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<title>kouketsu-2020のブログ</title>
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<title>国枝史郎⑧ー伝奇小説と国枝史郎ー後</title>
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<![CDATA[ <div>国枝史郎⑧</div><div><br></div><div>大衆文学は講談の書籍化を進めた立川文庫から生まれた。<br></div><div>ただし国枝史郎の場合、単に伝奇小説を得意としたというだけでなく、こうはっきりと立川文庫に結びつけられているのは、彼の経歴に関わるのかも知れない。</div><div>国枝史郎が、大阪時代に当地の女性歌人たちと交流があったことは既に述べた。</div><div>当時の歌壇については実のところなにも知らないが、解説には阿部文子、矢沢孝子らの名が挙がっている。</div><div><br></div><div>彼女たちとの交流は、ただ歌人と記者との関係にとどまらず、大阪でバセドー病を発症した国枝は「孝子と文子に付き添われ長野県の実家に」帰ったという(末國善己①)。</div><div>さらに大正15年5月24日付けで国枝が阿部文子とその夫の照雄宛に送った手紙には、「大阪の友のうちでは、貴女、矢沢さん、蘭子さんなどが、特に親しく思われます」と書かれている(同上)。</div><div>この蘭子さんは、後に自身も作家となった(「女紋」昭和35年河出書房新社)池田蘭子のことで、立川文庫創始者の娘(真鍋元之②※)であった。</div><div>蘭子は立川文庫の編集にも携わっていたといい、国枝史郎は大衆文学の作家を志す以前に、立川文庫の編集者を通じて新作講談創作の要諦に触れられたのかもしれない。</div><div><br></div><div><br></div><div>ところで、そもそも伝奇とは何かといえば次のようなものだという。</div><div><br></div><div>中国，唐代の文語小説の総称。「奇なるものを伝える」の意で，もっぱら鬼神怪異の世界を描き，説話集の圏内にとどまる六朝時代の「志怪」に対して，より複雑な構成をもち，人生や社会の諸相に目を向け，自由に作者の空想力を働かせ，虚構文学の性格を強めている。</div><div>(ブリタニカ国際大百科辞典)</div><div>日本にも早くから伝えられ、平安時代の物語に大きな影響を与えた。</div><div>(大辞林)</div><div><br></div><div>つまり中国の文語小説は「奇なるものを伝える」ことから始まり発展してきたものだ。</div><div>その流れを汲んで、日本でも平安時代以来こうした物語の伝統があった、ということだろう。</div><div>辞書には日本の物語について具体的に書かれていからないが、「日本霊異記」や「今昔物語集」「宇治拾遺集」といった説話集の中に「奇なるものを伝える」奇譚の類が含まれているのは間違いない。</div><div>中世の能狂言や軍記物語中に収められた異伝・風聞の類、説経節などの口承文学の中にもこうした奇譚が含まれており、これを土台として浄瑠璃や歌舞伎、読本、後には講談のネタが生み出されてきた。</div><div>その流れの果てに国枝の近代伝奇小説は位置づけられる。</div><div><br></div><div>また、国枝史郎が短編小説上で悪党どもの異聞物語を展開するとき『緑林黒白』という、自ら「創出した架空の書物」からの引用という体裁を好んで用いている。</div><div>こうした手法は「江戸戯作の時代から用いられていた伝奇小説の定番」だという。</div><div>(「」内引用は末國善己②)</div><div>つまり国枝は講談や立川文庫だけでなく、講談を生み出して来た、より古い文芸からも自在にエッセンスを抜き出し取り入れていた。</div><div>これを言い換えれば、こういうことになるだろう。</div><div><br></div><div>　読本的、院本好みにせよ、あるいは民話的、伝説的にせよ、これらの諸要素はすべて、明治以来の日本の近代文学が捨てて顧みないものであったことを、指摘したいだけである。</div><div>　露伴、鏡花などをわずかな例外として、日本の近代文学はひたすらに合理性に立脚しての自我の解明にいそしんできた。そしてその結果は余計者的インテリゲンチャ向きの私小説となり、広汎な大衆のエネルギーとは無関係になり終わった。</div><div>　明治・大正・昭和を通じての日本文学が、このような細道をけんめいに辿っていたとき。“文学”に見捨てられた庶民大衆との、ロマンによる直結を企図したのが、古くは講談であり、新しくは大衆小説であった。</div><div>　その大衆小説の、いっぽうの旗頭としての国枝史郎が、おのれの立っている文学史的な位置について、どの程度の自負と自覚を持っていたか、はなはだしく疑問である。</div><div>(真鍋元之②)</div><div><br></div><div>嗚呼哀しきかな自覚なき先駆者、国枝史郎。</div><div>国枝が生み出した伝奇ロマンとはつまり日本的ロマン小説の牙城であり、青い鳥の例えのように国枝は己が信奉する道に先駆の明りを灯して歩みながら晩年までそうと自覚せずにいた。</div><div>純文学と大衆文学の融合が一つのムーブメントとなった1960年代後半から、主に戦前の、“忘れ去られた”大衆文学の再評価が試みられた。</div><div>その中でも最もセンセーショナルな反響を呼び一種ブームとなったのが、国枝史郎の伝奇小説だった。</div><div><br></div><div>さらに、国枝の生きた時代には、伝奇小説はもう少し広い範囲で用いられたようだ。</div><div><br></div><div>　これまで、晩年の国枝は伝奇的な趣向を捨てたとされてきたが、この解釈は必ずしも正しくない。伝奇小説というと、妖怪変化が出てくるような作品ーそこまで極端ではないにしても、怪奇・幻想的なモチーフを織り込んだ作品をイメージしがちだ。ただ怪奇・幻想は、伝奇小説の一面でしかない。（中略）当初は隠されていた人間関係が次第に明かされることで、物語が複雑になっていく作品(現代でいえば、昼メロや往年の大映ドラマ)は、すべて伝奇小説なのである。</div><div>　晩年の国枝は怪奇・幻想的な伝奇小説からは遠ざかったが、それは伝奇小説から離れたのではなく、いわば世話物伝奇の世界に移行しただけで、その資質はそれほど変わっていない。</div><div>(末國善己③「国枝史郎歴史小説傑作集」解説)</div><div><br></div><div>それとともに、国枝自身も独自の創作理念を持っていたようだ。</div><div><br></div><div>　国枝は破天荒な伝奇小説を数多く残しているが、スーパーナチュラルな要素のある作品は決して多くない。それは「荒唐無稽を狙っていては、新幽霊談は作れない。尋常な理詰めを心掛けた時に、新幽霊談は創造出来る」と考えていたかもしれない。</div><div>(「妖異むだ話」『探偵趣味』1928年3月)</div><div><br></div><div>こうした理念を前提として考えれば、国枝の伝奇小説は、講談や立川文庫を範としながら、伝奇本来の性格というべき怪力乱神譚を、あえて語らないことに特徴があったことになる。</div><div>一方で秘められた謎が物語の進行と共に解かれてゆくことを伝奇的な要素とする定義に従えば、国枝は創作において常に伝奇性にこだわり続けたと言える。</div><div>その姿勢は探偵小説や現代ものでも同じなのだろう。</div><div>国枝の小説のもつ伝奇性について、末國善己はこう評価している。</div><div><br></div><div>(前略)国枝が伝奇性を排した歴史小説に向かうのではなく、あくまで伝奇小説の世界に留まろうとしたことの意義は大きい。それは多くの日本人が“健全”と“健康”を求めた時代に、“不健康”で“妖しい”要素が必須の伝奇小説がどのように変質したかを知ることができるからである。伝奇小説の変容は、伝奇から歴史小説にシフトした吉川英治の変容よりも、当時の統制の厳しさを現代に伝えてくれるのではないだろうか。