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<title>国際新聞blog</title>
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<description>社団法人　日本地方新聞協会　加盟</description>
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<title>【連載】　第265号</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#0000ff" size="3"><strong>【第三大隊第十一中隊の危機】</strong></font> </p><br><p>　前述した今村支隊の敵情判断が的はずれであったことは、今後の推移で明らかとなるが、十三連隊を基幹とする今村支隊の前途が苦難に満ちたものであることは、既に眼前の地形と気象条件とが暗示していた。　松山口の前面は、右の馬口湖と左の黄泥湖に挟まれた隘路であるが、支那側の揚子江決潰作戦によって水が漏れだし、隘路の幅はさらに狭まって僅か三キロ未満となっていた。　</p><br><p>そしてその隘路の前方には、左から右に鳥亀山、沙子、朱樹下とコブのような高地が連なり、その後方に標高五百メートルの玉屏山が壁のように立ちはだかっている。　コブ高地、玉屏山さらに周辺の高地のほとんどが、トーチカ陣地と散兵壕と鉄条網で覆われていることは当然に予想された。折悪しく九月十七日夜から、秋雨が降り続いて大地は泥沼並みとなり、空は低い雨雲が垂れ込めて飛行機の来援は期待できない。</p><br><p>　翌日になると、霖雨は豪雨となって、その雨をついて支那軍第九師の一部が、第一線後方の第三大隊を攻撃してきた。　九月十九日、第十三連隊は正面突破を試み、第二大隊が朱樹下、沙子　の二つのコブ高地を攻撃した。　しかし、支那軍の銃砲撃は凄まじく、第二大隊は豪雨にうたれ泥にまみれ、寒さに震えて身を伏せる状態では、約千メートルの前進にとどまった。左翼の第一大隊は、まず鳥亀山を目指したが、黄泥湖の〓水のために接近することができない。　沙子　高地の西南に一三二・四高地があり、その二条の鉄条網が鳥亀山前の水際まで伸びている。　そこで第一大隊は、目標をこの一三二・四高地に変更し、兵力をその正面に移動させた。</p><br><p>　後方の第三大隊は、第九中隊と第十中隊をそれぞれ香山、駱駝山に配置し、第十一中隊を松山口西側及び南東の高地に布陣させた。　支那軍は、第九師第二十五旅の第四十九、第五十団を第三大隊攻撃に派出したが、香山に向かった第四十九団は、第二営（大隊）が「傷亡重大」の損害を受けて退却し、代わった第三営も「傷亡殆尽」と言う打撃をこうむって後退した。　ところが、第十一中隊は逆に支那軍第五十団によって〝傷亡重大〟の被害をうけた。</p><br><p>　中隊は、第一小隊を松山口西側の通称『ピラミッド』高地、第三小隊をその南の三一二高地、第二小隊を松山口の南東高地に配置していた。　中隊長代理でもある第一小隊長深田少尉は、敵襲を受けて負傷すると三一二高地に移動して、第三小隊長である東曹長に指揮権を委ねて後送された。東曹長は、第一、第三小隊の戦闘員が合計僅か十七人に過ぎないため、松山口南東高地を守る第二小隊長大賀静夫少尉に「中隊」の指揮を求める連絡と、全兵力を第二小隊に集中すべきとの意見具申をするため、伝令の兵二名を派出した。　が、兵二名は帰らず、東曹長は午後三時三十分、十四人の残兵とともに下山し、松山口南東高地の第二小隊に合流した。</p><br><p>　だが、到着してみれば、第二小隊長大賀少尉も負傷しており、まったく指揮が執れる状況にはない。　東曹長は、自発的に第十一中隊長代理の任務を果たす決心を固め、残兵を三個分隊に編成して、それぞれの配置の「死守」を下令した。