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<title>早飲みマー君のブログ</title>
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<description>1923年2月14日バレンタインデーに生まれ、2018年7月7日七夕の日に亡くなった、彫刻家・流政之氏の大ファン</description>
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<title>第42回日本アカデミー賞　特別追悼</title>
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<![CDATA[ <p>第42回日本アカデミー賞において、流政之氏が特別追悼となっています。</p><p>&nbsp;</p><p>日本アカデミー賞のHPにおける特別追悼の説明文は、おおむね以下の通り。</p><p>&nbsp;</p><p>「流政之氏は日本アカデミー賞協会創設メンバーであり、79年に日本アカデミー賞の分身かつ象徴である〈映画神像〉を制作寄贈。第１回授賞式より受賞者に贈られている〈最優秀賞・優秀賞ブロンズ〉も先生の手によるものです。</p><p>〈映画神像〉は86年より有楽町マリオンに恒久展示され、03年には新たに〈映画神像 北海道〉が札幌シネマフロンティアに、11年には〈映画神像 九州〉がT・ジョイ博多に制作設置されました。</p><p>〈映画神像〉は毎年授賞式に会場舞台に移動設営され、その年の受賞者たちを温かく迎えています。</p><p>巨大な御影石を使い、自然と融合し圧倒的かつ存在感のある作品群は、世界各国の美術館に収蔵、展示。唯一無二の彫刻家としてその名を知らしめています。」</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190320/23/markunpetrus/f5/47/j/o0640101614375878083.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="349" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190320/23/markunpetrus/f5/47/j/o0640101614375878083.jpg" width="220"></a>（日本アカデミー賞HPより）</p><p>&nbsp;</p><p>この日本アカデミー賞授賞式のTV放映のおかげで、そのブロンズ像を多くの市民が見ることになり、流政之氏の作品の姿が毎年紹介されるようになっていることはうれしい限りです。</p><p>できればこのブロンズ像に（オスカー像のように）少しでも多くの人が関心を示してくれるように、例えば米国アカデミー賞最優秀賞での発表の際に「The Oscar goes to...」と言ったりするところ、日本なら「ナガレ神像を受け取るのは・・・」と言ってくれれば、さらなるアピールになりそうなんですけどね。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Wed, 20 Mar 2019 23:26:01 +0900</pubDate>
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<title>流政之関連の基本書</title>
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<![CDATA[ <p>現在書店の店頭で買えるのは①のみ。②は中古品がAmazonマーケットプレイス等で入手できるかもしれない。③の「RECENT SCULPUTURE」は過去に一定程度の年数ごとに発行されていたが、古いものは古書として探すしかない。最近のものはナガレスタジオか流財団に問い合わせれば、もしかしたら在庫があるかもしれないが保証の限りではない。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>①財団法人流財団監修『流政之作品論集』（２００８年、美術出版社）</p><p>〈目次〉</p><p>ナガレ・仕事　　村田慶之輔</p><p>対談　流政之×森村泰昌　日本とアメリカ－彫刻における「男」と「女」をめぐって</p><p>造形によって表現されるものがたり　　橋本房代</p><p>論考　割肌というコラージュ、敗戦国のコギト　　中ザワヒデキ</p><p>論考　空を飛ぶ石　　五十嵐太郎</p><p>「スタジオ拝見」制作の痕跡さがし　　中村哲也</p><p>女性のオマージュ－ナガレカーブ　　タノタイガ</p><p>「さあ、流さんについて話しましょうか」　ペアテ・シロタ・ゴードン回想録</p><p>流政之略年譜</p><p>筆者紹介</p><p>あとがき</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190318/08/markunpetrus/b6/87/j/o1062187214374254867.