</div><div>(末國善己③)</div><div><br></div><div>　三島由紀夫も本作を「文藻のゆたかさと、部分的ながら幻想美の高さと、その文章のみごとさと、今読んでも少しも古くならぬ現代性におどろいた。これは芸術的にも、谷崎潤一郎氏の中期の伝奇小説や怪奇小説を凌駕するものであり、現在書かれてゐる小説類と比べてみれば、その気禀の高さは比較を絶してゐる」(「小説とは何か」昭和47年三、末國善己②)</div><div><br></div><div>国枝の小説が懐古的な意味ではなく現代性によって高く評価されたのは、“筋の通った人物”の造形と伝奇小説にこだわった創作の方針が、時代を遥かに先取りしていたからだろう。</div><div>八木昇は昭和43年から44年にかけて起きた国枝再評価の動きを、「国枝はその死後四半世紀を経て真の知己を多く得た」と評している。</div><div>このこと自体がロマンではないかと思う。</div><div>国枝作品が約百年を経た今も</div><div>読み継がれる理由は、この辺にあるのだろう。</div><div><br></div><div><br></div><div>※末國善己編『国枝史郎伝奇短編小説集成第一巻』収録「五右衛門と新左」解説にはこうある。</div><div>　大阪に住んでいた頃の国枝は、立川文庫を書いた二代目玉田玉秀斎の孫・池田蘭子と親交を持っていたことがわかっている。</div><div><br></div><div>　</div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/kouketsu-2020/entry-12609092965.html</link>
<pubDate>Sun, 05 Jul 2020 22:07:28 +0900</pubDate>
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<title>国枝史郎⑦ー伝奇小説と国枝史郎ー前編</title>
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<![CDATA[ <div>国枝史郎⑦</div><div><br></div><div><br></div><div>伝奇作家国枝史郎と、簡単にくくられるが、国枝の伝奇小説はどう評価されているのか、改めてまとめてみる。</div><div><br></div><div>　国枝史郎は「立川文庫」と大衆文学との間をつなぐ“書き手”だ。庶民的な話芸伝統を摂取しながら、新時代に即応した新しい大衆文学の分野をひらいた。彼がこころみた伝奇ロマンは構想力ゆたかなものであり、それは身辺雑事てきな私小説的土壌とはことなり、むしろ近世以来のロマンの法燈を継いだものだといえる。</div><div>　外国の伝奇小説はロマン・ピカレスクの流れを汲むものだが、国枝史郎はそれをおどろおどろしい日本の風土に根づくものとして花ひらかせた。それは大正期ロマンチシズムと耽美主義のひとつのあらわれであると同時に、明治以後の近代文学が見落しがちだった庶民的ロマンの鉱脈にたつもので、そこに彼の存在理由があるのではなかろうか。</div><div>　白井喬二は大正の末年に発表した「新選組」を、ことさら〈新講談〉と名づけた。彼の意図は講談のもつ大衆性をとりこみながら、その前近代性を切り捨て、新興文学としての新しいジャンルをひらこうとするところにあった。それは閉鎖的な文壇文学にもあきたらず、だからといって昔ながらのモラルにしばられている講談にも組することのできない、新時代の読者の要求にこたえる内部と形式だったが、・・・</div><div>（尾崎秀樹①講談社「神秘昆虫館」解説)</div><div><br></div><div>「立川文庫」の名何度も聞いたことはあったが詳しくは知らなかったので、軽く調べてみた。</div><div><br></div><div>　1911年から約 10年間，大阪市博労町の立川文明堂から出版された書き講談の叢書。初めは旅回りの講談師玉田玉秀斎の口演を速記したものであったが，のちには創作講談を書きおろすようになった。</div><div>(ブリタニカ国際大百科辞典)</div><div><br></div><div>まとめると「立川文庫」とは、書き講談から創作講談を生んだ講談近代化の先駆的存在であり、それゆえ大衆文学運動を生み出す母体となったと言ってよいのだろう。</div><div>つまりここでは、大衆文学の基盤が、構想（物語の骨格や世界観)にしても読者層にしても、講談にあったことが明確に述べられている。</div><div>なお国枝史郎について「立川文庫を文学化したような」とは、同業の作家土師清二の評(真鍋元之①、②桃源社「完本蔦葛木曽桟」解説)だが、これが日本文学史における国枝史郎の位置づけを示すものとなっている。</div><div><br></div><div>つまり講談などの庶民的話芸伝統を大正期に花開いた日本のロマンティシズムや耽美主義によって、近代的な文学ジャンルとしての伝奇小説に仕立て上げたのが国枝史郎だったということだろう。</div><div>ロマンティシズムや耽美主義</div><div>は劇作家を本分とした国枝の志向そのものであり、国枝にその素養のあることを熟知していた大学時代の同窓生田蝶介が、国枝をして大衆文学作家の道に導いたわけだ。</div><div>その辺の事情についてまた解説から引用すると、</div><div><br></div><div>　雑誌の現物をみれば分かることだが、当時の『講談雑誌』はその頃の大衆読み物雑誌の通例にもれず、目次の大部分を書き講談(講釈師の口演を速記に取ったもの)と落語でうずめていて、小説は白井喬二氏の「神変呉越草紙」と「蔦葛」の二本にすぎなかった。が「その二本ともえらく読者によろこばれて、雑誌は月毎に増刷八版という活況を見せていた。読者に受けさえすれば言うことはない、いつまででも続けろつづけろということで、とうとう五年間におよんだ」(生田氏談)</div><div>(真鍋元之②)</div><div><br></div><div>大衆文学運動の黎明期とはつまり、需要に追いつくだけの作品の供給がなく書けば売れる状況があった。</div><div>どうしてそんな風に需要が高まって来たのか。</div><div><br></div><div>　私小説化を加速させていた純文学にも、従来のパターン化された講談にも違和感を持っていた中間所得者層(大学を卒業して、月極めで給料を貰うホワイトカラー)。</div><div>(国枝史郎「神州纐纈城」講談社大衆文学館の末國善己による解説「人と作品」)</div><div><br></div><div>こういう新しい読者層が大量に発生し、欲求を満たす作品を渇望していた時代だった。新しい読者が新しい才能を求め、これを感じとった生田のような編集者が、新人に才能を開花させる機会をどんどんと与えていた。</div><div>伝奇作家国枝史郎はこうして世に送り出されたわけだ。</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/kouketsu-2020/entry-12607303944.html</link>
<pubDate>Sat, 27 Jun 2020 22:37:16 +0900</pubDate>
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<title>国枝史郎⑥ー大衆文学運動と国枝史郎ー後編</title>
