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<title>想い出ランプ</title>
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<description>過去のこと、現代のこと、未来のこと、そして世のよしなしごとを、私の想い出ランプの光の届く範囲で、記憶をたどり、現代を思い、未来を考えたい。記憶違い、考え違いはお許しください。</description>
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<title>”フジヤマノトビウオの与えてくれたもの”</title>
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<![CDATA[ <iframe class="reblogCard" scrolling="no" frameborder="no" sandbox="allow-same-origin allow-scripts allow-top-navigation" width="100%" height="234px" src="https://ameblo.jp/s/embed/reblog-card/masatoos/entry-10046542269.html?reblogAmebaId=masatoos" data-ameba-id="masatoos" data-entry-id="10046542269"></iframe>
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<pubDate>Sun, 16 Aug 2020 15:55:47 +0900</pubDate>
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<title>満州への花嫁</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3"> 　私達が、関鼻さんに家を借りたのは、昭和二十年の三月の末か四月の初めだったと思う。着るものは、空襲にあって焼ける前に、たまたま疎開させておいた荷物の中に、何年か分の着つなぎのできるだけの衣類が入っていた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　衣食住とは、よく言ったものである。住む所も、何とか確保することができたが、農村という、当時では食料のある場所におりながら、お金がないということだけで、食料を十分に手に入れることが出来なかった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　当時の農村の人々も、お金という不安定なものよりも、生活に役立つ物を欲しがっていた。</font><font size="3">日本全体、どんな物でも、すべてにわたって、物資が不足をしていた。そんな中にあっても、どういう伝手を頼ってか、母は、我が家のなけなしの衣類を持って、お米や、小麦粉、サツマイモ、ジャガイモなどと交換をしてきた。母は本当に強かった。当時は、こういうことを物物交換と言っていっていたが、本当に、やるせない時代だった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　物のあるうちはよいが、なくなってしまったら、それでお終いである。それで、当時、そんな生活を、人々は</font></p><p><font size="3">　”竹の子生活”</font></p><p><font size="3">　と呼んでいた。よく考えてみると、竹の子は皮が剥がれて、大きく成長できるが、貧しい私達は、身包み剥がされたところで、成長できなければ、それでお終いになる。</font><font size="3">この集落にも、疎開して来た人がいて、竹の子生活で立ち行かなくなった人がいた。そのことについては、又別に話をしたいと思っている。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　終戦の年の、五月の末か、六月の初めの頃だったと思う。</font></p><p><font size="3">　何時もは聞こえる、関鼻さんの家の真紀野さんの織る、機の音が聞こえなくなった</font><font size="3">。その理由を暫くして知ったのだが、長女の民野さんが、満州から里帰りして来たのである。満州とは、現在の中国東北部のことである。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　この戦争の激しい最中、何故、危険を冒してまでも、満州から里帰りしたのか、理由はわからなかった。機の音の消えた日から、民野さんは、機織機のある部屋に居て、外に出ることもほとんどなく、帰省の日から、終戦間際に、満州に帰るまで、その部屋にひっそりと住んでいたのだった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　私は、その部屋で、着物を着た民野さんが、正座に近い状態で座って、縫い物をしていたのを見たことがある。民野さんは、私に向かって、声もださずに軽く会釈をした。それが、民野さんを見た、最初で最後のことである。一言くらい話をしたかも知れないが、私の記憶にはない。影の薄い、寂しそうな人だったと覚えている。</font></p><br><p><font size="3">　三女の藤野さんは、戦後すぐに、藤岡の町のサラリーマンの家に嫁いで行った。関鼻家では、盛大な結婚式が行われた。田舎でみる初めての結婚式で、夕方から夜更けまで、延々と披露宴が続いた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　後で、藤野さんは、私の母に</font></p><p><font size="3">　「母親のいない娘は哀れなものなのよ。嫁入り道具も、本当に竹行李一つだったのよ。」</font></p><p><font size="3">　と、言っていた。嫁いだ家も知っていたので、何回もその家の近くに行ったが、遂に寄ったことも、声をかけることもしなかった。長屋の一軒で、甲斐甲斐しく働いている藤野さんを、遠くから見ることがあった。長屋のおかみさんになったなと思った。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　父が、群馬藤岡駅の近くにある職業安定所で、満州の開拓団に入団するよう勧められたのは、終戦の年の七月の末だったと思う。入団の手続きや、支度をしているうちに、八月の十五日が来て、そのまま満州への移民は消えてしまった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　一方、関鼻さんの長女、民野さんは、七月の末には、しっそりと、満州へ旅たって行った。何のために、里帰りしたかは遂にわからなかった。危険な本土を、危険な海を、どのような気持ちで、渡って行ったのだろうか。寂しそうな姿と共に思い出すのである。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　これも、大分時間の経ってのことである。無事に、日本に引き揚げて来たと聞いている。引き揚げにどのような苦労をされたかわからないが、本当によかったと思っている。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　行く者。留まる者。人生って、本当に悲喜こもごもで、先は見えないものである。</font></p><p><font size="3">　人生ってそれだから面白いと言いたい所だが、天国と地獄は紙一重だなと思う。</font></p><p><font size="3">　</font></p><br>
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<link>https://ameblo.jp/masatoos/entry-10047558614.html</link>
<pubDate>Mon, 17 Sep 2007 22:18:26 +0900</pubDate>
