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<title>道院　紅卍字会メンバーによる個人（非公式）ブログ</title>
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<description>「道院　紅卍字会」知られざるところを少しだけだが知らしめたい。道院とは内（心）なる修道所。紅卍字会とは外（実行）に働く慈善団体。別組織であり、一心一体の「道と慈」でもある。♪ご興味がある方、あるいは見学したい方は面談、紹介等に応じます。</description>
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<title>一人の人間が霊界、現界に影響を与える</title>
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<![CDATA[ <div><br></div><div>&nbsp;｢一｣は数の基本で、数が小さいと言えども、その中身は｢大｣であったりする。軽い物も重い物の元素であったり微かであったりと言えども、その中身は｢多｣であるとも言える。</div><div>それは百千万億より無量無辺までの称えることの出来ない、また名づけることの出来ない程の不可思議の数でも、また必ず｢一｣から積み重ねたものである。高きに登るには必ず低きよりし、千里の行もまた足下から始まる。その止まりより、一歩の動きから始めるのである。この事をもって一人の心から世の中を平安にさせたり、危くさせたり出来、一人の修道で、天を補佐して生生化育(<span style="color: rgb(0, 0, 0); font-family: Meiryo, &quot;ヒラギノ角ゴ Pro W3&quot;, &quot;Hiragino Kaku Gothic Pro&quot;, &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;, Arial, sans-serif; font-size: 14px;">自然が万物を生み育て、宇宙をつくりあげていること)</span>に賛ずることが出来るのも、また一人より二人三人四人五人と基を起せるものである。人は天地人三才の中枢(霊界物質界の中間的存在で両者に影響を与える)にして、陰陽の相化するとなるもの(滅するも生成するも)であって、人が善なれば天地(霊界現界)もまた善であり、人が修道すれば天地もまた修道するのである。これは天地が人間をそうさせるのでなく、人間の行いによって、｢実に人霊の息(いき、生)を以って天地に通ぜしめるのである｣。</div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/kureondo-kijyo/entry-12657038076.html</link>
<pubDate>Tue, 16 Feb 2021 13:04:45 +0900</pubDate>
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<title>上・中・下  の修法と言われるもの</title>
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<![CDATA[ <div>前生と今生の悪因を免れて、今生と来生の幸福を求めるものを下乗の修法といい、そしてまた個人の内修外慈(心の修道と慈善の行い)の修行を功行とせず(功績にも捕らわれない)、人間本来の使命を当然とするものを中乘の修法と言う。</div><div><br></div><div>万有万霊は全て先天の炁胞によって化育せられ、物はすなわち我であり、我はすなわち物である。すなわち物我一体観に徹し、人もし精純なる自然の候によって、至慈至喜の功行を為し得れば、意志想念の中に、何等の功候となすべきものなく、また何等の行と為すべきのもない。能くこの境涯に到達し得れば、単に炁霊が凝集してその本来に復するばかりでなく、永遠に輪廻の苦境を脱して造化の支配するところとはならず、老祖の炁胞に還ることが出来るのである。これを上乗の修法という。</div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/kureondo-kijyo/entry-12654288017.html</link>
<pubDate>Wed, 03 Feb 2021 06:49:02 +0900</pubDate>
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<title>先天の大道</title>
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<![CDATA[ <div>老祖の示された大道は、先天の大道と称され天地が創造されるに前に先立って存在する大道の意味であるが、その大なるはこれより大なるは無く、その小なるにおいては、これより小なるは無く、一度び拡げれば万物にゆきわたり、これを収めれば一つに帰せざるは無し、と云う大道である。<br></div><div><br></div><div>老祖いわく</div><div><br></div><div>「至大なるものは吾が道なり、至小なるものは吾が道なり、至虚なるものは吾が道なり、至実なるものは吾が道なり、至遠にして至近なるものは吾が道なり、至深にして至浅なるものは吾が道なり、至常にしてまた至隠、至微にして至顕なる者は、また吾が道なり。</div><div>諸子は吾が道の至大至虚、至遠至深、至常至微なるを以てその深きを明かにし隠微なるを求めるに難しとなすなかれ。<br></div><div>難くして易しと為す者は将に極め至らんとするなり。諸子は吾が道の至小至実、至近至浅、至微至顕なるを以て、かるがるしくなれ親しみてこれを易しと為す勿れ。<br></div><div>易くして難しと為す者は将に極め至らんとする也」<br></div><div><br></div><div>と示される。</div>
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<link>https://ameblo.jp/kureondo-kijyo/entry-12652741047.html</link>
<pubDate>Tue, 26 Jan 2021 19:42:16 +0900</pubDate>
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<title>天地人の道</title>
