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<title>黒虱＠俺ガイルのブログ</title>
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<title>読書感想文的ななにか　～千歳くんはラムネ瓶のなか　―本編―～</title>
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<![CDATA[ <p>今回は、楽しみにしていた千歳くんはラムネ瓶のなかについて感想を書きます。紹介文とか諸々は、ツイッターの応援アカウントでやってるので省きますね。</p><p>&nbsp;</p><p>早速。ネタバレありですのでお気をつけください。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>感想</p><p>　ただただ、幸せだった。それが一言でまとめた感想だ。</p><p>　これは、これまで楽しみにしていた期間があったことも起因するのかもしれないが、それ以上にこの作品特有の味が僕には、思った以上にはまったのだ。それは俺ガイル以上、或いは俺ガイルよりも「はまった」という意味でははまったのかもしれない。</p><p>　つまるところ僕はこの作品が欲しかった。普段から思っていることをまるで代弁してくれるような一面は俺ガイルにもあったし、逆に普段している行動を指摘してくれる面も俺ガイルにはあった。けれども、こういう『ラノベ』はなかったし、『ラブコメ』もなかったのである。</p><p>　試し読み時点でそれはものすごかった。主人公が微かに見せる心情は、素晴らしかった。だが、その先、より如実にその素晴らしさを感じた。まず、窓を割ってから先の健太との会話。技術的な面で話せば、今作がデビュー作である人が、どうして健太と主人公の会話の変化までも上手く表現できているのだろう、と思った。いや、だって少しずつ変わって行く感じがたまらないし。内容的な面で言うと、主人公・千歳朔の考え方にははっとさせられた。だがまぁ、それはもっと後に語った方がいいだろう。</p><p>　そういったことを終え、健太は無事、登校するようになる。その中で、如何にして健太を登校させるのか、というところも上手かった。自らネタにしてしまう、というのは以前、僕自身も思ったところであった。弱いところ、というのは隠そうとするから弱点になるだけで、ネタにすればむしろ強みにすらなる。そういう観点からすると、弱いところを隠そうとすることも多い現代の学生には是非読んでほしいところだ。</p><p>　その後、主人公は健太に対して色々働きかけていくなかでやっていくわけだが……今回書いたのはまとめ記事ではなく感想だ。僕が書きたいところだけを書こう。いや、全部書きたいんだけど、そういう意味じゃなくて無茶苦茶語りたいところって意味ね。</p><p>　</p><p>①千歳朔という人間</p><p>　比企谷八幡がひねくれていてその本音を確かめるのが難儀であったのと同様に、彼もまた実に本音が分かりにくい人物であったように思う。いや、比企谷八幡、彼ならば僕はまだ理解しやすかっただろう。何故ならば、以前は、彼と自分を重ねていたから。だから類推できた。しかし、千歳朔は違う。何を考えているのかは分かっても、本音は分かりにくい人物だった。いや、ある意味では分かりやすかったとも言える。</p><p>しかしながら、彼は孤独なのではないだろうか。比企谷八幡は、閉じた関係ではあったがその心を理解するような仲間がいた。それに対し千歳朔はそうではない。</p><p>否、本来はそうではない気がする。彼は本当は周囲の友と呼べる人物に理解されている人物なのだ。しかし、彼という人物が一見すると難解に見えるから、そして彼自身が自分を難解に見ているから、自分が理解されないと思っているのではないか。いや、これはまったくの的はずれかもしれない。ただ、僕はそう思った。もっと言うならば、これは常人なのではないだろうか。凡人、一般人。そういったくくりはしたくない。個性はそれぞれだし、個性という言葉がそもそも広くなりすぎている。しかし、あえて言うならば千歳朔という人物はありふれているのである。ありふれた人物であるのにありふれていない人物。それこそが、千歳朔なのではないかと感じた。</p><p>&nbsp;</p><p>②とにかくかっこよすぎる件</p><p>　もう、作中にはいろんないいところがあるんだけどなんだか書くのも申し訳ないくらいだ。だから、ただかっこよすぎるとだけ言いたい。</p><p>　特に最後。助けに来てくれるところは泣いたよ？？</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　はい、今回は抽象的だったですね。時間がないんです・・・それでも書きたかった！</p><p>　チラムネを今後もぜひ！</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/kurosirami/entry-12482819932.html</link>
