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<title>コクサン人生最後の８８ヶ所巡り</title>
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<description>人生も最後の峠に差し掛かっている。日本各地にある日本人としての原体験的な場所を訪れ、自身の存在をあらためて感じる。</description>
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<title>人生最後の旅（祭礼は日本人の原点）</title>
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<![CDATA[ <p>心の暗さが足の痛みを一段と深めていた。その痛さから逃れるかのように少し目を</p><p>草叢に向けるとそこには、瓦解したかのような社の木片が積まれていた。</p><p>昔ＮＨＫの番組で明治神宮の鎮守の森の歴史を描いた映像を見た。</p><p>全くの荒地を百年、百五十年の歳月をかけて森に育てようとする長期的な取り組み</p><p>を紹介していた。しかし、取り組みと言っても、人が絡むのは当初の植樹の時だけであり、</p><p>後は自然の持つ力を使っていわば放置状態にすることであった。</p><p>そして、百年を経た三年前に様々な学者が森に棲む動植物の生態や木々の育ち具合</p><p>を調査したのであるが、百五十年かかると予想していた森として成長が百年経った</p><p>そのときに、すでに確認されたと言う。自然の持つ素晴らしさをあらためて感じたものだ。</p><p>逆に言えば、百年経つと、人間の建造物含め人工的なモノは、自然の中に吸収や</p><p>埋没されると言う事だ。この旅もまだ始まったばかりであるが、人がふと気を抜けば、</p><p>全てが自然の中に消えてしまう。多分、その事実に多く対面するのであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>小浜や敦賀の神社もそうであろうが、人の手が消えると自然の力は容赦なくそれを</p><p>葬り去ろうとする。正に、人と自然の格闘である。今、眼前の朽ち果てた小さな社の跡</p><p>もその結果なのかもしれない。彼は、ひどく寂しい気持になった。</p><p>しかし、木々の間から見える山並は笑っている。その笑いに誘われるかのように、</p><p>彼の気持も薄明るくなった。木々の笑いに伴って、青時雨の水たちが彼の頬を伝わり、</p><p>ハコベや名も知らぬ草々の上にゆっくりと落ちていく。自然は破壊と喜びを同時に</p><p>与えるのだ、そんな言葉が自然にわいてきた。湖西周辺の古墳や城跡、寺院跡など</p><p>気の向くまま歩いた時期があった。どこでも彼は一度たりともその古き残存物、自然に</p><p>侵食された遺構に感激した記憶はない。遠く遡れば、そこには、清涼な水を絶え間なく</p><p>流し続ける川であったり、やがてその水も枯れ木々の力が支配し、黒々と周辺を覆う森</p><p>になったりしてきたのであろう。人は、その自然の営みのわずかな時間に家々を建て、</p><p>社を作り、わずかな征服に満足してきたのかもしれない。</p><p>彼は、そこに何かがあったという事実だけに満足していた。</p><p>むしろ、時と言う力、それが我が身に及んでいる事を考え、に恐れを抱いた。</p><p>身近な人が消えていく、五人の猫たちをはじめ、すでに己は一人である、</p><p>という事実に、夜ふと目覚めた時の暗闇で反芻する老人がいた。</p><p>&nbsp;</p><p>やがて誰も彼の存在を忘れ、地上から永遠に消えていく。</p><p>「月日は百代の過客にして行きかう年も又旅人也」あの言葉が暗闇の中を、彼の体を</p><p>取り巻くように浮遊している。遠くには、地平線をまたいで木曾の連山と幾つかの</p><p>山々、平成山、高沢山などが横たわっている。木々の切れた間からは、小さなビル</p><p>の四角な塊りと工場の屋根とお寺の甍のぼやけた輪郭が見える。小さくマッチ箱の</p><p>ように見えるのは、民家と車にちがいない。あそこにはあまりにもたくさんのものがある。</p><p>そして、たくさんの人生が、日常の営みが、苦しみと闘いと喜びの営みがある。</p><p>だが、人々は、ここから和邇に見られていることを知らない。</p><p>彼は再び、心の奥底から感じた。自分は今このこの目に映るものの外側にいると同時</p><p>に内側にもいる、この目に映るものとつながっていると同時にそういうものを突き抜けよう</p><p>としている。自身の足で歩くとは、じつはそういうことなのだ。自分は色々なものの一部</p><p>であると同時にその一部ではないということだ。この旅を成功させるには、そもそも、</p><p>最初に自分を駆り立てたあの気持ちに忠実であり続けなければならない。妻への感謝と</p><p>老醜化する自分の最後の見極めと。他の人なら別の方法をとるだろうが、そんなことは</p><p>どうでもいい。事実、自分にはこうするしかないないのだから、あくまでも歩き続けよう。</p><p>昭和中期から平成へと生き抜いた一人の人間として、何を持って死への友と出来るのか。</p><p>そんな大袈裟な事でもなく、ごく些細な気付きを得られれば、この七十年を生きて来た</p><p>何かの証を自分として持てれば、と思った。</p><p>&nbsp;</p><p>道は下りとなった。白山が青く澄み通る先に静かに横たわっている。檜の杣山がまっすぐ</p><p>延びる道の周りを取り囲む様に続いている。少し先から聞きなれた祭囃子の音がゆるり</p><p>と流れてきた。芳賀日出男さんと言う村の生活をファインダー越しに見てきた写真家がいる。</p><p>そのモノクロの写真からは、多くの人の喜びが垣間見られたモノで、彼が好きな写真家</p><p>の一人でもあった。</p><p>彼は言う、</p><p>「私はかえりみると、写真家としてきわめて狭い道をたどりながら歩いているような気がする。</p><p>二十世紀の後半になっても変化のおそい習慣がわだかまっている日本人の暮らしぶりに</p><p>ひたすら写真の視線をむけてきた。そこには人々が毎年くりかえし続けているハレとケの</p><p>生活のリズムが見える」</p><p>さらには、「あるとき折口は講義のなかで語った。</p><p>「神は季節の移り目に遠くから訪れ、村人の前に姿をあらわします」と、本当だろうか。</p><p>もしそうなら、写真に撮ることができるかもしれない。今にして思えば、折口の学説の根幹を</p><p>なす「まれびと」論であった。私はそのひと言に目覚める思いがした」と。</p><p>しかしながら、そんな彼の思いも遠く消しされようとしている。まだ仕事で美浜などに</p><p>来ていた頃、顔見知りとなった宿の人から面白い祭があるから見に行ったら、と言われた。</p><p>国津神事は、三方町の村で古くから行われていた。当夜での祝宴を終えると村立ちをする。</p><p>朝からの振舞酒でみんなうかれて楽しそうであった。さらに、大事な御幣をかかえ、氏神の</p><p>境内へと練り込むのである。今それが続いているかどうかはわからない。</p><p>&nbsp;</p><p>柳田國男や宮本常一、芳賀日出男の言葉からは、昭和の初めまで神、仏の存在を信じる人</p><p>が少なくなかった事を感じさせる。モノクロで残る各地の神への祈りや踊り狂う多くの写真は、</p><p>神、仏の存在を固く信じている人々がいた事をみせている。さらには、芳賀の撮った地方の</p><p>様々な光景は、今の日本では余り感じられない自然との調和を信じる人の、身なりは粗末</p><p>だがそれを苦にしない、生きることへの強い意志と仄々と立ち上る温かさを見ることが出来る。</p><p>村の婚礼の宴にお祝いの焼き魚を右手にもち、左手には縄で縛った豆腐を持って出かけよう</p><p>とする父親と子供たちのどこか楽しさが伝わる写真、田植えが終り農家では神棚に三把の稲</p><p>を供え家族揃ってささやかな祝宴をする「さなぶり」と言う情景の写真、また、村の祭りに集う</p><p>人々の晴れやかな顔、狐の面をつけた稲穂祭り、皆の心が一つになる行事であった。</p><p>それは信仰の体現でもあったが、さらには、共同体にいること、そこで生き続けることの</p><p>「通過儀礼」でもあったのだ。和邇はその最後の見届け人だったかもしれない、ふと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、多くの「五穀豊穣、無病息災を願う伝統の祭り」は危機状態にあると聞いた。</p><p>メディアでは、「香川・坂出市「北条念仏踊」、三重・熊野素「二木島祭」、鳥羽市「火祭り」、</p><p>岐阜・高山市「日本一かがり火まつり」、栃木・茂木町「百堂念仏」など開催できない祭り</p><p>が増えている。三重県鳥羽市「火祭り」は四百年以上続く祭りだが、今は取りやめられている。</p><p>また、石川県能登半島キリコ祭りでも能登の三百余の集落で受け継がれ、今年文化庁の</p><p>日本遺産に認定されたが、過疎や高齢化で担ぎ手が減少し、現在では“六十の集落”で</p><p>キリコがなくなったといわれている。</p><p>祭りは集落の住民が一堂に集う貴重な機会だったが、祭りがなくなり住民同士のつながり</p><p>が薄れているという。しかし、高知、仁淀川町、椿山地区では六百年続いている「椿山太鼓踊り」</p><p>に他の集落の住民が地元の人から踊りを習って受け継ごうとする動きもある」と</p><p>盛んに喧伝されている。祭は、自分のふるさとの思い出であり、自身の原点のような気がする。</p><p>故郷とはいえないが、彼も母の田舎であった山形の山寺近くの祭に祖母に連れられその</p><p>人の多さと人々が放つ熱気が今も体の中にある、そんな想いが強い。眼を閉じれば、</p><p>暗闇に揺らめくかがり火と単調なリズムながらこの身を浮かすかのように奏でられる太鼓の音、</p><p>どこで焼くのかとうもろこしを焼く甘酸っぱい香り、そして私の手をとる祖母の細いがしっかり</p><p>した腕が何十もの絵となって見えてくる。同時に、空に紅く染まる布の広がりを見せる赤とんぼ</p><p>の群れにただ見上げるだけの私がいる。それは、遠い記憶から切なさと朦朧とした何か、を</p><p>伴いながら現れた。遠く深い意識の底から衝動的に現われてきた何か、私だけではない皆が</p><p>共通に感じるであろう感覚だった。</p><p>&nbsp;</p><p>家の近くの天皇神社の祭礼の日であった。</p><p>清明、穀雨、そして立夏となり、彼方此方で春の祭りが行われる。</p><p>田には水が満ち、稲の子供たちが一列となって希望の歩みを始めるようだ。</p><p>すでに桜の木には数えるぐらいほどの花びらが残っているのみで若い緑の葉が</p><p>まだしがみついている花々を追い立てるかのように日に映えて緑色を増している。</p><p>歩く先にも幾重にも重なったピンクの淡い色が道路一面を覆っている。</p><p>既に春の華やかな芳しさは、燃え立つ緑の生命の光景に変わっていた。</p><p>五月初め、天皇神社の春の祭り、和邇祭、である。前日からは、風に乗って祭囃子の</p><p>練習の音が聞こえて来るようだ。その昔は、ゆるゆるとした尺のテンポと小気味よさを</p><p>伴った太鼓の連打する音がこれを聞く人々にもなにか心地よさを与えてくれたのであろう。</p><p>そして全く雲が一片足りとも見えない蒼い空とともに祭りの日となった。</p><p>&nbsp;</p><p>西近江路を歩き、和邇川を渡り少し行くと十字路の真ん中に石垣の上に注連縄が</p><p>巻かれ「榎」と彫られた大きな石がある。この場所は、古代北陸道・和邇の宿駅として</p><p>平安朝以降、湖西の交通の要拠であった。