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<title>meatalexandriaのブログ</title>
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<description>みんなが仲良く思い遣りを持って幸せであったら良いな、と思います。</description>
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<title>faith</title>
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<![CDATA[ <p>またまた、久方ぶりの投稿です。</p><p>まぁ、雑記帳のようなものを、たまにでも読んでくださる方がいるというのは有難いものです。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、映画を観ました。</p><p>というか、つい先日アカデミー賞があったりで、1917やパラサイトなど、話題の作品は割とフォローしています。</p><p>今回視聴したのは「Miracles from heaven(邦題「天国からの奇跡」)」という、カテゴリーでいうとファミリードラマ？です。</p><p>&nbsp;</p><p>普段の生活で特段ストレスを溜め込んでいるわけでもないとは思うのですが、たまに落涙したい欲求に駆られることがあります。</p><p>個人的なオススメは、Youtubeで観られるタイの「泣ける」CMなどですが、今回そんな思惑から感動できるかもしれないと思い同作を選びました。</p><p>&nbsp;</p><p>結果から言うと、「うぅ～ん・・・。」とモヤモヤした読後感、いや本ではないので観後感でしょうか。</p><p>religiousなんですよ、ひと言でいうと。キリスト教的価値観、てんこ盛り。</p><p>&nbsp;</p><p>いやまさかここで全世界20億人以上いると言われるキリスト教徒を向こうに回して、ケンカを売るつもりは毛頭ありません。</p><p>あるいはイスラムを信仰する方にせよ、ゾロアスターだろうがブードゥーだろうが、いかなる宗教も、またその信者の方も誹謗しようなどと微塵も思いはしません。</p><p>&nbsp;</p><p>もちろんオウムやISのように、宗教を隠れ蓑にテロリズムを標榜するような行いは、許されるべきではないと考えますが。</p><p>&nbsp;</p><p>映画に、戻りましょう。</p><p>これからご覧になる方もおられるかもなのでネタバレしない程度に触れますと、まあ「禍福は糾える縄の如し」と言いますか、とある家族に不幸と幸福が訪れるお話です。</p><p>&nbsp;</p><p>劇中、邦題にあるような「奇跡」と呼べるような導きが起こるのですが、観ていて胸に熱いものがこみ上げるシーンは奇跡でもなんでもなく「ただの」ひとの優しさです。</p><p>ひとがひとに優しくできるってステキですね、良かったですね、というお話なら見終わった感想もそうですね、良かったですね、というものなのでしょうが、そこに信仰が入り込んでいる。</p><p>&nbsp;</p><p>信仰がないと、ひとはひとに優しくしたり、不幸なひとが救われることもないんでしょうか。</p><p>なんだか信仰の大切さを啓蒙するために、ひとの不幸や災難を引き合いに出してくるようで、飲み下せない違和感が残ります。</p><p>&nbsp;</p><p>「The shack」というすみれさんという女優さんがハリウッド映画にキャスティングされたと(少し)話題になった作品を観たときもそうだったのですが、どうにもよって立つ価値観が違い過ぎて、食傷してしまうのです。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ繰り返しますが、キリスト教や、それを信奉する20億人以上の方々をディスるつもりは全くありませんし、むしろ信仰を持てることに一抹の憧れさえも抱いたりはするのです。</p><p>&nbsp;</p><p>ただただ、faithの押し売りは止めてくれ、と。</p><p>George Michaelの同名曲なら喜んで聴きますが、押し付けがましい宗教観は結構です。</p><p>&nbsp;</p><p>ということで、今回の作品は10点満点で2点、ということで。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/meatalexandria/entry-12578981858.html</link>
<pubDate>Sun, 01 Mar 2020 20:04:08 +0900</pubDate>
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<title>光の当たる方へ</title>
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<![CDATA[ <p>新年、明けましておめでとうございます・・・もう1月も半分終わりましたが。</p><p>&nbsp;</p><p>年明け早々友人とこじんまりとした新年会があったり、ケガの治療で入院したりで、気がつけばという感じです。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、現在ケガの治療中で杖をついて歩いています。</p><p>で、きょうバスに乗る際に片手が杖で塞がっているのでカバンから財布を出すのに少しもたついていると、後に続いた高齢の女性が先に支払いをしてすり抜けていこうとされました。</p><p>&nbsp;</p><p>まあまごついていたのは自分ですし、乗車順を抜かされたぐらいで大して気分を害することもなかったとは思うのですが、刹那運転手さんがその女性を制止し「ちょっと待って上げなよ」と声を上げてくださりました。</p><p>&nbsp;</p><p>もしみなさんが同じ経験をされたとして、「きょうは見も知らない運転手さんに気にかけてもらって、良い1日だったな」と思うでしょうか。