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<title>けんじけんじのブログ</title>
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<title>ブッダのアルゴリズム5</title>
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<![CDATA[ <div><br></div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20181112/09/matsuikenichi/d8/38/j/o0810108014301666957.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181112/09/matsuikenichi/d8/38/j/o0810108014301666957.jpg" alt="" width="810" height="1080"></a><div><div><br></div><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20181112/09/matsuikenichi/6f/44/j/o0810108014301666970.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20181112/09/matsuikenichi/6f/44/j/o0810108014301666970.jpg" alt="" width="810" height="1080"></a><div><br></div></div>退院が明日だ。やっとだった。なにかを成すとは、小さなことでも沢山の関係というか、病院関係者をはじめ、家族、会社など目に見える関係だけでも沢山あって、その関係者にお世話になるものだ。そして、目に見えない関係ならもっと沢山あると言っておこうか。いや、目の前には無いが関係はどこまでもつながっているのが関係というものだ。その関係も、あるときは鬱陶(うっとお)しく感じるが、慶事だと有り難く思うのだから人間とは勝手なものだ。さて、僕のことはさておき、フィギュアスケートで新たなスター選手が生まれた。よくあれだけ次から次へとスター選手が生まれることを思えば、本人たちの努力もさることながら、その関係者や、環境を作った方たちの努力も大きいと思う。また、スター選手が生まれることで沢山の夢や希望が生まれて感動につつまれるドラマが待っているのだから誰もが期待したり興奮をおぼえたりするところだ。さて、話は変わって季節の話をしたい。この間、外出したとき桜の葉がすでに紅葉していたのには、驚きではなく、もうこんなに季節が変わったのかと、少し怯(ひる)んでしまう自分がいた。なにせ７月から病棟の中だったのだから。と同時に桜が綺麗に紅葉していることに、なぜか桜にうらやましい気持ちになった。自分の人生に重ねて、自分も人生の終末に人生の紅葉があるだろうかと、そんなことを考えるのだ。こんな、詩を紹介してみたい。与謝蕪村(よさぶそん)の句だ。　紅葉(もみじ)してそれも散り行く(ちりゆく)桜かな　暦のうえでは秋を迎えたこの季節の趣を、桜の葉が他の樹木に先んじて色づき、そして、散る様子を描写した句だという。春の花が見事に咲き、散っていく姿を重ね合わせると、与えられた生(せい、いのち)を、ひたむきに全う(まっとう)する桜木のありように胸を打たれるという。さて、短いなりに長いなりに、その尊い命を生きたのだと見たい。新しいいのちが生まれては、また散って行く。ただ花だけが散るのではない。一本の木として全うしているいのちの輝きがあるのだ。そこのところを見つめたいのだ。僕もそんな年ごろだろうか？😀　
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<pubDate>Mon, 12 Nov 2018 08:12:56 +0900</pubDate>
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<title>ブッダのアルゴリズム4</title>
