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<title>歴史は書き換えられるためにある</title>
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<description>歴史学は脆弱になったのか？</description>
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<title>初期王朝論(11)</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png"><img alt="" height="177" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png" width="220"></a>(<span style="font-size:1.4em;">11)</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">邪馬台国論争というのは、まだ続いているのか、決着したのかよくわからない。自ら主張の正しさから、すでに邪馬台国は、もはや論争の余地がないという立場の研究者もいることは、確かだ。本来、魏志倭人伝の解釈から始まった邪馬台国の位置を比定する議論は、その後考古学の観点に重きを置くことに変化していった。それに先鞭をつけたのが京都大学の考古学教室であった。そのあたりの事情をメモ風に書き留めておきたい。(つづく)</span></p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Fri, 27 Mar 2026 22:28:56 +0900</pubDate>
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<title>初期王権論(10)</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png"><img alt="" height="177" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png" width="220"></a>　<span style="font-size:1.4em;">(10)</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　さらに森氏の小林説に対する反論が続く。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">第二に、小林氏の所論は、大正の昔、中山氏が提案した北九州の弥生式墳墓と畿内の古<br>墳とのあいだの連続性という問題に正面から答えていない。したがって、古墳文化が多く<br>の点で、畿内の弥生式文化よりも北九州のそれに近いことは、依然として否定できない。<br>たとえば、畿内の弥生社会の基制では甕棺が各地で発見されているが、幼児を葬ったもの<br>が多く成人葬は少なく、また副葬品もまれである。これにたいし北九州では、甕棺・支石<br>墓・箱式石棺などに成人の死者を葬ることがふつうにおこなわれている。成人の死者のた<br>めに墳墓をつくるという畿内の前期古墳の風習の起源は、北九州の弥生社会に求めるべき<br>であろう。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">そして、森氏の指摘をうけて井上氏は次のようにいう。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">要するに森氏によれば、古式古墳発生の母胎は、大和を中心とする畿内の弥生式文化に<br>はほとんど求められないのにたいし、北九州のそれからは数多く求められるのである。<br>わたくしは、神武伝承はあくまでも日本神話の一部であつて、史実の外のものであると<br>おもう。北九州勢力の東遷が事実であっても、だから神武伝承はこれを核としてっくられ<br>たとはいいがたい。だが、考古学上の事実から見て、弥生後期に北九州の政治勢力が東に<br>移動して畿内に勢力をかまえた可能性はきわめて濃厚である。天皇家をはじめ大和朝廷の<br>豪族のなかには、大和の土着ではなくて、こうして移ってきた人びとが多かつたのではあ<br>るまいか。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　井上氏は古墳の発生に注目しているのだが、古墳といえども、ローカルな首長の墳墓に留まるのか、それとも、広域の空間を支配した王のシンボリックな墳墓なのか、その目的を見定める必要がある。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　　　*********</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">朝日新聞奈良版に月一回の連載を始めています。本日3月1日は、纒向山の兵主神社について書きました。</span><br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/m-hiko-82/entry-12958340617.html</link>
<pubDate>Sun, 01 Mar 2026 22:33:37 +0900</pubDate>
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<title>初期王権論(9)</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png"><img alt="" height="177" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png" width="220"></a>　<span style="font-size:1.4em;">(9)</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　井上光貞著の『神話から歴史へ』(日本の歴史　1)における井上の邪馬台国＝九州説は、九州における古墳の出現が畿内よりも早かったという理由によのであるが、そのあたりの考古学的考察を森浩一の執筆に委ねている。京都大学の小林に対する反対論を同志社大学の森に部分的に執筆させている。後に、本書が後に文庫本になったとき、その巻末に森が「四十年ののちのあとがき」としてこのあたりの事情を書いている。それによると井上と森は面識がなく、突然井上から、電話で考古学の項目に執筆の依頼があったという。