江戸時代、徳川幕府は全国の街道に一里塚</p><p>を設けるように指示し、ここの一里塚にも榎の木を植えられ、「榎の宿」と呼ばれ、</p><p>この道を左へと途中峠に向かうと天皇神社ご神木として噂宗されていた。</p><p>樹齢三百六十年余で朽ち、神木榎と榎の宿を偲ぶ有志により「榎の顕彰碑」として建立された。</p><p>この石碑の横には、少し前まで木下屋という宿屋（和邇の陣屋）があったが、今は</p><p>取り壊され何もなく、時の流れを感じる。天皇神社は、途中峠に向かう道沿いある。</p><p>大きな石の鳥居を前景に、杉の林がこれを支えるかのように周囲を囲んでいる。</p><p>砂利の小気味よい音を感じながら、少し進むと社務所と社殿が目につくように木漏れ日</p><p>の中に建っている。二日にわたる神事があるが、神輿渡御までの様子を少しなぞってみる。</p><p>普段は、社殿と後背に並び立つ各本殿が静かに迎えてくれるが、いま立っている境内</p><p>には五基ほどの神輿がきらびやかに鎮座している。</p><p>&nbsp;</p><p>悠然と構える石の鳥居から三、四百メートルの道の両脇には色々なテントが軒を並べ、</p><p>喧騒の渦が周辺を覆っているようだ。焼きとうもろこし、揚げカツ、今川焼き、たこ焼きなど</p><p>様々な匂いが集まった人々の織り成す雑多な音とともに一つの塊りとなってそれぞれの</p><p>身体に降り注いでいく。やがて祭りは人払いの儀式から始まる。ハッピを着た若者たちが</p><p>駆け足で神社に向って一斉に押し寄せてくる。周りの人もそれに合わすかのように</p><p>ゆるりと横へ流れる。駆け抜ける若者の顔は汗と照りかえる日差しの中で紅く染め上がり、</p><p>陽に照らされた身体からは幾筋もの流れとなって汗が落ちていく。</p><p>神社と通り一杯になった人々からはどよめきと歓声が蒼い空に突き抜けていく。</p><p>揚げたソーセージを口にした子どもたち、Ｔシャツに祭りのロゴをつけた若者、</p><p>携帯で写真を撮る女性、皆が一斉に顔を左から右へと流していく。</p><p>その後には、縞模様の裃に白足袋の年寄りたちがゆるリゆるりと歩を進める。</p><p>いずれもその皺の多い顔に汗が光り、白髪がその歩みに合わし小刻みに揺れている。</p><p>神社の奥では、白地に大宮、今宮などの染付けたハッピ姿の若者がまだ駆け抜けた興奮</p><p>が冷めやらぬのか、白い帯となって神輿の周りを取り巻いている。</p><p>&nbsp;</p><p>近世では、周辺はほとんど田圃であり、祭りには、畦道を通って、氏子たちが奉納行事を</p><p>始めたそうだ。だが、今はモダンな家々に囲まれ、その面影は薄い。やや広めの道路</p><p>と様々な彩を発している家々の間を抜けてくるようで、厳粛な雰囲気は消えつつあるが、</p><p>人が醸し出す明るさは今のこの街には、ふさわしいのであろう。神輿渡御の時間となった。</p><p>五つの神輿が中天にかかった陽を浴びて、ゆらりと動き出す。金色の光りが四方に放たれ、</p><p>若者の発する熱気とともに、周囲の空気を燃え上がらせていく。裃姿の年寄りたちがその</p><p>若さを取り戻すかのように、先頭に立ち、走り始める。入り乱れる足音と道路沿いの店店と</p><p>人々が放つ喧騒とが、一体となって、神輿の後を追う。神輿はやがてその熱気を残し浜へと</p><p>向かい、金色の光りを和邇川に映しながら、小さくなって行く。</p><p>古き良き時代と新しい波の訪れ、その混じり合う香りを残していく。</p><p>多分、御旅所に無事着いた時には、若者たちの息切れと年寄りたちの安堵の</p><p>溜息で、湖のさざ波も静かに揺れるのであろう。そして、微笑に溢れたすべての人の心根</p><p>に不確かだが、それでいて確かなつながりを感じさせている。</p><p>&nbsp;</p><p>そんな想いを頭にかすめながら、二人の足は、その音のほうに向っていった。</p><p>和邇は、横浜から栃木、川崎、横浜、京都、滋賀といわゆる流浪の人でもあった。今いる地でも、</p><p>自分は風の人、とたえず思わされてきた。営々と続いて来たその地の文化、人のつながり</p><p>の奥深いところにある襞には今でも触れられてはいない。</p><p>特に病気以降、地元の人とのつながりを深めようとしてきたが、たかが数年でそれが</p><p>出来るわけではない。悔恨に似た掴みきれない何かがいつも彼の心の襞のどこかに</p><p>住みついていた。</p><p>「俺に故郷はない」</p><p>そんな思いが土地の人に関わるほどにその強さを増していった。</p><p>そして、それが腎臓を少しづつ腐食して行ったあの病気と同じ様に次第にその黒い襞</p><p>を広げている様でもあった。そして、それがあの三年前の事件で彼の心と身体を更に深く蝕んだ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokusan-88sien/entry-12306693033.html</link>
<pubDate>Fri, 01 Sep 2017 14:38:37 +0900</pubDate>
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<title>人生最後の旅（三輪山、白山の思い）</title>
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<![CDATA[ <p>まだ京都城陽に住んでいたころ、奈良の友達から霊山の三輪山へ誘われたこと</p><p>があった。霊山というその響きに何か違う世界を想像し、車で出かけた。</p><p>大神（おおみわ）神社の大鳥居を通り、広大で立派な社殿で拝した。</p><p>周囲約十六キロほどの三輪山は、西側の御本社の背後にあたる大宮谷を含む以前</p><p>の禁足地のまわりに九十九谷の山すそを広げていた。少し登ると、右方の下草の</p><p>茂に任せた赤松の幹は、午後の日を受けてその赤さを一層に輝かしていた。</p><p>禁足地であった地は、木々も、羊歯や笹叢も、これらに万遍なく織り込まれた日光も、</p><p>すべてが心なしか尊く清らかに見えた。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、自分の足が踏みしめているこの御山自体が、神、あるいは神の御座だと</p><p>感じることは、素直に受け入れるほどの感情ではなかった。歳は四、五歳上である</p><p>友人のその俊足に驚きながらも汗を払う間もなく従っていく人間にとって、午後に</p><p>なってますます暑さを加えた日差しが憎く思ったが、やがて渓流の傍らの道の</p><p>涼やかさに一幅の幸せを感じた。日は避けられたが、道はいよいよ険しくなった。</p><p>榊の多い山で、町で見る榊よりもはるかに葉のひろい若木が、そこかしこで黒ずんだ緑</p><p>の影に多くの白い花をつけていた。上流へいくほど瀬は早くなり、快いその水音の</p><p>響きが一段と高くなり、一陣の滝が現れた。そのあたりは滝を巡って、森がもっとも</p><p>鬱蒼としてるところだそうだが、森のいたるところに光がこもっているので、あたかも光</p><p>の帯の中にいるようである。頂へ登る道は、ここから先が難所なのであった。</p><p>&nbsp;</p><p>一応道として整備はされているものの、岩や松の根を頼りに道とは言えない道や赤銅色の</p><p>崖を伝い、少し平坦な道が続くかと思えば、また更に、午後の日に黒々と照らし出された</p><p>崖が現れた。友人は先へ先へと行くが、彼は息が迫り、汗もしとどになるにつれて、</p><p>こうした苦行のうちにやがて近づく神秘が用意されているのを感じた。時折木々の間を</p><p>縫うように鳥たちがわたり、直径一メートルあまりの赤松や黒松が、静かに群立っている谷</p><p>も見えた。蔦や蔓草にからまれて朽ちかけた松が、残らず煉瓦色の葉に変わっている</p><p>のも見た。あるいは赤く露地を見せた崖の半ばに立った一本杉に、入山の信者が何らかの</p><p>神性を感じて、注連縄を張り巡らし、供え物をしてあるのも見た。その杉の幹の片面は苔</p><p>のために青銅色をしていた。御山の頂に近づくにつれて、一本一草が、たちどころに神性</p><p>を与えられ、自然に神に化身するかのように見えた。たとえば、高い椎木の樹冠が、</p><p>風にあわせ一斉にその浅黄の花を散らしてくるようなときには、人のいない深山の木の間を</p><p>縫ってくる花の飛来は、二人に驚きと荘厳さを与えた。沖津磐座は崖路の上に突然現れた。</p><p>&nbsp;</p><p>難破した巨船の残骸ような、不定形の、あるいは尖り、あるいは裂けた巨石の</p><p>群れが張り巡らした注連縄の中に鎮座していた。太古からこの何かあるべき姿</p><p>に反した石の群れが、並みの事物の秩序のうちには決して組み込まれない形で、</p><p>怖ろしいような純潔さと乱雑さを併せ持ち、生きてきたのである。</p><p>石は石と組打ち、組み打ったまま倒れて裂けていた。別の石は、平たんすぎる</p><p>斜面を広々とさしのべていた。すべてが神の静かな御座というよりは、戦いの</p><p>あと、それよりも信じがたいような恐怖のあとを思わせ、神が一度座られたあとでは、</p><p>地上の事物はこんな風に変貌するのではないかと思われた。</p><p>日は、石の肌に一重の衣のごとき苔を無残に照らし出し、さすがにここまで来ると</p><p>風が活きて、あたりの森はさわやかに騒いでいた。</p><p>磐座のすぐ上方にある高宮神社の小詞の簡素なつつましさが、磐座の荒々しい</p><p>畏怖をなだめた。合掌造りの屋根の小さな、しかしすこぶる鋭角に見える鰹木は、</p><p>蒼い松に囲まれて、いさぎよく結んで立てた鉢巻のようにその力強さを見せていた。</p><p>久々のこういう脚の行使が、それを何とか果たしたという満足が、彼の心を解き放って、</p><p>あたりの松風の音にこもる明るいさわやかな神性のうちに、日ごろの俗世そのものの</p><p>行為を排したという満足感に浸るような心境にさせた。轟々たる青風の合間に、静けさが</p><p>点滴のように滴ってきて、虻の飛びすぎる羽音が耳だったりする。杉の幾多の槍の穂先に</p><p>刺された輝かしい空。動く雲。日光の濃淡を透かした葉桜の葉叢。彼はわれにもあらず</p><p>幸福な面持ちになった。そして、神という意識が初めて彼の心の片隅に芽生えた。</p><p>&nbsp;</p><p>太田さんも小さい頃、祖母からよく聞かされたという白山への思い、共に、汗さす陽光の</p><p>中で、五十年以上前の世界に浸っているようでもある。</p><p>「白い色は、古くから朝鮮の人々も神聖視してきたようで、古代人の白山を中心とする</p><p>山岳信仰と朝鮮からの外来文化がこの北陸の地で融合し、「白」と言う色と深いつながり</p><p>を持つようになったのでは」</p><p>そんな話を学校時代や年寄りから聞いたもんですよ。もっとも、私にとって、馬の耳に念仏</p><p>だったかな」</p><p>汗ばんだ顔に白い歯が見えた。</p><p>それは日本人の心性にあったものであったのだろう。白山、日本の原風景としての信仰される</p><p>山々から何かを感じることが出来るのかもしれないし、それによって信仰と言う形が現実に</p><p>私に見えてくるのだろうか。</p><p>そんな想いがある反面、その人生の道のりを思えば、この四十年にわたり生きてきた道を</p><p>否定され、残り滓のみになった老人として最後を迎える。</p><p>&nbsp;</p><p>多くの一般人にとって、信仰の対象を明確に意識している人はそれほど多くないであろう。</p><p>特に、高度成長期バブル時代を人生の真ただ中で過ごしてきた団塊世代周辺の人間にとって、</p><p>ただ突き進むを良しとした世代にとって、現世の幸せを具体的な形で勝ち得た人々にとって、</p><p>現世の利益をもたらすという仏教や他の神そのものにすがるという意識や余地がなかった</p><p>とも言える。