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<title>夕立の中の秘密</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">　私の大家の関鼻さんのことについて、少し、話しておこう。</font></p><p><font size="3">　我が家が、住まいを借りたときの、関鼻さんの家族は、六十五歳は越えた思われる家長の梅次郎さん、今の目で見れば、赤銅色に日焼けした肌と、顔に刻んだ深い皺から、七十歳は越えているように見えた。この集落の人は、関鼻梅次郎さんの”関”と”梅”をとって、”関梅”さんと呼んでいた。</font></p><p><font size="3">それに、二十歳は越えたと思われる四女の真紀野さん、二十五六歳位の三女の藤野さんの三人家族であった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　しかし、実際は、一男四女の六人家族で、長男の富太郎さんは戦争にとられて外地に行っていた。長女の民野さんは、満州へ嫁に行っていると聞いていた。次女の吉野さんは、東京で看護婦をしているとか聞いていた。関梅さんの奥さんが、何時亡くなったかは知らない。その後、関鼻家の四人の姉妹とは、別別の機会に、顔を会わすことになった。美人の四姉妹であった。しかし、年齢については、何回か聞いたと思うのだが、興味がなかったのか、記憶をしていない。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　群馬県には「かかー殿下に空っ風」という言葉がある。上州の女は養蚕、農業とよく働くので、この言葉がついている。関鼻家の女達もよく働いた。</font></p><p><font size="3">　三女の藤野さんも、四女の真紀野さんも、一日中、くるくると動き回っていて何らかの仕事をしていた。蚕の季節は、蚕の飼育を。秋から冬にかけては、麦作の仕事を。初夏から秋にかけては、稲作の仕事をと。その間、畑の仕事。農閑期には、繭から絹糸を紡ぎ、染色し、その糸で反物を織っていた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　三女の藤野さんとは、ほとんど話したことがないが、四女の真紀野さんとは、よく顔を会わし、話もした。農閑期の時間のゆとりのある時、玄関とは別の、母屋の東側にある出入口のところで、繭から糸を紡いでいた。この出入り口は外にあるトイレに行き来するためのものでもあった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　真紀野さんは、大きな練炭七輪に、大きな鍋をかけ、そこに水をいれ、ぬるま湯の状態にした。その鍋に沢山の繭を入れ、その中の一つの繭から一本の糸を取り出し、十個位の繭の糸を一本の生糸に紡いで、糸車に巻いていた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　一個の繭から、何メートルの糸が取れるか知らないが、一つの繭の糸がなくなると次の繭へと、器用に継ぎ足して、巻き取る糸には継ぎ目がなかった。私は、トイレに行く時、もくもくと仕事をしている真紀野さんの姿を、よく見かけた。時には、そこに立ち止って、真紀野さんが、糸車をゆっくりと回しながら、繭から糸を紡ぎ、巻き取る姿を、飽きもせず眺めていることもあった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　糸車に、ある分量を巻きとると、それを一つの束にして竿にぶら下げていった。この糸の束がある程度まとまると、この束を染色して、母屋の軒先に吊るした。日陰干しをし、反物になるだけの束が出来ると、糸を庭の端から端に張って、機織機にかけられるようにしていった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　何故か、糸は、いつも紫色に染色され、出来上がった反物も、紫の反物が多かったように思う。一つの反物が出来上がるまでには大変な時間と労力がかかるのだなと思った。蚕を育てることも、大変な仕事であった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　真紀野さんは、時間のある時は、母屋の西側にある、機織機の置いてある部屋で、機を織っていた。横糸の船を、紐を引っぱって移動させると、ぺタルを起用に踏んで、縦糸を交互に交差させた。障子戸を閉めていても、その音を聞くことによって、機を織っていることがわかった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　真紀野さんと、時々は話をしたが、私から話しかけない限り、話しかけてくることはなかった。いつも能面のような顔をしていて、感情を表すこともなかった。私を、小さな子供で、話相手にもならないと思っていたのかも知れない。後年、こういうタイプの女の人を何人か見たことがある。真紀野さんも、確かに、そんなタイプの一人である。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　真紀野さんについては、真紀野さんの、面白い秘密を知ってしまったことがある。</font></p><p><font size="3">　関鼻さんの、東側の出口と、外のトイレとは向き合っていて、距離は二メートルと離れていない。トイレは小便用の肥溜めが二つと、大便用の個室よりできている。この小便用の肥溜めには、私の妹が、冬の寒い日に、落ちたことがある。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　私が、大便のため個室に入っている時、急に夕立がやって来て、大粒の雨が落ち始めた。私は、大便をしながら、個室のトビラの板の隙間を通して、雨の様子をうかっがていた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　すると、トイレに行こうとした真紀野さんが、トイレまで二メートルと離れていないのに、激しい夕立のためか、母屋のトビラを開けたまま、着ていて着物をお腹のところまで巻くりあげ、膝をすこし広げてしゃがみ込み、表に向かって、放尿を始めた。私に向かって、オシッコをしているようなものだった。</font><font size="3">私が、トイレに入っていて、大便をしているなんて知らなかったのだろう。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　隙間を通して見ているとはいえ、真紀野さんの白い肌と、黒々とした陰部、そして勢いよく飛び出すオシッコが、妙に艶かしく感じられた。おかしな秘密を知ってしまったものだとも思っている。その後、真紀野さんの顔を見るたびに、その時の光景が想い浮かんでくるのである。</font></p><p><font size="3">　真紀野さんには、まだ幾つかの想いでがある。次の機会に話をしてみたい。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　若い女の人の秘密を知ってしまったという意味で、これと、同じようなことを、高校生の時、山手線中で、経験している。</font></p><p><font size="3">　二十五歳位の綺麗な女の人だった。そんなに混んでいる電車ではなかったが、その女の人は、連結器の傍の、私の座っている座席の前に立っていた。その人は、急にもじもじ始めたかと思うと、身に着けていた赤いスカートの下から、黄色い液体を流し始めた。足元に小さな水溜りが出来た。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　病気だったのだろうか。急なことで、耐え切れなくなったのだろうか。失禁をしたようだった。その女の人は、当惑と好奇な周囲の人の目を気にして、恥ずかしさに耐え切れず涙を流していた。</font></p><p><font size="3">　その時、前で座っていた私は、何故、その人を連結器の中に入れて、周囲の好奇な目から、離してあげなかったかと、今でも、悔いが残っている。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　その後、二回ほど、同じような経験をしたが、その時は、すぐに助けて上げることが出来た。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><br>