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<![CDATA[ 個人的には退院日が決まった。やれやれである。世間的にはアメリカの中間選挙の結果が決まった。やれやれだろうか？リベラルと保守、democracyとファシズムなど。まだある。ポピュリズム(大衆迎合主義)の台頭など様々に表現された選挙も珍しいのではないか？と思うが。トランプさんは本当に自分の口から言うように大成功したのか？当事国ですら迷っているみたいだが、トランプさんも単にポツンとアメリカ大統領になった訳ではない。悪い意味でもアメリカが産み育てた大統領なのだと言い切れる。アメリカのもうひとつの潜在的な理想像がトランプさんではないだろうかと思うのだ。大金持ちで我が物顔と言うより、アメリカ一国を自分の会社みたいに操る。ある意味アメリカ映画によくある理想像のように僕には見える。アメリカのみならずヨーロッパにしても、移民や難民の対応についてポピュリズムが、その権力を使おうという勢力に難民問題や移民受け入れ問題を上手に利用されたかのようにも見える昨今だ。21世紀のファシズムはナチスの鍵十字みたいなものが産み出すのではなく、テレビのプロパガンダが生む笑顔のファシズムだという人もいる。その時代の代表格がトランプさんなら、ひとの皮肉ではなく、まさに時代の皮肉だ。さて、その新聞に、こんなことが書かれていた。「思慮の浅いものたちは、あかりを持っていたが、油を用意していなかった」と。これは聖書の言葉らしい。私も武道の師にこう言われたことがある。(準備をしっかりしておけば、必ず良い結果が得られる)と。聖書の言葉を含め自戒の言葉として胸に残しておきたい言葉だ。さてさて、果たしてトランプさんはちゃんと油を準備している人なのだろうか？ヨーロッパの保守派と言われる人たちにもたずねてみたいものだ。そんな皮肉も言いたくなる今日この頃だ。😀
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<link>https://ameblo.jp/matsuikenichi/entry-12417555590.html</link>
<pubDate>Thu, 08 Nov 2018 08:01:11 +0900</pubDate>
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<title>ブッダのアルゴリズム3</title>
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<![CDATA[ 入院中にブログです。さて、退院もやっとみえてきた感じだ。明日は外出できる。こんなことも有難い。生きるとは苦なのだから、なにもないことが有難いことなんだよ。と昔教えてもらった。そんなことも少し思い出す。さて、話はぐっと変わって、ドイツのメルケル首相が党首をやめたこと。このあいだの新聞のイラストにメルケルさんが右向け右に負けたと書いてあって、なんのことかと思ったがそういうことだったのだ。右だの左だのという表現方法も、もう変えたほうがよいと思うが。難民移民政策にダメ出しが出た結果なのだ。アメリカのトランプさんも移民政策にやっきになっている。これも単なる笑い話ではない。日本の問題でもある。日本も日本で人手不足で外国人労働者を受け入れるかどうかで話があがっている。それを上手くやってる国もあるが。マレーシアだったと思うが、受け入れた外国人労働者を教育して資格を取らせて、それを雇用した企業が面倒を見る。そして自国の雇用者があふれたら、外国人労働者の雇用を制限したりできるシステムらしい。確かに大事なのは、経済　産業　それに伴う雇用　治安　住居などの問題だ。あと異文化に対する理解の度合いなど、受け入れる側にもしっかりした仕組み作りが大事だ。何よりも生活の問題だからだ。国益というのもグローバルに考えないといけない時代なのは、わかりきってるはずなのに、ネイティブかネイティブじゃないかでもめる。国益というのもその国の生活力だろうと思うが、考えてみればケチ臭い話だ。話は変わるがお釈迦様の説法には人間以外のものまでつらなっていたと言うんだから、おおらかというか人間だけでなくてスケールが大きい。さて、少し話は変わるが今日の新聞にこんな言葉がのっていた。秋に入り、生き物たちは冬眠にはいるかに見える。だが植物たちは土が凍らないうちに、土をほりおこし新しい根を懸命に伸ばし芽をはぐくむ。そうして「春を立案」しているのだという。人間の歴史にもそういう時があると。未来は人々の前ではなく、足下(そっか)にある。と、いい文だ。こうあることと信じたい。懸命とは簡単に書いてあるが(いのちをかける)と言うことだ。だからこそ真実が見えてくるのではないだろうか？個人のいのちのつながりの歴史も、国の歴史も、懸命にその時代を生き抜いてきた先人がいたからこそ、今の生活があるのだから。😀
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<link>https://ameblo.jp/matsuikenichi/entry-12415943777.html</link>
