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<title>Ludicrous clown</title>
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<description>眠りながら書いております。</description>
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<title>鬼の創造</title>
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<![CDATA[ この世の中に生きていて問題に直面しないなどとは稀有な事だ。誰しも心に問題を飼っているはずだ。例えば親にお菓子を買ってもらえないだとか、漂流したが食料が無く他人の死体を喰わねばならないだとか。些細な物から絶望的にシビアな物まで。その様な問題に直面した時に逃避は行われる。逃避とは世間的によろしくないイメージがあるようだ。しかし私は、逃避、大好きである。<br><br><br>逃避と問題から逃げる事は全く異なる。問題から逃げるというのは真正面から問題に向き合う事と同じだ。鬼ごっこでも、鬼から逃げる子供は鬼の行動を分析・予測し、それに応じて加速したり、振り切ったり、進路を決定したり、必殺・タッチ返しをお見舞いする事だってあるだろう。対して逃避とは鬼ごっこを辞める事だ。鬼から鬼の力を奪い、取るに足りない友達に戻すと云う事なのだ。逃避は使いこなせば無敵の手段であるが、それ故に張り合いの無さと虚しさを心に残してゆく。<br><br><br>だが私が最も恐れるべきだと思うのは、問題を発見しなくなる事だ。いや、寧ろ私は誰もが問題など発見しないような真っ白な社会を望むが、今はまだ其の時では無いと思う。傍に苦悶している人がいても、それを問題とすら認識しない社会には成るべきでは無いと思うのだ。問題が発見されて初めて、改善の余地が発生する。問題無しに改善は在り得ない。問題ばかり見て思い悩んでいるだけでは幸せなど程遠いのだろうが、問題の発見すら怠るのも幸せに少し物足りなさを感じるだろう。積極的に鬼を増やして、鬼の集団からひたすら逃げ切るエキサイティングな人生など望んではいないが、鬼ごっこそれ自体を始める事を忘れぬようにしたいと思うのである。<br><br>
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<pubDate>Wed, 06 Feb 2013 01:43:02 +0900</pubDate>
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<title>死刑に就いて</title>
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<![CDATA[ 途轍もなく重く冷たい問題ではあるが、死刑制度の是非を巡って思考錯誤を繰り返す事は自分自身の正義の襟を正す事にも繋がるので、あまり深く何らかの文献を読んだ訳でもありはしないが、未熟なりにも今の私自身の考えを文字にしておきたいと思う。<br><br><br>まず結論を述べておくと死刑制度に私は反対である。死刑制度に対しては倫理的、宗教的、社会的など様々なアプローチの仕方がある。死刑制度を採用しなければ犯罪が増加するので社会的には賛成だが、私はキリスト教なので宗教的には反対だ、という葛藤を持つ者も当然多くある訳だが、明確な棲み分けはせずに話を進めていきたいと思う。そもそも前提として、法と云うのは人々の幸福の為にある。当然ながら犯罪など発生すべきではないし、それを抑止する為に法は定められる。私は死刑制度が、人々の持つ「死」に対する観念を軽薄な物にしているように思う。<br><br><br>ネットでは犯罪者に死刑だ、死ね、などと書き込み者が多い。明らかに「死」に対する意識が低い。死刑というのはつまり、国家が人を殺すという意味だ。当然国家の構成員たる国民もその一翼を担う訳である。この国に産まれた時点で自分達の安全の為に人を、直接ではないにせよ、殺す事に加担する。それが「死」に就いての意識の低下を招いていると思う。「死ね」という言葉を彼らは正義感の元に投げ掛ける。人に死を求める事を正当化する。自己を正当化して人を殺める事と何ら遜色無い。<br><br><br>と、此処で想定される反論に反論を呈しておきたい。想定される反論、というのは、国家が人を殺すと言っても殺されるのは犯罪者なのだから寧ろ人々は自らが犯罪者にならぬように気を引き締めるのでは、と云う論である。