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="388" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190318/08/markunpetrus/b6/87/j/o1062187214374254867.jpg" style="width: 161px;" width="220"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>②『ＮＡＧＡＲＥ Ｔｈｅ Life of a Samurai Artist』（１９９４年、Weatherhill,Inc.,New York）</p><p>〈目次〉</p><p>冒頭に流政之の言葉</p><p>Tribute,by Lincoln Kirstein</p><p>Works</p><p>Masayuki Ngaare：Ｔｈｅ Life of a Samurai Artist,by Kazuyo Yamashita</p><p>List of Works</p><p>Chronology</p><p>Photo Credits</p><p>Acknowledgments</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190318/08/markunpetrus/d1/15/j/o1021106714374254848.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="230" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190318/08/markunpetrus/d1/15/j/o1021106714374254848.jpg" width="220"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>③『NAGARE　２０１３　RECENT　SCULPTURE』（２０１３年、ナガレスタジオ）</p><p>〈目次〉</p><p>若者よ、いい男になれ　　流政之　杉山幹夫</p><p>男のダンディズム　　貝畑雄二</p><p>瀬戸内の零戦　　富山省吾</p><p>〈自作再見〉流政之「雲の砦」　永遠に変わらぬ平和を表現　　朝日新聞　2012年6月20日付</p><p>彫刻公園　サキヤマ　　北海道　赤平市　エルム高原</p><p>彫刻公園　ストーンクレージーの森　　南北海道　東大沼</p><p>（上記の後、最近の作品を掲載）</p><p>「お接待」に心解ける　　四国新聞　2013年1月31日付</p><p>流政之　年譜</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Fri, 15 Mar 2019 00:34:34 +0900</pubDate>
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<title>流政之氏　海軍入隊から終戦まで（1943－45）</title>
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<![CDATA[ <p>「私の履歴書」（日本経済新聞）の文章は、流氏らしく軽快なテンポであるが、歴史的な順序が錯綜しており、時代的には行ったり来たりしている。一方、「ＭＡＳＡＹＵＫＩ ＮＡＧＡＲＥ Ｔｈｅ Life of a Samurai Artist」では出来事は基本的に時系列で書かれており、概ね「私の履歴書」に沿っているが、付加されている内容もあるようである（のちに出版される『流政之作品論集』ではより詳細な年譜が掲載されている）。</p><p>例えば、流氏が京都に移ってから母親は心配して時々流氏を訪ねたようだが、流氏は母の愛情を渇望しながらも、一人京都に送られたことを決して許さなかったとある。また、桜井卍正次，正幸に入門したとき、流氏は立命館大学１年生であったとある。そして海軍に入いる。</p><p>&nbsp;</p><p>「私の履歴書」から以下抜粋する。