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<title>they do in the movies</title>
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<description>見た映画を整理し感想を書き残すことに徹したブログ</description>
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<title>３１</title>
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<![CDATA[ <p>ずるずると続けてきた当ブログですが、仕切り直して新しく切り替えます。</p><br><p>『they do in the movies2』</p><p><a href="http://ameblo.jp/lull-b2">http://ameblo.jp/lull-b2</a></p><br><p>同じアメブロ、『２』だからって何が変わるわけでもないですが、ここを見てくださっていた方々、今後は新しいブログの方をよろしくお願いいたします。</p><br><p>ブックマークにもリンクを貼っておきます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/lull-b/entry-11022897744.html</link>
<pubDate>Mon, 19 Sep 2011 18:57:47 +0900</pubDate>
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<title>直感的３ピース</title>
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<![CDATA[ <p>『股旅』</p><p>1973年日本映画　96分</p><p>監督：市川崑</p><p>脚本：谷川俊太郎　市川崑</p><p>出演：小倉一郎　萩原健一　他</p><br><p>この頃の邦画、だるーんとしてるのも多いけど、バチッと焦点が定まってるものは、どの国のどの時代の映画よりも強く迫ってくるものが私にはある。この作品、ジャパニーズ・ニューシネマの傑作と言っても差し支えないと思う。奇跡的なまでにソリッドで、地団太踏むくらいイケている。</p><br><p>冒頭の太鼓！フォント！風変わりなN！そして仁義！この鳥肌感は言葉を超越している。それこそ言葉しか手段を持たない私などには眩しくってたまらない。そして何より小倉一郎、尾藤イサオ、萩原健一の薄汚れた股旅三羽烏のビジュアルよ。</p><br><p>大学の頃、バンドでもコントでも芝居でも、３ピース編成のものにやたら執着していたのを思い出す。三人称、つまり社会の成立する最小限の単位であり、付かず離れずの距離を保ちながらも、集団としての無駄をそぎ落とした潔癖性をそこに感じるから、など、理屈はいくらでも考え付くが、何より直感的に、そのギリギリのバランスに魅力を感じていた。んでこの映画の編成も、まさに私の直感と同じ理由からそうなってるような気がしてならない。</p><br><p>（ちなみに、私が収まりがいいと感じるのは、あくまで男三人の編成。女というファクターを、これまた私が直感的に撹乱要素として認識してるからだと思うが、他ならぬ自分自身、女であり、それこそ大学時代はそのことにやたらともどかしさを感じていた。井上れい子演じるお汲のように、無垢を盾にし彼らに付いてくようなキャラでもないし…。そこら辺のことはいっぺんちゃんと考えてみても面白いかもしれない）</p><p><br>その「ああ、いい」という理屈抜きの感じ、そこんとこが非常に若々しい映画だと思う。三人が三人とも、抱きしめたくなるほど若くて脆い。そうだった、そうだったと、いつの時点でそうだったかすらもう思い出せないけれど、大変心当たりがある。</p><p><br></p><p>そしてこの理屈の無さなのだけれど、「いいものはいい！そこに理屈はないんだよ」という安易な思考放棄を越えて、それ自体が悲劇の根源になっている気がするところが大変興味深い。この三人に思いはある、だけど信念が無い、根っこが無い。それゆえに父を殺し、それゆえに自身も犬死にをし、その様自体は非常に哀れなのだけれど、それが何だったのかというと、別に何でもない。</p><br><p>非常に日本的だと思う。そここそ、アメリカの同種の映画と決定的に違うところだと思う。考えてみれば、アメリカン・ニューシネマは大抵が男二人連れ。個性がガチンコでぶつかり合う。でもこの映画の三人は、「赤信号みんなで渡れば怖くない」というか、互いに寄っかかってやっと立っている感じで、そういう意味では全然カッコよくない。若いというよりも幼い、とアメリカ人なんかには見えてしまうのかもしれない。でもその、ぐずぐずの未成熟こそが、何だかやっぱり、他人事とは思えないんだよなぁ。</p><br><p>それにしても、この時代のナイーブな若者たちはいったいどこへ消えてしまったのか。