</p><p>多分、彼自身が十一面観音や寺院を訪問した時に感じる信仰心とは、日本人としての</p><p>「山川草木悉有仏性」、即ち自然の中に神々が宿っている、という心の発露からから出てくる</p><p>ものなのであろう。地理的にも白山は、富山県、石川県、福井県、岐阜県の四県にまたがる</p><p>両白山地の中央に位置し、その最高峰である。白山とは、最高峰の御前峰、剣ヶ峰、大汝峰&nbsp;</p><p>の「白山三峰」を中心として、周辺の山峰の総称である。北陸地方の中では標高の高い山</p><p>であるため、他の山では残雪が消えた季節でも「白い山」として遠方からでも一目で</p><p>判明する山である。また、白くなった白山は北陸に晩秋が訪れた象徴ともなり、古くから</p><p>「越のしらやま」として、詩歌に詠われた白山は、富士、箱根とならび「日本三名山」の</p><p>ひとつに数えられる秀麗な峰でもあり、滋賀では神聖視される伊吹山があるが、</p><p>白山はそれ以上の存在である。</p><p>&nbsp;</p><p>また、白山から流れ出る豊富な水は四方の川を満たし、それが広く田畑を潤すお蔭で人々</p><p>の生活と農事の一切が成り立っていた。このため古代より白山は「命をつなぐ親神様」</p><p>として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰の対象となり、</p><p>奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として日本各地で開山する</p><p>ようになり、白山においても、泰澄が登頂して開山が行われ、原始的だった白山信仰は</p><p>修験道として体系化されて、今日一般に認識されている「白山信仰」が成立することとなった。</p><p>この地には、日本人と日本古代文化の心が生きており、あらためて自身の信仰とは、</p><p>何かを考えさせられた。そんな想いを巡らせながら、まずは３６０号線を東に向かう。</p><p>既に、道端では、蓮華草、タンポポなどがその小さな姿をはっきりと見せ、なだらかな</p><p>起伏の先には、白山や多くの山がその稜線を重ねあうように、蒼い空の下で、悠然と</p><p>構えている。私の悩みなぞ、大きな自然と神々の前では、取るに足りないと言われている</p><p>ようだ。</p><p>&nbsp;</p><p>突然、松尾芭蕉の名句と呼ばれた、</p><p>「山路来てなにやらゆかしすみれ草」を思いだす。</p><p>しかし、この身はそんな悠長な状態ではない。心の奥には暗く重たい何かが沈んでいる。</p><p>心と肉体、いずれもが彼の歩調を押しとどめている。足の関節が悲鳴を上げはじめ、</p><p>背筋をゆっくりと汗が流れていくのが、感じられる。肉体は、素直である。頭の中で、</p><p>頑張れという声があるものの、身体は、違う声を上げている。二人とも、その体力のなさに</p><p>思わず苦笑いしながら、黙々と歩く。それでも、途中、ちょっとした休憩も兼ねて、</p><p>白山神社に立ち寄り、今日のご加護（今更、お願いしても遅いかも）を願う。</p><p>永らく風雨に立ち向かってきた鳥居と本殿は、やや黒ずんでいるが、その趣きは、</p><p>数百年経とうと変わらず、そこにある。</p><p>&nbsp;</p><p>「神様って何ですかね」</p><p>突然、太田さんが本殿に向かいながら言った。</p><p>「私も分かりませんが、信仰心さえも怪しいし。でも何か私らの制御できない力があるのか、</p><p>って思うことがありますよ」</p><p>「、、、、、、、」</p><p>お互い無言のまま、遠くに映える白山を見ていた。</p><p>あらためて見る白山は、遥かな先に、富士に似た山裾を曳く最高峰の御前峰と</p><p>対峙して、右に剣ヶ峰の「白山三峰」を侍らせ、左に大汝峰と伸びる山々を</p><p>練瓦させ臥した牛の背の様に悠揚として空に曳く長い稜線から雪崩れる如く</p><p>その山腹を強く平野へ落としていた。すなわち、白山は白山と呼ばれるゆえんを</p><p>知ろうとするものにはその本来の姿を見せず、本来の姿を見ようとするものには</p><p>白山と呼ばれるゆえんを語ろうとしない。白山が古来、信仰の対象としてされていたのも、</p><p>死こそは私たちにとってまさにあるべき唯一のものでありながら、そのいかなるものかを</p><p>覗わせようとせず、ひとたび、うかがえば、語ることを許さぬ、死の企みめいたもの</p><p>を感じさせるためかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>この道から空を見上げれば、切り立った峰峰に空は狭められ、緑の塊が、覆いかぶさる</p><p>ように迫ってくる。その尖った山並が私の足元に幾つかの影を作っていく。</p><p>この辺は日本カモシカの生息地と聞いたことがある。この急斜面を彼らは悠然と歩き、</p><p>冬の数メートルに及ぶ雪の中でも、幾世紀にわたり生活してきたのだ。</p><p>人間はひ弱な動物である。道は砂利が支配し、まだら模様の水溜りを見せていた。</p><p>黒く沈んだ空の下では、その黒さが一段と増し、山の端に見える杉の群れがここにも</p><p>押し寄せるかのように道の両脇を固めていた。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokusan-88sien/entry-12304620039.html</link>
<pubDate>Fri, 25 Aug 2017 17:12:13 +0900</pubDate>
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<title>人生最後の旅（白山の道を行く）</title>
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<![CDATA[ <p>歩を進めるにつれて、木々の梢がうねりを見せるはじめ、空が青から灰色、</p><p>そして黒墨の流れとなり、やがて最初の風に打たれて身を震わせた。</p><p>木の葉と小枝が宙に舞い、鳥たちが叫びをあげた。白山の彼方で雨の帆が</p><p>はためき、二人の行く先との間にも垂れさがった。二人は雨傘と防水服</p><p>の中に縮こまり、雨の最初攻撃をしのいだ。どこにも隠れ場所はない。</p><p>雨は容赦なく二人を打ち始めた。雨傘を叩き、首筋を下り、伸縮性のある糸</p><p>を織り込んだ袖口を駆け上がる。雨粒が重力に逆らうか如く足から顔へと</p><p>身体を打ち、水溜りは渦を巻き、道路の側溝を流れ走る。</p><p>嵐が近づいていた。雲がフードのように大地にかぶり、遠くの山並に不気味に</p><p>明るい光を投げた。旅に出てはじめて、野をさまようごときこの所作を</p><p>後悔した。旅することの苦しさに心構えが出来ていないような気がした。</p><p>妻と話をしたかった。しかも、車が通り過ぎるたびに泥はねとなって二人</p><p>の身体に襲い掛かる。一時間過ぎると和邇の足は、水そのものになり、</p><p>濡れた衣服が絶えず肌をこすって蒸れた匂いとむずがゆさを連れてくる。</p><p>太田さんも、同じなのであろう。盛んに身体をゆすっている。二、三時間</p><p>をその様な状態で二人は歩いた。だが、思いがけない事が起きた。</p><p>しかも、それは和邇が旅のあいだに出くわして、そこに大きな意味を汲みとる</p><p>ことになる幾つかの瞬間のひとつだった。</p><p>&nbsp;</p><p>顔に温かさを感じ始めたとき、いきなり雨がやんだ。あまり唐突で、</p><p>それまで降っていたことさえ信じられないくらいのやみ方だった。</p><p>白山の見える北東の空で、雲ににわかに亀裂が走り、空の低いところに一本</p><p>のきらめく銀色の帯が出現した。彼は思わずその場に立ちつくし、太田さんの</p><p>手を引いた。指差すその方向では、灰色の雲海に二度、三度と亀裂が走っては、</p><p>新たな色が現われる。その様に二人は茫然とした面持ちで見とれていた。</p><p>青、赤みがかった濃い茶色、黄桃色、緑、そして茜色。やがて、雲はくすんだ</p><p>ピンクに染め上げられた。ひとつひとつの色がきらめき震えつつ滲み出し、</p><p>鉢合わせしては混ざり合ったかのようだった。二人は動けずにいた。</p><p>変化の全てを自分の目で見届けたかった。そんな想いがともに合ったのだろう。</p><p>大地に差す光りは黄金色。その光りを浴びて彼らの肌も温かく撫ぜられていた。</p><p>足下では、大地がきしみ、ささやき交わす。空気は緑の匂いがして、</p><p>変化の始まりの気配に満ちている。柔らかな霧が立ち上がる。細くたなびく</p><p>煙の筋に様だ。水浸しとなり、疲労困憊、足をあげることさえつらいのに、</p><p>胸は希望に満ちていた。</p><p>&nbsp;</p><p>「あなたは、二十歳代のころ、何か目標とか希望とかありましたか。</p><p>正直、私は何もなかった。住んでいた福井の田舎からともかく出たかった」</p><p>「私も似たようなものですよ。栃木という処で親父と住んでいたけど、</p><p>とにかく出たかったな。それに子供のころもらったブリキのロボットが</p><p>動いた時の感激から何かモノを作りかった。それが若いころの唯一の目標かな」</p><p>「そうですね、私らのころはただ毎日を必死で働くことが目標みたいなもの</p><p>だったね。まあ、言ってみれば高度成長が信仰みたいなものだった。</p><p>南無阿弥陀仏を唱えると浄土へ行けるという話と似てるかな」</p><p>「高度成長が信仰か、なるほどね」</p><p>&nbsp;</p><p>昨夜の宿の人の話に依れば、ここは小松市は白山の麓で、神の山とされる白山</p><p>への信仰が篤い土地でもあり、開祖の泰澄（たいちょう）は、まさに白山</p><p>で修行した行者であるらしい。白山神は十一面観音が垂迹で現れたものと</p><p>考えられ「白山妙理大権現」と呼ばれており、本尊は、十一面千手観世音菩薩像、</p><p>とのこと。主峰の御前峰、大汝峰、剣が峰の三つの峰とその尾根は、万年雪</p><p>をいただく「白き山並」だ。その白い姿を目にすると、なんとなく心が</p><p>清められるような気がする。古代から、白山は、「神の山」として広く</p><p>信仰されてきた。戦前には、白山を仰ぎ見る地域にとどまらず、全国各地</p><p>に二千七百あまりもの「白山神社」があったといわれている。</p><p>その白山を神の山として崇めるだけでなく、仏教の山岳修行の場として開いた</p><p>人物が、泰澄である。それ以来、白山神社は十一面観音が垂迹（仮のすがた）</p><p>で現われたものと考えられ、「白山妙理大権現」と呼ばれるようになったという。</p><p>信仰や神と言うものは、先ほどのような体験から来るのであろう、と思った。</p><p>すでに白山は蒼い空と白い雲間の中に端然とこちらを見ている。</p><p>人が思わず粛然として身を正すような風景や情景、場、それこそが、</p><p>「神の情景、風景」と呼ばれるものなのであろう。</p><p>仏像にしろ、神社ににしろ人は形に見える存在に自身の心を委ねるものだ。</p><p>&nbsp;</p><p>日本人が神を感じてきた風景、情景、場は様々である。たとえばそれは、</p><p>陸地と海の境界である岬だったり、山々であり、滝であり、島であったり、</p><p>巨木、巨石であり、何かしら象徴性のある姿、形が受け入れられてきた。</p><p>更には、火山であり、地震、大雨強風などしばしば人間に害をもたらす</p><p>自然現象でもあったと思う。江戸時代、富士へ登ることが自身の信仰、</p><p>神への願いとして盛んだったのもそうであろうし、白山信仰も同じなの</p><p>であろう。