</p><p>&nbsp;</p><p>「いよいよ海軍にはいるという前に、大学の総長室に別れのあいさつに訪れた流に向かって、父は〈お国のために戦い、死にに行くんだから、そっと行け〉。男なら男なら涙がほしい。泣くに泣けず立ち去ると、追いかけてきた理事、〈若、ここへ行って食事でもしてらっしゃい〉と、祇園のあて名。行けば、あでやかな女あらわれ、ゆっくりおしやすと。あくる朝のこがね色の太陽が父の餞別だったと気づき、ふかい男同士の情を知る。」</p><p>「学徒出陣で第十四期海軍飛行科予備学生となる。佐世保を振り出しに、土浦、出水、筑波、霞ヶ浦、三沢と転々。</p><p>航空隊暮らしの楽しみは外出、海軍用語でいうところの〈上陸〉。いい女にめぐり合わんと、支給のせっけん、缶詰ため込むが、妻帯者でないと土曜の晩に上陸できぬのがシャクのたね。ここは度胸で乗り切るほかなしと、帽子をバケツの水につけて貫録つけ、帽章、襟章には塩ふりかけさびをだし、コートの襟くずして隊門から堂々脱出。見かけ上級士官となりすます。」</p><p>「花も吹雪の飛行科士官も、おおかたは操縦をしない偵察員とか飛行場の要務。まさか零戦パイロットにはなるまいとタカをくくっていたのに、試験官は〈戦闘機操縦を命ず〉。私には向かんのと違いますか、と訴えても、〈海軍は貴様のようなパイロットを待っておる〉。成績よりも人相、鼻や手の形を見て搭乗員を決めるのが海軍方式。プロ野球選手の石丸進一も同じ、筑波から飛び立ち沖縄であえなく花と散る。</p><p>こんな、死と隣り合わせの日常に次第に虚無感、身にそなわり、敵機にも動じぬ馬鹿度胸。おれには弾は当たらねえ、と神がかり、着任士官の顔相見て、〈あいつはあと十日の命〉と、みきわめ当たることのこわさにまどう。</p><p>空と海を舞台の毎日の殺し合い。キラキラとジュラルミンをまき散らし、ボーッと火の玉となって墜ちゆく戦闘機があんなに美しく見えるとは。流の作品のどこかに虚無が漂うとしたら、あのあやしい美しさにいまだに惑わされている故に違いない。」</p><p>「八月十五日、敗戦の報を、私は筑波海軍航空隊で聞いた。戦争ぎらいの誇りある士官に、いまさら驚き、悲しみあるわけでもなく、壊れかけたラジオから流れる玉音放送、ただ耳にけだるく、乾いた響き。ああ、もう夏も終わりか。灼けた滑走路に、じき秋風がたつに違いない。</p><p>終戦と同時に中尉に昇格したものの、このときの流はまだ二十二歳。それでも、何ごとにつけかかわる不思議な役回りの楽しみ。結局、航空隊にとどまり、いち早く帰ってしまった士官たちの残務処理、秋まで居残る貧乏クジ。それもまんざら嫌いとはいえない。</p><p>そして、ついに米軍の占領。敗れる儀式は美しく、サムライの伝統みせにゃと、白い軍服プレスして厳かに待つも、やってきたのは、上空からの指令。〈零戦を列線に並べ、プロペラと機関砲をはずせ、片脚をはずせ〉。ともに暮らし、まだ生命ある零戦を解体しなきゃならないつらさ。泣く泣く壊すその前夜、焼けつくような赤い月、あしたその生涯終わる零戦はしなやかな古武士の風格ただよわせていた。」</p><p>&nbsp;</p><p>流氏は戦時中の数々の武勇伝を「私の履歴書」に書いているが割愛。なお別資料（１９８１年ギャルリーところ流政之展カタログ）では、終戦のときに空が明るくなって、そのとき部屋の壁に「国が敗れて牛が鳴き、笑う日本に春がくる」とアサハカなことを書いた記憶がある、としている。「私の履歴書」でも、終戦で泣いている士官を「気が狂ってもいい、笑え」と笑うまで殴った（二百人も）とある。</p><p><img alt="" contenteditable="inherit" height="278" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190321/18/markunpetrus/1f/5b/j/o1247157814376295788.jpg" width="220">(『ＮＡＧＡＲＥ Ｔｈｅ Life of a Samurai Artist』より19歳時の写真）</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/markunpetrus/entry-12445871335.html</link>
<pubDate>Mon, 11 Mar 2019 05:01:29 +0900</pubDate>
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<title>流政之氏　中学校から衣笠鍛刀所まで（1936－42）</title>