ちょうど親の世代だけれど、結びつかな過ぎて途方に暮れる。あとどうでもいいけど、うちの母親は若い頃、尾藤イサオを蛇蝎のごとく嫌っており、ショーケンにも全く興味なかったという。常々思うけどそこら辺の温度差もどうなってたんだろう。</p><br><p>　　　出入りの家で、行方不明だった父安吉（大宮敏充）</p><p>　　　に会った源太（小倉一郎）。</p><p>　　　安吉と暮らしているおはる（野村昭子）と三人で酒を飲みながら。</p><p>おはる「さびしかねえのかい。当てのない旅から旅だなんて」</p><p>源太「さびしいなんてのは…知らねえな」</p><p>おはる「そうかねぇ。ひとっとこにずうっといたって、さびしいもんだけんどねぇ」</p><p>安吉「（笑って）時々変なこと言うぜ…」</p><p>　　　おはる、源太の首に手を回し、</p><p>おはる「どうでぇ。おらたち本当の親子みてえだべ」</p><p>源太「（安吉を見て笑って）…」</p><p>安吉「腹も痛めねえくせに、勝手なこと言うねぇ…」</p><br><p>★★★★★★★★★☆</p>
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<link>https://ameblo.jp/lull-b/entry-10889264488.html</link>
<pubDate>Thu, 05 May 2011 23:47:21 +0900</pubDate>
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<title>小道具先生</title>
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<![CDATA[ <p>『バルカン超特急』</p><p>1938年イギリス映画　97分</p><p>監督：アルフレッド・ヒッチコック</p><p>脚本：シドニー・ギリアット</p><p>出演：マーガレット・ロックウッド　マイケル・レッドグレイヴ　他</p><br><p>ヒッチ先生、イギリス時代の作。東欧のパンドリカという架空の小国からイギリスへ帰国する列車内で忽然と姿を消す老女フロイ（メイ・ウィッティ）の謎。フロイと親交のあったアメリカ娘アイリス（マーガレット・ロックウッド）だけが彼女の行方を探すが、周囲の乗客は「老女など見ていない」と口を揃え、アイリスの正気が逆に疑われる…というサスペンス。</p><br><p>冒頭の冗談のようなミニチュアセットからは考えられないくらい緊迫した筋書き。ハーブティの袋とか、窓に書いた文字の使い方とかさすが巧い。クリケット好きのイギリス紳士たちとか、不倫カップルの役割なんかもいい。が、非常に面白くはあるのだが、その面白さって結局、「小道具使いうめーな」というだけのことなんじゃないかと思ったりもして。人物の使い方自体も小道具的な感じだし。</p><br><p>小道具小道具と脚本教本などにはよく出てくるが、まあ小道具、確かに大事だけれど、「小道具使いの巧い脚本は面白い」ということはあっても、「面白い脚本とは小道具使いの巧い脚本だ」ってほどのことはないんじゃないかなと個人的には思う。というか私が後々まで「あの映画面白かったなぁ」と思い返す映画の面白さって、小道具的な巧みさとは違うところにある気がする。ヒッチ先生、観てる時は面白くてもあんまり中身覚えてなかったりするのって、たぶんそのせい。無意識のうちに「先生」付けてるくらいだし。</p><br><p>「フライトプラン」を連想する人が多いらしいこの映画、しかし元々あんま技巧に興味無いせいか、私は「ジュリア」を思い出した。あの映画の時代設定とこの映画の製作時期がたぶん同じくらい。私がこの映画に感じる面白さはむしろ、画面から滲み出ている当時の時代背景とか政治情勢の異様さの方。じゃないとこんなプロットありえんもん。</p><br><p>　　　食堂車で、フロイはやはり電車内にいると確信したアイリス。</p><p>　　　客たちに、</p><p>アイリス「聞いて。フロイさんはいます！隠されたのよ！列車を止めて」</p><p>　　　アイリスを制止しようとする医師ハーツ（ポール・ルーカス）に、</p><p>アイリス「お願いします、協力を。何とかして頂戴、頭が変なわけじゃないわ、列車を止めて！離して！」</p><p>　　　アイリス、列車を緊急停車させる。</p><br><p>★★★★★★☆☆☆☆　　　</p>
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<link>https://ameblo.jp/lull-b/entry-10885466005.html</link>
<pubDate>Wed, 04 May 2011 23:25:23 +0900</pubDate>
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<title>RELAX</title>
