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<title>ある海軍少年特攻兵〜増田禄郎の記憶から</title>
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<description>16歳で海軍に志願した大阪生まれの増田禄郎。天王寺村７代目村長の孫として裕福な家庭に育つも、世界恐慌のあおりを受けて一家は苦境に立つ。戦後は職を変えながら家族を支え、令和を見届けて旅立った。遺稿をもとに昭和の記憶を残します</description>
<language>ja</language>
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<title>増田禄郎　小史</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:1.96em;">増田禄郎　小史</span></p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20200129/12/masu6san/79/4c/j/o0600050714704158758.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="186" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20200129/12/masu6san/79/4c/j/o0600050714704158758.jpg" width="220"></a><br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">生誕の地・阿倍野区北畠</span></span><br><br>『増田・その”うから”』にあるとおり、増田禄郎は昭和4年に阿倍野区北畠にあった「阿倍野二十五番屋敷」に生まれます。世帯主は祖父で天王寺村第７代村長の増田忠三郎。父・増田謙吉は忠三郎の長女・えつの入婿で、家業の大阪南煙草元売捌業を継ぐため、京都伏見・淀藩家老の一族として名高い今村家から養子として迎えられていました。<br><br>禄郎は、兄弟六男一女の末っ子で、文字通り男の6番目＝六男です。長男に琢司、次男に忠次良と、継嗣らしい名前がつけられたあとは、三郎・史郎・五郎・禄郎と、字づらこそ忌み文字は避けているものの、名前は数字のまんま。三男以降は、いかにも命名を面倒くさがったかのように見えますが、それでも全員が大切に育てられた形跡があります。<br><br>禄郎は兄弟から「ロクちゃん」と呼ばれ、親族姻族全員からまんべんなく可愛がられたようで、わがままでヤンチャ坊主だった証拠がそこら中に残っています。　（「ロク」のアクセントは、"ク"にあります。アナウンサー用語でいえば『後高』です）<br>きっとどんなわがままを言っても「末っ子だから」と、父母はもちろん兄姉らからも、それを受け入れてもらっていたに違いありません。いわゆる”はしっこいヤツ”で、みなさん手を焼いたと聞きます。<br><br>ある日、兄たちが何かと手が掛かる禄郎を抜きにして、堺の浜寺海岸にこっそり海水浴に行こうと企だてたことがありました。<br>禄郎に気づかれぬようにみんなでそっと家を抜け出して砂浜に来てみたら、麦わら帽子をかぶった禄郎が浮き輪にお尻を入れ、波にプカプカ浮いているのを見つけたそうです。<br>さぞ、うんざりしたことでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20200203/22/masu6san/5b/18/j/o0640047314707307453.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="221" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20200203/22/masu6san/5b/18/j/o0640047314707307453.jpg" width="300"></a>　<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20200306/12/masu6san/fa/2d/j/o0768064914723791825.jpg"><img alt="太秦で映画制作を見学" contenteditable="inherit" height="236" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20200306/12/masu6san/fa/2d/j/o0768064914723791825.jpg" width="280"></a></p><p>　　　　　浜寺海岸の姉親子と禄郎　　　　　　　太秦で映画制作を見学</p><p>&nbsp;</p><p>禄郎が生まれる直前、世界大恐慌の煽りを受けて日本でも銀行の破綻が相次ぎ、増田家が全財産を預けていた第十五銀行も頭取が自殺、破産します。<br><br>当時増田家が維持していた煙草元売捌きビジネスのキャッシュフローが、「売り上げ金の銀行利子」だったため、預金がゼロになると、さまざまな支払いのためのキャッシュフローが焦げ付きます。そのため、増田忠三郎・謙吉親子は保有していた土地や家屋など不動産のほとんどを処分せざるを得なくなりました。<br><br>住んでいた家も処分しなければならなかったため、阿倍野二十五番屋敷から姻族が住む堺に一時期引っ越したあと、最後まで売らずに保有していた東住吉区平野大通（現在の杭全）の小さな屋敷に、一家全員で移り住むことになりました。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20200129/12/masu6san/62/ee/j/o2112150614704160002.jpg"><img alt="北畠一番屋敷" contenteditable="inherit" height="171" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20200129/12/masu6san/62/ee/j/o2112150614704160002.jpg" width="240"></a>　　　　<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20200129/22/masu6san/ed/94/j/o0768102414704505046.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="293" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20200129/22/masu6san/ed/94/j/o0768102414704505046.jpg" width="220"></a>　 　</p><p>&nbsp;　阿倍野二十五番屋敷の玄関　　　&nbsp; &nbsp; &nbsp; 阿部王子神社の増田忠三郎玉垣<br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">住吉中学校</span></span><br><br>大阪市立育和小学校を卒業した禄郎は、当時はレベルが高く入学が難しかった大阪府立住吉中学校（旧制）に進学します。住吉中学〜旧制大阪高校〜大阪大学・京都大学という、この地区の成績優秀者が進学する流れが既にあり、禄郎にかけられた増田一族の期待も大きかったでしょう。<br><br>また、”うから”にもある通り、増田家が保田家から分家して以来200年以上にわたって住んだ阿倍野二十五番屋敷や、増田家の氏神だった阿倍王子神社・安倍晴明神社のすぐ近くに住吉中学の校舎があることは、父母のみならず兄や姉にもうれしいことだったようです。<br><br>禄郎は、住吉中学校でサッカー部とグライダー部に所属していた、と同窓会（現大阪府立住吉高等学校）の連絡にありました。詳細は不明ですが、住吉から八尾の飛行場まで遠征して、エンジン付きのウインチで機体につけたロープをひっぱって離陸する、セカンダリーというタイプの骨組みだけのようなグライダーで、飛行訓練をしていたようです。<br><br>サッカー部ではハーフバックで、今でいう守備的ミッドフィールダーだったと聞きました。当時の写真が、このブログのプロフィールになっています。大仏に似た、来迎と予願の金剛印を両手で示した半跏不坐。14歳のこのとき、すでに身長は170センチを超えていたようで、この時代の男性としては大柄でした。もっとも、増田家の男兄弟は全員が180センチ前後の偉丈夫ばかりで、ただ一人の女性・節子も170センチ近くありました。近所では”バカでかい一族”と評判だったはずです。<br>禄郎の30歳時の身長は181センチでした。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20200203/21/masu6san/1c/4d/j/o1040073814707306759.jpg"><img alt="" height="298" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20200203/21/masu6san/1c/4d/j/o1040073814707306759.jpg" width="420"></a></p><p><br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">海軍に志願</span></span><br><br>太平洋戦争が末期にさしかかり、各地の戦闘で日本軍が大打撃を受け続けた事実が噂で広がりはじめると、いよいよ日本の存亡が市民の密かな話題になり始めました。その最中の昭和19年、禄郎は入ったばかりの住吉中学を退学して、帝国海軍飛行予科練習生になることを決心します。<br>いわゆる予科練「甲飛」で、課程終了後は下士官として戦線に配備される予定でした。<br><br>志願の主たる動機は「皇国を守り一家を存続させる」にあったでしょうが、日本全体がファシズムにがんじがらめになっていた時代のことで、まともな神経だったとは考えられません。それでも、連合軍に国土が蹂躙され、日本国民がどこかの国に隷属することを避けるため、「日本という国家を後世に残したい」という、少年の純粋な決意があったことが推察されます。<br><br>禄郎が最晩年に記した『防人翁航海記』には、「我々日本人は当時オーム真理教信者のようだったかも知れぬ…」と、全体主義に感化されていた自分自身について、悔恨の言葉を記しています。<br><br><span style="font-size:1.4em;"><span style="font-weight:bold;">美保航空隊</span></span><br><br>予科練といえば、軍歌の歌詞にある霞ヶ浦での訓練が有名ですが、太平洋戦争末期には全員がそうだったわけではなかったようで、『防人翁航海記』には、海軍に入隊後の禄郎が、三重の航空隊で基礎訓練を受けたあと、長野県野辺山で特攻要員としての教育を受けた…とあります。<br><br>彼は、特攻隊員だった頃の経緯や経験を、家族にすらついぞ漏らしたことがなく、ひょっとすると多数が目にするであろう文章にしていたことは驚きです。航空隊で運命を共にした仲間と過ごす平和な時間の中で、過酷だった思い出が思わず溢れ出たのかも知れません。<br><br>その後、特攻機「秋水」の搭乗員として出撃命令を待つため、増田禄郎は鳥取・島根の県境にあった美保航空隊に配属されます。美保ではゼロ戦52型に搭乗していた…と家族には告げてました。訓練の詳細な内容は口にしませんでしたが、敵機の背後に回り、高い運動性能でしつこく追尾することがゼロ戦の特技だったので、これを学ばされたでしょう。</p><p><br>しかし、「秋水」は上昇しながら敵機を追うため、それまでにない特殊な飛行技術も、あわせて訓練しなければならなかったはずです。この時期の行動や訓練内容については、ついに最後まで、禄郎は何も語りませんでした。<br><br>「秋水」は神風特別攻撃隊の中でも最終期にあたる昭和20年に計画された「ロケットエンジン」を持つ局地戦闘機です。当初はB29を迎撃するための戦闘機として設計されましたが、飛行時間が4分と短かったため、体当たり攻撃を目的とする特攻機に開発の最終段階で変更されました。機体の先端には600キロ爆弾が取り付けられ、着陸用の車輪さえありません。飛び立ったあとは「敵機に体当たりして爆死する」ことが必至かつ必然だったわけです。狂気の沙汰どころではありません。<br><br>禄郎を含め、指名された特攻隊員は、「秋水」搭乗員となった時点で、戦死を宣告されたも同然でした。<br>このあたりの心境については、遺稿の中では詳細に描かれてはいません。描ける神経を持つ人も、おそらく多くはいないでしょう。<br>戦争がいかに愚かなものであるか、いかに人の心を破壊するかを後世に伝えるため、禄郎はこれらの文章を書いたように思われてなりません。<br><br><span style="font-size:1.4em;"><span style="font-weight:bold;">終戦〜帰郷</span></span><br><br>禄郎が、どこでどのように玉音放送を聞き、どのように除隊したのか、回想録にもその他の資料にも記述がなく、彼が昭和20年8月末に平野の家にひょっこり姿を見せたことしかわかっていません。家族にも言いたがりませんでした。<br><br>平時ならば、直ちに復学して学業を修めるべき年格好です。今なら高校2年生の16歳ですから。<br>しかし、死を目前の運命として心身ともに軍に全身全霊を委ねた若者が、突然「それ、もう必要なくなった」と上官から言われ、あまつさえ”特攻隊にいた”という経歴だけで、世間からヤクザもののように扱われた時代背景を考えると、帰郷した禄郎がほぼ放心状態に近かったであろうことは、容易に推察できます。<br><br>彼の文章によれば、家族の助言に従って医科大学の予科を受験したり、姉の嫁ぎ先で農作業を手伝いながら本を読み漁ったり、鬱勃とした十代後半を過ごしたことが伺えます。<br>しかし、禄郎の将来を決定づけるような出来事は、なかなか現れませんでした。<br><br>住吉中学時代から、彼は自然科学系よりも社会科学系の科目に傾倒していた模様で、特に国語教師だった詩人の伊東静雄氏に深い傾斜があったことが、散文の内容から読みとれます。心の拠りどころを探していたようです。<br>長兄琢司の飲食店経営を手伝ったり、次兄忠次良と貿易会社を計画したり。</p><p><br>数年の紆余曲折ののちに、禄郎は茨木市富田にあった「双龍ミシン製造」に職を得ます。職種は営業で、当時の日本の機械製造業の多くがそうだったように、欧米への輸出が主な仕事でした。<br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">結婚</span></span><br><br>このころ、禄郎は平野大通の実家近くに住んでいた池田敏子を見初め、結婚しました。<br>禄郎が25歳、敏子は23歳。どうやら近隣の話題になるほど、禄郎はストーカーよろしく敏子の実家近くをうろついていたとのことです。よほど惚れ込んでいたと見えます。<br><br>増田家がしっかりした背景を持つ立派な一族であることを確かめた敏子の父・池田北鳥は、二人の結婚を許しました。<br>禄郎・敏子は、増田家の保有不動産だった長屋に居を構え、新婚生活をスタートします。平野大通にほど近い平野西之町。家賃がタダですから、収入が厳しい共働き夫婦にはありがたかったでしょう。翌昭和30年には長男・隆一が誕生します。<br><br>「双龍ミシン」の最大の取引先は、アメリカの通信販売最大手「シアーズ・ローバック社」でした。禄郎は、得意だった英語を駆使して、シアーズとの売買交渉を進め、当時としては大きな売り上げを得ました。シカゴにあるシアーズ本社にも出張して、売買交渉を成功させています。為替レート1ドル360円が固定相場だった時代に、業務での海外渡航を経験した日本人はそう多くなかったはずです。<br><br>親しくなったシアーズの輸入担当部長が、訪日した際に禄郎の自宅に来たことがありました。<br>「あなたの父親は、アメリカでは"イバラキタヌキ"と呼ばれているんだよ」<br>"相手を騙すのが上手い人を日本語でどういうんだい？"と誰かに聞いたところ、その返事が"タヌキ"だったことから、シアーズ社の方々は、禄郎をこう名付けたそうです。交渉上手と巧みな話術で、交際があった何人かのアメリカ人は、禄郎"=Rocky Masuda"にきりきり舞いさせられ、煙に巻かれることが多かったようです。<br><br>敏子との共働きで一人息子を育てながら貯蓄を重ね、平野の自宅から茨木の双龍ミシンへの片道1時間半の通勤を20年近く続けた禄郎は、昭和45年に京都府乙訓郡長岡町の新築マンションを購入しました。</p><p>60平米余りの3LDK。立派な持ち家です。”城を構えた”、と感慨深いものがあったに違いありません。</p><p>孔子の言葉”三十にして立つ”から10年遅れではありますが、"40にして立つ"思いだったでしょう。<br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">転職</span></span><br><br>昭和48年、日本の輸出産業が頭打ちとなっていたころ、「双龍ミシン」はキャッシュフローのトラブルから、経営陣の責任が問われる事態となります。会社を存続させるためには、誰かが引責する必要があり、禄郎はみずからその汚れ役を引き受けました。<br><br>40歳台半ばで失業者となった禄郎は、転職先を探さねばなりませんでした。<br>幸いなことに、まったく同じミシン製造で、アメリカではなくヨーロッパ・アフリカを主な取引先にしていた「宝生ミシン」が、禄郎のキャリアに興味を示し、ハイレベルでの採用を申し出てくれました。失業者から「取締役営業部長」となった禄郎は、勇んで東大阪の放出にあった宝生ミシンに勤め始めました。<br><br>長岡天神に住み始めて、ようやく「通勤片道1時間半」が「車中15分」になったのもつかの間の3年足らず。またもや「通勤片道1時間半」に逆戻り。<br>それでも「あなたを必要としている」と相手から望まれた職場は、彼にとって喜び以外の何ものでもなかったに違いありません。<br>65歳となった平成6年。禄郎は宝生ミシンを退職し、悠々自適のリタイア生活となりました。<br><br><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">最晩年</span></span><br><br>平成天皇が退位し、新天皇即位のさまざまな儀式が始まろうとするころ、禄郎は歩行失調が目立つようになりました。まっすぐ歩くのが難しかったり、立ち上がり直後にふらついたりします。