この科学と言う智慧によってそれらがある程度人が制御できる</p><p>ものと分かった現在でも、神の真意として畏怖の念で受け止める場合</p><p>も少なくない。祭とはそれら不可思議なものへの畏怖の念を尊敬、感謝</p><p>の気持の表現としての行為であったのだ。</p><p>三十年以上前に新宮の神倉神社のいわゆる磐座とよばれる男根のように</p><p>見える巨石が夕陽の中で薄赤く光り輝く姿にはなんともいえない衝撃を</p><p>受けたものだ。このゴトビキ岩の元で行われる御燈祭りは、急な階段を</p><p>松明の火が一気に駆け下りる火の流れとともに記憶に残っている。</p><p>&nbsp;</p><p>和邇もまた、わずかながらでも神の存在を意識して生きてきた人間でもある。</p><p>昔死んだ母の実家であった山形で夏休みを過ごした時の夕暮れの森で感じた</p><p>宙を浮くような感覚と白き影の如く森の奥に消え去ったひと形の何か、畏敬と</p><p>母の温かみを持ったその姿を暫らく忘れることが、出来なかった。</p><p>さらには、ブラジルのイグアスの滝で感じた流れ落ちる水の爆音と吹く風の中</p><p>で訪れた一瞬の静寂の心地よさに自分の存在さえ忘れたとき、何かが自分の</p><p>近くに舞い降りたと感じられた、あれは何だったのだろうか、神、と思ったこともあった。</p><p>苔生す石畳を歩く音、聳え立つ杉の間からわずかに見える日の光、天狗岩から</p><p>見た流れ行く雲と山の端の色の変化、全てが一つの力となり自分の周り迫った</p><p>数年前、友達と歩いた熊野古道での経験が追い討ちをかけるかのように、</p><p>忽然と眼前に広がる。さらには、その中にいる姑息な自分への腹だたしさが</p><p>再び自分の血を逆流させていた。</p><p>&nbsp;</p><p>岬とは、陸地が果てる空間であり、海とのしのぎを削るせめぎ合いの場所だ。</p><p>吹きさらす風と眼下に広がる泡立つ水面、そして何の色合いもない岩の肌。</p><p>古来より、日本人は岬を「常世」との結節点と考えてきた。現に多くの岬には</p><p>その先に神社を祀っているところが少なくない。御前崎燈台を見たときにも、</p><p>そのような神社があった。</p><p>彼にとっても、神であろうが、仏であろうが、今の自分の心の闇に寸分の明るさ</p><p>をもたらすことであれば、何でも良かった。それがイグアスのような神の降り立つような</p><p>場所の天啓であるかもしれないし、偉いと言われる坊さんの言葉かもしれないし、</p><p>古き家々、神社、寺など日本人の育てた心への触発かもしれないし、</p><p>熊野古道で感じた自然から癒し、何気ない人との会話からかもしれない。</p><p>もっとも、このような心境は彼だけのことではない。</p><p>&nbsp;</p><p>三十年前にも「不思議なもの」「神秘的なもの」への憧れが若い世代を中心に</p><p>増えていると、ある調査でも言っていた。更に言えば、同じ時期、オウム真理教</p><p>と言う集団の起こした毒ガス事件は、信仰（狂信に近いが）というものの怖さを</p><p>肌で感じた。富士の裾野で行われた松本という教祖逮捕劇の映像やなんとも</p><p>いえない下品な空気をかもし出している教祖という人間への嫌悪感が黒々とした</p><p>苦さを伴いながら、蘇ってくる。吉崎御坊への訪問、それは、何百万と言う人々を</p><p>熱狂させた蓮如という人間の象徴的場所に今自分は来ている、という実感の中で、</p><p>何故ここに来たの、人は何故蓮如に付き従ったのか、そんな想いを蓮如の像に</p><p>向かい問いかけつつあの寂寞とした場所で、暗く閉じた己の心の扉を開く何か</p><p>を期待していた自分がいた。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokusan-88sien/entry-12300577056.html</link>
<pubDate>Fri, 11 Aug 2017 11:11:36 +0900</pubDate>
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<title>人生最後の旅（山道の一情景その４）</title>
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<![CDATA[ <p>東の山々は濃い藍色だったが、その背後から射してくる光が、赤く<wbr>燃え山のふちを</p><p>微かにいろどっていた。そして、さらに先へ行くにつれて、<wbr>私の頭上のあたりでは、</p><p>その光が冷たい灰黒色になり、西のはずれの近くでは、<wbr>まだ夜の闇に溶けこんでいた。</p><p>山道の朝は、冷たかった。<wbr>たまらないほどの冷たさではなかったが、かなり冷気が</p><p>身にしみたので、私は手をこすりあわせて、ポケットへ深く突っ込<wbr>み、背をまるめ、</p><p>足をひきずって歩いた。横を同じような仕草で太田さんが歩いてい<wbr>た。</p><p>&nbsp;</p><p>前方の林に、二人の男がいた。暖を取るためだろうか小さな木が積<wbr>み重ねられその</p><p>隙間からオレンジ色の炎が時折その色を見せていた。<wbr>灰色の煙がその炎を取り巻くように、</p><p>長く一筋の塊となってから、あたりにひろがり、消えていった。<wbr>木々の燃える</p><p>くぐもった匂いと煙が鼻についたが、我々はゆっくりと近づいた。</p><p>光は東から急速にひろがっていった。背の高い男が何も言わずに少<wbr>し身を引き、</p><p>暖を取ったら、といった風情を見せた。もう１人のやや小柄な男は<wbr>黙ったまま空を</p><p>見上げていた。われわれは焚火のそばへ行って、<wbr>両手を火にかざした。暖気にふれると、</p><p>体じゅうがぶるッと震えた。</p><p>&nbsp;</p><p>二人とも茶色のやや厚手のズボンをはき、やや青みがかったジャン<wbr>パーを着ていた。</p><p>どちらも鋭い顔つきをした男たちで、二人ともよく似ていた。</p><p>背の高いほうの男は黒い不精ひげをのばし、小柄のほうは白い不精<wbr>ひげをのばしていた。</p><p>頭も顔もぬれていて、髪からしずくが垂れていた。こわいひげにも<wbr>水玉がついて、</p><p>頬も水で光っていた。我々が入っても二人でならんで立っまま、<wbr>明るみつつある東の</p><p>空を静かにながめていた。二人ともいっしょにあくびをして、<wbr>山のふちの光を</p><p>見ているようだ。<wbr>雑木林から少し外れた笹薮の間から水音が聞こえてくる。</p><p>遠くで名も分からぬ鳥の声が二つ三つとまだ冷気を帯びた空気を切<wbr>り裂くように</p><p>聞こえてきた。自然の大きな器の中で何かわからぬ孤独の重さを感<wbr>じつつその</p><p>方向を見た。しばし、四人は冴えわたる空気とくすぶる煙り、<wbr>小さく紅い蛇の舌</p><p>のようなちょろちょろとうごめく火の中にいた。</p><p>&nbsp;</p><p>やがて、二人がふり向いて私を見た。</p><p>「おはよう」と背の高いのがが言った。</p><p>その顔は、愛想がよくもなく、わるくもなかった。</p><p>「おはようございます」と、私と太田さんはほぼ同時に言った。</p><p>「おはよう」ともう一人も言った。</p><p>二人の顔は朝日をまんべんなく受け、水が徐々にかわいていった。</p><p>「どこへ行くの」と背の高い方がぽつりと言った。</p><p>太田さんがちょっと遠慮気味に、「白川郷まで」、これもきわめて<wbr>簡潔な返事をした。</p><p>小柄な方が焚火の中から芋のようなものを取り出した。<wbr>温かさがその周囲を包み、</p><p>その匂いが流れると、男たちは二人とも深く息を吸い込んだ。</p><p>小柄な方は、ひくい声で、「こいつは美味しそうだ」と言った。</p><p>背の高い方が私たちのほうを向いた。</p><p>&nbsp;</p><p>「朝めしはすんだの？」</p><p>「少し早かったけど、旅館で」と私が答えた。</p><p>「そうかい、そんなら一緒に座んなよ」</p><p>それがきっかけだった。私たちは切り株が残るそばへ行って、まわ<wbr>りの地べた</p><p>にすわった。芋の温かさが手を伝わり、体全体に心地よさをもたら<wbr>した。</p><p>「おれたちはこれからここいらの木の間伐をするんだ」</p><p>と背の高い方が言った。</p><p>「近頃は山も荒れてね。中々人手がいないからね」</p><p>と焚火の方を見ながらぽつりと言った。</p><p>「山も人間と同じよ、きちんと世話をしないとすぐに荒れ放題、好<wbr>き勝手になるしね」</p><p>「こいつ中々にいけるね」そして、小柄な方はまた口いっぱいに頬<wbr>ばった。</p><p>みんなふうふうと言いながら、その温かさを味わている。体があた<wbr>たかくなった。</p><p>出された熱いお茶が咽喉を刺激した。</p><p>&nbsp;</p><p>自然の恵み、ふと取り止めのない言葉が浮かび、三人を見て、<wbr>またお茶を飲んだ。</p><p>いまは日の光が色づいてきて、その赤い輝きのために空気がいっそ<wbr>う冷たくなった</p><p>ように思えた。二人の男は東を向いていたので、顔が夜明けの光に<wbr>輝いていた。</p><p>私は、ちょっと目をあけたとき、背の高い方の目のなかに、<wbr>山とその向こうから</p><p>射してくる光のイメージが映っているのを見た。</p><p>やがて二人はいっしょに立ちあがった。</p><p>「さあ、頑張っていこうか」と小柄な方が言った。</p><p>私たちも立ち上がり、「さあ、行かなきゃ、ご馳走さま」</p><p>背の高い方がとんでもないというように手を振った。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokusan-88sien/entry-12298607800.html</link>
<pubDate>Fri, 04 Aug 2017 13:46:33 +0900</pubDate>
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<title>人生最後の旅（山道の一情景その３）</title>