<pubDate>Thu, 01 Nov 2018 09:39:56 +0900</pubDate>
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<title>ブッダのアルゴリズム2</title>
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<![CDATA[ 今日も入院中にブログです。ずいぶんと季節も進んで秋本番か、いや冬か？病棟にはいりっぱなしで分かりづらい。そんななかで朝、見るのは新聞とテレビだ。そのなかでこんな言葉と出会った。俗論は頑論よりも害あり。中江兆民というかたの言葉だ。そのあとにこんな言葉が書かれてある。憤懣の溜まる社会では(極端と極端とを並べて見せる)性急で頑なな論がはびこる。これは他山の石としうるが厄介なのは俗論のほう。尖らない論点は温和でいかにも正論に映るが、その耳あたりのよさが批判力を鈍らせ、大勢を見誤らせる。そして、人心が議論にうめば、社会は内部から蝕まれていく。だから論を耕せと明治の思想家は警(いましめ)た。とこんな文だった。なかなかいい文章で、なるほどである。日本人は流行りものにしても、特に極端から極端に行く。そのかたくなな論より俗論の方が厄介だという。この間も、その俗論で統計的に書いてある本の宣伝を眼にした。そこにはこう書いてあった。汚い言葉を使ってコミュニケーションを取っている職場の方が仕事の生産性の効率が上がると書いてあった。ほんとかなぁと考えたが、ある程度の統計で出た答えを、それが生産性のすべての結果と受け止める短絡した文章なりはよく見かける。このての本はよく本屋に並ぶが、いつも少し読んで苦笑いをする。いっときの判断がそのすべてだみたいな論法だ。実際に汚い言葉ばかりの職場に自分がいたらと想像したら、とても居心地が良いとは思えないだろう。確かにそういう意味でも俗論は害だと言いきれる。そこにも議論が必要なのだ、そこで明治の時期であってもかたくなな意見も出て議論がつまったのだろう。と、想像できるが、それよりも俗論の方が害だといっているのだから、これも時代を問わない問題なのだと思うのだ。特に日本人は子供のころから議論をしないせいか議論下手なように思う。口の上手いやつにのせられる。そういう意味でも我々の言葉である国語の大切さや読書の大切さをあらためて痛感する。我々の考えも日本語で考えるのだから言葉を学ぶとは本当に大切なのだ。僕も、だから論を耕せと言っておこう。😀
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<link>https://ameblo.jp/matsuikenichi/entry-12415217572.html</link>
<pubDate>Mon, 29 Oct 2018 09:13:49 +0900</pubDate>
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<title>ブッダのアルゴリズム1</title>
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<![CDATA[ 入院中にブログです。もう２つ月を重ねれば正月も近い。来年も見えてきた感じだ。今年も少し振り返って全然仕事をしていない年になった。そんな感慨もふまえつつ。さて、今日の新聞である文章が眼にとまった。こうある。判断の根拠は後でしかわからないと言えば、大坊は(あきらかにしないからこそ誰もが生きていられることがある)と返す。目の前の一事も大きな時空感覚で捉える二人。こんな文章だった。文章は短いがそのなかで(あきらかにしないからこそ誰もが生きていられることがある)と、この文に目が行く。今年はスポーツ界のパワハラ問題からいろんな企業のデータかいざん問題、各省庁の障害者雇用のみずましなど、こんな問題を含め様々な問題があったが。こんな問題をみるとき(あきらかにしなければ生きていけた人もいただろう)と思った。これも単なる時代や世代の問題ではないように思う。これは人の生き方、あり方の問題だ。仏教で言えば機根の向上の問題だろう。妙法蓮華経の方便品にいう、よく佛を知るものなしと、その前によく人間を知るものなしである。お釈迦様もギリギリの真理に裏付けられた真実を説かれるまで、ずいぶん時間をかけられた。人の自然な歩みが向上にあるなら、いつかはあきらかにせねばならない時もあるのだ。今年の様々な問題も人間が本当に向上に向かっていると思いたい。よく佛を知るものなしではなく、その向上の先に佛があるのだ。こうしておこうと思う。
