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<title>整理とまとめのブログ</title>
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<title>続　じち</title>
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アメンバー限定公開記事です。
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<link>https://ameblo.jp/matomework/amemberentry-10843928700.html</link>
<pubDate>Mon, 28 Mar 2011 16:15:14 +0900</pubDate>
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<title>地方分権　「自治体法務に関する観察」</title>
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アメンバー限定公開記事です。
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<link>https://ameblo.jp/matomework/amemberentry-10843636245.html</link>
<pubDate>Mon, 28 Mar 2011 09:03:52 +0900</pubDate>
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<title>8 サン出るつづき</title>
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<![CDATA[ <p>カントの話。</p><br><p>カントはむずかしそうだ。</p><p>カントは「～のために○○する」という行為を他律的で仮言命法であるとし</p><p>「それが有無を言わさずただしいから○○する」という行為を自律的で定言命法であるとする。</p><p>またその二つは、傾向的ｖｓ義務　という対立でもとらえることができる。</p><p>傾向的とは、～したい　というような自分の欲求にしたがうことだ。</p><br><p>しかし、「それが正義だ」と信じてある行為を行った際に、それを目的どおり達成し</p><p>うれしいという感情を持ったとき、傾向的だというかというと、そうではない。</p><br><p>行為を行う目的、意思に重要性があるというのだ。</p><br><p>カントのいう定言命法の行動律はどう生み出されるのかは、「他人の人間性を尊重する」ことで</p><p>社会全般において統一される、と書かれていたがよくわからなかった。</p><br><p>とにかく「他人がいやがるだろうから、やめとく」というようなことは、定言命法とはいえない。</p><p>じゃあ行動律はどうつくるのだ。</p><br><br><p>話は変わるが</p><p>ﾁｰﾄｽよりスコーンのほうがうまい。これは譲れない。というかスコーンをもっと安値で</p><p>売るべき。陳列されてないことすらある。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/matomework/entry-10838070124.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Mar 2011 17:16:19 +0900</pubDate>
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<title>第七回　マイケルさんでる</title>
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<![CDATA[ <p>サンデル教授の有名な本、正義についてを読んだ。</p><br><p>３章の途中くらいまで読んで疲れたから帰ってきた。</p><br><p>要は功利主義とそうはいかないよね主義のバトルであった。</p><br><p>そうはいかないよね派のなかには二つあってひとつはＪＳミルがいう、人間の行為、思いに崇高か卑劣かが</p><p>あるのだ。「モーツァルトを聞くという行為が、家でテレビを見るという行為より崇高なのだ」という</p><p>価値基準があって、加重功利主義を考えるべきだとするもの。</p><br><p>もうひとつは、どうにも数とか量とかで割り切れない、道徳ともいうべき基準があり</p><p>選択や価値推量を拒否するようなときにみられる心の働きを考えれば</p><p>功利主義でわりきれないことは社会にある。とする考え方だ。</p><br><p>自分は最後の考え方を今までもって生きてきたと思う。</p><br><p>続きをあしたよんでこよう。</p><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/matomework/entry-10837134195.html</link>
<pubDate>Mon, 21 Mar 2011 17:57:16 +0900</pubDate>