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<![CDATA[ <p>小学校卒業後、母の元を離れ、父により立命館中学に入れられたが、中学校でも勉学にいそしむことはなく、そのうち父がつくった衣笠鍛刀所で作刀や研ぎを始めたとのことである。この体験が、のちの彫刻家の原点になるのであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>１９８１年の流政之展カタログ（ギャルリー・ところ）のインタビューからの抜粋は以下の通り。</p><p>&nbsp;</p><p>「自分としては本郷の少年としての夢があったが、突然父によばれて京都に行った。父としてはわたしをそばにおいて、自分の教育の理想を実現したかったのだろう。そのときは何か自由になれるという期待感と、特急〈つばめ〉に乗れるという喜びもあって、京都に行った。</p><p>父は西園寺公望のもとで生涯をともにし、明治のロマンに仁俠をかけた人間だけに、古流武道とその精神的支柱となっている神道を学ばせた。父のもとに居候していた鹿島神流というそのころの国粋派の人たちに刀術を習った。しかしそのうち、神道に深さはあるけれどもそれを把握するための方法論とか、考えるものがあまりないと思うようになり、禅宗に惹かれるようになった。それで京都のいろいろな寺を訪ねて歩いているうちに、当時の禅僧の実態に失望し、むしろ親鸞の心ひかれるようになる。真宗の寺のもっている明るさ、坊主は肉を食い恋をする。それにひかれたわけではないが、鳴滝の了徳寺という寺の離れに入った。そのころ、刀を研ぎに通ったり、絵を描きはじめた。それがわたしが絵を描いた最初だ。</p><p>（絵は）油だ。鳴滝というところで、そのころの最も前衛的な映画監督や俳優、画家などがたくさんいた。それで絵の先生を探してもらったりしたが、結局はだれにもつかずに我流でやった。</p><p>（刀を研いだというのは）はじめ竹刀で剣術をやっていたが、そのうち真剣を使うようになり、刀工卍正次，正幸の門を叩いて弟子入りし、父がつくった衣笠鍛刀所で刀工と作刀や研ぎをはじめた。真剣を研いだり作ったりしているうちに、刀の恐ろしさがわかってくるし、よく切れる刀は形が美しいということを知った。そこでうらはらの美学を知ったわけだ。つまり人を殺すためのものでありながら、それが極限の形になると美しくなり、その美しさに打たれて逆に、斬るということから心が離れて行く。</p><p>（一種の反戦思想）刀で斬らなくても心で斬るべきではないかという、うらはらの論理。たしかに反戦思想がのちに海軍に入ってからもいつも心のどこかで働いていたように思う。文学者などのいう反戦思想とはちょっとちがったものだ。</p><p>（京都の古典、仏像や庭など）見て廻るというより、まわりが全部そういうものであり、そこに身を置くということに意味があった。学者と坊主とおなごが中にいて、京都というものを体で知った。わたしがのちに戦争に出発する前夜に行ったところが仁和寺だった。上村松園などがそこに写生しているのをよく見かけたりしていて、仁和寺には心惹かれていた。あの五重塔のようなものを残すためにわれわれは死ななければいけないのだというようなキザなことを仲間にいったことをいまでも鮮明に記憶している。</p><p>（祇園なぞに出入りするようになったのは）中学二年生ぐらいからだ。女の縁が多かった父は〈都おどり〉に一族郎党を引き連れて行くのが好きで、わたしもよく連れられて行った。そういうところで芸妓や舞妓さんにかわいがられたり、さわられそうになったりしたものだ。</p><p>（独りで行くようになったのは）中学三年生かな。加茂川べりに女が並んでいて〈おいでやす〉などといわれ、はじめは喫茶店かと思ってよくわからなかったが、あまりしつこいので中に入ったのがはじまりだ。わたしは女には逆らわない主義だから。</p><p>（味覚や料理に関する見識はこのころから培われたのか）父が西園寺公望という当時の代表的な粋人と一緒に暮していたこともあり、そういう影響がわたしに及んだわけだ。京都にはしょうゆ味を殺したうまいものがたくさんあり、江戸の味覚を変えられてしまった。</p><p>戦争が始まると陸軍が鍛刀所で軍刀をつくることを要請してきた。ほかの鍛刀所ではほとんどの刀工が包丁鍛冶上りだったのだが、横田正光と隅谷正峯（のちに人間国宝になった）とわたしの三人は正統派の刀工であり、芸術的な刀をつくろうという意図をもっていた。そこでわれわれはある夜、フイゴの火の後始末をせずに、横に炭を置いて、火事を起し、尾道の山に逃げた。それから戦争がはげしくなり、わたしは山をおりて海軍に入った。」</p><p>&nbsp;</p><p>同時期に関する「私の履歴書」（日本経済新聞）の抜粋は以下の通り。</p><p>&nbsp;</p><p>「京都はええ、飯うまく、京で苦労を学べば、どこへ行こうと腹の立たぬことうけあいと、父・中川小十郎の方針で京都に連れてこられたのは一三歳のとき。