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<title>kumagiさんのﾌﾞﾛｸﾞ</title>
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<title>新しい舞踏</title>
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<![CDATA[ 御茶ノ水駅のホームで地面と平行になるほどに俯いた男が、右足はようやく履いているものの左足だけ、ボロボロの靴の踵を踏み潰して引きずりながら、乗客が並ぶよう指定された中央線側の白線に向かって数センチづつ進んでいる。一歩の飛距離が靴の半分ほどで、ホームの中央をスタートしたときには最初の電車が去ってしまい、こっちまで釣られて彼が次の電車に乗れるのかどうかハラハラしながら見つめ入ってしまった。次の電車の到着の知らせがあったときには、あと一人分だけ前に進めば指定の位置にたどり着く距離まで来ていた。一貫して同じスピードを保っているから、むしろそのまま転落してしまうのではないかと心配したが、行儀よく白線の内側に収まって歩を止めた。首尾よく入線した電車のドアが開き、隣のドアから乗り彼の乗車風景を見届けようと待ち構えた。しかし、時間調整で比較的長く停まった電車のドアが目の前に開かれているのに、足の裏でホームのコンクリートをゴシゴシするだけで最後の一歩を出さない。そうこうするうち発車ベルが鳴り、容赦なくドア<br>が閉じられ神田へと動き出してしまった。引き返した彼は、線路を背にして再びホームの中央目指して歩き出していた。素晴らしいパフォーマンスだった。　最初暗黒舞踏の担い手かと思った。でもいかんせんコントの国の人なのだった。<br>
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<pubDate>Sun, 31 Oct 2010 21:28:36 +0900</pubDate>
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<title>三連続黄色信号の怪</title>
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<![CDATA[ 時間がない。あんなこともしたかったしこんなことも、あの飲み会には是が否でも参戦したかった。ああ、時間がもっとあれば繰り越ししてでも予定を激しく組めるのに、身を費やすばかりで、なぜこうもうまくいかないんだろう。まったく不甲斐ない。そうだこういう時は、自分が二人いたらいいんだ。さすれば調子の良し悪しをうまく案配して賑やかなところには余裕のある方に、ちょっと真面目で聞き耳さえ立てていれば収穫が期待出来るような席には大人しい感じの方に行ってもらえばいい。いやしかし、果たしてこの二人は第三者の介入なくして対等な立場で尊重し合い、最善を尽くした妥当な割り振りを決められるものなのだろうかという疑問が残る。互いにとっての相手となるもう片方の自分は、やがては同じ自分に帰属するのだという最低限の約束を守り、隔離された状態を経ても、分離以前の関係を記憶に残した他者の信頼に足る己を持ち続けていられるのだろうか。二人をひいき目なしに示し合わせられる元々の自分が、分離によって不自然となる部分の埒外に残っていて、割<br>り振られたことのある過去をうまくまとめ直せればいい。正常と異常をコンダクトしうるありのままの自分を恒常的に保つ、唯一無二のわたしがいるのだとすれば、パズルの一駒然とした部分の全部への連なりが、欠けた絵柄を補って自然さを象徴するように、それを指した他者が混乱に陥ることなく己に向けて回帰してくるだろう。というかむしろ対人関係などそのような空白をしてなんとか持ちこたえているに過ぎないように思える。前人未踏の細部が部分の集合である自分には空白として常に担保されている。ただ一点、踏破された地点を占めていたのが、遠近法の無限遠点を支配した神の座だったのだろう。不可知の部分に自然が流入すると、神が死んだからこその独裁体制が創造され、反射的に己の空白を捏造してしまう。<br>
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<link>https://ameblo.jp/kumagi/entry-10688665916.html</link>
<pubDate>Tue, 26 Oct 2010 23:41:17 +0900</pubDate>
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<title>青い蜜柑はうまいが、青いバナナは毒</title>
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<![CDATA[ 今回は前見たときよりお互いを言わく言い難いものとして捉え、かつそれを放置はせず、及ばざる各自の特異な完結点には敬意を払う。そう言った鍛練の過程があったんではなかろうかと思いました。足元が確かだからこそ迷わず出来る選択の世界から、一か八かでも構わず行為全体を投げ打ち、判断力の機能する底抜けの世界へと飛び出して、Ｍの分岐点になるのではないかと期待してしまいました。　演目の紹介に『生まれて死んでまた生まれて』とありますね。生まれて=死んで、ならば常識的な死生感の範疇で共通理解が得られます。ところが、「また=生まれて」となると、生死を乗り越えた個体の復活劇なのか、はたまた遺伝子の譲り渡しから派生する新たな個体を、過去の「生まれて」で誕生した個体とは別個に生成された生命体に託した結果なのか、宗教感なども織り込んだ相当にかまびすしい問題提議になります。