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<link>https://ameblo.jp/matsuikenichi/entry-12413837003.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Oct 2018 08:44:20 +0900</pubDate>
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<title>ブッダのアルゴリズム「いのち」</title>
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<![CDATA[ 入院中にブログです。さて、季節も変わりメインの題名を変えてみた。ブッダのアルゴリズム？仏様の算法。直訳すると。まぁお釈迦様に算法はないだろうが、仏様の思考回路とでも思って頂ければいいと思う。さて、サブテーマは「いのち」。このいのちの大切さについて、こんな話から始めよう。入院もながびくと色々な方と出会うもので、そのなかで自傷行為を繰り返す若者との出会いがあった。まだ中学三年生の女子のはなしだ。その子が一時、私にくっついてきて話を聞くことになった。おっちゃんといると安心出来るという理由だ。それで、なぜ入院しているのと聞くと、学校でいじめられたという。それで自殺しかけたのだ。その理由のひとつに、親からいじめられている子を見たら助けなさいといつも言われていたという。それを彼女はそのままそれを実行したら、今度は自分がいじめの対象になったという。確かにありそうな話で、中学生だから、話としてはそんなに複雑ではない。けれど、その子と話していると、どうも勧善懲悪気味の思考回路なのだ。親の影響かもしれないが、若い内だから生命力はありすぎるくらいなのだが、やはり若者特有の命や人生を軽るんずることは知っていても、命を重んずるところまではいかない思考に入っていると思うのだ。。いじめにあったといっても、そいつらが悪いと決めつけてるうちは、また同じ目にあうと思うのだ。いじめてる方にもいじめている理由があるのだから。誰でも自分を正当化したいものだ。見方にかかっている。そう僕は思うのだ。正しく見るとはだ。まさに八正道の正見だ。正しく見ることによって正しく思える。正しく思えることによって、正しく語れる。正しく語れることによって、正しく行える。正しく行えることによって、正しく生活できる。正しく生活できることによって、正しく今を生きれる。正しく今を生きれることによって、正しく安定した人生ができてくる。いじめられている立場からいじめている人間を正しく見るのは大変だが、その子達も最初からいじめっ子ではなかったはずだ。その背景を思いやりで見れるとき。そしてその子達の将来を思い描くとき、正しくその物事が見えるのではないかと思うのだ。中学生ではまだそこまでは無理かもしれない。だから僕は、その自傷行為を繰り返す中学生に、まず自分の大切さを知らないとダメだよと言った。自分の大切さが分かったときに、他の人の大切さも分かってくる。いじめた子達には、腹が立つのもわかる。批判もしたいだろう。でも自分の大切さを知ることによって、その批判が単なる批判ではなくなってくるんだよと言わせてもらった。そう、慈悲を帯びて来るのだ。自分のいのちの大切さについて分かってくると、他の人のいのちも同じように尊いのだと気づくのだ。そこに批判が単なる批判でとどまらず慈悲を帯びて来る。そこに人間生活が円滑に行く原動力があると思うのだ。そこまではいくにはまだまだ時間がかかるだろうが、自分を見つめてほしいものである。そう願い、また祈らせてもらおう。😀
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<pubDate>Sun, 21 Oct 2018 08:32:06 +0900</pubDate>
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<title>仏教自由間「五蘊」</title>