それとも「世の中歳を重ねても無配慮で思いやりにかける女性もいたもんだ」とネガティブな印象を抱いたでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>個人的には相半ばするといった感じで、happyにもsadにもなりはしなかったのですが、多くの場合ひとは、殊更日本人は、ある出来事のポジティブな側面よりもネガティブな側面をより重大に捉えがちなのではないのかな、と思い至りました。</p><p>&nbsp;</p><p>もちろん個人差はあるでしょうし、楽観的な方が楽観的に捉える出来事を、悲観的な方は悲観的に捉えるかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>ただどちらかというと現代日本人というのはある出来事、もしくは人物のポジティブな面を賛美し評価するよりも、ネガティブな面を誹謗し批判する方にエネルギーを傾けがちなのではないかと。</p><p>&nbsp;</p><p>その証左と言えるかはわかりませんが、著名人・一般人を問わず愚行・蛮行をあげつらうテレビ番組・ネット記事は多く目にするものの、善行を称賛するようなコンテンツはあまり目にしない気がします(「警察24時」のような番組でひとの愚かしさを目にすることはあっても、「世の中こんな良いひともいるんだ」と思わせてくれるような番組をあまり見たことがありません。あるなら是非視聴したいのですが)。</p><p>&nbsp;</p><p>当たり前のことですが、完璧な人物などは存在せず、ひとは良い面も悪い面も備えています。</p><p>&nbsp;</p><p>きょうのバスの運転手さんにしても怪我人に対する配慮はしてくださったものの、サービス業に携わる以上横入りの女性に対する口の利き方には配慮が足りなかったかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>また件の女性も、もしかしたら外見上は見て取れない疾患を抱えてらっしゃり、少しでも早く着座したかったのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>そうしたひとがひととして当たり前に持つ良い面と悪い面の、どちらにより注目するかで世の中の雰囲気はずいぶんと変わるのではないかなと思うのです。</p><p>&nbsp;</p><p>きょうの運転手さんのお気遣いに感謝し、高齢女性の無頓着さを気にしない。</p><p>それだけのことで、自分自身の気の持ちようというのも変わってくるかなと。</p><p>&nbsp;</p><p>いまひとびとが他者を批判したり中傷したりするエネルギー、その一部分でも、ひとの良い面を評価する方向に向けられたなら、社会の雰囲気もずいぶん明るくなるのではないかな、という思いを新年のご挨拶に代えさせていただきます。</p><p>&nbsp;</p><p>ことよろです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/meatalexandria/entry-12567044804.html</link>
<pubDate>Tue, 14 Jan 2020 19:51:49 +0900</pubDate>
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<title>子育てについて(したことないけど)</title>
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<![CDATA[ <p>どれぐらいぶりの投稿でしょう・・・。</p><p>忙しさにかまけて、というほど多忙を極めていたわけでもないのですが、なにかブログを書くモチベーションを得られないまま2ヶ月余が過ぎてしまいました。</p><p>&nbsp;</p><p>たとえどなたかの目に触れ、なにかしらの気づきを提示できなかったとしても、書きたいことがあるときには書きたい気持ちになるものです。</p><p>ではそうした気持ちはなにに根差しているかといえば、多くの場合、個人的にはですが、怒りや反発、「なにかがおかしいぞ」という違和感などがドライブとなることが多いように思います。</p><p>&nbsp;</p><p>その意味ではここ2ヶ月書きたいと思うまでの違和感・嫌悪感を抱かずに過ごせたというのは良いことのようにも思えるのですが、反面あまりにも下らないニュースが繰り返され、それらに対する感情が鈍麻してしまったのではないか、という危機感も抱かないではありません。</p><p>&nbsp;</p><p>具体的にひとつひとつの「下らない」時事ネタを掘り下げることはしたくないのですが、なぜメディアも政治家も国益、ひいては国民の幸せにつながらない話題ばかり繰り返し取り上げるのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>桜を見る会を糾弾することによって、現政権による治世が改善され、国民ひとりひとりが僅かばかりでも幸せを実感できるようになるなら、大いに糾弾なさったら良いでしょう。</p><p>なりますか？5000万ですよ、高々。些末も些末、国会会期の浪費でしかないでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>北朝鮮によるミサイル、中国の覇権主義、韓国、はさておくにしても(さしたる脅威でもないですし)、将来の、ひいては子々孫々の幸福を害するような問題をこそ政治家やマスメディアは取り上げ追求するべきではないのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>という社会の木鐸たる方々の体たらくを目にするにつけ、それらを論じることの虚しさからブログを書く気になれなかった、という言い訳をさせていただきます。</p><p>&nbsp;</p><p>とはいえ文章というものも反復練習を要するスキルには違いないので、「なにか書かねば」、とはて「なにを書きましょうか」と・・・。</p><p>&nbsp;</p><p>先ほどブログを書くモチベーションは怒りや反発から得ることが多いと書きましたが、ネガティブな動機づけで書かれた文章は書く側にも読んでくださる方々にもあまり「ヘルシー」ではないのかなという思いもありまして、軽い話題を取り上げたいなと思うに至りました。</p><p>&nbsp;</p><p>テレビを観ることはほとんどないのですが、土日の2日だけ「正義のミカタ」、「ワイドナショー」、「そこまで言って委員会np」という情報番組をフォローしています。