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<title>kssakuraのブログ</title>
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<title>哲学と因習</title>
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<![CDATA[ 人間は多かれ少なかれ慣習的・因習的な生き物だ。<br>哲学は私を因習から解き放ってくれるが、自由になれるのは理性だけであって、肉体を伴った私の全てが自由になれるわけではない。<br>肉体があり、人と交わって生きていく限りは、因習から完全に自由になることはできない。<br><br>生命は常にバランスを取ろうとし続けている。<br>人間はそうした自然界のバランスに加えて、社会におけるバランスも取ろうとし続ける必要がある。<br><br>慣習や因習といったものをこれまで嫌悪してきたが、やはりそれだけでは生きられない。<br>因習を受け入れることと、哲学していくことのバランスの重要さに今更ながら気づいた。<br>
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<link>https://ameblo.jp/kssakura/entry-11039972442.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Oct 2011 19:35:34 +0900</pubDate>
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<title>結婚</title>
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<![CDATA[ 「なぜ結婚するのか？」という疑問に、自分なりに明確な答えがでた。<br><br>それは「人生において、他にやることがないから」だ。<br><br>もし他にやることがあって、結婚がそれの邪魔になるのなら、<br>結婚などする必要はない。<br><br>邪魔にならない仕方で、いい人とめぐりあって、<br>やるべきことをなしとげる、というのが理想。
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<link>https://ameblo.jp/kssakura/entry-10970240799.html</link>
<pubDate>Sat, 30 Jul 2011 21:43:40 +0900</pubDate>
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<title>カバラ数秘術</title>
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<![CDATA[ 貴方の誕生数は９です。多面的で中性的な可能性の塊。様々な才能と側面を持っていますが、中途半端になりがちです。 カバラ数秘術：http://bit.ly/d9KUri
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<pubDate>Wed, 29 Jun 2011 00:12:47 +0900</pubDate>
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<title>他人の在り様</title>
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<![CDATA[ 内心ひとをなめていたり侮ったりしているくせに、自分がつらくなると他人に助けを求める人がいる。もっとひどいのになると、そうしたときに他人が助けてくれないことを恨みに思う人までいる。<br><br>他人の助けが欲しいなら、他人をなめるな、などということは当たり前のことなのに、それがわからなくなる、ということがしばしばある。<br><br>自分の話を聞いて欲しいなら、まず他人の話に耳を傾ける。自分に興味を持ってもらいたいなら、他人に興味をもつ。他人だって、話を聞いてもらいたいし、興味をもってもらいたいのだから。<br><br>謙虚さや、他人を受け止める姿勢が必要だ。
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<link>https://ameblo.jp/kssakura/entry-10903418153.html</link>
<pubDate>Thu, 26 May 2011 09:39:18 +0900</pubDate>
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<title>手段と目的</title>
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<![CDATA[ 「手段」でしかないものを「目的」にしてしまうと、ひどく視野が狭くなり、ほとんど意味のない見当違いなことを始めてしまう。そうすると、その小さな「目的」すら達成できないことになりがちだ。<br><br>いまの自分の「目的」が本当は「手段」でしかないのだと思い返してみることが必要だ。
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<link>https://ameblo.jp/kssakura/entry-10902590855.html</link>
<pubDate>Wed, 25 May 2011 14:27:03 +0900</pubDate>
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<title>英語</title>
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<![CDATA[ 「英語」は手段であって目的ではない。<br><br>その手段を使って何がしたいかが明確になっていれば、勉強しよう努力しようなどと考えなくても、できるようになる。<br><br>動機付け次第、というのは英語に限らず、どんなことにでも当てはまるかもしれない。
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<link>https://ameblo.jp/kssakura/entry-10899096097.html</link>
<pubDate>Sun, 22 May 2011 00:28:55 +0900</pubDate>
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<title>Kindle</title>