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<![CDATA[ <span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">天道・地道・人道</span><div><font face="ＭＳ 明朝"><span style="letter-spacing: 1px;"><br style="color: rgb(51, 51, 51); font-size: large;"></span></font><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">天道とは「天は虚空を以って形をなすものである。蒼蒼たる天は虚空無物である、天は無為なる変化である故によく天の秩序を守っている」</span></div><div><font face="ＭＳ 明朝"><span style="letter-spacing: 1px;"><br style="color: rgb(51, 51, 51); font-size: large;"></span></font><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">地道とは「地は博厚を以って質をなすものである。すべて一切萬物の成長を収蔵する。つまり地は道の至寧を得て地の生を主どっている厚徳の生である。」</span></div><div><font face="ＭＳ 明朝"><span style="letter-spacing: 1px;"><br style="color: rgb(51, 51, 51); font-size: large;"></span></font><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">人道とは「人は天と地の道を兼ねそなえ以って生成化育の体をなす。人は天と地の中に居り、道の至霊を得て萬物の霊長となしている。」</span></div><div><font face="ＭＳ 明朝"><span style="letter-spacing: 1px;"><br style="color: rgb(51, 51, 51); font-size: large;"></span></font><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">　天と地と人をつなぐものが大道であります。</span></div><div><font face="ＭＳ 明朝"><span style="letter-spacing: 1px;"><br style="color: rgb(51, 51, 51); font-size: large;"></span></font><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">　又、人の心には魂と魄があり、魂は本性を主どり魄は情を主どり善悪が分かれると訓にあります。</span><br style="font-family: &quot;Hiragino Kaku Gothic Pro&quot;, HiraKakuPro-W3, &quot;ヒラギノ角ゴ Pro W3&quot;, メイリオ, Meiryo, &quot;MS P ゴシック&quot;, verdana, sans-serif; color: rgb(51, 51, 51); font-size: large;"><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">道心とは魂の本性(神性)のことであります、それは人の誰しも持っている良心であり善のことであります。</span><br style="font-family: &quot;Hiragino Kaku Gothic Pro&quot;, HiraKakuPro-W3, &quot;ヒラギノ角ゴ Pro W3&quot;, メイリオ, Meiryo, &quot;MS P ゴシック&quot;, verdana, sans-serif; color: rgb(51, 51, 51); font-size: large;"><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">　</span></div><div><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;"><br></span></div><div><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">人心と道心について述べた訓文があります。</span><br style="font-family: &quot;Hiragino Kaku Gothic Pro&quot;, HiraKakuPro-W3, &quot;ヒラギノ角ゴ Pro W3&quot;, メイリオ, Meiryo, &quot;MS P ゴシック&quot;, verdana, sans-serif; color: rgb(51, 51, 51); font-size: large;"><br style="font-family: &quot;Hiragino Kaku Gothic Pro&quot;, HiraKakuPro-W3, &quot;ヒラギノ角ゴ Pro W3&quot;, メイリオ, Meiryo, &quot;MS P ゴシック&quot;, verdana, sans-serif; color: rgb(51, 51, 51); font-size: large;"><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">　尚書に示されている十六字の心伝、すなわち「人心惟れ危く、道心惟れ微かなり、惟れ一、允とに厥の中を執れ」</span></div><div><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;"><br></span></div><div><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">《 訳:人の心は乱れやすく危ないものである。