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<title>数学が好きなサラリーマンのブログ</title>
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<description>数学が好きなサラリーマンが、数学について色々と語ります。サラリーマン的要素も度々でてくるかも。</description>
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<title>ブログ引越しのご連絡</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-weight:bold;">ブログ引越しました。</span></p><p><a href="http://mathbanker.hatenablog.jp/">http://mathbanker.hatenablog.jp/</a></p>
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<link>https://ameblo.jp/mathbanker/entry-12308105639.html</link>
<pubDate>Wed, 06 Sep 2017 01:09:30 +0900</pubDate>
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<title>理詰めという恥ずかしさ</title>
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<![CDATA[ <p>「言っていることがあまりにわけわからないから、理詰めにしして黙らせてやったぜ」<br>と自分の理解力の低さを棚に上げて鼻息を荒くする人をたまに見かける。論理的に説明をした自分の主張は正しく、相手はぐうの音も出なくなったという話をしているのだろうが、<br>理詰めにする→□→相手が黙る<br>この□に入る感情を相手に持たせた事実しかそこにはない。<br><br>この発言者が生意気だとか、ホントに論理的に説明できていたのかよという指摘よりも前に言いたいことがある。<br>論理とは前提と結論を結ぶ鎖のようなものだ。２地点の経路が確かにあることを論理は保証するだけで、それが「唯一」だったり、「最適」だったりするとは限らない。意見が分かれるという状況は、一方が非論理的という状況が全てではなく、２つの結論にたどり着く２つの経路が存在しているということも十分にある。どちらが優れているかは、どんな側面から何をどう比較するかによって一般には異なるはずだ。<br><br>冒頭の発言に戻ると、<br>「言っていることがあまりにわけわからないから・・・」<br>という部分は本当にそう感じているのなら（自分の意見に陶酔していて聞く気がなかったということであれば話にならない）、しっかりと熟考してみる必要がある。自分が理解していないだけで、別の論理がそこにあることを示唆している。そこをしっかりと理解できれば、自分の立場と比較し、眼前にある命題に対してどういう観点でどちらが最適なのか、自分の立場に再考の余地はないかと検討する機会になるはずだ。そのことを放棄して、鼻息を荒くする姿はあまりに滑稽に映る。<br><br>そういったことから、本当に理論派の人物とは他者に対し、常に敬意を持つ人間になるものと考えている。そして、冒頭の発言者に「言っていることがあまりにわけわからないから、理詰めにしして黙らせてやったぜ」と言い放つようなこの記事の存在から、僕がまだ理論派となりえないことを証明してしまった。<br><br><span style="font-weight:bold;">今回は、少し宣伝。</span><br>ようやくセンター対策本ⅡBを上梓した。内容が２０１５年版だから本当に情けない話だが、読んで頂ける人がいればありがたい。また、誤字・誤植、もしかするとミスがあるかもしれないので、その他意見も含めもしあれば教えていただけると幸甚の限りだ（mathbanker@gmail.com）。<br><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B0755X6QB1/ref=cm_sw_r_other_apa_QBkPzbTJP981Z">https://www.amazon.co.jp/dp/B0755X6QB1/ref=cm_sw_r_other_apa_QBkPzbTJP981Z</a><br><br>ちなみに今後も性懲りなく、別の観点の本を書いてみたいと考えている。</p>
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<pubDate>Sun, 03 Sep 2017 00:57:16 +0900</pubDate>
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<title>統計という名の魔法（といいつつ、統計の話ではない）</title>