<pubDate>Tue, 18 Jun 2019 20:03:04 +0900</pubDate>
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<title>読書感想文的な何か　～やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。～</title>
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<![CDATA[ <p>　今回は、僕が最も好きなラノベである俺ガイルについて書いていきたい。今回も、個人的な好みではなく考察的な読書感想になるほか、ネタバレも普通にあるので未読の方は注意してほしい。</p><p>　では始める。</p><p>&nbsp;</p><p>　俺ガイル、という作品は最初残念系ラブコメとしてぼっちを主人公として書かれたライトノベルである。</p><p>　前回の千歳くんはラムネ瓶のなかについての感想でも書いたのだが、ラノベの主人公としてぼっちを設定するのは何ら特異なものではない。一匹狼で他人から評価されない主人公、というのもライトノベルの中には稀にあるし、更に最近は増えてきている。</p><p>　だが、俺ガイルにおいてはそのぼっちというものをより強く押し出している。</p><p>　俺ガイル以前、ぼっちを主人公とする作品であってもそのぼっちというのは一種の記号的な設定にすぎなかったように思う。例えばＳＡＯは主人公のキリトがビーターとして悪役をするシーンがあるが、その嫌われているという設定がその後の物語に大きな影響を及ぼすわけではない。ただ、一人で戦う孤高の主人公ゆえにその強さをヒロインやその周囲のキャラが見て驚く。そんなシーンを描くために、設定的に孤独を用いている。</p><p>　実際、多くの作品において孤独な主人公であってもヒロインとは普通に話せるし人間関係もなんだかんだ良好に築いている。</p><p>　しかしながら俺ガイルの主人公、八幡はそうではない。</p><p>　彼はコミュニケーション能力など、基本スペックこそ他より劣っているわけではないが本質が圧倒的にぼっちだ。</p><p>　俺ガイルの前半、僕が第一部だと思っている３巻までに於いてはそのぼっちであるという性質を主人公の捻くれ度合いにおいて示した。</p><p>　捻くれた方法で奉仕部の活動をこなす。斜め下の、残念な青春を歩む八幡を見てぼっちであると強く示した。</p><p>　だが、同時に八幡はその中で人とのつながりも得ていく。</p><p>　関係を作っていく中で、それでも彼はその関係性に疑問を抱く。そうして結果的には２巻のようになる。それでも何だかんだ３巻で関係を修正するが、なおも人間関係への違和感を失くさない。そんなぼっちの八幡が描かれる。</p><p>　そして第二部だと勝手に思っている４～６巻。ここで物語は動いていく。</p><p>　４巻において、彼はそれまで悪役的な位置づけをしながらも少しずつ距離を縮めていったリア充組と急接近する。これについてはまた後記するつもりだが、これが彼の青春に大きな影響を与えていることは確かである。</p><p>　だが４～６巻においてそれ以上に大きいのは彼の行動であろう。それまで、彼はどこか情けない存在であった。斜め下の方法で相談を何とかしながらも何だかんだ日々を過ごしている八幡は、このままリア充になるのではないかとさえ思えるほどであろう。しかし、４、６巻の二冊においておきる事件が彼の人間性を一度、明確に定義する。</p><p>　彼は４巻や６巻において彼が為した行動はそれまでのものとは程遠い、後味の悪い問題の解消法だった。その解消法が、彼がこれまで傷ついてきており、それ故に逃げることを肯定したり、ずるいやり方を厭わなかったりする強い人物であるのだと明確に定義してしまうのだ。更に言えば自己犠牲を厭わないヒーローである、と読者に印象付ける。