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<title>第６回　もうひとつつけくわえ</title>
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<![CDATA[ <p>前回の話に追加。</p><br><p>人々が癒しを求め、癒されたあともまた癒しを求め続けるのは</p><p>根本的な要求を「癒し」という別のもので代償しているからだという。</p><br><p>こどもがだだをこねて何かをかってくれとねだりつづけるのは</p><p>本当に何かをほしがっているのではなく、満たされないなにかを</p><p>ものによって解消するためにだだをこねているという。</p><br><p>次回はこれまでの自分のブログに批判をしてみたいとおもう。</p><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/matomework/entry-10836175897.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Mar 2011 18:32:06 +0900</pubDate>
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<title>第五回　異常者</title>
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<![CDATA[ <p>今日はジュンク堂にいって本を物色してきた。</p><br><p>今日読んだのは『普通がいいという病』という本だ。</p><br><p>読んでいて重要な内容だなと思った点がいくつかある。</p><br><p>ひとつは、この本は冒頭でフーコーの言葉をのせ、狂人を狂人として区別することでいわゆる『異常者』が</p><p>発生したのであって、区別をなくすると狂人そのものが存在しなくなるというような主張をしているところだ。</p><br><p>当たり前のようなことだが意外と気づかない点でもある。</p><br><p>しかし、同質のものが多いほうが評価を下す側になるというのは社会の常識である。</p><p>上で述べた主張に対抗する言葉として『社会に不満があるのなら自分を変えろ』という</p><p>某アニメの名台詞があげられるかもしれない。いやむしろ、同じ認識から発せられた</p><p>ふた方向の言葉である気もする。</p><br><p>もうひとつの重要点は、日本人は０人称であるということだ。</p><p>「わたしは～だ」というような主張をすることが少なく、「きっとあなたもそうでしょう？」系の</p><p>同じ認識にあることを前提とするようなコミュニケーションが多いという。</p><br><br><p>海外では自分の考えを相手に言わなければコミュニケーションそのものがなりたたない。</p><p>その意味では日本社会は、狂人に生きづらい社会といえるかもしれない。</p><br><p>そしてもう一つ。現実をみろという人が見ているのは、物的現実であるという。</p><p>フロイトなどの例をあげ、無意識の重要性を説く。</p><p>サンタクロースがいるというのを信じている人は、ｻﾝﾀがいるというのが、その人の「現実」になっている。</p><p>サンタクロースがいないというのを信じている人は、ｻﾝﾀがいないというその人の「現実」を信じている。</p><br><p>みなが信じているだろう前提を「現実」とよんでいるにすぎないのだ。</p><br><p>最後にもうひとつ。５本のバナナの話は印象的だった。</p><p>ある人が５本のバナナを持っていたとしてい、その人は３本食べればおなかがふくれて</p><p>満足するという。だからその人は、３本食べてから余った分で、もう残しておいても腐ってしまう分</p><p>のバナナを乞食に分け与えた。その際、乞食は「そんなものはいらない」と拒否した。</p><p>その人自身は満腹で満足していたし、どうせ捨てるものだったのだから別段腹もたてなかった。</p><br><p>しかし、その人が、乞食に上げるためにバナナを２本しか食べず、残りの３本を乞食に分け与えたとき</p><p>、乞食に拒否されたその人は怒った。</p><br><p>この二つの違いは、筆者によると、「自分が満たされてから施しをすると、愛になる。満たされないのに施すと</p><p>それは欲望になる。」という。</p><br><p>たしかにその通りだなとおもう。バナナを二本に節約し、乞食に与えるという行為は、</p><p>愛情の押し売り、感謝へのつよい欲望が働いていたのだ。</p><br><p>先ほどあげた「現実」という前提は、あとで「言葉の価値観」という言葉で言い換えられていた。</p><p>言葉の価値観＝物事をどうとらえるか＝前提　だからだ。</p><br><p>その押し付けは、日本のような「なあなあ社会」においては「え？そういう前提でしょ？</p><p>それが常識でしょ？」食い違いに通じる。</p><br><p>また、日本以外でも、思っていることと言葉がちがうことは多々あるはずだ。</p><p>うそをついたり、本当に思っていることと違うことをいわなければいけない雰囲気のときに。</p><br><p>そしてその食い違いが大きな大きな亀裂となり、</p><p>譲れない問題に直面したとき、社会的マイノリティは、ただただ社会的マジョリティや強権者、</p><p>に無言で屈するほかないのである。