Ｍの作品は、生=死を別の世界に差し置いて、現在ここにある性にのみ生命の徴を書き込むための演技(他になんと言ったらいいのかわからず<br>、とりあえず演技にしてみた)を行ったものと見ました。語り起こしの起点を生とするか、死とするか、性とするかで、演技の軌道も異なってくるはずです。性を始源に定め、絶頂を迎えねばならない動的な時制を一定の恒常性に留めおくアクロバットを試みることで、以前以後に引き裂かれる時間関係への配慮を極力抑えることが可能になる。悲劇や喜劇のどちらかに割り振られてしまう運命を遠ざけることが出来る。そういった意味で、絶頂を棚上げにした性差のコントロールによって、物語の萌芽にスラッシュを入れたお二人の設定は、起爆剤無き爆弾のようで理に適っていました。性はコントロールした演技だとしても、本来恒常性とは背反するもので、いつでも現在が優先され、どちらに転ぶかもわからない不確定要素の塊だろうと考えられるわけです。アリストテレスは言います。『～すべてをあますところなくあらわす再現のほうが低俗であるということは、明々白々である。じじつ、多くの動作をするのは、自分で何かをつけ加えないなら観客には理解されないと考えるからで<br>ある。』(『詩学』)　性の開示を不問に付すとなったとき、「多くの動作」を性差に縛られた定型(やみくもに唾棄するわけではないのです。山田五十鈴の素晴らしさ、坂東玉三郎の素晴らしさ…)と捉え直せば、二人以上の関係を備え、互いに互いを再現しあい、尚且つふとしたきっかけで再現をしているはずが対象そのものへ回帰して行く(アバター)過程は、何者かを演ずるという定型をかなぐり捨てた最小の演技になりうるのではないか。また=生まれての定型はシンデレラやイエス・キリストです。再生であり変身でもある、また=生まれての再現です。こうした夢のような物語を脱っし、「なんだわたしはあなたでもよかったんだ」と現すような感性を持った演技があれば、格差、境界、金融経済などへのアンチテーゼになりうるものと信じています。<br>
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<link>https://ameblo.jp/kumagi/entry-10677077232.html</link>
<pubDate>Thu, 14 Oct 2010 23:11:32 +0900</pubDate>
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<title>蝉だ</title>
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<![CDATA[ 昼休みに新宿の花園神社で弁当を食べていた友人(女子)の話。　なんやかやと、きさくに話しかけてきたカップラーメンを食べているおじさんが隣に座った。大変だなあと内心先を思いやりながら、食事の途中で立ち上がるのもままならず、おじさんの相手をしていると、観光で来たらしき外人に写真を撮ってくれないかと頼まれた。その場を離れるちょうど良い機会になることもあり、すぐに請け合ってカメラを構えた。ところが座っていた場所にバッグを置いたままにしていたのがいけない。振り向くと、カップラーメンのおじさんが財布を抜き取り走り去って行くではありませんか。追いかけてはみたものの、路地に入られては追跡不可能だった。　おそらく、おじさんと外人が仲間であると思われるのは、まず隣に腰をかけてからのタイミングの良さ、次に、バッグのある位置を背後に回すようカメラを構えさせる誘導が働いていたように感じられたこと。初犯ではなく、花園神社付近で味を占めているコンビなのではないか。再分配がこのような信頼を度外視した形式で行わ<br>れるのは大変忍びない。だが、国家公務員の自己保身のみを優先した危機感の薄さは、忍びないどころでは済まず、信頼を排他的に維持するのだから遥かに犯罪としての度合いが高い。<br>
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<link>https://ameblo.jp/kumagi/entry-10675926223.html</link>
<pubDate>Wed, 13 Oct 2010 20:24:52 +0900</pubDate>
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<title>他思うゆえに我有り</title>
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<![CDATA[ なぜ付き合っているの？なぜ私なの？こう聞かれると普通、明るい性格でこっちまで楽しくなるから。普段はわがままだけどやるときはやるってところ。その笑顔。等々、取って付けた褒め言葉でその場を取り繕い、やがて語義矛盾に苛まれたそれらの美辞麗句が、虚しい響きになり、誰もいない荒野に棄てられて、砂混じりの乾いた風に吹かれるがままサボテンの刺に引っ掛かる末路となる。岩波古語辞典で「のり」を調べてみる。海苔、糊、生血、伸り、宣り、告り、罵り、乗り、賭り…だいたいこんな感じで並んでいる。全てに共通して内包されている意味は明確につかめないのですが、なんとなく関係性を指しているようであり、硬軟、液体固体、薄厚、強弱、長短、軽重、大小、確定不確定、決未決、前後、上下、半減倍増に振れているようだ。「付き合う」を慎重に解剖してみると、「のり」を基準にした振れ幅を示す関係性に醍醐味がありはしないか。そう思わされる。