</p><p>　自己投影をする読者としては、八幡が実にかっこいいように見えるだろう。その上、ヒロイン達だけは主人公の傍にいてくれるわけなのだから最高だ。</p><p>　だが、そのままでいいはずがない。それこそがこの作品のリアルな部分でもある。</p><p>　７～９巻において、少しずつ、けれど確実に俺ガイルの登場人物の見え方が変わる。それまでりんとした強い人物であった雪ノ下は驚くほどに弱くなり、アホっぽさのあった由比ヶ浜は逆に驚くほどに頼もしくなる。それまで強者のようだった葉山についても少しずつ解剖される。</p><p>　７巻においてそれまで腐女子扱いでしかなかった海老名さんに注目したのは、ある意味では作品からの警告でもあったのだろう。今見えている人物像は虚像である、と。</p><p>　そして最終的に既存の人物像を全て壊し、その上で八幡という人物についてのヒントを記したところで第三部が終わる（これは勝手に思っているだけ）。</p><p>　それから１０巻、１１巻。この２巻において示すのは終焉の予感と八幡という人物の変化だ。</p><p>　終焉の予感、というのは言うまでもないが八幡と言う人物については語っておくべきだろう。</p><p>　１０巻において、八幡は戸塚に助けを請う。と同時に他者との関わりを少しずつ模索していく。わからない、ということを自覚している彼は序盤の彼と比べれば非常に弱く、脆い人物に映る。同時にそれまでただ可愛い存在としてマスコット的に扱われていた戸塚が頼もしい人物へと変わる。これは戸塚という人物が変化したわけでも、本当の人物像が露呈したわけでもない。戸塚はこれまでも八幡を案じていた。だから、戸塚が頼もしい人物へと変わるのはむしろ、八幡が変化したしるしなのだ。</p><p>　更に11巻、このバレンタインイベントは実に大きいものでもある。これまで関わってきた人物の多くが登場する。９巻のクリスマスイベントではこれまでの蹴りをつける意味合いが大きかったが、１１巻においてはそうではなく、むしろ八幡だもった人との繋がりを示したといってもいい。</p><p>　そして11巻の終盤、それまで八幡が抱き続けてきて、その上で改善のために模索していた問題が露呈する。</p><p>　12、13巻においてはその問題を解決していくために動く。その中で色んな人に助けを借り、積極的に動いていく八幡はある意味、もはやぼっちではないだろう。</p><p>　だがそれでもまだ彼の本質がぼっちであることがわかる。そういう意味では13巻は最も八幡が自主的に動いた巻であると同時に彼が最もぼっちであった巻だともいえるのではないかと思う。</p><p>　助けてくれる人がいようともぼっちでないわけではない。友達がいようとも既存の関係に疑問を抱かないわけではない。八幡は以前、読書感想文で夏目漱石のこころの本質について三角関係のもつれなどではない、と語っている。人間不信の物語であり、個と世界との隔絶を描いておりそこに一片の救いもないのだ、と。</p><p>　これが俺ガイルにも同様に言えるように思えてならない。</p><p>　だが、俺ガイルにおいてはおそらく、救いだけはある。それでも個と世界の隔絶があるが故に八幡が戸惑い続ける。そんな物語こそ俺ガイルなのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　まとめに入ろう。</p><p>　八幡という人物はぼっちとして描かれる。群れるリア充を嫌う。そんな彼が実は誰よりも淋しさに慣れしたしんだ淋しがり屋なのではないかとさえ僕は時々思う。</p><p>　ただその淋しさを埋めることができるのは「本物」だけ。ただそれだけでしかない。</p><p>　そうい意味では俺ガイルは淋しさを埋めていく物語なのだと僕は思う。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　ここからは蛇足。</p><p>　葉山という人物について語りたい。</p><p>　葉山は八幡とは対極として描かれ続ける人物だ。そして、八幡の青春を揺さ振った人物でもある。</p><p>　４巻において、八幡は葉山を、葉山は八幡を初めてしっかりと認識する。</p><p>　６巻において、葉山は八幡を雪ノ下の家へ送り出す。その時点で既に八幡を高く評価しているのが分かる。</p><p>　終盤、八幡のみが傷つく方法をとったことにすぐさま気付いた葉山は八幡に「どうして」と言い放つ。</p><p>　７巻では足掻いた挙句に八幡に頼り、8巻ではそのせいで八幡が失ったものを取り戻そうと足掻く。