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<![CDATA[ <div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">「統計的観点からは30代で数学が得意な人は既婚率が高い」</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">…なんてことは多分ない。おそらく。</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">しかし、こんなことを言われると「えーそうなの？！」と言いつつ、信じる人は少なくない。それは多くの人が統計的事実というものを受け入れていて、例え近くに30代で数学が好きな独身な人がいても、「あぁあの人は例外なのね」となってしまう。</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">このエセ統計結果の説明を、統計の使い方を間違えている人が行っている場合については過去にも話したことがあるが、今回はこういった情報に対する聞き手の方にフォーカスしたい。</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">学者や権威ある研究家の発言の説明は信じても、心霊術師や占い師の説明を訝しる人は少なくない。僕の周りにも割にこんな人たちはいる。</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">彼らに理由を聞くと口を揃えて「科学的根拠」や「ロジカルさ」を挙げてくる。理系出身の端くれとしてそのキモチはわかる。</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">仮に心霊術師が突然瞑想をはじめて、</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">「いま魂だけ心霊図書館に行って調べてきました。この地球において、数学が得意な者の多くは結婚しているようです」</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">と言い出したとする。「『得意な』ってどう定義するんだ？」とツッコミをいれたくなる理系な人は、「科学的根拠のないエセ心霊術師め」となるわけだが、冒頭の統計話とここで比較してみたい。</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">「統計的観点」といえば、それは「ロジカル」なのだろうか。「心霊図書館」は存在するはずがないから結論は嘘だと否定するのだろうか。</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">統計的観点も心霊図書館も、根拠を示さなければ同じ漢字5文字に過ぎない。統計的観点は、現時点で示されていないものの根拠を示すことが可能だと感じる一方で、心霊図書館は根拠を要求しても出てこないと思っていることが、両者に抱いている心象の根本のハズだ。</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">現実を見てほしい。両者とも、その背景を何も示していないという事実しか眼前にはない。ただ感覚的に抱いてることが、その信憑性を決めている。</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">統計的観点からものを語るならば関係する数値を示す必要がある。どういったサンプル空間において、どんな分布が確かめられ、どう結論づけたのかのストーリーとともに「統計的観点」というワードは使われていないと意味をなさない。つまり、このストーリーを要約した表現が「統計的観点」なのであって、ストーリーがないところででてきても、ただの空き箱に過ぎない。</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">もちろん、統計的観点というのは一例であって、こういったことは枚挙に暇がない。昔魔法が信じられていた時代を嘲笑う人が現代の魔法に気づけていないことはなんとも残念だ。</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">よく巷で賢い人こそ騙されやすい、なんてことを耳にするが、その原因がこんなことならばきっとその人は本当は賢くなんてないんだろうな、と思うこの頃である。</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;">…これって数学でなくて心理学かな。</div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"><br></div><div style="font-family:&quot;Helvetica Neue&quot;, Arial, sans, sans-serif;font-size:13.6px;"></div>
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<link>https://ameblo.jp/mathbanker/entry-12301813195.html</link>
<pubDate>Tue, 15 Aug 2017 21:03:55 +0900</pubDate>
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<title>確率の重さについて（或いは、神の罠について）</title>