<br>180センチ以上あった体格を、下半身の筋肉が支えられなくなってきたのです。<br>趣味のゴルフでエイジシュートを何度も記録した人物とは思えない、急速な衰弱でした。<br>体幹の筋肉は強さを保つことが難しく、特に高齢になると筋力トレーニングそのものが困難になります。<br><br>令和元年4月、禄郎は買い物に出かけた路上で転倒し、救急病院に搬送されました。運ばれた病院で精密検査したところ、医師は右側頭部が骨折しているだけでなく、頭蓋内の左側に大きな血腫があるのを見つけます。血腫の大きさから見て、昨日今日にできたものでないことは明らかでした。</p><p>つまり禄郎はかなり前に、転倒するか何かの原因で頭の左側を強く打ち、頭蓋内に血の塊が出来たために、右半身に運動機能障害を招いた結果、歩行に失調を生じていたのではないか…と推測できました。<br><br>1ヶ月足らずで血腫も消え、退院して自宅に戻った禄郎は、5月末のある夜、台所で食器を洗っている最中に倒れ、起き上がれなくなります。驚いた敏子が息子・隆一に電話しました。<br>「私、パパを持ち上げられへん、どないしょう」<br>その最中も、禄郎は床に横たわったまま、大きな声で喚いています。<br>「大丈夫や。ちょっと時間をかけたら起きられる！」<br><br>これまでにも、部屋の中で転倒しては5分ほどかけて自分で起き上がったことが何度かあったため、敏子と隆一は”このまま様子を見よう”となりました。<br>ところが翌朝、見守りのために設置してあったウェブカメラをモニターした隆一は、同じ場所に同じ姿勢で倒れたままの禄郎を見つけて仰天しました。<br>ケア・マネージャーに電話をして、ヘルパーを手配します。<br>2時間ほどのちに現場に着いたヘルパーは、禄郎が吐瀉していることに気づき、直ちに救急車を呼びました。<br><br>この日から、禄郎は介助なしではベッドから降りることも出来ない身体となってしまいます。<br>診断は「横紋筋融解症」。一般には「クラッシュ・シンドローム」の名で知られます。地震で倒壊した家の下敷きになった人などに、顕著におこる症状です。<br><br>人間の筋肉は、同じ姿勢のまま外側から強い圧力を長時間受け続けると、壊死してしまいます。圧力から解放されると同時に、壊死した筋肉が分解吸収されはじめ、血液中に分解で生じる毒素が大量に出て、多くの場合、腎臓に深刻なダメージを与えます。<br>禄郎は、腎臓への致命的ダメージはどうにか免れたものの、失った筋肉量と毒素による認知症状の亢進には、厳しいものがありました。<br><br>半年近い闘病とリハビリ病院や介護施設への二度の転院を経て、最後の場所となった京都九条病院4階の一室で、禄郎は二日ほどの昏睡の後、妻・敏子と長男・隆一に看取られながら息を引き取ります。<br>令和元年（2019年）12月29日午前5時。<br>卒寿まであと1か月足らずでした。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/masu6san/entry-12570885201.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Jan 2020 12:19:54 +0900</pubDate>
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<title>美保海軍航空隊（甲飛第十四期）  第二十四分隊　ー　名簿</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><span style="font-size:1.96em;">美保海軍航空隊（甲飛第十四期）</span></p><p style="text-align: center;"><span style="font-size:1.96em;">第二十四分隊</span><br>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">分隊長　　　分隊士　　　　　分隊士　　　第二班長　　第三班長<br>＊執行中尉　＊三ツ谷集中尉　＊田中少尉　＊津田上曹　＊中野一曹</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;"><br><span style="font-size:1.4em;">［一班］</span><br>㈰民谷平次　㈰栗原　昭　㈰浅田　操　㈰木村　健　㈰杉本　肇　㈰武田　淳　㈰竹口完太郎<br>㈰野村泰三　㈰北野三巌　㈰阿部　薫　㈰藤原基次　㈰時井文男　㈰村岡昭典　㈰進木　亮　㈰林　猛㈰西村恒二　㈰秦　圭三　㈰河合卓二　㈰山田喜久男　㈰藪木三郎　㈰片地　進　㈰森本　㈰高木敏夫　㈰大森昭典　㈰北岡　昭　㈰小久保浩二　㈰小久保浩次　㈰川村雄二　㈰浦川幸雄　㈰植木柾雄<br>㈰中野俊弘　㈰遠藤　一　㈰宮川潤二　㈰宮川潤一　㈰阪口進一　㈰中村昭二　㈰藤原良治　㈰白崎　㈰白井　㈰伊崎富三郎　㈰小野沢昭三　㈰吉原　㈰筧　㈰小林勇二　㈰吉嶋重一　㈰田島昭二<br>㈰大野義作　㈰安野正章　㈰松沢俊夫　㈰権平英二　㈰上田　清　㈰神田秀二　㈰藤江恒男<br>㈰室田○弘</p><p style="text-align: left;"><br><span style="font-size:1.4em;">［二班］</span><br>㈪服部勝治　㈪服部勝二　㈪太田輝彦　㈪前田　㈪栗田　㈪柏木　栄　㈪石飛　功　㈪佐野<br>㈪松本昭吉　㈪藤沢　猛　㈪塩沢資起　㈪吉田忠生　㈪吉田忠正　㈪戸田　進　㈪河田　哲<br>㈪勝浦賢三　㈪広嶋泰治　㈪渡辺　寿　㈪西山　猛　㈪鈴木文保　㈪久保重雄　㈪内田和彦<br>㈪高瀬弘一　㈪大藪　彦　㈪新家　清　㈪新家真澄　㈪吉村　㈪古村　㈪森下重雄　㈪庄司教幸<br>㈪浦島俊一郎　㈪中村順一　㈪橋和田稔　㈪白木　寿　㈪唐津辰男　㈪中内光司　㈪佐久間進<br>㈪長崎洋一郎　㈪大羽希男　㈪関　国男　㈪神保　㈪捧　典男　㈪岸本　肇　㈪菊田玲二　㈪上田利春　㈪堀田俊一　㈪栗原　功　㈪石川淡水　㈪荒井吉雄　㈪徳田輝夫　㈪坂口敏夫　㈪長谷晴美<br>㈪岡正太郎　㈪鈴木三郎　㈪角野<br>&nbsp;</p><p style="text-align: left;"><span style="font-size:1.4em;">［三班］</span><br>㈫西尾廣文　㈫西尾博文　㈫入江　㈫桑野　㈫妹尾　㈫八代英造　㈫堀口　㈫川島祥男　㈫菊池<br>㈫松尾　㈫豊島五男　㈫木島憲生　㈫中村一栄　㈫川井　㈫加藤　孝　㈫辻　㈫松浦　㈫新保勝栄<br>㈫中島　㈫山崎八郎　㈫伊賀崎登　㈫堀江　㈫土屋平之進　㈫岡本春樹　㈫安田　㈫多田千秋<br>㈫山田昌一郎　㈫稲庭　㈫成相　康　㈫磯井　㈫太田　㈫村木　仁　㈫藤木三省　㈫谷口卓男　㈫杉山　㈫松浦　昭　㈫手島　修　㈫魚谷　㈫中村　生　㈫美好　勇　㈫山口昭治　㈫川原　㈫宮脇　孝<br>㈫佐藤吉郎　㈫飯盛文夫　㈫飯森文夫　㈫河合　昊　㈫宮崎　㈫北川　㈫藤岡利男</p><p style="text-align: left;"><br><span style="font-size:1.4em;">［四班］</span><br>㈬宇田川幸雄　㈬笠原　聡　㈬土屋辰男　㈬佐間典久　㈬高橋　実　㈬山根昭一郎　㈬加藤園生<br>㈬篠川重孝　㈬黒岩　登　㈬戸田昭進　㈬明田　清　㈬稲葉作次　㈬月山清造　㈬佐々木礼二郎<br>㈬福田喜臣　㈬増田祿郎　㈬後藤宇平　㈬渡辺昭二　㈬水口　洋　㈬辻角　貢　㈬辻川　昭<br>㈬岩崎昭典　㈬神島昭典　㈬立見啓一　㈬上松啓一　㈬山田栄治　㈬沢見　貢　㈬小山幹夫<br>㈬吾妻　豊　㈬奥村典男　㈬鳥居勝美　㈬玉田　理　㈬神沢良之　㈬高山　修　㈬松尾　孝<br>㈬松本明芳　㈬縄船弘路　㈬中村俊夫　㈬斎藤　登　㈬野津清志　㈬岩橋隆三　㈬神保正雄<br>㈬神保正男　㈬山元利和　㈬安達正男　㈬佐々木史郎　㈬池内正弘　㈬後藤恒男　㈬河合茂雄<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/masu6san/entry-12569439773.html</link>
<pubDate>Fri, 24 Jan 2020 14:16:58 +0900</pubDate>
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<title>瀬戸内周航記　〜　漢詩</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="font-size:1.96em;">献詩朋友</span><br>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="font-size:1.4em;">聚七朋知帆艇上<br>両日周遊播磨灘<br>夙無風而不翻帆<br>泓澄海無些漣穏<br>隻海鴎孤浮泛閑<br>孤舟飄飄渡海面<br>食握飯談亭午時<br>白雲一片去悠悠</span><br><br><span style="font-size:1.96em;">朋友に詩を献ず</span><br>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="font-size:1.4em;">七人の朋知　帆艇の上に聚まり<br>両日　播磨灘を周遊す<br>夙に風無くして帆は翻らず<br>泓澄たる海は些かの漣も無し　穏やか<br>隻海鴎　孤り浮泛して閑かなり<br>孤舟　飄飄として海面を渡る<br>握飯を食して談ず　亭午の時<br>白雲一片　去りて悠悠たり</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="font-size:1.4em;">＝＝＝＝＝＝</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><span style="font-size:1.96em;">家島行</span></p><p style="text-align: center;"><br><span style="font-size:1.4em;">遠霞連碧雲　西行播磨灘<br>遥望男鹿島　採石改山容<br>丘陵尽裸岩　無青松林巒<br>古趣安在哉　覇図悵已矣<br>孤遠帆絡繹</span><br><br><span style="font-size:1.96em;">家島のうた</span></p><p style="text-align: center;"><br><span style="font-size:1.4em;">遠霞、白雲に連なり　西行す　播磨灘<br>遥かに望む男鹿島　石を採りて山容改まる<br>丘陵尽く裸岩　青松の巒無し<br>古の趣　安くんぞ在る　覇図ああやんぬる矣<br>孤り遠帆　絡繹す</span></p>
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<link>https://ameblo.jp/masu6san/entry-12569439173.html</link>
<pubDate>Fri, 24 Jan 2020 14:14:11 +0900</pubDate>
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<title>増田・その”うから”〜あとがき</title>
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<![CDATA[ <p><br>あとがき<br><br>　数年前、節子姉より一通の書状が届いた。中には昭和三十八年ごろに姉が受領という父謙吉直筆の「今村家系図」の写しが同封され、『もっと詳しいことは故今村まき宅の愛子ちゃんか、故おつたさんの妹「東その」さんあたりに聞くと判ると思う。安楽さんのことは、岡の佳子さんにもっといろんな事も聞いたが、文には書けぬ』という趣旨の文が認められていた。「愛子」さん、「東その」さんのお二人をよく存じ上げぬ私は、やむなく図書館、古文書史料館などで、父謙吉の書いた「今村家系図」をもとに調べを進めて可成りのことは分かったものの、尚且つ不明の細事は、節子姉・忠次良兄の示唆と、中野佳子（旧姓・岡）、内田ひろ（旧姓・今村）、岡健郎の諸氏のご教示を得て、可成りの解明が出来た。また三井家については、五年前に完璧な報告書「三井元孺先生及び其一家に就いて」（医学博士呉秀三書・中外医事新報・昭和五年）を三井良子さんより送って頂いていた。<br>諸兄姉に厚く御礼申し上げる。また、昔日の枡田と阿倍野の記述は琢司兄の長女「みさを」さんから天王寺村誌を得て可能になった。深く心にとどめ、「みさを」さんに謝辞を呈したい。<br>　再三、資料と照合し訂正補筆を繰り返したものの、まだまだ誤字や字句の繋ぎの不都合、また言葉の足らぬところや誤謬もあろうかと思うが再校正の時間的余裕無く、ご寛恕願う。<br>　諸兄姉よりの資料の中の詳しい所番地・電話番号は、プライバシー保護の観点から敢えて記載しなかった。詳報して頂いた諸兄姉に御礼申し上げ且上記省略にご理解を願う次第である。なお表題の推敲を忠次良兄に依頼、表紙題字の書は三郎兄の手を煩わした。改めて謝意を表したい。<br>　語彙の乏しさに才気の衰えと健忘が加わり、己が遅筆に呆れつつ何とか書上げること出来、ようやく脱稿出来たのは幸運というほか無い。すべてに感謝…。<br><br>【指摘を受けた数々の補記・第一版要訂正箇所を修正した改訂版がこれです】<br><br>［平成十二年秋　増田祿郎記］<br>【参考文献】<br>天王寺村誌、東成郡誌、増田過去帳、京都府議会歴代議員録［京都府議会・昭和36年版］、久御山町史［久御山町・昭和29年10月］、藩史大辞典・第五巻［雄山閣出版・平成元年］、姓氏家系大辞典［角川書店］、三百藩々主名事典、寛政重修諸家譜［続群書類従完成会・昭和42年］、新編・物語藩史・淀藩［新人物往来社］、史料・京都の歴史［平凡社］、稲葉神社・田辺家・渡辺家・渡辺家・各家文書［京都歴史資料館蔵］、淀城温故会報告［淀温故会発行・京都歴史資料館蔵］、浪速医家名鑑［思文閣出版・昭和58年］、大阪人物誌［同上］、大阪名医伝［同上］、大阪人名録・上中巻［日本図書センター・大正14年］、日本紳士録［交詢社・大正14年］。<br>&nbsp;</p>
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<pubDate>Tue, 21 Jan 2020 08:28:31 +0900</pubDate>
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<title>増田・その”うから”〜吉野通り</title>
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<![CDATA[ <p>　住中の三年先輩の芥川賞作家・阪田寛夫が書いた「吉野通」という短編がある。<br>　小説「檸檬・冬の日」などの有名作家・梶井基次郎が両親たちと住んでいた家が偶然にも阪田の兄が学校帰りによく立寄った吉野通のラジオ店と判り、兄から聞いた道順を頼りに阿倍野と吉野通を訊ね歩いて梶井基次郎の作品の舞台の往時の阿倍野を偲び、町の様子は変ったものの人の良い人情は変っていないことを知ったというエッセイである。<br>　梶井基次郎が亡くなるまで阿倍野に住んでいたとは露知らず、彼の両親が王子町吉野通に移り住んだが彼の東大入学の大正十三年ということも初めて「評伝梶井基次郎」を読んで知った。梶井の書いた『市が南へ南へ行かうと草深い田舎を住宅や学校、病院などにした地帯』の、地元の百姓が地主になって小さな長屋を沢山建て野原の名残りが年毎に消えつつある町の『その間でも比較的早くから出来ていた通筋で両側はそんな町らしい、いろんなものを商ふ店が立ち並んでゐる』との件りの土地は阿倍野で、通りは王子町・吉野通のことだったのである。<br>　短編「吉野通」にも戦前の昭和時代の懐しい件りがいっぱいある。『吉野通は…中学校の周辺ではただ一つの盛り場で…チャンバラ専門の映画館、たまり場になるような飲食店…大都映画や新興キネマの破れたポスター、安物の天麩羅油の煙、商店街の何年も前の花飾り、わざと長いスカートをはいて目の下の黒い不良女学生、制帽を油で固め徽章を見えなくしてしまった不良中学生、商業学校生…など中学生時代の私にとっては暗い匂いのする一画であった』。<br>　わたしと同様に南海上町線の東天下茶屋で降りて通学した阪田は、旧熊野街道は知っていても吉野通に馴染みがなく、兄の言葉と所番地を頼りに吉野通の梶井ラジオ店と梶井基次郎の家を訊ねていく。『…いま歩いているのは、中学時代に電車を降りて学校に向かった道だ。ここはまた、中世以来熊野詣りの人が通った街道だと言われている。左手にすぐ安倍晴明神社がある。信太狐を母としたという陰陽師安倍晴明ゆかりの祠であろう。…次は阿倍王子神社、古い王子信仰の祠である。兄の話では王子神社を抜けろ、細長い境内を抜けたところが十三間道路で、そのまま横切って入った横丁が吉野通と交叉した東北かどに、梶井のラジオ屋があった筈。』<br>　一帯は空襲を免れて外側はともかく中身は戦前そのままだが、辺りで訊ねても『その前はパチンコ屋で戦前はタバコ屋』、『むかしはみな屋号で覚えていたから名前には聞き覚えがない』とか、『戦争中は主人や若い勤め人が入営したし…』と埒があかず、梶井の小間物・ラジオ店から歩いて二分のところの、基次郎が『狭屋僅か身を容るるのみの言語道断の家』と友人に書き送った玄関二畳・座敷四畳半・台所三畳の母と移り住んだ家がなかなか見つからず、一メートルほどの幅の狭い露地を何度も行きつ戻りつした末に、基次郎の文章の『昔の赤煉瓦の塀だけ残った風呂屋の裏庭の背の高い花、共同便所の筋向いに祀ってある水神さまのような祠、格子にさした柊といわしの頭、修理するとすれば毀わすしかないところまで風化するにまかせた古い静かな二間か三間の長屋、大正時代からずっと休業しているような元「酒場」、「犬に糞させたら、どうなるかわからんぞ」と威嚇した字体の木札』などの風情の残影をある一隅を見いだす。基次郎が「交尾」に『夜更けに力のない肺病やみの咳が聞え、あれは魚屋だ、と可哀そうに思い、自分の咳もそんな風に聞えるのか』とその咳の音を『自分の分として聴いてみる』と書いた長屋は正しくこの辺りと感じ取り、古いうどん屋で出会った人たちの人の良さに『肺結核が重くなってこの町に還って来た梶井基次郎が「檸檬」を書いた頃の彼とどこか変わったとすれば、それをもたらしたのが、肉親をはじめ、このうどん屋に集まったようなこの町の人たちの総体であろうか』と感銘し、映画の吉野館がセルフ・サービスのパン屋になっていたことや帰途の住吉公園で南海本線を高架にする工事が進められているの見て、過ぎた時に長さに思いを深める。<br>　以上が阪田寛夫の『吉野通』のあらましである。<br><br>＝＝＝＝＝＝＝＝<br><br>　私の知っている昔の大阪、そして阿倍野。