このことについて、私は思うことがないとは言えないが、本書の中かでは、「本書の執筆にあたって考古学上の点で協力をいただいている森浩一氏の小林説批判を紹介しよう」とある。以下、本書から引用する。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">第一に、弥生後期には大和のほうが北九州より文化的に高くなつたというのであるが、<br>文化の高さとは何をさしていうのだろうか。奈良県の弥生後期と認められる集落址をたど</span><br><span style="font-size:1.4em;">ってみると、この時期に他地方よりもずつと集落が発達してぃたかどうかは疑わしい。す<br>&nbsp;なわち奈良県で弥生後期の土器が発見された箇所は六十五、このうち集落址と推定される<br>のは三十ヵ所だが、そのなかで、規模が大きく、しかも多数に土器が出上したのは、御所<br>市鴨都波、橿原市東常門と唐古の三つだけである。このような集落の発達のぐあいから<br>みて、弥生後期に大和が政治的・文化的に優位を占めていたとはどうしてもおもわれない<br>のである。(以下次回)</span><br><br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/m-hiko-82/entry-12958172699.html</link>
<pubDate>Sat, 28 Feb 2026 14:36:31 +0900</pubDate>
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<title>初期王権論(8)</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png"><img alt="" height="177" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png" width="220"></a>　<span style="font-size:1.4em;">(8)</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">井上は、邪馬台国の所在地は古墳の発生の時期にかかっていると、述べ九州説が有利であると述べたこともあつて、考古学の成果に論点を求めた。まず、井上は京都大学の小林行雄の銅鐸論をとりあげる。銅鐸が姿を消していく時代に小林は注目した。井上は次のように小林説を引用している。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">「銅鐸が消えた理由を、その出土状態からみて、人びとがこれを放棄したと考えることは、ある意味では当たつている。だがそれは、剣や鏡を呪術宗教のシンボルとする北九州勢力の<br>侵入のためてはなくて、社会構造が変わったからである。いったい、鋼鐸は共同体の祭器であり、伝讃岐(香川県)出土の銅鐸絵画も示すように農業の収穫の祭器であったとおもわれる。それは一つのムラごとに、たとえば一つずつというような大事な祭器であったが、ムラが合併されると、おのずから、これを率いるムラの首長がその祭器を集めるようになるのであって、滋賀県の野洲町の大岩山で大小十四個の銅鐸が一カ所にまとめて埋蔵されていた(一九六二年にはさらに十個が発見された)のもその現われであった。しかし首長の属する共同体の規模をこえた、もっと大きな権力、すなわち大和朝廷がこの畿内の地に現われたとき、つまり古墳の誕生したとき、かれらはそれに従属するものとなったから銅鐸は不必要になった。これが銅鐸を捨てた理由である」</span></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/m-hiko-82/entry-12957976116.html</link>
<pubDate>Thu, 26 Feb 2026 17:36:34 +0900</pubDate>
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<title>初期王権論(7)</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png"><img alt="" height="177" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png" width="220"></a>　<span style="font-size:1.4em;">(7)</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　卑弥呼が都をおいた邪馬台国の位置について、九州説と大和説の対立は、よく知られている。それを復習的に記述するつもりはない。ごく簡単にふりかえってみると、東京帝国文学部につながる研究者は、白鳥倉吉をはじめとして、まるで一糸乱れることなくと思えるように九州説である。1965(昭和40)年に、中央公論社から刊行された「日本の歴史」シリーズの第1巻を担当した井上光貞(東京大学文学部)も下図を掲げて九州説の立場をとっている。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　だが、井上は九州説にも弱点があるという。それは、卑弥呼は高塚に葬られたとあるのに、卑弥呼の時代に九州には高塚がなかったとすれば、九州説の成立は困難であるとした。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　ところが、そのように述べながら、、古墳の編年と中国鏡の年代観から古墳の発生を3世紀末から4世紀初めにおく見解が有力となり、古墳が大和で発生したことについても種々の異論が生じていて、九州説の成立について有利な状況の展開していると述べた。ということは、邪馬台国の所在地は古墳の発生の時期にかかっているということになる。それは九州であると示唆する。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260223/15/m-hiko-82/f9/db/p/o0185023315754053144.png"><img alt="" height="233" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260223/15/m-hiko-82/f9/db/p/o0185023315754053144.png" width="185"></a>&nbsp;邪馬台国論九州説　井上光貞『日本の歴史』(1)</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/m-hiko-82/entry-12957648031.html</link>