嵐山は知恵の虚空蔵さんとやらへやられて、一三参り、厄払いの儀式。いやおうもなくつけさせられた魔よけの赤ふんどしが哀れだった。</p><p>京の朝飯ときたら、すくっても箸にもかからぬ〈かゆ〉と漬物。これではすきっ腹で腹の立つのが道理、とてもこらえきれぬと町へ出れば、〈ちょっと、兄さん、おぶでも飲んでお休みやす〉とおばさんの呼び込み。飯でも食わせてくれるのかと、あがり込んだところに飯はなく、これが廓（くるわ）の知りそめ、子供から思春期をとばしていきなり大人、妙な具合。</p><p>立命館の総長だった父は、七、八人の壮士を周りに置いて、食事中に次の間で謡曲をうならせる暮らしぶり。流をほんまの男に仕立てたいと、山岡鉄舟が使ったという木剣を与えて古流武道、のちに鹿島神流の剣法を習わせ、神道たたきこむ。</p><p>私はといえば、意に染まぬ京の暮らしに破れかぶれ、問題を起こせば母のいる東京に帰れるに違いないと、反抗のかぎりをつくして勉学はそっちのけ。軍国色強まり、制服がカーキ色に変わったのに反発して、羽織はかまで通学し、やがてふくさに包んだ真剣を持ち歩く。これには教師も恐れをなし、近づくとあちらから敬礼。あべこべだ。</p><p>時間割りは自分で勝手につくるものと決め、授業中は古道具屋で買い込んだ茶碗をいじり、剣術、武術の秘伝書のたぐいを読みあさる。</p><p>うっぷん晴らしはもっぱら剣。大菩薩峠の机竜之助を気どって部屋の電灯線を一刀両断、女郎屋の蚊帳に切りかかる。宮本武蔵が何じゃいと、嵐山の竹林で空とぶ小鳥を斬った。</p><p>だがそのあと、刃こぼれの手入れのことでたずねた刀工は、〈斬ってみなければ、刀の切れ味、己の腕がわからないのか〉。火焼けした瞳でみつめ、刀をつきかえした。</p><p>小鳥を斬ったむなしさからか、それとも自分の腕をたたえてもらえなかった寂しさからか、私は天井を見つめながら、ものを切らずに刀の切れ味を知るなど－馬鹿野郎、そんなことがあるものかと、腹立ちまぎれに、刀鍛冶、桜井卍正次、正幸の門をたたいた。同門には刀工で人間国宝の隅谷正峯がいた。これが、流がものをつくる渡世に入ったはじめである。」</p><p>「ところで、流はといえば、預けられた寺を転々、無頼の生活ようやく身につく生意気ざかり。英語の勉強いやさに、ロシア語教育進言した直訴状を文部大臣に送りつけ、とんだ大騒ぎ。そのあげく、西園寺は自由主義思想の元凶、たたき殺せなど口走る。</p><p>それではと、父に連れてゆかれたのは御殿場にあった西園寺公の別荘。奥に通されると、細面の男、悠然と火鉢に手をかざし、イキな姿は歌舞伎の二枚目役者さながら。〈日本はいったい、どうなるのですか〉。しどろもどろに切りだせば、障子さらりとあけ、〈あんたもなあ、あの富士のようにならな、いかんよ〉。これには降参。真に強き男は、物腰やわらかきものと、極意を知る。それ以来、女にたいしては、やさしく、やさしく。」</p><p>&nbsp;</p><p>この後段の西園寺公との面会は、別の資料では大学に入る直前とあり、また「富士のように」とは「富士のようなおだやかな人間とならなくてはいけません」と言われたとある。</p><p>時代が新しいｲﾝﾀﾋﾞｭｰになると、過去の出来事に関する表現が異なっているものもあるようであるが、脚色が入いったりするのかもしれない。</p><p><img alt="" contenteditable="inherit" height="275" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190321/18/markunpetrus/08/c9/j/o0794099214376293306.jpg" width="220">（『ＮＡＧＡＲＥ Ｔｈｅ Life of a Samurai Artist』</p><p>より13歳時の写真）</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20190321/18/markunpetrus/cd/05/j/o1337183214376299266.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="301" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20190321/18/markunpetrus/cd/05/j/o1337183214376299266.jpg" width="220"></a>（『ＮＡＧＡＲＥ Ｔｈｅ Life of a Samurai Artist』</p><p>より隅谷正峯氏との写真）</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Sun, 10 Mar 2019 06:42:22 +0900</pubDate>