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<![CDATA[ <p>朝も昨日の元気な女性に追い立てられるかのように宿を後にした。</p><p>杉の山並みが相も変わらず続くが、ここ二日ほどとは違い、ゆっく<wbr>りと眺める</p><p>には二人の体力はかなり落ちていた。お互い無言のまま<wbr>、ひたすら郡上八幡</p><p>へと向かう。しかし、前夜の宿で、途中の小さ<wbr>な寺の奥に樹齢千年ほどのスダジイ</p><p>の巨木があると聞いたのが、そ<wbr>もそもの始まりだった。</p><p>舗装された山道を外れ、対岸の庄川沿いの<wbr>砂利道を進んだが、幾重にも重なる</p><p>杉の木立に惑わされたか、道が<wbr>分からなくなった。何時間か進んだとき、杉の</p><p>木立を圧するような<wbr>その巨木が頭一つほど木立の間から目の前に立ち現れた。</p><p>その巨木<wbr>を目当てに一キロほど歩くと寺の泥にまみれた白壁が小道の先に見<wbr>えた。</p><p>小さな門をくぐると白や黄色の野草の花が点描する敷地の先<wbr>に、風雪にさらされる</p><p>かのように瓦の一部がずれ落ちた屋根の本堂<wbr>らしき建物が小さく座っていた。</p><p>白壁は概ね剥げ落ち、土壁が露な<wbr>姿を見せていた。数本のやせた松に守られる</p><p>様な趣でこちらに向き<wbr>、その奥に固い岩肌のような野太い根元が見え、四本ほどの</p><p>太い幹<wbr>が多くの枝を天に巡らしていた。本堂の屋根を突き崩すかのように<wbr>その巨木は</p><p>周囲を圧して立っていた。幾重もの枝が逆立つ怒髪の荒<wbr>々しさでその葉群を四方に</p><p>伸ばしている。頬を柔らかな風が通り過<wbr>ぎるたびに上からその葉音が二人に</p><p>襲い掛かるようであった。打ち<wbr>捨てられた寺の中で、如何ほど彼は生きてきた</p><p>のであろうか、人の<wbr>手を離れて幾ばくしか経っていないはずであるが、すでに人知</p><p>を超<wbr>えた存在のようでもある。</p><p>&nbsp;</p><p>二人は黙ってその逆立つ大樹に見入っていた。</p><p>「この木は千年の間なにを見てきたのだろう」</p><p>「俺もこの木のように何百年も生きられたら、どうなるのだろう」</p><p>「この木の生きた時間に比べたら、なんと些末な人生だ」</p><p>大きな岩と化したような幹を。そのざわとした肌触りを手で触れ、<wbr>眼で見た。</p><p>木肌は意外となめらだ。指から掌へとそのぬくもりを感じたかった<wbr>。</p><p>巨石と呼ばれるものたちも神が宿るとして信仰の対象であるが、巨<wbr>木は生きている。</p><p>それが掌を通して彼の身体へと伝わった。和邇は<wbr>これが千年もその命をつなぎ、</p><p>目の前にあることに不思議さえ覚え<wbr>た。多分、この子供たちも周辺の木々の中に</p><p>息づいているのだろう<wbr>。上で風に騒ぐ葉音が二人に何かを問いかけている。</p><p>葉群を通して<wbr>日差しがまだら模様に顔に注いでいる。</p><p>時はだいぶ過ぎていた。青い空の片隅が朱色に燃え上がり、やがて<wbr>浅黒き色が</p><p>濃紺の布地に徐々に沁みこむように広がっていった。</p><p>&nbsp;</p><p>二人の足元も急速に色を失い始めていたが、朱色が二人の顔や木々<wbr>を照らし</p><p>出している。相変わらず目を潤すような草花、樹々にはあまり出会<wbr>わない。</p><p>せまる山並みがその緑をここまで押し流してきているようだ。愛想<wbr>のない小道を</p><p>川から吹き渡ってくるわずかの風のすずとした装いを<wbr>感じながら急ぎ歩を進めた。</p><p>庄川の水音が遠く聞こえるほどになる<wbr>と、薄暗さの増した道の集落側に堤防の</p><p>ような石積みが列をなして<wbr>、数百メートルほど続いていた。苔むした石の一つ一つ</p><p>が時代の流<wbr>れを感じさせる。気が付けばこの地域では、昔はあちらこちらにこ<wbr>のような</p><p>堤防があり、集落の出入り口にもなっていたようだが、往<wbr>時の姿は今はない。</p><p>しし垣の役目にもなっていたのであろう。二メ<wbr>ートルの高さで集落の周囲を囲むような</p><p>形になっている。自家製の<wbr>お茶の栽培でもしているのだろう、茶畑からひょっこり</p><p>老婆が顔を<wbr>出し、にこりと笑ってまた消えた。</p><p>&nbsp;</p><p>黒ずんだ茶の葉とちぢたる紅い光のこもれる林、地蔵を押し込むよ<wbr>うな小さな森、</p><p>野辺の草叢、色調豊かな緑の世界のはずだが、今は<wbr>四方が紅く染め上げられている。</p><p>川に沿って、下り始めると今まで<wbr>目はじにあった庄川が正面に来た。</p><p>幾筋ものの白い線が上から下へと航跡を残し、岩にその筋をかき消<wbr>されながら</p><p>流れていた。道野辺の濃い緑が赤色と混じり目に届き、足元から川<wbr>までの竹藪の</p><p>青さばかりが目立っていた。さらに進むと紅き日は下<wbr>草の笹にこぼれるばかりで、</p><p>そのうちの一本秀でた笹だけが輝いて<wbr>いた。すでに薄暗くなった中に、幼さが</p><p>まだ残る地蔵さんが赤い首<wbr>かけをかけて小さな石の祠の中で笑っていた。</p><p>木立の間に星の雫が<wbr>見え始まっていた。ちらりと太田さんを見た。</p><p>赤く照らされた中に<wbr>数条の皺が深く刻まれている。私と同様に今夜の宿が</p><p>彼の意識全部<wbr>を支配しているような面持ちに見えた。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokusan-88sien/entry-12296592109.html</link>
<pubDate>Fri, 28 Jul 2017 14:40:57 +0900</pubDate>
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<title>人生最後の旅（山道の一情景その２）</title>
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<![CDATA[ <p>暗い谷間に挟まれ、ブナやミズナラの木々が覆いかぶさるように家<wbr>を覆っている。</p><p>それは母なる森が住む人を慈しみ、育てている揺籃の趣があった。<wbr>木々の狭間を縫うよ</p><p>うに数条の光が差し込んでおり、その光を浴びるかのように階段状<wbr>の道が見えた。</p><p>「身を清めるときの小屋ですよ」</p><p>すでに唸るような水音が周囲を支配していた。滝つぼは見えないが<wbr>、降り注ぐ水膜と立ち上る霧が</p><p><font face="ＭＳ 明朝, serif">木々の葉をしとどに濡らし、小さな虹が幾重にも木々の間に虹橋を<wbr>見せている。</font></p><p>谷すその階段を上るとピンクと白の花が薄明るく谷肌に見えた。そ<wbr>の下に蒼白く光る滝つぼが</p><p>小さな渦をまいていた。時折、薄い霧がその上をゆっくりと流れて<wbr>いく。</p><p>ピンクの花のさく木はタニウツギ（谷空木）と呼ばれものだ。一度<wbr>、桃畑の少し奥の山際で</p><p>ピンク色の花が密集して咲き揃い茶褐色に削られた山肌が別のもの<wbr>にみえたことがあった。</p><p>白く咲き誇る木々はよくわからないが、ミズキ、エゴ、ヤマボウシ<wbr>等のものなのであろう。</p><p>白い木の花が水に映え濃い緑に覆われた山肌にその白さを際立てて<wbr>いる。</p><p>滝は１０メートルほどのもので、２人に覆いかぶさるように白い縦<wbr>縞をみせている。</p><p>&nbsp;</p><p>木漏れ日が滝の水を白銀に光らせ、近くの岩場を万華鏡のように様<wbr>々な色をみせる。</p><p>大小の岩がその身を打つ修行者のように水に打たれ、ぬめりとした<wbr>淡い光を反射させている。</p><p>薬袋はしばしその力強い音と光、さらに吹き付ける霧水を満身に浴<wbr>び、そこに佇んでいた。</p><p>無意識に足が動き、さらに滝つぼに近づく。それは何かが彼を誘っ<wbr>ているようにも思えた。</p><p>太田さんが何かを叫んでいるが遠い過去からの声としか聞こえない<wbr>。</p><p>&nbsp;</p><p>信仰や神と言うものは、このような体験から来るのであろう、とも<wbr>思えた。</p><p>人が思わず粛然として身を正すような風景や情景、場、それこそが<wbr>、「神の情景、風景」</p><p>と呼ばれるものなのであろう。仏像にしろ、神社ににしろ人は形に<wbr>見える存在に自身の</p><p>心を委ねるものだ。</p><p>日本人が神を感じてきた風景、情景、場は様々である。たとえばそ<wbr>れは、陸地と海の境界</p><p>である岬だったり、山々であり、滝であり、島であったり、巨木、<wbr>巨石であり、何かしら</p><p>象徴性のある姿、形が受け入れられてきた。</p><p>更には、火山であり、地震、大雨強風などしばしば人間に害をもた<wbr>らす自然現象でも</p><p>あったと思う。江戸時代、富士へ登ることが自身の信仰、神への願<wbr>いとして盛んだった</p><p>のもそうであろうし、他の霊山信仰も同じなのであろう。この科学<wbr>と言う智慧によって</p><p>それらがある程度人が制御できるものと分かった現在でも、神の真<wbr>意として畏怖の念で</p><p>受け止める場合も少なくない。</p><p>&nbsp;</p><p>祭とはそれら不可思議なものへの畏怖の念を尊敬、感謝の気持の表<wbr>現としての行為であったのだ。</p><p>三十年以上前に母に連れられ新宮の神倉神社のいわゆる磐座とよば<wbr>れる男根のように見える</p><p>巨石が夕陽の中で薄赤く光り輝く姿にはなんともいえない衝撃を受<wbr>けたものだった。</p><p>このゴトビキ岩の元で行われる御燈祭りは、急な階段を松明の火が<wbr>一気に駆け下りる火の</p><p>流れとともに記憶に残っている。</p><p>&nbsp;</p><p>母が幼い子をなぜ連れて行ったのかはわからなかったが、その情景<wbr>は明瞭な記憶として</p><p>心のどこかに焼き付けられている。</p><p>彼もまた、わずかながらでも神の存在を意識して生きてきた人間で<wbr>もある。</p><p>昔死んだ母の実家であった山形で夏休みを過ごした時の夕暮れの森<wbr>で感じた</p><p>忠を浮くような感覚と白き影の如く森の奥に消え去ったひと形の何<wbr>か、畏敬と母の温かみ</p><p>を持ったその姿を暫らく忘れることが、出来なかった。</p><p>さらには、４０代自分の力に酔っていたころ、<wbr>ブラジルのイグアスの滝で感じた流れ</p><p>落ちる水の爆音と吹く風の中で訪れた一瞬の静寂の心地よさに自分<wbr>の存在さえ忘れたとき、</p><p>何かが自分の近くに舞い降りたと感じられた、<wbr>あれは何だったのだろうか、神、と</p><p>思ったこともあった。苔生す石畳を歩く音、<wbr>聳え立つ杉の間からわずかに見える日の光、</p><p>天狗岩から見た流れ行く雲と山の端の色の変化、<wbr>全てが一つの力となり自分の周り迫った</p><p>１０数年前、友達と歩いた熊野古道での経験が追い討ちをかけるか<wbr>のように</p><p>忽然と眼前に広がる。</p><p>&nbsp;</p><p>さらには、その中にいる姑息な自分への腹だたしさが再び自分の血<wbr>を逆流させていた。</p><p>岬とは、陸地が果てる空間であり、海とのしのぎを削るせめぎ合い<wbr>の場所だ。</p><p>吹きさらす風と眼下に広がる泡立つ水面、そして何の色合いもない<wbr>岩の肌。古来より、</p><p>日本人は岬を「常世」との結節点と考えてきた。現に多くの岬には<wbr>その先に神社を</p><p>祀っているところが少なくない。御前崎燈台を見たときにも、その<wbr>ような神社があった。</p><p>&nbsp;</p><p>彼にとっても、神であろうが、仏であろうが、今の自分の心の闇に<wbr>寸分の明るさをもたらす</p><p>ことであれば、何でも良かった。それがイグアスのような神の降り<wbr>立つような場所の天啓</p><p>であるかもしれないし、偉いと言われる坊さんの言葉かもしれない<wbr>し、古き家々、神社、</p><p>寺など日本人の育てた心への触発かもしれないし、熊野古道で感じ<wbr>た自然から癒し、</p><p>何気ない人との会話からかもしれない。</p><p>でも、そんな心根を優しく包み込み人の世界で生活し続けられたの<wbr>は、妻のお陰であった。</p><p>&nbsp;</p><p>日も射さず、よほど自分に絶望し、自分を捨てる覚悟がなくては住<wbr>めない。</p><p>自身の数か月前の思いとは別に、俺も住めない、そんな考えがまず<wbr>浮かんだ。</p><p>人は勝手なものだ。生きることが面倒くさくなっても、こんな場所<wbr>では、という思い</p><p>がわいてくる。この細く侘しい滝、暗い袋小路のような場所にいる<wbr>と、</p><p>大滝から浴びるように届く水と音、それに木々のざわめき、から受<wbr>ける清涼さの情景が消え、</p><p>陰気さと周囲の重さに思わずたじろぐ自分がいた。</p><p>暗い気持ちで元の山道へと戻った。杉の木々が急な斜面に数百以上<wbr>、そのまっすぐな</p><p>姿形を並び立てている。その間をすうと鳥影が走りその羽音が消え<wbr>るとまた静寂が</p><p>彼を包み込む。不安の黒い塊がわき始めたころ、祭囃子のわずかな<wbr>響きがその心を抑えた。</p><p>足の運び、その痛みも心なしか軽くなったようだ。</p><p>遠く聞こえる祭囃子の音を聞きながら、家の近くの神社で行われる<wbr>神社奉納の祭りの</p><p>事が思い出された。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokusan-88sien/entry-12294599275.html</link>