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<![CDATA[ <p>『ズーランダー』</p><p>2001年アメリカ映画　89分</p><p>監督：ベン・スティラー</p><p>脚本：ドレイク・セイザー　ベン・スティラー　ジョン・ハンバーグ</p><p>出演：ベン・スティラー　オーウェン・ウィルソン　他</p><br><p>男性モデル業界が舞台の徹底馬鹿コメディ。もう10年も前なんだな…。小ネタが懐かし過ぎるな…。人生初のマイパソコンはオレンジのiMacだったな…。すぐフリーズしたな…。ストーンズの'She's a Rainbow'聴きながら、よく道端に転がしてやりたい衝動に駆られたな…。</p><br><p>あと、今じゃすっかり有名な人がチョイ役で出てたり（ヴィンス・ヴォーンとか）、「あの人は今」的な人がいかにもありがたい感じで出てたりする（ウィノナ・ライダーって凄い人気あったよね…）。デヴィッド・ボウイも出てるんだけど、この頃はまだ「カッコいい」のぎりぎり崖っぷちぐらいには立ってたんだというのが興味深い。今もうお爺さんだもんねぇ。</p><br><p>しかし私もつくづく馬鹿者だなと。結局一番多感な時期に一番影響受けた映画ってこういうのなんだもの。こういうの観てた頃に「脚本書いてみようかな」なんて思い始めてんだもの。改めて観直して、「あれ意外と筋通ってんじゃん」とも思ったけど、にしたって、なめくさっとるよね…。「黒澤に影響」とか「ゴダールに傾倒」とか言えちゃう人に比べると、つくづく自分の育ちの悪さを実感させられる。別にいいけど。</p><br><p>この映画でオーウェン・ウィルソンに惚れた。監督も務めるベン・スティラー、この映画にはお父さんのジェリー・スティラーも出てるけど、ホント、いい息子持ちましたね。息子ベンと共同経営者オーウェンが立派に会社引き継いだ、その草創期の勢いを感じさせる映画。</p><br><p>　　　モデルが嫌いだという記者のマチルダ（クリスティン・テイラー）。</p><p>　　　理由を聞くデレク（ベン・スティラー）とハンセル（オーウェン・ウィルソン）</p><p>　　　に、子供の頃太っていたからだと語る。</p><p>マチルダ「可愛い子たちに馬鹿にされて、最悪だったわ。（溜息）とにかく、毎日学校から家に帰ってきて、ママの『ヴォーグ』とかをめくると、素敵な女の人たちが載ってた。物凄くきれいで…嘘みたいにやせてるの。”どうして…私たちは彼女と違うんだろ”。理解できなかった」</p><p>　　　真剣に聞いているデレクとハンセル。</p><p>マチルダ「それが原因で…なったの」</p><p>ハンセル「…何に？」</p><p>マチルダ「過食症に」</p><p>　　　ハッとした顔になるデレクとハンセル。</p><p>デレク「…それって、読心術？」</p><p>ハンセル「！…」</p><p>マチルダ「…食べるたびに吐くことよ」</p><p>　　　デレクとハンセル、何かを考えていて。</p><p>マチルダ「分かる？モデルは人を自己嫌悪にさせるの」</p><p>　　　可笑しそうに笑いだすデレクとハンセル。</p><p>デレク「だから？僕だって食べすぎた後吐くよ？」</p><p>ハンセル「手っ取り早く減量できるもん」</p><p>マチルダ「あのね、過食症は病気なのよ？」</p><br><p>★★★★★★★☆☆☆</p>
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<link>https://ameblo.jp/lull-b/entry-10878873065.html</link>
<pubDate>Sun, 01 May 2011 23:39:04 +0900</pubDate>
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<title>ダサいものはきらい</title>
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<![CDATA[ <p>『彼岸花』 </p><p>1958年日本映画　118分</p><p>監督：小津安二郎</p><p>脚本：小津安二郎　野田高梧</p><p>出演：佐分利信　有馬稲子　他</p><br><p>旧友の娘の交際には理解を示しながらも、自分の娘の縁談には頑なになってしまう初老の男の葛藤を描く。小津初のカラー作品。</p><br><p>「これを言わずには死ねない」というメッセージ性ではなく、ただただ「ダサいのは嫌い」という小津の徹底した主義に貫かれている。着物や花や骨董の色味の語ること、語ること。つくづく小津はお洒落さんだったんだろうな。これはこれで潔く、男映画の続いてた目には非常に新鮮。目の保養。</p><br><p>私もやっぱり、ダサいのは嫌い。格好良いのがいい。などと、わざわざ言うまでもなく皆大抵そうで、その集積で人ってものは成り立ってんだろうと思うが、やっぱその基準に対する厳しさというのは自分で決めるしかないので、難しいとこだなぁと思う。</p><br><p>最近、日暮里繊維街が気に入って、よく行くのだけれど、何でも揃っている。