<pubDate>Mon, 23 Feb 2026 15:18:11 +0900</pubDate>
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<title>初期王権論(6)</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png"><img alt="" height="177" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png" width="220"></a>　<span style="font-size:1.4em;">(6)</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">よく知られている邪馬台国論争において、東京帝国大学の白鳥倉吉は九州説説を唱える。卑弥呼は九州の熊襲の女酋であることを前提として、神武天皇の東征と関わらしている。その説の一端について大正10年(1921)の考古学会の講演で次のように語っている。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">私はまだ鹿児島県へ行つたことがないが、交通の困難な土地で、鉄道なども近頃布設された<br>始末であるから、守るにはよいが、出でて攻めるには困難な土地である。夫故九州の南に天孫三代が居られたといふことは、熊襲を征伐されたことと見るべきである。神武東征は大和に帰られたことである。即ち大和が高天原になつたのである。天孫が高天原からお降りになつたのは、征伐に出られたのである。そして帰られたのである。夫が證拠には日本の歴史に九州の南に居った勢力家が、更に日本全国を支配することが出来たためしはない。そこにゐて日本を支配したことを考へることは出来ない。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1.4em;">　要点は、九州にあった邪馬台国の女王卑弥呼を退けて、大和に神武天皇が君臨したというのである。この説によると、いうまでもなく、邪馬台国は大和における古代王権の成立には直接関係しないとする立場である。</span></p><p>&nbsp;</p><p><br><br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/m-hiko-82/entry-12957017548.html</link>
<pubDate>Tue, 17 Feb 2026 14:32:15 +0900</pubDate>
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<title>初期王権(5)</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png"><img alt="" height="177" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png" width="220"></a>&nbsp;<span style="font-size:1.4em;">(5)</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">「魏志倭人伝」に書かれた倭国の時代のあとに初期王権として記紀にいう崇神天皇時代を位置付けこれをもって「ヤマト王権」の始まりとする。そうすると「魏志倭人伝」の倭国とはどのような歴史的な状況においてつながるのかという疑問がおこる。それには、「魏志倭人伝」の倭国の都を九州に求めればよいとされる。そして、現在宮内庁が治定する崇神天皇陵(行燈山古墳)をそのまま鵜呑みにする見解を説く啓蒙本が近年でも見られる。崇神天皇という大王が実際に存在したかどうかも、容易に断定できないのに崇神天皇陵古墳と結びつけて、ヤマト王権の始まりとする。『日本書紀』には、崇神天皇のことを始馭天下之天皇、ハツクニシラスススメラミコトと記しているが、120歳(『古事記』では168歳)で死去したとすることなど、安易に実在の天皇といえない。、現段階では、纒向遺跡の発掘成果に注意深く接しながら、王権の成立論を構築するのがよいであろう。ただ、記紀のヤマト王朝論と「魏志倭人伝」の関係はどのように論じられてきたかは、みておく必要があろう。</span></p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/m-hiko-82/entry-12956851253.html</link>
<pubDate>Sun, 15 Feb 2026 22:17:15 +0900</pubDate>
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<title>初期王権論[4]</title>
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<![CDATA[ <p>[<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png"><img alt="" height="177" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png" width="220"></a>　<span style="font-size:1.4em;">　[4]</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　日本における王権の発生をどの時点におくかは、議論のあるところである。ただ、日本列島のかなりの部分をまとめる「王」が出現した状況に、初期王権という言葉を使いたい。そして、これまで「ヤマト王権」が、日本列島における最初の王権として語られてきた。その場合、『古事記』、『日本書紀』の記述にそって、崇神天皇をもって、ヤマト王権の始まりとする立場がある。その場合、「魏志倭人伝」の女王卑弥呼の時代をヤマト王権から切り離すという解釈である。そこには、邪馬台国の所在地の問題が存在する。それだけではなく、記紀に記述される初代神武天皇から八代の開花天皇までを欠史八代とみなされている。それは、陵墓や系譜といった「帝紀」的記述のみで、歴史的事件といった「旧辞」的記述がないため、実在性が疑われるためであるとする。しかし、この欠史八代については、なお検討の必要があり、安易に捨象してはならない。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　このような欠史八代を取り除くと、崇神天皇からはじまる歴史が日本史のはじまりとして、語られ、教育される。そして、崇神朝をもって、ヤマト王権の開始とする解釈か畝定着して久しい。ところが、困ったことが生じた。それは「魏志倭人伝」にある卑弥呼の時代である。そこで、便宜的に、卑弥呼の時代があり、その後崇神朝が始まるという解釈である。極めて、歴史学は便宜的に時代区分されてきたのではないか。扱う史料が異なるから、時代も異なるということである。いかにも、簡便すぎる解釈である。記紀と魏志倭人伝という異なる史料を結びつけるのは、容易なことではない。</span></p>
