<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>makiko60のブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/makiko60/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/makiko60/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ブログの説明を入力します。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>愛されているゆえの試練</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　クリスチャンの人たちの中にも、何かしらの試練に合うと、呪われているのではないかと感じる人たちがいるという話を聞くたびにびっくりしています。</p><p>神様は、その人を深く愛しているがゆえに、試練を通してその人の信仰を訓練しているのだと思います。</p><p>その人がそういう時に、信仰をどのように働かせていくか。神様にすがって信頼していくかを見ておられるのではないでしょうか。</p><p>試練は苦しくつらく悲しいものですが、その痛みを通らなければ、わからないことや気づけないこともたくさんあります。</p><p>また、試練によって砕かれて、私たちがへりくだったものに変えられていく大きなチャンスでもあると思います。そして神様は、天に私たちのために朽ちない宝を積み蓄えていってくださるのです。神様とお会いした時に、豊かに報いてくださろうとしているのではないでしょうか。</p><p>まるで教会の中で、勝ち組と負け組があるみたいに、特に苦しみや試練のない人が幸せで、試練の多い人は不幸みたいなことになってしまうと、この世の中の御利益宗教的な考えと、まったく変わりません。</p><p>しかし、実際教会の中でそういうことが当たり前のごとく起こっているのを見てきて、すごくおかしいと感じてきました。</p><p>クリスチャンにとっては、霊的な戦いがあり、サタンの攻撃や誘惑があるのです。</p><p>それゆえに、クリスチャンたちは、信仰の盾と御言葉の剣をもって、戦士として戦って、神様の助けを受けながら、勝利していく必要があるのです。</p><p>私たちは、アスリートのように訓練されて、鍛えられたくましくされていくことが大事なのです。</p><p>そして神様は、やがて天において私たちとお会いした時に、多くの勲章を私たちの胸につけてくださるのです。それは永遠において、私たちの栄誉栄冠として光輝いていくのです。</p><p>ゆえに、試練は、私たちの成長を願うゆえの神様の大いなる愛の表れなのだと確信するものです。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/makiko60/entry-12742688486.html</link>
<pubDate>Sat, 14 May 2022 10:00:55 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>アメリカのキリスト教カウンセリング</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　だいたいにおいて、日本で日本人のためにキリスト教カウンセリングをしたいと思うなら、日本で日本人向けにやっているキリスト教カウンセリングを学べば良いのではないかと思います。</p><p>何でもかんでもアメリカに行って学べば良いとは限りません。</p><p>前にいた教会関係の修養会の分科会で、キリスト教カウンセラーのところに出席しました。</p><p>なんか知らないのですが、アメリカでキリスト教カウンセリングを学んできた人はみな女性ばかりでした。</p><p>そのカウンセラーが、自分に願うことと、相手に願うことを五つ上げてください。とか言われました。私はよくわからなくて何も書きませんでした。そこでそのカウンセラーは自分のことをまず最初に話してくれました。多分今はそうではなくて、前そうだったんだろうなとは思うのですが、人に対して願うことに関して、クライエントが皆自分のカウンセリングに対して感謝してくれること。とか言っているのを聞いて、私はあまりにもびっくりして、この人がカウンセリングを受けたほうが良いのではないかと思いました。</p><p>言ってることが、何とも言えず傲慢で、自分に栄光を帰しているようなことなので、あきれ返ってしまいました。</p><p>クリスチャンではないカウンセラーの人でもなかなかこんな人はいないのではないかと感じます。特に、クリスチャンとして神様を信じていたら、自分に何かできるのではなくて、神様が働いてくださらなければ、その人の問題は解決していかないということを、まず初めに考えて祈りながら、相談に臨むものではないかと思います。</p><p>何のためにアメリカまで行って、キリスト教カウンセリングを学んでカウンセラーになるのか、そのきっかけに対して疑ってしまいます。</p><p>神様に任せて、神様に働いていただけるための、橋渡しをするだけだというへりくだりの思いがなければどうにもなりません。</p><p>カウンセリングを学び、カウンセラーを目指そうとする人は、改めて自分の心の中を探っていただきたいと思います。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/makiko60/entry-12741427683.html</link>