布だけでなく、ボタンだのレースだのリボンだののバリエーションも素晴らしく、もう凄まじく素敵なものが何でも、いくらでも作れそうな気がして、カーッと頭に血が上ってしまうのだが、落ち着いて辺りを見回してみると…すいません、実に失礼なんですけど…そんなにお洒落な人は、別にいない。</p><br><p>無限の可能性にクラクラしつつ、いつもあそこで思うのは、作家性（というのが言いすぎなら、単にセンス）って、何をするかよりむしろ、何をしないかなんじゃないかなぁ、ということ。もちろん、何もしないと何もないんだけれど、ごてごてと、何でもかんでもやってみるのは意外と容易い。でも仕上がりを決めるのは結局、何が要って、何が要らないか、それを的確に見極められる能力なんじゃないかなと。</p><br><p>難しいのだよなぁ。単体でいいなと思っても、それが他に合うかどうかはまた別問題だし、もっといいのがあるかもしれない、と欲が出ると過剰になるし。本当に難しい。何かすげー普通のこと言ってる感じだけども、それが分かってる人は本当の意味で大人だなぁと思う。純粋に尊敬するし、私もそうなりたい。</p><br><p>小津さんはもう、悔しいくらいそこんとこ分かってる。赤いヤカンは、とにかく必要なのだ。「何のために？」なんて野暮なガキの質問にはきっと答えてくれない。分からないなら残念ですね、それだけだ。だけどこのこだわりは、単なる小津の個人的な偏愛の域を越え、おそらく万人が心地よく感じるはずで、何なんだろうなこれは。もはや、仙人みたいだよな。</p><br><p>　　　娘・節子（有馬稲子）の交際相手・谷口（佐田啓二）が、</p><p>　　　平山（佐分利信）の元を訪ねた日の夜。</p><p>　　　平山、節子を問い詰める。</p><p>　　　母の清子（田中絹代）も控えている。</p><p>平山「お父さん、お前の将来を考えて、不幸な結婚はさせたくないんだ。お前がみすみす不幸になるのを、黙って見ちゃいられないんだ」</p><p>節子「……」</p><p>平山「お前、谷口って男、よく知ってるのか」</p><p>節子「…知ってます」</p><p>平山「結婚の相手として、いいと思ってるのか」</p><p>節子「…思ってます。あの人、お父様のお望みんなるような、そんな立派な家柄じゃないかもしれません。でも、そのためにあたし、不幸になるとは思いません」</p><p>平山「お父さんにはそう思えないね」</p><p>節子「そりゃ、お父様の考え方です」</p><p>清子「節ちゃん」</p><p>節子「（清子を見るが）…あたしは違います。あたしにはあたしの考えがあります」</p><p>平山「どんな考えだ。言ってみろ」</p><p>節子「言ったって…分かっていただけないと思います」</p><p>平山「何っ！？」</p><p>清子「節ちゃん！」</p><p>節子「お母様。…お父様やお母様は、初めっからお幸せだったのよ。あたしたち、お父様の思ってらっしゃるような、そんないい生活はできないかもしれないけど…できなくてもいいの。それが不幸だとは思いません。あたしたちのことは、あたしたちで責任を持ちます。お父様やお母様にご迷惑はかけません」</p><p>清子「でもねえ、節ちゃん…」</p><p>節子「いいの！もういいの！」</p><p>　　　顔を覆って、泣く節子。</p><br><p>★★★★★★★★★☆</p>
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<link>https://ameblo.jp/lull-b/entry-10856142200.html</link>
<pubDate>Wed, 30 Mar 2011 23:27:29 +0900</pubDate>
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<title>素面の陶酔</title>
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<![CDATA[ <p>『江分利満氏の優雅な生活』</p><p>1963年日本映画　103分</p><p>監督：岡本喜八</p><p>脚本：井手俊郎</p><p>出演：小林桂樹　新珠三千代　他</p><br><p>「それ、どんな話？」と聞かれて答えるのが苦手だ。「どの辺が面白いの？」という質問にも戸惑う。でも、それを的確に説明するというのが私の仕事でもあって、だからこそ、そのことに焦点を絞って勉強してきた。このブログを始めたのも、元はと言えばそういう目的のためだ。</p><br><p>訓練の甲斐あって、当初の苦手も、まあ、だいぶフォローできるようにはなった。その能力の必要性も分かってきたし、私のそういう能力を頼りに意見を求められることも多くなった。</p><br><p>でも、未だに自信が持てない。そういう「ちゃんとした」「説得力のある」言葉で十分な気が全然しない。もちろん、単に私の説明力がお粗末なだけかもしれないが、それにしたってそうした私の説明に、他人はともかく、当の私自身が説得されたことがただの一度もないのだ。確信が持てない。