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<title>MamBOのblog</title>
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<description>Twitterの140文字に収まらない話はこちらで。阪神タイガース/聖飢魔II/米米CLUB/日本史/浜田麻里/歌舞伎/片岡仁左衛門/RX．Focus on@2014;楽しい清盛ロス/ちりとてちん/カーネーション/窪田正孝/熊野三山/石井竜也 2013;切ない清盛ロス/WBC/この国の未来/有権者のあり方</description>
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<title>明治の大相撲　（２）</title>
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<![CDATA[ <font color="#666666">白鵬関の優勝インタビューの発言から、大久保利通が気になって追いかけ続けた今週。<br>とうとうすっきりする解答を見つけました。<br><font color="#FF1493">「大久保利通」「大相撲」「明治帝」</font>にこだわるから答えが見えなかったんです。キーワードから<font color="#00BFFF">「大久保」「明治帝」</font>を外し、ただ<font color="#FF1493">「明治」</font>の<font color="#FF1493">「大相撲」</font>だけで検索すればよかったんです。<br><br>ヒットしたのは国立国会図書館のサイトでした。→<font color="#FF1493"><a href="https://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/jousetsu153.php" target="_blank">こちら</a></font><br><br>結論からいえば、大久保や伊藤ら政治家が復権のために働いたかもしれません。でもそれは些末なことでしかないでしょう。それよりも逆境にまけずに継続して踏ん張った力士、親方、行司ら関係者、それを支えたタニマチの応援こそが相撲を復権させた第一の要因だったと思います。<br><br>それにしても江戸時代、あれだけスターとして庶民から喝采された力士は、<font color="#FF1493">断髪令</font>と<font color="#FF1493">裸体禁止令</font>のおかげで<font color="#9370DB">時代遅れ</font>な<font color="#9370DB">犯罪者</font>へ突き落とされることになりました。もしかすると”江戸期に庶民のヒーローだった<font color="#FF1493">お相撲さん</font>”の立場は、”軍国主義で国民の英雄だった<font color="#FF1493">兵隊さん</font>”と同じなのかもしれません。こないだまで庶民の憧れだったのに、時代が変われば「もうイラネー」。<br><br><font color="#FF1493">「相撲不要論を黙らせるために消防別士組を組織して庶民の役に立ってもらおう」</font>という新聞投書。もう”強い””逞しい”はいらないという時代に”強い””頼りがい”を看板にする団体をどう認めさせるか、どうしたら世論の逆風をひっくり返して相撲に市民権を持たせられるか。これは憲法９条後の<font color="#9370DB">自衛隊問題</font>に似てるんでしょうね。作戦としては<font color="#9370DB">災害ボランティア</font>に役立てて市民に認めてもらおう、みたいな。<br><br>この火事場の力仕事に力士を使うことを目的とした<font color="#FF1493">「消防別士組」</font>が<font color="#FF1493">明治９年</font>に組織されると、次第に働きが認められ、<font color="#FF1493">明治11年「角觝並行司取締規則及興行場所取締規則」</font>を警視庁が発布。この規則さえ守れば相撲していいよという警視庁のお墨付きを得て、<font color="#FF1493">「相撲不要論」</font>は下火になったそうです。<br><br>あとは興行として成り立つ程度に<font color="#FF1493">お客さんに来てもらう</font>だけ！<br><br>こっから先はプロレスの力道山や、プロ野球の長嶋茂雄みたいなもんですよ。万民に「すげー！」と言わせる圧倒的なスターが出ればいいんです。それで人が集まり金が集まる。そこへ有名人や権力者が「ファンです」と言うだけでブランド力があがる。<br><br>この時期の大相撲にとって、<font color="#FF1493">スター</font>は<font color="#FF1493">梅ヶ谷藤太郎</font>であり、<font color="#FF1493">ブランド力をあげた有名人</font>は<font color="#FF1493">明治帝</font>だったということだったみたい。<br><br>この時の天覧相撲が記録に残る<font color="#FF1493">明治17年芝離宮延遼館</font>における天覧相撲のことらしい。きっと後楽園における村山実vs長嶋茂雄の天覧試合のように語り継がれるような晴れやかな印象を庶民に与えたんでしょうね。<br><br>そんな風景を思い浮かべたとき、裏で陛下が「相撲見たいから企画しといて」と伊藤に頼んでいようが、陛下の意を受けて伊藤が張り切って段取りしようが、帝を担ぎ出すまで場をあっためて盛り上げた現場の力士と裏方と、谷町をはじめとする贔屓のみんなの頑張りの方が印象に残る気がします。キラキラしてたと思います。いや、天覧相撲のその日、陛下も伊藤もきっとキラキラしてたんでしょうけどね。</font>
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<link>https://ameblo.jp/mambo666888/entry-11957726571.html</link>
<pubDate>Thu, 27 Nov 2014 21:40:58 +0900</pubDate>
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<title>明治の大相撲</title>
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<![CDATA[ <font color="#666666">日曜日の大相撲V32、白鵬関の発言について、マスコミの記事が増えて来ました。<br>でもgoogleで検索してかかってくる上位10件は<font color="#9370DB">「大久保利通と明治帝が大相撲の危機を救った」</font>という文脈で書かれたものばかりです。その中に<font color="#9370DB">「断髪令は力士には適用しないようにと、大久保利通が明治帝に手紙で頼んだ」</font>という文脈の記事を見かけました。「えぇぇえ？本当かなぁ」と思えてならないので、めずらしく２日ぶりのブログ更新です。<br><br><font color="#FF1493">「大相撲」「大久保利通」「明治帝」</font>のキーワードでかかってくる記事の上位は、この２日で白鵬関の発言に関するものにほとんど塗り換えられました。検証を冷静に行う為、３日以上前の記事優先で探してみたいと思います。<br><br>まず大相撲が危機に瀕していたこと、相撲がお好きであった<font color="#FF1493">明治帝</font>が同じく相撲好きだった<font color="#FF1493">伊藤博文</font>に働きかけて天覧相撲を企画し、天皇のお墨付きを与えることで大相撲の危機を救ったことは昨日書いた通りです。その大相撲の危機を救った天覧相撲とは、<font color="#FF1493">明治17年３月10日芝延遼館</font>における興行でした。これは<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/天覧相撲" target="_self"><u>wikipedia</u></a>や今年5月に書かれた舞の海秀平さんの<a href="http://www.sankei.com/sports/news/140502/spo1405020042-n1.html" target="_self"><u>サンケイスポーツの記事</u></a>にもある通りです。<br><br>次に白鵬関が口にした<font color="#9370DB">断髪令</font>ですが、これはwikipedia<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/散髪脱刀令" target="_self"><u>断髪令</u></a>の項に書かれている通り、<font color="#9370DB">「散髪脱刀勝手たるべし」</font>つまり<font color="#9370DB">髷を切ろうが刀を差さなかろうが勝手にしてよい</font>、というのが主旨で、<font color="#9370DB">「髷を結ってはならない」「断髪しなければならない」</font>と言った法律ではありません。もっとも、<font color="#00BFFF">神仏分離令</font>が「<font color="#00BFFF">神仏習合を廃止し、神社に境内にある神宮寺などを分けて整理しなさい」</font>という本来の主旨からそれて<font color="#00BFFF">「寺と仏像をぶちこわせ」</font>と誤解されて伝わったように、「散髪しなければならない」と勘違いして伝わり、女子までが「散髪しなければ」とショートカットにした例が多く発生したため、東京府が「女子断髪禁止令」を出す程、庶民の勘違いは多かったんだとも思いますが。<br><br>要するに重要なのは断髪令は断髪を命じたものではないことです。つまり髷を残すために政治家が運動する必要はありません。<br><br>次に東京府知事の出した<font color="#9370DB">「裸体禁止令」</font>。こちらは断髪令と同時期に出されたものですが、違反者に罰金や鞭打ちの罰則が科されたので、大相撲に大きく影響を与えました。髷、刀、褌姿の飛脚、寺の境内にあった稲荷社。明治まで当たり前だった風景が次々と江戸から、いいえ東京から御一新の声とともに姿を消しました。「次に消えるのは相撲でしょ」と声があがるのは容易に想像出来ます。そうして実際に<font color="#FF1493">「相撲不要論」</font>が起こり、これが現実に大相撲の興行を廃止へ追い込む波を生んだそうです。<br><br>この危機に<font color="#9370DB">明治帝</font>と<font color="#9370DB">政治家</font>が力を合わせ、<font color="#FF1493">「天覧相撲」</font>を実現し<font color="#FF1493">相撲復権</font>（明治17年）となる訳です。問題はこの動きに<font color="#9370DB">大久保利通</font>が関わったのか。でも<font color="#9370DB">大久保</font>、西南戦争のあと、割と早い時期に紀尾井坂で<font color="#9370DB">暗殺</font>されてますよ？<br><br>ここまでを整理します。（カッコ内はグレゴリオ暦）<br><font color="#9370DB">明治4年8月9日（1871年9月23日）　断髪令　（大相撲に直接関係なし）<br>明治4年11月29日（1872年1月10日）　裸体禁止令<br></font>明治5年12月　太陽暦採用　明治5年12月3日になる筈だった日が明治6年1月1日に。<br><font color="#9370DB">明治11年（1878年）5月14日　大久保利通暗殺<br>明治17年（1884年）3月10日　天覧相撲<br></font><br><br>実は相撲不要論がいったいいつ頃起こったものか、年号を見つけることは出来ませんでした。しかし<font color="#9370DB">「大久保が相撲擁護のために活動した」</font>というのが真実であれば、その明治帝に奏上した手紙というのは<font color="#9370DB">明治11年</font>の<font color="#9370DB">大久保暗殺</font>以前でなければなりません。<br><br>さて、ここで天覧相撲の記録を見つけることが出来ました。有限会社四季というやーたらお相撲に詳しい会社がその記録をネットに公開しています。→<a href="http://www.e-shiki.jp/tenran.htm" target="_self">こちら</a><br>それによると明治帝はご在位の間に合計９回、相撲をご覧になっているそうです。その日付を上の年表にもう一度挟んでみましょう。<br><br><font color="#FF1493">慶応4年4月17日（1868年） 天覧相撲 坐摩神社（京都相撲）</font><br><font color="#9370DB">明治4年8月9日（1871年9月23日）　断髪令　</font>（大相撲に直接関係なし）<br><font color="#9370DB">明治4年11月29日（1872年1月10日）　裸体禁止令</font><br><font color="#FF1493">明治5年6月6日（1872年） 天覧相撲 大阪造幣局（大阪相撲）</font><br><font color="#9370DB">明治11年（1878年）5月14日　大久保利通暗殺</font><br><font color="#FF1493">明治14年（1881年）5月9日 天覧相撲 麻布島津公別館<br>明治17年（1884年）3月10日 天覧相撲 芝延遼館</font>（相撲復権の天覧試合）<br><font color="#999999">※慶応4年、明治5年の2回については開催日が旧暦、グレゴリオ暦のどっちかわからず</font><br><br>上記に示したように、<font color="#9370DB">大久保</font>の暗殺後３年経った明治14年に<font color="#9370DB">明治帝</font>は相撲をご覧になっています。しかし、その明治14年の天覧相撲が相撲復権に繋がったという記述にはまだ出会っていません。一方、明治17年の天覧相撲が相撲復権につながる非常に意義の大きな天覧相撲であったことは、前述のように複数のサイトで確認しています。つまり世にまき起こった<font color="#9370DB">「相撲不要論」とは明治14年と明治17年の間</font>と考えざるを得ません。そうなると<font color="#9370DB">明治11年に死んだ大久保の陛下に宛てて書いた手紙が大相撲の危機を救ったという言葉には疑問符をつけざるを得ない</font>訳ですよ。ね。<br><br>あ、これは白鵬関に文句言いたい訳じゃナイですよ全然。情報の裏をとらないで情報コピペするだけのマスコミに対する文句です。はい。</font>