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<![CDATA[ 確率を考えるときに、重さという概念がある。<br><br>先日、茂木先生が<br>「藤井四段、ほんとうに凄い。。。もし、勝率が1/2と仮定すると、２９連勝する確率は、なんと、536870912 分の一という計算に。。。。宇宙的天才！」<br>とツイートして炎上していたが、発言の真意は触れないとして、まさにこの「重さ」がその炎上の根拠だった。<br><br>明らかに実感とあわない結論がでるとこの「重さ」には気付きやすいが、以下の場合はどうだろう。<br><br>ある集団においてトランプの支持と反支持の調査をしたところ、人数は丁度半数ずつにわかれた。次にメキシコの壁の設置についてその是非を調査したら、これもまた半分ずつにわかれた。<br><br>トランプ支持者は、支持を表明しているくらいだから、この壁に多少違和感をもっていても実施するということを受け入れるキモチがあるから支持しているはずだ。<br>一方で不支持の人は、トランプのすることをすべて反対しているとは限らないが、表明内容において実施されては困るものがあるから反対の立場のはずである。<br>そうすると、メキシコの壁には理論上（理論上というのは、人間は常に矛盾なく自分の行動を起こせているわけではないから）、支持者はすべて賛成しているはずだし、反支持者は一部が賛成していてもおかしくない。<br>すると自ずと過半数が賛成しているという構図になるはずだ。<br><br>しかし、繰り返すが、理論上の話である。上の例では半分がそうだったという事実（勿論例の中での事実）が存在している。何が起きているのだろうか。トランプを支持していても、これだけはやってほしくない人が混じっているのか。渋々支持している人だろうか。<br><br>前者の茂木先生の話は仮定の話で、重さを抜きにして50%であることを明示している。後者のトランプ話は重さを加味しての50%の話だ。意味のある話かはさておき茂木先生は仮定であることを言っているのだから、発言自体の真意は気になるところだが、それが全てだ。トランプの話の方は重さが加味されていることに意識が行かず、50%が支持しているから50%が壁設立に賛成は当たり前だと考えてしまいがちだ。<br><br>確率は「重さ」を武器に、よく直感を裏切る。わかりやすいものからわかりにくいものまで多種多様だ。これは神が作った罠に違いない。掛からぬように気をつけたい。
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<link>https://ameblo.jp/mathbanker/entry-12293424957.html</link>
<pubDate>Mon, 17 Jul 2017 15:13:00 +0900</pubDate>
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<title>年収と数列、真実の行方</title>
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<![CDATA[ <p>数学を意識するということをテーマに昔教授にこんなことを問われたことがある。</p><p>&nbsp;</p><p>簡単に以下の2ケースを考えてみる。会社と契約を結ぶとき、どちらのほうがいいだろうか。</p><p>A.年俸600万円。毎年60万アップ。</p><p>B.半期年俸300万円。半期毎に15万円アップ。</p><p>&nbsp;</p><p>Aは毎年60万円、Bは毎年30万円増えるわけだからAが得、となりそうだ。</p><p>これを数学を用いて一般的に計算してみよう。</p><p>&nbsp;</p><p>数列で考えるとn年目の年収をそれぞれa(n)、b(n)とする。</p><p>a(n)=600+60(n-1)=60n+540</p><p>b(n)=300+15((2n-1)-1)+300+15(2n-1)=60n+600-45=60n+555</p><p>よって&nbsp;</p><p>b(n)-a(n)=15&gt;0</p><p>ゆえに　b(n)&gt;a(n)　となることから、Bの条件の方が有利であることがわかる。</p><p>&nbsp;</p><p>この事実は、我々の感覚がズレていることを示している。</p><p>勿論、すべての人がズレているわけではないだろうが、大多数の人の感覚はズレている。</p><p>&nbsp;</p><p>真実は国民の総意の中心にあるとは限らないのである。</p><p>最近テレビを見ていて、ときどきしみじみそんなことを考えてしまう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/mathbanker/entry-12281175579.html</link>
<pubDate>Tue, 06 Jun 2017 00:53:10 +0900</pubDate>
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<title>悪魔の証明</title>