正直に言えて、ぎりぎり「私は面白いと思いますが他の人が面白いと思うかどうかは分かりません」という程度。</p><br><p>本質的に向いていないのだと思う。酒が飲めない体質と同じ。自分に酔えない。常に、もっと醒めた自分が私を見ている。でも、不感症なわけではないのである。ただ、いくら「泣ける！」「名作！」と言われる映画でも、本当にそうかどうかは自分で最後まで観なければ分からない。「面白い作品になります！」といくら上手にプレゼンしても、本当にそうなるかどうかは作ってみなければ分からない。そんな風に思うだけ。自分を騙せない。要は、大人になりきれていないのだと思う。</p><br><p>愛しい映画。皆にオススメしたい一押し映画でもなく、観ておくべき日本の名画でもなく、私はただただ、この映画が心から愛おしい。</p><br><p>自己完結、言われてみればその通り。だけど、自分の感じ方以外で確かなものなどどこにあろうか。それは別に、「世界観」とか「作家性」といった特権的な言葉で括られるものではない。過ちの危険性を孕みながらも徹底して主観に根差すこと、その方が、在り物の感動をなぞって何か言った気になるよりもよっぽど真摯だ。素面の私は、ただそう思う。</p><br><p>風変わりでよい。というか、そらあんたと私は違うんだから、あんたから見て風変わりに見えるのは当然のことだ。体裁など知ったことではない。この映画の終盤、江分利（小林桂樹）の泥酔を見てみなさい。訳なんか分からない、だけど言わずにいられない。何のことだか分からない、だけど泣けて仕方がない。</p><br><p>生きるか死ぬかの瀬戸際にいる人にとっては、空疎と分かっていても前向きな言葉が力になるのかもしれない。でも、痛みを間接的にしか感じることのできなかった大多数の人間が試されるのはこれからだし、そのうねりは、ちょっと想像もつかない規模のものにきっとなるのだろう。そうなった時に効力を持つのは、単純に並置できるものではないかもしれないが、同じように変動に直面した過去の個々人が何を思ったかということでしかないと私は思う。その意味で、私はこの先も幾度となくこの映画を観返すのだろう。</p><br><p>自分を追い込まなければならない。私が生来持っているらしい体質的な不器用さを、これまでのように隠すのではなく、たぶん、全面的に出していかなきゃならない。日頃の私を知ってる人なら何となく想像もつきますでしょうが、相当、妙ちくりんなことになりそうだ。でもまあ、そうなっちゃうもんは仕方ない。パンツ一丁で外歩いてる江分利だって、相当妙ちくりんだしね。それを面白がってくれる奇特な人がいりゃ、それでいいやね。</p><br><p>ちゃんとしてる人に興味はない。ああ、風変わりな人に会いたい、話がしたいと思う春の日。</p><br><p>　　　杖をついたよぼよぼの父（東野英治郎）の前を歩く江分利。</p><p>江分利Ｍ「週に一回、父は病院へ行く。その日だけ江分利は出勤時間を遅らせて、渋谷まで一緒に行って、タクシーに乗せる。父は、江分利の後を追って、鼻水垂らして歩いてくる」</p><p>　　　振り返る江分利。</p><p>江分利Ｍ「破産した実業家の無残と老醜が、一生懸命頑張って歩いてくる。横須賀の秀才よ、ファイト。いい時もあったんだよ、あんた。よすぎた時が」</p><p>　　　機関車の音と共に歩いてくる父。</p><p>江分利Ｍ「江分利は、父を悪人とは思っていない。戦争に関しても、父は悪人ではない。父は戦犯という意味では戦犯だが、一体それなら、明治生まれの実業家で、戦争のお陰を被らなかった人がいるかだ」</p><p>　　　とぼとぼ歩きだす江分利。</p><p>江分利Ｍ「だけどねぇ、仕方がないんだよおとっちゃん。とにかくお前さんの男としての生命は、戦後何年目かで終わっちゃったんだ。これはねおとっちゃん、お前さんが悪いんじゃないんだよ。日本という国がそうだったんだよ。お前さんみたいな商売の人間は、戦争があれば儲かったんだよ」</p><p>　　　一生懸命歩いてくる父。</p><p>江分利Ｍ「今でも船会社や製鉄所や、株屋なんかで、戦争を待ってる人間がいるんだ。お前さんだけじゃないんだよ。だけど、もうやめてくれよ。頼むからやめてくれよ。昭介が兵隊に行くくらいなら、俺も夏子も死んじゃうよ」</p><p>　　　江分利に追いついて、笑顔を見せる父。</p><br><p>★★★★★★★★★★</p>
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<link>https://ameblo.jp/lull-b/entry-10844841945.html</link>
<pubDate>Thu, 24 Mar 2011 23:30:05 +0900</pubDate>
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<title>お花畑に火を放つ</title>