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<pubDate>Sun, 01 Feb 2026 15:39:30 +0900</pubDate>
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<title>初期王権論[3]</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png"><img alt="" height="177" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png" width="220"></a>　<span style="font-size:1.4em;">[3]</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　前回でみたように、これまで多くの論者・研究者たちが惰性的に使ってきた日本の「王」については、宗教的権威の意味合いを、含意しなれぱならないのではなないか。万葉歌に次のように歌われる。</span></p><h3>大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ(巻19-4260)</h3><div><span style="font-size:1.4em;">この歌は、天武天皇が壬申の乱の後に、藤原京を建設するにあたっての耕作地がぬかるむ土地てあるが、天皇が神であるので、都の地とされた、という意味である。この場合、天皇＝神というのであるから、前回で述べたとおりである。天皇という称号は中国の天空の「天皇大帝」という星座名に由来する。</span></div><div><span style="font-size:1.4em;">　以上に述べたことは、古代の天皇の宮、宮都の構造にも関係あるのではないかと思う。例えば平城京の建築的構造において、堅固な防御的設備を有していない。中国の都城が外敵の侵入を防ぐための頑丈な城壁を巡らしていることと対照的である。また「魏志倭人伝」が述べる卑弥呼の宮殿は、城柵によって囲まれていて、城壁という言葉を用いていない。これらのことも、わが国の「王権」を論じるときに、念頭に置くべきことであろう。</span></div><div>&nbsp;</div><h3>&nbsp;</h3><p><br>&nbsp;</p><h4>&nbsp;</h4><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/m-hiko-82/entry-12955099631.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Jan 2026 19:14:12 +0900</pubDate>
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<title>初期王権論(2)</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png"><img alt="" height="177" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260117/18/m-hiko-82/00/7a/p/o0253020315741829227.png" width="220"></a><span style="font-size:1.4em;">　[2]</span></p><p>　<span style="font-size:1.4em;">弥生時代から古墳時代にかけて、王、王国、王権という言葉で論じられてきた。このブログのタイトルも「王権論」と名付けられている。日本の古代において、地域空間的政治的領域が作られてきたことは、多くの人たちによって語られてきた。その空間の組織を束ね、維持する人物を王(おう(オホ))と呼んだという証左はない。おそらく、わが国で、政治的組織の管理に携わった者は「キミ」であったであろう。なぜならば、天皇のことを「大王」と表記し「オウ(オホ)キミ」とよぱれてきたからである。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　そこで、中国の魏から到来した者が九州の「伊都国」で「倭国」の組織に尋ねたところ、「卑弥呼という女王が邪馬台国に都をおいて治めめている」ということを知るのであるが、「ジョオウ」という言葉を聞いたとは思えない。ひとつの可能性として「ヒメキミ」であろう。そこで、「王」と「キミ」の違いが、問題とならねばならない。難しい問いかけであるが、両者の間に意味的ズレがあると思わざるをえない。『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)によると、「キミ」は「在地の首長をいうものであったと考えられるから、敬意をもってお仕えする対象」であるとする。例えば日本からの遣隋使に『隋書』「東夷傳俀(倭)國傳」は高祖文帝の問いに対して遣使が答えたことについて、次のように記録している。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">「使者言う､『倭王は天を以て兄となし､日を以て弟なす｡天未だ明けざる時出でて政を聴き跏趺（かふ）して坐し､日出ずれば便ちr理務を停め､いう我が弟に委ねんと』と｡高祖いわく『これ大いに義理なし』と」。</span></p><p><span style="font-size:1.4em;">　隋の文帝は「倭王」は、宗教者であって、政治的首長＝王でないと断じたのである。「義理なし」とは道理にそわないということ。つまり中国皇帝の「王道」ではないと、遣使に言った。ここに、中国的観念としての「王」と日本的に「オウキミ」の意味的差異を読みとれるのである。(以下、次回に)</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/m-hiko-82/entry-12955075858.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Jan 2026 15:00:52 +0900</pubDate>
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