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<link>https://ameblo.jp/masatoos/entry-10047422663.html</link>
<pubDate>Sun, 16 Sep 2007 21:23:29 +0900</pubDate>
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<title>幻の満蒙開拓団</title>
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<![CDATA[ <p> <font size="3">　東京の三河島で、焼け出されて、群馬県の”神の流れる村”の上大塚の上久保という集落に疎開することにより、住居としては、一応落ちつくことが出来た。しかし、一番困ったことは、父の働く場所のないことであった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　元々、商人上がりの父にとっては、手に職もなく、商売のできないときは、陸に上がった河童も同然であった。しかも、大馬鹿が付くほど、馬鹿正直で真面目で人を裏切るようなこともしなかった。そんなお人好しのため、要領が悪く、自分の体を酷使して、お金を稼ぐしか方法がなかった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　体を酷使するといっても、体力的には恵まれた体ではなかった。父親が兵隊に採られなかったのも、年を取っていたこともあるが、背も低く、小柄であるため丙種合格にもならなかったためでもある。</font></p><p><font size="3">　</font><font size="3">　</font><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　東京にいた時もそうだった。統制経済の下、だんだんと商売ができなくなり、空襲で焼け出される直前には、近くの軍需工場に労働者として働きに出ていた。</font><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　上久保の集落に住んでからは、貯えも底をつき、父は、知り合いの農家の手伝いをして、給金の換わりに、米や麦を貰ったりしていた。</font><font size="3">江戸っ子は宵越しの金を持たないというが、我が家は、その日暮しそのものの生活であった。幸いなことに、米の飯は食べることは出来なかったが、食事に事欠くことはなかった。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　そして、父は、私の顔をみると</font></p><p><font size="3">　「金を稼げ。働け。」</font></p><p><font size="3">　と、言った。面白いことに、おかしな諺をよく知っていて、時と場所と機会をとらえて、諺を使い分けた。私には</font></p><p><font size="3">　「働くざる者は食うべからず」</font></p><p><font size="3">　などと言った。今考えると、父の働けという言葉は、口癖であって、父親が、自分自身に言い聞かせている言葉なのだろうと思えるようになった。当時の貧しかった日本の親達に共通した言葉なのだろうか。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　父は、父なりに、そんな閉塞感を打破しようと考えていたようだ。</font></p><p><font size="3">　終戦も間近のある日、藤岡の町の職業安定所から、ニコニコしながら帰ってきた。その時の父は四十五歳になっていたと思う。今の感覚でいえば、五十歳を越えたと思われるその父が</font></p><p><font size="3">　「満州の開拓団に参加し、満州に行くことに決めてきた」</font></p><p><font size="3">　と、言った。思いもかけず、誰に相談することもなく、思い切った行動に出てきた。</font></p><p><font size="3">　今思うと、ぞっとするような決断だった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　戦後、満州からの引揚者が、どんなに苦労をしたかは、皆の知るところでもある。未だに、中国からの”戦争孤児”の問題は、解決したとはいえない。引き上げの途中、自らの命を落とした者。可愛い子供を殺した親。可愛い子供を、中国の人に、養子に出した者など、悲劇は語り尽くせない。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　戦前、戦中、日本は、満州や蒙古に、満蒙開拓団という名の移民団を結成し、新天地を求めるという美名のもと、侵略の尖兵として、移民という名の棄民を行ってきた。これは、満州や蒙古の開拓のための労働力。国内の余剰労働力の海外移転という一挙両得の政策だった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　今は逆に、モンゴルから相撲移民という名の出稼ぎ組みがやって来ている。相撲の出稼ぎ組みが、日本の風土に根付いて、日蒙両国の架け橋となってくれれば、国際交流として、こんなによいことはないと思う。そうなることを願っている。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　私の父親の申し込んだ、満州開拓団は、終戦という大事件によって立ち消えとなってしまった。制海権のなくなった関釜連絡船が、如何に危険なことかは判っていただろう。今も、南米移民という名の下に、不毛の大地に送り込まれて人々が国を相手に裁判を行っている。時に、国家という名のえたいのしれないものは大きな犯罪を犯すものだ。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　今、年金問題で、日本中が、国に対して不信感を抱いているが、これは今にこしたことではない。国家は、無知な国民を騙して、とんでもないことをするものだと考えておく必要がある。よほど、気をつけないと、官僚と、、政治家に騙されるということだ。肝に、肝に銘じて心に留めておかなければならない。</font></p><p><font size="3"><br>　終戦は、神の贈ってくれた最大の贈り物であると思う。</font></p><p><font size="3">　本当に、間一髪のところで、助かった。　</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　昔は、そのような父の生き方を、馬鹿に思えてしかたがなかった。しかし、今は、そんな生き方も、あっていいのじゃないか考えるようになった。</font></p><p><font size="3">　”騙されても、人を騙さず、馬鹿が付くほど馬鹿正直に肉体を酷使して働き、そして生きて行く”</font></p><p><font size="3">　そんな父親を誇りに思えるようになってきている。</font></p><br>
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<link>https://ameblo.jp/masatoos/entry-10047021272.html</link>
<pubDate>Thu, 13 Sep 2007 17:55:00 +0900</pubDate>
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<title>フジヤマノトビウオの与えてくれたもの</title>
<description>