</p><p>&nbsp;</p><p>その中で先日の「ワイドナショー」で、松本人志さんが「乙武洋匡さんが義手・義足で歩けるようになったら一緒に風俗に行きたい」という発言をされてらっしゃいました。</p><p>&nbsp;</p><p>妻帯者の風俗通いの是非、などというどうでも良い論点はさておき、当該発言の際の松本さんの心象風景に思いを馳せました。</p><p>&nbsp;</p><p>妻帯者であり、かつお嬢様がいらっしゃるという松本さんのことですから、発言によってのちに奥様やお嬢様から「なんであんな発言をするんだ」というお叱りを受けることも想像なさったでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>よしんば奥様との間で「浮気はダメだけど、風俗なら良いよ」というような取り決め(？)をしてらっしゃったにしろ、お嬢様は同級生から「松本の父ちゃん、風俗通ってんだろ」などと中傷されないとも限りません。</p><p>&nbsp;</p><p>芸能人、ましてコメディアンの家庭に育つとはそういうことだ、とまでお嬢様が割り切ってらっしゃるかは判りませんが、我が子が物笑いのタネにされても良いとまでは松本さんも思ってらっしゃらないでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ、ここで思うことは、親というものは子供を前にしてどれだけ品行方正に、謹厳実直であるべきか、あろうとするべきか、と。</p><p>&nbsp;</p><p>反面教師とまでは行かなくとも、親のダメな部分、至らない部分をあえて露呈することで、大人も、親も、完璧な人間などというものはあり得ないのだよ、ということを子供に伝え得ると考えることもできます。</p><p>&nbsp;</p><p>ともすると子供の手本となろうと自分のキャパシティを超えてまで「べき」像を追ってしまう親が多いようにも思いますが、自分のダメな部分、大袈裟に言えば人間の不完全性を子供に提示して上げることも子育てのメソッドとしてはありなのかも知れないな、と松本さんの発言に気付かされたのでした。</p>
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<link>https://ameblo.jp/meatalexandria/entry-12548869491.html</link>
<pubDate>Mon, 25 Nov 2019 21:28:40 +0900</pubDate>
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<title>お金儲けは、悪いことですか？</title>
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<![CDATA[ <p>村上世彰さんではありませんが、「お金儲けは悪いことですか？」という命題がしばしば日本では問われます。</p><p>&nbsp;</p><p>日本の社会通念上清貧が「真に」美徳であったかどうか怪しいところですが、村社会において他者を出し抜いて一際裕福になることがリスクを伴った面はあったのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>お金儲けとはなんぞや？それは善なのか悪なのか、正なのか邪なのか？ということについての議論はべつの機会に譲りますが、</p><p>ここから派生して「お金儲けのためのお金儲け」と「信念・理念に基づいて活動した結果お金が儲かった」のとでは評価が異なるのかについて考えてみたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>ごくごくザックリ言えば、目的は異なるが結果が同じ場合、目的・結果それぞれについてどう評価するのが正当なのか、という設問です。</p><p>&nbsp;</p><p>日本の一般的な認識としては、「お金儲けのためのお金儲け」には眉をひそめるが立派な信念の結果得られた富は否定されるべきではない、というところでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>ここで「お金儲けのためのお金儲け」だって立派な信念じゃないか、ですとか、高邁な理念に基づこうが基づくまいが蓄財そのものが邪な精神の顕れだ、などという傍論も想定し得ますが、それはそれとして。</p><p>&nbsp;</p><p>さて世の中を見回してみますと、プロ市民、プロ活動家、職業左翼などと揶揄される方々がおいでになるそうです。</p><p>それらのプロフェッションが収入的にどれほど恵まれたものなのかには興味もありますが、ここでは上の設問から彼らのプロフェッションが金銭的欲求に根差したものなのか、理念・信念に基づいたものなのか、ということについて考えてみましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>確かに彼らの多くはとあるイデオロギーに傾倒し、それを盲信・狂信することが活動のモチベーションとなっている面もあるのだろうと思います。</p><p>またきっかけは信念・理念であったけれども、活動を続けるうちにその経済効果に気づき軸足がお金儲けにシフトしていくということも往々にしてあるのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>古くはフェミニストの田嶋陽子さんがTVタックルやたかじんの委員会等で孤軍奮闘左巻きの意見を展開したり、昨今では青木理さんとかいう方が徹頭徹尾親韓反日的なコメントを垂れ流していることなどが話題になっています。</p><p>&nbsp;</p><p>田嶋さんと青木さんを一緒くたにカテゴライズすることは適当ではないようにも思いますが、例えば田嶋さんであれば根底には日本社会で女性が正当に扱われていない状況を変革しなければならないという確固たる理念があり、その原点はお金儲けよりも信念にあったのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ辛坊治郎さんに司会者が代わって以降の委員会等保守系番組にキャスティングされる田嶋さんを観るにつけ、</p><p>もはや田嶋さんがご自身の信念のために憎まれ役を買ってでも主張を表明しようとしているのか、</p><p>憎まれ役というニーズに応えることでご自身の精神的・経済的充足を得ようとしているのか判らなくなります。