<pubDate>Fri, 21 Jul 2017 14:05:18 +0900</pubDate>
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<title>人生最後の旅（山道の一情景その１）</title>
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<![CDATA[ <p>２人は、雑木林と村の石垣の狭間を抜けるように石畳が森へと続い<wbr>ている。</p><p>かぐわしい雑草の匂いと草を食む牛たちの姿が遠くに見える。</p><p>白山の頂は薄い雲に隠れ、中腹までの様々な緑の色合いがそれに溶<wbr>け込んでいる。</p><p>見事な配列の若杉の黄緑、茶褐色と薄緑の灌木などの中にマンサク<wbr>、クロモジ、</p><p>キブシなどような黄色の点描が加わり、昔妻と見た佐賀で織られる<wbr>という鍋島段通</p><p>の趣を見せている。太田さんが秋の真っ赤な紅葉と黄葉と夏の常緑樹の<wbr>深緑の様は何か</p><p>の織りもので素晴らしいというが、彼にとっては、春もまた違っ<wbr>た色合いの織り</p><p>世界でもあった。石畳が切れ、細い山道となった。先ほどまでの雨<wbr>の雫が彼らの歩みに</p><p>そうかのように緑葉から滑り落ち、一瞬の輝きをみせ足元に落ちて<wbr>いく。</p><p>&nbsp;</p><p>歩みを進めるにつれ、次第に狭まる田んぼと灌木と枯葉が残る谷間<wbr>が奥へと伸びている。</p><p>その先を目で追えば、田んぼはやがて消え、山道もさらに細くなっ<wbr>て、林の中へと</p><p>溶け込んでいた。太田さんがこの田んぼは山際の村人が個人で作った<wbr>田んぼで、よく</p><p>谷津田と呼んで、米を作ったりして日々の食料を確保していたのだ<wbr>という。</p><p>奥には池があり、そこから幾筋もの細い水の流れが田んぼの中、そ<wbr>の横の小川へと</p><p>向かっている。ふと、小川の流れに小さなものが群れ動き、千々た<wbr>る小さな光を</p><p>発していた。メダカだった。薬袋がそれに気づき、顔をその小川の<wbr>緩い流れの中に映すと、</p><p>その気配に驚いたのかメダカたちは、一瞬にして四散し、数秒後に<wbr>は何もなかった</p><p>ようにまた眼前に現れ、水の流れに向かって整列した。一糸乱れぬ<wbr>行儀の良いその姿に、</p><p>彼は感心した。一刻の心の休憩でもあった。もっとも、太田さんは<wbr>それに興味を示さず</p><p>さらに奥へと進んでいく。昔来たというが、その迷いのない足運び<wbr>に少し安心を</p><p>覚える自分がいた。</p><p>&nbsp;</p><p>杉の木立はまだ続いていた。それは中天の光を隠し、二人を見下ろ<wbr>すように立ち並んでいた。</p><p>細い山道がつづら折りに伸び、薄暗がりに消えていく。光明の如き<wbr>薄い光がその先で揺れ、</p><p>樹々の吐き出す息が二人の吐く息と同調し、相互に響きあいながら<wbr>一つのリズムを</p><p>作りあげていく。わずかな空気の流れが二人の頬をかすめていくが<wbr>、聞こえるのは</p><p>山道を踏みしめ歩く自分たちの足音と踏みしだかれる落ち葉の音だ<wbr>。静寂が周囲を</p><p>押し包み、はらりと何かの葉が足下に落ちてきた。幾筋の細く差し<wbr>込む光りをさえぎり、</p><p>小さな影が通り抜けていく。ヤマガラかホオジロか定かではない。<wbr>朽ちかけた標識と</p><p>小さなお地蔵が互いに寄り添うような形で目の前にあった。</p><p>五宝滝へ行くための案内のようなものだ、<wbr>と太田さんが微笑みながら説明する。</p><p>上りの勾配がきつくなり、山道を歩く音に合わすかのように二人の<wbr>息づかいが高まり、</p><p>誰か人がいるかのように聞こえ始まる。その息遣いを縫うかのよう<wbr>に水音が漏れてきた。</p><p>&nbsp;</p><p>それはわずかに流れる風音の中に、踏み敷く落ち葉の中に、さえず<wbr>る鳥たちの啼き声の中に、</p><p>消えてはまた現れた。</p><p>「野に山に仏の教えはみつるれども仏の教えと聞く人ぞなし」</p><p>ふと、こんな歌が浮かんだ。神呂木のじいさんが暇だったら、これ<wbr>でも読んだらと言って</p><p>渡してくれた「正法眼蔵の渓声山色」の読み下しの中で見た歌だ。</p><p>不思議とこの言葉だけがすっと心に入った。</p><p>&nbsp;</p><p>途絶えることなく流れ続ける谷川の音、刻々と移りゆく雄大な山の<wbr>景色、渓谷も山も</p><p>説法を惜しまず語り続けている、という。</p><p><font face="ＭＳ 明朝, serif">この一文の説く意味、彼には不明だ。そのうちに神呂木のじいさん<wbr>に教えてもらおうと</font></p><p><font face="ＭＳ 明朝, serif">思ったが、そのままだった。</font></p><p>「まだ遠いの」</p><p>「もう少しですよ。滝の音も聞こえているでしょ」</p><p>すでに体中から汗が噴き出していた。長袖のシャツは汗を含み背中<wbr>にべっとりと張り付いたままだ。</p><p>さすがに、太田さん息の切れた様子も背中の汗も目立っていない。<wbr>額から落ちる汗に目がかすみ、</p><p>首筋を伝って背中を汗がかけ落ちる、そんな感じがした。眼の前を<wbr>歩く太田さんの背中と</p><p>足元の茶褐色の土にしか目が行かなくなっていた。</p><p>突然、森が切れ、視界が広がる。</p><p>「この先が五宝滝ですよ」</p><p>縦横二百メートルほどの広さを持ち森の重さがすっぽり抜けたよう<wbr>に蒼い空の下に小さな草花</p><p>を咲かせていた。鷲か鷹か判然としないが、蒼き天空を二羽の鳥が<wbr>旋回している。</p><p>「昔、ここには修験者の人が庵を作って住んでいたらしいですけど<wbr>。何もないでしょう。</p><p>自然は人間が手を緩めるとすぐにそれを消し去ってしまうんですよ<wbr>」</p><p>太田さんはその野原を見渡し、素っ気なく言った。<wbr>その風情は何処か修行者の趣がある。</p><p>滝音が先ほどとは違い、明瞭に聞こえてくる。熊笹が一面生えわた<wbr>りその中を一本の細い道が</p><p>一直線に黒い線を描きながら下へと延びていた。沢を少し進むと山<wbr>の割れ目のように</p><p>急に深い谷間になり、さらに二百メートルほど入ると小屋があった<wbr>。茅葺きの屋根はまだ青さを</p><p>残す趣で１０畳ほどの広さの板敷の１間が黒く艶やかな光を放って<wbr>いる。玄関も横の縁側も</p><p>鍵がかかっており、その前に木造りの椅子が一つ草の中にぽつねん<wbr>とおいてある。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokusan-88sien/entry-12292528566.html</link>
<pubDate>Fri, 14 Jul 2017 13:32:23 +0900</pubDate>
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<title>人生最後の旅（三島周遊その５）</title>
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<![CDATA[ <p>熱海につく時間が気になったが、三嶋大社から二十分ほどにある自<wbr>然公園</p><p>「柿田川湧水群」を訪ねた。</p><p>ここは、約四十キロ先にある富士山に降った雨水や雪解け水は、そ<wbr>こから</p><p>駿河湾まで延々続く三島溶岩流の間を、数ヶ月から数年という長い<wbr>年月を</p><p>かけて潜り抜けた豊富な湧き水が街の一角に豊かな森を育み、<wbr>近年稀に</p><p>見る自然の生態系を、この場所に造りあげた、という。</p><p>五年ほど前に比良でも、比良山系の湧水の場所を色々と探し紹介し<wbr>たことも</p><p>あった。すぐに瓦屋根の大きな備前様式の旧家などの様々な店が目<wbr>についた。</p><p>柿田川の水を使用して作られた豆腐が名物という。京都には嵯峨豆<wbr>腐</p><p>「 森嘉」がある。嵐山に行くと寄ったものだが、<wbr>川端康成や司馬遼太郎</p><p>の小説に登場し、天龍寺をはじめとした禅宗寺院や料亭で用いられ<wbr>ている</p><p>木綿豆腐は、｢箸にもかからん｣<wbr>と言われるやわらかさで知られている。</p><p>一般に木綿豆腐は固く、絹ごしはやわらかいものだが、嵯峨豆腐は</p><p>なめらかさと大豆の風味がしっかり感じられる。平野とうふ店も手<wbr>作りで</p><p>昔ながらの豆腐のうまさは言うまでもないが、<wbr>味は少し違うようだ。</p><p>食はその地の気候風土が育てるというが豆腐一つにもそれが現れる<wbr>のであろう。</p><p>いずれにしろ夏の暑さの中、冷えた豆腐は極上のおいしさである。</p><p>石畳の遊歩道は、ケヤキやエノキ、ヤブニッケイ、ヤブツバキに囲<wbr>まれた</p><p>森へとつながり、小さな昆虫たちの姿があちらこちらで見られる。</p><p>ミシマバイガモという水生植物やカワセミ・ヤマセミをはじめとす<wbr>る水辺</p><p>に暮らす野鳥、ゲンジボタルやアオハダトンボ・<wbr>タビドサナエなどの昆虫類、</p><p>アマゴやアユカケなどの紹介があるが、よくわからない。せせらぎ<wbr>が足元から</p><p>緑の中に奏でられ、千地とした木漏れ日が体を包み込んでいく。ち<wbr>ょっと</p><p>寄ってみようかなの気持ちで来たが、自分の中にあるまだくすぶっ<wbr>ている</p><p>ような黒い種火がさらに消されていく、そんな思いが強くなった。</p><p>&nbsp;</p><p>あらためて「渓声山色」の四字が思い浮かんでくる。</p><p>遊歩道沿いのポコポコと湧き出している水脈の音が何かを暗示して<wbr>いるかの</p><p>ように薄暗闇の中に響いていた。広場で遊ぶ家族連れ、ベンチで読<wbr>書を楽しむ</p><p>お年寄り、小さな楽器を持ち込んで練習をする若者の姿など、それ<wbr>ぞれが</p><p>それぞれの思いを現している。全長千二百メートルにも及ぶ柿田川<wbr>の最上流部</p><p>が一望できる場所に立つと、住宅街のすぐ下から突然湧き出してい<wbr>るその</p><p>光に映え四方に飛び散る急激な流れに、改めて自然の大きさや力強<wbr>さという</p><p>ものを実感させられた。</p><p>栄光と失意を味わったこの地であるが、新たな思いを持ちつつ離れ<wbr>る。</p><p>後ろ髪を引くかのような思いが熱海に向かう山道でふつふつとわい<wbr>てきた。</p><p>それは、唐木順三が「日本の心」に書いていたものだ。