確かに死刑囚というのは一種のモデルである。犯罪を犯せばこうなりますよ、と人々に注意を促す役割が死刑制度にはある。だが思うに、今の死刑制度はその役割を果たしてはいない。誰にも見えない場所で犯罪者が一人処刑された所で、彼が味わった苦しみなど人々に伝わる筈がないのだ。ニュースで死刑囚の死刑が昨日執行されました、と言った所で視聴者はハイソウデスカ程度にしか思わない。悪い場合は社会のゴミが一人減ったなどと云う者もいるだろう。自分の身を振り返るという最も重要な行為が欠如し、死刑制度は本来の目的を見失い、但だ社会の悪の浄化という意味になり下がった。<br><br><br>人々は自分が犯罪者には成る事が無いと盲信している。自分は犯罪とは疎遠な存在だと。しかし違う。誰でも犯罪者に成り得る。例えば誰もが見ていないと云う確信があれば、特に正義感が強い者でなければ、犯罪に手を染める。単なる状況の問題なのだ。私も透明人間に成れたのなら、金閣寺を住まいにしたい。人間を善人と悪人に分別する事など出来ない。人の多くは善と悪の両方を心に兼ね備えている。法という枷によって悪を封殺しているだけなのだ。自分の心の悪と向き合え。犯罪者を非難し、自分の心の善と向き合うだけでは不十分だ。<br><br><br>多少話の筋が逸れたが、要するに死刑制度は悪の浄化にも成り得ない。心の悪が露出した者を排除、それも事後処理で排除するだけで人々が潜在的に持つ悪は依然として在り続ける。故に死刑制度というのは見せしめではなくなった今日、無用であるというのが私の結論だ。最早テレビ越しに被害者遺族の哀しみに同情して死ね死ねと糾弾して正義感に浸りスッキリする娯楽であるかのようだ。見ていて気分の好い物ではない。<br><br><br>廃止するにしても、問題点は多々在る。まず無期懲役が最高刑だとした所で人々の死に対する意識の低下に歯止めを掛ける事が出来るにせよ、犯罪に対する意識は軽くなる。当然の事ながら、何やっても無期懲役で済むならチョロイゼ、と云う輩が現れる。更に無期懲役は費用が掛かり過ぎる。自分達が払った税が何故犯罪者なんぞに、などとはご尤も。法に感情は介入すべきでは無いが、国民が怒りを覚えるのも当然と言える。自給自足制度でも導入すれば解決にはなるだろうか。<br><br><br>なんだか冒頭に正義だの何だの述べたものの、気付けば完全に社会的考察を述べているではないか。私は政策デザイナーでは無いのだぞ、と喚いた所で後の祭りだ。兎に角死刑に纏わる問題は非常に難儀な問題である。私は死刑反対とは言ったものの、決して人の感情を解せぬ訳では無い。若し誰かに自分の最も大切な物を壊されて、其の人が生き続けるというのなら、死刑廃止を唱う者にすら憎悪の眼差しを向ける事になるだろう。それでも今の私は死刑というのが好きにはなれない。今の、なんて言うといつかそうなりそうで恐いのだけど。<br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ludicrous-clown/entry-11456120802.html</link>
<pubDate>Thu, 24 Jan 2013 22:58:05 +0900</pubDate>
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<title>朽ちて然りの動物</title>
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<![CDATA[ 子供は現実と空想の区別が出来ない、などとは度々言われる。私はそれを否定しない。夜空に光を点滅させながら移動する飛行物体の影を見れば、すかさずUFOだの隕石だのと嬉々として喚き立てる、それが子供である。では逆に大人はその影を見て一体何を想うだろうか？答えは単純明快だ。何も想わない。夜空に飛行機が飛んでいる、などと認識する事もないだろう。理由も至極単純で、その影は飛行機以外の何物でも無いからだ。それは過去の経験の裏打ちを伴う。つまり長々と説明すると、自身が今まで見て来た光を点滅させながら移動する飛行物体の影の正体は飛行機であったから、現在見ている飛行物体の影の正体も飛行機だ、とこういう事になる。子供と大人は経験の量が違う。<br><br><br>しかし、此処で一つの或る事実が浮かび上がる。経験の多い大人よりも経験の少ない子供の方が得をしてやしないか？飛行機を見る度にUFOや隕石ではないかと勘繰り胸を躍らす子供の方が、そんな物には興味を示さず明日の予定だの将来の不安だのに心を巡らす大人よりも、格段に幸せではないか？夢を見ない大人よりも夢を見る、いや、積極的に見出す子供である方が人間は幸せであるのだ。