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<title>hasekenwilberのブログ</title>
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<description>時々ふと思う日記</description>
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<title>夢の中の人物</title>
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<![CDATA[ 昨日、僕は夢を見た。誰かはわからない男性（アメリカの思想家ケン・ウィルバーにも似ている）が僕の目の前に現れた。見た目はかなり年を取っているように見える。でも僕はその姿に釘付けになった。目を離すことができなかった。なぜならその人物は筆舌に尽くしがたい程の美を放っていたからだ。それは性別や年齢を超えた美しさだった。存在そのものから薫りたつ美といったらいいだろうか。彼は言葉も発することはなく、ただそこに立ち、微笑んでいた。「彼のようになりたい」と思った瞬間、僕の眼に映っていた彼の顔が近づき始め（僕が近づいたのか、彼が近づいたのかわからない）、次第にその顔は大きくなり、僕は彼と一つになった。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/life-is-improvisation/entry-10531055286.html</link>
<pubDate>Mon, 10 May 2010 15:02:52 +0900</pubDate>
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<title>ただそこに在るということ</title>
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<![CDATA[ ただそこに在るということ、それは私は何者かであるということよりも重要である。<br>それは、何も失う恐れがないということであり、すべてを鏡のような心で受け入れるということ、<br>来るものを拒まず、去るものを追わず、である。そこには静謐さと平安がある。よけいな言葉を紡ぎだす必要もない。口から発せられる言葉や一挙手一投足に、明晰さと静けさが薫る。そこには、自己イメージも嫉妬も羨望もない。ただ行為だけがあるのみだ。この静かな視点にたった者は、ただ考えるということ、頭の中の多くの無粋な思考でさえもあまりの悪臭の故に、慎むことだろう。<br><br>見えないものを見るということ。見えないものを感じるということ。それは、このような静謐な空間に立って初めて見えてくるものなのだ。私は何者かである、この傲慢な思考は幻想であり苦しみを生む。存在論的苦痛といってもよいだろう。私は在るという時、私は全てを受け入れる、が故に私は穏やかにくつろぐことができる。<br><br>自由意志とはある意味で幻想だったんだと思う、もし自由意志があるとすれば、それは、今を受け入れるか、受け入れないかの二つだけだ。私は大きな流れの一部であり、その流れに無意識にも包まれていたということ、そしてその無意識から覚めた今では、その流れは私の前にはっきりと姿を現わすのだ。
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<link>https://ameblo.jp/life-is-improvisation/entry-10476132462.html</link>
<pubDate>Sun, 07 Mar 2010 22:07:22 +0900</pubDate>
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<title>「何ものでもない」という安寧</title>
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<![CDATA[ 　やる気もなく、なにもする気もないという時がある。そんな時、ただその状態を受け入れるのではなく、そんな状況に抵抗している自分がいる。 <br><br>　なにかに向かって努力している時、今という時が何らかの欲望を叶えるために存在するという感覚が持てるとき、そんなときは、どこかで不安な気分から逃れられるという気がする（心からそうしたくてしているわけではない）。よく感じてみるとその不安は、何者でもない自分になってしまうことに対する不安のような気がする。なにか自分（エゴ）にとって意味のあることをしていないと自分が駄目になってしまうのではないか、という不安や、誰からも評価されず、認めてもらえないのではないかという不安。 <br>　 <br>　何者でもない自分とは、簡単に言い換えれば、誰にも評価されない自分。 <br>なにもする気のない時意味もなくボーっとする時間、あるいはおいしいご飯を食べたり、お風呂の時間は、誰にも評価されるわけではないが、魂にとっては悦楽の時でもある。しかし時々、頭やエゴはこういった時間を無駄な時間という意味で嫌う。 <br>　頭やエゴはせいぜい「リラックスも必要だ」「食べないと頭が働かないからバカになる」「風呂に入らないと臭くなってもてなくなる」というぐらいで、あくまでもそれは何かのためには必要な時間、という意味で、その時間それ自体の価値を言っているわけではない。今という瞬間は、未来のための単なる踏み台になってしまっている。 <br><br>『愛するということ』『自由からの逃走』を書いたエーリッヒ・フロムという人は、「私たちはto be（在るということ）という生き方よりもto have（持つということ）という生き方にかたより過ぎている」というようなことを言っている。持つこと中心の生き方とは、持つことによって自分の存在を支えている、あるいは支えようとしている、ということではないかと思う。持つということは決して物だけではなく、能力、お金、肩書き、名声、も入る。フロムは決して物欲を否定しているわけではない。モノによって自分の劣等感を癒したり、自分は何者かであるということを確認することによってのみ自己存在感を感じるような生き方を嘆いたのだと思う。 <br><br>　対して「在る」中心の生き方とは、自己存在が誰かの評価、あるいは何を持っているか、といったことで揺らがない生き方である。何者でもない自分でいることに何の苦痛もなく、むしろリラックスしているような感じ。 <br><br>　勉強ができなくとも、お金がなくとも、器量が悪くとも、どんな過去があろうとも、失敗しようとも、なんだろうが、「元気でいてくれれば、それでいい」と言ってくれるおばあちゃんのような生き方である。こんな人が身近に一人でもいるだけで救いだと思う。ただ社会システムはこのような生き方を肯定はしない。社会は、私たちに恐れを埋め込む。～しないと馬鹿にされるよ、なにか一つでもいいから人よりも優れているものをもて、あまったれるな、現実は競争社会なんだから、～を持ってないと～になっちゃうよ。とかいいながら。 <br>人はこうして、優しさと穏やかさと緩慢さを失い、恐れと不安と焦燥感、劣等感と優越感、嫉妬、他人の不幸願望などを作り出す。 <br><br>ジョンレノンも、晩年にこういった問題と向き合った。 <br><br>「僕はヒットチャートで一位にならないと、自分は価値がないと思っていた。でもヨーコは、あなたは別にそんなことしなくてもいいのよ、といってくれたんだ」　 <br><br>「僕はそんなにすごい人間ではない。昔は、こんな風には言えなかっただろうね。」　　 <br><br>「歩けもしないのに、僕は走ろうとしていた」多分こんなニュアンスのことを言ってた。 <br><br><br>　でもすこしづつ、こういった呪縛から逃れたいと思う。最近友人と話ていて「存在のエクスタシー」という言葉がふと浮かんだ。このエクスタシーはだれでも感じることができ、もっとも身近にあるものだが、もっとも感じることが難しい。 <br><br>僕の好きなケン・ウィルバーという哲学者も言っている。 <br><br>「私たちは、単にただ、ここにいるという感じを望まない。もっとリッチになりたい、もっと有名になりたい、目立ちたい、何者かになりたい。こうしてわたしたちは、ただここにいるという感じを切り刻む」 <br><br>「ただここにいるといシンプルな感覚、そこでは嫉妬も羨望も何の意味ももたない。すべての幸福はわたしの幸福である。すべてのさみしさは、わたしのさみしさである。そのために、逆説的だが、苦しみはやむ。涙がやむことはない。微笑がやむこともない。ただ、この誰かであるという、この狂った感覚がやむ。」 <br><br>「わたしはこのシンプルで、何の努力もない。ただあるという感じにとどまっている。その時、すべては与えられているのだ」 <br><br>やる気がないとき、風邪をひいているとき、そんなときは、頭で色々考えずに（時間がもったいないとか、なんでやる気がでないんだとか、なんで風邪をひいてしまったんだとか）、あるがままに受け入れて楽しもうではないかい。
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<link>https://ameblo.jp/life-is-improvisation/entry-10444440010.html</link>
<pubDate>Thu, 28 Jan 2010 00:20:23 +0900</pubDate>
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<title>とりとめのない自分に対するひとりごと</title>
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<![CDATA[ 　「なにかを選ぶということは何かを選ばないということ」。よく頭のなかでこの言葉が回ってる。<br>自分の興味があることや好きなことを仕事にし、そこに情熱や楽しさややりがいを感じられるのならそれは幸せなこと。でも必ずしも、自分の好きなことや興味があることが仕事にできれば、情熱や楽しさを感じられるかといったらそうではないのだと思う。例えばデザインに興味があるということと、それを仕事にするということはまた別のこと。絵を描くことが好きということと、絵を見るのが好きというのは別のこと。服を買うのが好きなことと、実際に自分がそれを販売することが好きということは別のこと。<br>　仕事はあくまでビジネスであって趣味ではない。ビジネスはビジネスにすぎないしそれ以上でもそれ以下でもない。ほとんどが時代の流れや、経済学的にいえば需要を無視したものは売れない。仕事に自己実現を求めるのもいいが、仕事以外に自己実現を求めるという考え方も必要なんだ。仕事は自分ができることをすればいい。ほどよい程度に。別にガンガンやりたけりゃやったほうがいいが、そうでないのならそこまでじゃないっていう生き方だって必要だ。苦痛でないのならなんだっていいのだとも思う。仕事は苦痛のほうが多いというかもしれないが、我慢ができないくらいの根源的苦痛で無い限り、そんなあまたの苦痛なんて屁みたいなもんだ。<br>　仕事のイメージに惑わされてはいけない。