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<link>https://ameblo.jp/mambo666888/entry-11956898445.html</link>
<pubDate>Tue, 25 Nov 2014 21:03:16 +0900</pubDate>
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<title>この国の伝統文化を遺してくれた天皇陛下にお礼を言いたいです（白鵬関32度目の優勝）</title>
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<![CDATA[ 今日、白鵬関が32度目の優勝を飾りました。<br>私は相撲ファンではないので偉業の大きさは正直分かりません。<br>けど好角家で知られるデーモン閣下のおかげで過去の優勝のインタビューをサンデースポーツで何度か見ました。そのときの白鵬関の落ち着きは覚えています。その過去の優勝に比べて、今日の優勝の彼の涙はひときわ印象に残りました。母国モンゴルの言葉で祖国の両親、知人、縁もゆかりもないけど異国で活躍する郷里の英雄としてただただ白鵬関を慕っているファンに向けての言葉がありました。そのなかで<font color="#9370DB">「TAIHOH」</font>という言葉だけがききとれた。全訳は夜のニュースで紹介されると期待しています。<br><br>ところで白鵬関のインタビューの中でもう一つ興味深いことが語られていた。<br><font color="#FF1493">「この国の伝統文化を遺してくれた天皇陛下にお礼を言いたいです」</font>と。<br>またこの言葉の前に<font color="#9370DB">「大久保利通」</font>と<font color="#9370DB">「断髪令」</font>についても触れていました。<br>指しているのは明治初期。開国して文明化を進めた明治政府が出した政策のなかに<font color="#9370DB">散髪脱刀令</font>があります。これは<font color="#9370DB">「髪を切りなさい。髷を落としなさい」</font>ではなく、<font color="#9370DB">「いままで髷を結い帯刀するのが常識でしたが、髷を切ろうが帯刀しなかろうが好きにしていいです」</font>という触れ書きです。<br><br>同時期、大相撲の興行に大きく関係する条例として、白鵬関のインタビューでは触れられていませんでしたが、東京府によって出された<font color="#9370DB">「裸体禁止令」</font>というのがあります。港や運河で褌一丁で荷を運ぶ江戸の庶民は異人さんの目には野蛮きわまりないと映ったみたいです。このときの東京府知事は徳川の幕臣から明治の政治家になった<font color="#9370DB">大久保一翁</font>（忠寛）という人でした。<font color="#666666">（江戸初期の「三河物語」で有名な大久保彦左衛門の子孫だと思っていたけど直接は繋がらないみたい。でも同じ三河大久保氏には違いないらしい。）</font><br>髷を切ろうが切るまいが好きにしてよいという<font color="#9370DB">断髪令</font>はともかく、この<font color="#9370DB">裸体禁止令</font>が大相撲にとっては大問題で、公衆の面前でまわし一本のおっさんが２人ガチンコで組み合う相撲も取り締まりの対象となったみたい。力士にとっては失職決定の条例だけに、素直に従う訳にはいかない。条例を知りながら大相撲の興行はやめなかったみたいです。ちなみにこの<font color="#9370DB">裸体禁止令</font>を守らなかった場合、棒で叩いたり罰金とられたりとかの罰則があったそうですが、一部力士は<font color="#9370DB">「罰則上等！」</font>の心構えで罰則に応じながら興行を続けたそうです。<br><br>しかし圧力に耐えられない力士も居る。次第に細り始めた大相撲を惜しんだ<font color="#FF1493">明治天皇</font>の依頼で<font color="#FF1493">伊藤博文</font>が動き、<font color="#FF1493">天覧相撲を企画する</font>（天皇のお墨付きを与える）ことによって”<font color="#9370DB">大相撲は例外とし興行は認める</font>”となったそうです。<br><br>ここで問題となるのは白鵬関の言葉。<font color="#9370DB">大久保利通</font>を敵とするか味方とするか。彼の言葉は明確ではなかったしもともと<font color="#FF1493">「正確ではないかも」</font>と前置きしてからの言葉でしたから彼を言及するつもりはないのですが。一部報道に対して気になったので、久しぶりにブログ書いてみました。<br><br><font color="#9370DB">断髪令</font>を出したのは明治４年、1871年。当時、議会議員制度はなかったので<font color="#9370DB">散髪脱刀令</font>は太政官、つまり選挙で選ばれた訳ではない雄藩出身の武家、有力公家などで構成されたいわゆる明治政府が出した。この<font color="#9370DB">太政官</font>（明治政府）に大久保は含まれる。また記録上、<font color="#9370DB">散髪脱刀令</font>後に初めて髷を落としたのは大久保らしい<font color="#666666">（木戸の断髪はこれに先んじてるらしいが断髪令より早かったらしい）</font>。だから白鵬関は、大久保利道は助けてくれた人としてではなく、どちらかといえば大相撲に対してマイナスの政策をした人として認識されるべきじゃないかしらと思うのだけど？<br><br>だから白鵬関のコメントの真意は<font color="#FF1493">「大久保利道の断髪令<font color="#666666">（と大久保一翁の裸体禁止令）</font>のおかげで大相撲が危機に瀕したが明治帝がそれを救ってくれた。伝統文化を守ってくれてありがとうございます」</font>と言うことになるのではないのかと思うのだけど。<br><br>でもネットのみなさんの意見<font color="#999999">（マスコミ報道ではなく）</font>をみていて驚いたのは、このとき内閣総理大臣杯授与のためにこの博多の会場に来ていた<font color="#FF1493">麻生太郎財務相</font><font color="#999999">（福岡県飯塚市が地元）</font>の<font color="#FF1493">高祖父</font>がそうだ！<font color="#FF1493">大久保利通</font>でしたわ！　<br>だから本当は<font color="#FF1493">「明治帝ありがとう」</font>とだけ言おうとしてたけど、麻生さんの姿を見て咄嗟に<font color="#FF1493">「あ、大久保利通も入れよう」</font>と思ったのだとしたら…すごい。スゴ過ぎる。<br>マスコミ！見習えよ！日本史常識、モンゴル人より足りてないぞ！<br><br>この辺りを掘ってくれないかなサンデースポーツ…と思っていたが何も突っ込んではくれなかった。モンゴル語コメントの全訳もないしさ。どうしてデーモン閣下を呼ばないんだもう。ぷんすか。
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<pubDate>Sun, 23 Nov 2014 21:09:59 +0900</pubDate>
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<title>壇ノ浦の戦後</title>
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<![CDATA[ <font color="#666666">壇ノ浦で平家が滅亡したあと、能登に流された時忠は配流先の能登で1189年に死んだと一般的には信じられている。けど、現在まで能登に伝わる時忠ご子孫の家の由緒書には、1204年没と書かれているのだそうです。<br><br>このお話を先月の「平家の里サミット」で伺って以来、時忠が死亡年月をねつ造する必要性があったのかが気になっています。<strong>時忠</strong>が<strong>義経</strong>の縁者であったことについてどれくらい本気でビビってたのか…。<br><br>これを検証するために、壇ノ浦後の<strong>義経</strong>、<strong>頼朝</strong>、<strong>ごっしー</strong>と<strong>秀衡</strong>の足跡を追ってみました。<br><br><font color="#9370DB">1185年3月　<strong>義経</strong>、壇ノ浦で勝利<br>1185年4月　都に凱旋し院御厩司に任官<br>1185年5月　鎌倉に下向するも<strong>頼朝</strong>と対面叶わず　（腰越状）<br></font><br>この辺りまでは、<strong>頼朝</strong>もちょっと腹立っただけで本気で<strong>義経</strong>を敵視していなかったんじゃ…と思う。だって本当に敵視していたら、<strong>後白河院</strong>や公家や、西国の兵力と結ぶ可能性を持たせて西国へ帰すべきではないよね。<br><br><font color="#9370DB">1185年8月　<strong>義経</strong>、伊予守、大夫尉を兼任<br>　　　　　　<strong>後白河法皇</strong>の南都御幸を供奉</font><br><br><strong>ごっしー</strong>と<strong>義経</strong>の密接な関係が鎌倉に報告されます。さすがに<strong>頼朝</strong>も”しまった！”と思ったでしょう。腰越状、ちゃんと読んでなかったのかな？私が読んでも反省してないの分かるよ？大江広元は読んだでしょうに。<font color="#99999">（あるいは泳がせて討つための口実を作らせた？）</font><br>ちなみに、この<strong>後白河院</strong>南都御幸は重衡が焼いた大仏の開眼供養のため。このときは八条院も経宗も<strong>ごっしー</strong>に同行したんだよね。<br><br><font color="#9370DB">1185年9月　梶原景季から行家の追討を迫られるも、体調不良を口実に辞退<br>1185年10月　<strong>義経</strong>、<strong>頼朝</strong>方に堀川邸を襲われる。<br>　　　　　　 翌日、<strong>義経</strong>は<strong>頼朝</strong>追討の院宣を<strong>ごっしー</strong>にねだってゲット。</font><br><br> …したはいいが、<strong>義経</strong>に従うもの集まらず。<br><strong>頼朝</strong>も鎌倉で御家人2098人に挙兵を呼びかけたものの、応じたのはわずか58人だったとか。<br>そりゃそうだ。ついこないだまで続いた戦乱がようやく終わったばっかで何でまた戦？しかもあんたら兄弟でしょ？そりゃ少々兄弟仲が悪いとは聞いてたけど院や周囲巻き込んで戦するかぁ？！なんでしょうね。京都も鎌倉もドン引き。周囲から理解されない兄弟喧嘩。ですわな、この時点では。ただ周囲がみんな「挙兵？」とキョトンとしてるこの９月に<strong>時忠</strong>はもう能登に下向決めてるんですよねぇ…。<br><br><font color="#9370DB">1185年10月　 頼朝ら、行家義経討伐のため鎌倉を出立<br>1185年11月　<strong>義経</strong>、都落ち。尼崎から西国へ向け舟に乗るも嵐に遭う。<br>　　　　　　 静御前、鎌倉方に捕縛。</font><br><br><strong>義経頼朝</strong>の関係悪化が無視出来ない状況になりました。<strong>頼朝</strong>追討の院宣を出して以来、京には”頼朝立腹”の報せが続々届きました。京に着いた鎌倉軍はずかずかと<strong>後白河院</strong>の領域へ踏み込み、<strong>ごっしー</strong>の知行国播磨では<strong>ごっしー</strong>の代官を追い出して蔵をキープ。財産権の所有を主張したらしい。実力行使に<strong>ごっしー</strong>とその近臣たちはビビりあがります。<br><br><font color="#9370DB">1185年11月　手のひらを返した<strong>ごっしー</strong>、<strong>義経</strong>追捕の院宣。</font><br><br>しかしこのあと、鎌倉から出された措置は<br><br><font color="#9370DB">・<strong>義経</strong>行家追捕を目的として、全国に「守護地頭」を設置</font><br><br>へーそうだったのか！<br>続いて<br><br><font color="#9370DB">・藤原摂関家三男兼実へ内覧宣下</font>（<strong>ごっしー</strong>は嫡男基通推し）<br><font color="#9370DB">・議奏公卿10名による朝廷運営<br>・親<strong>義経</strong>派公卿14名の解官</font><br><br>内容は人事への口出しばっかで、死罪や財産没収等はなし。<br>平治の乱では<strong>義朝</strong>信頼に錦の御旗がわりに拉致られ、<strong>清盛</strong>には平家の兵に取り囲まれ幽閉され、義仲には法住寺の御殿を丸焼きにされ…と、これまで波瀾万丈な半生を過ごした<strong>ごっしー</strong>としては、今度はどんな目に遭うのか？と戦々恐々だったのに…拍子抜け。（それでも毎度ギリギリまで攻めにいくごっしー、さすがです）<br><br><strong>頼朝</strong>は清盛より甘いと判断した<strong>ごっしー</strong>は、再び手のひらを返し鎌倉に仕掛けるようになります。<br><br><font color="#9370DB">1186年2月　熊野詣の費用を鎌倉にねだる<br>1186年3月　平家没官領ちょうだい♪とねだってゲット<br></font><br>これ自分の才覚でやってたんでしょか？