最高の祝福が「祝詞」をあらゆる振れ幅の内に受ける機会であるとすれば、関係者達が言語に定着しようともがい<br>ている「のり」の周辺事情として「付き合う」を書き換えることで、チャートのようにとまではさすがに断言出来ないものの、ある程度公の体裁を整えた形で示し合わせが可能になるのではないか。つまり「付き合う」で関係性を抱合しようとするのは、公に対しての看板程度の意味にしかならず、演劇や舞踏などをやっていれば納得がゆくかと思われますが、感情の悲喜こもごもの全てはとてもひとつの定義には収まらないわけです。台詞なのか本心なのか、抱いているのか形なのか。公を突破し、個人の奥底にまで主観を譲り渡してやろうと意気込んでいる者にとっては、関係性たるもの「付き合う」で括るにはあまりにも心許ない。それでも相手に「付き合う」という定義が私的に樹立されているときなどは、主観の核がむき出しになるまで付き合わなければいけないこともあるわけです。どちらも同じですが、むき出しの核で相対しているつもりが、ものの見事に受け売りの商品だったのに気付かされたりもし、易々と括弧を外した付き合いにまで洗練されはしないのですが。そこでやはり<br>「のり」が召喚されるべきなのです。「のり」は法で厳格さの受け皿にもなっています。なにも「のりで付き合った」からと言って、いい加減だとばかり放ってはおけないでしょう。海苔の性質を考えてもいいし、生血の通う駆け引きだと正直になってもいい。果たして「のり」以外にどうして付き合えるのか。誰か教えて。<br>
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<link>https://ameblo.jp/kumagi/entry-10656254294.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Sep 2010 23:30:44 +0900</pubDate>
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<title>窓を開けて寝たいのに</title>
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<![CDATA[ 小さな明かりで就寝前の読書をして、いよいよ寝てしまおうかと仰向けになったとき、リラックスするつもりで真上に伸ばした腕の影がカーテンに映っているのを目にした。すぐには気がつかなかったのに、数秒間見とれているうちにはだんだんと様相が変わってきて、指を動かして大袈裟になった影の様子が、随分と久しぶりに心を奪われているといった程度で済む範囲を越え、この世のものではなく、どこか次元の違う世界の現象を突き付けられてでもいるかのようなつもりにまでなってしまった。それを童心とでも捉えればいいものか逡巡しつつ壁の面に影を動かすと、ますます指は大きくなり、手元の小さな動きと、画面の大きな動きのアンバランスが、救いがたい世界との齟齬だと感じられ、ちょっと怖くなった。なぜそんな境地があらわになったものか、自分自身を疑ってみる。確かに恐怖も秘められている。しかし、恐怖を裏返すと、懐かしさも半分は占めているのがわかる。読んでいたのは岡田温司の『半透明の美学』だったわけだが、カーテンや壁に何事かでも遮られるのを御免<br>被った結果、その時視覚を支配していた影の質感が「何事」へと変質し、時間を撹乱させでもしたのだろうか。<br>
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<link>https://ameblo.jp/kumagi/entry-10654478007.html</link>
<pubDate>Tue, 21 Sep 2010 00:45:12 +0900</pubDate>
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<title>傘もささずに</title>
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<![CDATA[ その日の夕暮れに聞いた話しでは38度に達した気温はあの多治見のそれを凌ぐほどで、そりゃあ確かに普段は受け付けないアサヒスーパードライに触手が向いてしまうのも無理ないはずだと自己の怠慢を赦す。地理感覚の覚束ない名古屋では、太陽の入射角を頼りに東西南北のあたりをつけるのが手っ取り早いと決めていたのに、逃げ場を奪われた憎悪に近い感覚で燃えている身体の内からは、日陰と風とクーラーへの期待の感覚ばかりが沸騰し、もしかすると、起伏や河川などとの相乗効果が少ないこの土地にトリエンナーレは向いていないのではないかとまで思ってしまい、市美術館よせめて期間中くらいは夜まで開館してみてはどうなのかなど、ひどくネガティブにもなってしまった。でもまあ、なぜお役所仕事というやつはユーザー側の常識に立ち遅れてばかりいるのかとは真剣に思う。広範囲にわたり見所を配置しても、9時～17時の当たり前な設定では、観覧の合間にゆっくり食事でもしてなど考慮するのは不可能で、アクチュアルな開けに届く遥か手前で、無理矢理<br>アートなるもののリアリティを押し付けられておしまいになってしまう。都市型の展示なのに、全くメリットがない観覧時間の設定に大きく不満。実際、市美術館の開館時間が、見たいもののプライオリティーとは無関係に順序を左右してしまう。塩田千春の血管には他に変えのきかない不確かさが漲っていたし、ツァイ・ミンリャンの静謐が、映画内にジャンルの混淆を忍ばせたことによる建築的な許容の美学だとはっきりしたし、長者町の地下街を発見させてもらえたのもよかったのですが、全体としてはたまたま幾つかの企画展が重なった名古屋の美術館を回ったら、途中にリノベーション系のギャラリーも増えていて、ついでに回ることが出来てよかったなあと言った程度の感慨で、特別な祝祭の色合いは薄く、それこそトリエンナーレを省いて「芸術祭」とだけはっきり銘打ってくれていたらまだ納得したのに。