どちらも彼の情けなさが露呈するところであり、葉山という鏡によって八幡が抱える色々ものが映し出されていく。</p><p>　そして10巻、ついに二人は分かり合うことを諦める。だが同時に葉山は陽乃を追い、周囲の期待に応え続けることを受け入れる。</p><p>　そんな彼の選ばないという選択が、八幡が選ぶことを確定している。</p><p>　１１～１２巻においての二人はそこまで関わらず、お互いに分かり合わずに平行線を続ける。ただ僕にとってとても大きく感じ、嬉しくも感じたのは１２巻における葉山との描写だ。雪ノ下の顛末について、自動販売機近くで話すあのシーンだ。教室に帰るとき、八幡と葉山の距離が一瞬だけ近づいた。あからさまに比ゆ的なその描写がとても大きいと思う。</p><p>　そして13巻。葉山は八幡に強く問い詰める。また、陽乃との関わりにおいてその闇を露呈させる。</p><p>　葉山はおそらく八幡に嫉妬を抱いている。それはこれまでも少しずつ見えたが、13巻での彼らはそれだけでない。八幡が葉山に強く嫉妬した描写があったのだ。</p><p>　ぼっちと超絶リア充は似ていて、やはり違う。そんなことをかんがえさせられるのが葉山と八幡の関わりなのだと思う。</p>
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<link>https://ameblo.jp/kurosirami/entry-12460841408.html</link>
<pubDate>Sun, 12 May 2019 20:58:30 +0900</pubDate>
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<title>読書感想文的な何か　～千歳くんはラムネ瓶のなか～</title>
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<![CDATA[ <p>※この記事は、試し読み時の感想です。多分、しっかり全部読んだらまた書きます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　ツイッターのほうで、感覚的なところは書いたので今回書くのは暫定的な印象と割と真面目な文章です。</p><p>　ぜひ、六月の発売までに試し読みしてみてくださいね！</p><p>　それでは、いきます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　　千歳くんはラムネ瓶のなかについて語るには、まずラブコメについて考えていくべきだろう。</p><p>　　僕のことを知っている人は知っているだろうが、僕はやはり俺の青春ラブコメはまちがっている。のファンである。</p><p>　　このやはり俺の青春ラブコメはまちがっている。＝俺ガイルはこのラノで殿堂入りするほどの人気作である。それ故に、俺ガイルがラブコメ界に与えた影響も大きかった。</p><p>　　俺ガイルの主人公である比企谷八幡はぼっちだ。それはもう、残念なほどにぼっちである（無論、話が進むと人と関わっていくが、それでも大して本質は変わらない）。この八幡に対し、多くの読者が共感し、自己投影したがためにＨＡＣＨＩＭＡＮと揶揄されるような、様々な二次創作も生まれた。この頃から、いやそれ以前からラノベというのはいかにも主人公らしい正義感のあるキャラクターよりも、孤独だったり情けなかったりという自己投影しやすいキャラクターが主人公になることが多かった。そんな自己投影しやすい主人公が活躍し、ちやほやされるというのが娯楽としてのラノベの楽しみ方でもあるのだと思う。</p><p>　　俺ガイル以外の例を挙げるとすれば、ＳＡＯ、とらドラ、物語シリーズ等だろうか（にわかなので間違っていたら申し訳ない）。</p><p>　　更にそういった流れの中で、非常に無個性な主人公というのもしばしば見られる。僕も趣味で書いていたときはよく無個性で主人公みにかけるキャラクターを主人公にすることが多かった。それはやっぱり、学校生活において自分がモブだと自覚しているからこそ、普段、学校生活において主役であるリア充を差し置いて、自分が主人公になりたいという思いがあったからなのだと思う。</p><p>　　俺ガイルにおいても初期の時点で、リア充というのは憎悪の対象であった。アニメ二期まで見た人が一期の前半を見直すと、葉山や三浦、海老名さんなどのキャラクターの描き方が違いすぎていることが分かるだろう。