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<title>infpのブログ</title>
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<description>infpのブログ</description>
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<title>維新</title>
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アメンバー限定公開記事です。
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<link>https://ameblo.jp/meronuma/amemberentry-12842524463.html</link>
<pubDate>Thu, 29 Feb 2024 13:24:37 +0900</pubDate>
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<title>INFPの自己探求を終わらせる方法</title>
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<![CDATA[ <p>２〜３年前からでしょうか、<br>MBTIとか心理機能とかがどうでもよくなってきました。</p><p>自分のタイプがなんだとか、<br>他人のタイプはなんだとか、<br>昔は気になって色々と知りたかったのですが、<br>今はどうでもよくなってきました。</p><p>そんなことよりも、<br>「今、自分が持っている心理機能で何ができるのか？」<br>「今、〜するためには、何が必要なのか？」<br>ということを考えています。</p><p>簡単にいうと、<br>自己探求の旅を終わらすことができたのだと思います。</p><p>今は、<br>知的欲求を満たすことではなく、<br>生産をすることに興味が湧いていきています。</p><p>このように変われた要因は、<br>MBTIではなく、<br>エニアグラムの影響が大きかったように思います。</p><p>自分のタイプのエニアグラムの不健全さを<br>健全にすることできたこと、<br>これに尽きると思います。</p><p>そして、<br>不健全さな状態から健全な状態にできた要因は、<br>「愛」を知ることができたことだと思っています。</p><p>愛と言っても、<br>「家族愛」でも「男女愛」でも「自己愛」でもなく、<br>不健全な状態から健全な状態へと変えることに影響力を持ち、<br>ちゃんと機能する「愛」です。</p><p>この「愛」を知ることができたことが<br>とても大きな要因になったと思います。</p><p>そして、<br>その「愛」は「真理」でもありました。</p><p>だから、<br>自己探求の旅も終えることができた、<br>そう思っています。</p><p>「真理」を知らないので、<br>ずっと探し回ってしまうのだと思います。</p><p>「真理」を知れば、<br>あとはそれを使ってどうするか<br>ということに自然と意識が向いていきます。</p><p>探し物であった「真理」が見つかってしまったので、<br>もう探すことはできないからです。</p><p>その「真理」とはなんだと思いますか？</p><p>私の場合は、<br>真理と聞いて一番初めに思いつき、<br>一番それはないだろうなと思うものでした…。</p>
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<link>https://ameblo.jp/meronuma/entry-12841490360.html</link>
<pubDate>Wed, 21 Feb 2024 14:16:15 +0900</pubDate>
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<title>少数の者しか救われない理由</title>
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<![CDATA[ <p>第四エズラ記</p><p>「至高者は一つの世ではなく二つの世をおつくりになった。</p><p>高価な宝石をごく少し持っていたとしたら、鉛や土くれを宝石と一緒に財産に加えようと思うだろうか。</p><p>たくさんあるものとと少ししかないものと、どちらが高価なものであろうか。」</p><p>&nbsp;</p><p>「得がたいものを手に入れた人はいくらでもあるものを得た人よりも大きなよろこびを感ずるに違いない。</p><p>わたしは救われるべき少数の者のために非常に喜んでいる。</p><p>なぜなら彼らによって今わたしの栄光があらわれ、わたしの名誉が明らかにされているからだ。</p><p>一方、わたしは滅びゆく多数の者についてはすこしも悲しまない。彼らは霧のようなもの、炎や煙に似たものであり、火で焼かれてまもなく消滅してしまうものだから。」</p><p>&nbsp;</p><p>「この現世は終わりではない。ここには完全な光栄というものは宿っていない。だからこそ強い者が弱い者のために祈ったのだ。しかし審判の日はこの世の終わりであり、来るべき不朽の世の始まりである。来るべき世においては朽ち果てるということが過ぎ去り、罪にふけることもなくなり、不信は根絶やしにされ、義が増し、真理があらわれるのだ。だから、そのときにはだれひとりとして審判で罪に定められた者をあわれむことも、反対に勝利するものを傷つけることもできるものはないのだ。」</p><p>&nbsp;</p><p>地上に生まれる人がだれでも戦わなければならない闘争はどんな意味を持つか教えてあげよう。もし人がこの戦いに敗れれば、お前の言ったような苦しみを受けるが、もし勝てば私の言ったような幸を与えられるのだ。これこそモーセが生前に人々に言った「生きようとするならば、自ら命を選べ」といったあの言葉の意味である。しかし彼らは彼を信じなかったし、彼の後に続く助言者も、 いや彼らに語りかけた私自身さえも信じなかった。それ故、彼らが滅びるときには、救いが確証されているもののために大きな喜びがあるほどには、彼らのために悲しむことがないであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>至高者はこのよう多くのもののために作られたが、来るべき世は少数の者のためにだけ作られたのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>現在あるものは今生きている人のためにあるが、将来のものはこの後の世に生きる人のためである。私の創造したものを愛することにかけては、お前は到底私には及ばない。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>この世に住んでいる人々はおごり高ぶって生きているので終末のときには多くの悲惨な事を味わうであろう。だが、お前は自分のことをよく考えてみるがよい。そしてお前と同じような人々の受ける光栄を訪ね求めなさい。お前のためにはパラダイスの門が開かれ、命の木が植えられ、〇〇が準備され、豊かな富が用意され、安息が予定され、恵が確保され、知恵が出されているからだ。悪の子はお前に対しては封印され、病は消え失せ、次は託され、地獄も逃げ去り、腐敗は忘れられ、悲しみは過ぎ去り、 最後には不滅の宝が現れるだろう。</p><p>だから、滅びゆく多くのものについてはもう一切たずねるな。彼らもかつては自由を与えられたのに、至高者を軽んじ、その律法を侮って、その道を捨てたのだ。そればかりか、彼らは主の義人たちを踏みつけ、心の中で神はいないと言った。彼らはこんなことをすれば必ず死ぬことを十分に知っていながらあえてしたのだ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/meronuma/entry-12756110901.html</link>