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<![CDATA[ <div>国枝史郎⑥</div><div><br></div><div><br></div><div>国枝史郎の名を日本文学史上刻み込む役割を果たした大衆文学運動について、もう少し詳しく見てみる。</div><div><br></div><div>　1920年代半ば、第一次世界大戦後の好景気がもたらした大量消費社会と、大正デモクラシーに代表される社会運動の隆盛などを背景にして勃興した「大衆文芸」運動は、白井喬二、国枝史郎、直木三十五など、ロマン豊かな伝奇小説作家の活躍で隆盛を迎える。(末國善己③「国枝史郎　歴史小説傑作集」解説)</div><div><br></div><div>短い文章だが、こうした「運動」の起きた背景が、前よりよく分かる。</div><div>そしてこの「運動」の中心が、少なくとも最初はロマンと伝奇小説であったことも分かる。</div><div>大衆文学運動なのか「大衆文芸」運動なのかはさして重要ではないだろうが、あえて「大衆文芸」運動と言う場合、その理由は次の具体的な活動に根ざしているだろう。</div><div><br></div><div>　翌14年・・・、大衆文学の社交機関《二十一日会》が白井喬二の提唱によって結成され、国枝も参加。大衆文学の隆盛とともに、国枝もまさに第二次黄金時代を迎えたのである。(中略)</div><div>　大正15年1月、《二十一日会》が発展し雑誌「大衆文芸」創刊に至る。この「大衆文芸」誌上での活躍が、国枝の最後の華となる。</div><div>(末國善己④講談社大衆文学館「神州纐纈城」(国枝史郎)人と作品)</div><div><br></div><div>　大正15(昭和元年)1月、国枝史郎をふくむ11名の大衆作家を同人として、雑誌「大衆文芸」の発刊を見た。(中略)</div><div>　雑誌「大衆文芸」は第ニ巻第七号をもって閉刊したが、同人相互間の交情はなおも存続して、昭和2年(1927)11月には耽奇社の誕生を見た。</div><div>(真鍋元之①桃源社『神州纐纈城』解説)</div><div><br></div><div>大正末、隆盛期を迎えた大衆文学運動の中心にあったのが同人雑誌『大衆文芸』であり、伝奇作家・国枝史郎はその中心的な同人として活躍した。</div><div>そしてこの時期が、国枝にとっても小説家としての黄金期となった。</div><div><br></div><div><br></div><div>わが世の春を迎えたかと見えた大衆文学界だったが、程なく転機が訪れる。</div><div><br></div><div>　だが1930年代に入ると、満州事変(1931)や上海事変などが起こり、日本が本格的な戦争の時代に突入すると、エロ・グロを基調とする伝奇小説はすたれ、吉川英治「宮本武蔵」(「朝日新聞」1935年8月〜1939年7月)のように健全な読み物が大衆の心を掴むようになる。この時代、伝奇小説を得意とした国枝は、出版界からも忘れ去られ、1943年に失意の中で亡くなったというのが定説になっていた。</div><div>(末國善己③)</div><div><br></div><div>国枝史郎に関するこの定説は、末國氏らの努力によって現在は覆されている。</div><div>実際には、国枝史郎はその後も流行作家として活躍し、亡くなるまで多様な作品を書き続けていた。</div><div>とはいえ国枝についても大衆文学についても、こうした傾向があったのは間違いない。</div><div>1929年9月4日に始まった米株式の暴落(ブラックチューズデイ)を端緒として世界恐慌が始まり、先進大国がブロック経済によって自己防衛に走ったことで、切り捨てられた弱小国の間に全体主義が蔓延して行く。</div><div>文字どおり、俄に暗雲かき曇るかのように、世界は戦争の影に覆われた。</div><div>そんな時代背景の中で、民衆は重苦しい現実に食傷したところに、政治批判に目を光らせる官憲の圧力が加わってきていた。</div><div><br></div><div>同じことを、別の解説により視点を変えて見てみる。</div><div><br></div><div>　大正末、大衆文学の勃興と共に誕生した諸家の作品群は、創成期の若々しさと、未熟なみずみずしさを内包していた。白井喬二「白電太郎の館」、吉川英治「江戸三国史」、流山龍太郎(大佛次郎)「神風剣侠陣」、三上於菟吉「伝奇打日月双紙」ーー等いずれも情念の書というべきものであった。</div><div>　然し昭和期に入るに従い、大衆文学は技工的には長足の進歩を示すも、若さの魅力は次第にこれを失っていった。国枝史郎に限っていえば、恐らくは昭和２年の「剣侠受難」を契機として通俗の筆を走らせることになる。文体も初期の鬱屈性を脱しようと意図するようになる。(中略)</div><div>　余談になるが、この「猫の蚤とり武士」という作品は「あさひの鎧」という作品と共にその題名が、最近※国枝夫人の脳裏より忽然と甦ったのだ。この二長編は「血煙天明陣」「江戸千夜一夜」と共に、昭和10年前後の“国枝復活”の所産であって(国枝は“娘煙術師”以降不振であったのだ)従来大衆文学研究者の誰もが言及していないから新発見といってよいであろう。</div><div>(八木昇②桃源社「八ケ嶽の魔神」解説※昭和45年4月)</div><div><br></div><div><br></div><div>末國氏と同じように大衆文学の変容と停滞を認めながら、その理由について八木氏は、社会的な背景よりも文学としての成熟に求めている。</div><div>国枝自身は、デビュー以来ずっと髷物作品を通俗物と意識していたから、昭和2年以降はそこからさらに一段と通俗的な作風への転換を試みたということになるだろう。</div><div>饒舌体と呼ばれるような説明的叙述が過剰となる傾向は読んでいて確かに感じた。</div><div>むしろ読みにくく分かり難くなっているが、読者層を広げるための作者なりの試行錯誤の表れということだろう。</div><div><br></div><div>国枝史郎はいわゆる純文学と大衆文学とを分けて、次のように評している。</div><div><br></div><div>問「大衆文芸と純文芸、どこに相違点があるのでしょう？」</div><div>答「純文芸は叱る文芸、大衆文芸は叱らない文芸。ざっとこんなように別れましょうかね」(中略)</div><div>答「では語を変えて云いましょう。世間の嗜好を顧慮せずに、書いたものが純文芸で、その反対が大衆文芸です」</div><div>(中略)</div><div>答「まず嗜好に投ずるのです。それから作者の思う所を、ジワジワと世間に伝えるのです。ーー面白可笑しく読ませながら、思う所を伝えるのです」</div><div>(「大衆文芸問題」『新小説』1926年4月)</div><div><br></div><div>さらに、大衆文学最大の精華とでも言うべき中里介山「大菩薩峠」を評して、こういうことを述べる。</div><div><br></div><div>(前略)実に素晴らしい作である。大デュマなんか飛び越している。だがユーゴーを持って来るのは、まだ少し早いかも知れない。机龍之介の性格描写は、前古未曾有といっていい、筋の通った登場人物が、廿人ぐらいはあるだろうが、それぞれクッキリと描き分けた手際は、将に巨匠といっていい。(中略)</div><div>　大方の現今の大衆物は、英雄崇拝熱から醒めていない。強い人間は無暗に強く、弱い人間は矢鱈に弱く、悪い人間は何処までも悪く、善い人間は最後まで善い、こんな塩梅に書かれている。講談式であり草双紙式である。本当の人間は書かれていない。・・</div><div>(「探偵物寸観」名古屋新聞1926年1月6日)</div><div><br></div><div>もともと講談や草双紙から、世界や人物、物語の骨格を借りながら、人物の造形(キャラクター)をより人間的、個性的に深めてゆき、作話の技術を高めていったのが大衆文学だった。</div><div>国枝はとりわけ、“筋の通った登場人物“、“本当の人間”を描くことを重視したのであり、それは純文学の関心と本質的同じだろう。</div><div><br></div><div>こうしてみると、国枝の作風の転換は、探偵小説における耽奇社の試みと同様に、盟友生田蝶介の博文館退社後に国枝の心中に芽生えた創作上の悩みとその解消のための必死の取り組みだったのではないか。</div><div>その取り組みが実を結ぶよりも先に、社会情勢の大きな変化が、国枝の創作には不利に働いたと思われる。</div><div>国枝自身の検閲の被害はさしたるものでは無かったようだが、耽奇社で創作を共にした江戸川乱歩の「芋虫」が絶版の憂き目を見たのは昭和4年のことで、戦争とこれを笠に着た時局という闇は国枝の目の前に迫っていた。</div><div>その結果として昭和4年から10年ごろ(1929〜1935)まで、国枝は長い低迷を見ることになった。</div><div>昭和10年前後の復活の要因などは別途検討するものとして、その復活もやはり長くは続かなかった。</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/kouketsu-2020/entry-12605661834.html</link>