真の心、本の良心は微かなもので現われ難いものであるから、冷静に集中し一貫するように、誠実なる確信の｢中庸｣をとれ》</span></div><div><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;"><br></span></div><div><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">を体得するには、必ず先づ人心と道心の危微の間において恐れ謹んで戒しめなければならない、それは従来天理が欲望の障りによっておおわれやすいことは明白である。</span><br></div><div><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">　程子が言うには人心とは即ち人欲であり、道心とは即ち天理であると。そもそも心とは一つしかないのに、どうして二つに分けるのであろうか。それはその天理にしたがうものと人欲をほしいままにするものとによって。その名称が二つになるからである。</span><br style="font-family: &quot;Hiragino Kaku Gothic Pro&quot;, HiraKakuPro-W3, &quot;ヒラギノ角ゴ Pro W3&quot;, メイリオ, Meiryo, &quot;MS P ゴシック&quot;, verdana, sans-serif; color: rgb(51, 51, 51); font-size: large;"><span style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; font-size: large; letter-spacing: 1px;">　いわゆるこれ（この心）を操りて存するようにすれば即ち義理が明らかになり、これを捨てて亡ぼせば即ち物欲をほしいままにするようになる。人心もこれを収め回すようにすればすなわち道心となり、道心もこれを放矢すればすなわち人心となる。人心もその正を得るものは道心となり、道心もその正を失うものは人心となり、初めから二つの心があるのではないので、ただこの心の中に人為の偽りが雑っているか否かによって天と人と、理(ことわり)と欲が分かれてくるのである。</span></div>
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<link>https://ameblo.jp/kureondo-kijyo/entry-12626213902.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Sep 2020 08:13:56 +0900</pubDate>
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<title>心を修めるとは、道を修めることに等しい</title>
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<![CDATA[ <p style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &quot;Hiragino Kaku Gothic Pro&quot;, HiraKakuPro-W3, &quot;ヒラギノ角ゴ Pro W3&quot;, メイリオ, Meiryo, &quot;MS P ゴシック&quot;, verdana, sans-serif; letter-spacing: 1px;"><font face="ＭＳ ゴシック" style="font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;;">&nbsp;｢道｣というのは天地の間において、人々が公に持っているものであり、決してある特定の人だけが私有独占すべきものではないのである。｢道｣は人においては、貴賎、貧富、智愚の差別がなく、生まれると同時にあって、片時も離れることがでいないところの、すなわち心である。</font></p><p style="color: rgb(51, 51, 51);"><font face="ＭＳ ゴシック"><span style="letter-spacing: 1px;"><br>人には皆、心というものがあって心がすなわち｢道｣であり、もし心を能く修めることができれば、それがとりもなさず道を修めることなのである。いわゆる道を修めるとは実は心を修めることなのである。</span></font></p><p style="color: rgb(51, 51, 51);"><font face="ＭＳ ゴシック"><span style="letter-spacing: 1px;"><br></span></font></p><p style="color: rgb(51, 51, 51);"><font face="ＭＳ ゴシック"><span style="letter-spacing: 1px;">このように説いてくると、心を修めることがすなわち道を修めることであって、別に何も深遠で奥深く不可思議なものではなく、又別に難しいことではないのである。</span></font></p><p style="color: rgb(51, 51, 51);"><font face="ＭＳ ゴシック"><span style="letter-spacing: 1px;">それは時間を消費する必要もなく、また</span><span style="letter-spacing: 1px;">場所も必要としないので、ましてや深山幽谷に、師匠や道友を訪ね求める必要もさらさらなく、何時でも、何処でも、何事においても、ただ自分から決心をして修めさえすれば、自然にだんだんと｢道｣に合するようになるのである。</span></font></p><p style="color: rgb(51, 51, 51);"><font face="ＭＳ ゴシック"><span style="letter-spacing: 1px;"><br></span></font></p><p style="color: rgb(51, 51, 51);"><span style="font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; letter-spacing: 1px;">この心とは及ち良心であり、又道心でもある。もし何事でも良心にそむくことがなければ、即ち道に合するのである。もし何事においても道に合致すれば、修める必要はないのであり、社会はこのように悪くならず、世界も又このように乱れることはなかったのではないだろうか。</span><font face="ＭＳ ゴシック"><span style="letter-spacing: 1px;"><br></span></font></p>