</p><p>&nbsp;</p><p>「かって柳田国男の書いたものの中で読んだ記憶がある。昔の旅人<wbr>は、</p><p>泉を大切にし、清潔にし、後から来る旅人たちを快くここに憩わせ<wbr>ようと</p><p>する配慮をした。それが旅するものの道徳であるとともに慣習であ<wbr>った。</p><p>、、、、、、、</p><p>水は人間にとって、最も根本的な必要物である。砂漠の中のオアシ<wbr>スだけを</p><p>言うのではない。豊葦原の瑞穂の国と自ら国を呼びなわらした、水<wbr>の国の</p><p>日本においても、水は基本的な条件であった。主食をコメに仰ぐ日<wbr>本人に</p><p>とって、稲作の出来不出来は一年乃至両三年の運命に関係する。稲<wbr>は水を</p><p>必要とする。良質の水を不断に得るということが生活の基本条件で<wbr>ある。</p><p>夏の旱魃期には水争いも起こるが、水源を確保すること、治水治山<wbr>は国民</p><p>共通の役目でもあった。</p><p>水に対する関心、水への尊敬の念は、日本の文化の一つの特色をな<wbr>している</p><p>ように思う。</p><p>水の豊かな国土は、同時に水害に見舞われやすい国土である。一方<wbr>では水に</p><p>感謝するとともに他方では水を恐れた。そしてその感謝も畏怖も、<wbr>直ちに</p><p>国民の生活に根本的に関係していた。龍神の祭事、水天宮や天皇の<wbr>祭事、</p><p>源実朝の「八大龍王雨やめ給え」という祈念、<wbr>雨ごいやテルテル坊主の行事、</p><p>そういう祭事や行事はいたるところにある。</p><p>水は生活の基本条件であるが、同時に日本ではそれが文化や芸術の<wbr>条件でも</p><p>あった。水田の造営そのものが、一種の芸術的な営為であった。</p><p>水路を造り、畦を塗り、田の形をととのえる。段地での水田構築は<wbr>石垣を</p><p>積んだり、堤を造らねばならぬ。土地に従って、<wbr>田の形を考えなければならぬ。</p><p>早稲を植え、水を張ったころの水田の縞目がやがて桂離宮の構想に<wbr>関係して</p><p>いるとさえいった人がいた。</p><p>山水という言葉が直ちに風景を意味するということは、日本人の自<wbr>然観、</p><p>風景観を物語ってもいるだろう。水墨画、墨絵には水は殆どつきも<wbr>のといってよい。</p><p>船を浮かべて糸を垂れて釣りする人を書いても、その船は軽舟、人<wbr>物の顔も</p><p>しかとわからないほどの点景にすぎない。岩と水と、山と川と、<wbr>それが</p><p>画題のテーマである。庭あれば池あり、池あれば石組みあり、<wbr>それが庭</p><p>というものの通念をなしている。そして、<wbr>庭園芸術は最も庶民的な芸術</p><p>であるとともに、世界に誇っていい高度の芸術性を帯びている」</p><p>&nbsp;</p><p>家の近くの湧水の清らかな水、郡上八幡の水を基本とする生活、手<wbr>入れの</p><p>行き届いた棚田の情景、それらが一コマの絵となり、やがてこの文<wbr>の</p><p>切れ切れの想起に合して古きトーキーの映画となっていく。<wbr>それが彼の歩みに</p><p>一つのリズムを与えていた。</p><p>&nbsp;</p><p>少し微妙な気持であるが、時間が平安という気持を与えてくれたよ<wbr>うだ。</p><p>今の日本は、かなり外れた山道を行かない限り、砂利道や土の匂い<wbr>の残る道は</p><p>ないのであろうか。熱海に向かって、東へと進むが、ややでこぼこ<wbr>の道では</p><p>あるものの、舗装された山道が幾つかあるゴルフ場の森や茂みを縫<wbr>うように</p><p>走っている。先ほどから両脇のフェンスや時たま見えるグリーンの<wbr>横を</p><p>ゆっくりと進むが、結構勾配がきつい。<wbr>途中で箱根旧街道の石畳に出会う。</p><p>両側に長く続く石垣の苔と不規則に敷かれた石畳に木々のちぢたる<wbr>光の</p><p>彩が投げかれ、一刻の心の安らぎを与えてくれる。</p><p>昔はここを多くの旅人がさざめきながら行き歩いていったのであろ<wbr>う。</p><p>林が切れたところに夏草に覆われた塚と四方にのびやかに枝を伸ば<wbr>している</p><p>榎木があった。立て看板には、「錦田一里塚」とある。</p><p>江戸時代に旅人の道しるべとして四キロごとに設けられたというが<wbr>、藤川宿</p><p>やほかの一里塚と違い、立派な姿を見せている。当時旅は、<wbr>死をも覚悟の</p><p>行動でもあった。お伊勢参りや金比羅参り、また京への旅、<wbr>多くの庶民、</p><p>武士も含めてその人生の大きな節目でもあったのだろう。</p><p>人生にもこの一里塚のような明確な目標があれば、また違うのかも<wbr>しれない。</p><p>そんな埒もない思いがふと湧いてくる。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokusan-88sien/entry-12290530267.html</link>
<pubDate>Fri, 07 Jul 2017 18:57:29 +0900</pubDate>
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<title>人生最後の旅（三島周遊その４）</title>
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<![CDATA[ <p>今読み返しても、その言葉をなぞっても、決してその古さを失って<wbr>いない。</p><p>さらに彼は言う。</p><p>まずは、けだし、個人とは、けっして荒野に孤独を守る存在でもな<wbr>く、</p><p>強く自己の同一性に固執するものでもなくて、むしろ、多様な他人<wbr>に</p><p>触れながら、多様化していく自己を統一する能力だといえよう。</p><p>皮肉なことに、日本は６０年代に最大限国力を拡大し、まさにその<wbr>こと</p><p>ゆえに、７０年代にはいると国家として華麗に動く余地を失ふこと<wbr>になった。</p><p>そして、そのことの最大の意味は、国家が国民にとって面白い存在<wbr>では</p><p>なくなり、日々の生活に刺激をあたへ、個人の人生を励ましてくれ<wbr>る劇的な</p><p>存在ではなくなった、といふことであった。いはば、<wbr>前産業化時代の社会に</p><p>おいて、大多数の人間が「誰でもない人（ノーボディー）」であっ<wbr>たと</p><p>すれば、産業化時代の民主社会においては、それがひとしなみに尊<wbr>重され、</p><p>しかし、ひとなみにしか扱はれない「誰でもよい人（<wbr>エニボディー）」</p><p>に変った、といへるだらう。（中略）これにたいして、いまや多く<wbr>の人々</p><p>が自分を「誰かである人（サムボディー）」として主張し、それが<wbr>また</p><p>現実に応へられる場所を備へた社会がうまれつつある、といへる。</p><p>確実なことは、、、、、、ひとびとは「誰かである人」として生き<wbr>る</p><p>ために、広い社会のもっと多元的な場所を求め始める、といふこと<wbr>であらう。</p><p>それは、しばしば文化サーヴィスが商品として売買される場所でも</p><p>あらうし、また、個人が相互にサーヴィスを提供しあふ、一種のサ<wbr>ロン</p><p>やヴォランティア活動の集団でもあるだらう。当然ながら、<wbr>多数の人間が</p><p>なま身のサーヴィスを求めるとすれば、その提供者もまた多数が必<wbr>要と</p><p>されることになるのであって、結局、<wbr>今後の社会にはさまざまなかたちの</p><p>相互サーヴィス、あるいは、<wbr>サーヴィスの交換のシステムが開発されねばなるまい。</p><p>もし、このやうな場所が人生のなかでより重い意味を持ち、現実に<wbr>ひとびと</p><p>がそれにより深くかかはることになるとすれば、期待されることは<wbr>、一般に</p><p>人間関係における表現といふものの価値が見なほされる、といふこ<wbr>とである。</p><p>すなはち、人間の自己とは与へられた実体的な存在ではなく、それ<wbr>が</p><p>積極的に繊細に表現されたときに初めて存在する、といふ考へ方が<wbr>社会の</p><p>常識となるにほかならない。そしてまた、さういふ常識に立って、<wbr>多くの</p><p>ひとびとが表現のための訓練を身につければ、それはおそらく、従<wbr>来の</p><p>家庭や職場への帰属関係をも変化させることであらう。</p><p>これで、われわれが予兆を見つつある変化は、ひと言でいへば、よ<wbr>り柔らかで、</p><p>小規模な単位からなる組織の台頭であり、いひかへれば、<wbr>抽象的な組織の</p><p>システムよりも、個人の顔の見える人間関係が重視される社会の到<wbr>来である。</p><p>そして、将来、より多くの人々がこの柔らかな集団に帰属し、具体<wbr>的な</p><p>隣人の顔を見ながら生き始めた時、われわれは初めて、産業か時代<wbr>の社会</p><p>とは歴然と違ふ社会に住むことにならう。</p><p>&nbsp;</p><p>この三十数年前に語られた言葉がインターネットの深化に伴い、現<wbr>在起きている</p><p>ことであり、それに対する個人の生きる指標でもあるようだ。<wbr>この老いた</p><p>人間にもわかる。巷ではバブルの崩壊が囁かれる様になっていたし<wbr>、どこかで、</p><p>「己の幸せは何」という気持が漠然と働いていたのであろう。</p><p>眼前の忙しさの中にも、世の中の変化は迫ってきた。週休一日が半<wbr>ドンを入れて</p><p>の週休二日になり、働く事への後ろめたさが漂いはじめていた。</p><p>そして六十歳定年制が同じ頃話題となった。社会とは不思議なもの<wbr>だ。</p><p>この六十歳定年が、私が五十五歳になる頃また五十五歳へと戻って<wbr>くるのだ。</p><p>十五年ほど前の年寄り不要論に振り回されて会社の中で右往左往す<wbr>る自分たち</p><p>の姿を思い出すにつけ、苦い思い出が走馬灯のように私を駆け巡る<wbr>。</p><p>さらには、派遣の女性社員が私の周りにも増えてきた。彼女らの不<wbr>満や相談に</p><p>乗る時間も増えてきた。我々の時代、終身雇用が当たり前だと思っ<wbr>ていたが、</p><p>それが砂浜が侵食されるように派遣社員の増加となり、職場の雰囲<wbr>気も</p><p>変わってきた。ワーキングプア、この存在し得なかった言葉が当た<wbr>り前の</p><p>時代になっている現実は夢の世界なのであろうか。</p><p>働く事でその成果が年々見えていた時代、今思えば、<wbr>なんと幸せな時代を</p><p>過ごせたのであろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>「己の幸せ」そんな話を工場で設計に埋没していた友人と話したこ<wbr>とがふと</p><p>浮かんできた。余りにも呑気蜻蛉の世界にいたのでろうか。</p><p>しかし、それで自分の生活が変わった事はなかった。先ずは家族と<wbr>ともにより</p><p>良き生活をおくることが当時の私にとっては最優先の行動であった<wbr>。</p><p>幸せの確かさは収入をアップする事、この簡単明瞭な目的が全てで<wbr>あった</p><p>のかもしれない。そして、後に幸せイコールお金と言う単純明確な<wbr>この論理に</p><p>自分が不幸せになりそうになる事になるとは思いもよらなかった。</p><p>この場所にいると、ここでも時の残酷さをあらためて思う。