</p><p>&nbsp;</p><p>同じ空気は韓国人学者の金慶珠さんなどにも観て取れ、また同和問題で被差別民が利権を貪るようになっていった過程にも通底するものを感じます。</p><p>&nbsp;</p><p>いじめや差別は厳として戒められるべきものですが、いじめられること差別されることが「美味しい」ということに気づき、それを食い扶持とすることを選ぶ人種が、悲しいかな一定数はいるようです。</p><p>&nbsp;</p><p>「悲しいかな」とは書きましたが、果たして彼らを浅ましい、さもしい、卑しいと非難することはできるのでしょうか。</p><p>需要があって供給があり、そのニーズがお金につながるとして飛びつく人間を非難できる日本人は多くはないように思います。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり結論染みたことで言えば、お金儲けに正否は問えず、またお金儲けの目的に清濁を論じることも難しいのではないかと思うのです。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ上で田嶋陽子さんと青木理さんを一緒にはできないかもと触れたのは、</p><p>田嶋さんは腐っても（？）ジェンダー論を軸足とした信念をお持ちだったかもしれないが、</p><p>青木さんという方に関してはイデオロギー的偏向しか感じられないためです。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="http://daishi100.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/bs5-b81e.html" target="_blank">ソース</a>の信憑性は担保しませんが、この方は「ジャーナリストの仕事は改善案を提示することではなく、ただコオロギのように鳴き続けることだ」というようなことを仰ったようです。</p><p>なんじゃそりゃ？ではありませんか。</p><p>他者に口撃を加えるに責任を負わず、ただ赤ん坊のように鳴き続けるだけが職責だなどと、他の「ジャーナリスト」さんが聞いたらどう思うのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>ご自身の糊口を凌ぐために、不愉快な言説をコオロギのように流布するのは控えていただけたらと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/meatalexandria/entry-12524264573.html</link>
<pubDate>Wed, 11 Sep 2019 22:43:33 +0900</pubDate>
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<title>アンガー・マネジメント</title>
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<![CDATA[ <p>anger management、「怒りの管理」という言葉を耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。</p><p>人間の感情には正の感情と負の感情にカテゴライズされるものがあり、正であれば「喜び」・「達成感」・「慈しみ」等があり、負であれば「怒り」・「悲しみ」・「妬み」等が含まれるのかと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>怒りは仏教で言うところの「<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%92" target="_blank">三毒</a>」にも含まれ、悪の根源として克服されるべきものとされています。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし果たして、怒りは押し込めるべき感情、抱くべきではない感情として、manage(管理)されるべきものなのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>確かに最近のニュースなどでも、暴走・暴行を繰り返し逮捕された<a href="https://www.sankei.com/affairs/news/190827/afr1908270044-n1.html" target="_blank">犯人</a>が怒りに任せて被害者を殴打する姿などを見るにつけ、その愚かしさに嫌悪を覚えたひとも少なくないでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>そうした意味では他者に危害を加えない、不快感を与えないように、内省的な振る舞いを心がけることは必要であるとも言えますが、件の暴走・暴行犯の振る舞いは怒りを通り越して精神疾患さえも伺わせるもので、一般化して語るには適さないようにも思えます。</p><p>&nbsp;</p><p>「大人になる」といった表現で感情の起伏を穏やかにし対人関係に角が立たないようにすることは処世術の基本とも捉えられがちですが、否応なく湧き出してきた感情をむやみに抑圧することが精神衛生上必ずしも最善であるとは言えないのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>なにかのきっかけで生じてしまった怒りを、不穏当な暴力的行為に転化するのではなく、建設的なアクションに向けたモチベーションへと転換するすることも意義あることではないかと考えます。</p><p>&nbsp;</p><p>いわば「なにくそ」と発奮することで、怒りというネガティブにカテゴライズされる感情はポジティブに利用可能なのではないかということです。</p><p>&nbsp;</p><p>ともすると日本においては抑制的な振る舞いが美徳とされ負の感情とされるものは忌避されがちですが、そうしたある種潔癖症的な空気が年間2万とも3万とも言われる自殺者に「正しく」負の感情を表現することを躊躇わせ、自死へと向かわせていると言ったら言い過ぎでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>好むと好まざるとに関わらず、我々人間は正の感情も負の感情も抱きます。</p><p>それらの感情を正だとか負だとか選り分けるのも、また我々人間自身です。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし負の感情とされる怒りなども否定するのではなく受け容れたうえで、適切に方向づけをしてやることこそがひととして無理のないanger managementなのではないかと感じた初秋でした。</p>