大人に現実を忘れさせる酒の存在も其の事の証明している。<br><br><br>人は大人にならねばならない。何故なら誰かが大人でなくては、この社会が成立しないからだ。誰もが現実から逃避し、夢ばかり見ていては社会は廻らない。飛行機だって飛ばない。食糧は疎か、水も人々の元へ行き渡らない。というか最早そんな社会は混沌と云うべきだろう。子供である方が楽しいのに、成長したら自分の行動に責任が何かついて来て、大人になる事を周囲から要請される。夢を追う身から一転、いつの間にか現実に追われる身になっている。大人になるとは、子供からすれば憧憬の対象になるのだろうが、それ程高尚な事では無い。シビアな現実を見て、周囲に迎合し、夢を見れなくなるという事だ。つまりは、言い方は悪いかもしれないが、腐敗である。ヒトは朽ちてゆく生き物なのだ。<br><br><br>みんながみんなのことをおもってこうどうすれば、みんながしあわせになれる。素晴らしすぎて眩暈がする。しかし、この美しい摂理も資本主義の前に、大人の自己利益追求社会の前に、音を立てて崩壊する。子供の頃は多くがこの摂理を知っていたというのに。今では共食いをして、いらっしゃる。嘆かわしいことだ。と言った所で、朽ちるのは止むを得ない事であり、ヒトはそれを死と同様、受け入れるしかないのだが・・・。だが兎に角、夢から醒めても尚眠り足りず、二度寝する位の猛者には、つまり私みたいな人間には、なるべきではないのは確かである。今時あの飛行機の上に乗って風を感じながら月を眺められたら、などとイタイ空想に耽るのはやはり間違っている。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ludicrous-clown/entry-11451282764.html</link>
<pubDate>Thu, 17 Jan 2013 22:34:04 +0900</pubDate>
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<title>ケジメハダイジ</title>
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<![CDATA[ 以下は完全な私情である。其の点は容赦して頂きたい。<br><br><br>一つ不満を述べるなら、どうして此の世界は終わらなかったのだろうか。不条理がそこかしこに散乱して足の踏み場も無い此の世界が直に終わると、私は信じていた。であるのに、電子カレンダーは2013などと嫌味たらしく飄々と数字を一つ増やしたのだ。何も無かったかの如く。私の叫びも、願いも、苦しみも、何もかもが無意味であると言わんばかりに。まだ続きますよ、だって？ははは。何だ其れは。傑作だぞ。今迄観て来たどの喜劇よりも滑稽だ。いや、喜劇は最後に客の涙を以って幕を降ろす。終始笑いで終わってしまっては但だの道化ではないか。宜しい。私を大いに存分に心ゆく迄ごゆるりと笑い給え。私も君を、此の世界を笑い尽くしてやろう。いや、解っていたんだがね、君。マヤ文明の予言だとか、フォトンベルトだとか、荒唐無稽極まりないとは思っていた。全く下らないと一笑に付していたのだがね。それでも。それでも私はナンヤカンヤデ此の飽くなき世界に終末がふらふらとやってくるのを望んでいたのだ。それは絶望に支配されて枯れ腐った私の心に芽生えた希望の種だった。此の一粒の種に我が未来を預けてみようと思った。それが此の様だ！種は芽生えるどころか、なんと遠慮も無しに爆発したではないか！お陰様で私の心はバラバラだぞ！バラバラに破裂した心が蜥蜴の尻尾の様にクネクネ藻掻いておるぞ！！全く私まで笑ってしまうよ。私はまるで哀れなピエロだな。道化に於いてピエロは何かしら不満を有しているのだが、其れにあせくせする彼には何の幸せも訪れず、無情の運命のみが降り注ぐ。観衆は其の哀れで愚かで無力な姿を観て笑うのだ。道化師とは損な役回りだこと。<br><br><br>しかし、生き延びたからには死ぬ迄此の世界を笑って笑って笑って笑い飛ばしてやろう。笑うついでに蹴り飛ばしてやろう。折角なので殴りもしとこう。世界を笑い、又、憎む。世界を楽観視すると云う点で私はオプティミストであり、世界を厭うと云う点で私はペシミストである。此れからの私は其の様なスタンスで世界を傍らから静観しよう。世界は中々終わる気がなさそうだ。まだまだ現役デスカネ。もう引退してもいい頃だと思いますケドネ。兎にも角にも、いつかは終わって欲しい。若しくは世界から不条理が無くなる日を、そんな日などあるはずがないのだが、私は願って止まない。<br><br><br>本当に一体何度堕落すれば私は気が済むのだろうか。訳も無く今日は気が白茶けていた。平生を調和のとれたクラシックと喩えるなら、今日の私は不調和なヘヴィメタルといった所か。だがこの方が日記らしいか。そう考えれば良しとしよう。<br>