<strong>ごっしー</strong>ってば、なんか策士すぎません？まずはお金をせびって相手の反応見るって、緊張関係にある相手に最初に仕掛ける一手としてはけっこう高度な技のように思うのですけど？？<strong>頼朝</strong>もお金ねだられたからって法皇を幽閉したり流したり、そんな器の小さい真似出来ないでしょう？ダメならNOで終わりなだけだし。<br>続いて<br><br><font color="#9370DB">1186年3月　昨11月解官された高階泰経の配流取り消しを求めて承認さす</font><br><br><strong>ごっしー</strong>、今度は人事に口出してみた。叶えられた。もう少し人事に口はさんでみよう。<br><br><font color="#9370DB">1186年4月-7月　内覧の任命、藤原摂関家領の差配について、そのイニシアチブを<strong>頼朝</strong>vs<strong>ごっしー</strong>で争う</font><br><br>昨11月に飲まされた人事ネタをもう一つひっくり返しに行きます。摂関家の人事権です。<strong>頼朝</strong>が兼実を、<strong>ごっしー</strong>が基実の遺児基通をかつぎ、藤原摂関家の氏長者の座をかけて代理戦争しました。保元の乱以前には忠通頼長兄弟の世襲問題は忠実が徹底的に口を出した。でもそれは摂関家内の問題であって他人にとやかく言われる筋合いのものじゃなかった。しかし、現役藤原氏長者の頼長が反逆者として死んだことから、頼長が所有してた荘園の所有権について他人から口出しされるようになったんだよね。忠通の子、基実が平家と結んだあと、急死したときにもその領地を誰の所有にするかを、遺児基通そっちのけで平家と基房、<strong>ごっしー</strong>で争ったり。この頃には藤原摂関家の世襲問題は、天皇家と同様、誰かの勢力争いのために利用されるものになってたんですな。<br>しかし、他人の世襲問題、財産問題で綱引きを仕掛ける手腕はさすがですすごいです、ごっしー。失敗しても自分に傷はつかないのに相手と自分の力関係はこの勝負の結果に関わってくる、うわーすごいわーテンション上がるわー。<br><br><strong>ごっしー</strong>が力だめしに挑んだ喧嘩の結果はイーブン。藤原氏は九条と近衛に分裂します。冬嗣以来、圧倒的権力で朝廷を牛耳って来た藤原摂関家の優位性は崩れ去りました。<br><br>一度は高圧的に京に脅しを掛けた頼朝がごっしーと引き分けるに至った理由としては、潜伏残党平家の反乱や、それまでの秩序がひっくり返った混乱に乗じた便乗強盗のようなものが世に横行したために、鎌倉はその鎮圧に追われて義経追討、ごっしー幽閉どころではなかった事情があるそうです。<br><br><font color="#9370DB">1186年4月-　吉野、熊野、比叡山、南都等、近畿各所で義経目撃の噂<br>　　　　　　 噂の場所に鎌倉方の捜索が入るも空振りといういたちごっこ続く</font><br><br>頼朝は派遣した兵が空振りした報せを聞くたびに、「吉野にいた」「いや伊勢に居た」というのは京貴族＆ごっしーの流したガセ情報だろうと地団駄踏んでたらしい。<br>この鎌倉を翻弄する動き、義経にも朝廷にも利があるけど、実際どれくらい連携してたんでしょう。この時期の義経がどれくらい本気で逃げていたのか。疲弊していたのか、あるいは京公卿や寺社の協力を得て悠々自適だったのか…。<br><br><font color="#9370DB">1186年閏7月　捕えられて鎌倉にいた静、義経の男児を出産。直ちに棄死。</font><br><br><strong>頼朝</strong>、せめてもの腹いせ？けどやっぱり捕まらない日々が続く。<br><br><font color="#9370DB">1186年11月　頼朝、京都側がこれ以上義経に味方するなら大軍を送ると恫喝</font><br><br>この辺りから、義経をどうやって捕まえたらいいか？とか義経が捕まるよう神頼みしよう！などが朝議の記録に現れるらしい。本気の話し合いか、鎌倉へのパフォーマンスか知らんけど。<br><br><font color="#9370DB">1187年1月　伊勢に神頼み<br>1187年3月　高野山に神頼み（本地垂迹の時代だからね）<br></font><br>とか。何じゃそら！と突っ込むべきか、なるほどと頷くべきか…。<br>ただこの1187年2月に義経が近畿から奥州へ向けて旅立ってることを見ると、この神頼みラッシュは鎌倉と朝廷の本気を示す行為と見るべきなんじゃろな…。<br><br>この頃になると<strong>ごっしー</strong>も<strong>義経</strong>を諦めたか、鎌倉に歩み寄るようになる。<br><br><font color="#9370DB">1187年6月　閑院内裏を幕府のおさいふで修理<br>1187年8月　洛中の治安維持協力を鎌倉に頼み、鎌倉から兵が上京<br></font><br>義経を奥州へ旅立たせたのはむしろごっしーに切り捨てられたことの方が要因かも知れない。とか思ったり…。<br><br><font color="#9370DB">1187年10月　藤原秀衡没</font><br><br>えっ！？もう？？早過ぎるよ！<br>義経を平泉に迎えてわずか１年経たないうちにファラオ秀衡は亡くなります。死に際に「義経を主君とし国衡、泰衡で結束せよ」とファラオは遺言したそうです。中尊寺金色堂に残る秀衡ミイラの検死結果は脳卒中だったらしいので、心の準備はあまり出来なかったんちゃうかなと思いますが。<br>ファラオの男子は記録にあるだけでも6人。そのうち秀衡があとを託した人物は２人。妾腹の長男国衡と、正妻の子で次男泰衡。行動力があり一門を背中で引っ張るたくましい国衡に対し、都育ちの公家の娘を母に持つ泰衡は血筋以外に褒めるとこない人みたい…？<br><br><font color="#9370DB">1188年2月　頼朝は義経が平泉にいると確証を得る<br>　　　　　　けど厄年だから頼朝、今年一年、戦はしない宣言。<br></font><br>えー！？厄年？この緊張状態で厄年だから戦しないって！　朝幕関係は安定してるから、西への憂いなく平泉に対峙できるかと思いきや、「厄年だから」ってのと「亡母のための五重塔建立予定だから」という理由で、頼朝てば1188年が明けるまで戦はしないんだってさ。<br>（久安三年（1147年）生の頼朝、1188年は数えで42歳。確かに男の大厄ですわ。この時代から厄年てあるのねー。うわーうわー。）<br>しかし代替わり直後の1188年、この一年大事だよ？下手すりゃこのモラトリアム期間１年て、敵の防御力をあげさせる猶予期間になったかも知れないよ？まあ結果オーライだけど。<br><br>死に際の秀衡が「義経を主君とし国衡、泰衡で結束せよ」と三人に起請文を書かせたのも、それを書かせずには死ねない程、国衡・泰衡の仲が良さそうに見えなかったから。頼朝はそれを知ってたのか。鎌倉から動くことなく手紙で揺さぶったらしい。<br><br>奥州藤原氏の４代目当主となった泰衡は、父秀衡の遺命を破り鎌倉に屈しました。<br><br><font color="#9370DB">1189年閏4月　義経、泰衡の兵500騎に追いつめられ衣川にて自刃。<br></font><br>頼朝、秀衡、ごっしーの足跡をwikiで追う限り、時忠が死んだフリをしなきゃいけない事項が、ここまで見当たりません…。<br><br>が、あった。これだ。たぶんこれだ。義経というか比叡山の足跡にそれがある。自刃に先立つこと４ヶ月。<br><br><font color="#9370DB">1189年1月　義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まる</font><br><br>これ、平泉の人間が捕まったんじゃないんですよ。比叡山の僧が捕まったんですよ。孤立無援の平泉が一方的に都に手紙を送ったんじゃないんですよ。義経と連絡とるために都周辺から奥州へ人が行き来しとったっちゅーことなんですよ。<br>秀衡が死んで、都では義経を見切った人がいたのは確かでしょう。でも見捨ててない人が居た。「G」じゃないけどこういうのは１人見つかったら他にも味方がいると思っていい。<br><br>もちろんそこに時忠が含まれるかどうか分からない。でももしも時忠が連絡を取っていたとしたら？泰衡が義経を鎌倉に売ろうとしているこの切羽詰まった状況で、義経が「平泉を出たい」とSOSを出した時、時忠がとるべき作戦は？<br><br>「分かった。能登へ迎える準備をする。そのためにまず。死んだフリ」<br><br>でいいんじゃないですか？<br><br><font color="#9370DB">1187年10月　秀衡死去</font><br><font color="#9370DB">1188年2月　頼朝、厄年だから１年、戦争しない宣言</font><br><font color="#EE82EE">1188年暮れ　平泉では来年に向けてムード険悪化（義経焦る）</font><br><font color="#9370DB">1189年1月　義経比叡山に逃亡の相談</font><br><font color="#9370DB">1189年2月　泰衡、親義経派の異母弟頼衡を殺害</font><br><font color="#9370DB">1189年2月　泰衡、義経を召進する意思を鎌倉に伝える</font><br><font color="#EE82EE">1189年3月　義経の平泉脱出計画を時忠が察知<br>　　　　　　先月24日付の死亡届を都に出すとともに義経受け入れ準備<br>1189年4月　泰衡の態度、更に硬化（義経、平泉を脱出できず）</font><br><font color="#9370DB">1189年閏4月　義経自刃</font><br><br>という筋書きを書いてみた。<br><font color="#EE82EE">ピンク文字</font>が私の想像です。<br>こないだ、時忠が死んだフリをすることにした切っ掛けは「1187年、京都から平泉へ下る義経と連絡を取った」だと思ったけど、タイミング的には「1189年、平泉から逃げる先を探す義経を能登へ迎えることになり、鎌倉の目をくらます必要ができたから」のがシックリ来ます。<br>wikipediaにも書かれてる程度の事実（<font color="#9370DB">むらさき文字</font>）の間に無理なくおさまらない？ど？<br><br>それとも、どうしても都に帰りたくなって死んだフリしてこっそり帰ろうと思った？<br>壇ノ浦後流された人は、高階泰経とか息子の時実にしても死んだフリなんかしなくても都帰ってるよ？<br>どっちがシックリ来る？<br><br>もちろん想像ですけどね。<br>時忠が能登に下ってからも義経と連絡を取っていた事実を見聞きしたことは今んとこないですし。<br>けど時忠が完璧に証拠消してたらあり得ない話じゃない。<br>じゃない？<br><br></font>
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<pubDate>Mon, 07 Oct 2013 21:00:00 +0900</pubDate>
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<title>平家の里サミット＠輪島　時忠と義経ゆかりの地めぐり（３）【時忠墓と則貞家】</title>
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<![CDATA[ <font color="#666666">上時国家でお話を伺った後、則貞の時忠墓へ。<br><br>時國家、上時国家は、壇ノ浦合戦後のドタバタも終わって時忠の血筋が問題視されなくなってから建てられた家。輪島市街からは離れていますが、川沿いの比較的拓けた土地に建っており、平和な空気を感じられます。しかし時忠が最初に家を建てて住んだというこの地は、さらに車で20分。川沿いではありますがかなり奥地です。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20131011/00/mambo666888/a2/0c/p/o0274021912712080375.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20131011/00/mambo666888/a2/0c/p/t02200176_0274021912712080375.png" alt="$MamBOのブログ-則貞家マップ" width="220" height="176" border="0"></a></div><br>信号も民家も街灯もない道路を登ると平家の郷のモニュメントが。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/a3/da/j/o0800059712685317880.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/a3/da/j/t02200164_0800059712685317880.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="164" border="0"></a></div><br>わきにはバス停。バス停の名前が則貞です。<br><font color="#999999">車で来られる方はここに駐車できます。無料です。</font><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/36/32/j/o0800107112685328161.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/36/32/j/t02200295_0800107112685328161.jpg" alt="MamBOのブログ-則貞バス停" width="220" height="295" border="0"></a></div><br>ここから階段で谷を降りると時忠の墓とその墓を守り暮らす則貞家が。今回は足下が悪いと言うことで特別にマイクロバスのまま、下まで連れてって下さいました。（大納言の間に続き、特別扱い…）<br>おうちのまえには赤いのぼりが。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/3e/5d/j/o0800059712685321365.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/3e/5d/j/t02200164_0800059712685321365.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="164" border="0"></a></div><div align="center">赤い旗みてテンション上がるって。