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<title>最近のオークション価格は高騰か？</title>
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<![CDATA[ <p>ある美術雑誌によると、今年１月に行われたオークションで、流政之氏の代表的作品シリーズの「ナガレバチ」（1994、黒御影石、H55.3×W21.0×D15.0）が、落札予想価格30～50万円に対し、その上値の3倍を上回る160万円で落札されたという。</p><p>「ナガレバチ」の作品シリーズは石彫とはいえ、生前の長い期間にわたり多く作られており、上記作品は比較的小品の部類に入るにもかかわらず、ここまで高騰したことは象徴的かもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>芸術家は没後作品価格が上がるのは一般的であろうが、それはもともと世に出された作品数にも関係するだろうし、またそもそも人気があるかないかでも違うのであろう。流氏は「質より量」と仰っていたくらいだから、たくさんの作品が世に出ていると推測するが、作品を購入した流政之ファンは大事にしまっているからか、市場にあまり出回らないのかもしれない。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/markunpetrus/entry-12445542521.html</link>
<pubDate>Sat, 09 Mar 2019 19:07:26 +0900</pubDate>
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<title>流政之氏　出生から小学校まで（1923－36）</title>
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<![CDATA[ <p>流政之氏は大正１２年２月１４日に長崎で生まれた。その後すぐに母親と一緒に東京へ移っている。まずは小学校までの東京での暮らしが、流氏の精神の基礎を形作っているように思われる。</p><p>&nbsp;</p><p>例えば１９８１年の流政之展カタログ（ギャルリー・ところ）に掲載された、その時期に関する流氏の発言内容を抜粋すると以下の通り。</p><p>&nbsp;</p><p>「父（中川小十郎）がそのころ台湾銀行の仕事をしていたときに、長崎で母と恋をしてわたしが生まれたわけだ。長崎にいたのはわずかの間で、それからすぐ東京へ行き、小学校を卒業するまで東京にいた。</p><p>小学校は本郷だった。本郷は下谷と山手の境にあり、東大にも近く、湯島の三業地にも近かった。学校にはそういう色町の息子もいたし、下谷の職方の子供などもきていた。つまり文教的な環境と江戸の粋の世界との中で育った。わたしの江戸弁がかなり正確なのはそのためだ。</p><p>そのころわたしは湯島天神の横の芸者衆や置屋のおかみだとか、そういうところに出入りするいなせな職方などにかわいがられていた。それでたとえばある左官が湯島天神や神田明神のみこしの獅子をつくっていたが、学校の勉強よりもそういうものに興味をもった。</p><p>学校をサボってよく出かけたのが上野の科学博物館と浅草の松屋の屋上だった。そこにはケーブルがあって、それに乗りたくて行った。浅草に対してはいまでも郷愁を感じるのはそのためだ。それから池之端のあんみつ屋にもよく行った。そういうところにはきれいな女学生がきていたので、それを見に行ったのだ。」</p><p>&nbsp;</p><p>同時期に関する「私の履歴書」（日本経済新聞）の抜粋は以下の通り。</p><p>&nbsp;</p><p>「長崎で父と母が出会い、生まれた私は、母と東京に移り、山の手と下町の境、本郷に住みつく。東大はご町内の大学、いずれはあそこに通って名を成さん、との思い抱くも、心ひかれるは半てん着て、けんかに強く女にやさしい職方のいなせな立ち居振るまい。なぜか、小学校も水に合わず、勉強をさぼって、左官屋、建具職、指物師らの仕事場のぞいて顔きかせ。やがて町内の人たちに「長兵衛」のあだ名をもらい、いっぱしの少年男伊達。</p><p>東京・湯島でいなせな職方に囲まれて育った流には、ふんどしは白、好物はすし、天丼。</p><p>どんどん焼き、今でいうならお好み焼きをどんと仕込んで湯島天神の境内にたむろする。池の端の向こうに浅草は松屋デパート屋上のゴンドラ、ゆったりと動くのが見える。あれが浅草か。もはや学校なんか行くひまない。上野のあんみつ屋の番をして、女学生たちの何かとのお世話。呼び込みの術がうまくなる。</p><p>そんな学校離れの流でも、絵だけは自称、天才。」</p><p>&nbsp;</p><p>絵については後年、父に一喝されて断念するが、流氏の絵の作品もあるのも肯ける。また職人たちとの密な交流が、のちの彫刻作品作成に生かされたであろうことも想像しやすい。</p>