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<link>https://ameblo.jp/meatalexandria/entry-12517892339.html</link>
<pubDate>Mon, 02 Sep 2019 02:27:44 +0900</pubDate>
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<title>それぞれの誇り</title>
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<![CDATA[ <p>8月6日、74年前広島に原爆が投下され10万人とも15万人とも言われる方々が亡くなり、続く同月9日の長崎への攻撃と併せれば20万人もの尊い生命が失われた日です。</p><p>&nbsp;</p><p>また太平洋戦争における日本人の戦死者は300万人とも伝わりますが、彼らは300万人「ぐらい」という曖昧な群衆ではなく、ひとりひとりが家族を持ち友人を持ち大切な人生を持つ個人であったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>原爆投下の経緯については様々な見方があり、曰く戦争の早期終結のための適切な手段であったとか、アメリカの共産圏に対する示威行動であったとか、科学的に生み出されてしまった果実を試さずにはいられなかった人間の性であるとか、あるいはそのすべてであったという見方もできるのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>また当然のことながら投下した側のアメリカと、された側の日本では受け止め方は異なりますし、さらに言えば仮に原爆が投下されてなお日本が戦勝国となっていたなら、日米それぞれの受け止め方も違ったものになっていたでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>ここでは投下(にいたる経緯)の妥当性やアメリカが行った虐殺の国際法的な責任、あるいは日本を開戦から敗戦にいたらしめた当時の指導部の責任について論じることはしませんが、大切なことはそうした犯人探しのような批判合戦ではなく、現にそこで多くの生命が失われたという事実を忘れないことでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>西日本新聞の<a href="https://www.nishinippon.co.jp/item/n/533053/" target="_blank">記事</a>に、アメリカで交換留学生として学んだ女子高生が取り上げられていました。</p><p>&nbsp;</p><p>彼女が留学したリッチランドという地方は、プルトニウム生産で栄え、その歴史的経緯から彼女が籍を置いた高校のロゴマークには原爆のきのこ雲が誇らしげにあしらわれています。</p><p>&nbsp;</p><p>教育機関のロゴに殺戮兵器を想起させるデザインを採用するのもいかがなものかと思いますが、あれだけの銃乱射事件で多数の犠牲者を出しながらも銃の所持を自衛の権利として声高に叫ぶアメリカでは戦争の勝利も誇るべき歴史なのでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>アメリカ人の多くが、上に述べたように原爆投下が戦争終結の手段として妥当であったと口にすることは、日本人としては受け容れがたい面もありますが、やむなしとも思えます。</p><p>&nbsp;</p><p>日本であれアメリカであれ学者やジャーナリストのように自分から情報を取りに行き深堀りすることなどしない市井のひとびとからすれば、学校やメディアがもたらす歴史こそ真実であり、そうした(戦勝国の)ひとびとに敗戦国の心情も慮ってくれというのは無理があるでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ今回のエピソードで美しいのは、この女子高生が日本人として感じた違和感を校内放送で発信するのを、教師や同級生、ホームステイ先のホストファミリーらが後押ししてくれたということです。</p><p>&nbsp;</p><p>穿った見方をすれば、戦後70余年が経ちアメリカ人にとってさえも先の大戦は風化した遠い昔の出来事であり、であるが故に遠く日本から単身やってきた女子高生が自国の通説と違う意見を口にすることを容認してくれた、あるいは戦勝国の余裕からか女子高生ひとりの意見など大勢に影響しないと考えヒューマニストぶってくれた、などという意地の悪い解釈もできるでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>その証拠とまでは言いませんが、彼女の発言の<a href="https://www.youtube.com/watch?v=mpY8q1XH3QI" target="_blank">Youtube動画</a>はニュースで取り上げられたにも関わらず、2ヶ月間で17,000回程度しか再生されていません。アメリカ全体のYoutube視聴者数を考えれば、議論のきっかけにさえならなかったというのが実情です。</p><p>&nbsp;</p><p>とはいえ戦後教育のもと諸外国の言い分に対して平身低頭唯々諾々を続けてきた日本人の中に、こうしてアメリカ人に日本人の感じ方を伝えようとする女子高生がいたということはとても誇らしいことですし、また真意はどうあれそれをサポートしてくれたアメリカ人に対しても敬愛の念を禁じえません。</p><p>&nbsp;</p><p>戦争に正義も善悪もありません。ただ勝った者が正しく、負けた者が誤っていたとされるだけです。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし戦争の記憶をきっかけとして、正しさについて考えることは大切です。</p><p>&nbsp;</p><p>Love&amp;Peace</p><p>&nbsp;</p><p>黙祷</p>
