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<title>猫パンチ、あるいは抉り込むように打つべし</title>
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<description>ネット難民の備忘録</description>
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<title>In a small country</title>
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<![CDATA[ その小さな国で戦争が始まったときヤスダはそれを見に行こうと思った。興味と好奇心、興奮と熱狂、冷たい鉄のような嫌な味のする冷徹さ、残酷さ、戦争という悲惨な怪物は実際どのようにして猛威をふるうのか。新聞やラジオのニュースといった世界情勢の一部としてではなく、経験者が過去から語る伝聞としてでもなく、知識としてではなく体験として、その体温を肌で感じてみたかった。彼にはほんの少し情熱があった。<br>
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<link>https://ameblo.jp/madogiwa2018/entry-12490820964.html</link>
<pubDate>Sat, 06 Jul 2019 15:20:26 +0900</pubDate>
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<title>勉強のやり方</title>
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<![CDATA[ 塾の講師をやっていると、保護者からこのような相談をよく賜る。<br><br>興味があれば覚えるんですけど、とか<br><br>やり方がわからないんです、とか<br><br>概ねこのような感じ。<br><br>興味があれば覚えられるのは、笑顔がステキ！(ステキじゃない人っているの？)って誉め言葉と同じくらい無意味だし、ヤれば出来るのは当たり前。人間だもの。<br><br>当然のことながら、講師という立場上そういった理由を建前には出来ないので、一応、のらりくらりとはぐらかす事にはしている。<br><br>このような保護者(ぶっちゃけ成績不振の子を抱える文系のお母様に多い)は大抵、次に宿題を増やしてくださいと仰る。<br><br>そしてやはり、のらりくらりと回避する。<br><br>理由は時間の無駄だからだ。<br><br>成績不振の子供は一般的に応用力が低い。<br>たとえば教科書なりで公式や言葉の意味について教わったとして、それが上手く使えない。数字や言葉の使われ方、極端な話、修飾関係を一部入れ換えただけで、すぐにつまずく。つまり知識を利用することがもの凄く下手なのだ。<br><br>だから宿題は計算など覚えなければならないところを中心に課すし、思考力がそこそこに機能している子にしか応用は課せない。課したところで彼らは自分で調べたり理解するということがほぼ出来ないし、そもそも自力で理解するという姿勢自体が欠落しがちなので、空欄の量が増えるだけ。それを限られた授業時間で補うことはできない。見直すことのない宿題など出すだけ無駄なのだ。<br><br>でも成績不振のお母様方はヤればなんとかなると思っている傾向が強い。おそらく我が子のことだから必死なのだろう。不安なのだろう。そしてその不安を個人で受け止めきるあそこの大きさも足りないのだろう。故に見た目にも分かりやすい宿題の量だとか、大量の勉強時間とかを安易に求める。<br><br>が、仮にそれらを課したところでほとんどの子供には無意味だ。もちろん例外もありうるし、効果がないとは言わない。が、大抵の場合あったとしても精々定期テストで少し点が上がるくらいだ。<br><br>なぜか。<br><br>知識を利用するのが下手だからだ。<br><br>下手だから意味を考えずに、とりあえずただ覚える。それが勉強だと思っている。<br>成績不振の子供の多くはワークをとにかく繰り返す。意味を考えるということをせずにひたすらだ。もちろんそのような過程で意味を身に付けていく生徒もいる、が、そういう勉強しかしてない子供は、中三辺りで成績が下がり出す。<br>特に顕著なのが数学と理科だ。理科は暗記系がたぶんに混ざっているので表面化しずらいが、80点前後しかとれないようであれば注意だろう。<br><br>さて、話を戻そう。<br><br>成績不振の子の多くは勉強の意味を勘違いしていて、質を考えることをしない。質とは意味の捉え方、言い換えるなら色々な視点だ。<br>知識を狭い視野でとらえ、とにかく固定的にしか物事をみようとしない。だから知識の応用はできないし、そういう視点が習慣として染み付いてしまっている。<br><br>そんな視野では物事に興味なんて持てないし、もし興味のあるものが目に映っていても気が付かない。<br><br>そんな状態で、勉強のやり方？　<br><br>一応、説明してはみますが無駄だと思いますよ。<br><br>だって説明されたところで勉強に応用できないのですから。