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<![CDATA[ <p>ちょっと前の籠池騒動発端時くらいに安倍首相が弁明に使用した「悪魔の証明」というものがある。</p><p>&nbsp;</p><p>「証明」なんてワードがでてくるから一見数学風だが、実は大学院まで言葉としては知ってはいたものの、数学において雑談以外に登場したことはなかったと思う。法廷の場向けの言葉と捉えている。</p><p>&nbsp;</p><p>が、しかし。ここでいつものように数学的な見地から眺めてみたい。</p><p>&nbsp;</p><p>少しググってみたところ、消極的事実の証明に対して使われることが馴染みあるケースに思われる。同じ」境地は数学の世界にも存在する。</p><p>&nbsp;</p><p>存在しないこと／やっていないことを証明することは難儀である。しかし数学においては証明責任はないと放り出すことは勿論ない（ここで誤解を招かぬよう言っておくが、予算委員会での安倍首相の発言を否定するものではない）。</p><p>&nbsp;</p><p>数学で誰もが通る問題に「√2が無理数であることを示せ」と言うものがある。</p><p>ここで出て来る無理数の定義が、有理数ではない数、である。すなわち換言すると、</p><p>「√2が有理数ではないことを示せ」</p><p>ということになる。</p><p>数学はディベートではないから、自分は有理数ではないと考えているが、有理数だと考えている人がその事実をまず証明せよ、とはできない。</p><p>そこで有名な背理法を用いる。結論の否定を仮定して、その矛盾を論ずる証明法である。</p><p>有理数の定義は整数比でかけることである。</p><p>つまり有理数ならば、√2=n/m（n/mはこれ以上約分できない分数）と書ける。ここから矛盾を導ければいい。</p><p>ここで平方根（√）とは2乗すると中身になる数のことだった。故に中身の数を表舞台に出すために2乗してみる。</p><p>2=n^2/m^2</p><p>となる。n/mはこれ以上約分ができない数なので、mが1以外の数では整数＝整数にならない分数となってしまうので、m=1しか取り得ない。</p><p>すると</p><p>2=n^2</p><p>となる。2はご存知の通りとても有名な素数である。素数とはなんだったかというと、1と自分自身以外に約数を持たない数である。つまり2=1x2以外に整数の積の形で分解はできない。ゆえに右辺のように同じ整数の積という形では表現できないため、この式は成り立たないことがわかった。</p><p>&nbsp;</p><p>勢い余って回答解説までしてしまったが、数学における消極的事実に対する対応のうちのひとつだ。それ以外にも、対偶証明法や確率において余事象を用いる法も使われやすい。</p><p>&nbsp;</p><p>このことからいくと、100万円を渡していないことの証明は渡していたら矛盾するなにかを見つければ、一つの回答となる。理論上は。背理法でなくても100万円を渡したとする状況をまず考える必要がある。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし１対１の場所で渡した・渡さないの議論ならば、そもそも渡してはじめて発生する事象自体が少ないことから、矛盾を示すための材料に乏しいことは想像に難くない。</p><p>&nbsp;</p><p>とすれば、疑惑をもった側が何故そう思ったのかということを明確にするしか術がないことがわかる。真実はどうであれ、疑惑をもった側が根拠を示す、それに対する見解を持たれた側が説明する。第一歩から、疑惑を持たれた側の証明から入るのは、証明できるはずの材料があるときのみだろう。そこで矛盾が示せれば無実だし、示すことができなければ黒と判断できるような材料だ。</p><p>&nbsp;</p><p>最近、事実確認をファクトベースと横文字で言うことが流行りだが、この流れが追求する野党側にまだ浸透していなかったのかと思うと、なんだか残念だ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/mathbanker/entry-12264167417.html</link>
<pubDate>Sun, 09 Apr 2017 22:11:25 +0900</pubDate>
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<title>リスク・コントロールというクスリ</title>
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<![CDATA[ <p>今回はリスク・コントロールについて。数学との関係性を直接明確には述べないが、関連があることは察していただけるとありがたい。</p><p>&nbsp;</p><p>仕事において、</p><p>「ここにこんなリスクがあります」</p><p>だとか</p><p>「そういったことをするのはリスクです」</p><p>なんてセリフを時々耳にする。</p><p>よくよく話を聞いてみると、</p><p>リスク＝私は忠告しておきましたよ</p><p>だとか</p><p>リスク＝それに当てはまることはやめておいたほうがいい</p><p>という意味であることが多いようだ。これらはリスクに気づいているが、コントロールするつもりはない発言だ。</p><p>&nbsp;</p><p>これを車の運転で例えてみる。</p><p>「車に乗ると事故が起きるリスクがあります」</p><p>とか</p><p>「車に乗って運転するのはリスクです」</p><p>となる。これってつまり、</p><p>車に乗るな</p><p>ということになる。車に乗らないことは事故を起こさないために確かに選択肢の一つではあるが、クルマに乗るメリットの一切を捨ててしまっている。</p><p>&nbsp;</p><p>車に例えると明らかだが、仕事の場においてはそのことに違和感を覚えない人がいるようだ。</p><p>リスクとは気づいただけでは意味がない。リスクがあるならそれをどう回避するか、が重要だ。