<![CDATA[ <p><font size="3">　小さなみよちゃんは、毎日夕方、三叉路の石柱の所にやって来た。 </font></p><p><font size="3">　一日中お婆さんと二人で居るので退屈し、小学校二年生のみよちゃんにとっては、寂しくて、話相手を求めて、石柱の所にやって来たのかもしれなかった。</font></p><p><font size="3">　もしかすると、話し相手は、誰でもよかったのかも知れない。</font></p><p>　 <font size="3">　</font></p><p><font size="3">　私は、みよ子ちゃんのことを、「みよちゃん」と呼んでいた。私にとっても、みよちゃんが居ると、何か安心でき、みよちゃんの言葉には、自分の意に反して、同調し、みよちゃんを喜ばせようとしている自分がいるのに気がついていた。</font><font size="3">幼くて、淡い恋だったのかもしれない。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　いつもは、身の回りで起きるたわいもない話を、二人で、夢中になって話をしていた。話し終わると、すぐに帰るみよちゃんが、その日だけは、何故かぐずぐずして帰ろうとしなかった。あたりも暗くなり、もうすぐ、午後の八時も、回ろうとしていた。その時、みよちゃんは、せっぱつまったように急に涙を流しながら</font></p><p><font size="3">　「前橋の家が燃えてしまったの」</font></p><p><font size="3">　と、いった。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　何時、どのように燃えてしまったかわからなかったが、前橋の家が焼けたということは、前橋にあるみよちゃんの家が空襲にあって、焼かれたのだろう。と、思った。</font></p><p><font size="3">　その話を聞いて、私は、すでに、薄暗くなっていた空を見上げ、前橋のある赤城山の方へ目を移していった。心なしか、前橋にあたる空が赤くなって、燃えているように見えた。</font></p><br><p><font size="3">　みよちゃんは、その話を一気にすると、落ち着いたらしく、</font></p><p><font size="3">　「さよなら」</font></p><p><font size="3">　と、いって、帰っていった。私も</font></p><p><font size="3">　「元気でね」</font></p><p><font size="3">　といって、別れた。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　これが、みよちゃんを見た最後となった。最後の別れでもあった。その後、みよちゃんは、石柱のところに現れることはなかった。集落の外れにあるお婆さんの家にも行ったが、みよちゃんを見ることはなかった。お婆さんに、みよちゃんはどうなったか、と聞きたいと思ったが、聞きだす勇気がなかった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　一方、下大塚にある、山中さんの家の長女の先生と、兵隊さんとの親しげな話し合いは、順調にいっているようだった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　そして、終戦後すぐに、長女の先生と、あの親しく話をしていた兵隊さんとが結婚し、兵隊さんは村に残った。下大塚のはずれにある、かって、村に駐屯していた兵隊さん達が自給のために円墳を壊したりして開墾したあの畑のすぐ傍に家を建て、そこで結婚生活が始まった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　私が始めて見た、長女の先生と兵隊さんとの楽しそうな話し合いは、長女の先生と兵隊さんとの、大きな恋の始まりだったのだと思っている。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　私の知る限り、戦後、この村に残った兵隊さんは、長女の先生の夫以</font><font size="3">外にはいない。長女の先生の夫が、最初で最後なのだろう。太平洋戦争の末期、この村に、兵隊さんが駐屯し、対戦車対策に猛訓練をし、その中で、恋の花が咲いたことなど、知っている人も、少なくなってしまっただろう。</font><font size="3">これも、この村の歴史の一こまであったことに変りはない。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　その元兵隊さんの夫も、結婚後、勉強して教員の資格をとり、夫婦二人で、教員となった。</font><font size="3">教員をしながら、かって駐屯していた兵隊さんが開墾した、かなり広い畑を、休日を利用して、耕作していた。</font></p><br><p><font size="3">　戦中、戦後を通して、私は、お二人に何回か会っている。元兵隊さんは、おだやかで、気品のある人だった。私には、兵隊さんと教員という落差に、奇妙な感じを抱いていたが、優しくて、落ち着きのある人だった。兵隊さんも、皆、普通の人間と同じだということを教えてくれた人でもある。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　何処の出身であるか聞くことはなかったが、畑を耕作しながら、疲れた体を休めて、汗をぬっぐていた姿を忘れることが出来ない。</font><font size="3">長女の先生には、子供が二人生まれ、教員を退職して、子育てに専念していた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　結婚生活も束の間、三年ほどしてご主人が病気で亡くなってしまった。</font></p><p><font size="3">　長女の先生は、再び、教職に戻り、子育てと、仕事の両方に懸命のようであった。</font></p><p><font size="3">　しかし、夫を亡くした寂しさもあってか、子供を母親に預けまま、夜遅く帰ってくることが、多くなったと聞いたことがある。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　ご主人が亡くなった年から、二年間ほど、私は、長女の先生に頼まれて、春、夏、秋の農繁期に、学校が休みになる時、農作業の手伝いに行った。当時、この村では、農繁期には、学校が休みになり、家の手伝いをすることになっていた。私の家には、田んぼも畑もなかったから、長女の先生の手伝いは、今でいうアルバイトということになり、お小遣いをもらい、自分の好きなものを買うための貯えとなった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　長女の先生と、二人で、草むしりをしていた時、先生は、私を一人前の大人のように扱い、人生の悩みを話したことがあった。</font></p><p><font size="3">　先生の母親が</font></p><p><font size="3">　「夜の帰りが遅い。何かあるのではないか。心配している。</font><font size="3">」</font></p><p><font size="3">　と、聞こうと思ったが、ついに口にすることは出来なかった。</font></p><p><font size="3">　大切なご主人を亡くされて、切なくて、寂しくて、悲しいのだろうと思った。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　このお手伝いでは、食事を出してくれて、暑い真昼の時間は、昼寝の時間も与えてくれた。午前は「十時半」。午後は「三時半」。と言って、お茶の時間もあった。「お十時」とか「お三時」という人もいた。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　この農作業の手伝いの時、何時の時間帯に聞いたのか思い出せないが、全米水泳選手権大会のラジオの実況放送を聴いた。日本選手は六人参加していて、三人が入賞するという大戦果であった。今でも、耳を澄ませば、この実況放送を想いだすことができる。私は、この放送を聴いて、大変すばらしい歴史の瞬間に立ち会ったという想いがある。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　後に”フジヤマノトビウオ”と呼ばれた古橋広之進選手が、世界新記録で優勝した時は、長女の先生は</font></p><p><font size="3">　「勝った。勝った。よかった。よかった。」</font></p><p><font size="3">　と、三歳の息子と私を強く抱きしめて、喜びの声をあげた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　”フジヤマノトビウオ”は、戦争に負けて、心身ともに、打ちししがれていた日本人に、大きな希望と自信を与えてくれた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　その時より、二年数ヶ月を経て、私が、この村を去るまで、長女の先生は独身で、子育てと農作業、教員の仕事と忙しかったようだ。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　私は、その時以来、みよちゃんとも、長女の先生とも、会ったことがない。今は、皆が、元気で、楽しい日々を送っていることを願っている。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　</font> </p>
