されています。</p><p>この時、天武天皇の血族だけで行う皇親政治が始まった時で、大海人皇子の血を受け継いだものだけが<ruby>政<rp>(</rp><rt>まつりごと</rt><rp>)</rp></ruby>を進める<ruby>皇<rp>(</rp><rt>こう</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>親<rp>(</rp><rt>しん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>政治<rp>(</rp><rt>せいじ</rt><rp>)</rp></ruby>が始まった事を告げられたのでした。</p><p>従って、純粋に天智の血を引き継いだ高明王にはこれに参加できないことが決定づけられたわけです。</p><p>続けて、光明王は御学問をする事をお好みになり、都より道基という博学多才の法師をお迎えになって、一宇の楼閣（霊松寺か）を建てさせ、仏法書物および諸尊を安置なさいました。</p><p>　その諸尊の左の方に聖徳太子の画像を御掛け奉り、道基を座主となさいました。</p><p>というように唐突に聖徳太子信仰が始まっています。天智天皇の皇胤であるという証の弥勒菩薩の役割がその時に終わりました。</p><p>&nbsp;</p><p>　しかし皇極の太子が並々ならぬ安曇野への関心は、後に天武天皇の信濃都市構想ともつながるものがあります。病身の天武天皇はそれでも６８５年束間（浅間温泉）に行宮を建設しています。</p><p>&nbsp;</p><p>　天武の勅に「683年（天武天皇12年）に「凡そ都城宮室は一処にあらず、必ず両参を造らん。故に先ず難波を都とせんと欲す。」というのがあって、彼の病気で頓挫しましたが、美濃までは支配できていた為その先の信濃へ東国支配の拠点として副都心を置く必要を感じていたようです。</p><p>信濃の副都市選定の調査に入ったのは６８４年三野王と采女竹羅でありました。このような信濃への執着は皇極の太子が多氏に育てられた事が遠因かと思われます。多氏とは海人族です。その祖先は神谷井耳の命、神武天皇の長子から始まっています。信濃に最初に国造として入った王は多氏の<ruby>建<rp>(</rp><rt>たけ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>五百<rp>(</rp><rt>いお</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>建<rp>(</rp><rt>たつの</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>命<rp>(</rp><rt>みこと</rt><rp>)</rp></ruby>でした。千曲の森将軍塚がその墳墓だと言われていますが、この墳墓の置かれている山は有明山です。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokuhara/entry-12882815836.html</link>
<pubDate>Fri, 17 Jan 2025 16:38:22 +0900</pubDate>
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<title>11.野中寺金銅弥勒菩薩</title>
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<![CDATA[ <p><b>11.</b><b>他の金銅仏</b></p><p>&nbsp;</p><p>　神野寺の弥勒像は恐らく鞍作の止利が製作したものでしょう、観松院弥勒像と同様の宝冠ですが、模刻である事はデザインの曖昧さから推測できます。観松院弥勒像と同様に火中被災しております。行基が開基した寺、神野寺に残されました。</p><p>もう一体は　船氏の氏寺「野中寺」に残された弥勒菩薩羽曳野市に野中寺という船氏の氏寺があります。</p><p>船氏と言えば蘇我馬子に重用された船恵尺、その子道昭がその宗家の中心です。</p><p>　野中寺の金銅弥勒菩薩半跏像ですが製作年を６６６年と台座のかまちに彫ってありました。<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250117/15/kokuhara/0a/dd/j/o1320234315534111567.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="391" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250117/15/kokuhara/0a/dd/j/o1320234315534111567.jpg" width="220"></a><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250117/15/kokuhara/db/c8/j/o0655020915534111112.jpg"><img alt="" height="134" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250117/15/kokuhara/db/c8/j/o0655020915534111112.jpg" width="420"></a></p><p>　この像を取り上げたのは宝冠の類似性ではなく、製作年が記載された飛鳥時代唯一の弥勒像であるという事で取り上げました。</p><p>船氏とはあの６４５年乙巳の変で蘇我入鹿が殺されたのを甘樫丘からみて、自邸に火を放って自死した蘇我蝦夷の屋敷から史書を救いだして中大兄皇子に献上した船の恵坂の一族です。文字帳簿の書ける渡来人でした。</p><p>　この野中寺の弥勒菩薩のカマチに書かれた６６６年の頃の中宮とは誰かと問えば、孝徳天皇の皇后で間人皇女をさします。中大兄皇子の実の妹であり、建王、仁科の宝祚谷殿の母ではないかと思われます。</p><p>『丙(ひのえ)寅(とら)年、西暦６６６年の四月に記す。中宮天皇が病気になられたとき『栢寺』の信徒１１８人が心ひとつにして病気回復を請願し、たてまつった弥勒様の像です』と弥勒像の台座に書かれています。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokuhara/entry-12882806720.html</link>
<pubDate>Fri, 17 Jan 2025 15:15:53 +0900</pubDate>
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