<pubDate>Sat, 07 May 2022 10:09:58 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>死ぬために生まれてきてくださった　</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　十何年も前になるでしょうか。アメリカの宣教師のメッセージを聞きました。</p><p>私たち人間は、生きるために生まれてきて、自分の人生を送っていくのが当然です。</p><p>しかし、イエス様は、私たち人間の罪を背負い、身代わりとなって死んでくださるということを、果たすためにこの地上に生まれてきてくださったのです。という内容の話でした。</p><p>聖書の旧約聖書において、やがて救い主であるメシアがこの地上に来られると、数多く予言されていたのです。</p><p>しかし、このお方が、私たち人間が生まれながら持つ原罪のために、代わって犠牲になって呪われて死んでくださるという事実に気づく人は、あまりにも少なかったのです。</p><p>人間が受けなければならない呪いと罰を、御自身が一手に引き受けてくださって、十字架にかけられて、私たちの罪のための神の怒りと呪いを、すべてになってくださったのです。つまりイエス様は、私たちを救うために、私たちの代わりに犠牲となって死んでくださるためにこそ、この地上に生まれてこられたわけです。だからこそ、私たち救われたクリスチャンたちも、このイエス様のために、この方に信頼して従って生かされていく道を歩んでいく必要があるのです。私たちは、生きるにおいても死ぬことにおいても、ただ主キリストのために自分の人生があることを覚えます。</p><p>もはや私たちが生きているのではなくて、私たちのために死んで、三日目によみがえってくださったイエスご自身が私たちの内に、聖霊を通して生きてくださっているのです。</p><p>私を通してキリストが生きてくださっていることを覚えながら、クリスチャン生活を送っていけたらありがたいなと思います。</p><p>私のために死ぬことのゆえに、二千年前、この地上に生まれてくださったイエス様に感謝します。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/makiko60/entry-12740715735.html</link>
<pubDate>Tue, 03 May 2022 09:32:07 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>本当の幸せ</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　前に友達の家に行ったとき、今年届いた年賀状を見せてもらいました。その中の一人が、私と同学年のクリスチャン女性で、御主人と二人の娘さんと、その娘さんたちの御主人と、お孫さんが一人皆で写っていました。</p><p>私は数日前にそのことを思い出して、なんか自分と違って随分と幸せそうな人だなあと思ってしまいました。</p><p>しかし、その後、それではこの世的な幸せと同じではないかと気づかされ、自分がブログで書き続けている証のことを思い出し、そんな風に思うのはおかしいと感じました。</p><p>神様にあって本当の幸せとは何か？苦難の中にあっても神様を信頼し続けて、その聖書の約束に堅くたっていくことではないかと思ったのです。</p><p>危ない危ないと思いながら、教会の多くの人たちが、この世的な幸せを本当の幸せだとか、神様から恵まれていると錯覚しているのではないかと感じました。</p><p>コロナになる前に合ったクリスチャンの友人と信仰の話をいろいろした後、彼女は帰るときに、○○さん（私のことですが）が話すような話をする人はいませんよ。と言ってこられたので、あなたの教会の人たちはどんな話をしているの？と聞きました。すると、御利益宗教的な話をしているといったので、私はびっくりしました。本当におかしなことで、教会の中でも、勝ち組、負け組みたいな、この世的に幸せそうな人たちが勝ち組みたいな感じがあるのを覚えます。</p><p>聖書はそんなことを一言も言っていません。</p><p>ヤコブ書の始めのほうには、試練にあった人は、この上もなく喜びなさい。と書かれています。