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<link>https://ameblo.jp/madogiwa2018/entry-12490459970.html</link>
<pubDate>Fri, 05 Jul 2019 13:37:39 +0900</pubDate>
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<title>偏差値50以下の高校は無くすべき</title>
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<![CDATA[ という考え方を無くすべき、という話をします。<br><br>理由はとても単純です。<br><br>その根底にある価値観が一元的だからです。<br><br>ちなみに高校の数を減らしたりはOKだと思います。少なくとも普通科に関しては、高偏差値で職業専門的な学校がもっと増えてもいいんじゃないかな、と思います。勉強には向き不向きが確かにありますし、好き嫌いもあります。しかも学校の勉強は基本ペーパーテストで高得点を得ることが目的になってしまっているところがあるので、です。<br><br>なので、少子化の昨今、普通科高校は少し減った方よいかな、とは思いますが、だからって偏差値を基準とするのはどうなのか？　です。<br><br>で、結論から申しますと、ダメです。<br><br>偏差値はいわゆる50という数値を真ん中とした相対的な指標です。偏差値教育反対！　など叫ばれておりますが、あればあったでそれなりに便利な数字です。私も学生時代は大いに参考にしましたし、特にやりたいことも将来の夢もない場合には簡単な目安にもなります。<br><br>なので便利！　しかしこの偏差値、あくまで基準に過ぎないんですよね。<br><br>ところが世の中ではいつの間にか偏差値という言葉だけが極度に単純化されてしまっていて、<br><br>偏差値が高い、つまりは頭がいい。<br><br>偏差値が低い、つまり頭悪い。<br><br>といった二項対立のための指標のようになっちゃってる気がするんですよね。<br><br>だから、ダメだと思うのです。<br><br>そうは思いませんか？　<br><br>だって、頭の良し悪しなんて相対的なものの見方に過ぎないのに、相対的に劣る方を排除する。<br>まあ、一度くらいはよいのかもしれません。<br>でも、もし一度でもそんなことをしてしまったら果たして一度で済むでしょうか？<br>相対的に頭の悪いとされている学校を、二項対立的にとことん最後まで排除する。<br><br>考えただけで恐ろしいし、無理でしょう。実際、物理的にもおそらく無理ですしね。<br><br>でも、もしそういった考えを実行できる社会というのは、とてつもなく恐ろしいです。<br><br>ユダヤ人かそうでないか。<br><br>日本人かそうでないか。<br><br>敵か味方か。<br><br>だからダメ。<br><br>安易な二項対立を生み出すような一次元的な思考はなるべくしまっておいて欲しいと、ネット社会にたいして強く思うのです。<br>
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<link>https://ameblo.jp/madogiwa2018/entry-12490128452.html</link>
<pubDate>Thu, 04 Jul 2019 15:55:02 +0900</pubDate>
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<title>頭のよい人</title>
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<![CDATA[ 頭のよさってなんだろう？　と時々思うのです。<br><br>そんなときネットで漁ってみると、<br><br>難しい物事を簡単に説明してくれる人、<br><br>とか、<br><br>話の面白い人、<br><br>とか、まあ、ずいぶんと都合の良さそうな理想像がゴロゴロ転がっているのです。なので、正直よくわからないというのが正直なところです。つーか、そもそも難しいことはどうやったって難しいし、どんなに頭のよい人の話も興味がなければ面白くもなんともないし、とさえ思うのです。<br><br>仕方がないから自分で考えてみることにしました。<br><br>まずは定義。これ重要です。<br><br>とりあえず、今の世の中は合理性の時代です。あらゆる物事を規則化して無駄を省いて運用する。その最たる例が言語、標準語です。これをしっかりとひとつでも身に付けておけば一応、この社会でそれなりに生存していける。資格とったり。<br><br>なので言葉を使えること。<br><br>そして物事の連なりや繋がりを言葉によって自由にできること。<br><br>これが達者な人間をこの場合の頭のよい人とします。あくまでこの話のなかでの話ですが。