</p><br><br><p>ｐｓ</p><p>もうひとつ面白い話がある。うつ病患者が昼に寝て夜に行動するのは、「昼間皆が働いているのに</p><p>自分はなにをやっているんだ」という自己嫌悪から逃避するためであるという。</p><p><br><br><br>再編集<br></p><p>じゃあ実際のところ「どういきればよいか」について考える。上の論調では、「狂人は作られたもので</p><p>、いわゆる狂人といわゆる常人が対話を通して意見を主張しあえば道は開ける」という結論に</p><p>いたりそうだ。</p><p>では、現実としてこの日本社会で狂人が狂人としていきればよいのか、それとも常人に合わせて</p><p>常人のフリをしていきればよいかはわからない。</p><p>狂人として生きるならば</p><br><p>・他者に自分の理解を求める努力をし続けなければいけない（人にいちいち自分を理解してもらわなければいけない）</p><p>・社会的に認められていない者とみなされ、嫌われる（非常識な人といわれたり、一貫性がないと「言っていることがちがう」と非難されたりする。）<br></p><p><br>常人に合わせていきるなら</p><p>・自分を常に隠して演じて生きなければいけない</p><p>・常人のなかでも「上の位の者」の習慣を踏襲しなければいけない。</p><br><p>といったデメリットがそれぞれある。</p><br><p>もっとも狂人が狂人として生きやすい生き方は、①一貫性のある狂気であること②法律には違反していないこと</p><p>の２点のみが重要である。それを守っている人間は２ちゃんねるのひろゆきや、かつてたたかれていたホリえもん、「お金儲けしてなにがわるい」の村上ファンド社長など、たたかれもするがある種カリスマ性をも持った人たちだ。</p><br><p><br><br><br><br><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/matomework/entry-10836168531.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Mar 2011 17:58:12 +0900</pubDate>
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<title>第四回　アローの不可能性定理</title>
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<![CDATA[ <p>社会選択について考える。</p><p>アローの不可能性定理について馬鹿な自分にも理解できるように噛み砕くことにする。</p><p>アローの結論は、「社会の中の個人が選好（どっちが好きかっていう価値観）を持っているとき、</p><p>そうした個人の選好を総合しても社会全体の選好にはならない。」というものである。</p><br><p>もちろんこの結論を出すにはいくつか前提がある。「もし○○のとき、～～だ。」というのが証明の基本形である</p><p>ことを考えれば前提も許されよう。（例　もし三辺等しい三角形ならば、３つの内角はそれぞれ６０度である）</p><br><p>前提</p><p>①選好は推移的（リンゴ＞みかん、　みかん＞わかめ　ならば　リンゴ＞わかめ　がいえるということ。）</p><p>②選好は完全（各個人がみな選好を持っている。つまり、すべての個人がすべての物事の好きさに順序をつけられる。）</p><p>③ここでいう社会とは三人以上の当事者から構成される。</p><br><p>（ちなみに　＜　＞　＝　は好きさの上下関係を示す。好きさの不等号、等号だと思えばよい。）</p><br><p>また、結論に至るために、条件も４つ用意されている。少々Ｉｆの部分が多い気がするが、すべてふつうの社会においては当然だと思われることなので、条件が多くとも広い範囲に言える結論が出せるだろう。</p><br><p>条件</p><p>①選好する当事者は、いかなる選好順位をつけてもよい（制約や強制はない。自由）</p><p>②二つの選択肢の順位は、それ以外の選好により変動することは無い。（りんご＞みかん＞わかめ＞にんじん　といってた人に、「わかめとにんじんを入れ替え、にんじん＞わかめ　になるんならりんごとみかんの順位も入れ替えてみかん＞りんご　にする」とは言わせない！）</p><p>③りんご＞みかん　の人が少なくとも一人はいて、　みかん＞りんごの人が社会にひとりもいないのであれば</p><p>　社会的に　りんご＞みかん　の選好が最善であると判断する。</p><p>④ある個人の選好だけで社会全体の選好が決まるといった独裁は行われない。</p><br><p>証明</p><p>もし上記の条件と前提をみたしつつ、３人以上の社会でどの食べ物が最強（においしい）かというのを</p><p>社会的に決めようとしたとする。そのとき、民主的な方法では最強の果物を決められないという証明をする。</p><br><p>まず、すべての人が「りんご大嫌い状態」でリンゴの選好が全個人で最下位だとする。</p><p>このとき社会的にもリンゴが最悪な食べ物であるということには何の疑問も無いだろう。</p><br><p>しかし、その社会から一人をえらび（Ａさんとしよう）、その人の「リンゴ好き度」がだんだん上がってきたとする。</p><p>そして、Ａさんは「リンゴが最強でしょ」というほどにまで、リンゴを愛する人間になったとする。