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<![CDATA[ <p>『どん底』</p><p>1957年日本映画　137分</p><p>監督：黒澤明</p><p>脚本：黒澤明　小國英雄</p><p>出演：三船敏郎　山本五十鈴　他</p><br><p>水はベクレるわ、「フクシマ50」とか何の考えも無しに言えちゃう奴らに反吐が出るわで、今パンクしか聴く気がしないんだが、パンクすら聴くに耐えるものが少ない殺伐に驚いてる。その鋭利な先端でシュシュ縫えちゃうくらいの尖り具合。</p><br><p>汚い小屋ん中に裸の人間転がして、ガラガラ揺さぶり皮剥いたような映画。根本的なところでどうも私は、男くっさーーーい映画が好きなようなのだが、これもそう。女も出るし、殊更男映画という括りでもないが、女の映画が避けて通れないところを殺ぎ落とし、細胞レベルに分解された人の業を晒してるという意味では非常にこれ男性的で、発作的に「あれ観たい！」となる映画って大体その手のやつ。</p><br><p>フガフガモゴモゴ、ピーヒャラピーヒャラワッショイワッショイと進んでく（という説明が一番正確な気がする）この映画の圧巻はラスト。こんな気分だからだろう、三井弘次演じる遊び人が、もう、たまらなく鮮やか。厭世的というだけでは到底足りない腹括り。粋ってそういうことだわね、と、全然質は違うけど、心震えた江頭さんの話を思い出したりして。</p><br><p>でも私は東野英治郎なんだよな。ああカッコいいな、私も三井弘次みたく潔くなりたいなと思っても、プライドで突っかい棒をしていないと立っていられない。美化された過去を抱いてでないと眠れない。藤原釜足にも見覚えがある。馬鹿な奴。そう思うけど、最終的に逃げるっていう決断ができただけ、東野英治郎より藤原釜足の方が上等かもしれん。</p><br><p>目糞鼻糞。その滑稽な儚さ、そこからどんだけ目をそらさずにいられるか、それをどんだけちゃんと掴まえられるか、そういうことかもしれないと思う。もちろん今までもそういうつもりでいたけど、何かつくづく、身に沁みて思う。自分も今ガラガラやられながら思う。んで、東野英治郎が意地でも離そうとしない鋳物と同じ物かもしれないけど、ゴリゴリ音がするぐらい硬い本を今、目一杯読みたいと思う。とにかく難解なやつを。</p><br><p>田中春男が好き。理由は説明できない。言うならば、三船さんカッコいい！とキャッキャ言いながらも心の中ではずっと三井弘次に片思いを続け、でも結局田中春男と結婚する、という感じの好き。</p><br><p>　　　死期の近い鋳物屋の女房（三好栄子）にせがまれ、</p><p>　　　話をしてやっていた巡礼（左ト全）。</p><p>　　　あの世がいかに素晴らしいかを語る巡礼だが。</p><p>女房「おじいさん。本当に休めて、何の苦労もないのかい……？」</p><p>巡礼「ああ。請け合うよ。だからくよくよせずに、お迎えを待つんだよ」</p><p>女房「でも……ひょっとするとあたし、よくなるかもしれないね」</p><p>巡礼「何のためにさ。また、苦しい目にあうためにかい？」</p><p>女房「だって……まだ、もう少うし……生きていたいもの。もう少し……」</p><p>巡礼「……」</p><p>女房「あの世に、苦しみがないなら……この世で、もう少うし、辛抱しても……いいよ」</p><p>巡礼「あの世にはなーんの苦もない。だから……」</p><p>　　　と、話を聞いていた泥棒（三船敏郎）、</p><p>泥棒「なるほど、そうかもしれねえ。（大声で）だがそうでないかもしれねえなあ！」</p><p>　　　驚いて布団をかぶる女房。</p><br><p>★★★★★★★★☆☆</p>
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<link>https://ameblo.jp/lull-b/entry-10841430248.html</link>
<pubDate>Wed, 23 Mar 2011 23:09:53 +0900</pubDate>
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<title>He Thought of Cars</title>
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<![CDATA[ <p>『チャイナ・シンドローム』</p><p>1979年アメリカ映画　122分</p><p>監督：ジェームズ・ブリッジ</p><p>脚本：マイク・グレイ　Ｔ・Ｓ・クック　ジェームズ・ブリッジ</p><p>出演：ジェーン・フォンダ　ジャック・レモン　他</p><br><p>地震酔いと洗脳必至のニュース映像と怒涛のＡＣ攻勢に苛まれ、治りかけの風邪もぶり返し、灯火管制下の薄暗い室内で人としての機能をほとんど失っているこの一週間、「ポポポポーン！」と無意識のうちに呟いてるよりは、と思って引っ張り出して観た唯一の映画。</p><br><p>初めて観た時には結構な衝撃を受けた記憶がある。だが、観返してみると、映画の中身より現実の方が軽く上を行っていた。その意味で再び衝撃を受けた。ちなみにこの映画、スリーマイル島の原発事故直前に公開されたといういわくつきの作品で、タイトルの意味は…書かない方がいいと思う。