…それは昭和も十年余も過ぎた時代ではあったが、まだ何んとなくおっとりとした明治大正の俤が、新しい昭和のプチ・モダーンの装いがはっきりと芽吹いているなかに、そこかしこに残っていた。<br>　そんな戦前の昭和の阿倍野の面影を、国木田独歩の『武蔵野の俤は今纔に入間郡に残れり』を真似て『阿倍野の俤は今纔に……に残れり』と披瀝したいところだが、今ではその探索すら覚束ない。<br>　私が旧制府立住吉中学にいたころは、紹鴎（千利休の師、茶道の中祖、堺の出）の杜や北畠顯家を祠った阿倍野神社には、まだ昔の面影が残っていた。帝塚山や北畠、相生通や晴明通、松虫の高台の西の崖の傾斜地や邸の間のところどころに残された空地には昔の阿倍野の名残の高い赤松の木々が聳え立ち名もなき荊棘が密生していた。その俤すら今は消えたのではと憂慮している。<br>　ともあれ私の中学時代の阿倍野、広く言って戦前の大阪上町台地南部の情景を思い描いてもらうために、同人誌『四年坊』に掲載の文を抜粋引用する。<br><br>＝＝＝＝＝＝＝＝<br><br>　数寄をこらした邸宅が長い塀と繁った樹木にかこまれて、学校を取り巻いていた。邸の間にある空き地には、私たちがヤイトと呼んだ蔦に似たヘクソカズラが生い繁り、その小さなオレンジいろの花の蜜を求めて揚羽や、青筋揚羽が集まり、時には黒揚羽が私たちを嘲け笑うかのように、その黒い絽のような大きな羽根を悠然とゆらしながら廃屋の彼方へ消えていった。雑草の葉蔭や石の上で蜥蜴が青い背を不思議なみずみずしさで煌めかせ、蛇が体をくねらせて叢の暗がりへ消えた。夏の盛り、まばゆい太陽が土塀や煉瓦塀の両側に続くアスファルト路に照り返して陽炎がゆらめき、人影のないひっそりかんとした町の木立ちで蝉か喧しかった。時折、鬱蒼と繁った樹木のおくから、もの憂げなピアノの音が聞こえてきたりした。……<br>　…学校から数粁離れた、市の南端を東西に流れる川の辺りまで往復したり、時にはさらに南下して、陸軍の演習場まで行くこともあった。十三間道路とよんでいた広いアスファルトの路を、私たちは肩掛けカバンに飯と梅干だけの弁当を入れ、時には乾きに耐えるため水筒を持たずに、銃をかつぎ砂を入れた背嚢を背負ってあるいて行った。<br>　当時は自動車の数は少なく、牛や馬に引かれた荷車や自転車が多かった。南に下るにつれて、往来は閑散となり路の両側は家がまばらになった。玉葱畠がひろがり、肥溜めの野壺には陽光にひび割れした肥が盛上がって、跳ね釣瓶がしょんぼりと空をさし、いちめんの金盞花は陽炎にゆらめいて古びた藁ぶき屋根の農家が遠くに固まって見えた。黴びたような灰色の腹掛けをした馬が麦わら帽子から尖った耳をのぞかせて、木陰の水呑み場で休んでいたり、トタンぶきの傾いだ飯屋の店頭には水色と赤色の『氷』の旗が風にゆれていたりした。小さな墓地があり隣接して火葬場があった。野中に立つ先端が煤けた火葬場の煙突が見えると、私たちは川が近くなったのを知って、ほっとするのであった。</p><p>　まだ木々が生い茂って閑静だった戦前の天下茶屋、松虫、北畠から帝塚山あたりの南部上町台地、そして、今ではびっしりと住宅がひしめき地下鉄まで通じているが、播磨町辺りから大和川への道筋と、その東の長居、我孫子、杉本町辺りへかけての広々とした長閑かな田園風景…そんな情景が私のこころの根底の「阿倍野」に今も広がっている。</p>
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<link>https://ameblo.jp/masu6san/entry-12568528793.html</link>
<pubDate>Mon, 20 Jan 2020 22:35:12 +0900</pubDate>
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<title>増田・その”うから”〜想い出・阿倍野</title>
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<![CDATA[ <p>　　四、想い出の阿倍野<br><br>　いつも思うことであるが、『故郷とは、ある意味では場所ではなく、自らの生きた時代の、こころに残るなつかしい風物』ではなかろうか。大正から昭和初め生まれの私たち七人のきょうだいの心の『故郷』は阿倍野の、ひろく言うと、戦前の或いは昭和の初めの時代の大阪の風情であり、それ抜きでは当を得ないと思って、この「想い出…」の章を加えた。<br>　あなた自身の『故郷』</p><p>　それは、あなたの心にあらたに生まれ豊かな微笑みを投げ掛ける</p><p>　わたし自身、兄や姉とは異なり、わたしには阿倍野は出生地だが生活の記憶はまったく無く、憶えているのは物心がついた昭和も十年以降に訪れた次のようなものである。<br>　旧松虫筋のひっそりとした林の中の三井の最初の家。</p><p>　忠三郎祖父さんと行った阿倍王子神社の祭りの夜の露店。</p><p>　北畠の三井の家と銀（市営）バスの寂れた北畠終点。</p><p>　平野大通の家を初中終訪ねてくれた、槌谷万次郎・万ちゃんの安倍晴明神社脇の家。</p><p>　母校・旧制府立住吉中学在学中の見聞。</p><p>　そんな阿倍野の限られた思い出の中で、五年前『琢司兄の傘寿によせて』という小冊子に書いた母「えつ」に因んだ文章を、誤植脱字を正し補筆して、再録する。<br><br>〓　〓　〓<br><br>　おとこ六人おんな一人のわれわれ兄姉弟を母「えつ・悦」はこころ密かに誇りに思っていた。母は親せきや知り合いから『お悦っあん、本当によろしますなぁ』と羨しがられ、祖父忠三郎は誰かれとなく「七福神の孫」と自慢した。<br>　末っ子の私が当時の旧制府立住吉中学（現住吉高校）に入ったとき、母の喜びようは相当なものだった。末っ子が進学し、入試の心配は終ったという解放感と嬉しさにもまして、旧制住吉中学が阿倍野の北畠にあるゆえに、「これで阿倍野がまた身近になった」の喜びが強く胸に噴き上ったのではなかろうか。紛れもなく阿倍野は母にとって掛け替えなき故郷・愛惜の父祖の地であった。<br>　入学式の帰途、北畠から電車に乗らず、『ちょっと寄っていこう』と母は阿倍野の旧増田の邸の方へ歩き出した。撫肩の母の少し丸まった背にうららかな春の陽光が隈なくそそいで終始母はにこやかだった。<br>　南海上町線の北畠から路面電車道をしばらく北へ行くと電車軌道が左へ逸れ、道は幅二間ほどの旧熊野詣の街道に入る。この旧街道に入る間際の東南角に、万ちゃんの自慢の娘・お玉さんが嫁いだ藤本さんの邸宅がある。その前を通り過ぎて旧街道を歩きながら、母はまだ子供の私に美人のお玉さんがどの様に望まれ相思相愛の嫁になったかを一頻り語りつづけた。<br>　（後日、藤本さんの二人の子息が住中の五年と三年先輩で同じサッカー部員で、次男で三年先輩の藤本さんがサッカーの練習のとき『お前とこはうちと親戚やてなぁ、祖父さんから聞いたわー』と言っていたと母に告げると、母はすっかり顔をほころばせて『そうかぁー』と心の芯から嬉しそうな声を出した）<br>　ゆるやかに曲がる狭い旧街道は当時すでに舗装されていたが、道を挟んで立ちならんだ家々はいかにも旧い街道筋という風情で物静かだった。…長く突き出た大屋根の庇と低い中二階の虫籠窓の家、或いは見越しの松のある立派な高塀を回らした重厚な大壁の二階家。或いは裾を犬矢来で囲った品のよい小振りの源氏塀と軒の低い家。突き出た小屋根の長い庇とその影の連子出格子、そして、その前の駒寄せ。…日本の旧き良き時代を偲ばせる家並みであった。<br>　最初に出会って声をかけたのは母より歳も大分若い女で、『これは、これは』と互いにびっくりしたように言い、丁寧に挨拶をかわした。あとで聞いてみると『増田の本家に当たる保田の若ご寮さん』とのことだった。それまでに保田が本家と聞いてはいたが、会ったのは初めてだった。偶然だが現在の当主の保田の長男とは住中一年のとき同級になった。<br>　母の阿倍野の話を聞きながら街道を北へ辿るうちに、次から次へと母の知り合いの女に出会った。『これは、これはお珍しい』などと声を交わして笑顔いっぱいで歩きながら頭を下げて挨拶し、すぐ後で歩きながら母は『いまの人は…』とその都度、名前や家の場所、増田との関係などを教えてくれた。本当に楽しそうだった。私は分からんなりに、ただ『うん、うん』と頷いていた。<br>　右手に安倍晴明神社（狂言で有名な、信太狐を娶った安倍保名の子、陰陽師安倍晴明…増田の先祖…の祠）、左手にゆかりの保名の名のついた郵便局が見えた辺りから、阿部王子神社、増田の菩提寺の広台寺、その先の保名湯まで歩いていく間に、次から次ぎと<br>『ひやぁー、お悦っぁん』<br>『ひやぁー、○○さんー』<br>　と、弾んだ声を掛け合う女たちに出会った。<br>　互いに小走りに駆け寄って（あの肥えていた母が…）肩を抱き合わんばかりに再会を喜び合い、道の片側に寄って<br>『今度一番下のこの子が住中へ入ったので…、また此方へ帰って来たみたいな気分』<br>　とか言っては、互いに積もる話を始めた。<br>『うちに寄って、ゆっくり、していって！』<br>『あんまり、ゆっくりも、してられへんねん！』<br>　誘いを断りつつも母は喜々として、いつ尽きるともなく積もる話をつづけた。いずれも娘時代からの仲のよい友だちだった。街道東側の中野（息子は住中の同級生で医者、墓は広台寺で隣同志、母どうしも仲良しの事も知っていて増田の墓を掃除してくれている由）、西側の梅薗、本家の橘（息子とは住中同期）など阿倍野筋の奥さんたちだった。喜々として声は若やぎ、母たちは明治末から大正初めの娘ざかり、昭和初めの新妻のころに戻っていたのかもしれない。母たちの出会ったときの声、挨拶の言葉や話から、親密さのほどが直ぐにわかった。<br>　一時の交歓を終えると再び母は歩きながら、『ここは梅薗さん』とか、王子神社の楠を指して『この木に雷が落ちてなぁー』とか、私に阿倍野を教えて置こうといろいろ話しをつづけた。いまから思うと旧知の友に一人でも多く会いたい気持が強かったのだろうか、上町線東天下茶屋駅の方に折れずに旧街道をまっすぐ十三間道路の旧青バスの円い終点（現松虫通交差点）の方に歩いていた。<br>　母が旧街道の北の端まで足を延ばして会いに行った相手は、一番気が合って仲がよかったという酒屋の橘の小母さんだった。<br>　彼女は私の住中入学を聞き、住中をその年に卒業して大阪外語へ入ったばかりの一人息子・一郎さんを早速呼んだ。<br>『このぼん、住中に入りはったんや。部屋へおつれして、あんたの持ってなはる中学で役立つもん、差し上げて。いろいろ相談に乗ったげなはれ。』<br>　一郎さんは指図通り私を二階の自分の部屋に招じ入れ、<br>『役に立つかどうか分からんが…』<br>　と、自ら選んだいろいろな品をくれ、とりとめもなく話をぽつりぽつりとつづけた。ときが経ち、ころあいを見はからって下に降りた。<br>母たちは喜々としていて語らいは止め処がなかった。積み上げられた酒樽の陰の、ひろい三和土の玄間土間の脇に私の靴が揃えられていた。<br>　待兼ねるように私が土間の脇までゆき靴を履いた。母はこちらを振りむき、それを汐にやっと腰をあげ、それでもまだ名残惜しそうに両三度うしろを振りかえり、いろいろと念を押すように二口、三口しゃべってようやく門口を出た。道みち遠ざかるうしろを何度も振り返り、笑みを浮かべながら別れのことばを繰りかえし呟いた。<br><br>　よほど気分がよかったのか、母は『吉野通の浅田の昆布屋も教えておいたげる』と声は弾ませた。　‖明治四十年に母が数え年十三歳で生母「はる・春」と死別（肺結核）するのだが、それ以前から「はる」に代って、大正四年に旧淀藩の重臣今村家の次男謙吉を母の婿に迎えるまで母を育てたのが曾祖母「せい・勢」で、昆布屋の浅田、堺の足袋屋の浅田は「せい」の実家の浅田につながる従兄妹で、弟と妹を失くした母にとっては兄妹同然の人たちであった‖<br>　来た道をもどり保名湯の角を東に折れて王子神社の前で十三間道路を渡って狭い横丁を抜けると、吉野通である。公設市場があり、にぎやかな商店街だった。話には聞いていたが訪れたのは初めてだった。<br>『お祖父さんが大阪で初めての公設市場をここに開いたんやで…』<br>　耳が胼胝になるほど『お祖父さんが…』の話はいろいろと聞かされていたが、このときの静かに語る母の話は『ふん、ふん』と神妙に聞いていた。<br>　吉野通を南へしばらく行くと、右側に間口五六間の表戸全部が引違いの硝子戸になり、軒の庇が低く突出た商家がある。「浅田の昆布屋」だった。表から見た店内には、右手の奥の帳場があり、そこまでの狭い三和土の通路以外はすっかり低い板の間になっていて、その上には白足袋を付けた数人の職人と七、八人の丁稚がべったりと座り、足を伸ばして昆布を削っていた。左手の奥では長持位の大きさの機械がガッチャンガッチャンと大きな音を立てていた。<br>　硝子戸を少し開け、覗き込むように頭を屈めて母が声を掛けた。<br>　丁稚と職人が一斉にこちらを振り向いた。板の間の右手奥にいた年配の職人が後ろに首を回し短く『奥さんー』と声を上げ、奥の帳場へ来客を告げた。少し間を置いて右手奥から和服姿の綺麗な女が両手を前掛で拭きつつ出てきた。怪訝そうな目をこちらに向け二三歩こちらへ歩み寄ったところで、ぱっと顔が輝き弾んだ声を張り上げた。<br>『ひゃぁー、お悦っぁーん！』<br>　少し若く見える束髪の綺麗なその女が、母を育てた曽祖母「せい」につながる、母の従姉妹だった。大喜びで駆け寄り母の手をとってなつかしがる彼女に、母は私を紹介し挨拶させた。挨拶もそこそこに母の袂をかかえて奥の座敷に誘う彼女に、<br>『この子に貴方とこの場所だけ教えとこうと思ぅて…、すぐにお暇せんならんけど…』<br>　と言いつつ、母はこちらを振り向いた。<br>『一寸お邪魔さして貰おうかな』<br>　私はぶっきらぼうに返事した。<br>『座敷には行かず此処で昆布削りを見ている』<br>　たくさんの職人と丁稚がおなじ格好で板の間に座り文庫本ほどの大きさの薄い鉄の刃で脇見もせずに昆布を削っている様は壮観で興味深かった。職人の一人がわたしの横に付いて店内をまわり、昆布の種類や、刃物の持ち方、力の入れ方などの違いで上等にも安物にもなるという手削りの黒白とろろ昆布、おぼろと敷き熨斗昆布の違い、とろろ昆布の手削りと機械削りの見分け方など事細やかに説明してくれた。機械削りでも手削りの物より美味いとろろ昆布の見分け方もこのときに習った。味わったいろいろのおいしい昆布の味は、いまも忘れられないでいる。<br>　小一時間は経ったであろうか、弾んだ笑い声がして浅田の小母さんが母といっしょに出てきた。彼女は売り物の特上の出し昆布の束を無造作に三つ四つ包んで、<br>『しょうむ無いもんやけど…』<br>　と母に渡し、粉の噴いた酢昆布のセロハン包みを有無をいわさず私の上衣のポケットに詰め込んで、『学校帰りに、何時でも寄ってな…』<br>　と頼むようにささやいた。<br><br>　通学は上町線東天下茶屋から学校まで歩くという規則だったので、この日母とともに歩いた阿倍野筋・熊野街道は毎日のように学校の往還に通ったが、終ぞ足を延ばして浅田を訪ねたことはなかった、母はときどき訪ねていたのだあろうが。訪ねる機会は多々あったのに…と、今は悔やんでいる。</p>
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<link>https://ameblo.jp/masu6san/entry-12568528637.html</link>
<pubDate>Mon, 20 Jan 2020 22:34:37 +0900</pubDate>
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<title>増田・その”うから”〜岡家</title>
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<![CDATA[ <p>【岡家】<br>　「たけ」叔母さんは父謙吉の直ぐ下の妹で、淀藩の重臣岡茂之の長男・篤郎に嫁した。大阪の南郊、堺上野芝向ケ丘に邸があり、男一人女五人（内男子一人夭折）の従兄姉は、三井の従兄姉三人に次ぐ、近くに住む従兄姉だったが、男六人女一人とほとんどが男の我々に対して岡は男一人女五人とほとんどが女なので、堺高女［現泉陽高］の同級生の節子姉と岡の佳子さんと、年齢が一つしか違わない私と岡の健郎君（一才年下で健ちゃんと呼んでいた）は同年輩の女同士或いは男同士ということで、互いに親近感はもっていたものの、交通の不便さもあり、従兄弟同士の往き来はあまり無かった。<br>　たけ叔母さんはハキハキしたいつも元気な人だった。園芸が得意で、邸の庭の向う側のやや傾斜した畑地には、いろいろな花や作物が栽培されていた。戦後、叔母さんに招かれ、父が孫をつれイチゴ摘みに行ったことも、まだ記憶に新しい。<br>　ホワイト・アスパラガスを私が初めて賞味したのも岡の家である。私がまだ幼稚園か小学一、二年生の頃だったと思う。健ちゃんと偕子ちゃんの二人が私の相手してくれているところに、御八つが運ばれてきた。果物とマヨネーズを添えた太いホワイト・アスパラガスが一人づつの皿三つに盛り分けられていた。さっそく食べ出した健ちゃんと偕子ちゃんは瞬く間に食べ終ったが、私はアスパラガスに暫く戸惑い、果物だけ食べてフォークを置いた。健ちゃんと偕子ちゃんは私の食べずに残したアスパラガスを、身を乗り出して覗き込み、問いかけた。<br>『食べへんの？　嫌い？　マヨネーズつけて食べたら美味しいよ、食べたげよか？』<br>　少しは食べないと悪いかと思い、一つだけ食べて残りは皿ごと二人の前に押しやった。二人は<br>『ほんとに要らんの？　美味しいのに…』<br>　と、申訳なさそうに言いながら、瞬く間に平らげてくれた。ちょうど、そこへやって来た叔母さんは、私のアスパラガスを二人が食べたと気付き、二人を叱った。<br>『どないしたん、…あんたらの分、十分、あったやろ』<br>　家に帰り、琢司兄に「美味しいアスパラガスを初めて食べた」と話すと、声を立てて笑った。<br>　スイスで友人宅に招かれ、ワインと茹でたてのホワイト・アスパラガス一品だけの夕餉に驚いたことがある。このとき、ワインを飲んで団笑しながら、大皿に盛られた太いアスパラガスを眺め、健ちゃん・偕子ちゃんの二人が見詰めていた太いアスパラガスを想い出していた。<br>＝三井の駿一さんが「岡は名家なんやで」と言ったことを思い出し、健ちゃんに電話した。<br>『名家？　駿はんが言うてたて？　そんな風に言われても困るけど…』と自慢となるのを憚り謙虚な口振りで言葉を濁したが、健ちゃんから送られた岡家系譜には篤郎叔父さんの母「もと」は淀藩家老石崎家の出とあり、また淀藩筆頭家老・田中権太夫の後裔が中心となり主催する「淀（正字はサンズイに奠と書き淀と同義でテンと読む）城温故会」から主な淀藩重臣の後裔の一人として集会に呼び出され、健ちゃんか禮子夫人が必ず出席している。父謙吉の父・今村忠平十馬の実家上月家と比肩される重臣の家柄である。<br>　鳥羽伏見の戦の折に淀城に尾張侯と烏丸・三条両公家の言葉を伝えて淀藩を官幕いづれにも組させなかった京都留守居の有名な岡鉚之助の事を訊ねると『あぁ、鉚之助なぁ…』と言い『先祖は…それ、…釣天井の、…甲斐の…』と口ごもっていたが、後日礼子夫人の教示によると、先祖は下野宇都宮藩十五万五千石本多正純（家康重臣、関ケ原・大阪の役に大功）の重臣で、正純の出羽配流、藩取潰しで浪人後、小田原城主・稲葉正則に召抱えられ、以後岡家は越後高田・下総佐倉・山城淀と稲葉歴代藩主に仕えた。