戸部はうざいままだが。ぼっちを主人公と設定したとき、リア充というのは分かり易く対極の存在であり、敵キャラなのだ。</p><p>　　一般の、オタクではない人が考えるラブコメといえば主人公はリア充だろう。けれどもラノベの中のラブコメの主人公はぼっちであり、リア充に対しては「リア充氏ね」。これこそがオタクの共通認識となっている節があるのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　さて、長くなったがここから千歳くんはラムネ瓶のなかについて話していきたい。</p><p>　ここからが本番だ。</p><p>　この作品から一言抽出するのであればそれはリア充、という単語だと思う。</p><p>　主人公は超絶リア充であり、周りには無茶苦茶友達がいる。しかも最初からかわいいヒロインがいて、主人公を好いている。正直な話、本当に「リア充氏ね」だと思う。それほどの圧倒的リア充である。これだけならオタクではない人が考えるラブコメにいろいろとありそうな話な気がする。少女漫画の実写化とかで山崎賢人あたりが主演をしそうである（氷菓の実写化を引きずって恨んでいるわけではない、と言っておく）。</p><p>　いや、もしも主人公が千歳ではなく、同じ学校の同じクラスのぼっちとかならば主人公や主人公の周りの登場人物は一般的なラブコメの一キャラクターとして普通にありえるものだ。その場合、俺ガイルの初期の葉山のようにそれなりの悪役として使われていたことだろうし、空気を読むことに苦を感じていることを主人公に打ち明けて……という展開だって十二分にある。</p><p>　だがしかし、この作品ではあえてラノベで千歳という超絶リア充を主人公にした。更には主人公がヤリチンであり、色んな生徒から妬まれているという設定までつけ、リアリティを持たせた。それこそがこの作品が問題作といわれた所以――ではない、と私は思う。</p><p>　そういった作品がこれまでにあった、とは言わない。二番煎じではなく、実に新しいものだろう。だがそれは問題作たりえず、更には面白みにもかける。悪口を言われる主人公がそれでも周りの仲間と楽しくのほほんとすごしながら青春をする。それだけならば少女漫画にごまんとある。</p><p>　そんな少女漫画とこの作品を乖離させているのは、憎むべきリア充としての千歳の人間味にあるのではないかと思う。これはあくまで途中まで読んだだけなので違ったら申し訳ない。</p><p>　</p><p>　千歳朔はただただ憎い。</p><p>&nbsp;</p><p>　それに尽きるのではないかと思う。</p><p>　彼は計算高い。計算高くスクールカーストの最上位に立つ。仲間と同じクラスになれば騒ぎ、それに対してぼっち等から非難の視線が向いてきているのに気付いていながらもやめようとも、抑えようともしない。女子にはすぐ口説き文句を言うし、発言もリア充じみていてムカつく。ぶん殴りたいくらいに。</p><p>　誠タヒねと言う言葉が常用される現代だが、彼だって正直氏ねと思うくらいにうざい。自己投影なんて一ミリもできず、おいていかれる感じがある。だからなのか私自身、すんなりと登場人物を受け入れられなかった。この人は誰だっけ？　という感じで印象が薄まっていた。それくらいに読者を置いてけぼりにする主人公だ。多分初期の八幡なら死ねといっていること間違いないだろうし、その他のラノベでも多分、恨むだろう。やってることは俺ガイルの葉山よりも余程酷い。書記の葉山もそこそこに残念な行動があったが、千歳はゴミみたいな行動もする。多分だがリアルにこいつと知り合ってたら、睨みつけてると思う。</p><p>　そこまで憎い彼であるが、読んでいると時々胸を貫かれるような気分になる。</p><p>　例えば彼がヤリチンだと噂されていたり。</p><p>　例えば彼がリア充みたいなそういう言葉をレッテルだと思ったり。</p><p>　そのたびに気付かされる。リア充も生きている、ということを。</p><p>　そう考えてみると、彼がやっていることも悪くないように感じるのだ。オタクだって計算高いし、ネットじゃ騒ぐ。世間の冷たい視線（最近はほぼないが）に気付いてもやめないし、抑えない。女子のことはビッチだと思うし、リア充煮対しては心の中で氏ねと思う。陰湿さで言えばオタクのほうが酷いんじゃないかと思うくらいだ。</p><p>　だがそれが悪いことだとも思わない。つまるところ、どんなに計算高くたって、騒いだっていいのだ。