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<pubDate>Mon, 14 Jan 2013 23:07:14 +0900</pubDate>
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<title>彼を殺したのは誰か</title>
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<![CDATA[ 「自殺」とは中々面白い表現である。「死ぬ」ではなく「自らを殺す」。確かに「死ぬ」では不本意な死も含意してしまう。更には「殺す」という世間的にはマイナスイメージの表現を用いる事で、「自殺」は反社会的行為であるという認識が人々の脳に深く根付くというどなたかの狙いもさることながら。しかし、「自殺」という表現は同時に「自殺」者を反社会的存在に貶める事になる。「自死」ならばまだ一介の死者でいられた者も、「自殺」では加害者、それも殺人者と化すのだ。それだけには留まらない。殺人者でありながら被害者にもなる。自らの意志で命を絶ったにも関わらず、誰かに強制的に生を終わらされた者のレッテルを貼られる。自殺は死者に二つの不名誉を与える。<br><br><br>私自身、この「自殺」という表現は間違いではないと思う。「自殺」者は加害者であり被害者でもある、というのはこうも解釈出来ないだろうか。彼の精神が彼の肉体を殺したのだと。苦悩と決断に満ちた彼の精神が、断じて生きんと今も脈打つ彼の身体に、徐々に歩みを早め、ついにその手に握る槍を突き刺したのだ。肉体が悲鳴をあげ、辺りには血が飛散し、精神は返り血を以って霧の如く消滅する。此れは彼の中で起こる悲劇だ。<br><br><br>ではこの悲劇はなぜ平和な社会に於いても止む事が無いのか。私はこの悲劇の原因を社会に帰する。つまり、彼の精神に槍を持たせ、彼の身体を殺さしめたのは彼を取り巻く社会だと主張したい。彼に苦しみを与えたのは一体誰か。彼の苦しみに気付いてやれなかったのは一体誰なのか。社会はまだ彼の精神の脆弱さを彼の死の原因だと宣うだろうか。しかし、自分達の罪悪に、責務に、早く気付くべきではないだろうか。誰かがそう意識する、それだけで救われる人がきっといると、私は思うのだ。<br><br><br>但だ、此処まで散々書き連ねておいて、此の様な事を付け加えるのもなんだが、私は「自殺」容認の立場を取る。私には生命の尊厳というのが分からない。苦しみや悲しみしか無いのなら背中に背負った物を凡て下ろしてもいいと思う。所詮薔薇色の世界を観る者に黒色の絶望だらけの世界など理解する事も観る事も適わない。だからこそ薔薇色の世界に生きる者は彼の弱さと決断を甘受すべきだと思うのだ。遺族の事を考えろ、などという言葉が嫌いだ。私にはそう言う事で自分の正義感に陶酔して満足しているように思える。それを言う前に彼の苦悩と悲痛を知ってやれたのか。重い、想像を絶する程重い荷物を背負った彼にそれ以上重荷を載せないで欲しい。逆に重荷を取り除いてやる事が彼の希望に繋がる。彼の弱さを受け入れてやる事が彼の悦びに繋がる。そう思う。<br><br>自殺幇助だの自殺教唆だの後でややこしい事になると困るので一応。今回述べた事は全部嘘です。ジサツハイケナイナア<br><br><br>
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<pubDate>Sat, 05 Jan 2013 08:54:51 +0900</pubDate>
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<title>二匹の怪物</title>
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<![CDATA[ この社会には幻想が多過ぎる。新年というのも幻想である。地球は一年で太陽を中心とした軌道を一周する。だから一月一日は特別な日だと言う者があるかもしれない。しかし、それは人が決めた事だ。別に起点が一月一日である必要がないのだ。何なら七月一日でもよかった。人があゝ一年経ったなぁと想えるならいつでもいい。所詮人間が勝手に決めただけなのだ。同様に国家と言うのも幻想だ。勝手に境界があると人が決めただけだ。金も幻想である。勝手に価値があると人が決めただけである。<br><br><br>幻想が人を殺す。国家という幻想の下に人々は殺し合った。