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<pubDate>Sun, 09 Sep 2007 21:55:54 +0900</pubDate>
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<title>可愛いいみよちゃん</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">　上久保の集落には、男女含めて、十五人ほどの小学生がいた。</font></p><p><font size="3">　私と同じ学年の小学生が四人。その四人は、男の子が三人、女の子が一人。私より上の学年の子は五人。下の学年の子が六人ということになる。</font></p><br><p><font size="3">　初めの頃は、集落の子との付き合いはなかった。別に寂しいと思わなかったが、いろいろなことを教えてもらえないことには参ってしまった。</font></p><p><font size="3">　そんな時、この集落のはずれにある七十歳位の一人住まいのお婆さんの家に、孫にあたるかという女の子が、前橋の方から、疎開して来た。</font></p><br><p><font size="3">　終戦も近かったと思う。親は、その女の子を、お婆さんの家に預けると、そのまま前橋に戻ってしまった。学校を転校させる訳でもないので、一時的な疎開だったのだと思う。女の子の名前は「みよ子ちゃん」といい、小学校の二年生で、私より一学年下だった。</font></p><br><p><font size="3">　みよ子ちゃんは、寂しいのか、上久保の集落の入口にあたる三叉路の所にきては、よく一人で遊んでいた。この三叉路の一つの道は藤岡の町へ、一つは中久保の集落へ、残りの道は、私達の住む上久保の集落の入口にあたる道だった。三叉路は、一種の広場で、毎年一月の十五日に行う道祖神のドンドン焼きの櫓を建てる場所でもあった。</font></p><br><p><font size="3">　上久保の集落への入口の道幅は、この部分だけが特別に大きくなっていた。集落に入る道の両端には、祭礼の時に立てる登り旗の基礎の石柱があった。この石柱は、一メートルと二メートル位の大理石の石柱が一対で、道の両端に一対づつあった。</font></p><br><p><font size="3">　みよ子ちゃんは、この大理石の石柱に寄りかかるようにして、遠いところを見ていることが多かった。家族の住んでいる前橋の方向らしかった。</font><font size="3">小さなはぐれ者たちは、時間もかからずに、自然に親しくなった。そして、毎日の夕方、大理石の石柱で会うようになった。</font></p><br><p><font size="3">　私の家から，その石柱までは、ものの一分とかからなかったが、みよ子ちゃんの家からは五分はかかったと思う。私は、夕方、みよ子ちゃんの来る頃をみはらかって石柱のところに出かけた。みよ子ちゃんの姿が見えないと、妙に寂しかった。姿が見えると、不思議に安心できた。焼け出されて、三河島を離れる時に感じて以来の感情であった。</font></p><br><p><font size="3">　みよ子ちゃんは、在方の子と違って、確かに垢抜けのした、小さくて可愛いく、街に住んでいる女の子であった。</font><font size="3">しかし、会うと、小さなみよ子ちゃんは、自分の家のことを自慢したり、判りきった嘘をついた。嘘と自慢をすることによって、寂しい自分の気持ちを奮いたたせているのかのようにもみえた。</font></p><br><p><font size="3">　私は、見え透いた嘘とわかっても、何故か、みよ子ちゃんを許してあげなければと考えた。毎日毎日会って、一日の出来事とたわいもない話をした。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　その後、大きくなって、時々、嘘をつく女の子に出会った。それらの女の子は、小さかったみよちゃんと同じように、小さな時から自身を美化するために、嘘と知らずに自分自身を騙しているのかなと思ったりした。嘘という意識がないのだな。ということを、感じる瞬間でもあった。</font></p><br><p><font size="3">　可愛いみよちゃんとの出会い日々は、遠い幼い日の、わずかに、一月間にも満たない時間であった。しかし、今でも、つい昨日の出来事のように、強烈に想い出せるのは、辛い日々の中の楽しい一瞬だったからだろうと思っている。</font> </p>
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<pubDate>Sun, 09 Sep 2007 17:44:20 +0900</pubDate>
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<title>大きな恋と小さな恋</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">  ”神の住む村”のほぼ中心に小学校があった。</font></p><p><font size="3">　上久保の集落に住む私達が、学校に行くのには、いろいろな行き方があった。</font></p><p><font size="3">　一番の最短コースは、私の住んでいる上久保の集落の外れにある円墳の横を通り、田んぼの中のあぜ道を通って、下大塚の集落を抜け、村のメイン通りを通って、学校へ行く道であった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　下大塚の集落に行くのに、上久保の集落と下大塚の集落の間の長方形のように横たわる田んぼを、その辺に沿って進むか、対角線に沿って進むかの違いでもある。辺に沿って進む道は、リヤカーや小さな車なら通ることの出来る道でもあったが、当然、遠回りの道でもあた。</font></p><p><font size="3">　</font><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　下大塚の集落を抜けるにも、いろいろな道があった。</font></p><p><font size="3">　下大塚の集落も、百軒位の人家があり、その間を細い道が入り組んでいた。</font></p><p><font size="3">　この集落の中心に位置するところにも、火の見櫓があった。この火の見櫓のところは丁字路になっており、上久保から来て、左に曲がれば学校に、右に曲がれば、上大塚の下久保集落に通じていた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　この道は、村のメイン道路といってもよかった。丁字路を左に曲がって、この道を進むと、下大塚の集落の外れで、二つに分かれ、一方の道は学校の東側を、片方の道は学校の西側を通り、新町と藤岡の町を結ぶ舗装された県道と交差していた。　この東側の道は、私が、サイドカーに乗せられて、走った道でもあった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　下大塚の火の見櫓のある丁字路からの、もう一本の道は、下大塚の集落の一部を抜けて田んぼに出る。田んぼの中の道をさらに進むと、四つ角になる。この四つ角は田んぼと畑との境でもあった。真直ぐに行けば、藤岡の町へ。左に曲がれば、上久保の集落へ。