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<link>https://ameblo.jp/markunpetrus/entry-12445403860.html</link>
<pubDate>Sat, 09 Mar 2019 04:04:29 +0900</pubDate>
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<title>NHK大河ドラマ「花燃ゆ」</title>
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<![CDATA[ 皆さんはＮＨＫ大河ドラマの「花燃ゆ」を見ていますか。ネットでの情報だと視聴率が低いようですが、私は大河ドラマは欠かさず見てきており、そしてこの「花燃ゆ」はだんだんと素晴らしいドラマだと思うようになりました。<br><br>「花燃ゆ」の最初の方では、主人公はあまり目立たず、吉田松陰の存在が格段に大きく取り扱われ、一体何を表現したいのかがわかりにくい時もありました。松陰の死後も、その存在感は大きいままでした。しかし、徐々に主人公がいろいろと奮闘する姿が、松陰をはじめとした幕末の志士たちの志を、みずからの立場に変容させて実践していることがわかります。<br><br>どこまでが史実かはわかりませんが、この作品が言いたかったのは、大志は必ずしも国家レベルの大事件でしか発揮されないのではなく、個々人の生活の中でも大きな志をもって活躍できる場面はいくらでもある、ということのように思います。2回ほど前の回で、主人公が自らの口で、志に触れていました。<br><br>そもそも松陰の妹という、全く無名の人物の生涯を描く趣旨がやっとわかりましたが、上記のような個人の志の話と、もう一つ、幕末の動乱を一地方の市民の視点で描くということがあります。前回の「八重の桜」もそうでしたが、会津の視点で幕末を徹底的に見ることができたのは、日本史のある一面を理解するのに有意義でした。そして今回は長州の視点で幕末を見たわけです。<br><br>戦争になりかねない国家間でも、相手の立場になって考え、理解することがいかに重要か、はよく言われることですが、なかなか実践は難しいところです。最近の大河ドラマは、一年をかけてその大切さを考えさせてくれているように思います。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/markunpetrus/entry-12098923469.html</link>
<pubDate>Tue, 24 Nov 2015 00:41:07 +0900</pubDate>
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<title>流政之ファン</title>
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<![CDATA[ SAMURAI ARTIST と言われ、アメリカでの大成功のうえ、日本でも大衆的な人気があるのだが、権威的な組織には属さず、孤高を貫く彫刻家 流政之さんは、既に９２歳なのに大変お元気であり、現在も作品を作り続けているようだ。<br><br>先日、ある画廊で流政之展があり、オープニングレセプションがあるというので、行ってみた。集まっているのは、美術関係者か知り合いの方が多いようで、自分のような全くの一般人は少ないようであった。作品は９０年代から２０１０年くらいまでのものが集められているようで、テロで破壊されたワールドトレードセンタービルに設置されていた「雲の砦」のミニチュア作品も展示されていたが、初日に売約済みとなっていた。<br><br>生で流さんを見るのは確か3回目だったが、今回初めて恐る恐るご本人に声をかけてみた。去年1年間でどのくらい作品をお作りになったか尋ねてみたところ、「質より量！」という、いつものフレーズが返ってきた後、「数えてないから、わからん！」との豪快なご回答であった。<br><br>数も不明というくらいの大量の作品を作っておられ、それを大企業や団体、個人がどんどん購入しているというのだから、その人気ぶりにあらためて驚く。画廊に並んだ石の小品は、最低でも100数十万円の価格で、最多価格帯は200万円台後半あたりだった。小さいブロンズ作品は一律54万円だったが、シリアルナンバーもないので、一体どれだけ作ったのか本当にわからないのだろう。<br><br><br>ＮＡＮＺＵＫＡ<br>流政之 展「SAMURAI」<br>2015年5月30日(土) - 6月27日(土)<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/markunpetrus/entry-12033944706.html</link>