お前は共産党か！</div><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/21/09/j/o0800059812685321366.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/21/09/j/t02200164_0800059812685321366.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="164" border="0"></a></div><div align="center">おうちに揚羽蝶紋だよ！</div><br>その少し先に時忠一門のお墓があります。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130929/10/mambo666888/8d/49/j/o0800080012699481450.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130929/10/mambo666888/8d/49/j/t02200220_0800080012699481450.jpg" alt="MamBOのブログ-時忠墓5" width="220" height="220" border="0"></a></div><div align="center">石碑には「時忠卿甲子年卯月二十四日 御逝去」と。<br>甲子年、つまり1204年です。</div><br>普段は門で閉じられているという垣根の内側に入れて頂きました。（何から何まで特別扱い…すみません…）<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/f2/fb/j/o0800059812685328160.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/f2/fb/j/t02200164_0800059812685328160.jpg" alt="MamBOのブログ-時忠墓2" width="220" height="164" border="0"></a></div><br>時忠と時国以下ご子孫のお墓です。ただ石で作った五輪塔は鎌倉期にはなかなかないものであるのと、崖崩れのあとが見られることから、これは後世（室町初期）に作ったものと考えるのが妥当なのだとか。上時国家のご当主は、<font color="#00BFFF">「1189年、時忠は京にニセの死亡届を出すと同時に則貞の屋敷横にダミーのお墓を作った。そのあと古屋の隠れ屋敷で15年生き長らえ、1204年に没したとき古屋の屋敷に本墓を作ったのではないか？」</font>と話しておいででした。今日は連れて行って頂けませんでしたが、この則貞の地とは別の”古屋”と呼ばれる場所に大納言墓と呼ばれるものがあるのだそうです。<br><br>ここでは則貞家ご当主が法被を着て迎えて下さいました。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/74/6e/j/o0800107112685317881.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/74/6e/j/t02200295_0800107112685317881.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="295" border="0"></a></div><div align="center">赤い揚羽蝶紋…このはっぴ欲しひ…</div><br>おうちの裏手には田んぼがあり、そこでは古代米を育てているとのこと。そしてこの日はその田んぼで穫れた古代米を使ったおにぎりを参加者みんなにお土産として持たせて下さいました。ご当主と奥様かな？ご近所さんかな？数人でご用意してくださった手作りのおにぎり。これを頂いた時、嬉しくて涙出そうでした（というかバスに乗ってからこっそり泣いてました私）。<br><br>実は今日の予定表では、この直後がお昼ご飯なんです。頂いてもいま食べる訳にはいきません。結局お持ち帰りになります。9月8日、残暑真っ最中です。則貞さんちのみなさんに調理師免許がある訳でなし、食中毒でも…と思ったら主催者側としてはお断りした筈です。実際、能登観光協会さんの言葉からは「そのあとすぐ食事ですから」「じゃあ持ち帰れるようにします」「でも食中毒でも起こると問題ですから」「いえいえ気をつけますから是非」という今日までになされた押し問答が伺えました。そしておにぎりは配られた。<br>一見の私はおいといて、今日のゲストさんは全国の平家に所縁の地から集まった方々。そんな人たちが能登を訪れたことをみなさん、本当に喜んでらっしゃるんだなぁ…絶対おもてなししなきゃって思わはったんだなあ…と思ったらなんか。思いが大きくて…。<br><br>平家と言えば「おごれるものも久しからず」。しかも時忠ときたら「平家にあらずんば人にあらず」の傲慢なヤツが世間の認識ですから。明治期の会津人が逆臣の汚名に耐えたように、愛知吉良町が吉良上野介大悪人の評判に耐えたように、能登の人たちも肩身の狭い思いをしていた所があったのかも知れません。それでも時忠を恥として恨んだりすることなく、忘れてしまうことなく、逆に大納言の重みを誇りにして800年を過ごして来た。<br>そりゃ京都や加賀金沢の人たちからしたら、奥能登のドへき地かもしれないけど、うちの先祖は大納言なんだぞっていう声には出さないプライドと思い入れを、おにぎりと一緒に頂いた気がしました。<br><br>そんな平家サミットの中に、今日は私も入れて頂けたんだなぁと思ったら。申し訳なくて有り難くて思いの大きさに押しつぶされそうです…嬉しい。<br><br><br>能登の人たちが語り伝えてることも、能登以外の平家の里が語り伝えてる伝説も、中央の歴史学者からしたら、史書の裏付けを伴わない、くだらない妄想なのかも知れません。正直、長崎宇久島の家盛伝説なんかは私も「へ？なぜ家盛が五島列島に？」と思います。<br>でも私も分かるんだよな。そういう、書物として書かれることもなく父や祖父から口伝のみで地元に伝わった話を、まっすぐ信じて誇りに思う気持ち。<br>私の実家にも戦国時代の合戦にまつわる多くの伝承が伝わっています。うちの場合は教科書にも載っている有名な合戦なので合戦の事実を否定する学者はいないはずですが、教科書記載の事実以外の伝承についてはまあ…ヤバい（笑）。（勝頼が合戦の前夜××な夢を見た…とかね）<br>けど稲刈りの合間に父から聞いた三枝兄弟の話や、学校帰りに小２のクラスメイトから聞いた馬場美濃のカッコいい最期こそ、私は後世に伝えたい。授業で習った教科書の知識より、親から聞いた伝承・伝説を、見て来た様な顔で自慢げに語りたい。<br>勝頼の夢も馬場美濃の最期も事実証明できないけどね。<br><br><br><br>歴史学者も異論なしで認める京都の白河北殿や本能寺の跡地なんかで、地元の誰から思い入れを持って語られることもなくポツンと石碑だけが立ってたりするの見ることあるじゃないですか。ひどいときはゴミ集積所で生ゴミに埋もれてたり…。そういうの見ると、歴史学者による事実認定なんかより、地元の人たちが敬意と誇りを持って800年語り伝えた事実の方がなんかスゴいんじゃないかって…。<br>能登からの帰り道、則貞さんから頂いたおにぎりを食べながら、ちょっとそんなことを思った。<br><br><br>「事実は一つ　真実なんて人の数ほどある妄想!」<br>なんて某バンドは歌ってますけど、その人が真剣に信じてたらそれは真実。<br>他人が妄想だと思おうがその人にとっては真実。<br>逆に教科書が事実だと言おうが、信じて心に留める人がいなけりゃそこには妄想すらない。<br><br>そんなことを思った時忠能登配流記念日の９月２３日でした。<br><br><br><br><br>あ、でも時忠の没年に関してはちょっとマジですよ？<br><br>時忠が人生の晩年を能登でどう過ごしたのか？<br>義経は能登へ来たのか？<br>時忠は義経を助けたのか？<br>時忠は自分の没年を偽ったのか？<br><br>もちろんこれらを証明出来るだけの記録はない。<br>でも記録がないことは、事実がないことの根拠にはならない。<br>よね？<br><br></font>
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<pubDate>Mon, 23 Sep 2013 02:58:01 +0900</pubDate>
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<title>平家の里サミット＠輪島　時忠と義経ゆかりの地めぐり（２）【上時国家ご当主のお話】</title>
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<![CDATA[ 上時国家のご当主から、配流当時の時忠に関する興味深いお話を伺いましたのでご紹介したいと思います。<br><br><font color="#666666">時忠は元暦二年（1185）9月23日に配流先の能登へ下向しました。wikiの記述をみても、このとき上総に流罪宣告されつつも義経にひっついて大物から吉野をうろうろしていた長男時実以外、時忠の身内に死罪とされたり京都追放となった人はありません。邸も一度は没収されたもののあとで返還されています。宗盛、重衡が続けて斬首されたり、宗盛の幼い子供たちが続々処刑されたのとは対照的です。（しれっと都へ帰る余地がみてとれます）<br><br>ともかく能登についた時忠は地元の女性との間に男子を２人設けたそうです<font color="#99999">（大治五年（1130年）生まれの時忠、このとき55歳。元気だね）</font>。長子が時国。後に2家に分かれた時國家、上時国家のご先祖です。また次子が時康。現代まで代々時忠の墓守をしてきたという則貞家のご先祖です<font color="#999999">（ようやく時國さん、上時国さん、則貞さんたちの系譜が分かりました）</font>。能登についた当初、時忠は身請け人の豪族屋敷に暮らしたそうです。子を生したとはいえ、自分はこの地では客人。このときはまだ都に帰るつもりだったのだろう、とご当主はおっしゃいます。<br><br>しかし時忠はその後、能登に自分の屋敷を建てた。それは現在の珠洲市大谷町則貞。今日このあと見学に行く時忠の墓があるところであり、則貞家がついこないだまで暮らしていた地です。また更に奥地の古屋と呼ばれる場所に隠れ家も作ったと言います。<br><br>きっかけは義経の奥州落ち。文治三年（1187年）、壇ノ浦から二年後に義経は奥州平泉へ落ちていきました。義経はこの時、縁者である時忠を頼って能登へ来たという伝説がいまも能登には残っています。それは能登への逼塞を予定したものか、奥州への逃亡を助けてもらうためか。そもそも能登へ来たことは公式認定されてるのかしら<font color="#99999">（歴史学者は義経が能登へ来たこと自体怪しいと言うのでは？知らんけど。）</font>。<br><br>今回、私が上時国ご当主のお話のなかで最も面白いと思ったのが、時忠の死亡日時についてです。<br>wikipediaなどに書かれている時忠の死亡日時は文治５年２月２４日。これは『吾妻鏡』の<strong>「前大納言平時忠卿。去月廿四日未の剋、能登国の配所において薨ずるの由、今日関東より達す。」</strong>がもとになるのだと思います。吾妻鏡と言えば、九条兼実の『玉葉』と並んで、平安末期・鎌倉初期の正史を作る根拠となってる文献です。少々美化されたり盛られてる内容はあるにせよ、基本的にはこれは信用すべき側の情報です。だから歴史学者100人に訊いたら100人が「時忠は1189年に死んだ」と答えるのだと思います。しかし、時国家と則貞家に一通ずつ伝わる由緒書、二通ともに<strong><font color="#EE82EE">「時忠は元久元年(1204年)4月24日に没した」</font></strong>とあるのだそうです。大治五年1130年生まれの時忠は元久元年（1204年）には74歳。あり得ない年齢じゃありません。<br><br>この二つの矛盾する没年について、上時国家ご当主は<font color="#00BFFF">「時忠の用心深い性格の所為か、誰かの入れ知恵か、時忠は中央政府へは死んだと虚偽の報告をした」</font>とおっしゃいます。<font color="#00BFFF">「義経が能登経由で奥州逃亡を遂げたことを知る。赦免で都に戻っても義経逃亡を助けた嫌疑で処刑されると思った」</font>のではないかと。<br><br>義経が能登へ来たのかどうか、時忠を頼ったかどうかはおそらく分かっていません。おそらく歴史学者の間にもそうした解釈はないのでは？と思います。しかし、文治５年（1189年）上旬といえば、奥州平泉へ逃れた義経を差し出せと言ってた頼朝が、軍の派遣を講じ始めた時期。鎌倉兵に追いつめられた義経が衣川で自刃したのはその年の閏４月です。その前年から頼朝は義経の逃亡を助けた都の人間を次々解官しています。義経に味方した人間のうち、官職を解きようのない比叡山や南都の僧たちには執拗に身柄の引き渡しを要求しました。そうした親・義経派の動きを封じ込める鎌倉方の動きが次々と耳に入ってくる頃、本当に時忠が義経の潜伏や逃亡を密接に助けていた事実があったとしたら？？義経の舟隠しや須須神社の言い伝えの通り、義経が能登へ来て、それを時忠が差配していたのだとしたら？<br><br>ご当主の仰ること、あり得ると私は思いました。<br><br>ただその場合、時忠に虚偽の申告をさせるきっかけはご当主の仰る<font color="#00BFFF">「義経が能登経由で奥州逃亡を遂げたことを知った」</font>からでは足りないと考えます。<font color="#9370DB">『時忠が積極的に義経の逃亡（潜伏）に関わったから』</font>（＝心当たりがあったから）、あるいは<font color="#9370DB">『近畿一円で義経の逃亡・潜伏に関与した人物が惨い殺され方をした（あるいは兵を向けられた）という誤情報を得たから』</font>（＝心当たりはないけど、鎌倉は義経が頼りそうな人間を事実の有無に関わらず、手当たり次第に殺して回ってると思ったから）くらいが相当かと。<br><br>素人がネットで検索する限り、当時、鎌倉方から親義経派へ出された沙汰は逮捕か解官くらいで、一家皆殺しのような例は見かけません。残されている情報を後から見る限りではそこまであせる必要はないように思うのです。<br><br>しかし我々が持っている情報と当時の時忠が持っていた情報が同じである保証はありません。義経の逃亡を幇助したとして解官・逮捕された人たちが実際どれだけのことをしたかは、素人の私には想像できない。でも時忠なら名前を聞いただけでどのくらい義経に尽くしたかは想像できたんじゃないでしょうか。幇助の噂の真偽も含めて。<br>時忠から見て「あいつなら確かに義経を匿いそうだ」あるいは「絶対逃亡を助けているはず」もしくは「義経、いまうちにいるけど来月そっちに送ります、って先日うちに手紙きてたじゃん！」みたいな人物が逮捕＆斬首された…なんて偽情報つかまされたら？<br><br>するでしょう！？死んだフリ。<br><br>もちろんね。大学で歴史を学んだ人なら一笑に付す内容なのかもしれません。でもそんな危険な状況で本当に時忠が義経の逃亡を助けた事実があったなら、時忠は逃亡幇助の証拠を消せる限り徹底的に消したでしょう。それこそ800年後の歴史学者が見つけられない程度には。<br>でも記録上の証拠を消すことができても、人の噂は消しきれない。２年前の事実に関する噂をあとから消すことがもう無理だと判断したのであれば…。<br><br>するでしょう！？必殺・死んだフリ！<br><br>死亡届を京に提出し、自らは古屋の隠れ家へ引っ込んで、村人にも見つからないようにひっそり暮らす。高橋先生のいうように時忠が優秀な軍師であればそんな策をとった可能性もゼロではないと考えます。<br><br>平大納言時忠卿とは、姉と妹のラッキーな婚姻にのっかって甘い汁を吸った、脇の甘い、器の小さい人間だったのか。それとも、昨日の磯Pの講演にあったような、身内や周囲の能力財力を最大限に活かして世の中を動かしていける非常に頭のいい軍師だったのか。<br><br>教科書に触れられない歴史の空白。<br>想像するだけでワクワクする。<br>久しぶりにテンションあがりました。<br><br>ご当主のお話は本当に印象的でした。<br><br>（平家の里サミット、視察遠足。まだまだ続きます）<br><br></font>