車に乗ると事故を起こすリスクがある。事前にリスクだとわかっているのだから、どうすれば事故を起こさずにすむのか、を考えるべきだ。免許制度を導入して事前に安全運転の理解を徹底し、違反したら罰則を与える、というのも一つのリスク回避策である。この策を取ることで、車の利便性を、それがもつリスクをコントロールした上で、享受できることになる。</p><p>&nbsp;</p><p>仕事においても同じだ。誰かが大胆なアイデアを主張したときに、「それはリスクです」なんてことを言う人はただの抵抗勢力と揶揄されても仕方ない。それにはどんなリスクが具体的にあって、それを回避するためにはどんな方法があるのか、発言者はリスクと言うならその点を明確に提案するべきだ。回避する方法がどんなに考えても出てこないといったときに、はじめてその案は見送ることになる。</p><p>&nbsp;</p><p>金融工学の中にもリスクという言葉は出て来るが、そんな高尚なところに手を出す前に、まずはこういった身近なリスクについて適切に対応できるようになりたい。適切なリスク・コントロールは、取り掛かっている物事の懸念を取り除くクスリになるはずである。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/mathbanker/entry-12254013823.html</link>
<pubDate>Mon, 06 Mar 2017 23:44:53 +0900</pubDate>
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<title>仕事と恋愛とイコールについて</title>
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<![CDATA[ <p>過去にもイコールについては語ったことがあるが、今回は人間関係という点から少し考察してみたい。</p><p>&nbsp;</p><p>まず、そもそもの等号を少し考える。A=B　と表現されるとき、当然ながら左辺と右辺は”同じ”である。この”同じ”であるということにはテーマが必要となる。どんなテーマの元に、何と何が同じなのか、ということだ。</p><p>よく用いる例だが、『世の中は数学のように「1+1=2」とは限らない』、なんてよく耳にする文句もテーマを理解していないだけだ。</p><p>何かと何かが“同じ”で、それらを等号で結ぶとき、その何かと何かは別の面では異なっている。異なっているけれども、テーマを一つ定めればその観点からは“同じ”と言えるのである。”一心同体”なんて言えるのは、本当は異なる二人がいるからに他ならない。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、人間関係において、誰かに何かをするとき、我々は無償の提供ということはあり得るのだろうか。金銭と限らず何かしらの代償をもって、我々はその人に行為を行っていると僕は思う。つまり、行為＝代償が成り立つはずだ。</p><p>Ichiro is a baseball player.</p><p>という英文において</p><p>Ichiro = a baseball player</p><p>ということは簡単に認めるのに（この等号は一般には成り立たない）、この等式は時に反論される。</p><p>&nbsp;</p><p>あなたも反論する人ならば、一つ例を浮かべ、それの自分の心象を考えてほしい。きっと家族や恋人への愛（行為）は無償だ、という意見が多いと予測するが、こういった場合においても、問題なく当てはまる。その愛の代償が何らかあなたの中にあるはずだ。</p><p>&nbsp;</p><p>重要なのは、等号を成り立たせるための行為の価値はあなたが決めるということだ。この行為は誰かに何かをするときだけではなく、してもらう時だって同じである。本当に無償ということはありえない。</p><p>&nbsp;</p><p>世の中にはモテる秘訣というものが溢れている。美男美女以外は、どうやったらモテるのかを一度くらい考えたことがあるだろう。残念ながらこれに対する明確な手法を持ちあわせているわけではないが、しかし一つ言えるのは、魅力的な異性があなたに振り向くためには、あなたがその異性にとっての対価を持っている必要があるということだ。美男美女の場合は、それだけで対価となりうるということであって、唯一無二のものではないことは世のカップルたちが示してくれている。</p><p>&nbsp;</p><p>仕事において、忙しくて手が回らないとき、同僚や部下に仕事を頼む。この同僚や、部下はけして無償であなたを助けるわけではない。あなたを哀れんで、あなたに救いの手を伸ばしたと本人が後日暴露したとしても、それを行った本質的な動機が無意識だとしても存在しているはずだ。</p><p>&nbsp;</p><p>我々は、他者との間でなにかの行為をするときに、自然と秤の一方に乗っていることを忘れてはいけない。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/mathbanker/entry-12251804412.html</link>
<pubDate>Mon, 27 Feb 2017 21:05:55 +0900</pubDate>
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<title>高校時代の恋愛と、人生と確率。</title>