<pubDate>Sat, 20 Jun 2020 22:27:09 +0900</pubDate>
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<title>国枝史郎⑤ー大衆文学運動と国枝史郎ー前編</title>
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<![CDATA[ <div>国枝史郎⑤</div><div><br></div><div>国枝史郎の文学史上における位置付けについて、試みに諸書の解説から抜き書きして、まとめてみることにした。</div><div>まずは90年代以降、国枝史郎の第3次ブームを支えてきた立役者・末國善己氏の解説からはじめる。</div><div><br></div><div>　大正末期に「蔦葛木曽桟」「神州纐纈城」など、伝奇小説の傑作を次々と発表した国枝史郎は、三島由紀夫が愛読したことでも有名で今もカルト的な人気を持っている。</div><div>(末國善己①幻冬舎文庫『夜の日本史』「伝奇作家の小説よりも奇なり女性遍歴」)</div><div><br></div><div>現代における国枝史郎の評価は、おそらくこれが基本となるだろう。</div><div>日本の文学史における国枝史郎の位置付けについての末國氏の評価を、長文だが要点がすべて入っているので、あえて引用する。</div><div><br></div><div>　国枝が時代伝奇小説を書き始めたのは、大衆文学運動の黎明期と重なる。大正末期に起こった大衆文学運動は、講談や講談速記本の持つ予定調和や教訓性を排除することで、新しい時代小説を生み出そうとした。これが私小説化を加速させていた純文学にも、従来のパターン化された講談にも違和感を持っていた中間所得者層(大学を卒業して、月極めで給料を貰うホワイトカラー)に熱狂を持って迎えられ、大衆文学は一大潮流を作るのである。</div><div>　ただ初期の大衆文学は、講談的世界を完全に破壊するのではなく、講談のテイストを取り込みながらも、独自の方向性を創出しようとした。例えば、白井喬二は語りのスタイルは講談風にしながらも(白井喬二の初期作品はクライマックスで唐突に物語を終えることが多いが、これは講談の技法“切れ場”を意識しているのだろう)、物語そのものは従来の講談が扱わない独自の展開を用意した。また直木三十五は、徹底した時代考証で伝説と史実を峻別し、“見てきたような嘘”を旨とする講談とは一線を画そうとしたのである。</div><div>　国枝は、歌舞伎や講談でお馴染みの人物や事件を借りながらも彼らに新しい冒険の舞台を用意したり、まったく関係ない人物と人物、あるいは事件と人物をシャッフルしたりすることで新しい“物語” を作り上げようとした。(中略)誰もが知る人物や事件が頻繁に登場するのは、斬新な物語を、講談の世界を骨肉化していた当時の読者に理解してもらうための戦略だったのである。</div><div>(中略)江戸の戯作や歌舞伎では、物語と物語を融合させたり、ある物語の登場人物を別の物語に導入したりすることで、新しい作品を作るのは当たり前だった。国枝の小説作法は、近代に入って一度は途切れた、日本の伝統的な創作法を復活させたものともいえるのである。(後略)</div><div>(末國善己②「国枝史郎　伝奇短編小説　第一巻」解説)</div><div><br></div><div>大衆文学運動の概略がどんなものだったか、そしてその中での国枝作品の特色が明瞭に理解できる。</div><div>ただし、ここに挙げられた特色はどちらかといえば本書に収められた国枝の初期短編に顕著といえる。</div><div>例えば平賀源内・太田蜀山人・志道軒のトリオや、河内山宗俊などはある程度シリーズ化しているし、石川五右衛門・遠山金四郎・関東七人男・自来也・天竺徳兵衛など講談ネタでお馴染みの豪傑・悪党の異聞物も多い。</div><div>ほかに兼好、芭蕉、北斎など、講談とは縁の無さそうな歴史人物の逸話をあつかった作品もあり、こちらは十分もう歴史小説(時代小説)の味わいがある。</div><div><br></div><div>なお、歴史小説と時代小説、そして伝奇小説の区別は、</div><div>それほど明確ではなかった。</div><div><br></div><div>　現代では、歴史小説は史実を踏まえた虚構性の少ない作品、時代小説は歴史の隙間に作者の空想を織り込んだジャンルと、比較的、明確な線引きがなされている。だが戦前は、ここまで厳密な区別はなかったようだ。</div><div>　(中略)</div><div>　つまり戦前は、妖怪変化が出てくるようなスーパーナチュラルな要素がない伝奇小説は、史実をベースにした“歴史”ものと認識されていたようなのだ。</div><div>(末國善己③「国枝史郎　歴史小説傑作集」解説)</div><div><br></div><div>なお国枝の場合、早くから探偵小説も手がけていた(「沙漠の古都」など)が、これについても似たような見解がある。</div><div><br></div><div>　ここで探偵小説というものについて、ちょっと考えてみる。江戸川乱歩の出現以降、本格的な探偵小説の歴史が始まるのであるが、元来、純推理小説以外に「空想科学小説、怪奇小説、異境探偵小説など多くのものを、広義の探偵小説に含めている」(乱歩『幻影城』)日本の伝統であれば、「沙漠の古都」は立派な探偵小説といってよい。(中略)</div><div>そんな意味で、国枝は日本の探偵小説の先駆者でもある。</div><div>(八木昇①桃源社「沙漠の古都」解説)</div><div><br></div><div>当たり前な話しだが、ジャンルなどしょせん読む側が自分の趣味嗜好に合う作品を探す上での便法に過ぎない。</div><div>大衆文学の黎明期にあって、国枝自身はもっと思うがまま自由に書きたいと願っていたに違いない。</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/kouketsu-2020/entry-12603933598.html</link>
<pubDate>Sat, 13 Jun 2020 16:43:06 +0900</pubDate>
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<title>国枝史郎④ ー史郎と女と病のことー後篇</title>
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<![CDATA[ 国枝史郎④<br><br><br>国枝史郎が木曽福島に移った大正10年中のこと。<br>大学時代の友人で、文芸誌の編集長となっていた生田蝶介から、史郎に手紙が届いた。<br>小説を書け、お前なら書けるという趣旨だったらしく、これをきっかけに、史郎は小説に手を染める。<br>蝶介がいた博文館は、折から盛り上がりを見せつつあった大衆文学運動を、講談社とともに牽引していた最右翼の出版社だった。<br>需要はあるが書き手がおらず供給が追いつかない。<br>衆望に応え、ライバルに競り勝つに足る書き手が、喉から手が出るほどにほしい！<br>そんな状況下に、蝶介は同窓の史郎の苦境を知って天意を感じたかも知れない。<br>かつて二人は、作家小川未明が作ったネオロマンティスムの研究団体《青鳥会》に属し、ともにその薫陶を受けた仲だった。<br>未明については史郎との関係以上のことを知らないが、自然主義全盛の時代にロマン主義の孤塁を守った作家であったという。<br>それ故、蝶介は早くから史郎の大衆文学における才能に目をつけていたのだろう。<br><br>大衆文学は、史郎の望む分野では無かったが、いざ小説が雑誌に載ると、木曽のような山深い土地にもその名が知れわたった。<br>にわかに文人名士の扱いを受けるようになった史郎は、悪い気はしなかったようだ。<br>病のために傷けられた自尊心もわずかながら癒やされたのだろう。<br>史郎は蝶介に褒めそやされ、励まされて、大衆文学の筆を奔らせるようになる。<br>結果として、蝶介の直感が正しかったことは、史郎の活躍によって証明される。<br><br>ところで、史郎が後に妻となる市川すゑと出会ったのは、どこだろう？