右に曲がれば、下大塚の円墳群に向かう。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　この下大塚の火の見櫓のある丁字路の角には、消防用のポンプ小屋があった。</font></p><p><font size="3">　この丁字路の道を学校に向かって、二軒目には、江戸時代から続くといわれる剣道の道場があった。ポンプ小屋の前の</font><font size="3">家は、山中さんといい、偶然のことから、私の母親は、山中さんの奥さんと知り合った。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　類は類を呼ぶではないが、この村に疎開している人たちは、不思議な感覚で、仲間意識を持ち、付き合うようになったようである。私の母親もその一人で、この下大塚に住む、東京から疎開してきたという人と親しくなった。その関係で、山中さんの奥さんとも知り合うようになった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　この村では、ほとんどの家がが農家であった。山中さんの家は、珍しく、農家ではなかった。家の前に、野菜を少し作るぐらいの畑は持っていた。庭がほとんどなかったので、庭が畑といってよかった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　山中さんは、六人家族で、父親、長男、そして長女の三人が、教員をしていた。次女は女学校の二年生で、次男は小学校の六年生ではなかったかと思う。教員一家といってよかった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　私は母を通じて、この家族と知り合うことにより、山中さんの家にある沢山の蔵書と付き合うことが出来るようになった。この家族とは、疎開してすぐに知り合い、東京に引き上げるまで付き合うことになった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　私は、山中さんは、何処かの学校の教頭をしているとか聞いていたが、山中さん本人とも、長男の先生とも、ほとんど顔を合わせたことがなかった。私が山中さんの家で本を借り、その家の裏にある防風林の根元に座って本を読んでいる時など、女学校から帰ってきた次女のお姉さんとは、時々顔を合わせることはあった。そんな時、奥さんが、私を呼んで、当時は珍しいお菓子を出し、お茶をいれてくれたりした。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　奥さんは、身長の大きい人ではなかったが、次女のお姉さんも、長女の先生もスラリとした綺麗な人だった。長女の先生とは、滅多に顔を会わせることもなく、一言三言を話したに過ぎなかった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　私は、長女の先生が、村に駐屯している兵隊さんの一人と、親しく話をしている姿を、何回か見かけた。階級も上の兵隊さんで、話をしている二人は、とても楽しそうであった。私は、その時、二人の間に、何かあるなと感じていた。しかし、そのことを、誰にも話すことはなかった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　知り合って五年ほどして、奥さんは、子宮ガンになり、高崎にある国立病院で亡くなった。母は高崎の病院に見舞いに行ったようだった。</font></p><p><font size="3">　「もうだめだろう。もう先がない」</font></p><p><font size="3">　と、私は、母からその話を聞いた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　次女のお姉さんが、病院の帰りに、一度、私の家に寄ったことがある。その時彼女は、女学校を卒業し、美容師になるとかいっていた時だったと思う。</font></p><p><font size="3">　「母は、治療の時、痛がるので、見ていることが出来ない。治る見込みもないから、早く亡くなった方が幸せじゃないか。」</font></p><p><font size="3">　と、言っていた。今でも、その言葉が、私の耳の底に残っている。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p> </p>
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<link>https://ameblo.jp/masatoos/entry-10046251674.html</link>
<pubDate>Fri, 07 Sep 2007 16:42:25 +0900</pubDate>
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<title>円墳の破壊と自給自足</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3"> 　分散授業になってから、放課後に遊ぶことがなくなってしまい、時間がありあまってしまった。午後には、気まぐれに、竹やりなどの練習もしたが、</font><font size="3">どういう訳か、学校の方へは足を向けたいと思わなかった。学校に行って、先生に見つかり、叱られるの怖かったからでもある。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　そんな時、下大塚の円墳群の方から、ダイナマイトを爆発させるような、にぶい音が、時々聞こえてきた。ダイナマイトを爆発させるとしたら、円墳を壊すのではないと思っていた。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　円墳が誰の所有であるか、わからないが、分散授業の始まる前から、幾人かの兵隊さんが、円墳群の方に行って、円墳と円墳の間の空き地を開墾し、自給のための畑つくりをしているのを見ていた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　私の住んでいる上久保の集落のすぐ近くににある円墳は、直径が二十メートル、高さが十メートル位のポツンと独立している円墳である。丁度、お椀を逆さにしたような形をしていて、お椀の半分の部分は少し崩れて、勾配がゆるくなっている。このなだらかな部分は、畑へとつながっていた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　そのなだらかな部分には芝生が植えられており、芝生を登って、簡単に、頂上に登ることが出来た。残りの</font><font size="3">急な半分の部分には、アカシアの木や潅木が生い茂っていた。この急な半分のすぐ下は、田んぼになっていて、円墳の弧に沿って、田んぼの縁も弧となってあぜ道が出来ていた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　この円墳は、この地域の畑と田んぼとの境界でもあった。私は、家で飼っていたウサギを、この円墳に連れて行き、草を食べさせたことがある。上久保の集落の人から、あそこは神聖な場所だから、いたずらをしてはいけないと、言われた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　上久保の一個の円墳に対して、下大塚の円墳は、少なくとも、七八個はあったので、私は勝手に円墳群といっている。円墳に対する知識はなかったが、その円墳群がどうなったかに、興味があったので、偵察に出かけてみた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　確かに、円墳の間の畑ではなく、円墳そのものが、崩されていた。誰の許可を受けて、どのように壊されたかは知らないが、今思えは、貴重な文化遺産が、無残にも亡くなっていた。いつもみなれていた円墳群も、間引かれてしまうと、昔あった地形を想いだすことも出来なかった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　間引かれた円墳を見ての帰り、久しぶりに、学校に向かう道を通って、遠回りして帰ることにした。丁度、曲がり角に、豪華な墓石を三基ほど持った、個人所有の墓所があった。