</p><p>同様に、社会の中のＢさん、Ｃさんも、リンゴ中毒になり、リンゴを最強と謳うようになるとする。</p><br><p>そうすると、もちろんのこと、リンゴの社会的順序も上がってくるだろう。しかし、リンゴの社会的順位</p><p>が最下位で無くなると同時に、リンゴの社会的順序は最上位になっているはずである。</p><br><p>なぜなら、もし５人の選好者からなる社会だったとすると、３人がリンゴを最悪と評価しているうちは、リンゴは</p><p>社会的に最悪だと考えられるからである。しかし、Ａさん、Ｂさん、Ｃさん。。とリンゴ中毒者が増え、</p><p>リンゴを最上位におく者が３人になったとたん、リンゴの社会的順位は１位になるからである。</p><br><p>このとき、２人目までが着実にリンゴ中毒者となり、３人目がもし、</p><p>リンゴ中毒者にはならず、みかん＞リンゴ＞桃＞・・・・というような選好をしたとすると、</p><p>それまでリンゴが社会的に最悪だったので、３人目の人が一番好きだというみかんには社会的にも</p><p>かなわないことになる。</p><p>なぜならほかの２人に関してもみかん＞リンゴという選好が成り立っているはずだからである。</p><p>同様に、リンゴと桃の社会的選好に関しても、３人目の人の「リンゴ＞桃」が社会的な</p><p>選好に決定される。</p><br><p>つまり、リンゴのかせがあることにより、みかんと桃に関して３人目の人は独裁的であるのだ。</p><p>もちろんこれが、桃とメロン、メロンとスイカ、梨とグレープフルーツであったとしても、リンゴより</p><p>上においたものは「最強果物」となり、リンゴより下においたものは、「リンゴ以下の果物」となる。</p><br><p>これは例で用いたように５人の社会以外でも成り立つ。</p><p>境界にたつひとが独裁者となりうるのだ。</p><br><p>よって条件の④が満たされないことになるので、矛盾が生じる。</p><p>だから、①②③の条件を満たしていたら④が満たされないので、①②③④を同時に</p><p>満たすような社会選択のしかたは存在しない。</p><p><br><br><br>他人のブログにあったものを自分にわかるように書き直したが、アローの不可能性の定理の証明は</p><p>「個人の選好の総合が社会の選好にはならない。独裁者を生まずに。」を証明するものにしかなっていない</p><p>感じがしてならない。</p><br><p>やはり、定理の証明というより、</p><p>x&gt;y&gt;z</p><p>y&gt;z&gt;x</p><p>z&gt;x&gt;y</p><p>っていう選好があったら社会的にのぞましい選好をつくれないでしょ？っていわれたほうが</p><p>あー。って納得しやすい気がしてきた。</p><br><br><p>ちなみに、個人の選好順位に、１位に○点、２位に△点、というように点数を加重して順位を決める方法なども</p><p>あったきがする。</p>
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<link>https://ameblo.jp/matomework/entry-10835327731.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Mar 2011 16:56:03 +0900</pubDate>
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<title>第三回　社会で生きる</title>
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<![CDATA[ <p>社会で生きるためには、多数の人の共感を得なければいけないし、</p><p>多数の人と同じ感情を共有しなければいけない。</p><br><p>皆が日本のサッカーチームを応援するような社会においては、自分が無関心、批判的であっただけで</p><p>文句や非難を受ける。</p><br><p>皆が地震の被災者の様子に心を痛めている社会においては、自分が贅沢な行動をしているだけで</p><p>文句や非難を受ける。</p><br><p>そういうものなのだ。</p><p>極端に言えば、皆が人殺しＯＫな社会ならば、人を殺してもＯＫなのだ。</p><br><p>しかし、ほんとうにそうか。</p><p>考える必要がありそうだ。</p><br><br><p>野暮についても</p><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/matomework/entry-10835078319.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Mar 2011 15:11:00 +0900</pubDate>
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<title>第二回　就職</title>