</p><br><br><p><font color="#0000ff" size="2"><strong>【第十三連隊の苦闘】</strong></font></p><p>　この東曹長たちが位置する高地の南の庄屋部落には、今村支隊第一野戦病院が進出していた。　もっとも、部落と言っても、民家は一軒の農家があるに過ぎず、そこを病院として土間にワラを敷き、毛布を拡げたのが病床であった。</p><br><p>　第一大隊の後方僅か三、四百メートルの地点で、鉄弾はしきりに屋根をたたき、時には砲弾も近辺に落下した。前述したように、「予想傷者は百名内外」と聞かされていたのに、雨に漏れ、血と泥にまみれて運びこまれる傷兵は三十人、五十人と続き、この夜だけで百人を軽く超えた。第十三連隊の正面突破は、難行した。第二大隊は二十日未明、五人の工兵決死隊による鉄条網爆破に応じて突撃し、朱樹下。沙子　のコブ高地の奪取に成功して、更にその後方の一四二高地も占領した。　しかし、支那軍第九師第二十六旅第五十一団の逆襲をうけ、その応戦に追われて戦果は得られなかった。</p><br><p>　いまや弾薬は涸渇し、この日の戦死者三十七人、戦傷者百四十三人は後送する手段や余裕さえも見い出せない苦戦が続いたのであった。　左翼の第一大隊は、目標の一三二・四高地に接近する攻撃ルートを偵察するうちに夜を迎え、松山口付近の高地を守る第三大隊も、雨と霧の中を押し寄せる支那軍部落の撃退に腐心していた。　第一野戦病院では、馬七頭に乗せてきた医薬品、十二頭で運んできた糧食が、ともに予想外に多数の傷兵のために不足し、繃帯を交換できぬことから、傷口にウジの涌く傷者も増えていた。　広済の第六師団長稲葉四郎中将は、前日、今村支隊救援のために、第三十六旅団長牛島満少将に一個大隊の派出を命令し、牛島少将は第四十五連隊第一大隊に松山口への急行を下令していた。</p><br><p>　その第四十五連隊第一大隊は、この日午後八時三十分、広済を出発したが、鉄石　付近で前後から挟撃され、動きがとれなくなってしまった。その事情を知った第六師団長稲葉中将は、九月二十一日午前七時、更に第二十三連隊第二大隊を松山口に派遣したのであった。支隊司令部は、重苦しい空気に包まれていた。第三大隊の第九、第十中隊は、いまや弾薬は尽き果て、石で応戦していると言う。　第十一中隊は、既に兵力は「二十余人」に減少し、中隊長代理の東曹長以下、ほぼ全員が負傷していた。</p><br><p>　弾薬はなく、応戦の手段は支那軍の手榴弾を投げ返すことだけだった。その情況を支那軍側は察知し、なお降り続く雨の斜面をぞろぞろとよじ登ってきた。　第十一中隊の危機を救ったのは、高地の南に布陣していた独立山砲兵第二連隊であった。　高地の斜面に群がる支那兵を視認すると、非常用の砲弾十数発を残し、残余の砲弾を撃ち込んで支那軍を潰走させたのである。　東曹長たち第十一中隊の残兵は、快哉をあげて斜面を転げ落ちる支那兵を見送ったが、ホッとすると、「怱然」として「猛烈な空腹感」が甦った。飯米は持っていたが、この四日間、炊飯のチャンスを得られないまま、戦闘の連続だったのである。</p><br><p>　だが、いま炊飯するためには、水汲みに下山しなければならない。　一兵と言えども貴重な戦力であり、死んだ戦友たちもそのままの状態である。　「我慢しよう」　東曹長のひと声に、異議を申し述べる部下など一人もいなかった。</p><br><p><font color="#0000ff" size="2"><strong>【支那軍第二軍の総攻撃】</strong></font>　</p><p>第一野戦病院でも、軍医、衛生兵、傷兵の誰もが空腹に耐えていた。午後四時頃、雨雲の切れ間をぬって友軍機が飛来し、医薬品の梱包十個を投下した。　院長中尉少佐は、友軍機に感謝し、蘇生の思いがしたと言う。　梱包の中には、ガーゼ、繃帯、各種の血清その他の医薬品が入っていたので、軍医の中野少佐にすれば嬉しかったのであろう。　だが、食糧はいまだ補給をされていない。傷兵らの食事も、付近の畑から集めたイモを粥にする程度のものしかできない。　