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<![CDATA[ ついにKindle3買った～。
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<link>https://ameblo.jp/kssakura/entry-10899004890.html</link>
<pubDate>Sat, 21 May 2011 23:15:24 +0900</pubDate>
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<title>奴隷と正論</title>
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<![CDATA[ 「節電すべきだ」「どうしてもっと節電しようとしないのか」と頭ごなしに言われると、自ら進んで「節電しよう」と意志があったのに、だんだん「節電、節電うるせーな…」という気分になってくる。<br><br>「～すべき」「～しなければいけない」「～しなさい」<br>この手の命令や義務履行の要求には、人間は本能的に反発を覚えるものなのではないだろうか。<br><br>言われたとおりのことをそのまま素直にその通りにやる、というのは奴隷だ。誰でも奴隷になりたくはない。その命令の内容が、実は自分もそう思っているというようなことだったり正論であったとしても、奴隷になるのは嫌だから反発する。命令する者が親であろうと友人であろうと恋人であろうと関係ない。<br><br>一方で、自分が尊敬したり崇拝したりしている相手からの命令には、喜んで隷従するのが人間というものだ。<br><br>正しいか正しくないかという問題はあまり意味がなく、発言する人が魅力的か魅力的でないか、尊敬できるか尊敬できないか、という人間力の問題の方がはるかに大きい。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/kssakura/entry-10897403521.html</link>
<pubDate>Fri, 20 May 2011 13:53:29 +0900</pubDate>
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<title>信仰と完全性</title>
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<![CDATA[ 以前、知り合いに誘われて詐欺グループのビズインターナショナルが主催する「Xing」というオンラインサービスの説明会に言ったことがある。<br><br>見せられた映像はどこかの民放で放送されていたビデオの使い回しで、一部は既存テレビゲームのパクリだった。説明も「大丈夫」だの「サーバーはすでに用意されている」だのと大まかなことばかりで詳細を話そうとしなかった。<br><br>どう見ても詐欺じゃねえか、と思いながらも、説明会に参加している人たちは社会的地位も高そうなちゃんとした雰囲気の人たちだったし、知り合いの友人は会社を起業しているちゃんとした人だとのことだったので、絶対に詐欺だと声に出していえるほどの確証はなかった。<br><br>数年して、やっぱり詐欺だったということがわかったが、当時の知り合いの反応には今でも驚くものがある。知り合いは詐欺の可能性というのもある程度わかっていたし、「もし詐欺だったとしても20万円で夢を買えるならいいじゃない」とまで言っていた。それでいて、表情のどこかに何かを信じきっている様子があって、心の中では「何も知らないバカな人たちとは違って、自分は先んじて賢い情報を入手している」と考えている節があった。<br><br>人が何かを信じこむということは、こういうものなのだろうなと思う。<br>信じきっていることに、様々な瑕疵があることを他の誰かが指摘してやっても、その一部の瑕疵を受け入れようとしない。あるいは、「そんな瑕疵は想定の範囲内だ」などと考えて、その包括性を信じて疑わない。<br><br>無知なのは自分の方なのに、無知なのは相手の方だと信じ込んでいる。<br><br>南京大虐殺が起こったことを信じている中国人に対し、「南京大虐殺はあった可能性が大きいが、被害者数が30万人というのは誇張で、実際は数百～数千だ」という冷静な分析を披露しても、激しい反発しか返ってこないだろう。信じていることのほんの一部を否定しただけで、全体を否定されたように感じ、猛烈に反発を覚える。<br><br>信じるということは、同時にその信じていることの完全性を信じることでもある。<br><br>逆に言えば、完全性を信じている限り、その人はある種の無知と信仰をもっているとも言える。<br><br>完全性を信じない、ということは知恵の第一歩なのではないだろうか。
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<link>https://ameblo.jp/kssakura/entry-10889129391.html</link>
<pubDate>Thu, 12 May 2011 07:46:11 +0900</pubDate>
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<title>頑張れという言葉</title>
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<![CDATA[ 「頑張れ」という言葉をかけられるのが嫌いだという人がいる。「いますでに頑張っているのにこれ以上なにを頑張れというのだ？」という思いがあるらしい。<br><br>「頑張れ」という意味の英語はいくつかあるが、「Come on」という言葉には「私に頑張ってついてこい」とか「私と一緒に行こう」という響きがあるが、日本語の「頑張れ」は後ろから背中を押されて「お前の力で前へ進め」という響きがある。それで圧迫感を感じるのかもしれない。<br><br>頑張れという言葉を使うときは「まなざし」が重要な意味をもつ。「頑張れ」と言いながら、言った相手のことをまるで気にかけていない人もいて、そうした「まなざしを欠いた励まし」は、人と人とのあいだに距離をつくるだけだ。<br><br>結局最後の一番肝心なところでは人は一人で頑張る必要があるのだから、「頑張れ」という励ましは必ずしも無責任で「まなざしを欠いたもの」ではない。<br><br>「頑張れ」といいながら、言ったその人に本当に気遣う気持ちがあるか、「まなざし」があるかどうかをちゃんと見定める必要がある。
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<link>https://ameblo.jp/kssakura/entry-10881823939.html</link>
<pubDate>Thu, 05 May 2011 07:54:07 +0900</pubDate>
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