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<pubDate>Fri, 20 Sep 2013 22:20:41 +0900</pubDate>
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<title>平家の里サミット＠輪島　時忠と義経ゆかりの地めぐり（１）</title>
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<![CDATA[ <font color="#666666">サミット２日目は、「視察」と名付けられた遠足でした。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130922/11/mambo666888/04/31/j/o0793056812691919906.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130922/11/mambo666888/04/31/j/t02200158_0793056812691919906.jpg" alt="MamBOのブログ-平家視察ルート" width="220" height="158" border="0"></a></div><br><div align="center"><font color="#999999">輪島発→白米千枚田→義経舟隠し→時國家→上時国家→時忠墓→昼食→須須神社→輪島</font></div><br>というスケジュール、マイクロバス２台に分乗して至れり尽くせりのバス旅行でした。輪島市観光協会全面プロデュースで時忠・義経ゆかりの地を巡ります。<br>その前に、昨日から私のなかでもやもやしてるハテナについて、まとめ。<br><br><font size="3"><font color="#9370DB">◎能登と義経</font></font><br>どうもこの地域では、壇ノ浦のあと頼朝に疎まれた義経が奥州に下るとき、能登に立ち寄ったことになってるみたいですね。確かに北陸道で安宅関までは来ただろうから、能登半島から舟って作戦がないではない。もちろん北陸道から海岸沿いを富山新潟経由でもいいわけですが、そこは確かに知らないな。現場みて話聞きたいな。確からしい話なのかな。<br><br><font size="3"><font color="#9370DB">◎能登と時忠</font></font><br>今更ですが、この能登の地が平家の郷である理由は、「壇ノ浦で流罪となった時忠が流された地」であり、今もなお、時忠の子孫がこの地にお住まいだからです。<br>しかし時忠といえば九条兼実の弟、慈円をして<strong>「賢しき事のみして、度々流されなんどしたりし者」</strong>と言わしめた人物。一度や二度流されたって、裏から工作してその都度帰ってきた人です。いつもの様に「女も食い物もなかなかであった」とか言って、しれっと帰っても良かったんです。壇ノ浦の後、長男時実は上総に流されましたがのちに赦されて都に帰ったよ？何で時忠は帰らなかったの？<br>あのしぶとい時忠が帰らなかったからこそ、能登と時忠の縁は800年続いたわけですが。<br><br><font size="3"><font color="#9370DB">◎時国って誰？</font></font><br>時忠には複数の子がありました。壇ノ浦後、上総へ流罪となった長男時実や、時忠と折り合いが悪く、治承三年のクーデターで上総へ流罪となったあと頼朝の忠臣となった次男時家などが居るそうですが、５番目の男子が時国。そして時国の子孫が時忠の墓を守りながらこの能登の地に土着しました。<br>で、時国の子孫であるという上時国家と時國家って？<br>そして昨日の文化会館のサミット講演からちょいちょい名前の出てくる則貞さんて？？<br><br>このハテナが今日の遠足でスッキリするといいな。<br>と思いつつ、昨日の会場だった輪島市文化会館からマイクロバスで出発ー♪<br><br><font color="#FF1493"><font size="3">【時國家と上時国家】</font></font><br>輪島市街から車で20分ほどで着きました。まずは海に近い<font color="#FF1493">時國家</font>。<br><br>観光地として解放されている時國家はいまからおよそ300年前、元禄期に建てられた茅葺き屋根の立派な古民家。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/2d/60/j/o0800059712685321362.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/2d/60/j/t02200164_0800059712685321362.jpg" alt="$MamBOのブログ-時国家" width="220" height="164" border="0"></a></div><br><div align="center"><font color="#999999">時國家</font></div><br>「平家の里サミットのみなさん相手なんて緊張しますーー」とおっしゃるスタッフさんに、とても丁寧なご説明を頂きました。建物などの詳細については<a href="http://www.tokikunike.com/index.htm" target="_self">公式HP</a>が詳しいのですが、奥能登の古民家の水屋にしれっと輪島塗のお膳セットがあったり、棚の道具箱に揚羽蝶の紋があったりすると、さすがに三歩下がって拝みたくなる気持ちです。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/02/1e/j/o0800059712685314840.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/02/1e/j/t02200164_0800059712685314840.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="164" border="0"></a></div><br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/e2/c8/j/o0800059712685321367.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/e2/c8/j/t02200164_0800059712685321367.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="164" border="0"></a></div><br><br>また下関の赤間神宮から分社した安徳天皇社に絵馬も奉納させて頂いたり。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/ac/53/j/o0800107112685314843.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/ac/53/j/t02200295_0800107112685314843.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="295" border="0"></a></div><br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/76/a3/j/o0800107112685314837.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/76/a3/j/t02200295_0800107112685314837.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="295" border="0"></a></div><br>駐車場では小雨振る中、スタッフ総出でお見送りいただきました。<br><br><br>続いてそのすぐ隣にある<font color="#FF1493">上時国家</font>へ。２５代目のご当主にお出迎え頂き、丁寧な説明を伺いました。<br>上時国家の建物は屋根が修復中で全容は観られず写真も撮っていませんが、こちらは約180年前の江戸化政期の民家です<font color="#999999">（と呼ぶには贅沢に過ぎますが）</font>。<br>公式HPは<a href="http://www.geocities.jp/kamitokikunike/" target="_self">こちら</a>。有名なのは表方の使者を迎える大納言の間。ロープがかかってるところをお部屋にあげて頂きました。この大納言の間には、加賀藩主前田斉泰にまつわる有名な逸話があるそうです。部屋の格式が大納言であるのに対し、上時国家を訪れた藩主斉泰が「私は中納言だからこの部屋は入れないよ」と大納言の間を立てた冗談を言ってくれたんだとか。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/b1/db/j/o0800059712685317878.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/11/mambo666888/b1/db/j/t02200164_0800059712685317878.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="164" border="0"></a></div><br><div align="center"><font color="#999999">これが大納言の間の欄間</font></div><br>上時国家の人たちはこの斉泰の言葉を誇りに思い、また地元の人たちも「斉泰公が入れない部屋に私たちなんか…」と敬意を示し、ながく軽々に入ってはいけない部屋となっていたみたいです。<br><br>あとでバスに乗ってからの、輪島市観光協会の方と輪島市内から参加されてる方の会話。<br>「今日はスゴかったね」「大納言の間、解放しましたね！」「私、初めてあの部屋上がりましたよォ？」「さすが平家の里サミットっ！」<br>…って、え？平成の世に入っても大納言の間、立ててたの？なのにお部屋上げてくれたの？<br>スペシャルなおもてなしを頂いてたようですね。平家と無関係の一見サンな私としては過分に過ぎます…（ひたすら恐縮）<br><br>そうだ、それからこの展示物を紹介しなくては。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130929/10/mambo666888/40/10/j/o0800090212699484845.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130929/10/mambo666888/40/10/j/t02200248_0800090212699484845.jpg" alt="$MamBOのブログ-双六盤" width="220" height="248" border="0"></a></div><br>双六盤が展示されていました。つい残り少ない電池を使って写真撮りましたv。<br><br>一通りの建物＆展示のご説明を伺った後、時国家の系譜に関わる非常に興味深い話を伺いました。<br><br>（長いので次回）</font>
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<link>https://ameblo.jp/mambo666888/entry-11614673965.html</link>
<pubDate>Mon, 16 Sep 2013 02:29:23 +0900</pubDate>
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<title>平家の里サミット＠輪島　初日・補足</title>