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<![CDATA[ 入院中にブログです。久しぶりにブログするけど、なかなか退院にならない。人生は思い通りにならないから苦なのだ。でも思い通りになっても苦になるだろう。それが人間なのだ。実際に昭和の戦後から比べれば現在はとても豊かな暮らしを日本人はしている、。それでも苦悩が無くなったと聞いたことがない。苦労したことない人や苦悩したことない人はいないだろう。そこで、今日のテーマの「五蘊」なのだ。この五蘊の苦を、五蘊の盛りの苦と書いて五蘊盛苦(ごうんじょうく)と言う。仏教で四苦八苦に数えられる中のひとつだ。この五蘊盛苦がやっかいなのだ。生きている限りひっきりなしに来る苦なのだ。まさに生命力が盛んな時に起こってくる苦なのだ。早い話し一生ものの苦だ。それを退治するのは大変だけど般若心経には五蘊とは空だとはっきり書いてある。僕も昔、武道を習ったときその形に五蘊破の形というのを習った。今でこそ、その五蘊。一体何なんだと考えるが、しっかり考え出したのはつい最近だ。もう何十年も般若心経を読んでいたのにこれなのだ。人間が本当に問題意識を持つのもずいぶん時間がかかる。身にせまって来てはじめて真剣に考え出すのだ。この物心の盛んな時に起こる悩みを二千年もまえに五蘊盛苦としてすでに解いてあると仏教者はいう。この蘊と言うのは、梵語のスカンダーフの訳語で(働きをしながらより集まっているもの)という意味と仏教者はいう。すべて存在するものは、五つのものが、それぞれ独自の働きをしながら集合して作り上げられている仮の積み重ねに過ぎない、空なる存在だと言う。ゆえに五蘊は存在するものの内容であり、存在と同意語となる。さて、その存在である。だいたいの人は自分の存在は自分の力で存在(生きている)と思っている。そこが物事をひっくり返った見方になる原因のひとつだと僕は思う。自分の存在も自分の力だけで生まれたわけでもなく、じふんの力で死ぬ日を決めるわけにもいかないだろう。生かされているのだ。そこんところに自分の存在は自分のお陰で生きていると思えば、思い通りにならないことばかりになる原因がある。それこそ一切皆苦になるのは当たり前だ。ひっくり返った衆生なのだ。転倒も転倒でそりゃ苦しい。逆さまに吊るされた苦しみだ。その五蘊を破るってんだから、僕の武道の師匠はすごいひとだ。諸行無常ゆえに集まったものも必ず散じて行くのだと般若心経はいう。般若心経では空でない存在はひとつもないと喝破しておる。喝破しているからなお難しく感じるのは現代人だからなのかもしれない。般若心経ができた頃は禅定堅固の時だ。有難いお経なのだが、難しくないように説きたいものだ。僕もこのブログを書いて僕が安心を得られてる。不思議なものだ。😀五蘊は皆、空だと叫んでおこう。😀<div><br></div>
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<pubDate>Wed, 17 Oct 2018 10:09:08 +0900</pubDate>
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<title>仏教自由間「思考」</title>
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<![CDATA[ まだ入院中にブログです。入院が少し伸びた。ブログのタイトルを変えようと思っていたため少し残念だ。さて、今日のサブテーマは思考である。僕たちは子供の頃から基礎的教育でも沢山の事を記憶して蓄える、所謂、知識の倉庫的な学習をしてきた。と、ある本に書いてあった。確かに記憶した倉庫みたいなもので、その記憶したものを忘れていないかテストされる。つまりそこで記憶型主体の創造的ではない思考におちいりやすい思考形態になるのか。だが、それもコンピューターが出てきてからは、その記憶の倉庫の役割はコンピューターに移ってしまった。到底人間は記憶倉庫型ではその能力はコンピューターにはかなわないだろう。便利なのだ。で、次はそれに合わせて、倉庫型ではなく創造できる能力を磨く必要がある？所謂、工場型の思考機能が人間に求められるようになったという。つまり、倉庫型の思考よりも何かものを生産できる思考を養う必要が出てきたといわれる。今までは知識を沢山持っていることが重要だったようだが得た知識を覚えているかどうかが大切だったが、思考や脳の働きは、その倉庫型から工場型に変わったら、どうしても単なる整理よりも、つまり、今度はその整理方法に忘れる作業も同時に必要になったと言われる。さて、その忘れると言うのはつまり必要なものと必要でないものを思考で区別するのだろう。それは脳の作業になってくる。はっきり言ってそれには限界があると僕は思うのだ。人は昔はより自然な暮らしでその生活も煩雑ではなかった。その判断も自然に近かった。僕も仏教(禅)を学んだときには、３つのものと向き合うと教えてもらった。座禅で自分と向き合い、托鉢で人と向き合い、作務で自然と向き合うと、こうだったと思う。もちろん大まかに言っているが、そこに現代人は沢山の情報と向き合い、ビジネスマンならお客と向き合わなければならない。そのなかは心地のいいものばかりではないのだ。区別したり忘れられない事が多いのだ。時にそう言う感情の妨げが自分の本来の創造力や、しいては生活力さえ奪っていく。