金という幻想のを求め、ある人は友人を殺めた。職業という幻想を失い、ある人は自らの命を絶った。幻想という怪物に人々は躍らされる。<br><br><br>では幻想というのは排斥されるべきものか？違う。幻想をこの世界が失えば、何も残らない。いや、言い方が悪いか。正確には科学が残る。しかし科学こそ残りはするが、幻想なしに科学はその有り余った力を抑制する事が出来ない。倫理という幻想を失えば、非情で冷徹な科学は無惨にも、人類をこの世界から追放するだろう。我々が忌避すべきは当にこの科学なのだ。<br><br><br>科学は二つの顔を持つという話を聞いたが、当にその通りだ。科学は二つの顔を持つ怪物だ。科学は善利用すれば、人々を幸せに出来る。生活を便利にする。人の命を救う事が出来る。今までも科学に命を救われた人は数え知れない。だが、科学は悪利用すれば、人々を不幸に至らしめる。殺しの道具を人々に提供する。人の命をボタン一つで殺せるようにする。未知数であるのは科学に救われた人の数だけではない。殺された人の方が下手をすれば多いかもしれない。善利用と悪利用によって科学は 飄々とその姿を変えるのだ。過去に科学が為してきた功罪がそれの証明であろう。履き違えても善利用だけすればいい、などと安易に科学を発展させてはならい。科学の発展は希望と同時に危険性を孕む。科学は決して切り離せない希望と危険性の二つの顔を持つ怪物なのだ。<br><br><br>幻想は確かに人々を混沌に貶める怪物だ。しかし、その怪物は少なくとも科学というもう一匹の厄介な怪物に首輪をつけ、手綱を握っている。御陰で科学がペットのように可愛く見える。それすらも幻想が為し得る業であるが、いつか首輪を抜け出した怪物が人々を急襲する日が来るのでは、と私は思うのだ。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ludicrous-clown/entry-11439561713.html</link>
<pubDate>Tue, 01 Jan 2013 01:46:47 +0900</pubDate>
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<title>繭の中で</title>
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<![CDATA[ 我々は蜘蛛の巣の中に生きている。自由であるようにみえて、ふと自分を省みると、周りに在る多くのものから自分の体に糸が伸びている事に気が付く。時折それ等に引っ張られ、行動が制限される事がある。又ある時は別々の方向から引っ張られ、どちらか一方の糸を断ち切らねば己を保てない事もあるだろう。雁字搦め。我々の状態を言い表すには、この言葉がよく似合う。<br><br><br>我々は決して自由にはなれない。この社会の中では何事を行うにも「責任」が付随してくる。これ程までに需要の無いオマケが未だ嘗て在っただろうか。この二文字は、今まで散々人を苦しめてきた忌々しきこの二文字は、蜘蛛の巣の中で最も粘着性、強度共に強く、囚われては中々断ち切れない。時には死をも凌駕する。この強靭な糸に囚われ易い性質を俗に責任感が強いと言う。周囲に気を配り、人に迷惑をかけまいとする人物こそがこの糸に囚われ、自由を奪われるのだ。更に別々の方向から来る二本のこの糸に引っ張られ、どちらをも断ち切る事叶わず、その身を引きちぎられてしまう。鬱病とか。なんだか不条理だ。<br><br><br>では責任感が人一倍強く、自由に成れない哀れな彼等は間違っているというのか？いや、断じて違う。彼等はその心の中に、彼等なりの「正しさ」を持っている。彼等は自分の正義に従っているのだ。正義を持たず、何事も為し得ず、責任を転嫁し、自由を愉しむのも一興ではあるが、そのような者には到底味わえぬ、黄金の悦びを彼等は知っている。決してその糸を、断ち切ってはならない。時折その糸を揺らしたり、切るふりをしてみたりして、気を抜こう。でもやはり次には、その糸と真摯に向き合おう。そうやって自分の正義に邁進してゆけば、いつか自分は間違っていなかったと思える日が来るだろう。闘い抜け。何があってもその正義だけは失ってはならない。身体中糸だらけになっても、繭の如くに成り果てようとも、その繭の中で平然な顔をして笑っていようじゃないか。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ludicrous-clown/entry-11433092492.html</link>
<pubDate>Sun, 23 Dec 2012 15:35:48 +0900</pubDate>