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<link>https://ameblo.jp/meatalexandria/entry-12502181394.html</link>
<pubDate>Tue, 06 Aug 2019 16:53:58 +0900</pubDate>
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<title>I, my, me, mine, you, your, you, yours</title>
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<![CDATA[ <p>参院選の投票率が過去20年間で<a href="https://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/20190722-OYT1T50220/" target="_blank">最低だった</a>とのことで、政治への関心の低さが一部浮き彫りとなる一方、吉本興業所属の芸人さんおふたりと、彼らの記者会見を受けての吉本の社長さんの会見はずいぶんと衆目を集めているようです。</p><p>&nbsp;</p><p>これまで(擁護されこそすれ)批判の矢面に立たされていた宮迫博之さんと田村亮さんが、所属事務所に造反と取られても仕方のない方法・内容で記者会見を開いたことで、いわば「潮目」が変わって彼らに同情的な、逆に言えば吉本興業(の経営陣)に批判的な空気が醸成されたことは、メディアによる世論形成、企業の危機管理等、示唆に富むものとなったなと感じます。</p><p>&nbsp;</p><p>さて双方の記者会見のどちらがより真実性を提示したかとか、プレゼンテーションとしてどちらが受け取り手に訴求するものであったかという点も題材としては面白いのですが、個人的に気になったのはふたつの記者会見で立場の違うお三方がみなさん「ぼく」という1人称を使っていたことです。</p><p>&nbsp;</p><p>仮に一般企業(吉本興業が一般企業であるかどうかはさておき)で不祥事やトラブルがあった際、関係先に謝罪に訪れた代表者が「ぼく」という人称代名詞を使ったならば、相手方は稚気た印象を受けるのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>担当者が男性であるか女性であるかに関わらず、謝罪に際して下手に出る必要のある場合、1人称は「私」(わたし、もしくはわたくし)が一般的ではないのかなと。</p><p>&nbsp;</p><p>お三方がみなさん関西出身であることを考えると、日常「わて」や「わし」を1人称としてお使いで、「ぼく」でも相当程度丁寧な表現であるという認識なのかなとも邪推できるのですが、数十・数百という記者の前で何十・何百万という視聴者に対して発言するお立場を勘案するとやはり「私」が妥当ではなかったのかなという印象を拭えません。</p><p>&nbsp;</p><p>やや飛躍しますが、「私」という漢字の読み仮名は「わたし・わたくし」であると小学校時代習ったように記憶しますが、現代多くの女性の1人称が「あたし」優位となってきているような肌感覚を覚えます。</p><p>&nbsp;</p><p>恐らく口腔科学的な構造上の原因もあってより発音しやすい「あたし」が主流派になってきたのかなと推察するのですが、どうも「あたし」というと(主に男性の)噺家さんがマクラでお話をされているような響きがあり、(女性の)若者が「あっし」と言うにいたってはどちらの丁稚さんか職人さんがお話をされているのだろうと怪訝な気持ちになってしまいます。</p><p>&nbsp;</p><p>先日野球の応援歌かなにかに含まれる「おまえ」という2人称が教育上適切かどうかという<s style="text-decoration:line-through;">下らない</s>話題が一部メディアで取り上げられていましたが、いまの若い方、特に女性は「おまえ」と呼ばれることに拒否感を示すとのことです。</p><p>&nbsp;</p><p>時代に即して言葉は変容するものでしょうし、「おまえ」の是非、「ぼく」と「わたし」のTPO毎の妥当性といった議題は論じても良いかもしれませんが、せっかく日本語が多様な人称代名詞を有し、それらを使い分けることで他者との距離感・親密さ・自分の立ち位置などを表現し分けることも可能なのに、そうした機微を廃してsimplifyされていくのだとしたら寂しさを感じます。</p><p>&nbsp;</p><p>ぼく・わたし・おれ・わい・しょうせい、あなた・きみ・おまえ・きでん、呼び方・呼ばれ方ひとつでコミュニケーションが深くも鮮やかにもなる、そんな日本語であって欲しいなと思うのです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/meatalexandria/entry-12496890623.html</link>
<pubDate>Mon, 22 Jul 2019 23:14:15 +0900</pubDate>
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<title>身も心も柔軟に</title>