岡鉚之助（後に健司と改名）は篤郎叔父さんの祖父に当り、京都留守居同役だった縁の石崎氏の娘「もと」を嫡男茂之の嫁に迎えたという。<br><br>　子供の頃、正月に両親と京都へ行った帰途、京阪電車の中で篤郎・たけ夫妻と偶然一緒になり、「正月には毎年、院展を見に京都に二人で行く」と聞き、子供心に「美術鑑賞に毎年欠かさず京都に行くとは！」と深く感銘した覚えがある。その事を電話で話すと健ちゃんは素っ気なかった。<br>『堂本印象が教え子ですねん、券を送ってくれるから行ってたんでしょう』<br>　紀元二千六百年の祝賀だったか、父が読んでくれた新聞記事の「岡教育長を先頭に提灯行列は…」と言う文言を憶えていると言うと、<br>『父は教育長と違う。大阪市の教育部長。それも二千六百年の時は教育部長を辞めて錦城商業（今の商業高校）の理事長で増田の伯父さんが校長。憶えてる？』<br>　あの新聞記事は、南京か武漢三鎮陥落の祝賀の時だったのだろうか。身内への賛辞めいた言葉を聞くと、健ちゃんはことさら素っ気なくなり、私の記憶は否定されてしまった。<br>　俗に「食べ物のことは忘れない」と言うからアスパラの記憶に間違いはないと思うけれど、「違う」と言われそうで、アスパラガスのことはまだ健ちゃんに話していない。<br><br>【湊家】<br>たま叔母さんは、父謙吉が「優しくて素直で、兄姉妹の中で一番仲が良かった」と語っていた、父の一番年下の妹で、宇治の素封家湊家に嫁した。夫・孝三郎叔父さんは大正の初めに南朝鮮の木浦を中心とする地域で主に物資交易の事業を始め、発展成功させた実業家である。<br>　大正末か昭和の初め頃のものだろうか、ちょうど現地にいた湊の叔父叔母を父が訪ねた時の木浦近辺の写真をアルバムで見たことがある。屋根の上はおろか、入口の框、家の中まで土埃がうずたかく積もり、道を行くツルマキ姿の男の埃まみれの靴同様に、家の柱まで土埃にまみれて白っぽく、舞い散る土埃が、写真を見ている私にまで、降り懸かってくるように思えた。電柱電線は見当らず、もちろん道路に舗装はなく街路樹もない。食い入るように暫く見詰め、写真の場所を父に聞いた。<br>『朝鮮の木浦。湊の叔父さんを訪ねたときの写真』<br>　返事は事も無げであったが、漂う異臭まで匂ってくるような異郷の情景に胸が詰まり、そんなところで暮したという叔父叔母を思いやった。<br>　孝三郎叔父さん・たま叔母さんに初めて会ったのは、宇治川河畔に新築された湊邸の披露に招かれて、母が当時名門校の天商（現天王寺商高）一年生の五郎兄と小学五年の私を連れて訪れたときだった。昭和十五年の冬のことである。<br>　寒は過ぎていたのだろうか。風はまだ冷たいが、そこかしこの日溜りの温かさは春近しを思わせた。宇治川右岸を遡り、宇治発電所放水路の出口を過ぎて興聖寺総門より少し上に行ったところに、新築間もない湊の邸があった。美しい若木の生け垣、…数寄屋風の門の、木の香も匂う北山杉の白木の丸太柱、そして大きな檜戸。松や楓など、いろいろな姿の美しい木が彩りよく、屋敷をめぐる庭に植え込まれていた。宇治川沿ひにつづく南の部屋の縁側硝子戸越しには、庭いちめんの長く伸びた冬枯れの芝と、間引かれて枝に残された淋しげな松の葉と、幹に巻かれた菰の藁先が宇治川の冬の川風に震えていた。<br>　三井や岡のおばさん達は先に来ていた。無駄口もきかずに、孝三郎叔父さんは私たちに自ら宇治の茶を入れ、空になっていた三井や岡のおばさん達の茶碗にも注いで回った。初めて味わった美味しい宇治のお茶だった。叔父さん自身が茶の愛好家で、自ら選んだ最高級品だったのだろう。「これは玉露というものに違いない」と思ったが、晩になって眠れなかったという記憶もないので、玉露でなかったのかもしれない。自らの茶好きがそのままに、叔父さんは絶えず気を配って、客が茶をのみほすと直ぐさま新しい茶を注いだ。おばさんや母たちは茶をいただきながら話しに興じ、たま叔母さんも話の輪に加わりながらも接客に気を使って長女の安子さんにあれこれと用事を頼んだ。終ぞ嫌な顔一つせず叔母さんを助けて事なく用をこなす、わずか一、二才私より年上の安子さんの、その落着き振りに感服し見とれた。<br>　薦められるままに邸の中を見せてもらった。叔父さん自慢の玄関の欅の大きな一枚板と黒い水研ぎ板石を敷きつめた十坪はあろうかと思われる浴室には目を瞠った。やがて「内の中ばかりでは詰らなかろう」と旧制中学（現高校）高学年の次男興二さんは五郎兄と私を外へ連出し、発電所の放水路あたりを散策の後、特別に船頭に頼んで借切った舟で宇治川の風を共に楽しんだ。艫で竿差し舟を操る菅笠姿の船頭と、外套を着て制帽を被り高瀬舟の胴の間で、川風に吹かれて寒そうに微笑む私たち兄弟二人、…その時の思い出の写真が色も褪せずに私のアルバムにある。<br>　邸のなかでは、叔母さん達のお饒舌りが尚も続き、叔父さんは口数少なく安子さんと側に付き切りで世話をしていた。その内、三男の朝三さんは学校に用が会って出掛け、元気盛りの小学三、四年生の末っ子・瑩子ちゃんが友達の家から一旦帰ってきて遊びにまた出掛けると言い、安子さんに窘められた。なぜか長男の孝夫さんは不在だった。<br>　まだ太平洋戦争の近付く足音の聞えず、叔父さんの朝鮮の事業も成功で順風満帆、更に前途洋々、平穏な時が流れていた。。<br>　時は移り、叔父さんが南朝鮮に築き上げた事業・資産は敗戦によってすべて無となるのだが、戦後、叔父さんの事業の意欲は国内にむけられて衰えを知らなかった。己が進む道を閉ざされ迷っていた時にそれを聞き、私は目から鱗の落ちる思いをした。ネバーギブアップを教えてくれた叔父だった。<br>　幼いころ阿倍野の増田の家で暫く過したとかで、年長の兄たちと親しい長男孝夫さんが、戦後暫くして、遠くて交通不便な平野の増田の家まで無事を確かめにわさわざ来てくれ、私たちと互いの無事を喜び合った。同志社大学に在学中馬術部に所属していた四男・朝三さんは史郎兄と同い歳で、その消息は同じ同大馬術部で史郎兄と同窓の友人から良く聞いていた。そして、卒業後「殖産住宅」に入社したと知り、「住宅の心配はないだろうなぁ」と当時住宅難に困っていた私たちは羨んだ。<br><br>　昭和も四十年余を過ぎた一日、五郎兄が車を駆り父謙吉と史郎兄と私とを乗せて今村の「とら」お祖母ちゃんの墓に参った事があった。墓参りを済ますと、父は突然、湊の「たま」叔母さんに会いたいから「黄檗の万福寺まで行ってくれ」と言い、父の一番の仲好しがたま叔母さんで、宇治川河畔の家から万福寺の近くに移転したということをそのとき知った。移転された湊の家は万福寺の前を西に入った一角にあった。ちょうど亡き孝三郎叔父さんの法要をされていた日で、岡の叔母さんも来訪されていて、図らずも、父は岡・湊の二人の妹に会うことができた。私たちが岡・湊の叔母さんお二人に会ったのは、これが最後となった。今にして思えば、あの日の黄檗行を指示した父は墓参りをして亡き母「とら」から啓示を受けたのかも知れない。<br>　兄弟姉妹が多くて仲が好いと人生が豊かになるとつくづく思う。<br><br>　湊の従兄姉五人は皆さんご健在で、長男孝夫さんは産経新聞社退職後、長野県信濃町の黒姫高原で「ペンション・ポルタス」を経営、他の皆さんも別掲「今村家系譜」に付記の地に在住との由である。<br>〓　　　〓　　　〓</p>
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<link>https://ameblo.jp/masu6san/entry-12568527495.html</link>
<pubDate>Mon, 20 Jan 2020 22:30:04 +0900</pubDate>
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<title>増田・その”うから”〜今村家</title>
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<![CDATA[ <p>【今村家】（別掲今村家系譜参照）<br>　曽祖父、忠平…京都倉庫社長と父謙吉の覚書きを基に調べたが明治三十七年設立の伏見町の倉庫以前の倉庫業の記録がなく、祖母「とら・登羅」書の墓誌「初代忠平、天保六年（一八三五）七月十四日生、今村彦三郎第二子、母堀内氏（明治十二年歿）、諱（本名）士直、春草園と号し元治元年（一八六四・滿廿九才）里正（村長）、明治四年（三十六才）久世郡第四区副区長、明治九年より十一年（四十一より四十三才）まで学区教育取締、明治十二年二月村総代、九月歿、享年四十五、法名・暢融軒宗誉乗雲実道居士」以外の詳細は不明。唯、京都府議会歴代議員録の祖父・今村十馬忠平の項に「当家（今村家）は明治十七年当時、地祖七十余円を上納していた素封家」とあるは、曽祖父忠平のことであり、法名より察するに「伸びやかで長閑、高く上りて実に従う」人柄で徳ある人と思われる、…身内の身贔屓かも知れぬが。また父の覚書にある曽祖父忠平の妻、我々の曽祖母「医者の娘、とめ」は墓の表記に「岡西泰庵五女、大正五年八月十三日歿、享年七十二才」とあり、弘化二年（一八四五年）生れで増田の曽祖父庄三郎より一才年上と分ったが、それ以上は不詳。<br>　祖父、忠平…京都府議会歴代議員録の記述（参考に写し添付）には「淀藩城代家老の上月家、上月景文の三男として藩邸に生れ幼名十馬または重馬とよび、幼少より藩校明親館に学び長じて京都府中学校卒業後大阪に出て文部省直轄の師範学校に入り同校が東京大学に合併されるや辞して郷里に帰り、まもなく今村家の養嗣子となり忠平を襲名し家督を相続、爾後三年余、小学校に奉職。その後、政治に関心を寄せ様々な活動の傍ら、農業の発達進歩と殖産興業に努め山城製茶会社（資本金三万円、当時米価一石三円余）を設立、地元製茶業の発展高級化に寄与した。明治廿二年より、長男の医師・啓太郎が久世郡会議員となる大正八年までの三十一年間、村会議員、村長、府会議員、郡会議員、郡会議長を歴任、佐山村々政と京都府、とくに久世郡の治政改善に尽し、のちに立憲政友会に属して南山城一流の政治家と目された」とある。また記述「明治十七年当時、地租七十余円」の上納額から計算すると、いくら少なく見積もっても田畑四町歩半以上、山林十町歩以上を有していたと推定される。　戦前、三井の「とみ」伯母さんが中学生の私に語った。<br>「篝りの鉄籠が庭のあちらこちらに立てられて、すべての出入りの門の戸は全部に開け放たれ、夜になるとすべての篝りの薪に火が入れられる。…絶え間なく弾けて燃える篝火の音、…ほんのり明るくい火に映える庭、…出入りの門からつぎから次と入ってくる年貢米の俵を積んだ大八車。…篝火のパチパチという音をかき消すように響くガラガラという車の音と、がなるような人声がこだまのように籠って聞こえてくる…」、<br>『一晩じゅう賑やかで…、子供ごころにワクワクしてなぁ、なかなか寝付かれへんなんだ。伯母ちゃんの小さいときの話やけど…』<br>　ざっと、そんな話だった。<br>　佐山村大字林の今村の家｜私の記憶のそれは、…榎などの木々の取り囲む庭、…その真ん中の池の縁石にこびりついた黒ずんだ水苔。池の中程の平らな黒い島石の上には家庭用の散水筒先が手製の木の台に上に向け取付けられ、その緑青付の薄汚れた乳白色の細い筒からの可愛い一メートルほどの高さの噴水を、何度もせがんで、飽かずに見とれた。池の前の「離れ」の横の納戸のようなところに舶来のオートバイが立て掛けられていた。忠夫さんが乗っていたオートバイである。<br>『ハーレーダビッドソンと同じ米国製のインデアンという上等の車やで』<br>　一緒に訪れた兄は物知り顔で黄土色に塗った胴体ガソリンタンクの両側のインデアン酋長の羽飾りのマークを指差した。六十年以上も前の話である。<br>　戦後まもなく訪ねた時、ちょうど甲村の「ふみ」さんと未だ小学生の仁さんがいらしたが、あまりにも変わってしまった辺りの様子に驚き、その驚きの記憶のみで家の様子が思い出せない。<br>　祖母、今村とら…私たちにいつも優しいおばあちゃんだった。新田の駅で汽車から降りる時に怪我をして脚を悪くしたとかで杖を突いてゆっくりと歩き、「あんた、祿ちゃんやったな」と話しかける声はゆったりと円やかだった。<br>　茶屋裏の新しい家で法事があった時のこと。<br>『美千枝さん、あの御子にも一人前あげてな』<br>　横にいた母は大いに恐縮し気を使って頂かぬよう頼んだが、そんな母の言葉をよそに、うら若い嫁の美千枝さんが小学生の私に運んでくれた「一人前の膳」には、ぜひ孫に見せて食べさせたかったのだろう、昆布で煮付けた掌ほどの大きさの魚の旨煮が付けられていた。<br>『それ、美味しいやろ、巨椋池の諸子や。もっと欲しかったら、お替わり貰い』<br>『とんでもない、もう十二分にいただいてます、…結構です、…有難うございます』<br>　母は再び恐縮して言葉を遮るように慌てて断り、礼を言った。<br>　ともかく鮒よりも大きい諸子に瞠目し、その旨さを堪能した。一生忘れ得ぬ思い出である。後にも先にも、あんなに大きな旨い諸子は識らない。昆布で煮付けた魚は数多く賞味したが、あれより旨いものに出会ったことはない。祖母が毎年のように送ってくれた地鶏のことは父謙吉の項で書いたので省くが、この祖母の薦めた諸子のことは是非触れておきたかった。そんな祖母は、ただ優しいだけでなく、一方では、異母妹の「はま」さんを引き取り今村の家から安楽家（今村家系譜参照）へ嫁がせたという、気丈さと懐の広さを示した、硬骨の「幕末生れの士族の家付娘」と言えると思う。<br>　後年、私も長じて山城を訪れる機会も薄れ晩年の祖母を訪ね得なかったが、昭和二十年、優しかった祖母は、その七十八才の生涯を閉じた。<br>　その葬儀の日、米空軍戦略爆撃機のＢ２９の編隊が来襲、山城上空に飛来したとき単機迎え撃った日本の戦闘機がＢ２９に体当りし、「早よう防空壕へ入りぃ」という三井の伯母の喚き声もよそに、父謙吉はキラキラと西日に燦めき舞い落ちるＢ２９の砕け千切れた翼を身動ぎもせず見詰め、多分搭乗員の私のことが脳裡に浮かび、母を失った悲嘆に輪を掛けて、胸は張り裂けんばかりの思いだったに違いない（三井の伯母談）という、…戦後、そのことを父は一言も私には言わなかったが。<br>　宇治市広野町の曹洞宗円蔵院にある今村家の墓所を、戦後、機会を得て父と共に訪れた。祖母が眠る「今村家累代之墓」の横に二基の墓があり、磨かれた石の肌も早や荒れて滑らかさを失い赤く黒ずんでいたが、「今邨忠平之墓」「今村登免之墓」と刻まれた草書の文字は見事で目を奪われた。ふと父のほうを目をやると、父もその赤く黒ずんだ二つの墓石の文字をじっと見詰めていた。幼いときから親しみ見とれて馴染んだ筆跡に万感迫るものがあったのだろうか、<br>『これ、お祖母ちゃんの字や。達筆やろ』<br>　父の言葉はしんみりと、私の胸に突き刺さった。墓正面の草字のみならず側背全面にびっしり刻された楷書文字もすべて祖母の筆であった。父の顔をそっと見詰め私は黙って頷いた。いつまでも二人は時を忘れて佇んでいた。＝墓建立が明治十三年三月とあるので祖母十五才（今なら高一）の書ということになる。<br>　今村啓太郎…父謙吉の兄。軍医や医師としての伯父の話は父から断片的に聞いていたものの面識はなく、久御山町史で初めてその風貌に接し名村長としての事蹟を知った。大正八年から大正十二年まで父忠平の後を襲いで久世郡会議員を務め、昭和初期の経済疲弊、社会不安が日本全土に拡がり、そして農業恐慌のさなか水平社運動や全農労の小作農民の社会活動が久世郡全体に高まりを見せた混乱期に、佐山村々長として「村民の協同一致の精神」を説き、自らの医学的知識を駆使して村民の健康育成を図り、農業振興、生活向上、その他、村の振興を苦慮、きめ細かに村政を遂行したと町史にある。昭和八年九月十六日歿。享年五十二才。その功積に村民は村葬をもって死を悼んだ。<br>　妻の「さわ」伯母さんは佐山村婦人会の会長で、その活躍ぶりは朝日新聞の関連の事と共に町史に載っている。優れた伯父伯母の記事を町史で読み胸を熱くした。<br>　啓太郎・さわ夫妻には、長女・都、長男・忠夫、次女「ふみ」、三女「ひろ」と、我々の従兄弟が四人いるが、大正一桁の生れの琢司・忠次良両兄はともかく、昭和生れの私には年齢が開き過ぎて記すに足る思い出がなく残念に思っている。<br>　唯、三女ふみさんの夫の、旧陸士・陸大を首席で卒業し恩賜の時計を受け、太平洋戦争の緒戦、蘭印で嚇々たる戦果を上げた南方軍参謀・甲村武雄さんのことに触れておきたい。<br>　昭和十七年、凱旋した甲村少佐に父謙吉が会いに行き、誇りに思う甥と会った嬉しさに縷々そのときの様子を私たちに語り、父が付け加え話した『皆さん戦勝に浮かれて…、凱旋して大歓迎してもらって言うのも何ですが、戦争は厳しいですよ』という意味の武雄さんの言葉を、今でも忘れることが出来ない。我々の誇りであった義従兄の甲村武雄さんが蘭印作戦の戦犯の罪を被り国に殉じたことに、自ら志願し航空戦に身を賭した一人として、深く哀悼の意を表したい。<br>　また、長女・都さんの嫁ぎ先、上瀬家の義姉（婿篤夫さんの姉）俊枝さんが高槻・中井啓吉に嫁し、中井啓吉・俊枝夫妻の孫・中井清隆さんのもとへ、節子姉の三女・万寿美さんが嫁いでいるという奇縁も付記しておきたい。<br>　四人の今村の従兄姉夫婦八人のうち、内田家へ嫁した三女ひろさんが今もご健在で、長男忠夫さんの夫人美千枝さんはこの八月に亡くなった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/masu6san/entry-12568527321.html</link>
<pubDate>Mon, 20 Jan 2020 22:29:18 +0900</pubDate>
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<title>増田・その”うから”〜つながる人々</title>