それでつまらない感情縛られ忘れられない現象が起こる。この逆もある。いくら忘れたくなくても忘れなくてはならないこともある。そうなると思考がつまりだす。そう、忘れられるのならそれで問題はない。自分から忘れたくないという感情だ。自発的執着心とでも言おうか。忘れられないで、車で言えば排気が出来ないでブスブス言ってる状態だ。体なら排出がうまくいかない状態だ。知識や感情の溜め込み過ぎは正常な働きを無くしてしまう。そこで忘れると言うことがとても大切な手段になりスポットライトがその忘れるという新たなスターに当たるのだ。それで、ある本には寝る(REM)することが大事だと書いてあった。寝て忘れる。僕はそれだけではなく知識や情報のなかで必要なものを選ぶには、必要不必要を両方を忘れる訓練をすることが大事だと思うのだ。その思考の作業で起きながらに寝ている脳を作れると思うのだ。例えば是非、善悪、得失など両方忘れてしまうことで、変化していく情報や生活の中でも普遍的で永遠なものが分かってくると思うのだ。それが見えれば変化の激しい現代社会にも人間としての生き方に迷いなく生きていくことが出来ると思うのだ。そう、これは禅で教えてもらった両忘と言う教えだ、そして普遍的なもの永遠なものとは道のことだ。ここから生活を創造していく。僕も昔、師匠におまえはまだ道に入ってないと言われたことがあった。それが僕にはえらい苦だったのだ。その道に入るには、この両忘と言う教えがとても役に立ったので今回話させてもらった。さて、入院が伸びたが、入院生活をしていて、若い学生さんの会話も耳に入りやすい環境なのか？。そこでこんな会話が耳に入ってきた。何か食べ物の話で、(これ、お婆ちゃんの味がする！)と女子の学生さん嬉しそうに話している。そしてそれを聞いていた男子の学生さんが(お前、お婆ちゃんの味がするって、お前、お婆ちゃん食べたことあんのか？)といっている。思わずこっちは吹き出して笑ってしまった。こんなことも入院が伸びたことでショックだった私の感情も両忘を知っていたから、穏やかな心境になれたのかもしれない。この年になると感情に振り回されない穏やかな心境は本当に有難いものなのだ。😀
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<pubDate>Fri, 12 Oct 2018 07:09:01 +0900</pubDate>
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<title>仏教自由間「デスノート？」</title>
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<![CDATA[ まだ入院中ですがブログです。😀いつも文字だけのブログでよく自分でも書いているなぁといった感じです。さて、外はキンモクセイ香る季節ですが、早速、身近に起きた話題からお話をさせて頂きますと。今日の朝です、ある自分の娘くらいの女子との会話で、デスノートらしきものを私すぐ書くんですと言っていた。気に入らない人や事をそのノート📒に書いてお医者さんに見せるのだと。自分でも分かるくらいネガティブな事を書いてしまうと言っていた。お医者さんには(よく書けてますね。😀でも失敗した事やうまくいかない気持ちを書くのではなく、こうしたら上手くいったみたいなことを書くといいですよ)とアドバイスされたみたいだ。話はまだ続いて、それから私はいつも人から言われることは、自分の事ばかり話して、人の話を聞かないと言われると言う。気持ちに余裕がないから人の話が入って来ないんですと言っていた。そのほかにもいろいろ話したが、(それはちょっとわがままだね)とかあいづちをうって聞いていた。でも本人もなんとか自分の主体性をたもたなくてはと一生懸命に自分で自分を分析した成果を僕に話してくれる。んん確かにちょっと哲学的な、科学的な思考法でぜんぜん珍しくない一般の女子だが。本人はそんな自分が嫌になるらしい。僕から言わせれば大抵の人がそうだと思う。と言わせてもらった。だって僕をも含め大抵の人はわがままなところがある。ではそれが苦なら自分をどう変えればいいかだ。こっちを考えないといけない。僕も話をじっくり聞けたので、こうアドバイスした。心の枠　心のcapacityを広げる事だねと。そしたら多くのものが受け入れられるようになるよって。そして人をゆるすこと。もひとつは人を責めていた自分もゆるすこと。そしたら苦がなくなる。そして人も自然の一部だから必ず変化して行くから、嫌いになる前に対話や会話が出来る距離感が大事だねと。言わせてもらった。そしたら私、その距離感が下手なんです。と、はあ、そうなの？と僕。壁があるとよく言われるんですと。んん、だから心の枠を広げる事だねと繰り返した。