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<![CDATA[ <font color="#666666">磯Pの講演後は、サミットという形式に則り、各地での取り組みを代表者が紹介。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/03/mambo666888/d5/81/j/o0800059712685059106.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/03/mambo666888/d5/81/j/t02200164_0800059712685059106.jpg" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="164" border="0"></a></div><br><div align="center">取組発表者はこんな地域のかた。</div><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/03/mambo666888/4a/5f/j/o0800058212685059455.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/03/mambo666888/4a/5f/j/t02200160_0800058212685059455.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="160" border="0"></a></div><div align="center">小矢部市の発表資料。<br>資料のポンチ絵の作り方がガチで霞ヶ関役人の予算獲得プレゼンみたいでした。<br><font color="#999999">でも平家サミット来て義仲をよろしくって。<br>あんたらのせいで平家は都落ちしたんだよ…。<br>署名だけ得られればいいってのか…？</font></div><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/03/mambo666888/2c/12/j/o0800064012685055342.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/03/mambo666888/2c/12/j/t02200176_0800064012685055342.jpg" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="176" border="0"></a></div><br><div align="center">第３部　薩摩琵琶演奏　古澤史水さん　<br>壇ノ浦を語ってくださいました。張りがあっていいお声でした。</div><br><br>あとは会場の様子だけ、写真でちょこっと紹介しますね。<br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/11/a4/j/o0800059712685019482.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/11/a4/j/t02200164_0800059712685019482.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="164" border="0"></a></div><br><div align="center"><font color="#666666"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/96/7d/j/o0800059812685018632.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/96/7d/j/t02200164_0800059812685018632.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="164" border="0"></a></font></div><br><div align="center">どどーんと清盛ポスター</div><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/d8/0d/j/o0800059712685018630.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/d8/0d/j/t02200164_0800059712685018630.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="164" border="0"></a></div><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/d8/0d/j/o0800059712685018630.jpg"><br><div align="center"><font color="#666666">本日のプログラム（ピンボケ…）</font></div><br></a><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/d8/0d/j/o0800059712685018630.jpg"></a><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/ac/cc/j/o0800107112685019483.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/ac/cc/j/t02200295_0800107112685019483.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="295" border="0"></a></div><br><div align="center">高知県越知といえば昨年10月「瀬戸内海　清盛500キロクルーズ」という番組内で宗盛こと石黒英雄さんが訪れたところ。何故か蝶が石黒さんの周りをとんで離れなかったんですよね。。</div><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/76/24/j/o0800107112685019486.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/76/24/j/t02200295_0800107112685019486.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="295" border="0"></a></div><br><div align="center"><font color="#666666"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/71/f6/j/o0800059712685018631.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/71/f6/j/t02200164_0800059712685018631.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="164" border="0"></a></font></div><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/dc/af/j/o0800059712685018629.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/dc/af/j/t02200164_0800059712685018629.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="164" border="0"></a></div><br><div align="center">全国平家の里ののぼりや旗</div><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/99/c6/j/o0800107112685019485.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/99/c6/j/t02200295_0800107112685019485.jpg" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="295" border="0"></a></div><br><div align="center"><a href="http://www.vill.shiiba.miyazaki.jp/cms/index.php?itemid=806" target="_blank">宮崎県椎葉村の平家まつり</a>ポスター。<br>今年は11月8日-10日の3日間だそうです。</div><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/1d/81/j/o0800059712685019487.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130916/01/mambo666888/1d/81/j/t02200164_0800059712685019487.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="164" border="0"></a></div><br><div align="center">富山県小矢部の大河招致PR。<br>署名を募っていましたよ。<br>せめて実盛のヨイショくらいして欲しかったよネー</div></font>
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<link>https://ameblo.jp/mambo666888/entry-11613791060.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Sep 2013 21:27:54 +0900</pubDate>
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<title>平家の里サミット＠輪島　磯Ｐの基調講演（３）</title>
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<![CDATA[ <font color="#666666"><font color="#FF1493">「えー、あと３０分ほど時間がありますが、ここからは少し大河の裏話をお話ししたいと思います。」</font><br>ということでクラスタ的にオイシイ大河裏トークへ。<br><font color="#CCCCCC">（筆者注；しかしこの裏トーク、資料写真が磯Pにしか撮り得ないロケ風景のオンパレードなのです。みなさんご覧になりたい画像でしょうが当然再現はできず…。ほとんどが拙文での説明となりますごめんなさい…）<br></font><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130913/09/mambo666888/dd/bc/j/o0240019212681822142.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130913/09/mambo666888/dd/bc/j/t02200176_0240019212681822142.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="176" border="0"></a></div><br><font color="#FF1493">「ロケは岩手のえさし藤原の郷で行いました。ここは普段、観光客も入れるところでセットも綺麗なんですけど、実際、清盛の時代には京都の街はもう荒廃してしまって、ここまで綺麗ではなかったはずなんで…」<br></font><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130913/20/mambo666888/b3/2d/j/o0276018312682347495.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130913/20/mambo666888/b3/2d/j/t02200146_0276018312682347495.jpg" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="146" border="0"></a></div><br><font color="#FF1493"><strong><font size="6">「汚しをかけました。」</font></strong></font><br>出ました清盛専門用語！萌え…♪　<br><font color="#999999">画像資料では他に”破れ門”のデザイン画や埃まみれの都大路の写真もありました。</font><br><br><div align="center"><font color="#999999">【呉ロケ風景「大型和船とスタッフさん」】</font></div><br><font color="#FF1493">「ここしばらく大河は、陸の映像は江刺で、海の映像は大船渡でロケをするというのが恒例だったんですが、清盛のときにはご存知のように大船渡が震災の影響でまったく使えませんでしたので、舟のシーンは呉で撮影しました。この撮影を呉でやろうということになった理由は簡単です。３６０度見渡して近代の建物が一つもないんです。最近はCGで何でも出来てもちろん消せるんですけど、やはり手間を考えたら少ない方がいいんですね。」</font><br><br><div align="center"><font color="#999999">【大型和船の設計図】</font></div><br><font color="#FF1493">「平家と言えば、瀬戸内海の海賊を束ね、富を得ることで力を蓄えていったということで、海と船をリアルに描きたかった。それで船を造ってロケをすることにした訳ですが、この当時の舟の資料は実はいま日本にはないんです。」</font><br>ということで中国からその当時のものに相当する設計図を取り寄せたんだそうです。<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130914/01/mambo666888/c1/65/j/o0800079012682694337.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130914/01/mambo666888/c1/65/j/t02200217_0800079012682694337.jpg" alt="MamBOのブログ" width="220" height="217" border="0"></a></div><br><font color="#FF1493">「和船の大工さん、日本に数えるくらいしかいないんですが、ロケ地近くの造船所に遣唐使船を再現したことのある職人さんがいて、そこで２ヶ月で作ってもらいました。」</font><br>ここのくだりを書くのに、いまストーリーブック前編読み直してるんですが、”図面を取り寄せたとか”大船渡が使えなかった”とかは本とネタがかぶってない。過去のイベントとかに出てない新ネタを出すように気を遣ってくれてるんですかね。