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<![CDATA[ <p>　　三、『うから』<br><br>　家族・親族のことを雅語で『うから』という。われわれ七人兄姉弟に身近かだった『うから』も、我々から二代三代と世代が下るにつれて馴染みも薄れて新しい世代の『うから』がふえ、やがて旧い世代の『うから』は記憶からセピア色に薄れて消えてゆく。それ故に、我々の父や母、祖父母、曾祖父母、そして、それらの『うから』ことを記しておくのも無駄ではあるまい。<br><br>【増田家】<br>&nbsp;</p><p>　曽祖父庄三郎…私が憶えている曽祖父は孫の守りなどは一切せず、『魚は鯛しか、わしゃ食わん』と気位の高い人でした。堺の湊・出島では「よし」という女中が幼い私と五郎兄二人の子守を兼ね、彼女が家事手伝いで忙しいときは、女学生だった節子姉さんが代りを務めた。余談だが、阿倍野では年少で炊事洗濯、子守、使い走りが役目の下女中は、呼名を松、竹、梅とするが増田の決まりで、飯を炊くのが上手で、竈に薪をくべると家を抜出し遊びに出掛け、御飯が焦げたら取っちめてやろうと待ち構えていても美味しい御飯が丁度炊き上る頃に帰って来る（大叔母・金森この談）お松という娘が子守嫌いで、乳飲み子の私の守りになるとおぶった私を抓って泣かすと琢司兄が物陰で見張ったそうな。阿倍野から移り住んだ堺の湊・出島の海辺は汐の香とオゾンが満ちて縁側は日当たりがよく、井戸の丸い石囲いの上には釣瓶の桶と背を丸めた三毛猫が、そして濡れ縁では入歯をはずし口をもぐもぐさせて曽祖父が、日向ぼっこに余念がありません。幼い私たちが曽祖父に近寄って邪魔しようものなら「あっちへ行け」と怒られました。そんな気難しい爺さんも「料理や味には無頓着で鯛でさえあれば喜んでくれるから、ええ人や」とは母「えつ」の評でした。遊んでもらった憶えのない爺さんでしたが、たくさんの会葬者と四十数台もの連なって走るタクシー（三郎兄談）に何のことかよく分からずはしゃいでばかりのお葬式の後、私は幼くして初めて寂寥の感に身を染めました。享年八十八才、昭和八年夏雲が去り潮騒も遠ざかる静かな九月の初めでした。<br>&nbsp;</p><p>　祖父忠三郎…公私にわたる立派な功績を残した人で、明治四十五年四月より大正四年五月まで天王寺村の村長。その後も村会議員、その他公的事業の常任理事・常任評議員として活躍し南大阪の発展に寄与した。その業績を改めて知り、その驚くべき先見の明に今更ながら感服する。主な事蹟だけを挙げてみても、<br>イ、荒蕪地開墾、耕地整理…村内の有志五十九人で耕地整理組合を作り、当時の金一万八千円弱を投じて面積九万坪余、当時の地価で一万六千円の天王寺以南の上町台地西側の田畑・宅地・地沼・原野・道路・溝渠・堤塘のすべてを整備して治水と農業振興を図った。明治四十五年一月大阪南区大火災で壊滅した難波遊郭の人達が再興を期し再営業許可を得て、たまたま天王寺西南（旧北・中・南堺田）の約二万二千坪を購入、地価五円の地が七十五円となり、これで得た巨万の利を組合員全員平等に分けた。一方、購入した人達は阪南土地建物株式会社を設立、道路を整え障壁を築き貸座敷を構えて、大正七年に妓楼四戸で開業した。世にいう『飛田遊郭』である。整備した荒蕪地が高く売れたことも然る事ながら遊興税に土地、家屋、所得の諸税と営業税などを加えた新たな税収入が村の財政に寄与し日本一富裕の村にした功績は大きい。<br>ロ、道路開通、延長、整備…天王寺村誌によると、祖父が開いて整備した道路は御幸通、天田街道、吉野通、北畠通、西常盤、明治通、塚原通のほか、常盤通、柘榴通、兼好通、丸山通、栄通、柳原通、相生通、大正通、巴通、晴明通、御坊通、旭通、春日通、千秋通、万所通、北天下茶屋通などの多きにわたり、地域のほとんどが荒蕪地田畑の時にこれらの道を通し、あるいは延長、整備したことに瞠目する。個々の説明は省くが、御幸通は陸軍の攝河泉大演習の大正三年、大元帥陛下大正天皇が御立所（桃山中学、今の桃山学院）に向うときに通られ、お付きの閑院宮殿下が祖父に「尽力奇篤なり」とのご沙汰を賜った事と、吉野通の名は明治四十四年四月四日開通…「四が四つ」「四四の通」…が由来であることを付記しておこう。<br>ハ、土地区画整理…大阪市の地図を拡げると、阿倍野区の阪南、文の里、昭和、播磨、桃ケ池、西田辺、住吉区の万代、大領、南住吉、我孫子、長居、苅田、東住吉区の田辺、北・東・南田辺の町々が枡目正しい条里をなすのが目に留まる。これが祖父忠三郎が自ら治めた天王寺村のみならず隣接する諸町村をも範疇にいれて完成させた広大な四十万余坪に及ぶ土地区画整理の証しなのである。個々の形もサイズも千差万別の、土地価値の全く異なる泥沼、荒蕪地を含んだ広い土地でこれを成し遂げたことが凄い。初めは耕地整理組合方式で進めようとしたが難航し、当時の内務省（今の自治、建設省か）と折衝を重ねて土地区画整理法の公布を得、有志と阪南土地区画整理組合を設立、本邦最初の広大な土地区画整理を成し遂げた。国土開発整備のビジョンは疎か、その言葉の意味さえ判らぬ人々の多い時代に、この困難な事業を成し遂げたことが祖父の叙勲に繋ったと私は考えている。その功績を称える太いオベリスク形の碑がＪＲ阪和線脇東側、美章園南田辺駅間に今もある筈。折あれば訪ねて下さい。<br>ニ、上水道敷設…良質の井戸水が少なかったのも一因だが、人口増加を予測し、大阪市隣接地域の中で最大の、面積百四十万坪の地に村長任期の初年に村営上水道の設置を企画し大阪市と折衝を始め、絶えざる努力が実って任期終了間際の大正四年五月に市の鉄管類賃貸敷設と給水の基本同意を取付け、同年十月に第一期工事を始め六ケ月後に竣工・給水開始、続いて第二期拡張工事を進め三ケ月後に竣工（直接工事費総額八万円弱・給水戸数一千四百戸幹線水管六粁弱・給水余力一万戸）全面給水に漕ぎ着けた。人口激増の六年後の第三期拡張工事には調査研究・工事の監督に自ら参画し二年後に幹線十吋鉄管一・五粁を含む総事業費二十万三千円余、敷設幹線鉄管長十四粁、追加給水余力一万戸、総計二万余戸の水道工事が完成。戸数・人口わずか三千戸一万人余のときに予見した人口増加が、斯くも短期間に招来したことと、それに良く対応できたことに恐らく感無量であったに違いない、…早期手当がかえって急速な人口流入・増加に繋がったとも言えるが。帝塚山一円の高級邸宅をはじめ阿倍野の住宅地拡充は水道敷設があって始めて実現できたことは論をまたない。その他、阿倍晴明神社、廣臺寺の改修・據金、公設市場の設置、阿倍野橋の改修・拡幅・命名など、枚挙に暇がない。<br>　晴明神社を訪れたときは周りの囲いの中の『増田忠三郎』と刻まれた石柱の頭を私は撫でることにしている。祖父忠三郎の御陰を貰った気分になるから不思議だ。一度試して下さい。<br>　特筆すべき私的事業に、長堀より南の大阪府南部全域への煙草卸売りの一手商いがある。その大阪南煙草元売捌きの商権を手に入れるのに分担金六万円（今の七十億円位か）の大金を払っている。<br>　顧客のなかで購入額の最高はいつも大丸（母の話）で、輸入高級煙草を含めた全銘柄をいつも揃えていたのが、道頓堀から千日前に曲がる角の堀内？煙草店。三ケ月経った煙草は製造元の専売局へ返品するか焼却するのが建前だが、葉巻やウエストミンスターなどの高級両切煙草は焼却したことにして家に幾らか持ち帰っていたようだ（忠次良兄談）。母「えつ」から聞いた話だが、入荷した煙草は一先ず鰻谷の大きな倉庫に入れ、そこで日々入り用だけを解梱して御蔵跡（東横堀南端の高津米蔵、貯米場跡。元、日東町、現日本橋東二丁目）の店に運ぶ。鰻谷の倉庫ではいつも丁稚一人が磁石に紐をつけ地面の上を引摺り、集めた解梱の落ち釘は丁稚の日当以上の金額で売れたという。世故いようだが箱材と合わせて可成りの額になることは、私も似たような経験があるので、理解できる。毎日かなりの額が確実に売れて利益率は保証、売残りは専売局に返品焼却処分とあれば儲からない方がおかしい。もう一つの大きなベネフィットが決済条件だ。小売店へは現金売りし売残り焼却分を差引いて専売局へは三ケ月後払だから三ケ月間の売上げの銀行預金利息が労せずして転がり込む。大人になって母から色々聞き出すうちにこの決済条件が判った。<br>　余談だが、昭和二年金融恐慌で第十五銀行が破産し頭取が自殺、増田の全預金が霧消した事は知っていたが、何故、土地、家屋、その他の巨額の資産のほとんどを処分する必要があったのか、祖父と父は一切口を噤み、ずっと疑問であったが、この決済条件を知って納得がいった。第十五銀行に集中預金した増田の煙草元売捌きの最低三ケ月の売上額がいかに巨額であったかは、祖父忠三郎の巨額の個人・所得税＋営業税額、三千余円［百七十一円＋二千八百六十円、大阪人名録、中巻三一三頁・大正十四年日本図書センター刊］から容易に推定できる。先年、他に調べ物があって府立図書館へ行き偶然に見付けて瞠目絶句した。銀行破産で失う羽目になった増田の全預金、その穴埋めに処分した資産が、いかに巨額であったか、それまで知ることもなく気にも掛けなかったが、偶々、知ってしまい悔しさに身を苛まれた。知らない方がよかったと思っている。<br>　「失っていなくても相続税、財産税でとられただろうし、失っても人並み以上の裕福をずっと味わせて貰ったし…、まぁ…いいか」<br>　祖父は粋人で美食家だった。上海まで蟹を食べにわざわざ出掛けるなど、当時としては破天荒の食道楽で、旨い泥鰌鍋の作り方を教えてくれたり、私たちを黒門や三ツ寺筋、法善寺裏の名代の穴子・海老天ぷらの屋台、方々の小料理屋、今から思えば堀江裏筋の吉兆などの、料亭へも連れてくれた。また大日本素人浄瑠璃会の会長・審査委員長で、てんぷら「大寅」の隠居が入選を願ってよく手土産をさげて訪ねてきた。お鶴ばあさん（祖父の後妻）は『ええ加減に通したげたらええのに…』と母に合槌を求めるように呟き零した。四ツ橋の文楽座（人形浄瑠璃劇場）へ祖父と行くと連れの幼い私まで丁重な扱いを受けて戸惑った憶えがある、…後になって祖父が竹本山城太夫（義太夫の第一人者・のちに人間国宝）の兄弟子だったと知り合点したが。阿倍野の家の二階の大広間では、大きな燭台を前に語る祖父の義太夫節を、手土産付で懐石料理を食べながら聞く大勢の招待客や時には小学校の全先生が招かれ、賑わったという（大正末の話・忠次良兄談）。また中庭の離れの茶室の横に水琴窟を造ろうと職人を呼び苦心した（琢司兄談）という茶人粋人でもある。伊藤博文に紹介され、加納治五郎や書家照瑞が来阪の折には増田に泊った。求めに応じ書いた照瑞筆の額は今、私の家にある。茶会の和菓子の注文を取りに島の内の和菓子屋『友惠堂』が毎日のように来て、それが縁で甘い物好きの祖父は友惠堂の最中・和菓子を商う店『忠愛堂』を開いた。母に貰った餅箱に「忠愛堂」とあり母に訊ねてこの事を知った。偶然にも友惠堂の息女は妻和代と小学校女学校を通じての友達、その婿殿は五郎兄の小学校同級という奇縁でもある。<br>　そんな祖父も戦中戦後はすべての物資が欠乏して食べ物も儘ならず晩年は可哀相だった。祖父に食べさせる鮒の旨煮を求めて、史郎兄がアルミ弁当箱持参で京都名代の鮒料理屋・鮒鶴の戸を叩き「名を覚えてくれてはって嬉しおすが…」と断られたのが戦後直ぐの昭和廿年秋のこと。それから半年後、大阪大空襲一周年のまだ風も冷たい三月十三日に息を引き取った。享年八十才。中国へ出征の琢司兄、奉天（今の中国瀋陽）赴任の忠次良公子夫妻、商社員で駐在地・中国蚌埠から出征の三郎兄の四人の安否不詳の不安に加え、わたしの心を虚ろにした増田の偉大な人の侘しい死でした。<br>&nbsp;</p><p>　祖母「つる」…母「えつ」十三才の時、実の祖母「はる」が結核で他界し、それから大分経ってから入った後妻さんで、母や大叔母たちは「おつるさん」と呼んいた、…私たちは「おばあちゃん」と呼んでいたが。私が憶えている「おつるさん」は、丁度私の小学三年生頃から海軍航空隊に入るまで平野の家で一緒に暮した十年に満たない僅かの期間で、祖父の身の回りの世話だけをし、自分たちの部屋の掃除と仏壇の手入れに毎日余念のない人でした。血の繋がりのない故か、どことなくつれない、われわれも扱いに困った人でした。終戦一年前、六十七才で他界。<br>&nbsp;</p><p>　母「えつ・悦」…優しい人でした。好物は、寿司、それも箱鮨、蒸し寿司、ばら寿司と、素麺、ざる蕎麦、冷や麦に肝吸い付の鰻まむし。肉よりは魚、特にぐち・甘鯛にかますごが好き。酢の物が好きなのに夏蜜柑は「酢っぱい」と敬遠し、美男子に弱かった。美食家の祖父の影響か口も肥え、割烹学校仕込みの懐石料理は絶品の味付け。鰹、昆布、鳥がらと出しの質にうるさく、「出し会社や」といつも父が冷やかした。<br>　太棹の三味線を能くし長唄が得意で、宴席で困らぬようにと私に端唄、短い地唄や俗曲の木遣節などの謡い方の手解きをし、躾にも厳しく、銜え煙草は下賤とたしなめた賢母の人だった。男衆女子衆がいた昔と違い、母一人で繕い物、炊事、洗濯、掃除と愚痴一つ零さず、休みなく働いて品を失わず、家庭電化器具もない衣食住すべてに不便な時代に全家族十一人の生活を守り子供七人を養育してくれたことへの感謝は言葉に表現し難い。子供の成長と共に戦争も激しくなって心配の種は尽きず、娘婿と息子が次々と兵役について出征し、十歳代半ばの末っ子までが海軍の航空隊に入り早晩死は必定の戦闘機搭乗員になった。緊迫のフィリッピン、マリアナ方面の航空決戦に向う海軍主力機が美保基地（今の米子空港）に集結し連日猛訓練に明け暮れていた昭和十九年秋、母は無性に私のことが気になり一人夜行列車に乗り米子市内の私たちの倶楽部を訪ねたが私に会えずに帰ったとか。<br>　戦後何十年も立って私が倶楽部を訪ねた時、倶楽部の小母さんは往時を思い浮べ、回りの人達に「恰幅のある本当に上品で立派な方でしたよ」と語って聞かせた。絶えず子供と嫁・孫のことを気使い、終生増田一統の幸せと再興を祈念していた人だった。<br>　春まだ浅い三月の早朝、ちょうど泊っていた孫の下着の着替えを出してやろうと、起きたての寝間着のまま、押入れから取り出した布地の包みを解こうとしとき、脳溢血に襲われた。三、四時間ほどは意識があったものの、その後は昏睡状態になり翌十一日午前五時三十六分、家族が見守るなか六十六才六ケ月の波乱の生涯を閉じた。慈しみの母の、まさに茫然・慟哭の突然の死でした。<br>&nbsp;</p><p>　父・謙吉…今にして思えば、明治大正のロマンをずっと瞼に描きつづけた人だった。父の父、我々の祖父今村忠平は、旧淀藩城代家老の家柄の上月景文の三男として淀の藩邸で生まれ、幼名十馬または重馬と言い、明治十一年今村家の養嗣子として養父（我々の曾祖父）の名・忠平を襲ぎ、今村家三代目の家督を相続した人［添付京都府議会歴代議員録写し参照］で、その祖父忠平と祖母「とら」の次男として京都府久世郡佐山村大字林小字中垣内（現久御山町）に生まれた。<br>　父は「殿様の子」と気儘に育った故か、やや勝手気儘なところがあった。われわれ兄姉弟七人もその傾向があり時折自ら気付いてハッとする。しかし良く考えると、どんなに困っても何時までもくよくよせず、「まあ、いいか」と最後には楽天的にさっぱり諦めるという、時には大切な気分転換を教えてくれたスポーツマン・マインドの人だった。名門京都一中時代は当時の花形スポーツの漕艇のコックスで琵琶湖周航の思い出を良く語り、若齢の時から猟に親しみ秩父宮殿下のお供をした京都猟友会時代の守猟、特に宇治の裏山・巨椋の池で腕を上げた、雉子・鴨撃ちをずっと得意げに語って聞かせた。後年、早朝散歩の折の空気銃（英国製の高級品）で雀、時には百舌、きじ鳩撃ちと変わったが腕は確かなものだった。相撲、柔道、剣道、ラグビー、野球、陸上競技、マラソン、駅伝とあらゆるアマチュア・スポーツを愛好、自らも市岡の市立陸上競技場の大阪市民陸上競技大会で砲丸投げ三位に入賞、四十代半ばの時だった。子供の健康を何時も気にかけ、休日には五郎兄と私の小さい二人をつれて、六甲はじめ近畿一円の山々、明日香や大和の寺社帝陵、名所旧跡を巡り、夏には羽衣の海水浴場、或る年には定期乗車券を買って水のきれいな和歌山水軒浜まで毎日通い、夏の中等野球（今の高校野球）の予選が始まると日曜日毎に藤井寺球場まで野道をハイキングして観戦に行き、暮れの中学ラグビー全国大会にも同様に花園ラグビー場まで歩き吹きさらしのスタンドで吹き荒ぶ寒風に鼻を啜りながらの観戦だった、…時には途中で当時の八尾競馬場に足を止め草競馬の数レースに予期せぬ金と時間を無駄にしたことも間々あったが。小学生の私にとって花園ラクビー場へ行った日の楽しみは試合よりも帰途の上六で食べる名代の梅肉ソースのトンカツだった。末の私たち二人、取り分け、五郎兄の健康を気使い、自然に親しませようと海辺遊び、四季を問わずの山野跋渉、そして自らの少年時代の巨椋池の想い出からか、蛹粉団子を詰めた小籠と金色丸玉付きの枝針を付けた仕掛けの竿で淀川の「わんど」へ諸子とハスを釣りに出掛け、モンドリ掛けの良場所を求めてあちこち近くの川を巡り歩いた。想えば、私が小学生の頃の大阪郊外の川や用水路にはまだコンクリート護岸など無く、自然のままの草の生え茂った岸に豊かな水がたゆたうていた。そう言えば、鮒の甘露煮、諸子の飴煮も父の好物だった。<br>　山城の祖母（旧国名を捩って父の実家を「山城」と呼んだ）が毎年のように九条葱を添えて送ってくれた地鷄（ときには鴨）を捌いてみせるのが父だった。首を落し、逆さに吊して血を出して毛を毟り、捩じった新聞紙の火をかざして産毛を焼いてから両足を落し、両手羽・両腿をばらして腹を割き、『内臓は刃が当たらんように…破けたら汚いもん、いっぱい出てくるんや…気い付けんと…』<br>　取り出し内臓から肝、卵巣、砂肝など食べられるところを切り分け、<br>『これは肝。これは卵巣。これが砂肝、…ほれ中に砂がある』<br>　と、一つ一つの名前を言い、砂肝の中の砂を水で洗い流しながらって二つに切り分けた。<br>　その包丁捌きに驚嘆し、父の呟きを聞きつつ固唾を呑んでじっと見据えていた。一時間程で、鶏は綺麗に、鳥がら、食べられる身と肝類、捨てる頭と脚と内臓、の三つのバットに収められた。<br>　そう言えば、寒い冬の朝未だき、空気銃で撃ち落した雀を焼鳥にしたのも今は想い出。<br>　園芸の知識も豊かで、夏には朝顔そして庭いっぱいにダリヤやスイトピーの花を咲かせ、ベランダには所狭しと鉢植えの、ピンクや赤のゼラニウム、濃緑の万年青、萌黄色の団扇サボテンなどで彩りを競い、たおやかかなサボテンの白い花は中でも圧卷だった。<br>　ミート・イーターだったが取り立てて好き嫌いはなく、酒好きで甘い物好き、俗にいう「羊羮丸齧りで酒を飲む」という甘辛両刀使いだった。母「とら・登羅」（我々の祖母）が碁の初段だったとかで将棋よりも高尚で士族に相応しい「烏鷺の争ひ」の趣味を勧めた。浪速節、歌謡曲、端唄、俗曲が好きだったが自らの喉を聞かせたことは無く、芝居の類いは嫌いだったようだが、ドキュメンタリー映画、ニュース映画が好きで映画館に良く連れてもらった、…テレビのない時代だったから。<br>　「英語は原書で読んで暗唱」が口癖で、スコツトの詩集「湖上の令人」や冒険小説「アイバンホー」の己が高商時代に読んだ原書を中学生の私に手渡した。極く僅かの書込みしかない父の英語読解力は別にして綺麗な書込み文字に見とれた。戦後私が進学したとき、父の高商時代のアダム・スミスの分厚い「国富論」の本をもらったが、数年後、家の大掃除に手伝いに来ていた商大のアルバイト学生に未完読のまま譲った。「古本屋では今でも高くて手が出ない…」と学生の喜んだ顔が印象的だった。「本を大切にしろ」が口癖の父は、原書を読む学生が減り漫画は読んでも読書は敬遠される今の風潮をさぞや嘆くことだろう。<br>　幼少から書に親しみ高商時代には校庭で立ったまま巻紙を左手に持って習字の練習をした父の書は、磨きが掛かっていた。三井の伯母によれば、山口高商の卒業を控えて当時の花形企業の内田汽船・内田商事の社長で運輸大臣だった内田信也に入社請願の巻紙の手紙を出し、その達筆が内田社長の秘書・祐筆への採用に繋がったという、…父は後年「出来ることなら三井物産に入ってニューヨーク勤務を狙っていた」と漏らしていたが。須磨の社宅から神戸の本社へ一等車で汽車通勤し、入社三年後に増田の養嗣子となって母と結婚。琢司、忠次良、節子の三人が生まれた。家族五人に女中が一人の須磨の生活が父母にとって「一番楽しかった」時期（母の談）だった。その後、祖父が会社へ「家業の煙草元売捌きを継がさせねば…」と談じ父は会社を辞めるが、母は「須磨で初めて海水浴をして…、お父さんは子供を必ず一等車に乗せ…」と遠くに目をやり須磨の想い出を語っていた。