</p><p>私たちは、もっと本当に聖書をよく読み、その神様の真意に気づかされていく必要があるのではないでしょうか。神様にある、本当の幸せを理解していきたいですね。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/makiko60/entry-12740010432.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Apr 2022 10:31:05 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>行いの伴った信仰</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　聖書の新約にあるヤコブの手紙という書があります。ヤコブは行いのないあなたの信仰を見せてください。と言っています。</p><p>義人は信仰によって生きる。ということに気づかされて確信したマルチン・ルターは、このヤコブ書のことを、わらの書簡と言ってたことは有名です。</p><p>まず私たちが考えなければならないのは、聖書で言ってる行いというのが、いわゆる善行とか、道徳的な良い技とかいうことではないと思われます。つまり、ただ信じているだけなら、サタンや悪霊どももよくよく信じてて、身震いしているのです。</p><p>単に信じているということではなくて、信仰生活をしていくうえで、いろいろな問題があるわけですが、そういう問題があったときに、与えられた信仰をどのように働かせて、神様に、また御言葉に信頼していくかということが、行いということになるのではないでしょうか。その点で、ヤコブは行いのない信仰を見せてみなさい。と言っているのではないかと思われます。</p><p>どういう信仰をもって、生かされていくか、いろいろな困難苦難の中で、いかに信仰を働かせて神様にすがり続けていくかということが、大切なのだと感じます。</p><p>それこそが、本当に行いの伴った信仰なのではないでしょうか。信じていればそれでいいのではなくて、いついかなる時にも、信仰を持って神様に頼りながら、耐え忍び、乗り越えさせていただくかということが大事なのだと思います。</p><p>わらの書簡どころか、聖書の中でもダイアモンドの書簡といっても過言ではないのが、このヤコブ書でしょう。</p><p>私たちは、改めてよくよく考えながら、ヤコブ書を読み聴き、学んでいきたいと願うものです。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/makiko60/entry-12738949200.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Apr 2022 10:13:22 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>親亡き後</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　精神障碍者の大きな問題としては、家族がいて、親がその子供の面倒を、必要以上にやってしまう場合です。</p><p>特に母親が家事のことすべてや、時には薬まで管理して、これとこれを飲みなさいと手渡してるということです。</p><p>確かにその障碍の大きさなんかもあるのですが、母親が、その子供が死んだ後に自分が死にたいと願うことです。</p><p>そういう場合、その親が死んでいなくなった後どうするのかということで、親亡き後という言葉が生まれるわけです。親に何かある前に、できることは一人でさせるということが大事なのではないかと思います。</p><p>私は早くから一人暮らしをしているのですが、昔いたことのある作業所で、用事があって少し遅れていったら、二階の部屋で、何人かの男女が輪になって真剣に話し込んでいました。</p><p>どうしたんだろうと思ってほかの人に聞いたら、親や家族がいなくなったらどうしようかと真剣に話し合っていたようです。</p><p>私はびっくりしましたが、一人で生活している自分には関係ないと思いました。</p><p>イタリアの精神障碍者が日本に来た時、どうして日本の障碍者はいつまでも親に面倒見てもらっているんだと言っていたそうです。</p><p>日本では、親が子供の世話をするのが当然で、国も家族に任せっきりになっています。</p><p>精神障碍者も、ある程度自立して、一人で自分のことをちゃんとやっていけるように訓練していかないと、親に何かあった時に困るのは自分で、自分自身いい年になっていて、一人残されてどうしようもなくなってしまいます。</p><p>日本は家族が共依存的なところがあって、自立するのが非常にむつかしいところがあります。</p><p>しかし、家族だけで抱えてしまって、悲惨な事件が起きる場合があります。</p><p>福祉関係の手続きなども、自分でできないと、やってくれる親に何かあったときに、自分が本当に困ってしまいます。親がいて、何でもやってくれるのが、良いわけではありません。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/makiko60/entry-12738061328.html</link>