不具合の発生していた展示も多く、申し出てくれれば日付印に関係なく入場させてくれると配慮はしてくれているけれど、遠来の観客には寝耳に水で、しょうがないとは諦めつ<br>つも気分は盛り下がるのでした。　移動の後、京都の友人と合流し、三条大橋の袂にあるピグ＆ホイッスルでギネスとピザを。こちらもミラクルな暑さで鴨川の冷気などどこにも吹いていなかった。その分ギネスは美味かったからよしとする。　明くる日は和歌山の根来寺、粉河寺行きを目論んでいたのですが、暑さに耐え切れるものか、もうこれ以上苦しみたくないと割り切り、こちらも念願であった琵琶湖の湖上に浮かぶ竹生島に行き先を変更したのでございます。水辺だしちょっとは涼しいのではと期待しつつ。磯崎新、福田和也の『空間の行間』の続きにエンタクシー誌上で取り上げられた竹生島。もう６年も前なのですが、やっと行けた。話しは飛んで、その帰りに東静岡のガンダムを見た。以前『ガンダム展』では原寸大コアファイターをやっとこさアートの文脈に乗せていたことを考えると、ホビーの文脈がいかに巨大で産業化されているかがわかる圧倒的な塊だ。既存の建物に、豊国廟から運んで来た諸々をはめ込んで出来たとされる竹生島の唐門は、二頭身のキャラクターのよう<br>に不格好で、そつなく合体するコアファイターの計画性と対称的に思い起こされた。エンタクシーに書いた磯崎の訪問記は、コンピューター・アルゴリズムと桃山を同一視してとりあえずの帰結としている。そしてその連鎖が日光に接続されるのを阻止する手立てを模索しようとする。竹生島＝ガンダムに対して、日光＝エヴァンゲリオンを仮定すると、コアファイターの省略から日光に見えてくるものを探せばいいとなる。<br>
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<link>https://ameblo.jp/kumagi/entry-10642269421.html</link>
<pubDate>Tue, 07 Sep 2010 23:55:14 +0900</pubDate>
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<title>2010/09/05</title>
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<![CDATA[ 愛知トリエンナーレ→京都(ピグ＆ホイッスルでギネス)→竹生島→ガンダム。だった。<br>
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<link>https://ameblo.jp/kumagi/entry-10640451910.html</link>
<pubDate>Sun, 05 Sep 2010 23:16:39 +0900</pubDate>
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<title>いいんだろうか</title>
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<![CDATA[ 選択する場合、次のステップに踏み出したとしても、過去にはまだ選択以前の場所が戻れるように残っていて、判断した場合には、その戻れる場所を過去には置かず、現在からの生成にゆだねて己が自立するわけですが、「メル友」が懐かしい(古いっていうか懐かしいと思うのだよ)のは、ブログやツイッターのような洗練された片思いの関係(野蛮なツイッターやブログはメル友かもしれない)とは違い、そのどちらに転がるかがかわからない特定の秘密の場所を、常にふところに忍ばせて交信することにより「想い出」になるかもしれないからではないか…<br>
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<link>https://ameblo.jp/kumagi/entry-10635680320.html</link>
<pubDate>Tue, 31 Aug 2010 22:16:07 +0900</pubDate>
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<title>さすがにアイス食った</title>
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<![CDATA[ 事実無根の原因とか、厳選された結果とか、そういうありもしない約束のたぐいに弾かれて、オーソドックスな物語を知り得ないまま、他者達の物語に乗せられてはたまったもんじゃない。権力とはつまりそういうもので、内発的な物語を断固死守しようとする。しかしそれらはあくまでも幻想や空想のたぐいなので、角度によってはお笑いでしかない。権力を盾にした言葉にはこう対抗しよう。「ではなぜボランティアでやらないのか？あなたは」<br>
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<link>https://ameblo.jp/kumagi/entry-10630001171.html</link>
<pubDate>Wed, 25 Aug 2010 22:18:24 +0900</pubDate>
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