晩年、母と二人の鴛鴦生活を大事にしていたが、母と死別してからは、往年の父を知る人には信じられないほど気弱になった。母家に近かった頃の私の家で、相撲のテレビ観戦の後、ささやかな夕食をとり、一合ほどの酒で微薫をおびて帰るのを毎日の楽しみにしていたことがあった。そんな或る日、自家漬の漬物を出してお茶漬けを勧めたところ、父には生まれて初めてお茶漬けだったらしく「お茶漬って案外うまいもんやな」と言ったという。大阪に五十年以上も住んで、お茶漬けをしなかったというのも驚きだったが、それ以上に、長年の自己スタイルを曲げ、父が素直に勧められた食べ方をしたことに驚いてしまった。「老いては子に従う」好々爺になっていた。<br>　スポーツ好きで毎日歩くことを欠かさず健康で筋肉体質の父も、晩年は心筋梗塞気味で医者に貰った薬をずっと服用していた。馴染みのバーで勧められて特別参加した慰安旅行の南紀椿温泉で、楽しみにしていた温泉宿の入浴も「今日は止めとく」と食後早々に床に就き安らかな寝息を立てた父が翌朝には、同室の一人の朝風呂の誘いにも返事がなく顔を近付けて初めて息の止まっているのが分かり、慌てて救急車で病院に運ばれた。同室の人達の「苦しんでいる様子は一晩中全然なかった」という証言と、父がこまめに付けていた手帳の日記に「胸か締め付けられるように痛い」という最後の書込みがあることが判って、朝方の突然の心臓発作と断定された（琢司兄談）。<br>　昭和四十六年四月二十三日、楽しい温泉旅行の途中の麗らかな春の日。少しも苦しまず、穏やかで静かな旅立ちでした。享年八十才。<br><br>　＝引続き、我々の母方の身近かな親戚『うから』を記す。<br>&nbsp;</p><p>【浅田】…堺・車之町の素封家で我々の曽祖母、増田「せい・勢」の実家で、もと足袋屋。福助足袋と合併と聞いた気もするが不確か。同じ車之町にあった府立堺高女（現泉陽高校）に節子姉が在学中は姉の保証人であった。戦後に買い増した堺東駅周辺の地が堺市中心地となり財をなす（節子姉談）。私が中学生の頃に母と訪ねた浅田の分家の昆布屋（元阿倍野吉野通り在）は今も盛業で近鉄百貨店に出店中（節子姉談）とか。商標は『浪華昆布』だったような気がするが不確か。<br>【錦田…曽祖母「せい」の妹の婚家。有名な「堺の段通」を製造（金森の大叔母から『住之江織物になった』と聞いたような気がするが不確か）。<br>【高田】…曽祖母「せい」の弟？が養嗣となった。旧・大阪貯蓄銀行（のち協和銀行、現・あさひ銀行）の株主役員。琢司兄の同行入社を斡旋。<br>【槌谷】万次郎…忠三郎の三従兄弟？（曽祖父庄三郎の大叔父庄兵衛の娘の子？）で家は阿倍晴明神社鳥居脇だった。骨折・脱臼や漢方の治療を善くし、庭の植込みや我々の脱臼治療や漢方の「虫下し」など、何くれとなく増田の家の世話を焼き、われわれも『万ちゃん』と呼び慣れ親んだ。嫡子無く、娘「玉」は藤本家（北畠在、藤本化学工業［本社・伏見町］経営）に嫁した。<br>【増田・分家】…初代八三郎は推定では曽祖父庄三郎の弟。二代目八三郎は四国八十八箇所参りをした信心深い人。戦前東住吉消防署長で我々の家に再々来訪。墓は増田と同じ広台寺にある。<br>【金森】この…祖父忠三郎の一番上の妹。九条松島の酒問屋へ嫁し二女一男を儲く。のち離婚し、長女つる、次女清子、長男清太郎の三人の子をつれて阿倍野の増田の家に戻る。我々が最も馴染んだ大叔母で『金森の小母ちゃん』と呼んだ。長女「つる」は助産婦になり後に大阪九条の奥田家の継室となったが、子なく戦災に会う。次女清子は上本町七丁目の長楽寺住職・西田賢道に嫁し嫡子俊昭を儲け、戦後、谷町筋拡幅に寺の敷地を供して、池田市畑五丁目に移る。長男清太郎は新興キネマ、大都映画、日映（ニュース映画）のカメラマンとなり東京に居住、のちに胸を病み、妻の実家の地・有馬温泉に移る。後裔は今も有馬在（三郎兄談）。<br>【北野・上田】くす…祖父忠三郎の二番目の妹。北野重次郎に嫁して間もなく婿は日露戦争で戦死。後に今在家村（現東住吉区今川町）の上田徳三郎の後妻となり上田君子を儲けた。瞼に浮かぶのは、藁葺きの母屋、井戸のある水場と農具を収めた納屋、そして金森の小母ちゃんが住んでいた十坪ほどの離れ屋に、四方を取り囲まれた露地の中庭、…放たれた鶏のくぐもった鳴声以外コトリとも物音一つしない、その中庭で、一人ぽつねんと収穫物を片付けているくす小母さんの物静かな姿。口数の少ない人で、まだ小学生の私は母の使いで良く訪れたが、用件を済ました後は、離れ屋の金森の小母ちゃんのところで遊んで帰るのが常だった。<br>【栗谷】八重…祖父忠三郎の一番年下の妹。栗谷の小母ちゃんと呼んでいた。天王寺の素封家、栗谷長右衛門［天王寺区大道三丁目四十七…九七番地、債券売買業：日本紳士録、大正十四年版、交詢社刊］に嫁し、二女一男を儲く。私が小学生の頃、春秋の彼岸には毎年のように母と四天王寺詣りをしたが、その帰途には必ずと言って良いほど栗谷の家に立寄り、沈香も焚かず屁もひらずといった「石部金吉」の長右衛門さんから説教じみた話を聞かされた。三越の外商部の大の得意先であることが自慢の大叔母は魚には無知で、鯛や鯖ぐらいは知っていたようだが、魚屋で「これ何という魚？」と次々と指差して尋ねるのには驚いたが、そんな自分の無知にも無頓着で屈託のない人だった。長女ひな子に養子（馨・小学校教頭）を迎え分家させ、次女久子も小学校の先生と結婚し、末っ子の父母の寵愛と期待を一身に集めた早稲田大卒の長男良介は二度も出征してフィリッピンで戦死、長女ひな子の娘が養女となって本家を継承し今も天王寺の大道三丁目の家に在住。<br>【森】ひら…母「えつ」の九才年下の唯一の成人した妹で我々の唯一の叔母。（母えつには五才年下の妹と十二才年下の弟がいたがいずれも三才で夭折）　花嫁姿を知る兄や節子姉は叔母を「おひらさん」と呼んでいた。夕陽ケ丘高女を卒業後、青踏社の女性自覚向上と近代文学短歌運動を啓蒙した人格高潔の夕陽ケ丘高女の校長が高い女子教育の理想を掲げた新設の樟蔭女専に移ると、後を慕って自らも樟蔭女専へ移った、多感な文学愛好の明治の才媛で佳人薄幸の標本のような人（母「えつ」談）。大阪の資産家・森家の次男・森護に嫁し、長男・一（大正十四年生）次男・健次［幼名・治］（昭和三年生）三男・啓の三子を儲く。しかし、一つには嫁ぎ先が余りにも富裕だったことと、更に、夫君が「ぼんぼん」で底抜けの遊び好きの太平楽（一時期、女の裸を見たいと風呂屋を開業、自ら番台に座ったという度外れた豪傑）だったことが理想を夢みた明治の才媛の不幸となった。舅姑の意向を体して、わが子それぞれの「お乳母さん」とお付きの女中が子供の養育、そして、執事家令と女中頭が取り仕切って家扶・上女中・下男下女が家事一切を、すべてこなし、若い嫁が口を出す余地はなかった。夫君の女癖を懸念して「家や子供のことは何も心配せんと、婿はんの機嫌さえ取ってくれてはったら、それで宜し」という舅姑の意向（母「えつ」談）と裏腹に、夫君の女癖はいっこうに治まらず、次男・治の乳母「お楽」を孕ませたことが明るみに出て、それやこれやで叔母は鬱症となり幼子三人を残して世を去った。生後間もない三男・啓は親族冨田家の養嗣子となり、乳母お楽は女の子を生んで後妻となって一と健次の二人の継母となった。しかし、お楽はそれまで同様に一と健次を「ぼん」或いは「さん」付けで呼んで変わりなく仕え、二人もそれまでと変わらず、「お楽」と呼んだ、…大きくなって流石に呼び捨ては憚れたのか、「さん」付けとなったが。乳母として面倒を見てもらっていた次男・健次はともかく、すでに学齢期に達していた長男・一には「母が亡くなり、召使が突然母に変わった」ことは何とも納得し難く、蟠りが心に澱んでいた事は想像に難くない。その心の寂しさから、たびたび一人で母「えつ」を訪ねて来るようになり、不憫な思いに駆られた母は<br>『一ちゃんは可哀そうや。「おひらさん」を慕うて、内を訪ねて来るんや』<br>　と自らに言って聞かせるように呟き、同じ年頃の、史郎兄、五郎兄と私にしんみりと頼んだ。<br>『あんたらも兄弟同様に生涯仲良うしたってな』<br>　小学生の頃から真摯な求道者みたいで芯から砕けることの少ない「一ちゃん」だったが、家に来れば絶えず何かおもしろい話題を見付けて話かけ、駄弁ったりゲームに興じた。いつも夕方になれば<br>『家に黙って来たので遅くなると心配するから、もう帰る』と言い、一人で帰っていった。上宮中学時代には数学が好きで猛勉強し、三年生の終り頃にはすでに中学で習う数学をすべて習得、四五年生の時には教師に代わり時折同級生を教えていた。旧制大阪高等学校（現大阪大学）で弊衣破帽の青春時代三年間の後、旧大阪帝国大学の数学科に入って念願の数学研鑽の道を歩み、戦争が激しくなって他の大学生が次々と兵役に就くなか、所属の数学研究室の全員と共に軍属として醒ケ井に疎開し、暗号解読に従事した。戦争末期、護叔父さんは四十才半ばで徴兵され、今里の二百坪ほどのアパート以外のすべての家作財産を戦災で失って、戦後は難渋したようだが、戦災に遭わなかったアパートの一室に一家で移り住み、根が楽天家の叔父はアパート管理人の生活を、見栄もあったのだろうが、『仲々ええもんでっせ。年寄に金払ろて出てもらい、空いた部屋に権利金とって水商売やパンパン（米兵相手の商売女）若い別嬪入れましてん。ヒッヒッヒッ…』<br>　と、叔父特有の咽喉を詰めるような笑い声を立て、純粋の大阪弁・浪速言葉で<br>『気の良え女ばかり。しどけない格好でも私には無頓着で、いろいろ付届けして呉れまんねん』<br>　と、嬉しそうに語った。進駐軍の兵隊や将校とコネのある女から米軍物資を手に入れ、闇市に売って稼いでいたようであった。折しも食料難のなか、大和川近くの瓜破村までリュックサックを背に一ちゃんと野菜を買付けに行ったことがある。よく熟れたトマトを「安く売ってやる」という百姓の言葉に一攫千金を夢み、それぞれリュックいっぱい詰めたトマトを八百屋へ売りにいき、笑われた。<br>『これは売るには熟れ過ぎ。もうすぐ崩れて売り物にはならん』<br>　仕方なく晩飯代わりに食べようと家に持ち帰ったがリュック二杯のトマトはとても食べ切れず、<br>『二人ともええ加減にしとき、お腹こわすで』<br>と母は呆れた。この時の「売物の野菜は熟するまえに摘む」と初めて知った悔しさは忘れられない。高校の数学教師になった一ちゃんは独身のまま昭和三十七年亡くなった。<br>『一は、頭がよくて秀才、…神経の細いとこまで母親似で、…そんで命を縮めたんやと思います』<br>先立たれた護さんはしみじみと悼んだ。その後叔父護さん、次男治さんも他界。治さんの長女眞千子さんは嫁ぎ（田原姓）、恵美子夫人は大阪北区大淀南に在住。<br><br>　＝つぎに父方、今村の親戚のことを記す、…父謙吉の実家・今村家の大略を前段に。<br>［父謙吉は『父は淀藩の士族』という以外、己が今村家の家柄系譜を具に語ったことがなく、父が節子姉に書き送った簡単な今村家系譜を基に、図書館、史料館の書籍文書の記述と、さらに内田ひろ、中野佳子（旧姓岡）、三井良子（三井駿一夫人）、岡健郎、湊瑩子、今村愛子、今村博子（今村忠司夫人）の諸兄姉から頂いた資料を参考に、補完した］<br>　父謙吉の実家・今村家の家紋は四つ目結、住所は京都府久世郡佐山村大字林小字中垣内（現久御山町林中垣内二十四）で、我々は「山城」と旧国名で呼んだ。祖父忠平（十馬）が旧淀藩家老の家の出の養嗣という事を念頭に入れ考察してみると、姓氏家系大辞典の今村姓の欄の一つに「淀藩の重臣」があり、四つ目の家紋は一人だけで「今村清左衛門・紋四つ目結、四百五十石」とあるが私が調べた淀藩関係の図書古文書にその名はなく「清左衛門」が父謙吉の先祖かどうかは不明。しかし淀藩関係の諸文書に今村姓の名前が数多くあり、それらは極言すれば同族とも受取れ、父謙吉の今村家はその一つと縁があるのではないかと想像する。注目すべきは、幕府編纂の大名旗本幕臣の系譜録「寛政重修諸家譜」の系譜の一つに『今村＝秀郷流・藤原姓・河村氏の流れ。旗本稲葉正成の子・勝長彦兵衛に嗣子なく、河村三郎義秀の男盛秀が養嗣子…藤太秀家…五郎秀村［爾後、今村を称す］…重秀…秀通…』とある。稲葉正成とは、美濃十七条城主・林（拝志）正長の子の美濃高須城主・林宗（惣）兵衛正秀の子で、天正十二年秀吉に随い父正秀と共に小牧の合戦に出陣、後に土岐・斎藤・信長に仕え、豪勇で聞えた稲葉貞直一徹の贅婿となり斎藤内蔵助利三の女（のちの春日局）を継室（後妻）に娶った有名な大名で、美濃本江城主から下野眞岡城主二万石、最期に佐倉八万四千石となり稲葉佐渡守正成（政成）と称した。初代淀藩主・稲葉丹後守正知の玄祖父に当たり、寛政系譜で「支庶十四家内諸侯」に列せられた譜代大名である。父謙吉の今村家が五郎秀村の流れを汲むとすれば「主家・稲葉家と血縁」で、また「三百藩主家臣名事典」の初代淀藩主正知の欄にも「正室・小笠原忠雄の女、継室・今村氏」とあり、いずれにしても、田辺権太夫家、稲葉七郎兵衛家、畑（八太）覚太夫家、上月家などの世襲家老職諸家とは違った意味の重役の家柄と考えられる。調べた範囲内の永代日記や勤仕覚書などの古文書には家老、御勝手頭取（家老の一名がなる淀藩だけの財政改革役）などの重役に今村姓はなかったものの、それらに次ぐ目付・勘定奉行・御旗奉行・御持長柄奉行などの侍大将クラスや殿様付小姓頭などの重臣に今村姓が多出し、また重臣の一人、殿様お供医師に今村姓があるのも注目に値する。これら今村姓が稲葉家祖佐渡守正成の時代から稲葉家文書にあり、今村家は、享保八年（一七二三）の淀転封のずっと以前から、少なくとも家祖正成が阿福（のちの春日局）を娶った戦国天正年間（一五七三）或いは下野眞岡城主となった寛永四年（一六二七）以来の稲葉家直臣のようだ。また父謙吉・今村方の親戚の上月、岡、甲村、内田の諸家も淀藩家老などを勤めた淀藩重臣の家柄である。古文書その他で見付けた今村姓と、それら親戚姓の主だった名前を披見に供する。<br>［稲葉佐渡守正成覚書］…年不詳…<br>　今村多左衛門、勘定方奉行。<br>【注・家祖正成の美濃本江城、越前糸魚川城、下野眞岡城のいずれの城主時代かは不明】<br>［正則公＊京都入御供帳・大献院殿同行］寛永末（一六四四）以降？　注＊正則…小田原城主。春日局孫、若名鶴千代丸。家光に仕え天和三年（一六八三）隠居。元祿九年沒（一六九六）年七十四。<br>★今村道益、殿様御供医師。騎乗、配下上下士（若頭・馬持）各三人、<br>　（槍持、草履取、挟箱、小者は別）とあり祿高は四百五十石ぐらいか。<br>　上月久兵衛、家老。騎乗。配下十二人（槍持、草履取、挟箱、小者は別）は、千石以上の祿高。<br>　上月源左衛門、御先騎遣者。騎乗、配下上下士各四人、祿高五百石？。<br>［正通（正往）公御在京御供覚書］寛文三年（一六六三）注＊正通…正則長子、越後高田城主、老中　十四万石。元祿十四年下総佐倉城主十万二千石。宝暦四年致仕、享保元年沒（一七一六）年七十七。　上月源左衛門、御用人。<br>　上月五郎右衛門、目付。<br>　岡貞右衛門、御広間御使。<br>　上月五郎左衛門、御武具方。<br>［永代日記］延宝元年（一六七三）十月【正通・越後高田城主時代】<br>　上月源左衛門、『初め部屋住みにて泰応公付御用人を務む』<br>［田辺文書］天和三年（一六八三）九月廿三日］<br>　上月源左衛門、『初めて当家に仕官せし上月善兵衛の子。五百石御用人』<br>［京極殿給帳］…年月不詳…（出典・姓氏家系大辞典）<br>★上月文右衛門・四千石、淀藩年寄。<br>　上月頼母・三百石。<br>［田辺家覚書］寛文五年（一六六五）<br>　内田惣左衛門、百五十石。<br>［稲葉、田辺、渡辺、上月など諸家所蔵の勤使覚書、書状等文書］<br>　上月勝兵衛、長柄奉行。　　　　寛永二年　（一六二五）【正成下野眞岡城時代】<br>　上月清兵衛、先手御者頭。　　　慶安元年　（一六四八）【正則相模小田原城時代】<br>　今村八郎右衛門、御持長柄奉行。延宝二年　（一六七四）【同右】<br>　内田半兵衛、家老。　　　　　　天和三年　（一六八三）【正通・越後高田城主時代】<br>　今村定右衛門、御旗奉行。　　　元祿四年　（一六九一）【同右】<br>　今村八郎右衛門、長柄奉行。　　正徳二年　（一七一二）【正知下総佐倉城時代】<br>　上月源左衛門、御旗奉行。　　　享保五年　（一七二〇）【同右】<br>　上月久兵衛、御旗奉行。　　　　享保十年　（一七二五）【正知・山城淀城主時代】<br>　上月勝兵衛、御旗奉行。　　　　享保十年　（一七二五）【正知・山城淀城主時代】<br>　内田儀太夫、御旗奉行。　　　　享保　…年不詳…　　<br>［起請文・享保十四年（一七二九）六月十八日付］<br>★上月源左衛門、家老。<br>【藩主正知沒後、家督継承の正任、正恒が連続死去、御家断絶寸前に稲葉下野守正能男・正親を養子とし、正親の家督相続・淀藩主継承を幕府に認めさせた最大の功労者】<br>［諸家所蔵文書、勤仕覚書など］＊注・御番頭…侍大将、藩公名代。寄合支配…御番頭束ね。<br>　内田半兵衛、御番頭。　　　　　享保十五年（一七三〇）【正親、山城淀城主】<br>　上月源左衛門、寄合支配。　　　享保十五年（一七三〇）【同右】<br>　上月久兵衛、御持筒奉行。　　　享保十六年（一七三一）【同右】<br>　上月源右衛門、先手御者頭。　　元文元年　（一七三六）【正益（甫）、同】<br>　内田小膳、先手御者頭、のち長柄奉行。…年不詳…　　　【同右】<br>　上月権兵衛、御持長柄奉行。　　　　　…年不詳…　　　【同右】<br>　上月勝兵衛、家老。　　　　　　明和元年　（一七六四）【同右、兼・奏者番】<br>　上月主馬、先手御者頭、　　　　　　　…年不詳…　　　【正弘、山城淀城主】<br>　今村太左衛門、御旗奉行。　　　　　　…年不詳…　　　【同右】<br>　内田半兵衛、御番頭。　　　　　　　　…年不詳…　　　【正椹**、山城淀城主】<br>　上月太司馬または左司書＊、御目付。天明六年（一七八六）【同右、兼・奏者番】<br>＊注・勤仕覚書が金釘流の草書体で判読困難。**正字は木偏でなく言偏で字音はシンまたはジン。<br>　今村太左衛門、御目付。　　　　天明六年　（一七八六）【同右、】<br>　今村永馬、御旗奉行。　　　　　天明八年　（一七七八）【同右、兼・寺社奉行】<br>　内田小膳、御用人。　　　　　　寛政元年　（一七八九）【同右、兼・奏者番】<br>　内田小三郎、先手御者頭、　　　寛政二年　（一七九〇）【同右】<br>　今村太左衛門、御持長柄奉行。　寛政三年　（一七九一）【正椹**、山城淀城主、兼・奏者番】<br>　今村定右衛門、先手御者頭。　　寛政十一年（一七九九）【同右】<br>　上月右門、先手御者頭。　　　　享和三年　（一八〇三）【同右、兼・大坂城代】<br>　上月（御内座）主馬、御勝手掛家老。文化三年（一八〇六）【同右】<br>　上月源太兵衛、御旗奉行。　　　文化五年　（一八〇八）【正備、山城淀城主】<br>　内田半兵衛、家老。　　　　　　文化十年　（一八一三）【同右】<br>　今村雲之助、御持長柄奉行。　　文政六年　（一八二三）【正発、同右】<br>　今村永馬、御旗奉行。　　　　　天保八年　（一八三七）【正守、同右、兼・奏者番】<br>　上月源右衛門、御旗奉行。　　　天保十五年（一八四四）【正誼、同右】<br>　今村左騎右衛門、長柄奉行。　　安政三年　（一八五六）【正邦、同右】<br>　内田小三郎、先手御者頭。　　　　　　…年不詳…　　　【同右】<br>　今村運之介、御旗奉行（格）。　　　　…年不詳…　　　【同右】<br>　内田平学、御旗奉行（格）。　　　　　…年不詳…　　　【同右】<br>［長州征伐御出陣御供］　　　　　元治元年　（一八六四）【同右、兼・所司代・老中】<br>　上月左馬助、御旗奉行。内田貞之助、御所目付。今村登之助、若頭。今村詮之助、供上。<br>　上月左一、戦士。<br>［鳥羽伏見戦記］＝新編物語藩史＝<br>　岡鉚之助、京都留守居・御所目付。慶応四年（一八六八）【正邦、淀城主、兼・老中】<br>【伏見鳥羽の戦開始の翌朝一月四日巳の刻、裃をつけて馬で淀城に駆けつけ、尾張侯［妻の妹が淀藩主正邦の妻］、公家烏丸家、三条家の有名な言葉、『淀藩は官幕いずれにも組するな』、『淀公の正義を賞す』、『重役一人上京せよ』を伝えた人】<br>　また清正の家臣・松井半左衛門・五百石の後裔で淀藩仕官の松井半平が藩に提出の親族書（稲葉神社蔵古文書）に『六代目上月主馬、弟勝兵衛次男、道方養子』『七代目松井半平道文、妻・今村左騎右衛門次女』とあり、淀城温故会誌で事蹟称讃の松井半平が上月・今村両家と縁続きとは興味深い。古文書の中に、文平、雲之助、鉾右衛門、幾太夫、その他の今村姓があったが、我々の玄祖父彦三郎（良）［寛政十年（一七九八）生れ］、曽祖父忠平の名は見当らず、城代家老の上月景文の三男を養子にするぐらいだから今村家はそれ相応の淀藩の上士と思うのだが検証出来なかった。京都府議会歴代議員録に祖父十馬が曽祖父忠平の名を襲ぎ「今村家三代目」の家督を継いだとあるので、我々の玄祖父彦三郎が分家・今村家初代だが、その履歴および本家筋の今村家のことは見当がつかない、…電話帳では淀藩邸のあった淀新町に今村姓はなく、伏見区に六十数名、宇治市に四十二名、久御山町に十三名の今村姓があり、その中の一つが本家かもしれぬが。<br>　なお祖父忠平（幼名十馬または重馬）の実家、淀筆頭城代家老の上月家は現在も淀藩々邸の地、京都市伏見区淀新町十三にあり、上月景光氏が継承されている。</p>