そして自分が好きだと思っているものにも騙されてはいけない。もしかしたらトイレ掃除が天職だってこともあるんだ。好きだというものは頭で決めるのではないと思う。それは身体が決める、あるいは自分の潜在的無意識のようなものが決めるものだと思うんだ。<br>　何が好きかなんてその何かに出会うまでは自分ですらわかんない。でも無意識は何が好きなのか知っているんだ。だからその出会いに身体の疼きや震えを通してその答えを表すんだ。そして好きということはいつもいつも大仰な姿で顕れるわけでもない。むしろ自然にさりげなくできることが好きなものであることだってあるはずだ。<br>　時々、気をつけなきゃいけないのは、自分が向いている仕事なのに、劣悪な就業環境やシステムのなかでそれをしているうちに、その仕事が好きではないと錯覚してしまうことだ。でもそれはその仕事が嫌いなんじゃない、環境やシステムが嫌いなんだと認知修正をしなきゃいけない。<br>　趣味も仕事もそれぞれに好きなものをしていりゃいいんだ。その比重がどちらに傾くかなんてのはたいした問題でない。それぞれに楽しくできればすべてが多様性に富んだ「好き」なんだと思う。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/life-is-improvisation/entry-10444405642.html</link>
<pubDate>Wed, 27 Jan 2010 22:56:40 +0900</pubDate>
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<title>アンチポジティビティ</title>
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<![CDATA[ 　人間だもの、元気がない時だってあるさ。それなのに、テンションが普通だったり、ロー気味だったりすると、必ずといっていいほほど元気ないぞ、どうしたの、とおせっかいな一言が飛んでくる。ほとんどが気遣いからくるものではなく、人は元気でいなければならぬ、といった強迫観念のようなものがそこには垣間みれる。どんな考えを持とうが関係ないが、お前らの信念を私におしつけるなと言いたい。<br><br>　だいたいこの世は息苦しいんだから、いつも元気でいるほうがおかしい。自分で勝手に落ち込んでいるなら別だが、環境に対する自然な反応であるならばそれが自然である。だいたいいつも前向き、ポジティブ症候群は、一種の反動形成であると思うことがある。自分のなかの暗さや落ち着きたい欲求を抑圧して、それと正反対の人格に固執する。楽観的なことはいいことだが、それはあくまでも現状、あるがままを認めたうえでの、楽観主義である。極端な悲観主義者も楽観主義者も現実から逃げている。現実を認められない、あるがままの、等身大の自分を認められない。どちらも、ベクトルが内向きになったり外向きになったりするだけの違いに過ぎない。<br><br>ジョンレノンは、僕が欲しいのは、心の平安だ、と言っていたそうだが、人生は水面の波のようであり、おだやかなときもあれば荒れることもある、しかし、水底はいつも静かである。その静けさや落ち着きといったものに自分を沈めればポジティブとかネガティブといった二元論に分裂することなく、存在できるのではないだろうか。<br><br>だいたい前向きに生きるとか、どっちが前だかわからんのに、進めんのかしらと思う。
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<link>https://ameblo.jp/life-is-improvisation/entry-10384801960.html</link>
<pubDate>Mon, 09 Nov 2009 23:46:16 +0900</pubDate>
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<title>どもりの哲学</title>
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<![CDATA[ 　私は最近よく言葉につまったり、どもる。でも昔はそんなことはなかった。<br>いやどもってはいたのだが、気づいていなかっただけか？それを欠点のようにからかわれることで、その他者の視点で自分を見始めて以来、それを気にするようになっただけなのか？<br>　あるいは、他者の無意識的欲望、つまり「お前はどもっていて変なやつだ」という劣等感を和らげるための欲望に、私の無意識が答えてしまっているのか？<br>　はてまた、どもりは、不自然な関係性や空気、社会といったものに対する自然な違和感として身体が反応しているのか？<br>　よくわからない。でもそれは私自身の問題だけではないような気がしている。つまり、私が何らかのトラウマを抱えていてそれがどもりとなって表出している、というわけではないかもしれないということだ。<br>私がどもるのはある種の関係性や文脈のなかで表出するものなのではないだろうか？話したくない奴とムリに話すと、のどが緊張したり、総毛立ったりするのは自然な反応ではないのか？<br>　どもりに含まれるある種の権力やシステムに対する反発、それはまだ非言語的で明らかにされてはいないが、言語化されれば、それは間違いなく論理的で、まっとうな分析が現れてくると思う。なぜ違和感を感じるのか、ということを明らかにしていくのは、ある意味で面白いと思う。<br>
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<link>https://ameblo.jp/life-is-improvisation/entry-10381786374.html</link>