一応、自由にできるというのは、言葉を使って他人に伝えたり、言葉の連なりから読み取れたり、です。<br><br>さて、ではこの頭のよい人を少し分類していきます。分類も大切です。<br><br>その１、知識が豊富。辞書みたいな人。<br><br>気になったときに気になったことを話せる人は確かに頭がよさそうです。しかも小学生版から広辞苑、果ては専門書レベルの言葉をその頭脳のなかに体系的に有していて、必要なときにさっと取りだし自由に出来る。Googleよりスゴい!!<br><br>でも、なんか違う。確かにスゴいけど、なんというか自分で想像しておいてなんなのですが、違う。<br><br>なぜか。<br>こういう人は色々なことを知ってると思うので、例えば無知の知とかバカの壁とかそういう言葉を使いもするし、意味を教えてくれたりもするだろうけど、果たして本当に意味を知っているのか、とも思うからなのです。<br><br>ようするにアレクサが、<br>私には心がある、<br>と言ったところで、<br>嘘～、<br>と思うし、<br>私には確かめようもない、といった感じです。<br><br>といふわけで、今のところ私の思う頭のよさには<br>アレクサ及び辞書みたいな人は含まれないみたいです。もっともスゴいとは思います。でもそれは頭のよい人ではなく、やっぱりただのスゴい人なのです。<br><br>続く
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<link>https://ameblo.jp/madogiwa2018/entry-12488588230.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Jul 2019 02:36:19 +0900</pubDate>
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<title>日本の教育は時代遅れ</title>
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<![CDATA[ 教育改革が叫ばれている昨今。<br><br>子供に思考力を持たせるためにテストの形式を変えたり、あるいは国際社会で活躍する人材になってもらうために英語教育を重視したり、ですが個人的にはかなり無駄だと思っています。<br><br>なので、以下に簡潔にですが、理由を記してみます。<br><br>まず第一に、そもそも思考力ってなんだろう？　です。<br><br>これは私には今のところわかりません。漠然とはわかります。ただ数値化しにくいのです。なので子供のそれをテストでどのように評価して伸ばしていくのか、やはりわからないのです。でも、お役人さんはできるみたいなので、スゴいです。<br><br>次に、これが一番の理由なのですが、そもそも集団教育で思考力って伸ばせないんじゃないか、という点です。<br><br>１クラス３０人という単位で無理、と思います。だって思考力ってみんなと同じことが出来る力じゃないでしょ？　たぶん他人とどこかしら違うことをしたり、たぶんそうやって自分なりの積極性を発揮していかないと身に付かないものだと思うんですよね。<br>でも、クラスは３０人。学校の先生は精々一人か二人。無理でしょ。もし先生が生徒の個性を伸ばしたくても、収集つかなくなるでしょ。結果、子供は怒鳴られる。思考力云々ではなく、集団としてのルールばかりを守らさせる。思考することよりも集団行動的な側面ばかりが強化され、より素直で従順な指示待ち人間が量産される。そんな人間が量産される社会において、裁量労働なんて無理と思うのは私だけだろうか？　この話は少し内容とずれるのでここまでにしますが、いずれにせよ、そもそもの箱、つまり構造がおかしいのに、テストというソフトだけ入れ換えようとしたって無理でしょ、という話。ただでさえ個性を自力で伸ばさなければならない子供の育成環境がよりシビアになるだけでしょ。よって、あーよかった、今の時代の子供じゃなくて！　と思うのです。<br><br>最後に英語。そんな環境で思考力を欠いた無個性な人間たちに、ハロー、ナイストゥミーチュー、言われてもなー。<br><br>そしておまけ。<br>教育は近代国家における構成員の再生産という意味において非常に重要な役割をもっている。詳しくはゲルナーなどを読んでくれ、ここでは省く。で、大事なのがここ。<br><br>再生産。<br><br>この改革そのものが日本の古きよき近代教育150年の歴史のひとつの到達点であるのなら、ヤバイです。かなりいい具合で時代に取り残されているように思うふ。
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<link>https://ameblo.jp/madogiwa2018/entry-12488575903.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Jul 2019 01:04:54 +0900</pubDate>
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