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<![CDATA[ <p>私は去年の１１月に内定をいただいた。</p><p>不況とはいえかなり遅めの内定であった。</p><p>就職先が決まらなかった理由として考えられるのは、面接における質問にうまく答えられなかったことがあげられる。</p><p>・大学時代にがんばったこと</p><p>・なんでこの職場を選び、どんな仕事をしたいか</p><p>・仲間と協力してなにかをやり遂げた経験</p><br><p>これらについて、私はうまく相手に伝達することはできなかった。そもそも、がんばったことなどないし、</p><p>給料以外に職場選択の理由もなく、仲間と協力する経験などもなかった。</p><br><p>そんな私でもやっと内定をいただけた。これは奇跡といってもよいだろう。</p><br><p>しかし、そんな奇跡を棒に振ってしまった。私は４年の冬学期に単位をひとつ落としてしまったのだ。</p><p>大学入学後１年半引きこもり生活を送っていた私は、３年半で卒業要件単位を取得せねばならず、</p><p>今学期も「ひとつも単位を落とせない状況」に陥っていたのだ。</p><br><p>就職先に事情を説明しにいくと、９月までに単位を取得し卒業するならばと、就職を認めてくれた。</p><br><p>内心ほっとしたが、９月までは「臨時」扱いなので、ボーナスもなく、給与も低い。</p><p>親にも散々迷惑をかけたので辛抱しなくては・・・。</p><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/matomework/entry-10835070268.html</link>
<pubDate>Sat, 19 Mar 2011 14:54:11 +0900</pubDate>
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<title>第一回　ブログ開始</title>
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<![CDATA[ <p>記憶力が低下し、昨日何を考えていたのかさえも思い出せなくなったため、</p><p>思考の整理、作文能力の向上を目指しブログを開始することにした。</p><br><br><br><p>今日は、「決断」の考え方について今思うところを書くことにする。</p><br><p>私は関数という分野が数学で一番簡単だと感じていた。関数とは中学生のころだれもがならったはずの、y=ax+bのようにyとxの二つの物事の関係性をあらわす式のことである。つまり、関係式といってもよいがここでは関数という言葉をつかうことにする。数学でならったこの考え方は、文字や数字の部分を「事象」「物事」等に置き換えれば、実生活にも代用できる。</p><br><p>たとえば、yを太郎くんの所持金、aを日割りのお小遣いの金額、xを日数、bをもともと持っていた貯金とすると</p><p>太郎君が所持金を○○円にするにはあと、何日待てばよいかといったことを計算して出すことができる。</p><br><p>文章題でもいわれたとおりに式をたて、数字を代入するだけだからこれほど簡単で便利な装置はない。</p><p>では、ｙのところに「私の幸福度」という基準を入れるとどうなるだろうか。これはもちろん上のような単純な</p><p>一次式では解決できない。簡略化のためにその「私」が「食」と「睡眠」だけに「幸福」を感じる人間ならば、</p><p>y=食+睡眠　というような式を作れるだろう。しかし、その「食」のなかにも「どのような食べ物をどれだけ食べれば</p><p>『食』における幸福度が最大になるか」という関数があり、その中身は現実世界においては複雑に構成されているだろう。また、睡眠においても「どのようなときにどれだけの睡眠が確保されれば「最高に幸せな睡眠」が得られるか」という関数があり、それも複雑である。</p><br><p>なにか物事を決断するときに、人間は何の気もなしに行動をすることが多いが、もし常に「最善の」選択をするならば、「y=f(a)+h(b)+......」といった複雑に絡み合った関数を瞬時に計算して、選択を決定しなければいけない。</p><br><p>ある研究によると、２つの物事の選択を100万分の1秒で行えるコンピュータを用いても、５０種類の物事を</p><p>選択させると３５年かかるそうだ。人間は二つの物事を選択する際、たとえばご飯を食べるかパンを食べるか</p><p>といった選択をするときにすら、「ご飯かパンか」だけでなく、「味をとるか簡便さを取るか」といった選択や</p><p>「カロリーが高いほうを取るか低いほうを取るかといった選択」など無数の選択を考えてしまう。</p><p>つまり、人間はごく簡単な問いにすら数学的保証がつくような「最善の」選択をすることは不可能であるといえる。</p><br><p>もちろん、もっと高次の問題解決を求める場合はさらに多くの「価値判断（選択）」という関数を考えなければいけないため、生きているうちに解決策を考え出すのは不可能となる。</p><br><br><p>しかし、それでは社会において人間が生きていくことはできない。時間は限られているのだ。</p><p>物事を単純化し、「考えること」をあきらめ、何かを「信じ込む」だとか、「無視する」ことで解決策を捻出しなければいけない。</p><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/matomework/entry-10834223154.html</link>
<pubDate>Fri, 18 Mar 2011 16:38:42 +0900</pubDate>
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