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<title>翻弄されよ</title>
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<![CDATA[ 藝術とエンターテイメントの違いは何か？言葉の定義の問題だ。そんなものに私は興味がない。だが、嫌々ながらも考えてみる。藝術と聞くと何か崇高なイメージを思い浮かべる。よくわからない。では藝術を受ける者はどんなイメージか。私は美術館で粛々と絵画に魅入っている女性を思い浮かべる。そこに感情は介入していないように思われる。藝術とは感情を排した理性の世界で行われる物ではなかろうか。あの女性は絵画に世界の縮図を見ているのではないだろうか？<br><br><br>だがそれも所詮、私の経験に基づく藝術という言葉の意味でしかないので、早くも辞書に縋ってみる。と、これまた曖昧な解答を提示してくる。藝術とは表現者、表現物と鑑賞者の相互作用によることなどで、精神的・感覚的変動を得ようとする活動らしい。相互作用、という点がいまいち分かりにくい。表現者、表現物が鑑賞者に作用を及ぼすのは合点がゆく。だが、鑑賞者が表現者、表現物に作用を及ぼすとはどういう事か。鑑賞者が表現物に唾を吐きかけるということではあるまい。さもすれば、解釈という点に於いてか。やはりよくわからない。兎に角、私の考えは間違いであるようだ。<br><br><br>だがここで私は声高に主張したい。絵画が藝術であるならば、美術館では日夜、鑑賞者の歓喜の声、憤怒の咆哮、悲痛な叫びで溢れるべきではないだろうか？それはマナーの問題か。いや、マナーなど忘れる程に感動しても、いい筈だ。寧ろ大いに感動せよ。大いに絶望せよ。自分のステータスなど問題ではない。社会人であっても、藝術に於いては孤独な人間であるべきだ。間違っても、有名な絵画を直に見たなどという矮小な過去を手に入れる為だけに藝術に携わってはならない。己を余計な何かで覆い隠すな。曝け出せ！何もかもを脱ぎ捨てた、ありのままの貴方で、裸の貴方で歓びの声をあげ給え！昔、藝術は爆発だと言った者がいた。まさにこの事だ。藝術に翻弄されよ！心を揺さぶられよ！その時にこそ新たな世界はその人の前にその姿をみせるのだ。<br><br><br>多少話の本筋がずれたが、藝術とはそういうものではないだろうか？<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ludicrous-clown/entry-11419238490.html</link>
<pubDate>Mon, 03 Dec 2012 20:25:22 +0900</pubDate>
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<title>過去の私として</title>
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<![CDATA[ 今日から日記をつけようと思う。<br><br>日記と言っても日々の行いを記すといった大層なものではない。過去を思慕する事も至福ではあるのだろうが、私には左様な過去は遺せそうにない。口を大きく開けて私を呑み込もうと待ち侘びているどすぐろい未来が在るだけだ。もはや足掻く気概すら湧かない。開き直って自分を調理する次第である。<br><br>では一体私は何を記そうと云うのか。それは現在の私に他ならない。果たして私の思惟が私自身を示すか否かは甚だ疑問ではあるが、私は現在の私の考えを記し留めておきたいと思う。脆弱で愚鈍な私ではあるが、その使えない頭なりに熟考し、導き出した"答え"をここに記憶しておきたい。いつか"答え"など変わるやも知れぬ。若し前述の通り、私が私の思考そのものならば、現在の私は其の時死ぬのであろう。なんと哀しくも儚い私だろうか。だから、此処に今の私が存在した証を遺しておきたいのだ。いや、永遠に生かしておきたいと云うべきか。<br><br>未だ駄文の域を出ない拙さと述べんとしている事の不明瞭さが際立つ日記ではあるが、其処に今の私が生き続ける事を切に願い、日記を時折綴ってゆこうと思う。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ludicrous-clown/entry-11416096521.html</link>
<pubDate>Thu, 29 Nov 2012 21:13:07 +0900</pubDate>
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