<pubDate>Mon, 18 Apr 2022 10:02:16 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>三浦綾子さんの小説</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　三浦さんの小説を読むと、なんかとても立派な人が時々出てきます。実在の人をモデルにしている場合もあるのですが、クリスチャンでも、あまりにもよくできた人が出てくるので、かえって引いてしまいます。</p><p>確かによくできた人というのは、世の中にいると思いますが、実際人間は、もっとどろどろした汚い罪にあふれているものだと思います。</p><p>私なども、長年生きていると、自分の性格や特徴など。自分はこういうところがあるというのにも気づかされてきます。そうはいっても、時としてそういう自分が出てきてしまって、自分の愚かさや弱さを思い知らされることもよくあります。</p><p>教会を見ていても、いろんな人間がいて、それぞれ性格や特徴があり、それほど良くできた人など、まったくといっていませんし、人間関係も醜いものが多々あります。</p><p>確かに人間的によくできたクリスチャンを通して、証にもなりますし、それはそれで素晴らしく大切なことと思います。しかし、クリスチャンとしては、自分の弱さや愚かさに気づかされて、ついつい出てしまうそんな自分の罪深さに対して、心から反省しつつ、悔い改めて、神様の憐れみと恵みを求めて、信頼していくことのほうが大事なのではないでしょうか。</p><p>そんな中で、少しづつ聖霊によって変えられ、聖化されていくのではないかと思います。</p><p>三浦さんの小説などに出てくる、よくできた人なんかとは、私自身足元にも及ばないような人間でしかありません。世の光・地の塩として生きていきたいと思いますが、自分がそんな良き証を立てているような人間だとも思えません。</p><p>失敗が多く、愚かさ弱さに満ちています。</p><p>自分がだめだなあと思う時に、キリストの十字架と復活の流された血潮を仰いでいくばかりです。</p><p>罪深い私を憐れんでください。と神様に祈りつつ、日々へりくだっていけたらありがたいなと思います。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/makiko60/entry-12736990762.html</link>
<pubDate>Tue, 12 Apr 2022 09:42:17 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>夜明け前が一番暗い</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　昔読んだことのある信仰書に、夜が明けようとする前が、一番暗くなるということです。</p><p>私たちも困難苦難の中にある時、こんなことがいつまで続くのかと思う時もあるでしょう。</p><p>そして、それがさらに悪くなっていくようなこともあるのではないでしょうか。</p><p>しかし、夜明け前が一番暗いということは、夜が明けようとしている時が近づいているということでもあるのだと思います。</p><p>かなり若い時に読んだ信仰書に書いてあったことですが、第二次世界大戦のときに、クリスチャンの方で、ナチスの収容所に入れられていた人がいたそうです。その人は、聖書の御言葉の一つをしっかりと握りしめて、その御言葉に励まされて、収容所生活を耐えてきました。</p><p>しかし、長い収容所での生活のなかで、どうにもこうにももう駄目だと思うような状況に陥ってしまったそうです。その人を励ましていた御言葉にも、心をふるえなくなってしまいました。</p><p>そんな絶望の中にあったその人に、収容所にいるまったく見知らぬ人が、一枚の紙を手渡したそうです。その人は、驚きながらも、なんだろうと思って紙を開くと、その人がいつも励まされていた御言葉が、その紙にはっきりと書かれていtたそうです。</p><p>びっくりしたその人は、改めて神様によってその御言葉に確信をもって信頼しなさい。と言われているような気がして、勇気を与えられたそうです。そして最後まで、収容所で耐え忍び、やがて解放されていくのです。</p><p>私たちが、もう駄目だと思って絶望しても、神様が不思議な方法で助けてくださることを覚えます。</p><p>私たちも、夜明け前が一番暗いということを考えながら、必ず夜が明けることを信じて、神様に信頼していきましょう。</p><p>神様にあって、永遠の希望があり、神様によって圧倒的な大勝利を得るのです。</p><p>汝ら悩みあり。されど雄々しかれ。我すでに世に勝てり。そう言ってくださる神様の約束を信じて、御言葉に堅くたって前進していきましょう。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/makiko60/entry-12736493160.html</link>