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<link>https://ameblo.jp/masu6san/entry-12568527146.html</link>
<pubDate>Mon, 20 Jan 2020 22:28:32 +0900</pubDate>
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<title>増田・その”うから”〜父祖の地</title>
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<![CDATA[ <p>　　一、先祖<br><br>　増田家の系図や由来を記した文書の類いはなく、増田の祖先をたずねるには、母家にある過去帳と祖父忠三郎や母［えつ・悦］の口伝に頼るよりほかに道はない。<br>　増田の家系は阿倍野の保田家［現当主・保田隆三・阿倍野区北畠］より分かれたもので、江戸時代に分家したという。保田家にある古文書がよく分類整理されていて必要なものが手軽に借り出されるなら、分家した正確な時期や初代の名が簡単に判るのだろうが、枡田（増田）の初代の名とおおよその時期の方は過去帳で判っているので、天王寺村誌の記述から遠祖の安倍氏とそれにつづく保田氏の系譜を、そして過去帳から増田の系譜を辿ることにした。<br>　天王寺村誌記述の保田家旧記によると、保田氏は大化元年［六四五］大化改新政府の左大臣の安倍朝臣倉橋麿（倉梯麻呂とも書き内麻呂とも呼ばれた。孝徳天皇の妃の父）を祖とする安倍氏（陰陽天文博士加茂保憲の弟で天文博士・主計権頭の安倍晴明朝臣が八代目）の後裔に当たるという。<br>　今昔物語、お伽草子、古今著聞集、宇治拾遺物語に書かれた有名な安倍晴明の職神を使い芦屋道満を負かす小説本になりテレビ放映で良く知られた説話は割愛し、ここでは歌舞伎演目「保名」、清元「芦屋道満大内鑑・葛の葉」、坪内逍遥「小袖物狂」などの安倍晴明誕生伝説の集大成戯曲「信田妻」の粗筋だけを端折って紹介する。＝右大臣・蘇我倉山田石川麿（謀反し中大兄皇子に殺される）と安倍の家祖左大臣倉橋麿の二人をモチーフに東宮の外戚の左大将元方と小野好古という不和の二人が登場、加えて芦屋道満と安倍保名が対立（実際は晴明の父加茂忠行も養父安倍益材も芦屋道満とは面識なし）晴明の生い立ちに至るという、筋も場面も変化に富んだ脚色。<br>　『城主で郡司の安倍保秋の子・安倍保名は道満に疎んぜられるが、信太の森で猟師に追われた白狐を助ける。白狐は恩を感じて、許婚の「葛の葉」に化けて保名と契り、のちの晴明を産む。そこへほんとうの「葛の葉姫」が訪ねてくるので、白狐は「恋しくばたずねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌を書き残して去る』　＝この和歌の口書きが歌舞伎で「けれん」の見せどころ。<br>　『保名が恋妻「榊の前」の死を嘆くのあまり気も狂い、信太森の社のあたりを妻の小袖を持って狂乱の振を踊る』　＝この清元の保名狂乱の姿の舞いは正にあでやか。<br>　母が好んで話したのがこの信太の狐の物語で、なんども聞かされた所為か「恋しくば…」の和歌も忘れず憶えている。陰陽師晴明の説話を母から聞いた憶えがまったく無く、なぜだったのか未だに不思議に思っている。<br>　安倍氏から保田家が分かれたのは十一世紀平安初期で、初代・保田安倍主五代から十一代目に当る保田大連・桷久が保田氏の中祖とされる。＝大連は古代大王国家時代の貴族の称号（姓）の臣・連・公などより位が上で大王授与の最高栄誉をあらわす族長の姓（五世紀後半以降）で、＊桷は正字でなく、木扁に「祭」の下の示を用に替えた字、読み方不明。<br>　十二代目・保田内記桷倫が文治元年（平安後期・一一八五）に後を継ぎ郷惣社庄官となるが三年後、咎めをうけて隠居し二年後に死没。まだ十一才の幼い嫡男・桷寿は母方の伯父で住吉の社侍の堀内外記方で養育され、長じて保田姓に代えて堀内を名乗り数馬と称し、二十二代後の堀内源十良桷勝まで二百七十七年間堀内姓が続いた。＝保田の系譜では必ずしも父から子へと受け継がれるとは限らず、天皇の系譜同様に兄から弟へ又は甥や伯叔父にいったん移るケースもあったと考えられる。計算上、一代平均十年の数字がそれを裏付けている。増田の系譜との整合性を検討中に気が付いた。準拠した天王寺村誌にはいろいろな個所で明らかな誤謬があり、その都度正すか省いて注記する。<br>　慶長二年（一五九七）片桐市正の阿倍野村巡視のときに応対した堀内源十良桷勝は、太閤秀吉から「王子権現・神宮寺晴明社の社家は古来保田氏なれば、保田を名乗るべし」といわれ旧姓『保田』に復し、保田源重郎桷勝と改めた。その子・源吾良（のちの源左衛門桷之）は幼少にして父を亡くし、慶長十九年大阪の陣に天王寺・阿倍野が焼き払われ播州赤石在・大久保へ母としばらく難を避け移ったが、その間に所持する供田その他家財は散逸し、帰村したときには阿倍野は万事天王寺の支配下の天王寺の新田とされていた。しかし阿倍野村の復旧と再独立を見届け、四年後の寛文七年に没した。その後、源兵衛桷光、太郎右衛門桷久、源左衛門桷常と続き、四代あとの源左衛門桷綱幼名平介が、村誌に因ると、天王寺村の内村となったのを再び寛文三年に分地独立させ古来の阿倍野村に戻した庄屋で、また、同じく安倍の後裔で晴明の秘法を継承した天文易道宗家の土御門家の門家となって自ら主膳と改名し、晴明社の祭事を隆盛にした公私にわたる功労者としている。しかし、<br>イ、数え四歳の源吾良（のちの源左衛門桷之）が播磨に移り住んだのが慶長十九年（一六一四）だから次の四代が代々父子とするのは、代々十八歳で嫡男を儲けたとしても四代あとの源左衛門桷綱・幼名平介の誕生は一六六四年となり、彼が「阿倍野村再独立の寛文三年（一六六三）に成人し活躍」とは辻褄があわない。従って、四代前の保田源重郎桷勝が祖父、三代前の源兵衛桷光が実父、先々代の太郎右衛門桷久と先代の源左衛門桷常は叔父と思われる。<br>ロ、祖父の十八歳の年（一六二八）に父が生れ、父の十八歳の年（一六四六）に彼が誕生としても、阿倍野村再独立の寛文三年には彼はまだ十八歳に過ぎず、阿倍野を天王寺村の内村から再び分村独立させた真の功労者は先々代の太郎右衛門桷久、若しくは先代の源左衛門桷常と思われる。<br>＝彼は阿倍野の分村独立時に計算上二十歳前後なので、主膳と改名を宝暦十一年（一七六一）…約百年後…との村誌記述は誤り。でなければ約百年前の阿倍野村独立時以後の出生となり、先々代、先代は叔父でなく祖父と父となってしまう。増田の系譜にとっては、大したことではないが…。<br>　保田の系譜が代々継承者の一名だけの記載であったのが、この次の記述で『長男源左衛門桷綱、次男九兵衛桷男、三男彦兵衛桷富』と初めて兄弟三人の名が記され、長男と次男の後裔の記述なく、三男彦兵衛の二人の息子と男四人女三人の孫だけが記され、孫の伊兵衛桷起のところに『本家に養子となる』の但書があることに気付いた。注目すべきは、この源左衛門・九兵衛・彦兵衛の三人兄弟が増田の過去帳の最も古い弥平治と同時代であることだ。同じ「九兵衛」の名が過去帳の枡田の後裔にもあることから、この次男『九兵衛』と枡田初代の弥平治に繋がるのでは、と胸は大きく膨らんだ。<br>イ、記述の次男九兵衛と三男彦兵衛ともに分家？…郷惣社の庄官で庄屋の家ならば充分な供田その他があり分家するのは当然で、寛政七年（桝田の過去帳九右衛門没後七年。最初の弥八と最初の忠三郎の両名は廿歳すぎ）の王子神社古文書の署名に、庄屋・保田主膳相続・源左衛門（三男彦兵衛の孫伊兵衛桷起相続・後記）に次いで藤右衛門、九兵衛とあり、桝田の過去帳にも分家した九兵衛の名と幼名弥平治の「弥」の両方とも継承（弥八・次項参照）されていることと符合する。<br>ロ、考証「弥平治は次男・九兵衛桷男の幼名ではないか？」…次男九兵衛の幼名を、兄源左衛門の幼名の平介と同様に「平」を入れ、「次ぎ」の意の「治」と「いやます」の意の「弥」とで「弥平治」としたとの推論に無理はなく、同じ名を代々襲ぐのが普遍的な往時では、過去帳には代々襲名される九兵衛でなく幼名の弥平治と書いたと見るのが当然で、後裔の幼名に「弥」の文字が付くのはその嫡流と考えてもおかしくはない。<br>　すべてが保田家系譜と符合し、従って増田の過去帳で最も古い元禄十三年（一七〇〇）沒の弥平治が紛れもなく保田九兵衛桷男で保田家から分家し枡田姓を名乗った我々の家祖と結論できる。<br>　次に、保田から分家した我々の家系の姓の三つの文字…桝田・枡田・増田…の、その因って来たる根源を探ってみた。<br>Ａ、初代忠三郎が作り文化六年沒の娘［法名妙智］の文字を最初に記入した現存の過去帳には、裏表紙内側に草書で『桝田』と書かれており、<br>Ｂ、増田の家に昭和十年代に残っていた幾つかの江戸末期から明治初期作製の手提げ提灯の箱には、家紋の『三ツ目』と楷書で『枡田』と書かれていた。また船場平野町で糸を商っていた江戸末期の分家も母「えつ」の言では『枡田』で、その子孫という人に兄・忠次良が伊藤忠商事で会って受取った名刺にも『枡田』とあったという。<br>Ｃ、明治から大正に作られた幔幕には『増田』とあり、また庄三郎の弟の明治初めの分家の家系の、東住吉の消防署長だった「八三郎」さんは、今のわれわれと同じ『増田』、…墓は同じ広台寺にある。　さらに今回発見した極めて興味深い次の事実に注目したい。<br>イ、「保田家旧記」の「長男源左衛門桷綱に嫡男が無く、庄屋職を継ぐ養子を次男九兵衛の裔孫から迎えず三男彦兵衛の孫の伊兵衛桷起を養子にした」との事実記録。<br>【本家継承の養嗣に出せる息子や孫が次男弥平治の血筋に一人も無くて三男彦兵衛の血筋にいたと見るよりも、次男九兵衛は分家して改姓したので分家しても改姓せずに保田姓の三男彦兵衛の後裔から本家継承の養嗣を取ったと考える方が妥当と思われる】<br>ロ、初代忠三郎（天保六年没）からの現過去帳を再精査し、「忠三郎以前の父祖弥平治、弥兵衛、弥吉、九兵衛、九右衛門と、文化十三年以降天保・万延年間没の弥八・弥三勝・弥三八夫婦の名は、後年の死沒者が過去帳に記入されてから後で書き加えられている」ことが判明。<br>　＝ずっと後になってからの、多分二代目弥八没の元治元年以降明治廿年頃の間に追加記入されたのは明らかである。いずれもお愛想にも上手とは言い難い筆跡なので恐らく少数の家の者が他の（恐らく寺の）過去帳から書き写したと解釈するしかない。それらの明らかに後からの追加書入れと見なされるものは別掲『増田の過去帳』に**印をつけて示した。<br><br>　それら三種の枡桝増の使用を「なんらか改った特別な時に改姓した」との前提で整理すると、<br>イ、弥平治が分家独立したとき枡田と改姓し、<br>ロ、弥八の枡田本家から更に忠三郎が分家独立し、桝田と名乗ったか、もしくは過去帳に枡を草書で桝の崩し字のようにたまたま書いただけで、姓は枡田の儘。<br>ハ、元治元年、嫡子なき二代目弥八に死没により分家の弥三兵衛41才、庄三郎19才が枡田本家を継承する形となったことから、姓の登録を求める明治初めの戸籍法の施行を汐に、荒蕪地を開墾して耕地を増やしたことでもあり弥三兵衛、庄三郎のいずれかが、桝田と枡田を合わせて増田と改姓登録…<br>と推論出来るのではなかろうか。<br>　イとハはほぼ間違いなく、ロは国字である枡を草書体で正漢字の「桝」のように書き誤っただけとは考え難いのだが、どちらとも受取れる。増田となった今ではどちらでも良いことだが…。<br><br>　さらに過去帳を基にして推敲をかさね、すべてに辻褄が合うように組合せと繋がりを考えた最終的な増田の系譜は別掲の枡田・増田家年譜通りで、系譜上の脈絡解明の鍵となったのが過去帳の次の記載ａｂｃと、それらから導き出されたほぼ確定的な結論がｄである。<br>　ａ、明治八年没の戒名尼智専が「今の忠三郎の孫」とあり、「今の忠三郎」が庄三郎でないのは考えずとも明白ゆえ、残るは当時存命の弥三兵衛52才と庄兵衛65才のどちらかが「今の忠三郎」に当る。　ｂ、明治二年没の儀三勝の記入が二通りの違った筆跡（イ、甥儀三勝。ロ、父儀三勝）で、明治十三年没儀三郎・幼名元治郎の記入は前記ロの筆跡（伜元治郎）と別の達筆の筆跡ハ（弟儀三郎・又は元治郎）の二通り。<br>　ｃ、安政三年没弥八娘「やす」の記入は筆跡ロ。従ってイの書き手はロの書き手の叔父に当り、ロの書き手はハの書き手の父で安政三年・明治八年の両年に「増田の当主で忠三郎を名乗る」人となる。当時存命の弥三兵衛、庄兵衛、庄三郎（当時十才）の三人の齢を考えると、筆跡イの書き手は庄兵衛、ロの書き手は弥三兵衛、ハの書き手が庄三郎と確定出来る。<br>　ｄ、父祖弥平治に繋がる「弥の付く名は本家筋」との常識的な判断と、弥八の前妻ナカ、後妻［妙願］の記入が後からの追加記入であることが明白であるので、「元治元年没の弥八は枡田本家の最期の裔孫」と判断。弥八の死で枡田本家が途絶し、分家の忠三郎（幼名弥三兵衛）が本家を継承し分家筋の自家過去帳に弥八を記入、さらに菩提寺の湛水山廣臺寺の過去帳を基に、恐らく庄三郎の妻［せい］が時間を掛け、枡田本家代々の名を父祖弥平治まで遡って、自家の過去帳に追加記入れた」と結論した。<br>　われわれ姉節子を入れて七人兄姉弟は家祖枡田九兵衛桷男・若名弥平治から十四代目、分家初代桝田忠三郎から八代目ということになる。<br><br>　家祖弥平治が分家独立した十七世紀という時代は、いわゆる大阪の勃興隆昌の時代で、淀屋が中之島を開拓築造し材木・塩魚・米市・貸金・両替で巨富を築き、鴻池は清酒を発明し四斗樽酒の江戸送りを始め大阪へ進出して回船・運輸・掛屋・蔵元・買米・両替と一統で業種を広げて莫大な富を得て幕府と諸藩の金穀調達御用を勤めて十八世紀以降の隆盛の基を築いた時代だった。<br>　それから三百年、われわれは阿倍野からは居を移したものの、いま改めて父祖の地阿倍野の歴史を知るのと併せて誇らしく思える父祖の系譜を確かめ得て今安堵とともに幸せを感じています。それらを共有し胸にしっかりと納め、さらなる希望を託して輝かしい未来に向かう心の糧として役立ててもらえるならば、私にとって望外の喜びです。<br><br>　　　　　　　　　　　　　　〓　　　　　　　〓　　　　　　〓<br><br>　　二、父祖の地・阿倍野<br><br>　われわれ増田の七人兄姉弟は父祖の地・阿倍野で生まれた。<br><br>　阿倍野とは、夕陽ケ丘あたりから帝塚山の南の神木（住吉大社との境）までの広い範囲の、現在の阿倍野区、天王寺区南部、住吉区北部をあわせた上町台地の南の地を指す。<br>　熊野若一王子権現の社・阿倍王子神社は、そんな阿倍野のほぼ中央の現・阿倍野元町の熊野街道のわきにあり、そのすぐ傍の屋敷でわれわれ七人兄姉弟が生れた。私の昭和十六年住中入学時の戸籍謄本には「六男・祿郎・阿倍野二十五番屋敷にて出生」、「本籍・大阪市住吉区阿倍野筋七丁目三十六番地」と記されていた。<br>　因みに屋敷の住所の表示は次のように変遷している。<br>明治廿九年七月（一八九六）【郡制発足】　　　　大阪府東成郡天王寺村大字阿倍野二五番屋敷<br>明治三十年四月（一八九七）【城東線以西関西線以北・大阪市編入】　‖右と同じ・変らず‖<br>大正十三年八月（一九二四）【大阪市併合】　　　大阪市天王寺区大字阿倍野二五番屋敷<br>昭和　四年八月（一九二九）【区制・町名変更】　大阪市住吉区阿倍野筋七丁目三六番地<br>昭和十八年　　（一九四三）【区制変更】　　　　大阪市阿倍野区阿倍野筋七丁目三六番地<br>平成十二年　　（二〇〇〇）【町名変更】　　　　大阪市阿倍野区阿倍野元町七番地<br>　注：戦争激化の昭和十八年夏に未召集者の在郷軍人訓練が始まり、兄琢司は本籍地阿倍野へわざわざ出向いて初回の訓練を受けたものの時間的に苦労が多く、本籍を居住地に移し訓練を受ける方が楽ということで本籍を当時の居住地「平野大通四六番地」に移した。<br><br>　阿倍野は、もと安倍野とも言い、崇神天皇の三年に大彦忍信命（八代孝元天皇の皇子で四道將軍。この地に拠った安部晴明の遠祖）に賜った『阿閇』姓に始まり後に『安倍』の文字を当てるようになったとの説が主流だが、四天王寺建立地・荒陵郷（四天王寺縁起記）の古代名・餘戸郷（大日本史記）を略して「あべ」となり「安倍野」となったとの説もある。<br>　ともあれ上町台地は、上古には島嶼の形をし、初め阿閇島、やがて阿倍島とよばれ、北は淀川と北流大和川の河口沼沢池、西は急傾斜で海に落込み、東は古くは難波江、後に深野池・新開池といわれた湖沼池であった【土地隆起が進み、江戸時代初期の宝永四年に大和川の流れを西に切替え干拓地造成が進むまで】。五世紀初に仁徳帝が難波高津宮、六世紀に聖徳太子が本邦初の寺・四天王寺（五九三）七世紀に孝徳帝の「今をさかりと咲くや木の花」と詠んだ難波長柄豊崎宮（六四六）、天武天皇の副都の羅城（六八三）、八世紀に聖武天皇の難波宮（七二六造営を始め七四四遷都）の宮殿・官衙や寺が造られ、皇族・貴族はもちろん多くの氏姓貴族、氏人、部民そして奴婢が住まいした。