無論、視線ではなく理論的に苦情をされて直さないのはどうかと思うが、そういうことをされてないのなら別に自由だ。その他うざい行動だってある意味では彼が努力や才能で得た資産の賜物だと思えば否定しにくい。</p><p>　それでもリア充は妬まれる。うざがられる。氏ねと思われる。というか僕が思ってきた。だからハッとさせられるのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　このことか俺ガイルの後半でも描かれている。八幡と葉山の関わりにおいては葉山の苦悩が描かれながらも、決して八幡が救うことはない。他の人物には救うほどではないが手助けしてきたのに葉山だけは助けない。</p><p>　また友崎くんに於いても、リア充にはリア充の苦悩があると描かれていた。</p><p>　私は千歳くんはラムネ瓶のなかを読み、この二つのことを思い出した。</p><p>　一方はぼっちから見たリア充。一方はリア充になった元ぼっちが見たリア充。</p><p>　どちらも信憑性がある。だから千歳が憎いが憎めない。</p><p>　</p><p>　さて、ここまで記したように今作の主人公は憎くて憎くて仕方がない。感情移入は決してできない。だが憎めない存在だ。</p><p>　それこそがこの作品が問題作であるとされた所以なのだと思う。</p><p>　だが私はこれが問題作であるとは思わない。ガガガ文庫でなければおそらく出版されなかったのではないかと思うほどに売れ筋から逆行しているように感じはする。しかしそれだけだ。</p><p>　斬新であると感じもするが斬新ではない。リア充だろうとぼっちであろうと、無個性であろうと人は苦悩を抱えるし、同時に正義感もどこかに持つ。人を見下す気持ちだってどこかにある。そしてどんな種類の主人公であっても読者である僕から見れば主人公は確実に他人であって、自己投影も感情移入も結局は偽物なのだ。事実、俺ガイルの八幡に当初自己投影し自らを八幡とさえ考えた痛い僕も今は、八幡と自分が違うことを理解している。似ているところも違っているところも全て含めて主人公と読者だ。</p><p>　だから超絶リア充で一ミリも自己投影できなくとも、それが特異なものだとは言えない。むしろ私は、彼の憎いのに憎めない存在が、驚くほどにすんなりと受け入れられるのである。</p><p>&nbsp;</p><p>　と、長くなって自分でもちょっと何を言っているか分からなくなってきたので整理しよう。</p><p>　この作品の魅力の一つは主人公だ。彼はとても憎い存在であるが、同時に憎めず、むしろ受け入れ易い。</p><p>　だがその上で言うならば、私は読了しても彼のことを好きにはならないだろう。ただ、今よりも受け入れているのだと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>　その他にも千歳くんはラムネ瓶のなかには様々な魅力がある。</p><p>　純粋にヒロインがかわいいということもある。ただその上で言うなら、三分の一の時点ではヒロインの魅力が完全に見えてないので早く先を読みたい。</p><p>　また、文全体がいい。リア充が主人公であるのに、ぼっちの八幡と同じように下らないことだって考えるし地の文も面白い。</p><p>　それでも一番に思うのは、やっぱり――リア充氏ねだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>　ここからは蛇足。</p><p>　私がこの作品に注目したのには理由がある。それは私自身超絶リア充を主人公にして一本、書こうとしていたからである。まぁ私は誰にも読まれないようなゴミクズ作家だし、一緒にするのもあれだが。</p><p>　私はリア充がぼっちになろうとする話を考えた。だからこそ、千歳がリア充であることを煩わしく思うのでもなく、人の期待に無理に応えようとするのではなく、ただ超絶リア充として存在していたことに驚いたし、さすがだと思った。</p><p>　同じ超絶リア充でも、私はリア充に目を向けていなかった。だがリア充もぼっちも同じ人間なのだろう、きっと。まあ氏ねとは思うのだが。しかし、これはもう末永く爆発しろに近いものがあると思う。</p>
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<pubDate>Sun, 12 May 2019 00:29:24 +0900</pubDate>
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