</p><br><p>＊＊＊</p><p><br></p><p>「私は作家である」という自己定義に、神経質なまでに慎重になってしまうのは今に始まったことではない。しかし、こういうことになってみてますます、自分の存在意義というのか、私は一体何なのかというのが分からなくなった。たぶん、具合が悪くなってしまったのにはそういうことも大いに関係していたと思う。</p><br><p>「激烈な状況下で作家は何の役にも立たない」などと当たり前のことを考える人間は、おそらく「作家」ではない。だからと言って、この空気の中で淡々と、前の続きの物語を書き続けられる人間も「作家」とは言わない。また、「作家」がこの出来事から得る「教訓」は、パニック映画の製作に生かされるものなどでは決してないと思うし、「緊急時に触れた人の温かさ」といった浅薄な結論でもないと思う（最終的に行きつくのがそこであるにしても）。</p><br><p>何を読んでも、微かに苛立つ。誰と話をしても、「違う」と思う。過敏になっているのが自分でも分かる。その違和感は自分自身にも向けられていて、つくづくこの無知に呆れる。どんだけ自分が馬鹿か、何も学んでこなかったか、じっとしていられないくらい悔しく思う。</p><br><p>自分を「作家」と言っていいのなら、「作家としての私」に今できることは、ただそうして呆然とすることだけなのかもしれないと思う。自分の中の地層がどんだけずれたか、その驚きというか、ショックにとことん付き合うことなんじゃないかと、とことんノイローゼになることなんじゃないかと思う。「前向きに頑張る」なんて絶対に違う。一市民として協力できることは最大限にするけども、私のやるべきことは（不安解消行動にしか見えない）ボランティア活動に身を投じることなどではない。何もできないし何も分からない、その無力感を嫌というほど直視すること、それだけだと思う。</p><br><p>この先しばらく、ドラマをはじめとする日本の物語が「勇気」や「善意」といった皮相な言葉に覆われ、保守化・硬直化していってしまうのはほぼ間違いないだろう。そんな中で「作家としての私」に何かの役割があるとしたら、それは、今こうして図らずも炙り出されてしまった「無力感」や「無知」、「醜さ」「狡さ」を腹に据えて覚えておくことだと思う。というか、それくらいしか思いつかない。</p><br><p>ある種の惰性的安定の中にあった私の仕事やこのブログだけれど、ここ数カ月、それを変えようとする動きが自分の中にあって、そのせいであんまり書いていなかった。でも今回の出来事で、その動きが外的に確定してしまったような気がする。</p><br><p>うすうす思い始めてはいたけど、「作家」として大事なことは、売れることでも有名になることでも誰かに認めてもらうことでもないね。「多くの人に思いを伝えたい」などといった「使命感」も、誇大妄想的な思い上がりでしかない。ただ私は、この内側のふつふつとしたムカつきを無視することができない。だからそれを記録する。クソ真面目に、クソ正直に残していく。その営みを「作家」と呼ぶんなら、勝手にそう呼べば、って思う。</p>
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<link>https://ameblo.jp/lull-b/entry-10836510685.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Mar 2011 23:41:37 +0900</pubDate>
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<title>お腹一杯</title>
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<![CDATA[ <p>『エンゼル・ハート』</p><p>1987年アメリカ映画　113分</p><p>監督：アラン・パーカー</p><p>脚本：アラン・パーカー</p><p>出演：ミッキー・ローク　ロバート・デ・ニーロ　他</p><br><p>オカルト・スリラー。55年のＮＹ。謎の紳士サイファー（ロバート・デ・ニーロ）に、戦前の人気歌手ジョニー・フェイバリットを探してほしいと依頼される私立探偵のハリー（ミッキー・ローク）。手掛かりを辿り、証言を集めていくハリーだが、証人が次々に無残な死を迎える。調査を辞めさせてほしいというハリーに、サイファーは恐るべき真実を告げる。</p><br><p>と、これだけ書くと何のことか分からない。オチが全ての話なので、知りたくない人はここから先読まないでいただきたいのだが、要はこの話、ハリー＝ジョニーだったという本人オチ。正直、そうなんだろうなぁと途中から思いながら見ていたのは、あまりにそうした形式に慣れ過ぎてしまっているせいか。</p><br><p>でもこの映画が作られたのは87年、20年以上前に作られたとは全く感じさせない完成度の高さ、</p><br><p>なのかな…。と、ちょい自信が持てないのは、過剰なまでのオカルト描写のせい。