<br>「郡上の八幡」では、詳しい事情は語られないが、木曽福島に滞在中のことに違いないと思う。<br>二人の出会いは単なる偶然だったのかもしれない。<br>しかし、雑誌の愛読者だったすゑが、史郎の福島滞在を知って、わざわざ訪ねて行ったのかも知れない。<br>それぐらいのことをしそうな女性ではある。<br><br>それから史郎は岐阜県の中津川に移った。大正11年の5月頃のことだ。<br>転居の理由は明らかではないが、私にとって最も気になることなので、今後の課題にしたい。<br>そこで初めての髷物「蔦葛木曽桟」を手がけると、これが見事に大当たりを取ったことで、史郎は大衆文学黎明期における最高の人気作家のひとりとなった。<br>その後の史郎が、すゑとの恋愛、同棲、結婚、名古屋転居と並行して、驚くほどの多作ぶりを発揮したことは、これまでに書いた文章に引用したとおりだ。<br><br>類いまれな史郎の想像力と速筆については、こんな伝説があるそうだ。<br><br>　国枝史郎をめぐる伝説の一つに、奔放で大胆な構成をとる作品バセドー氏病のためであるとする説がある。この説には賛否両論があり、実際にバセドー病が想像力を助長するという医学的根拠があるかどうかも分からないが、国枝自身は病気のためと考えていたようである。国枝は「銀三十枚」(『新青年』大正十五.三〜五)という小説にバセドー病の男を登場させ、次の　に言わせている。<br><br>　私は私の病気を祝福したいやうな時もあった。<div>「空想」が奔馳して来るからであつた。　本来私といふ人間は、空想的人間であつた。<br>　空想には不自由しなかった。それが病気になつて以来、その量が一層増したらしい。</div><div>　空で行はれてゐるエーテルの建築！それを破壊する電子の群！そんなものが私には「見える」のであつた。<br><br>　これが国枝の本音か、持ち前の洒落っ気と韜晦趣味によるものかは、各人の判断に任せるしかないが、・・・・<br>(講談社大衆文学館・国枝史郎「人と作品」末國善巳)<br><br><br>さて、そんな風に史郎が一心不乱に創作に打ち込んでいた大正12年(1923)のこと。<br>日露戦争後におとずれた束の間の安寧にまどろんでいた日本人は、大地の怒りに不意打ちされ目を覚まされる。<br>9月1日、関東地方を直下型の巨大地震が見舞った。<br>190万人が罹災し、10万人以上が死亡または行方不明となったこの地震は、遠く離れた中津川でもただならぬ揺れを感じたに違いない。<br>当地に被害はなかっただろうが、未曾有の災害の惨禍が伝えられるとともに、史郎には予期せぬ影響が及んだ。<br>この震災直後に、史郎は中津川を出て、名古屋に移る破目になった。<br><br>震災で雑誌社が潰れたのである。<br>原稿の買手が無いのである。<br>(「蜜蜂」大正15年)<br><br>いう通り、最初の探偵小説「沙漠の古都」を連載していた博文館の『新趣味』(編集長は生田蝶介)が大正12年の11月をもって廃刊となった。<br>直接の関係は分からないが、「沙漠の古都」は10月号で、中絶している。<br>似たようなことが他にもあったらしく、生活に窮した史郎は就職活動までしたという。<br>史郎はその為に名古屋に移ったのだろうか？<br><br>博文館では『講談雑誌』(編集長は生田蝶介)は存続しており、「蔦葛木曽桟」の連載は続いていた。<br>そこまで切迫していたのかは、何とも言い難い。<br>そこで名古屋移住について、別の理由も考えてみたい。<br>まず「蜜蜂」には、こういうことが書かれている。<br><br>　全くその頃の私ときては、明日にも葬式をされそうな程に、衰弱をしていたのである。<br>　眼球突出、指頭戦慄、発汗、吃音、痔、ヒョロヒョロ。(足許の定まらない形容詞である)<br>　だが精神は引き締まっていた。<br>「今に見ていろ、天下を取ってみせる」<br><br>　愛知医大の附属病院ーー普通に大学病院という。ーーこれは私の恩人だ。<br>　特にそこにあるレントゲンが。<br>　そいつを放射して貰うことによって、どうやらバセドー氏病が抑えられた。<br><br>どうやらバセドー病の症状が悪化し、専門治療を受ける必要があったようだ。<br>貧窮し、就職活動をしたのも単に震災で収入が減ったというだけでなく、恒常的にかかる治療費と、波の多い作家業とに不安を感じたのかも知れない。<br>そもそも史郎の症状が悪化したのは何故か。<br>異常なほどの多作から来る疲労か？<br>震災への不安からくるストレスか。<br>それとも近しい人の訃報に接したことか。<br>というのも、先にあげた芸者金龍は、史郎と別れた後、一人で東京に帰り、関東大震災で焼死したらしい。<br>（末國善巳『夜の日本史』より）<br>金龍の死が、史郎にとってどれだけの意味があったかは、何とも言えない。<br>前にも書いたが、探偵作家としての史郎は先人でたる小酒井不木に傾倒していた。<br>震災があろうと無かろうと、不木に接近するため、史郎は名古屋移住を決めていたのかも知れない。<br><br><br>さて、そんな史郎の全盛期は短かった。<br>大正15年(昭和元年、1926)は、「国枝にとって疲れの出た時期」(八木昇「八ケ嶽の魔神」解説)であり、「この年の5月から10月にかけて、三大長編の連載が次々と終了していくのと時を同じくして、国枝の執筆活動も下降線をたどる。」(末國前掲)<br>その理由は様々に取りざたされているが、<br><br>夏には心臓の発作に襲われている(八木昇前掲)<br><br>というから、病状の悪化のためというのが、真相に近いようだ。<br>しかし『完本蔦葛木曽桟』の真鍋元之による解説では、別の説を立てている。<br>真鍋氏は、『講談雑誌』の編集長だった生田蝶介がこの年の3月頃に博文館を退社したことを重視した。<br>これはあくまでも「蔦葛」を未完のまま中絶させた理由の追求だったが、史郎にとって大衆文学創作上の盟友とも言える生田蝶介の存在感を思えば、全体に関わる問題だと考えてよいだろう。<br>ただし、「蔦葛」中絶と生田氏の博文館退社の関係については、生田氏自身も、末子(すゑ)未亡人も否定的だという。<br>私としては、同じ大正15年に発表された「道真と時平」の<br>結びが気になっている。<br><br>　爾来私は天神様に対して、敬意を払うことができなくなった。<br>　と云って時平に対しても、好意を寄せることができなかった。<br>　もし私が時平なら、略奪結婚の蛮勇を揮って、彼女を征服しただろう。<br>　私は平貞文なのであった。<br>　一番貞文が近かった。<br>　貞文が醜男であるように、私もひどい醜男なのである。<br>　貞文が失恋をしたように、私も失恋をしたのである。<br>　尤も貞文と異う所もあった。貞文は其後別嬪を貰い、菅公の霊にも蹴殺されず、出世して愉快な日を送った。<br>　私はー少くも心持に於てはー将しく今も独身である。<br><br>この話の前半について補足すると、右大臣菅原道真のライバルは言うまでもなく、左大臣藤原時平だ。<br>その時平には、同族の長老格であった大納言藤原国経が手に入れた若妻を奪ったという有名な逸話がある。<br>平貞文は同時代の歌人で通称を平中という。<br>在五中将こと在原業平と並び称されるほどの色好みの通人だった。<br>時平が奪った国経の若妻について、この平中も狙っていたが、時平のために思いを遂げられなかったという。<br>この平中が醜男だ、と史郎はいうのだが、色好みという定評と合致しない。<br><br>それ以上に、なにゆえ史郎が「心持に於ては将しく今も独身である」などと書いたのか、それが気になっている。<br>愛妻家の史郎だけに、そんな筈はないからだ。<br>その史郎が、色好みの平中を醜男と呼び、その平中こそ自分に最も近いといった。<br>史郎はやはり、生田蝶介が博文館を辞めたことで大いに動揺したのではないか。<br>蝶介は、もともと歌人を志した人だが、一時的に雑誌社に入って大衆文学の興隆に力を尽くしてきた。<br>博文館退社後の蝶介は、自らの本分である歌人として歩み始める。<br>その決断を見て、自分はどうするのかと史郎が自問自答した、一つの答えがこの作品に現れているのではなかろうか。<br>菅原道真は学者から大臣の地位にのぼり、その為に陰謀の犠牲となって左遷された。<br>道真の死後、彼を天神として祭り、学問の神としたのは後に残された人間たちの勝手な都合であった。<br>何がどうという具体的な指摘はできないが、当時の史郎の揺れる心情がこの作品には込められているように思う。<br><br>なお博文館退社から数年後、今度は史郎に励まされた蝶介が、史郎と同じく伝奇小説に手を染める。<br>その島原大秘録三部作は残念ながら未読だが、山田風太郎の「魔界転生」につながる怪作という定評画ある。<br>いつか読まねばならない、とは思っている。<br><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/kouketsu-2020/entry-12602546000.html</link>