<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/c0/00/p/o0800060512680362396.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/c0/00/p/t02200166_0800060512680362396.png" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="166" border="0"></a><br>（老け、怨霊、坊主ともう一人左下だれだっけ…）</div><br><font color="#FF1493">「大河で必要な時代劇のノウハウは昔は歌舞伎の世界から教わってましたが、最近は映像技術の向上によって不自然に映ってしまってもう使えません。それで数年前からハリウッドの特殊メイクを使うようになりました。」</font><br>たしかに崇徳院は歌舞伎技術では難しいかもですね…<br><br><font color="#FF1493">「映像に関する技術の進歩は他にもいろいろあるんですけど、そういった最新技術を最初に導入して試してみるのは、NHKの場合は大河ドラマの役割みたいになっています。」</font><br>ハイビジョン導入とかCGとか、今年は八重に映画カメラ導入してますもんね。<br><br><font color="#FF1493">「清盛の場合は髪は地毛だったんですが、終盤の老けの表現は特殊メイクでやりました。あとこっち（信西）の場合は出家後の坊主頭に特殊メイクを使いました。これはまず頭蓋骨の形をまんまコピーする為に石膏で型をとるんです。その型を使って頭蓋骨にピッタリ同じ形のカツラを作ってかぶせます。実はこれ使い捨てで、１個２０万するんですよ。」</font><br>えーー！２０万円！出家ラッシュの末法の世を描くのに使い捨てで２０万！そら重盛の出家もスルーするわ…。<br><br><font color="#FF1493">「ただこれは凄く大変で、頭にぴったり密着してて熱がこもってしまうんで、役者さんに聞くと６時間が限界だそうです。それを越えると頭がクラクラしてしまってダメだそうですね。」</font><br>松ケン入道が実際に髪を剃ったというのは、予算的にも撮影スケジュール的にも本当にプロデューサー孝行だったんですね。西光虎ノ介が剃ってなかったら、あの鹿ヶ谷の４０回キック＆蹴られながら面罵は両者フラフラでもっと迫力に欠けるシーンだったかも知れない訳ですね…。<br><br><div align="center"><font color="#999999">【スタジオ撮影風景「空と背景」】</font></div><br><font color="#FF1493">「大河の場合は、１０６スタジオっていうのがあってそこで撮っていました。昔はスタジオの天井って照明がいっぱいぶら下がってるのが見えたんですけど、最近では天井にブルーシートをはって柔らかい空の感じを出します。壁は昔は美術さんが描いた背景を置いたりしてたんですけど、今は写真を貼るか、白壁のまま撮ってあとからCGで合成します。八重の桜でも鶴ヶ城の戦争シーンはロケみたいに見えますけど、アレは全部スタジオなんです。」</font><br><br><div align="center"><font color="#999999">【スタジオ撮影風景「特殊効果」】</font></div><br><font color="#FF1493">「スタジオの中では扇風機が回ってます。アメリカ製です。この扇風機を使う理由は音がしないってことなんですね。あと煙が映ってますが、昔は何かを焼いて煙作ってたりしましたが、やっぱりのどに悪くて役者さんが咳き込んだりしますので、今は人体に害のない化学物質を使って煙を出してます。」</font><br>という磯Pの話に「コーンスターチは咳き込んで問題にはならんのかい！」と心の中でツッコんだことはナイミツニナ。<br><br><div align="center"><font color="#999999">【スタジオ風景「スケジュール表」】</font></div><br><font color="#FF1493">「大河の場合は月曜に撮影入りで金曜日まで録って土日でセットを作り替えるっていうのが基本的なスケジュールの組み方でした。平家のセット組んだらその週は平家のシーンばっかり撮るんです。セットがしばりになってるので台本の進行どおりには撮らず、場面が前後しながら撮ることもあります。」</font><br><br><div align="center"><font color="#999999">【スタジオ風景「スケジュール表（接写）」】</font></div><br>うきゃー出る出るお宝映像！<font color="#999999">（ごめんなさいね写真撮れてなくて）</font><font color="#FF1493">「これ、12:30～28:30って出てますけど、まあ夜中の３時半ですね。」</font>いや4時半でしょ磯P。ってか予定の段階でそれって…<font color="#FF1493">「スタジオの中は窓がないんで、録ってるといまが何時なのかよくわからなくなって来ます。」</font><br>赤い入道姿の殿がスタッフと熱心に打ち合わせする撮影シーンも。さすが「深夜の撮影もどんと来い！」な６時間リミットなしの自前坊主頭。本当にスタッフ孝行な主役です。<br><br><div align="center"><font color="#999999">【CG「呉ロケの撮影風景」】</font></div><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130914/01/mambo666888/a0/e3/j/o0800112012682694338.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130914/01/mambo666888/a0/e3/j/t02200308_0800112012682694338.jpg" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="308" border="0"></a></div><br><br>呉ロケの唐船にクレーンで吊るされた清盛とか、横から見ると台船ついてますよーとか、そこにいる撮影スタッフがこんな感じでとりますよーとか、奥でカメラまわすために手前のロケーション機材を置いとく屋根付のスペースからケーブル出してカメラに電気まわしてますよーとか、もう磯Pにしか出せない写真をさんざん紹介してくれたあとで<font color="#FF1493">「これがCGでこんな感じになります」</font>と。さっき見えたクレーンのワイヤーも機材ブースの屋根もどこへやら。拍手です。<br><br><div align="center"><font color="#999999">【CG「スタジオの船撮影風景」】</font></div><br><font color="#FF1493">「年末が近くなってスケジュールも押してくると、もうロケに行ってられませんのでスタジオの中に船つくっちゃいます。」</font><br>平家納経の回かな、壇ノ浦かな、キャストさん一人も乗ってませんでしたが、矢盾が見えなかったから平家納経のシーンかな？<font color="#999999">（さっきからドラマの絵が出るたびに、映像イントロドン状態で。）</font>　スタジオの船とバケツ持ったスタッフさんが。<br><font color="#FF1493">「さっき背景とかはCGでできるって言ったんですけど、舟端にかかる水だけはCGムリなんですね。ということでこれだけは美術さんがスタジオでバケツの水まいてます。」</font><br><br><div align="center"><font color="#999999">【CGかけた後の出来上がりの絵】</font></div><br><font color="#FF1493">「これにCGをかけると、どこにかけてあるかもう分かりません。」<br></font>ええもう。完璧です。<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130912/17/mambo666888/3f/de/j/o0800068212681165085.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130912/17/mambo666888/3f/de/j/t02200188_0800068212681165085.jpg" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="188" border="0"></a></div><br>最後にもう一度逆さ地図がでます。<br><font color="#FF1493">「アメリカ欧州に出会うまで、中世日本の世界への関心は中国大陸へ向いていました。日本の表玄関は博多であり日本海側だったんです。それを清盛が瀬戸内に持っていった。これは本当に画期的なことでした。」</font><br>「能登は奥地、へき地なんかじゃないよ。」「能登は船を通じて平家と繋がっているよ」っていう、能登のみなさんへの磯Pのご配慮を感じます。<br><font color="#FF1493">「最近は歴史を勉強する人が少なくなりました。日本人なのに日本史を知らない人も多い。社会の選択授業でも日本史より世界史を選択する人が多いんだそうです。だから清盛の放送中「平家が壇ノ浦で滅亡した時…」という話をしたら、「え？平家って滅亡しちゃうんですか？そんなネタバレしないでください」って言われたこともあります。昔は大河は男が見るもので、そのかわり女性は朝ドラを見るものって決まってましたが、最近は大河の視聴者は女性が半分以上です。」</font><br>最後は、マスコミから視聴率を問題にされまくった清盛の”敗因”分析結果なんでしょうか。若者や女性が歴史好きじゃないのは多分もともと。年配の男性が以前に比べて大河を観なくなったってことなんでしょうね。それはオジさんが歴史嫌いになったのか、それとも日曜８時、家族の集うリビングで「俺は大河を観る」って、バラエティ観てる子供からお父さんがチャンネル奪わなくなったってことなのか…。<br><br>ということで磯Pの講演は終了のようです。<font color="#0000FF">「磯先生のご講演に、何かご質問がありましたらどうぞ。」</font>という司会のおねえさんに促されて真っ先に手を挙げたのは、多分、小矢部市観光協会さんでしょう。<br><font color="#9370DB">「清盛の時、題材を決める基準て何だったんでしょうか？」</font><br>富山県小矢部市では、以前から義仲＆巴御前をW主人公として大河誘致を運動しています。ということでおそらく本気質問です。コレに答えて磯P<font color="#FF1493">「一概には言えません。メジャーな所では戦国か幕末かという流れがあって、でもそのふたつだけでは回らないですよね。まあ明治や昭和を題材にしてみようという話もあるんですが、明治昭和は最近では朝ドラがやるから…みたいなとこもあって。清盛のときはたまたま幕末でも戦国でもない時代がいい、出来れば鎌倉以前という話があって。あとは主役が男性か女性かという話がありますね。さっきも言いましたが最近は視聴者の半分以上が女性という状況もありますから。あとは史料もそこそこないとダメですね。５０話もつかどうか。清盛のときは史料が少なくて苦労しました。」</font><br>小矢部の本気質問に、かわしもすかしもすることなく正面から答えてはりましたね。情報だしたところで特に左右されないってことなんでしょうね。小矢部ではH27年（2015年）の北陸新幹線開業に合わせたいみたいですが、本当の所、2015年の大河のタイトルと主役はもう全部決まっていて、発表のタイミング待ちなのでは？と思ってたりしますが。<br><br><font color="#0000FF">「他に何かご質問がある方、いらっしゃいましたら…」</font>という司会のお姉さんの問いに「江刺のロケでは１日あたり、コーンスターチを何キロ使いましたか？」という清盛クラスタお土産用の質問を出来なかったヘタレな私をお許し下さい…。<br><br>という感じで磯Pこと、平清盛チーフプロデューサー磯智明さんの講演は終了デス。</font>
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<link>https://ameblo.jp/mambo666888/entry-11611144698.html</link>
<pubDate>Fri, 13 Sep 2013 02:41:59 +0900</pubDate>
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<title>平家の里サミット＠輪島　磯Ｐの基調講演（２）</title>