<pubDate>Sat, 09 Apr 2022 15:13:42 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>信仰の生きざま</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　クリスチャンにとって一番大事なことは、良きおこなkではなくて、どういう信仰を持って、生かされていくかということではないでしょうか。</p><p>生活していくうえで、いろんな問題が起こってきます。それに対して、与えられている信仰をいかに働かせて、神様と向き合っていくかということではないでしょうか。また、約束されている聖書の御言葉に堅くたって、その約束に信頼して確信しながら、神様にすがっていくことでしょう。良きおこないというのは、そのような信仰において、現わされていく行為なのではと思います。</p><p>私も精神科の病院に入院中に、すべて疲れた人重荷を負っている人は私のところに来なさい。私が休ませてあげよう。というような御言葉の約束を思いながらも、全然休ませてくれないじゃないかと思って、嫌いになる御言葉が、いくつか出てきました。そんな苦悩の中にありながらも、聖書の神様をあくまでも信じて、すがっていくことを自分で選び取って、信仰を働かせていったのです。</p><p>信仰を捨ててもいいようなことは、何度もありましたが、その中でも神様に信頼していくことを、自分で選択して信じ仰ぎ続けてきました。</p><p>良い行いをしていれば、それが素晴らしいということではなくて、どんな信仰を持って生かされ、あらゆる問題に対処していくかということが大切だと思います。</p><p>つまり、その人の信仰の生きざまです。その信仰があってこそ、良き行いも現わされていくのではないでしょうか。</p><p>恵みによって与えられた信仰を、いかに用いて生かして生き抜いていくかということが、一番問われていることではないでしょうか。</p><p>良き行いとは二の次のことといっても過言ではありません。</p><p>信仰の在り方を、神様は一番見ておられると思います。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/makiko60/entry-12735737468.html</link>
<pubDate>Tue, 05 Apr 2022 10:46:30 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>クオバディス・ドミノ</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　２千年ほど前、ローマ帝国が支配する世の中で、クリスチャンたちは迫害されていました。</p><p>そんな中で、12使徒の一人ペテロは、多くのクリスチャンたちのリーダーとして用いられていました。</p><p>そんな時、ローマでクリスチャンたちが捕らえられている中で、多くの兄弟たちがペテロに向かって、先生は大切な人ですからここから逃げてくださいと促します。あまりにも言われて、ペテロはローマから逃げていこうとします。そんなときです。ペテロがローマから去ろうと道を急ぐ時、前から一人の人がやってきます。それはイエス様でした。それを見たペテロは驚きながら、クオバディス・ドミノ（主よ、どこにいかれるのですか）と聞きました。そしてイエス様は、ペテロにあなたが捨てたローマに私はもう一度十字架にかかりに行こう。と言われたのです。</p><p>八ッとしたペテロは、私は4度もイエス様を否定するところだった。と思い（ペテロが鶏のなく前にイエス様を3度否定したことは有名です）彼は急いでローマにもどっていきます。そして彼はローマ兵に捕らえられるのです。</p><p>ペテロは最後、十字架につけて殺されるときに、主なるイエス様と同じではもったいない。私を逆さ十字架につけてください。と言って、頭を下にした十字架につけられて、殉教するのでした。</p><p>これは、伝説かもしれませんが、ペテロの性格だったらあり得るかもしれないという人たちもいるそうです。</p><p>3度イエス様を否定して、鶏が鳴いたときに、激しく泣いたペテロですが、イエス様の十字架と復活によって、許されて、砕かれへりくだらされていったペテロの、クリスチャンとしての生涯でした。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/makiko60/entry-12735178624.html</link>
<pubDate>Sat, 02 Apr 2022 08:55:21 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