そこで無線の交信をしている兵隊さんを見かけた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　アンテナを墓石の後ろに植えてある高さ五メートル位の木に引っ掛けて、天秤棒で担ぐ大きな無線機を墓石に載せ、何処かと、無線の交信をしていた。今なら、ポケットに入ってしまう、携帯電話よりも、もっと能力のない無線機と考えるが、無線機も大きいが、電源装置はもっと大きく重かったのだろうと思っている。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　その墓石の横に、真っ赤に燃えた、マンジュシャゲが咲いていた。マンジュシャケは、彼岸花といい、秋に咲く花と思うが、確かに、何輪か寂しく咲いていた。</font></p><p><font size="3">　この光景を見ながら、何故か、日本も、これでお仕舞いだな。と、いう思いがしてきた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　私も、成人するまで、文化遺産の貴重さを知らなかった。考えることもなかった。</font></p><p><font size="3">　戦後、小学校の遠足で、現在の藤岡市の外れにある前方後円墳の七輿山古墳に行ったことがある。その時、先生は、古墳について、熱っぽく説明し、語ってくれた。歴史がそして考古学が好きな先生だったのだろう。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　今も、先生の熱い熱気と情熱を思い出すことが出来る。その時は、何気なく聞いていたが、今は、私の心の奥底に、先生の熱い熱気が届いている。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　「この古墳に埋葬されている人は、この地方きっての豪族で、大和朝廷の支配下にあった。羽の生えている馬を持っていて、大和朝廷の命令によって、この地と大和を一日で往復していた」</font></p><p><font size="3">　と、説明した。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　私は、この地を去って以来、この円墳群を、一度も訪れたことがない。昔のまま、残っているか、どうかはわからない。近くに藤岡工業高校が出来た。新しい道路も出来た。この古墳の近くの宅地開発と、宅地販売のビラを偶然にも見たことがあった。大きく変わってしまっているのだろうと思っている。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　鬼畜米英を迎撃するために、古墳などは眼中になかった時代なのだろう。</font></p><p><font size="3">　この村に駐屯する兵隊さんにとっては、長期戦に備えて、自給自足することのほうが大切だったのかも知れない。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　戦後、米軍が、千年の都、京都を空襲しないことにした。とかいう記事を読んだことがある。紙と木の都、京都は空襲によって、一瞬のうちに灰燼に帰していただろう。</font><font size="3">それに比べ、日本軍の頭は、小学生の私の知識と、そんなに違いがなかったのだろうか。そんな余裕はなかったのか。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　戦後数年して、私は、この円墳の破壊によって作られた畑に、偶然のことから、畑作業をすることになった。私の心に強烈残っているのは、そんな理由からかもしれない。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/masatoos/entry-10045781601.html</link>
<pubDate>Mon, 03 Sep 2007 21:31:24 +0900</pubDate>
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<title>竹やりと戦車（４）</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">　上大塚の集落は、上久保、中久保、そして下久保の三つの小字の集合体であった。そして、私の住んでいた集落は、上大塚の中の上久保の集落である。</font><font size="3">昔の郵便では、大字上大塚、小字上久保と指定すると、間違いなく、郵便物は届いた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　上大塚全体では百件ぐらいの人家があったと思う。</font></p><p><font size="3">　八高線の群馬藤岡駅からみて、群馬県と埼玉県との県境の川。神流川（カンナカワ）までの千五百メートル位の間が上大塚であった。駅に近い上久保の集落から，中久保、下久保と、三つの集落が続き、神流川の土手へと続いていた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　中久保が、この上大塚集落の中心で、ここには、今思っても、大変立派な公民館があり、公民館の傍には鉄骨組みの立派な火の見櫓があった。又、中久保には、いわゆる万屋と呼ばれる、タバコから酒、日用雑貨に至るまで、何でも売っている、上大塚で、たった一軒の商店もあった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　戦況が厳しくなり、学校ではなく、各集落で行う分散授業ということになった。上大塚に住む子供達は、中久保にある深見さんという農家のバッラクを、仮教室として使用することになった。</font><font size="3">農家の人達の結束は強く、このような時にも、発揮された。又子供達への教育、行事などには積極的に参加し、応援してくれた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　納屋といっても、本格的な建築の納屋ではなく、所々に柱を立て、屋根も軽くするためトタン葺きであった。この納屋も、仮教室のために建てたものではなく、農機具や収穫物を一時的に保管したり、雨天などの作業場にするための小屋であった。私達は、この納屋をバッラクと呼んでいた。これとは別に、本格的な建築の納屋を持つ農家も多く見かけた。集落の半数以上の農家は両方の納屋を持っていた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　このバッラクに、黒板が置かれ、机、椅子も人数分揃えられた。</font></p><p><font size="3">　先生は、分散授業のため、ローテションが組まれているらしく、月曜日は雨宮先生、火曜日は関根先生というよにやって来た。授業は午前中だけで、授業が終われば、課外授業もなく、そのまま帰ることが出来た。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　授業の中には、竹やりの練習もあった。農家の裏にある竹やぶから切り出した竹を加工して、子供の大きさに合った竹やりが作られ、一本一本渡された。</font></p><p><font size="3">　農家の庭の隅に打たれた杭に、人間の大きさに似せた藁を巻きつけ、それを米兵にみたてて、突き刺す訓練であった。</font></p><p><font size="3">　家に帰っても、練習するように言われた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　他の集落の仮教室や授業風景を見に行ったことはない。他の集落の分散授業でも、同じ竹やりの訓練ををやっているかなと思ったりした。</font><font size="3">又、このような仮教室が、何処にどのように散らばっているのかも知らなかった。</font><font size="3">今思えば、他の集落の仮教室を見に行っておくべきだったかなと思っている。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　我が家の大家は関鼻さんといった。店子が、縁もゆかりもな人間で、又金持ちでもないので、面白くないようであった。