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<link>https://ameblo.jp/kureondo-kijyo/entry-12625774966.html</link>
<pubDate>Fri, 18 Sep 2020 11:42:42 +0900</pubDate>
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<title>魂(ブッディ体、アートマ体、モナド体)と魄(エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体)。</title>
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<![CDATA[ <p>魂(たましい)はその性質を神様より受けて、その本体は常に清く、常に輝いている。</p><p><br></p><p>肉体をまとった人間で、魂の性質の方が出現すると安らかでいて静かで慈悲深く、善を好んで行い、理(ことわり)を尊び、その心は悠然としている。魂によって生きた人間が亡くなり霊体になれば光輝いて神の身元に直行する。そして現界に超然として、とらわれることもないのである。</p><p>&nbsp;</p><p>そして魄(はく)の性質は常に濁(にご)っており、人間において魄の作用は、情慾や雑念が日常的に多くなる。肉体的思考も増大しがちで、常に心の中も騒がしくしており、欲望を喜んで貪るところである。そして、その勢いの常におもむく所に居るのである。</p><p>魄を強くもった人が死ぬと物欲の言うならば、泥まみれのしがらみから抜け出す事が出来ずに、執着となってその場に囚われてしまう。<br></p><p>&nbsp;</p><p>魂と魄は、実は表裏一体のものであり、エネルギーの清濁(せいだく)によるところのものに過ぎない。</p><p>人間には、この清濁エネルギーが大別して二種類あり、濁である魄が一部重くなると、相対的に清い魂は一部減ることになり、人の情慾思考が一つ増えると、魄の量もまた一つ増えていく。日々欲を欲しいままにしておくと、魄エネルギーは日々増えていき、魂はますます覆い隠され少くなって行くのである。</p><p><br></p><p>現代を生きる人間のほとんどの人が、魄の方が多い人々である。そしてこの汚濁した魄エネルギーのために、利益を追って止むことなく、全くもって省みる事を知らない事は実に嘆かわしい事である。</p><p>&nbsp;</p><p><br></p><p>ブログ管理人より:&nbsp; &nbsp;</p><p>魂と魄がタイトルなのですが、定義の問題があり、魂をブッディ体、アートマ体、モナド体とし、魄をエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体として、この2種に定義し大別しています。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kureondo-kijyo/entry-12618220297.html</link>
<pubDate>Sun, 16 Aug 2020 14:01:36 +0900</pubDate>
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<title>劫(業)深き世と、ミロク(大同)の世の別かれ道</title>
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<![CDATA[ <div>大道が世の中に行われるようになると、天下を己自身の私有物となさず、これを公共のものと見なすようになる。ゆえにこれを私物化して自分の子孫にこれを継承させることがなく賢い者を選び、才能のある者を用いて、これを授けるようにする。このような時に当っては「忠信」を重んじ、「和合すること」を修める。そして自分の親だけを親愛するのでなく、それを他人の親にも及ぼし、自分の子供だけを慈愛するのでなく、それを他人の子供にも及ぼし、老人は晩年を安楽に過ごして寿命を全うさせるようにし、壮年の者には充分にその力が発揮できるようにしてやり、幼い者には安全に生長できるようにし、配偶者を失って孤独な者や、身体障害者はみな充分にその身を養うととができるようし、男には一定の職分があって困窮することなく、女はそれぞれ嫁ぐところがあるようにする。財貨は人民の生活にとって欠くことができないゆえに、むだにこれを浪費したりすることを憎み、だからといってこれを貯え私蔵して社会や世のために役立てないということがない。力は自身を養い世を修めるためのもので、これを出し惜しみすることなくその力を充分に出さないことを憎むが、だからといって己一身のためにのみに用いず世のためにも尽力して力を出すのである。人々の風習がこのようになると、邪悪な陰謀や策略が行われなくなり、乱臣や賊は絶滅してしまう。ゆえに人々は、門戸を閉じなくても安心して生活することができる。これを「大同の世」と言う。この「大同の世」となってこそ極楽の世界が形成され、真の世界となるので前文を見てみると、今日、劫運が盛んに行われているのは、重大であるばかりでなく、 人民でその劫を受けている者も多い。それは水害や火災でなければ、戦火による劫であり、伝染病による劫でなければ飢饉による劫である。そこでこの劫から逃れようと思えば、特別の独特の見解を持たなければできない。それは道徳を拠り所として一心に善に向い、何事も誠心誠意行うのである。「孝悌忠信礼儀廉恥」は実に劫から逃れる路である。軒邪 (よとしまなこと)、するがしこさ、匪錦(悪僻)や淫快 (みだらさ)は、劫に落ちる媒介となるだけにとどまらない。世間の人がもし劫の危険を畏れ、劫のはたらきの甚大であることを恐れるならば、心を入れかえて善に従うことである。そうすれば、桃源郷は違いなく、武陵も遥かなところにあるのではない。(天国が遠くないことを指す。)</div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/kureondo-kijyo/entry-12617666235.html</link>
<pubDate>Thu, 13 Aug 2020 22:16:27 +0900</pubDate>
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<title>道院・紅卍字会の使命と言うもの</title>