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<![CDATA[ <font color="#666666">◎テーマはいよいよ時忠へ。<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130912/08/mambo666888/c0/3e/p/o0494035412680800455.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130912/08/mambo666888/c0/3e/p/t02200158_0494035412680800455.png" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="158" border="0"></a></div><br><font color="#FF1493">「平時忠は、今回V６の森田剛さんに演じてもらいました。」</font><br>会場にも貼られたキャスト全員ポスターを指して<font color="#FF1493">「そこにもいま貼ってありますね。この人です。登場人物多くていろいろ言われたことあるんですけど」</font>と愚痴もポロリ。<br><font color="#FF1493">「彼は清盛にとって参謀というか、清盛を利用したというより自分の力で清盛の地位を押し上げた政治家という感じ。」</font>なんだそうです。<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/60/00/p/o0530035612680362395.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/60/00/p/t02200148_0530035612680362395.png" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="148" border="0"></a></div><br><font color="#FF1493">「時忠の父親は平時信という人でドラマでは蛭子さんが演じました。どういう人かというと、この見るからにうだつの上がらない万年平社員という感じの下級貴族です。」</font>万年平社員てww蛭子さんバッサリだw<font color="#FF1493">「位も低くて六位でした。六位の貴族っていうと昇殿が許されず、上級貴族に頭下げながら事務方の仕事をして一生を終える人間です。平氏にもいろいろあって時忠の家は文官であって武官じゃない。一方、清盛の家は軍事貴族です。」</font><br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/e3/95/p/o0800066812680359176.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/e3/95/p/t02200184_0800066812680359176.png" alt="MamBOのブログ" width="220" height="184" border="0"></a></div><br><font color="#FF1493">「そんな家に生まれた時忠の趣味は闘鶏と算木。算木って言うのは計算に使う割り箸みたいな形の道具で、進化する前のそろばんみたいなものですね。算木が使えて計算は得意。でも初期のシーンでは父親の書物を勝手に売り払って闘鶏して負けちゃってお金なくなっちゃったりするんですけど、でも頭だけはよかったんですね。」</font><br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/c7/64/p/o0491034512680362394.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/c7/64/p/t02200155_0491034512680362394.png" alt="MamBOのブログ" width="220" height="155" border="0"></a></div><br><font color="#FF1493">「そんな時忠の姉が時子。清盛の妻になる人です。」</font><br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/fd/c5/p/o0800067712680359173.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/fd/c5/p/t02200186_0800067712680359173.png" alt="MamBOのブログ" width="220" height="186" border="0"></a></div><br><font color="#FF1493">「そして妹の滋子は後に後白河の妻、后になります。最後、壇ノ浦の戦さが終わったあとには自分の娘を義経の妻にさし出しています。こんな風に時忠は姉の時子や妹の滋子を通じて、政治の中央に関わっていきます。」</font><br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130912/15/mambo666888/ce/b2/j/o0283019312681096631.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130912/15/mambo666888/ce/b2/j/t02200150_0283019312681096631.jpg" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="150" border="0"></a><br>（筆者注：あくまでイメージです）</div><br>スクリーンの資料映像は、今思えばお宝画像だったのですが、黒インクの文字がびっちりのレジュメ資料でした。<font color="#FF1493">「これは時忠役を森田さんにオファーしたとき、森田さんにお渡しした時忠の人物像資料です。」</font>えーーっもっと真面目に画面の文字記憶しとくんだったっ！ってか役者さんにキャストお願いする前に、ここまで人物像作り込んでからオファー出すんですね…。<font color="#FF1493">「今回の時忠像はもう完全に高橋（昌明）先生の説に従いました。高橋先生、よく怒られることもあったけど時忠の表現だけは褒められたんです。」</font><br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/e0/00/p/o0493032912680359174.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/e0/00/p/t02200147_0493032912680359174.png" alt="MamBOのブログ" width="220" height="147" border="0"></a></div><br><font color="#FF1493">「時忠がしたのは姉を使って清盛に近づき妹を使って天皇家に近づいただけじゃないんです。平家の兄弟たちにも近づきました。一蓮托生と言われた平家も一枚岩に見えてそうじゃないんですね。一門の派閥争いに入り込み兄弟間のパワーバランスを操ったんです。」</font><br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/02/1b/p/o0800050712680359175.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130911/20/mambo666888/02/1b/p/t02200139_0800050712680359175.png" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="139" border="0"></a></div><br>そしてこのシーン。キターーーーーーーー！です。もうこの表情の時忠の横にこのセリフを入れたら脳内に勝手に舘野さんのアヴェマリアが流れます…。<font color="#FF1493">「時忠と言えばこの台詞があまりにも有名なんですけど。これは平家の勢いが絶頂のときに宴会の席で調子に乗って言い放ったというのが一般的な解釈なんですが、彼はすぐれた政治家です。」</font>手元のメモ、このくだりに”「すぐれた政治家」という言葉が何度も”とあります。ここまでに何度も繰り返してらっしゃいました。今日の講演で一番訴えたかったことばなんじゃないかと。<br><font color="#FF1493">「きっと時忠は図に乗ってただおごるだけの、わきの甘い人間じゃなかった。だから大河では違う表現にしました。清盛の地位を押し上げるために時忠がかぶった黒い泥をこの言葉で表したかったんです。」</font><br><br>◎時忠への視聴者の声<br>ここでの資料は磯Pならではの資料で、私には再現できませんので言葉で説明します。ステラへ寄せられた視聴者の感想だそうです。ハガキかな？同じフォーマットの記入欄に書き込まれた異なる４人の直筆感想をコピーでそのまま紹介してくれました。「平家の権力を背景に、傲慢に言い放つと思いきや…」「あんな切ない表情であの台詞をいうなんて、もう涙が…」去年の９月、あの放送をみたときの自分の気持ちがフラッシュバックします。ずらりと並ぶ「うんうん分かるわぁ～」なコメントを磯Pが読み上げて紹介してくれます。<br><font color="#FFFFFF">…なんですが、記入欄のお名前年齢、住所や電話番号が一部消えないまま出てたね。。ダメですよ磯P…</font><br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130912/09/mambo666888/f9/cf/j/o0259019412680820538.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130912/09/mambo666888/f9/cf/j/t02200165_0259019412680820538.jpg" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="165" border="0"></a></div><br><font color="#FF1493">「これも一般の視聴者さんが投稿してくれたイラストですけど、時忠の特徴をよく掴んでますよね」</font><br>と盛絵の紹介も。会場は爆笑です。<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130912/17/mambo666888/08/9d/p/o0432026512681165083.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130912/17/mambo666888/08/9d/p/t02200135_0432026512681165083.png" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="135" border="0"></a></div><br><font color="#FF1493">「平時忠とは、政治家であり、今で言えば内閣官房長官みたいな役割をしていました。高橋先生なんか、来年また軍師官兵衛やりますけど、”日本で軍師っていうのは時忠から始まった”とまで言うんですよね」</font>そ、そこまで…。本質的に貴族社会の幕引きを行ったのは時忠であると。ここまでの話を聴いていると、時忠って”万年平社員を運命られた下級貴族の家に皮肉にも才能を持って生まれた逸材”で、武力を使ってではなく頭脳（と清盛の財力＆後白河院の権力）を使って下剋上をし、摂関家ら世襲の上級貴族が牛耳る社会をぶっ壊すことを目論んだもう一人の信西？と思えて来ました。苛烈すぎると周囲の反発を呼んで消されてしまうという信西の教訓も活かし、自分が表に出ないようにして周囲を動かしてたんだとしたら完璧だ<font color="#999999">（あ、そうか。重盛より宗盛のほうが操りやすいだけじゃなくて、有職故実のわかる重盛だときっと摂関家を尊重してぶっ壊してくれない…？）</font>。<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130912/17/mambo666888/68/8a/p/o0601031212681165933.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130912/17/mambo666888/68/8a/p/t02200114_0601031212681165933.png" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="114" border="0"></a></div><br>資料タイトルは「平安時代の終わり」ではなく「貴族社会の終焉」とか「武士の世はいつから？」みたいな言葉だったかもしれません。<font color="#FF1493">「昔は”イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府”って習いましたけど、最近は鎌倉幕府の成立は1192年ではないといわれていますよね。じゃあ初めての武家政権の起こりはどこか。その点についてはまたいろいろな考え方があります。」</font>「軍事力を背景にした武家の勢力が発言力を強め、朝廷貴族の力を押さえて実権を握った」という点では、1168年や1179年がそうだったという考え方があっていい。これは清盛の時代考証を務められた高橋先生が強く推すお話ですよね。<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130912/17/mambo666888/3f/de/j/o0800068212681165085.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130912/17/mambo666888/3f/de/j/t02200188_0800068212681165085.jpg" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="188" border="0"></a></div><br><font color="#FF1493">「これは逆さ地図とよばれるものです。中世の常識で世界といったら、朝鮮半島、中国、天竺です。清盛の時代には、太平洋の向こうなんてないも同然ですよね。だから当時の日本が大陸を意識したら世界はこの地図になるんです。日宋貿易での日本の玄関口は博多と敦賀でした。敦賀は京都に近いという利点を持っていましたが、敦賀には冬になったら使えないという弱点がありました。だから清盛は瀬戸内海を使った。しかしそんな能登へ時忠が流されました。でもそれは流罪じゃない、必然であり栄転と考えてもいいんです。」</font><br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20130912/21/mambo666888/44/3a/p/o0628035712681403759.png"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20130912/21/mambo666888/44/3a/p/t02200125_0628035712681403759.png" alt="$MamBOのブログ" width="220" height="125" border="0"></a></div><br><font color="#FF1493">「時忠は壇ノ浦で三種の神器を守った功績が認められて死罪を免れて能登に流罪になった訳ですが、その頃に自分の娘を義経に差し出したりしてますよね。<br>三種の神器を自分でキープしたのや義経と縁を繋いだのも、自分の命が惜しかったり保身をしたかった訳じゃない。平家と源氏を橋渡しし、平家を残そうとした政治活動の一環じゃないかと。」</font><br>もう森田時忠で９０分スペシャルスピンオフが出来てしまいそうな熱弁でございました。<br><br>（さらにつづく）</font>
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<pubDate>Wed, 11 Sep 2013 02:50:10 +0900</pubDate>
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