</font><font size="3">しかし、竹やりの練習をしたいという、私の願いは、気持ちよく聞いてくれた。馬小屋の傍にある馬をつなぐための杭に藁を巻いてくれ、模擬人形を作ってくれた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　時間があると、私は、その藁にある心臓に向かって、竹やりを突き刺した。堅く巻いた藁に竹やりを刺す動作は、考えているよりむずかしく、なかなか突き刺すことが出来なかった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　その当時は、何の疑いもなく、練習をしていたが、今思うと、小学校三年生の子供が、マシンガンを持った大の大人のアメリカ兵にむかって、竹やりで何が出来るかと考えると、笑い話にもならない。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　オモチャに毛の生えたような戦車といい、竹やりといい、当時の日本人は、一体何を考えていたのであろうか。竹やりと戦車で、アメリカ軍に対抗できるとでも思っていたのであろうか。戦後、一般住民を巻き込んだ沖縄戦が如何に悲惨な戦に終わったかが話されている。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　アメリカ軍を中心とした連合軍は日本本土の上陸作戦を計画していたといわれている。その時の連合軍の犠牲者を百万人と、想定していたというから、もし、上陸作戦が、実行されていたとしたら、非戦闘員を含めた日本人の犠牲者は、その十倍は超える大変な数になっていただろう。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　竹やりと戦車。終戦前後の日本を、そして愚かな日本人を、懐かしくも、悲しくも、想いださせてくれる。</font></p><p><font size="3">　再び、このような愚かな、同じ日が来ないことを願うばかりである。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3"><br></font></p>
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<link>https://ameblo.jp/masatoos/entry-10045385705.html</link>
<pubDate>Fri, 31 Aug 2007 16:33:02 +0900</pubDate>
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<title>竹やりと戦車（３）</title>
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<![CDATA[ <p> <font size="3">　”神の流れる村”に駐屯している兵隊さんと、子供達との関係は良好であった。</font></p><p><font size="3">　今思っても、この兵隊さんの集団は、本当に器用な集団であった。木造の戦車を造ったが、本物と見間違えるほどよく出来ていた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　二階建ての黒い校舎の横に、工作小屋を作って、いろいろな物を自作していた。その中の一つに、サイドカーがあった。オートバイは何処からか調達したのであろうが、サイドの部分は自作した。私は、時間さえあれば、工作している兵隊さんの姿を眺めるのが好きだった。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　酸素溶接機で、鉄板を裁断し、又それを溶接し、フロート型の人の乗れる部分を作った。それに車輪をつけ、サイドカーのサイドの部分を作ってしまった。塗装も行えば、座席の制作も、みんな兵隊さんが行った。車軸などは、高速で回転するのでむずかしいだろうと思っていた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　私は、この出来上がったサイドカーに乗せてもらった。</font></p><p><font size="3">　出来上がったサイドカーは試運転のため、学校の東門のところに運ばれた。戦車服と思われる制服に着替えた兵隊さんが、防塵メガネをかけ、オートバイにまたがり、舗装もされていない村道を、格好よく、下大塚の方に向かって飛び出して行った。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　しばらくして、けたたましい音をたてながら、サイドカーは戻ってきた。</font></p><p><font size="3">　次は、階級が上の兵隊さんがサイドの部分に乗って、先ほどと同じ方向へ走っていった。これも又、しばらくすると、戻ってきた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　この一部始終を見ていた子供の中から、その格好のよい兵隊さんが、私を選び、軽々と抱き上げて、サイドの部分に乗せてくれた。</font></p><p><font size="3">　「坊主。しっかり掴まっているのだぞ」</font></p><p><font size="3">　と、言って、サイドカーを走らせた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　サイドカーは、私がいつも通う学校への道を逆戻りするように千メートルぐらい走って行き、下大塚の集落を越えたところで、くるりと回転し、学校の東門のところに戻ってきた。向かってくる風が強く、まるで空を飛んでいるようであった。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　サイドカーは、自動車と違って、小さなスペースで回転でき、小回りが効く車だなと思った。村道のように、巾の狭い道に向いているといえる。サイド部分に乗っていて、しかっりとつかまっているので安全とはいえ、体全体が空間を飛んでいるような、不思議な感覚を体験できた。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　その後、高校生になった時、無免許で一年位、オートバイを乗り回したことがあった。その時、昔を想いだして、サイドカーに乗った時のスピード感は、百キロメートル以上ではなかったかと考えたりするが、本当は、五十キロメートルぐらいしかないのに、小さな私には、早いスピードに感じたのかなと思ったりしている。</font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><font size="3">　しかし、兵隊さん達と、親しく会う機会はこれが最後であった。会う機会も、だんだん少なくなり、しばらくして、全く会うことができなくなってしまた。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　埼玉県の熊谷が空襲を受けたのは、その頃で、真夜中のことだったと思う。夜中なのに、東の空が真っ赤に燃えていて、その真っ赤な空が、だんだん暗くなり、私達の住んでいる真上の空は暗かった。集落の人々は、熊谷が空襲を受けているといっていた。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　高崎や前橋も空襲を受けるようになって、子供達を学校に登校させて勉強させることは危険だということになった。特に、兵隊の駐屯している学校は危険ということになったのだろうか。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">　そこで、分散授業ということになり、子供達は、各集落ごとに集まって勉強することになった。</font></p><p><font size="3">　</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/masatoos/entry-10045302670.html</link>
<pubDate>Thu, 30 Aug 2007 22:54:33 +0900</pubDate>
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