阿倍野連丘の西斜面直下は茅淳海、四つの入谷の小港湾の一つ（憶測では聖天坂南下・旧鯨谷から相生通下の入谷）が難波津（又は難波の御津、阿倍の臣が出入の船の取締と通訳の任という）で、任那・百済との往来の船が出入りし、屯田開拓や稲作・土木・工芸の技術をつたえに渡来人が阿閇街道（阿倍野街道）を通って飛鳥・藤原京、奈良京へ、或いは同じ氏族の住む河内・大和・和泉へと向かい、たおやかな日々の折節に駐在の宮人は大和に想いを馳せ、「阿倍の島、う（鵜）のすむ石による浪のまなく此ころやまとしおもほゆ」（山辺赤人・八世紀初・万葉集）と詠んだ。<br><br>　どこまでもつづく松の木立ち…、梢をわたる茅淳の松風…、木の間隠れに煌く茅淳の海…、海の面に砕ける夕日…、往古の阿倍野は人々を魅せる美しさに満ちていた。<br>　仁徳帝が外交の要津と定めた住吉の津（古くは墨江、墨江津、三津などという）から高津宮への陸路、日本書紀に「荒陵、松林之南道」とある阿閇街道を開かれたのもむべなるかなと思う。阿倍野の南端、住吉（大津淳中倉長峡）には、神功皇后が新羅より凱旋の折に鎮祭された住吉神があり、海の守護神、軍の守り神、そして多くの歌人が来遊して歌を詠んだことから、いつしか和歌の神様としても崇敬され、海人、武家、歌人らのみならず、すべての遣隋使、遣唐使、そして三韓との往来の人達の多くが住吉参詣に阿閇街道を往還した。古書（熊野九十九社王子記、名所方角抄、天王寺阿倍野古図＝室町時代）にも『安倍野は美しい松原が続き丘陵西直下は海辺という景勝の地（海が近く農夫より漁夫が多かった）。阿倍王子権現の社は松の森にある』と記されている。<br>　茜色の雲間を洩れし夕映えの灌ぎてや隈なく頬は赤らみ、顔面めぐらせば並びたつ松樹の木の間に耀うは海の面…、そは金色のさやかなる汐の香、さざめく松声は耳にたゆたい、褥なす松釵の薫れるを踏みつ、たまゆら君そ歩まばや。<br>　墟里は埋もれ俤もはや消え失せて、いまや夢物語のようだが、茶臼山、聖天山、帝塚山などの古墳とあまたの塚趾（俗にいう阿倍野七塚）、そして今に残る史書、史跡や古き地名が往古を偲ばせる寄処となり想いをゆたかにしてくれる。<br>　事こまやかに歴史上のことを書きしるすつもりは更々ないが、いろいろな興味をそそる挿話をいくつか拾って阿倍野のむかしを辿ってみよう。<br>　大伴大連金村（五二二・継体帝五年、百済へ任那四県割譲の政策を推進。のちに失脚）の邸は住吉にあり、天平時代の八世紀中頃、大伴小室が摂津公、つづいて牛養が摂津太夫（摂津職）となって難波津を「大伴の御津」と詠う和歌もあらわれ、津の国は大伴一族が治めることになった。阿部の臣の一族はその配下に属したと考えられる。＝地方諸国と区別し大宝令制下の難波・津の国は外官（地方官）でなく京官の特別職・摂津職が治めた。平安時代からは摂津職が廃され、摂津国となって国司が治めることになる。<br>　七世紀半ば、一族の阿倍比羅夫が蝦夷粛慎征伐の頃、阿倍の臣が四天王寺の東南に建立した数丁四方の壮大な寺を「阿倍寺」と言い、五世紀初めに創建された王子権現の社（阿倍王子神社）の僧坊として「王子権現の神宮寺」とよばれた。天長三年（八二六）阿倍王子権現に空海が勅を奉じて祈願したところ全国に流行した悪疫が終え、阿倍寺は「痾免寺」の称と勅額を淳和天皇から賜った。中世の兵火に「阿倍寺千軒」といわれた宏壮な寺域の大小幾多の堂塔はすべて焼け落ちたが、阿倍寺趾には「常盤通」の地名の元となった一本松とも四方松とも呼ばれた老松が大正末まで枯れずに聳えていたという。神仏混合の昔、住吉神社の神宮寺や生国魂神社南坊の神宮寺と同様、「王子権現の神宮寺」の僧坊は阿倍王子神社に参詣の皇族貴族の宿坊となったと容易に想像がつく。<br><br>　神宮寺の法燈は阿倍王子神社北隣の小寺に移り、江戸時代の享保年間に印山寺と名を変え今も受け継がれている。<br>　延暦廿三年（八〇四）桓武帝は四天王寺に楽を奏し翌日から和泉の惠美野（道鏡を除こうとして吉備真備に滅された惠美押勝・藤原仲麻呂ゆかりの地か）で狩をたのしみ難波宮（元宮殿）に十日後、還御し土地の民（阿倍野を含む）に田租一年間免除すとある。狩とある故、あたりは平安初期は未開拓地がほとんどか。仁徳帝の狩に倶知（鷹）を献上の狩人阿弭古が地名我孫子の由来か？<br>　都が京都に移った平安時代九世紀半ばに皇族・貴族の仏教崇拝と熊野信仰がたかまって四天王寺詣、熊野詣がさかんになり、その途次、和歌上達を願って住吉神に詣でることになる。京より淀川をくだり渡辺津（今の大江、古称・渡部の橋の天満橋辺り）に上って四天王寺に西方浄土の仏を祈り、美しい「阿倍野の松原」の阿倍野街道に歩をうつして阿倍王子神社に熊野王子祈願の輦をとめ、仮泊して歌合せをたのしみ、住吉へ出て「岸の姫松」をめでて和歌聖・住吉神社に和歌上達の祈願をする。熊野詣にはさらに足をのばして和泉海岸を南下、紀伊の藤代、切目、そして田辺から山みちに入って熊野本宮、新宮、那智と巡る。時にはこれに高野詣が加わる。皇族、貴族の熊野詣には阿倍王子神社に駐輦仮泊して歌合せをするのが常で、後鳥羽上皇の御幸の折には、のちに新古今和歌集選者となった藤原定家、家隆、寂蓮ら六人が列席して歌合せが開かれている。<br>　八五九年の清和天皇に始まり、宇多法皇、後白河上皇、そして後鳥羽上皇で極みに達した熊野詣の御幸（御熊野詣）は公家や京・西国の武家、そして庶民にもひろがり俗にいう「蟻の熊野詣」となった。阿倍野街道は熊野街道ともなり、住吉詣と高野詣の人も加わって人影の絶えることはなかったのではなかろうか。<br>　平安末期になり、歴史に初めて阿倍野が畿内の戦の要衝と記される。<br>　平清盛が紀州熊野権現参詣の途次、切目の宿にて「源義朝が挙兵、六波羅の館は焼かれ、悪源太義平の二千余騎が阿倍野に侍ふ」と聞き、四国にひとまず渡ろうと考えるも平重盛に憶するなと諭され悲壮な覚悟で引返したところ、阿倍野にいたのは悪源太の兵でなく伊勢より馳せ参じた味方の伊東氏の兵三百余騎で、それに力を得て義朝を討つことができ平治の乱に勝を収めた。（平治物語）<br>　南北朝前の後醍醐帝十二年、郡役人に阿倍島姓がいて紛らわしいと地名「阿倍島」の島を野に変え、阿倍野邑と一時なったという。南北朝時代に入ると阿倍野は合戦の場と化し、馬・兵糧の掠奪、人夫狩出しはおろか、再三ならず火を掛けられるなどの災禍をあびた。南北朝六十二年の間に廿三回以上も兵馬に荒らされた。それらの合戦の主なものを列挙する。＝詳しくは太平記を読まれたい。講釈師が物語るように戦いの有様が興味深く細密に臨場感豊かに描かれている。父謙吉が『太平記は面白いぞ。読んでみろ』と言ったのが誤りでないのが今になって判った。<br>　元弘元年（一三三一）笠置の後醍醐天皇に呼応し楠正成が赤坂に挙兵。赤坂城攻めの雲霞のごとき六波羅北条の大軍は、大和路・佐郎路・伊賀路・天王寺路の四手にわかれ、天王寺路軍は攝泉両国の楠氏に呼応するを鎮圧するため、天王寺・阿倍野に陣す。赤坂城陥落。正成遁る。<br>　翌年、正成は金剛山千破（千早）城に再挙。四月、河泉の地頭となった紀伊の領主・湯浅定仏入道を降伏させ河泉両国を席倦、五月、住吉・天王寺（阿倍野）に出で渡部（天満）の橋の南に陣をしく。報を受けて押寄せた隅田・京橋の両軍奉行率いる六波羅軍は五千余騎。それを聞き正成はわずか三百騎を渡部の橋の南に配し、のこり千七百余騎を天王寺と阿倍野・住吉の松蔭に隠す。橋の袂の僅かな、しかも痩せ馬に藁縄の手綱という貧相な河内和泉勢を見て、組しやすしと六波羅勢五千余騎はいっきに渡河し、少々の遠矢のみで戦わずに退く楠勢三百騎を息もつがずに天王寺・阿倍野まで追いかけて疲れ果てたところへ隠れていた楠勢千七百余騎が、一手は天王寺の東より、一手は西門の石の鳥居から、残るは阿倍野・住吉の松蔭より閧の声あげて三方より取り囲む。六波羅勢は慌てふためき、うしろを絶たれぬうちにと退却し、軍奉行の制止も聞かず、われ先に川を渡りて人馬ともに川に落ち、淵と知らず溺れ、あるいは馬が倒れて討取られ、這々の態で京に帰りたるは極くわずかという。<br>　七月十九日、六波羅の命を受けた坂東一の弓矢武者・宇都宮治部大輔はただちに勇猛の手勢十四五騎のみを引き連れて京より天王寺をめざした。心得のある洛中のあらゆる手の者も駆け参じ四塚街道で五百余騎、柱松に陣を敷きし時には七百余騎となる。正成は「七百余騎は小勢といえど志を一にした決死の者。戦わざるに如かず」と夜のうちに天王寺より退く。翌朝、宇都宮七百余騎は天王寺に押寄せ古宇都（高津）の在家に火をかけて閧のこえをあげるも敵現れず、馬足を揃え両三度天王寺内を駆け回るうちに夜も明けて戦わずして勝ちを収めたことを知る。六波羅はもとより御内・外様の諸軍も「宇都宮の振舞い抜群」と誉めたたえた。数日後、正成は遠くから取巻き、夥しい数の篝火を焚かせて幾万騎もいるかのようにみせかける。それがため宇都宮勢は鞍を外して馬を休めて鎧の紐を緩めることも叶わず、さりとて七百余騎では四方に打っても出られず、そのうちに疲れ果て「面目はすでに立ちたるゆえ引上げても良いのでは」と廿九日夜半、京に引上げた。翌朝三十日、早速、楠正成軍天王寺に入る。＝正成の智謀を称え『士卒に礼厚く民屋に煩いをなさず』と太平記にあるが、戦いのある限り、民衆の恐怖・心痛・苦渋の大にして絶えざるは明らか。<br>　建武三年（一三三六）足利尊氏離反し、四月楠正成、湊川に戦死。楠一族と橋本正茂・四条隆実勢は天王寺に陣するも九月、足利直義に攻められ河内東条に退く。以後足利軍は細川顯氏を総帥とし河内和泉制圧の根拠地として天王寺に陣し天王寺・安倍野で南朝軍と戦を繰り返す。中でも両三度にわたる「安倍野の戦」は歴史に名高い。延元三年（一三三八）三月、北畠顯家は大塔宮・義良親王を奉じて奈良より河内に入って天王寺に向い、迎えうった細川顯氏を石川河原に破り、さらに「摂津天王寺・安倍野」でも打破って京に追い落とす。しかし、代って京より攻め寄せた高師直の軍と渡辺橋で戦って破れ、さらに安倍野に陣して応戦するも破れて和泉に退き、五月下旬、再び堺浦より攻め寄せるも戦いに利あらず、齢廿一で「阿倍野の露と消へさせ玉ひ」（吉野拾遺記）となった。<br>　正平二年（一三四七）楠正行が吉野朝廷・後村上天皇の呼び掛けに応じ紀伊・河内・和泉の諸軍と共に兵を挙げ翌年北四条（四条畷）に散るまでの間、安倍野はさらに幾たびか兵馬に荒らされる。　正平二年八月、細川顯氏は正行を攻めんとて天王寺より堺浦に入り、八尾城攻めの正行と河内教興寺（信貴山麓）で激戦数刻、大敗して天王寺に逃れ、京より山名時氏の援軍を得る。十一月末、正行は堺に向い、天王寺を攻めんとまず石津の在家に火をかけ瓜生野（遠里小野）の北から押寄せる。大手の大将山名時氏は「敵は多方面から押寄せる」と読み、摂津播磨の赤松勢八百余騎を住吉に、土岐・明智・佐々木勢三千騎を安倍野の東西に配し、搦手の大将細川顯氏配下の五千余騎を本陣天王寺に控えと配下を分けたために、先陣は住吉遠里小野に敗れ、安倍野の二陣と本陣から出た最後の控えの軍も安倍野で次々と惨敗し、大将山名伊豆守と三河守の主従と目賀田・馬淵の精鋭三十八騎もすべて討取られて、世に言う「住吉の合戦」は正行勢の大勝となった。<br>（この時に、正行が渡辺橋（今の天満橋）で溺れる敵兵を助けた逸話は有名。）<br><br>　山名・細川の大敗に驚愕した尊氏は翌正平三年正月、師直・師泰の大軍を送り、師泰は天王寺から、師直は河内から堺に向かい、正行は和泉・河内より進んで師直を北四条（四条畷）に迎え撃つたが武運つたなく戦死す。生年廿才。<br>　さらに後村上天皇の正平廿三年崩御までの廿一年間、楠木正儀、和田、四条、或いは畠山清氏の南朝軍は、時には大挙して渡辺橋を断ち天王寺に出て河内誉田城の細川を攻め、或いは住吉・天王寺に軍を集めて京師に攻め上り、対して畠山国清、赤松氏範、或いは細川の諸将の幕府軍も京より天王寺・住吉に攻めくだり、再三再四、いつ果てるともなく戦いが繰り返された。<br>　話は前後するが、後宇多天皇（一二七四／八七）に仕えて左衛門尉（天皇周辺警備の任で位は次官の次）であった歌人兼好法師が乱をさけて京の吉田山にこもり（よって吉田兼好という）さらに居を移したのが「阿倍野の原の…松原のふるき所の古家」と古書にある阿倍野・丸山の地、…もと松山と呼ばれた小丘で松の大樹に囲まれ西に下れば大小二つの池のある景勝地だった。往時は松樹の間に茅淳の海が望めて四天王寺と和歌聖・住吉社に近く、まさに歌人の居所にふさわしい。吉田兼好がこの地に住んだのは紛れもない事実だが、名著『徒然草』を書いたのもこの地でないかという人がいるが私はやはり吉田山の閑居と思っている。はっきり断定できる根拠はまったく無いが…。<br><br>　室町、戦国時代ともなれば安倍野はまさに守護、地頭、寺社・荘園領主入り乱れての勢力争いの場となる。<br>　畠山義就・子義豊・管領山名持豊［宗全］と、畠山政長・子尚順・管領細川勝元の二派に分かれての抗争に両畠山は京に留まるを得ず河内のそれぞれの所領に下るが、勝元の所領の堺と天王寺を義就らが焼いたことから応仁の乱が始まる。京の乱が収まった後、義就が河内を占領し摂津・闕郡（天王寺の東、元の百済郡）を横領したことから再び安倍野は戦乱の巷と化した。<br>　義就は政長に河内で討たれ戦死。後を嗣いだ子義豊の誉田城を攻めんが為、政長に請われた将軍義植も河内正覚寺に陣したが、細川政元と乱当時の西軍の諸将が義豊を援け、政長に與して天王寺と堺南荘に陣した赤松政則は秘かに細川政元と通じて動かず、河内正覚寺は陥ちて政長は自殺し子尚順は紀州に逃れ、赤松政則は堺南荘から天王寺に出で投降す。その後、尚順は兵を率い紀州より闕郡（元の百済郡）に入り天王寺に陣して高屋城に拠った義豊を攻めたが、政元再び義豊を援け、尚順再び紀州に遁れた。<br>　両細川氏の争いは絶えことなくつづき、ついに累は本願寺に及んで足利・三好・松永毛利・織田の諸将の本願寺石山城攻めとなる。信長の十一年に亘る攻め（内五年は重囲）を最後に講和したが石山寺内町千軒は三日三晩の火災で消失した。<br>　天正十四年（一五八六）片桐且元巡視の際『この阿倍島は今より阿倍野之庄と名付け…』の一声で呼称阿倍島は終りを告げ、大阪夏の陣の折に焼かれて阿倍野から離散した人々も徐々にしか戻って来ず、元和四年（一六一八）には天王寺の内村となり天王寺新家阿倍野村と呼ばれたが、寛文三年（一六六三）に再び独立して阿倍野村となった。<br>　徳川中期以降、日本に足利末期の永禄年間（十六世紀後半）に伝わった棉の栽培（六月／十月）が阿倍野で盛んになり、間作（十一月／五月）の天王寺蕪菁の生と乾蕪や粕漬も諸国で持て囃され始め（十七世紀中頃から十八世紀初め・栽培は元和、乾蕪は正保、粕漬は享保末に始まる）、大根・辣韮も天王寺・阿倍野の特産物として栽培がふえて実入がよくなり畑地の多い阿倍野に福をもたらした。＝明治初めの最盛期には阿倍野のみならず天王寺の一心寺・安居神社・夕陽丘付近の丘陵一帯は一望千里の棉畑で多作の農家は棉花二、三千斤（約一屯強／二屯弱）の収穫で年約二百円から三百円（今の一千五百万／三千万円）を得たという。<br>　明治十八、九年ごろから安い棉花が海外より入り阿倍野の棉栽培は衰退。しかし、大阪市の近代都市化、商工業文化経済の発展と人口の膨脹につれて、明治中頃から阿倍野にも徐々に近代化と人口の流入が始まる。明治廿年の天王寺村・阿倍野村の合併で誕生した旧天王寺村は北部から市街化してゆく。明治廿二年五月、関西鉄道会社の関西線・湊町柏原間の汽車運転開始、廿八年五月に城東線（現環状線）天王寺玉造間、十月には梅田までの鉄道開通延長により旧天王寺村は明治三十年には戸数三千余（農八百戸・工六百戸・商九百戸・漁二十余戸・雑五百戸）人口一万一千余と膨脹した。しかし、同年四月に北部の大半が大阪市に一部が鶴橋村に編入され、残る城東線以東、奈良街道関西線以南の、旧阿倍野村を主体とする戸数人口わずか三百八十五戸、千三百四十七人の天王寺村となったが、庚申街道周辺・常盤通あたりに高級官舎と財界人の邸宅が建ったことで阿倍野が閑静な住宅地と注目されるようになり、明治三十三年九月に天王寺西門前から天下茶屋（現上町線、東天下茶屋）十一月に上住吉（現・姫松）二年後に下住吉（現・帝塚山）まで車輌七・馬四十五匹の鉄道馬車【大阪馬車鉄道会社、のち四十一年、大阪電車鉄道、浪速電車軌道と名を変え電車。四十二年南海鉄道に併合】が通ずると、更に住宅が建てられ徐々に人口が増加して商工業者も増え始め、田畑が減って農業は衰微の一途を辿り、和漢三才図・本朝食鑑・摂陽群談の旧書に「天王寺並びに阿倍野に作れり…味甘美」と記され浪速の俳人画家・与謝蕪村の名となり正岡子規の「此頃は蕪曳くらん天王寺」の句にもなった天王寺蕪・大根の栽培も途絶えてしまった。<br>（野沢菜は元は天王寺蕪で、信州佐久の野沢での栽培は大正以後。）<br><br>　それでも長閑な田園風景はまだ明治四十年頃まで見られたようだ。<br>　母・えつ（悦）から聞いた話。<br>「阿倍野も北畠から南はずっと畑で、家はなかった」<br>「姫松あたりに増田の大きくひらけた桃畑があって、春になったら西の崖のきわの松林まで、いちめんの桃の花ざかり。桃の花の下でお弁当の御重（重箱）をひろげて食べた味、おいしかったわぁ、いまも忘れへん」<br>「阿倍野には狐がいっぱい居ってな、春休みが終って堺の松谷さん（母の先生で下宿先）とこへ帰るとき、男衆が提灯持って送ってくれるんやけど、夕方うす暗うなって遠くに狐火がみえるんやわ…、帝塚山のほうから我孫子の方へ、ポッポッと跳ねて動いていくねん、怖かったわぁ。あれ春しか見えへんねん。毛をこすって灯つけてるて言うてたけど、ほんまかなぁ」<br><br>　阿倍野の開発はさらに拍車が掛かる。ちょうど祖父・忠三郎が村長として開発に尽力し、その功で宮中に参内、叙勲の栄誉と賜杯を受けた明治四十五年から大正五年がその時期に当たる（祖父忠三郎の事蹟は別項にゆずる）。<br>　地勢は高燥にして閑雅、空気は清浄にして交通は至便と謳れた阿倍野は、上水道が大正七年に通じ下水道も逐次完備されて、廿年後の大正十三年には戸数一万三千四百七戸・人口五万八千八百三三人と大正初めの約三十三倍と四十四倍になり、宅地面積百十八万八千余坪、家屋棟数八千百余、建坪二二万七千余坪と都市匹敵の住宅人口を擁するようになる。<br>　旧書には「阿倍野と天下茶屋には百戸と二百四五十戸ほどの集落があるものの、残余はすべて田畑と樹林、そして荊棘荒蕪の原野。稀に狐狸の横行、野鶏の棲息を見る荒凉の地」とあり、明治十年ごろは地価がないどころか地租を負担しきれず一反の地を五升から一斗の清酒を付けて無償で他に譲る人もあったという。一反（約九九二平方メートル）九円だった土地が明治廿年には一坪（三・三平方メートル）十一円で売買された」とあり、十余年で地価は三百七、八十倍の高騰をしたのである。その後、大正末までの四十年間にどれほど更に騰貴したのか想像もつかない。無償の清酒一斗のおまけ付きで手に入れた原野が宅地となって巨利をを得た人がかなりあったことだけは想像に難くない。<br>　祖父・忠三郎の訓えの言葉。<br>「土地を買うときは、雨の日に見にいくんやで。水捌けがええかどうか、ええとこ悪いとこ、いろんなことが、よう分かるさかい、注意せなあかんで。」<br><br>　われわれが父祖の地・阿倍野を去ったのは昭和六年の事である。</p>
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<pubDate>Mon, 20 Jan 2020 22:18:52 +0900</pubDate>
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