</p><p>その当時、ここで勤務していた友人も、すでにいるはずはなく、今<wbr>、この</p><p>穏やこの地で、ノンビリと過ごしているのだろうか。</p><p>多分、その店であったのだろう、既にあやふやとなった記憶ではあ<wbr>るが、</p><p>駅前の喫茶店でコーヒーを飲む。口ひげに黒い縁のめがねがよく似<wbr>合う若い</p><p>店主が、ドリップしながら、<wbr>常連客と昨日の巨人と阪神の試合について、</p><p>喋っている。外の緊張した朝の空気とは別にここには日常の穏やか<wbr>さがある。</p><p>やや掠れたソファーに座りながら、外を見れば、何人かの高校生が<wbr>駅に</p><p>飛び込んでいく。このあまりにも強い日常性に、少し戸惑いを感じ<wbr>、まだ</p><p>温かさの残るコーヒーに別れを告げる。</p><p>ふと先ほどの友人と訪れた三嶋大社を思い出す。白い御影石の大鳥<wbr>居を過ぎ、</p><p>二人でのんびりと石畳を歩いた。石畳は一直線に本殿へと延びてい<wbr>たその</p><p>直線的なたたずまいが気に入った。両脇に咲き誇る桜を愛でながら<wbr>ピンク色</p><p>に染まった道のきらめく桃色と朱色のさざめきを体に感じ一時の安<wbr>寧を</p><p>思ったものだ。夕陽を浴びて舞い落ちる桜を見ていると、なぜかそ<wbr>の無常を</p><p>感じた。ドナルド・キーンもうまいことを言っている。</p><p>「美の本質的要素としての、この非永続性は、長い間日本人によっ<wbr>て、暗黙の</p><p>うちに重視されてきた。開花期が長い梅や、ゆっくりしおれてゆく<wbr>菊よりも、</p><p>早々と散り果てる桜の方が、はるかにこの国で尊ばれるゆえんであ<wbr>る。</p><p>西洋人は、永遠の気を伝えんがために、<wbr>神々の寺院を大理石で建てた。</p><p>それに反して伊勢神宮の建築の持つ本質的な特色は、その非永続性<wbr>にほかならない」と。</p><p>&nbsp;</p><p>ここは、源頼朝が源氏再興を祈願した神社である。その思いがこの<wbr>中に凝縮</p><p>されているように思えた。総門の右側にあるお茶屋さん「<wbr>福太郎茶屋」で</p><p>「福太郎餅」を食べた。こしあんで包んだ草餅で、甘さと硬さがう<wbr>まく口の</p><p>中で踊った。友人は、新製品の話、その開発の苦労と気概、私にと<wbr>っては</p><p>すでに過去の仕事となったが、について語っていた。彼の草餅を頬<wbr>張りながら</p><p>話す言葉に開発の面白さがほろ苦く思い起こされた。</p><p>駅から南へ少し歩くと石柱と大鳥居が強い陽射しの中で昔と変わら<wbr>ぬ姿を</p><p>見せていた。その時は赤く色づく夕暮れの訪問であったが、近くの<wbr>川に繊細な</p><p>光りを放つ蛍を見たのを思い出した。黒く沈む石垣の間を赤く映え<wbr>る川面</p><p>の流れの上を青白く浮遊する数個の光があった。それは弱々しくも<wbr>しっかり</p><p>とした光点として周遊していた。この近代化された東海道周辺であ<wbr>っても</p><p>富士山の恩恵が静かに、そして緩やかに及んでいるのだろう。</p><p>三島は「湧き水の街」であり、富士からの清流の恩恵の一つが蛍と<wbr>言う心地</p><p>よい光りを与えている。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokusan-88sien/entry-12288348474.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Jun 2017 15:53:00 +0900</pubDate>
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<title>人生最後の旅（三島周遊その３）</title>
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<![CDATA[ <p>彼にとって広重の五十三次の原宿風景は、そのまま以前の会社の沼<wbr>津工場</p><p>の思いを引き起こす。</p><p>画の一番上の赤の一文字引きが示す朝焼けの富士とその右に描かれ<wbr>た宝永山、</p><p>愛鷹山のでこぼこした風情、白く延びていく山の端とその下に広が<wbr>る野辺</p><p>ののどかさ、更には画の中央で煙草を一服ふかしながら後方の富士<wbr>を</p><p>仰ぎ見る母と娘、挟み箱を天秤棒にかけて従う供の者、<wbr>野辺に降立つ鶴、</p><p>それぞれが静かに織り成す情景は昭和最後の時代であっても、その<wbr>面影が残り、</p><p>仄々とした気持を与えたものである。</p><p>時代変化の激しさを追いかけ、自信を持って仕事をこなしていたわ<wbr>が身に</p><p>薄衣の柔らかさと暖かさを与えし情景であった。また、そのギャッ<wbr>プの大きさ</p><p>に驚いている自分もいた。雨上がりの三島の街は、<wbr>静かに私を迎えてくれた。</p><p>幾つかのアーケードのある商店街を歩き、また、シャターの多いの<wbr>を気に</p><p>しながらも、駅のロータリーへと誘われた。三島の駅前は、三十年<wbr>以上前の</p><p>記憶とあまり変わっていなかった。よく駅前のビジネスホテルに泊<wbr>まった</p><p>ものであるが、かなり外装はその年輪を感じさせるもではあったが<wbr>、まだあった。</p><p>しかし、以前に比べると人の姿が多くないと感じるのは、私の思い<wbr>違いで</p><p>あるのか。あの当時は、バスからドット出てくる人が一塊となり、<wbr>まるで、</p><p>新発売の製品を購入する人々の執念のような想いを見た様に思えた<wbr>ものである。</p><p>ここには大阪から何度となく訪れ工場に向かったシーンが思い出さ<wbr>れるが</p><p>今は大分違う様相である。工場も、世界最高水準の大型計算機を作<wbr>っている</p><p>という気概が溢れていた。その後方にあった研修所には、良く外国<wbr>の</p><p>人々が研修と工場見学のため、訪れていた。遠く臨む駿河湾の静か<wbr>な佇まい</p><p>と広々とした敷地内に漂う硬質的な緊張感とその穏やかさが、訪れ<wbr>る度に</p><p>全身に流れ出るのを感じたものである。四十代のエネルギーをこの<wbr>工場に</p><p>溢れる熱気と同期させていた。しかし、月日の流れの中で、<wbr>大型計算機は</p><p>脇に追いやられ、いつしかここを訪問する機会も減った。ものづく<wbr>りの</p><p>中核的なあの頃の姿は、多分、もう見られないのであろう。</p><p>私自身も、ここと川崎のメンバーを動かしながら面白いように仕事<wbr>が進んだ。</p><p>高度成長の光りがまだ続いているといった楽観的生活の日々であっ<wbr>た。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、八十年代前半には、財政建て直しを目的とした土光臨調と<wbr>いう言葉が、</p><p>ただひたすら装置を開発し、それをお客と一緒に完成していく事に<wbr>のみに</p><p>追われていた私の耳にも届く様になっていた。<wbr>国鉄の破綻を防ぐためもあり、</p><p>国鉄、電電公社、たばこ公社が民営化され、様々な規制緩和が打ち<wbr>出されて</p><p>いく現場にいた。「規制緩和と言う波」<wbr>が三十代の旺盛な意欲に火をつけ、</p><p>身体と頭が猛烈に動いていった。ＮＴＴに伍していくための通信会<wbr>社の</p><p>立ち上げが面白い様に動いていった。<wbr>ネットワークインフラの会社などを</p><p>五、六つと立ち上げ、多くのシステム作りとビジネス拡大が目の前<wbr>で動いていく、</p><p>一つのビジネスで数十億の規模の仕事となり、あっという間に二百<wbr>億を</p><p>越える仕事となった。だが、この三島の栄枯盛衰と同様に、五十歳<wbr>直後</p><p>にはビジネスの規模も縮小して行った。会社全体が技術革新と社会<wbr>への</p><p>要請に対応できなくなっていたのだ。私自身も凋落の二字にただ戸<wbr>惑う</p><p>日々が続いていた。苦悩の続く中、<wbr>自分の実力のなさを思い知らされた。</p><p>深田社長の言葉を思い返したものだ。</p><p>「業績が数割のレベルでアップするのであれば、それはその人間の<wbr>実力と</p><p>努力の結果かもしれないけど、何倍も業績が上がるのであれば、そ<wbr>れは</p><p>ビジネス環境に活かされているだけよ。あなたも、自分の実力と過<wbr>信</p><p>すると大きな落とし穴が待っているわよ」</p><p>その通りになった。深田さんにはビジネス以外も色々教えてもらっ<wbr>た。</p><p>社長であるご主人が死んでから百億の規模の会社に育て上げた女傑<wbr>であった。</p><p>やる気がないと散々ごねたが無理やりゴルフをやらせられた。仕事<wbr>とは</p><p>関係のない人々との付き合いが出来たのも彼女のおかげであった。</p><p>&nbsp;</p><p>この時分、行き帰りのお幹線の中で山崎正和さんの本をよく読んだ<wbr>ものだ。</p><p>「柔らかい個人主義の誕生」など、「企業のために働く事で個人に<wbr>は</p><p>どんな幸せがあるのだろう」という問い掛けに答えられない自分が<wbr>いた。</p><p>世の中が何か変わっていくという感じに対しての回答が山崎さんの<wbr>本</p><p>にはあるような気がした。</p><p>これもそのきっかけは深田さんとの何気ない会話からであった。</p><p>この本は、１９８４年に刊行され、６０年代と７０年代についての<wbr>分析が</p><p>中心であるが、著者の「消費」の定義の仕方など、現在でも十分に<wbr>通用</p><p>する内容ではあるが、個人的には組織の中で一途に仕事に打ち込ん<wbr>でいた</p><p>自分にとってのこれからの社会への個人の関わりの変化を感じさせ<wbr>る</p><p>内容であった。</p><p>池田内閣の所得倍増計画の下で高度経済成長を目指していた６０年<wbr>代の</p><p>日本社会が、その目的を遂げた後、どのように変化していったのか<wbr>。</p><p>７０年代に突入して増加し始めた余暇の時間が、それまで集団の中<wbr>に</p><p>おける一定の役割によって分断されていた個人の時間を再統一する<wbr>道</p><p>を開いた。つまり、学生時代は勉学を、就職してからは勤労を、と<wbr>いう</p><p>決められた役割分担の時間が減少したことにより、余暇を通じて本<wbr>来の</p><p>自分自身の生活を取り戻す可能性が開けたということである。</p><p>こうした余暇の増加、購買の欲望の増加とモノの消耗の非効率化の<wbr>結果、</p><p>個人は大衆の動向を気にかけるようになる。以前は明確な目的を持<wbr>って</p><p>行動できた（と思っていたが）人間は、７０年代において行動の拠<wbr>り所</p><p>を失う不安を感じ始める。こうして、人は、自分の行動において他<wbr>人から</p><p>の評価に沿うための一定のしなやかさを持ち、しかも自分が他人と<wbr>は</p><p>違った存在だと主張するための有機的な一貫性を持つことが必要と<wbr>される。</p><p>それを「柔らかい個人主義の誕生」と彼は言う。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kokusan-88sien/entry-12286236738.html</link>
<pubDate>Fri, 23 Jun 2017 14:16:13 +0900</pubDate>
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