<pubDate>Sun, 07 Jun 2020 18:09:30 +0900</pubDate>
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<title>国枝史郎③ ー史郎と女と病のことー前編</title>
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<![CDATA[ 国枝史郎③<br><br><br>国枝史郎は、まず若くして詩作と劇作に才能を開花させた。<br>まだ早稲田在学中の明治43年(1910)、22才で詩集を自費出版し注目を浴びると、翌年からは気鋭の劇作家として活動した。<br>しかし残念なことに、程なく史郎は舞台で知り合った曰くつきの女優と深い中になり、劇作どころではなくなってしまう。<br>周囲の忠告に耳を貸さず、この女優との関係をこじらせた末に、ほかに複数の女性とも爛れた情交を結ぶにいたった。<br>トラブルに継ぐトラブルは、優柔不断な彼の性格のせいだと、本人も自覚していた。<br>のちに史郎は「恋愛懺悔録」と題したエッセイに、自虐とともにこの顛末を綴っている(昭和7年『婦人公論』)。<br><br><br>そんな不行跡がたたり、大学を中退した史郎は、追われるようにして東京を離れ、大阪の朝日新聞社に職を得た。<br>それが大正3年(1914)のことである。<br><br>大正のある時代に、私は大阪に住んでいた。<br>或る新聞の記者であった。最もヤクザナ記者であった。<br>記者の生活は愉快であった。一層愉快なのは、社以外で遊ぶ事であった。<br>灘を控えた大阪は、何より酒が旨かった。<br>女の可いのは云う迄も無かった。<br>で、ふんだんに遊んだものである。<br>(「道真と時平」『大衆文芸』大正15年3月)<br><br>新聞社といっても文芸部で、<br>名の知れた在阪の女流歌人たちと交流し、名士気分に浸ってそれなりに愉快にやっていたようだ。<br>ところがここでも、史郎は女のために躓いてしまう。<br><br>その中私は或る娘に、ひどく興味を持つようになった。<br>清浄な感のする娘であった。<br>彼女は大変肥えていた。しかし夫れでいて姿が可かった。<br>(中略)<br>彼女は相当可い歌を作った。<br>つまり彼女は町娘で、そうして可愛らしい芸術家なのであった。で私は歌会の席で、彼女と知己になったのである。<br>(同上)<br><br>本気の恋、というのか今度は打って変わって清浄な町娘との純愛である。<br>史郎は、「郡上の八幡」(昭和2年)ではドン・ファンを自認したが、「蜜蜂」(同上)でも、こんなふうに過去の自分を賛美している。<br><br>だが過去には栄光があった。タキシードを着た俺の後から、女優、貴婦人、令嬢が、扈従して来たという栄光がね、二十一から二十八迄の間に。<br><br>まだ20代の若さだから、こう浮かれるのもし方ない。とにかく女にもてた史郎だが、恋人(作中ではY)の前では、この体たらくだ。<br><br>しかし私は不満であった。<br>恋が進行しないからであった。<br>それこそ本当に私達は、指一本触れ合わなかった。<br>媾引！それはノベツした。<br>なんという厳格な媾引だったろう！<br>もし今の私なら、恋より先に体を征服し、そうして恋が醸される頃には、女のことなんか忘れるだろう。だか然ういう今日にありては、よくしたもので恋人が出来ない。<br>(「道真と時平」)<br><br>しかし、史郎の初な恋は実ることなく、結局ひどいふられ方をした。<br>ふられたのが天神祭の夜だったから、天神様ー菅原道真には敬意が払えなくなった、というのが、タイトルにつながっている。<br>この話の前半では、太宰府に左遷された後の道真が、世間が思うより愉快にやっていた、という私見が披露されている。<br>大阪へ都落ちした自分を道真にたとえたに違いない。しかし本題は別にあるようなので、ここではこれぐらいにしておこう。<br><br>ところで史郎は、「郡上の八幡」でも、本命の芸者を前に、ただ翻弄されるばかりで手も出せないでいた。<br>病のせい、もあったろうが、どうもあまり恋愛上手とは言えそうにない。<br>なお文中では24才とあるが、史郎の在阪は27才から33才の間のこと。<br>栄光の時代が終わったのは28才だというから、手痛い失恋は在阪2年目のことだろう。<br><br>この失恋のせいか、それとも記者では飽き足りなかったのか、2年後の大正6年に史郎は朝日新聞社を退社した。<br>それから松竹の脚本部に入って、座付作家となった。<br>その傍らで自ら雑誌や小劇場を経営するなど、史郎は劇作家こそ本分と心に決めており、これは大衆小説作家となった後までずっと続く。<br><br><br>ストイックな天職に打ち込む生活も長くは続かず、大正9年(1920)に史郎は大病を病んで、松竹を退社せざるを得なくなった。<br>療養のために故郷の茅野に帰った史郎は、そこで医師である次兄からバセドー病の診断を下された。<br>糖尿病と神経衰弱をも併発し、痔疾まで患ったというから深刻である。<br><br>ウェブ情報だけで気がひけるが、バセドー病の発症には、主に次のような理由が考えられらるしい。<br>・遺伝的なもの(女性に多い)<br>・ヨードの過剰摂取(欧米人に多い)<br>・過度の飲酒、喫煙<br>・極度のストレス<br><br>史郎がバセドー病になった原因がなんだったか分かりようがないが、下の二つの複合によるのだろう。<br>飲酒量は多かったに違いないにせよ、ストレスの原因は、さて何だったのか。<br>過去の失恋か、新しい(語られざる)恋か。それとも仕事の行きづまりなのか。<br>今後の課題としたい。<br><br>さて、この業病は眼球突出という顕著な特徴があり、ドン・ファンを自認していた史郎には、外見の変貌が何より心にこたえただろう。<br>自棄になった史郎は、近在の上諏訪の街へ繰り出して、そこでまたも運命の女とめぐりあってしまう。<br>重度のアルコール中毒とモルヒネ中毒によって死病にかかり、幽霊のように見える美貌の芸者金龍。<br>どこか現実感のないこの芸者との、生きるの死ぬのというすったもんだもまた、「恋愛懺悔録」の中でつぶさに語られている。<br>翌くる大正10年(1921)、史郎が木曽福島に移ったのは、この女との切るに切れないしがらみから逃れる為だったかも知れない。<br><br><br>なお、「恋愛懺悔録」や大阪時代の交遊関係については、末國善己がエッセイに概略をまとめたものが、以下で読めるので詳しくはこちらを読んでほしい。<br>https://books.google.co.jp/books?id=SVUkDwAAQBAJ&amp;pg=PT8&amp;lpg=PT8&amp;dq<br>『夜の日本史』「伝奇作家の小説より奇なり女性遍歴」と<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/kouketsu-2020/entry-12602321081.html</link>
<pubDate>Sat, 06 Jun 2020 18:33:13 +0900</pubDate>
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<title>国枝史郎② ー史郎と愛妻すゑについてー</title>