自分が受身ではなく相手を受け入れられた時にもうその壁は無くなっているのじゃないかなと言わせてもらった。そのデスノート女子そんなこと言ってくれる人に初めて出会ったとちょっと納得気味だった。まぁ頑張ってねと励まして話は終わった。さて、お釈迦様も徹底した寛容の人だったと表現してさしつかえないだろう。あのダイバーだった？にも善知識と感謝されているのだから。そして儒教では恕と言う言葉を大切にする。この恕もゆるすと読める。つまり寛容なこころのことだ。人の器の大きさもつまりこの寛容さだと思う。また、健康にいきたいなら自他共に嫌なことは水に流せる関係が大事なのではないか？どうすることも出来ないことは、切り刻んで水に流すしかないのだから。これも観音妙智のひとつだと僕は思う。そして人を思いやる。人も自分もゆるすこと。そうすればこの秋空もまた、一竿させば　天地広し　となること間違いなし。人も憎めず、またご飯もうまくなる。めでたしめでたしである。
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<pubDate>Mon, 08 Oct 2018 08:02:39 +0900</pubDate>
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<title>仏教自由間「摩可般若」</title>
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<![CDATA[ 今日も入院中にブログです。久々にブログをアップします。もう退院も近く、すこしづつ散歩などして体をリハビリしていますが、それと共に入院中に心のリハビリもできたなぁと思うのです。どんな状況の中でも必ず生きておれば感謝出来ることがひとつ二つは見つかるもので、これも病中の趣味嘗めるべからずで、ありがたいものであります。そのわけは、もう一度経典などを何度も読みなおせたことと、もう最初に読んでから何度も読んでいる本をまた一から読みなおせたこと。それによって思索とその理解が深まりました。中でも般若心経に深みがくわわってか、しみじみ有難いお経だなぁと感じ入っておりました。僅か276文字で構成されているこのお経にこんなにも仏教が仏教としての、その意味が示されているのかと改めて思うと共に、先人の並々ならぬこのお経に対する信心と言うかそういうもの、そこからから沢山の意味や深い思いが伝わって来るなぁとしみじみ思い考えておりました。古賢先哲に頭が下がるところです。それで話も結んでいこうと思いますが、それでその本の中の言葉をお借りしようと思いますが、お経というのは頭で、はい承りました！分かりました！ではまだまだで、ここからです。どうしても体験的表白が必要だと思います。お経の中のその体験的表白が(色即是空　空即是色)です。と、そこで「江戸時代後期の農政家、二宮尊徳は、咲けば散り散ればまた咲き　年ごとに眺め尽くせぬ花の色色」と歌っています。咲けば散りに色即是空、散ればまた咲きに空即是色が、また、年ごとに眺め尽くせぬに二つの凸レンズを通して、素直に花をめでる空のこころが歌いあげられています。と、現実には様々な苦悩の多い人生や世の中で、ここまで来るのも大変だなぁと思うのです。これを読んで素直なこころや、おおらかなこころを年を重ねても失いたくはないなぁとつくづく思うのです。話は少し変わって今日のニュースで海外のニュースでしたが、ある絵画のオークションで日本円で一億五千万円近くで落札された絵画の話がありました。落札されたすぐあとに、その絵画がシュレッダーにかけられて出てきた映像をニュースで見ましたが、もしこれがアートなら、二千年以上まえから人間のアートはちっとも変わってないと言うことになるなぁと思いました。まさに一億五千万円の絵画が色即是空。一億五千万円で落札した人は空即是色と悟ったかどうだか知りたいところだが。絵画を買った人はまったく興味もないかもしれない。だがそこにもお釈迦様の教えが働いていたのだ。そうか！お釈迦様は仏教の開祖であると共に芸術の開祖でもあるのかと。またこのニュースでひとつ悟りました。流石！芸術の秋ですな！😀有難い有難い😀合掌ちーん！摩可不思議！終ります。
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<link>https://ameblo.jp/matsuikenichi/entry-12410214624.html</link>
<pubDate>Sun, 07 Oct 2018 11:50:27 +0900</pubDate>
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