何が展開上必要で何がそうじゃないのか分かんなくなるようなグロ演出。論理に整合性を求めることを放棄しだした中盤からは、そういうのも含めて楽しめるようにはなったけど。</p><br><p>悪魔に魂を売って歌手として成功するとか、他人の心臓食ってそいつに成り代わるとか、なんで？と思ってはいかん。ＮＹ白人の南部黒人に対する恐れってそういうものなんだなと、この映画観てるだけだと何の事だかさっぱり分からないブードゥー教の儀式ってのは異界への恐怖を具現化したものなんだなと、何となく思う程度でお腹いっぱい。</p><br><p>図らずも娘のエピファニー（リサ・ボネット、レニー・クラヴィッツの元嫁だ）と近親相姦に至ってしまったハリーの白い尻に天井から降り注ぐ血と、ラスト、下へ下へ降りていくエレベーターの映像が印象的だった。</p><br><p>　　　サイファーに、不気味な調査の結果を知らせるハリー。</p><p>ハリー「正直言って、この事件には宗教がからんでいて気味が悪い。何やら祟りのようで…」</p><p>サイファー「宗教は、人間の愛よりも憎しみを募らせるのだ」</p><br><p>★★★★★★☆☆☆☆</p>
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<link>https://ameblo.jp/lull-b/entry-10788789080.html</link>
<pubDate>Mon, 31 Jan 2011 23:47:59 +0900</pubDate>
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<title>クソややこしい話</title>
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<![CDATA[ <p>『バーン・アフター・リーディング』</p><p>2008年アメリカ・イギリス映画　96分</p><p>監督：イーサン・コーエン　ジョエル・コーエン</p><p>脚本：イーサン・コーエン　ジョエル・コーエン</p><p>出演：ジョージ・クルーニー　フランシス・マクドーマンド　他</p><br><p>久しぶりのコーエン兄弟。「ノーカントリー」以来。96分の短尺に誰が主役か分からない豪華な役者陣、ああこれ好きに作ったねぇと、その条件からも分かる。</p><br><p>そして内容もまさに、何でも好きに作っていいとなったらこういうのになる、という見本のようなもの。好きに書いて好きな人に演じてもらって好きに撮って、出来上がり見ていいなぁこういうの好きだなぁアハハと笑って、ふと、そういやこれ、客に伝わんのかな、と思ったりもするんだけど、ま、いっかー、となる感じ。</p><br><p>評価の良し悪しや中身の出来不出来など関係ない。そういう形で成立する、成立させられるってことが、作り手としては一番の「勝ち」だと思う。羨ましい。</p><br><p>あと最高に良かったのがエンディングの曲（「CIAマン」）！何だこの曲。こういうところのセンスがやっぱこの兄弟最高なんだ、何がやりたかったって、この曲が使いたかっただけなんじゃねーのかという。</p><br><p>ストーリーを一言で言うなら「人はバカで面白い」という大雑把なもの。あらすじというよりも作り手の人間観を素直に提示しただけのことで、たぶん、それ以外で特に伝えたかったことはない。でもいいなぁ、私もそうだもの、何やかんや書いてはいるけども、別に伝えたいことがあるわけじゃないんだもの。思ってることがあるってだけで。</p><br><p>面白いか面白くないかでいうと「別に…」って人も多そうだが（私も客観的に考えたらそうだが）、こういう自由さ、久しぶりでなかなか新鮮だった。昔はしょっちゅう観てたフランシス・マクドーマンドも久しぶり。</p><br><p>　　　ジムインストラクターのチャド（ブラッド・ピット）、</p><p>　　　ロッカーで拾ったCD-ROMを開いて興奮し、</p><p>チャド「このＣＤ、女性用のロッカー室で見つけたんだ。音楽か何かだと思って開けてみたらこの書類さ」</p><p>ジム支配人テッド（リチャード・ジェンキンス）「まずいよ…」</p><p>チャド「通信を傍受する話とか、シグナルとか…暗号のことね。部局やそのトップの名前も具体的に。他にもファイルが入ってて、表になってるんだ。日付に、数字、数字、それからまた、日付だろ？数字に…これ、相当やっべえよ！」</p><p>　　　チャド、振り返り、</p><p>チャド「生のスパイ情報じゃん！」</p><br><p>★★★★★☆☆☆☆☆</p>
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<link>https://ameblo.jp/lull-b/entry-10788765690.html</link>
<pubDate>Sun, 30 Jan 2011 23:11:47 +0900</pubDate>
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