到底満足できない傷兵のうち、比較的軽傷者は、三角巾で腕を首からつり、あるいは枝にすがって自らイモ掘りに出かけ、その場でかじりついたのであった。</p><br><p>　この夜、ようやく突撃路を確認した第一大隊が、一三二・四高地を夜襲した。第一大隊長白浜勝海少佐は、第三中隊に第一線を突破させると、ただちに第四中隊に超越前進させると言う〝二段攻撃作戦〟を敢行することにした。　午後十一時頃、両中隊は敵陣前の鉄条網に這い寄り、工兵が二条の突進路を聞くと同時に第三中隊が突入し、更に第四中隊が計画通りに躍進した。守備していた支那軍第五十七師第一六九旅第三三九団は、既に「傷亡重大」であったこともあり、一三二・四高地をあっさり放棄した。</p><br><p>　しかし、高地に対する支那軍の砲撃は激しく、特に第三中隊の損害は甚大であった。　夜が明けると、銃砲弾は西側の沙子　方向、東側の鳥亀山方向から集中し、その結果、高地と第二大隊主力の中間地帯は、絶え間のない砲弾幕に被おわれて、後退することも救援に行くことも不可能となった。　支那軍第九師第二十五旅第四十九団が、ラッパを吹いて正面から反撃を試み、その後は一時間ごとに攻撃が反復された。　支那軍第二軍長李延年は、総反撃を下令した。第九師主力と第五十七師は、この日午後四時までに準備を完成し、翌九月十三日払暁を期して総攻撃に移れ、と言う命令だ。　実は二日前、第二軍長李延年は第五十七師長施中誠に対して、鳥亀山、沙子　その他の失地の「回復」を命じたが、師長施中誠は「傷亡過半」を理由に延期を求めた。　前日の第十三連隊第一大隊の夜襲によって、馬口湖と黄泥湖の隘路を扼止する高地帯は突破された。</p><br><p>　そして後方には、広済からの日本軍の新手が南下しつつある。　第二軍長李延年としては、その日本軍増援部隊の来着前に、第十三連隊を押し戻す必要を痛感していた。　折から戦場には、第二十六軍第四十四師、第八十六軍第一〇三師、第八十七軍第一九八師、第四十八軍第一七四師も到着しはじめている。　第二軍長李延年は、第八十七軍第一九八師を第五十七師に増加し、第五十七師長施中誠も、今度は反撃の決意を示して李延年を安心させた。　だが第九師の方は、馬口湖北側に第二十六軍第四十四師、第八十六軍第一〇三師、第四十八軍第一七四師が位置しているものの、第九師独自で攻撃に使用できる兵力は、第二十五旅の第四十九、第五十団だけであった。</p><br><p>　台湾の最大野党「国民党」の次期主席は初の党員による直接選挙が行われ、馬英九台北市長が王金平国会議長を破って当選した。記者会見で馬氏は、「次期総裁選で政権奪回を実現する」と早くも二〇〇八年の総統選を照準に発言。馬氏の選挙戦は日本批判で終始、外省人の反日意識を刺激し続けた。しかし、総統選は党員選挙とちがい、国民全体の約八十パーセントを占める本省人の票を取り込まなければならない。　馬氏は台湾大学卒後、ハーバード大大学院で法学博士号を取得。米で法律事務所勤務を経て帰国、蒋経国総統の下で秘書を務め頭角を現し「国民党のプリンス」と呼ばれた。李登輝政権時代の九三年には法務部長（法相）として初入閣、国民党副秘書長、総統府秘書などを歴任。九八年には台北市長選に出馬、現職の陳水扁氏を破って当選、〇二年に再選、周美青夫人との間に二女、五五歳　　</p><br><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<u>平成１７年（２００５年）７月３１日（日曜日）第２６５号</u></p><br>
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<link>https://ameblo.jp/kokusaiblog/entry-10218776686.html</link>
<pubDate>Sun, 31 Jul 2005 11:09:14 +0900</pubDate>
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