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<![CDATA[ <div><br></div><div>道院・紅卍字会はいかなる使命をもっているかについて</div><div><br></div><div>神様からのお示し、壇訓によりますと今は下元の末にして、上元の始まりの審判の時にあたっています。壇訓では、年数を紀で示されておりまして、一紀が十二年でありますので、現在は六千紀(七万二千年)来、未曾有の大難関に直面し人類を始めとして、万物は掃減の危機に瀕しておると示されているのであります。そこでこれに対して諸天神霊等は、宇宙の根本の神様である&nbsp; &nbsp; &nbsp;至聖先天老祖グランドゴッドに御願いをされて、大道の真諦、道の神髄を明らかにあらゆる災厄から救われることのできる根本原理を示して頂き、そして人類の心を真に清めて神の心に帰らせ恒久平和の大同の世界を実現しようというのが、道院、紅卍字会の使命なのであります。</div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/kureondo-kijyo/entry-12617484311.html</link>
<pubDate>Thu, 13 Aug 2020 06:51:57 +0900</pubDate>
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<title>内観と坐         (最高度の瞑想についての心得の一つ)</title>
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<![CDATA[ <div>後天の心は六塵(<span style="color: rgb(0, 0, 0); font-family: Meiryo, &quot;ヒラギノ角ゴ Pro W3&quot;, &quot;Hiragino Kaku Gothic Pro&quot;, &quot;ＭＳ Ｐゴシック&quot;, Arial, sans-serif; font-size: 14px;">色・声・香・味・触・法の六境のこと。心を汚し煩悩を起こさせる意味)</span>に接触することあれば、常にその六塵に惹かれる。</div><div>六塵に惹かれれる心は、よく道心の顕現を阻害することとなる。それは無自覚にある。</div><div><br></div><div>これゆえに人欲は日々に滋く、天理が明らかにならない所である。然る後に安らかに坐して、煩悩をとりしづめるこれを名付けて｢安｣となす。本心の動かざるを名付けて｢坐｣となす。&nbsp;</div><div>これ坐功は特に坐す時に然るのみならず、 坐せざる時にも功夫(修練の工夫) は決して停止しないのである。 坐してかくの如くであり。不坐の坐もまた、かくの如くである。一日夜長坐の坐もまた、かくの如くである。かくの如くしなければ、すなわちよく醜惑を浄化すことを得ないのである。&nbsp;</div><div>如何にして以てかくの如くなるや。内観の心を興すのである。 若し一たび念の起るを覚えれば、直ちに除き滅し、つとめて安静ならしめなければならない。</div><div>慧心の照す所これを｢内観｣となす。 即ち道心を以て人心を観るのである。</div><div>一念の起るは人心の動である。先に念が起きれば、後覚は直ちに随う。心の動きが既になくなれば、覚照することもまた忘る。一寸も心動かざるをこれを名付けて｢安｣となす。 覚性の動かざるをこれを名付けて｢静｣となす。 形跡有ること無きをこれ名付けて｢安静｣という。</div><div>この次は、たとえ貪り愛する的(あて)が有ったとしても、浮つき遊ぶ想念 を、ことごとく滅除すべし。浮遊する乱想はまだ念に過ぎないが、自己に貪りの前兆を成している。人心の欲なるものは拡大展開が迅速で、 例えば一滴の絵の具であるインクを清水の中へ滴り入れる如く迅速に染化(感染) 作用を始めるのである。</div><div><br></div><div><br></div><div><div><br></div><div>黙真人訓&nbsp; &nbsp;昭和四十年五月二十日</div><div>&nbsp;(昭和４０年８月の月刊誌より)</div><div>一部の抜粋</div></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/kureondo-kijyo/entry-12614169372.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Jul 2020 11:11:54 +0900</pubDate>
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<title>心が死ぬということ</title>
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<![CDATA[ <p>肝心なことは、あなたが真の信仰を持っているかどうかである。</p><p>もし外に表れる形を以て信仰とすれば、人がこういう風にしゃべれば、私もそのようにしゃべる。</p><p>人が祈祷し、懺悔すれば、私もそこに跪いて、そういう形をする。</p><p>そして私は己に入教（入信）しているのだから、上帝が私の一切の罪を赦してくれると考える。</p><p>これは、絶対に、あり得ないことである。</p><p>一人の友人を欺して、あなたの良心は、どこかに不安を感じている筈だ。</p><p>そしてそこには、絶交のあとの悪い結果がある。</p><p>まして、上帝と自分の良心をだましたら、どういう結果になるか、どうして自分で想像することが出来ようか。</p><p>&nbsp;</p><p>儒教に曰う、心が死ぬことより哀しいことはない。</p><p>身体が死ぬのはその次だ、と。</p><p>&nbsp;</p><p>無論、どんな宗教でも、不真、不誠、不修、そして不心得の人に対して、むくいがあるのは、定まった天の法律である、となしている。</p><p>原因のない結果はない。</p><p>また、自分だけ僥倖を願うような修行をすることは出来ないのである。</p><p>&nbsp;</p><p>昭和４０年１２月１０日発行月刊誌より&nbsp; &nbsp; &nbsp; 黙真人訓</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kureondo-kijyo/entry-12611943722.html</link>
<pubDate>Sun, 19 Jul 2020 08:34:54 +0900</pubDate>
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