<pubDate>Tue, 02 Jun 2015 04:16:53 +0900</pubDate>
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<title>好きではないが素晴らしい作品８</title>
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<![CDATA[ 「乾杯」 長渕剛<br><br><br>サングラスをかけてマッチョなイメージを演出するその姿は、ファンの方には申し訳ないが、どうしても好きになれない。この人の曲もあまり多くは聴いたことはないのだが、有名な「順子」や「とんぼ」とかの曲は本人の外見とは違い、随分とナイーブな印象だ。<br><br>この「乾杯」という曲は、かつて結婚披露宴で必ず歌われる定番であった。今や福山雅治や中島みゆきの曲にその座を譲ったようだが、それでもそれらの曲と比較してもこの曲のシンプルなメッセージ性は秀逸であるように思う。<br><br>歌詞の内容は極めて直接的な内容なので、普通に聴くとダサくなってしまいそうな気もするが、お祝いの思いの表現をするなら、最もストレートに表現できるので、これほどうってつけの曲はないのだろう。それに歌詞がすぐに覚えやすいくらいシンプルである。そして何と言っても、この歌を歌えば、その思いが誰をも幸福な気持ちにする。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/markunpetrus/entry-11924453041.html</link>
<pubDate>Sat, 13 Dec 2014 09:15:21 +0900</pubDate>
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<title>信仰のゆくえ</title>
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<![CDATA[ 今朝何気なくテレビのチャンネルを変えたら、ガブリエルステーキという店の紹介をしていた。安くて美味しいＵＳステーキを提供しているという。どこかと思ったら沖縄の店のようだ。しかし、そのうち店長が自分の生い立ちを語り始め、10歳代で麻薬や覚せい剤にも手を出してしまったという。そして更生施設で聖書の言葉に出会い、立ち直ったというのだ。そう、これはキリスト教の番組だったのだ。<br><br>今や店長は奥さんとともに熱心に教会に通っており、自分たちの罪を背負って十字架にかかったキリストのことを＂確信＂しているという。件の店名ガブリエルステーキも、天使ガブリエルに由来しているのだ。<br><br>このように神を信じることによって、人生がひらけ更生できるような場合の宗教の意義は肯定されてしかるべきであろう。そしてキリスト教信者には申し訳ないが、ここで＂救い＂となる宗教は、決してキリスト教でなくても同じ役割を担えるはずである。イスラム教は、キリスト教と同根なのだから、なおさらであろう。<br><br>そうすると、どうしても引っかかるのがイスラム国に関することだ。歴史上宗教戦争というのもあったのだから、宗教の不寛容な面もわからないでもない。しかし、報道で聞かれるような殺戮が行われているとすれば、まるで宗教そのものが人を悪魔にする麻薬みたいなものに思えてくる。いや、本当は人間の問題であって、宗教の問題ではないのではないか。同じ宗教が、人を助け、人を殺す、という二面性があるとは、どうしても信じられないが、それが現実の人間の行為である。<br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/markunpetrus/entry-11952597125.html</link>
<pubDate>Sat, 15 Nov 2014 11:45:30 +0900</pubDate>
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