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<![CDATA[ <p>身体が固いです…。<br>生来の体質と諦めていますが、せめて思想信条は柔軟に保ちたいなと右も左もなく他者の意見に耳を傾けようと心がけています。<br>とはいえ、左の方って<a href="https://www.youtube.com/watch?v=d8yclipcFek" target="_blank">スゴいことを言う</a>のだなと呆気にとられたりもするのですが。<br><br>さて、悪法もまた法なり。<br>遵法精神は大切ですが、時代背景、社会情勢に即して法律がアップデートされることも必要かと考えます。<br><br>参院選を控え消費増税の是非を問う声、というよりは非を責める声が蔓延していますが、<br>どうやら与党・安倍首相は増税実行に舵を切りそうな様相です。<br><br>他方多くの識者が増税の先送り、凍結、更には税率の引き下げ、消費税の廃止までを喧伝していますが、<br>個人的な疑問として消費税法というのはもっと柔軟に運営することはできないのでしょうか。<br><br>例えば実質賃金や雇用統計といった社会指標が直近何期に亘って何％上向いていたら税率は何％、<br>といったような経済活動を過度に冷やしも熱しもしないような運営は可能ではないのかなと。<br><br>ひとつ反論として予想されるのは数ヶ月おきに税率が上がったり下がったりしたのでは、<br>小売店などの対応が追いつかず混乱を生じるだけではないかというものです。<br><br>ですが八百屋さんや魚屋さんが仕入れ値の上下動に応じて売値を上下させるのに(不満は抱くにしても)文句を言う消費者はいませんし、<br>もっと言えば航空業界やホテル業界では繁忙期・閑散期で価格が大きく異なるのは周知の事実でしょう。<br><br>これはレベニューマネジメントと呼ばれるもので、<br>統計的手法によって閑散期と繁忙期の売上をなるべく平準化させようとする試みです。<br><br>ゴールデンウィークにはホテルも飛行機もバカ高だけど、<br>時期を外せばおトクに旅行ができるよね、ということです。<br><br>消費税の柔軟な運用によって価格設定が煩雑になるというのであれば、<br>例えば税率10％のときには価格を15％上乗せし、<br>税率2％のときには価格の上乗せを1％に抑えるなどして売上を平準化することができるのではないでしょうか。<br><br>どうも政治家・官僚の方々のアタマの中身を推察するに、<br>まず大義名分というか数値的・教義的目標設定ありきで、<br>実際の国民生活の実感が伴っていないと感じてしまいます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/meatalexandria/entry-12492519614.html</link>
<pubDate>Wed, 10 Jul 2019 20:02:27 +0900</pubDate>
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<title>ファクトとトゥルース</title>
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<![CDATA[ <p>以前ジャーナリスト志望の女性がレイプ被害を訴え、</p><p>その加害者とされた男性が現首相に<a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%B7%8F%E7%90%86-%E5%B1%B1%E5%8F%A3-%E6%95%AC%E4%B9%8B/dp/4344029607" target="_blank">親しいお立場</a>にあったということで、</p><p>彼の不逮捕・不起訴に官邸の働きかけがあったのではないかと報じられたことがありました。</p><p>&nbsp;</p><p>レイプ犯罪が許されないことは自明であるとしても、状況は男女間の密室での情事であり、そこに犯罪事実があったかなかったかという真実(truth)を証明し切ることは甚だ困難でしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>他方事実(fact)として結果紡ぎ出されたのは、加害者とされた男性が逮捕されず嫌疑不十分で不起訴となったということです。</p><p>&nbsp;</p><p>また被害者だと主張する女性を支援する方々が主に<a href="https://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-03-25/2018032514_01_1.html" target="_blank">左巻きの活動に従事</a>しており、</p><p>首相に近い加害者とされる男性を槍玉に挙げることで政権へのダメージを図ったのではないかという分析もなされています。</p><p>&nbsp;</p><p>事実関係だけに着目するならば、(加害者とされる男性は)「見事なハニートラップに引っかかって、授業料が高くつきましたね」という印象です。</p><p>&nbsp;</p><p>ところで被害を訴える女性はその後も逞しく「ジャーナリズム」の道を模索され、</p><p><a href="https://www.gqjapan.jp/culture/celebrity/20180623/shiori-ito-1" target="_blank">海外でも高く評価されている</a>といいます。</p><p>&nbsp;</p><p>実際に彼女のディレクションした<a href="https://www.youtube.com/watch?v=TKNnUu1sFdk" target="_blank">ドキュメンタリー作品</a>(気分を害する映像を含みますので、苦手な方はご覧にならないでください)を視聴してみましたが、</p><p>確かに孤独死等日本社会の抱える問題を浮き彫りにしてはいるものの、</p><p>ご遺体に湧いた蛆や故人の生前の写真を(当然亡くなっている)ご本人の承諾なしに直映しにするなど「胸クソ悪い」手法も散見されました。</p><p>&nbsp;</p><p>ジャーナリズムが人間の業ともいうべき凄惨さや残虐性を報じることで、戦争の愚かしさや社会システムの矛盾をつまびらかにするのに一定の役割を果たしているのは事実でしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>一方で人間が本能的にセンセーショナリズム(扇情主義)やバッド・テイストを嗜好しがちであり、大衆がエログロをもてはやすというのは、<a href="https://www.google.com/search?q=%E4%B9%9D%E7%9B%B8%E5%9B%B3&amp;source=lnms&amp;tbm=isch&amp;sa=X&amp;ved=0ahUKEwi8hZOaqKXjAhUW7rwKHWfmB_YQ_AUIECgB&amp;biw=1268&amp;bih=659" target="_blank">九相図</a>(グロテスクな表現を含みます)にも見て取れる通り古来からの事実です。