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<![CDATA[ 国枝史郎②<br><br><br>国枝史郎はまぎれもない愛妻家である。<br>妻のすゑさん(旧姓市川)は、写真を見ると、まさに鄙には稀なる麗人という風情。<br>大正12年(1923)1月に二人は岐阜県の中津川で結婚したが、このとき34歳の史郎に対して、新妻すゑは21歳。<br>実に13歳の年の差婚だが、このころは珍しくもなかっただろうか。<br><br>国枝は、若い妻のすゑさんのことを、親しみをこめて「奥さん」と呼ぶ。<br><br>奥さんは私より十三下だが、十三年上を以て任じている。<br>「ね、坊や」と私のことを云う。<br><br>とは昭和2年(1927)3月に発表した「蜜蜂」の中の一文だ。<br>年齢差を越えて夫を子ども扱いする「すゑ」と、これを甘受し、むしろ妻に甘えかかるような「史郎」という、甘い関係が、おそらく彼の死まで続いた。<br>その意味では国枝は、とても幸せな一生だったと言える。<br><br><br>この奥さんのことを、同年のうちに三度、国枝は小説に書いている。<br><br>3月「蜜蜂」(『大衆文芸』)<br>4月「郡上の八幡」(同上)<br>7月「奥さんの家出」<br>(『新青年』)<br><br>「蜜蜂」では、二人が名古屋へ来た当座の苦しい暮らしぶりが描かれる。<br><br>名古屋に住んで五年になる。<br>震災直後来たのである。<br>(中略)<br>震災で雑誌社が潰れたのである。<br>原稿の買手が無いのである。<br><br>この苦境のなかで国枝夫妻は「ひどい新開の工業地」に住み、「生鰯ばっかり食って」いたという。<br>そんな「或日私は大勇猛心を起こし」就職活動に出かけはしたが、A新聞社もB会社も「よい履歴の」彼を敬して遠ざけたという。<br>そんな苦難の日々にも奥さんは、暢気というのか浮き世ばなれしているのか、史郎の深刻悲愴ぶりにはけして染まらず、近所の子どもらに大いに好かれ、花にも魔法をかけて育て、日々おっとり優雅に暮らしている。<br><br><br>「郡上の八幡」では、中津川での二人の馴れ初めが、てらいもなく語られている。<br>木曽福島から中津川に移って来た史郎は、すでに小説に手を染めてはいたが、まだ当たりはなく金がない。<br>にも関わらず史郎は、この小さな町では「一流の旅館」に泊まって、先生と呼ばれながら療養している。<br>史郎の場合は暢気なのではなく見栄からだと、当人も自覚している。<br><br>まるっきり収入の無い時には、案外金があつまるもので、少しばかり収入のある時には、ちっとも金が集まらない<br><br>などと嘯いているが、中津川では借金が貯まって、いかんともしがたい境地に追い込まれた。<br>このころ史郎の病は重く、「普通の病人」にも見えないほど痩せ細っており、ほんの二町も歩けば昏倒してしまう体たらくであった。<br>まだ奥さんではなく娘さんだったすゑは、「中津川から北に三里」のところにあるS町(坂下町、現在は中津川市坂下)の実家から毎日、できて間もない鉄道で通って来て、終日かいがいしく史郎を看護した。<br><br>ところがこのころ、史郎には他にも惚れた女がいた。<br>芸者であった梅家の叶子が「綺麗だった」とは、すゑの評。叶子はおそらく国枝の、田舎では見られない都会性だとか学者ぶりに惹かれはしたが、病の重さのために彼に背を向けた。<br>国枝は、といえば「其頃の私は、可成り自信のあるドン・ファンであった」とまで自負する割に、<br>「勝負！惚れるか惚れないにある。惚れたが最後ドン・ファンの冠を落とさなければならない、<br>　ところが私は惚れていた。冠を半分おとしかけていた」<br>と、こうだ。<br><br>たかのしれた田舎芸者に対して、この体たらくとなったのは、史郎の為に弁護するなら、業病とそれによる容貌の激変、気力体力の喪失のせいだったろう。<br>賢明にも史郎は逃げた。<br>その芸者が唄ったのが「郡上の八幡」で、同じ唄をすゑも中津川で唄った。<br><br>すゑは、こんな風に病のために絶望の縁に立ったいた国枝にも魔法をかけた。<br><br>「治りそうにもないね」とぶっきらぼう<br>「屹度治るわ、ええ直ぐに」<br>「治りそうもないね」同じ返辞。<br>「治ったら恵那山へ上りましょうねえ」<br><br>それから、史郎は病身に鞭打って、通俗物の売文と自ら卑下しながら、初めて髷物小説を書き始めている。<br>芸者との鞘当てがあったのは5月のこと。<br>同月24日付で国枝は、関西時代の友人で女流歌人の阿部文子に宛てた書簡に、こう心情を綴っている。<br><br>通俗物はポツポツ書いてゐます。七月頃から講談雑誌へ、又、一ケ年つづきの私の下手な旧派物の小説が出ます。(中略)笑は無いで下さい。これは生活費ですから。<br>(末國善巳『神州纐纈城』講談社大衆文学館「人と作品」より)<br><br>この「旧派物の小説」が国枝の出世作「蔦葛木曽桟」だとされている。<br>中津川に来た当座の国枝は、<br>「まるっきり収入なんか無かった」という。<br>その中津川で、国枝は思いもよらぬ恋をし、怖じ気づいて逃げ出さねばならない境遇にあった。<br>意にそまぬ、この小説を書き出したのは、その葛藤を解決するため、つまりは中津川に来てからでは無いかと、私は思っている。<br><br>「蔦葛」は、木曽谷の藪原長者が抱える美貌の、しかし曰くつきの遊女「鳰鳥」をめぐる争いから始まる。<br>鳰鳥に与えられた遊女と姫君との二つの顔は、芸者叶子と処女すゑとに置き換えられはしないか。<br><br><br>ここではこれ以上作品論には踏み込まないことにする。<br>叶子とすゑの素性にも、踏み込まないことにする。<br>ともかくすゑは、看護のかたがた、国枝に生きる希望を与え、中津川での新居まで用意した。<br>真夏、旅館を出て二人は裕福な農家の杉田さん宅に、間借りして新生活をはじめた。<br>末っ子で甘やかされて育ったすゑは、利口だが何事にも己の意思を通す娘だ、というのは母親の評。<br>国枝は人伝にそう聞いて、その生活を受け入れ、創作に打ち込んだ。<br><br>とにかく岐阜県の中津川で、<br>国枝史郎は最愛の妻と、大衆文学という天職を二つながら手に入れた。<br>名古屋に移ったのはそれから後のことだ。<br><br>名古屋での暮らしのなかで、虚酔しいたすゑは、郡上の八幡を口ずさんで見せた。<br>国枝はかつてその歌を唄った二人の女とともに中津川での暮らしを思い出す。<br>この唄は国枝にとって、自らの運命を開いた中津川の良い思い出である。<br>しかしこれを唄った妻のすゑには、良い思い出とばかりは言え無かったらしい。<br>嫉妬と見ては単純すぎるかも知れない。これも私の邪推である。<br><br><br>「奥さんの家出」については、あえて中身にまで踏み込まない。<br>ただそこには、国枝の「奥さん」に対する愛と依存、それ故の恐怖とが克明に描かれているとだけ述べておく。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/kouketsu-2020/entry-12601672756.html</link>
<pubDate>Wed, 03 Jun 2020 23:44:39 +0900</pubDate>
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<title>国枝史郎ー「蔦葛木曽桟」と中津川についてー</title>
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<![CDATA[ 国枝史郎①<br><br><br>国枝史郎の経歴については、これまで講談社大衆文学舘『神州纐纈城』等に収録された末國善己による解説「人と作品」を主に参照してきた。<br><br>末國氏は国枝史郎の第三次ブームをほぼ一人で支えてきた功労者で、21世紀のいま国枝史郎の著作のほとんどを書籍で読むことが出来るのも、氏のおかげと言える。<br><br>しかし今回、第一次ブーム期の解説に目を通していて末國氏の解説に、些細なことだが私にとっては大事な点で誤りがあった。<br><br>それは国枝史郎の出世作で、最初の長編伝奇小説である「蔦葛木曽桟」執筆に関わることだから、まったく無意味とも言えない。<br><br><br>この間の経過について「人と作品」にはこうある。<br><br>(前略)<br>国枝は大正9年にバセドー氏病を患い、松竹座を退き、茅野の実家で療養生活をおくることになる。<br><br>大正10年には知人を介して長野県木曽福島に転居、ここで「講談倶楽部」「講談雑誌」「少年倶楽部」などの大衆文芸誌に執筆を開始、この年から大衆文学に筆を染めることになる。<br>(中略)<br>大正11年に木曽福島から岐阜県中津川市に移り、すぐ相生町に転居。