<pubDate>Fri, 06 Nov 2009 00:58:19 +0900</pubDate>
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<title>ワンノートの魅力</title>
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<![CDATA[ 今日は知人の家にピアノを弾きにいった。そのピアノは２０年弾いていない代物で、今日はちょうど調律師に調律してもらうことになっている。凄腕の調律さんらしく、さすがに調律後の音色は見違えるように変わっていた。息を吹き返したような、瑞々しい音が空間を彩る。その調律さんが、「本当に美しい音がするピアノはだれが弾いても美しい音がする。たった一音弾いているだけでも、美しい」「それは麻薬のようで、あまりにも美しいのでずっと聞いていたくなる」と言っていたのが印象的だった。<br>調律師や職人さんたちは、そんな究極の響きのする一音（ワンノート）を追い求めるのでしょう。あまりにも美しい一音はメロディーへの欲望さえ萎えさせるほどの力を持つのかもしれないと思う。<br><br>そういえば、日本の能は、話自体に特別のスペクタクルはあまり見られないし、動きなどもどちらかというと地味だ。でも、そこには、一つの声色、たたずまい、といった「流れ行く現在」の美だけではなく、「瞬間」の美をとらえようとする在り方が感じられる。<br><br>ワンノートとは厳密に言えば、一つの音だけが鳴っているのではない。例えばドの音を出したとき、実際はドの音以外の音も鳴っている。人間の耳に聞こえる音から聞こえない音まで。それは倍音とも呼ばれている。その倍音の違いが音色の違いを生む。<br><br>一つの音には実はさまざまな響きが包含されているように、僕達の声や、たたずまい、所作は、単なる声や仕草ではなく、そこにはさまざまな響きが存在しているんだと思う。<br><br>ただそこに「在る」ということだけで、深く、美しい響きを奏でるような、そんな大人になりたいものだ。<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20091101/22/life-is-improvisation/95/68/j/o0400030010293645218.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20091101/22/life-is-improvisation/95/68/j/t02200165_0400030010293645218.jpg" alt="$hasekenwilberのブログ" width="220" height="165" border="0"></a></div>
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<pubDate>Sun, 01 Nov 2009 21:31:37 +0900</pubDate>
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<title>秋的快楽</title>
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<![CDATA[ なんとなく、ブログをはじめました。<br><br>もう季節はすっかり秋。季節のせいかわからないけど、気分は少しメランコリック。<br>でも決して悪い感情じゃない。鬱って言えなくもないけど、でも鬱ともちょっと違う。鬱は、自己否定であるとか抑圧とかのせいで起こると思うけど、この気分はそういった思考によって起こるものではない気がする。<br>自分が空っぽになって、そこに秋の気配や空気が染み込んでくるというか・・・。<br>はじめはそんなメランコリックな気分に抵抗してたけど、それを味わってみると結構心地いいもんだと気づいた。派手でもなく、沸き立つような気分ではないけれど、なんかしっとりと落ち着いて、味わい深くて、繊細で、言葉にするのは難しいが、そこには秋的な快楽がある。単純な言い方をすれば、快楽は必ずしハイであるというわけではく、ローのなかにも存在する。ローになると、気分がよくないという概念が邪魔して、そんな気分に抗っていたけれど・・・、結構、これは意外な発見だった。<br><br>ナルシシズム（自分はこういう人間であるべき、優れているべき）は人工的なロー的気分を生む。なぜならいつもそんな自分が思い描くような人間になれる人などいないからだ。そしてそれに見合わない自分自身を責める、あるいは自分の理想的自己が抱くべきでない感情を抑圧する。そんなロー的気分から逃れるように、はたまた添加物だらけのハイ（依存性の高い）を求めるのだと思う。人生は色々だし、それは悪いとはいえないが、もう僕はそんなサイクルからは降りたい。<br><br><br>本来、思考や概念が介入しないときの上がったり下がったりといった気分の変化は、潮の満ち引きのような美しい自然のリズムであり、それぞれが味わい深いのだ。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/life-is-improvisation/entry-10377111981.html</link>
<pubDate>Sat, 31 Oct 2009 01:10:44 +0900</pubDate>
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