</p><p>&nbsp;</p><p>当のドキュメンタリー作品には、そうしたジャーナリズムの持つ意義や、扇情主義的手法は見て取ることはできるのですが、そこにどのような真実を求めたのかという思想は見い出せません。</p><p>&nbsp;</p><p>事実を是とするか、真実を是とするか、ということではなく、</p><p>事実は事実として伝えながら真実の真実性を事実を以て裏打ちすることが求められるのだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>神武天皇が127歳(もしくは137歳)まで生きたかどうかという事実の検証はかなり困難でしょうが、万世一系の天皇が我が国の安寧を祈り続けてきたという真実は疑い得ないでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>事実の検証を怠ることなく、真実を求める姿勢を持ち続けたいと思うのです。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/meatalexandria/entry-12491862466.html</link>
<pubDate>Mon, 08 Jul 2019 21:49:10 +0900</pubDate>
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<title>1989</title>
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<![CDATA[ <p>アメブロは日本のサービスなので大丈夫だとは思うのですが、</p><p>隣の大国では8964と検索するとネットが遮断されると聞きます。</p><p>&nbsp;</p><p>1989年6月4日、天安門事件のことですね。</p><p>&nbsp;</p><p>多くの人命が失われ、かつ事実関係が30年経ったいまも隠蔽され続けるという悲劇は人類の汚点とでも呼ぶべき一大事ですが、ここでは少し俯瞰して1989年という年を振り返りたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>数学者の故・森毅さんはご存命中、</p><p>「人生20年。体の物質も頭の配線も、20年もすればすっかり変わるんやから、20年前のオレは赤の他人やと思えと。」と20年ごとに新たな人生を送ることを提唱されていましたが、1989年から丸30年が経ち、森さん流に言うならば1.5人生、人類は歩を進めてきたわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>翻って1989年にどんなことがあったのかと振り返るのにとても有難いのが、</p><p>ナショナル・ジオグラフィックが提供している</p><p><a href="https://www.nationalgeographic.com.au/tv/1989-the-year-that-made-us/" target="_blank">「1989：われわれを作った年」</a></p><p>という動画プログラムです。</p><p>&nbsp;</p><p>文化・政治・社会運動等、いくつかの切り口で1989年を振り返り、</p><p>そこで起きたことがいかに現代社会に影響したかを語る内容ですが、</p><p>1話30分と軽く流せテンポも良いので見飽きることがありません。</p><p>&nbsp;</p><p>視点的にはアメリカで制作されたものなので日本人に馴染みのないトピックもありますが、</p><p>1989年という年が現代史においていかにエピックな意味を持つのかを知るには好材料です。</p><p>&nbsp;</p><p>その中の1話で、アメリカにおける黒人解放運動を取り上げた回があります。</p><p>まさしく日本人には馴染みの薄いトピックであるため、</p><p>一般の日本人にとってはそのインパクトが把握しにくいのですが、</p><p>わずか30年前にこれほど苛烈な人種間闘争があったことには驚くばかりです。</p><p>&nbsp;</p><p>ご興味をお持ちであれば、スパイク・リー監督の「Do the right thing」という映画をご覧いただくのが良いと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>さて現在の人類は、ともすると自分達が人類史上最も発展した「最高傑作」であると思いがちです。</p><p>確かにパラレルユニバースのようなものを仮定しないとすれば、時系列的には現代人が歴史上の最先端にいるようにも思えます。</p><p>科学技術・政治・経済等、先人の失敗のうえに現代社会はより「上等」なものになってきたと考えるのも無理からぬことです。</p><p>&nbsp;</p><p>しかしアメリカにおける人種差別がわずか30年前に凄惨な対立を生んでいたことを見ても、われわれはいまもってなお飽くまで発展の途上にあると見るべきではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>マルクス主義が斃れ、資本主義が正当性を勝ち取ったのか。</p><p>女性解放が進み、男女同権は自明の原則となったのか。</p><p>&nbsp;</p><p>さまざまな問題はいまも社会実験の途上にあり、到底正解には至っていないのです。</p><p>&nbsp;</p><p>常に現状を疑い、過去に習い、未来をより良いものにしようとする思考。</p><p>30年前の歴史から、われわれが学ぶことは多いように思います。</p>
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<link>https://ameblo.jp/meatalexandria/entry-12490215244.html</link>
<pubDate>Thu, 04 Jul 2019 20:56:45 +0900</pubDate>
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