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<![CDATA[ <p>僕らは人生でどれだけの異性と恋に落ち、そのうちのだれと結婚するべきなのだろうか（或いは、するべきだったのだろうか）。</p><p>シンプルに考えるために次の条件を仮定する。</p><ol type="1"><li value="1">人生を通して10人と付き合えるとする。</li><li lang="en-US">同時に２人以上と付き合わない。</li><li lang="en-US">一度別れた人とは付き合わない。</li></ol><p lang="en-US">今回証明は割愛するが、最初の３人はどんなに素敵だと思えても別れて、４人目以降で過去最高と思える人に出会ったときにその人と結婚をする。そうすれば、あなたは最も高い確率で10人の中から一番好みの女性と結婚することができる。</p><p>この種の問題を数学では秘書問題と言ったりする。結婚相手を秘書採用に置き換えたときのネーミングである。</p><p>一見便利そうだが、なかなかとらえどころの難しい見解である。話しやすい蘊蓄として語られているところを目の当たりにする。興味は惹かれやすいテーマなのだが、いざどう実践してよいのかが難しい。最初の3人を切り捨てるくだりは比率（37％程度）から来るのだが、全体あっての比率である。</p><p>どれだけの異性と恋の落ちるのか、をどう予想するかが肝要であって、人生で3人しか付き合えない人が１０人いけると思って３人を切り捨てては哀れだ。</p><p>しかし、全く使えないかというとそうでもない。すべての人を同じように考えることはできないことは承知で、学生時代（特に高校あたり）の恋人はよほど持てる人でない限り、よくて１年に一人で３人だ。そして、高校時代に３人と付き合えたら、それっきり残りの人生で付き合える人はいなかったとなるケースはまれだと思う。ということは、高校時代の恋愛というのは、その後素敵な人に巡り合う為の修行なのである。</p><p>そう、あの頃の諸々の思い出はすべて修行の一環だったのだ。</p><p>と考えれば、少しは浮かばれる思いもあるのではないか。と考える今日この頃である。</p><p lang="ja">&nbsp;</p><p lang="ja">&nbsp;</p><p lang="ja">&nbsp;</p><p lang="ja">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/mathbanker/entry-12242361186.html</link>
<pubDate>Sat, 28 Jan 2017 20:37:38 +0900</pubDate>
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<title>テレビ・ネットでときにみかける統計的アプローチについて</title>
<description>
<![CDATA[ <p>心理学には詳しくないけど、いつも気になっていることがある。</p><p>テレビ番組やネットニュースでよく、「◯◯人の人たちに△△をしてもらった結果、□割の人が〜することがわかった」なんてことを紹介している。一見結びつかないような因果を統計的なアプローチで実証しました、と言わんばかりだ。<br>そんなアプローチを見るたび、その程度の標本（サンプル数）で傾向を見るのか、相関があるだけで因果を結びつけるのか、と思ってしまう。</p><p>サイコロの各目が1/6の確率であることを検証するのでさえ、100回ふったところでわからない。以前にもブログのネタにしたことがあったが、パチスロ・パチンコの類も同じで、一日中同じいかさまのない筐体で回し続けても、メーカーの発表値近くにならないことも多々ある。</p><p>それに加え、一部の標本があるべき全体の縮図になっているか、というところでも疑問が残る。サンプルを学生や主婦に絞った検証のとき、得られる統計は当然、学生や主婦に対する傾向になる。これがどこかの大学や、どこかの地域に限定した場合は尚更だ。それを一般化するときには、標本の特性に注意が必要なはずだが、気にしてないようなものが多い。</p><p>また統計データの使い方についても疑問がある。<br>例えば、超極端な例として、<br>「100人に、鍋料理を食べる時期についてアンケートを取りました。この結果最もよく食べる時期が、手がかじかむ時期と重なるのです。つまり、鍋料理は手がかじかむことに何らか影響があると考えられるのです。」<br>という情報だったとする。こんな内容であれば、ふつうは騙されないだろう。「冬」ということが媒介して両者を繋いでいるだけであって、直接の因果はないことはすぐにわかる（少なくとも統計的アプローチでは冬という季節要因が邪魔して真実は得られない）。しかし、これが少しダイエットがらみの情報などに置き換わると、そうとは限らない。ときにはそれがダイエットブームなど流行の一端を担うことすらあるのが現実だ。</p><p>もちろん、僕は統計が使えないという話をしているわけではない。統計は強力な武器だと思っている。<br>ただし、使い方を間違えなければ。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/mathbanker/entry-12231284195.html</link>
<pubDate>Fri, 23 Dec 2016 19:56:20 +0900</pubDate>
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