ここで早稲田の同級生で〈青鳥会〉のメンバーでもあった生田蝶介の求めに応じ、9月から「講談雑誌」に連載を開始したのが、後に代表作になる「蔦葛木曽桟」(〜大正15.5)である。<br>(中略)<br>「蔦葛木曽桟」以降の国枝は、まさに八面六臂の活躍を見せる。大正12年に市川すゑと結婚。私生活の充実をはかると、探偵小説「沙漠の古都」を『新趣味』(3〜10月)に、・・翌13年・・9月からは短編執筆に並行して、三代長編の一角をなす「八ケ嶽の魔神」の連載を『文芸倶楽部』(〜大正15.7)で開始。<br>(中略)<br>翌14年も執筆のペースは衰えず、「蔦葛木曽桟」「八ケ嶽の魔神」の連載を継続しながら、国枝の最高傑作短編「大鵬のゆくへ」(『サンデー毎日』1.11号)を書き、返す刀で最高傑作長編「神州纐纈城」(1月〜大正15.10)の連載を『苦楽』で始め(後略)<br><br><br>これによると岐阜県中津川市にいたのは、大正11年中のわずかな期間となり、いわゆる三大伝奇長編(「蔦葛木曽桟」「八ケ嶽の魔神」「神州纐纈城」)は相生町転居後に執筆されたことになる。<br><br>相生町とはどこか？<br>webで検索してみるとかつて徳島県にあった町と出た。Wikipediaにもそう書かれているが、国枝が中津川の後に名古屋周辺に長く住んでいたことは分かっており、徳島県の相生町から名古屋に移住した経過が無いのは不自然だと感じた。<br><br>そこで名古屋市内で相生町を検索して見ると、名古屋市東区に同名の町があった。<br>名古屋の城下町の一画にあたり市制施行の時から市内にあった歴史ある町だ。<br>国枝は中津川を出て名古屋市の相生町に移住したのかと、一時は考えた。<br><br><br>ところが、今回諸作品の解説と、国枝が物した私小説的な小編「蜜蜂」を読んで見て、どうも事実ではないと気がついた。<br><br>まず『沙漠の古都』の八木昇による解説には、『新趣味』大正12年3月号に「沙漠の古都」の連載を始めた頃のこととして、<br><br>岐阜中津川に居た国枝は、友人でもある博文館の生田蝶介氏に叱咤激励されて「蔦葛」の稿を書きついでいた。<br><br>とあった。<br><br>次いで桃源社『神州纐纈城』の真鍋元之による解説には、<br><br>最初の転地先きは木曽福島であった。木曽福島から岐阜県中津川へ。関東大震災のとし(大正12)に中津川から名古屋市へ、というふうに療養の地を転々させながら、この間に史郎は愛妻末子を得ているが、このことの経緯は、後年の昨品「郡上の八幡」(『大衆文芸』昭和2年4月号)のなかにほぼ写されている。<br>木曽福島に在住中のことであった。早稲田大学の同級生であり、当時は『講談雑誌』(博文館発行)の編集長でもあった生田蝶介から手紙がきて、同誌へ小説をかけという。もとめに応じて稿を起こしたのが、史郎にとって時代小説第一作、「蔦葛木曽桟」であった。<br><br>さらに六興出発版『神州纐纈城』収録の「国枝史郎略年譜」にはこう記される。<br><br>大正11年(1922)<br>　岐阜県中津川に転居<br>　9月ー大正15年5月<br>「蔦葛木曽桟」(講談雑誌)<br>大正12年(1923)<br>　1月　市川すゑと結婚<br>　3月「沙漠の古都」<br>　(新趣味ー10月)<br>　11月　名古屋に移る<br><br>決定的だったのが国枝自身による「蜜蜂」の記述。<br><br>名古屋に住んで五年になる。<br>震災直後に来たのである。<br>震災で雑誌社が潰れたのである。<br>原稿の買い手が無いのである。<br>(中略)<br>大阪、東京、京都、神戸、岡山、北海道、別府、諏訪、木曽福島、中津川、東北地方、にも住んだことがある。<br>(中略)<br>多少は名古屋も知っている。<br>知っている所だけ書いてみよう。<br>西菊井町(最初の住居)ひどい新開の工業地<br>児玉町(二度目の住居)一層ひどい新開地<br>西区柳町✕✕番地(現在住んでいる住居である)<br><br>関東大震災が起きたのは大正12年(1923)9月だから、国枝の名古屋移住は大正11年ではなく12年のこととなる。<br>　<br>ところが、本作の発表は昭和2年(1927)3月だと解説にある。とすると、それより5年前は1922年(大正11年)のことになって矛盾が生じる。<br>関東大震災後に名古屋に移ったは間違いないだろうから、4年前のことを国枝が誤って5年前と書いた、ということだろうか？<br>どうもまだ違和感がある。<br><br><br>また「蜜蜂」による限り国枝の名古屋市での初期の住居は西区ばかりで東区の相生町は見当たらない。<br>こののち国枝は、昭和4年(1929)4月に愛知県知多市の新舞子に新居を構えた。<br>「蜜蜂」の執筆から2年余がたっており、この間に東区相生町に移った可能性は無くはない。<br><br>そういえば国枝は、探偵小説の先人小酒井不木と親交が深く、しばしば互いの家を訪問して探偵小説談議に耽っていたと自ら述べている。<br>国枝が新居に選んだ新舞子は神戸市における舞子に倣って開発された名古屋近郊の海岸保養地だが、実は小酒井不木の別荘の隣だったという。<br>それほどに国枝は深く不木を敬慕していた。<br>　<br>とはいえ、不木自身は国枝の新舞子転居と前後して亡くなっており、互いの家を訪問していたのは名古屋時代のこととなる。<br>不木の本宅は名古屋市中区(現昭和区)御器所町字北丸屋82の4であり、西区からだとやや遠い。<br>東区相生町なら、西区に比べれば御器所町に近い。<br><br>これに関連することとして、国枝が「蜜蜂」と同じ昭和2年(1927)7月に発表した、「奥さんの家出」を読むと、この当時名古屋城の堀にあった小遊園地(娯楽園)が舞台として描かれいる。<br>それがちょっとした犬の散歩の範囲内での出来事とされているから、その頃には国枝夫妻が名古屋城の近くに転居していたことの傍証とはなる。<br>「蔦葛」その他の成功で余裕ができ、住みよい町に移ったとしたも不思議はない。<br><br>しかし、作中の私(国枝)は、被害妄想狂というのかノイローゼというのか、かなり心を病んでいるように描かれている。<br>業病に苦しめられる一方で、<br>周囲も驚く速筆によって多くの連載を抱えていたことの反動だろうか。<br>ひょっとすれば「蜜蜂」に詳しい現住所を書いてしまったが為に、要らぬトラブルをしょい込み、東区相生町に転居せざるを得なくなったのかも知れない。<br><br><br>しかし、これらはしょせんは傍証でしかない。<br>ゆえに国枝が名古屋市内で三度目の転居をしたかどうか、また東区の相生町に住んだかどうかは結局のところ分からない。<br><br>とはいえ、末國氏が「蔦葛木曽桟」の連載開始について、<br>「大正11年に木曽福島から岐阜県中津川市に移り、すぐ相生町に転居。ここで・・」という風に書いたことに何らか理由付けできるかどうか、考えてみた。<br><br>①「蜜蜂」の記述を誤認した場合<br>(本作が発表された1927年から5年前に名古屋に移住したと単純に考えた可能性)<br><br>②「蔦葛木曽桟」について、第一次ブームの初期にあった大正13年5月連載開始説に引きずられた場合。<br>(連載開始は直ぐ大正11年9月に訂正されたが、大正13年5月の住居である名古屋在住時に連載開始したことを両立させようとした可能性)<br><br>③(私にとって)未知の新資料に相生町居住と蔦葛執筆開始に関する記述がある場合。<br><br>等々、いろいろの可能性が考えられなくはないが、どうしても違和感は消えない。<br>個人的な関心事にひきずられ、なにか他、国枝が大正12年まで中津川に居ては困る事情があって、それが反映された結果ではないかと邪推してしまう。<br><br>しかし兎にも角にも、国枝が「蔦葛木曽桟」の一部なりとも中津川在住時代に執筆していたことだけは間違いない。<br>その冒頭筆起しが木曽福島でのことだったか中津川だったかは、解説だけではどちらとも見えて分からないので、これについては次の機会に書くことにする。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/kouketsu-2020/entry-12601485237.html</link>
<pubDate>Wed, 03 Jun 2020 08:05:00 +0900</pubDate>
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