<pubDate>Sat, 30 Jul 2022 19:47:43 +0900</pubDate>
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<title>エニア性質</title>
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<![CDATA[ <p>・社会的役割</p><p>教育する人</p><p>特別な友</p><p>ザベスト</p><p>特別な人</p><p>専門家</p><p>頼もしい人</p><p>元気にさせる人</p><p>岩</p><p>特別でない人</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>岩</p><p>前提：環境が安全ではないので、強くなろうとする。裏切りに対策する。</p><p>自己保存：実際的なことや生活費を稼ぐことにひたすら集中する。</p><p>社会的：信頼できると思えた人との関係を楽しむ。</p><p>性的：自分の影響が及ぶ範囲の人たちの人生に大きな影響を与えていると感じたい。スリルを求める。</p><p>競争心を露わにするのは、優越感のためではなく、自分の幸せと安全を維持するために必要な資源を確認するため。自分が周囲の状況をコントロールしていると感じる限り、リラックスすることができる。</p><p>人と取引をする。人のために役立つ手段を持つことを、交渉の手段とする。ないと不利になる。</p><p>自分が及ぼす影響を拡大しようとし続ける。自我の境界を拡大することでもある。自分のプロジェクトや所有物と同一化する。完成を見届けることは幾分かの不死性を獲得する方法。</p><p>明確な境界を必要とする。自分と人がどういう関係かを知りたい。本能レベルで自分と相手との境界を知りたい。相手を試すことでどこまで許容するのかの境界を見つけようとする。反応がくるまで限界に挑戦する。タイプ８的には、自分の立場と人の注意をひこうとしているだけ。</p><p>トップであること→人に対して脅威であるという問題を作り出す。</p><p>&nbsp;</p><p>優位性維持の方法は、自信を挫くか、分割統治でまとまった矛先が向かないようにする。</p><p>&nbsp;</p><p>、、、与えることにある優位性＝暴力性</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/meronuma/entry-12751941092.html</link>
<pubDate>Tue, 05 Jul 2022 21:08:19 +0900</pubDate>
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<title>御言葉ではなく、「主」そのものを信頼すること</title>
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<![CDATA[ <p>主、ご自身を信頼し、それに繋がること。</p><p>信用すること。</p><p>聖書が証していることを信頼し、</p><p>次に証されている主に対して信頼すること。</p><p>人間関係と同じように信頼するということ。</p><p>それが信仰。</p><p>&nbsp;</p><p>主との繋がりがあると言えること。</p><p>聖書の御言葉を信じているということではなく、</p><p>主との関係性があるかということ。</p><p>&nbsp;</p><p>それを問われている。</p><p>&nbsp;</p><p>関係性があるならば</p><p>その力が流れてくる。</p><p>その力によって働きを行う。</p><p>恵みによって生きる状態。</p><p>&nbsp;</p><p>繋がって、</p><p>「あなたがやってください」</p><p>と譲ること。</p><p>主の喜びが</p><p>自分の喜びになる。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/meronuma/entry-12751114806.html</link>
<pubDate>Fri, 01 Jul 2022 03:51:56 +0900</pubDate>
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<title>別の視点から</title>
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<![CDATA[ <p>新約聖書が、ユダヤ教の聖書と深く矛盾していて、</p><p>特に三つの矛盾がある。</p><p>&nbsp;</p><p>イエスが神であること</p><p>戒律が無効であること</p><p>イエスの死を信じる以外に贖いを行う方法が他にないということ</p><p>&nbsp;</p><p>メシアが戦ってイスラエルを敵から守って世界に平和をもたらすとされている</p><p>イエスが来てもそうならななかった</p><p>戦争が増えただけ</p><p>→聖書に予言されるメシアではない</p><p>&nbsp;</p><p>・イザヤ53章の理解の違い</p><p>「苦しむしもべ」→ユダヤ民族という理解。</p><p>イザヤ書全部読んで、その文脈から理解する</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/meronuma/entry-12750856866.html</link>
<pubDate>Wed, 29 Jun 2022 16:19:09 +0900</pubDate>
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<title>神が愛するもの</title>
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<![CDATA[ <p>喜び</p><p>愛</p><p>平安</p><p>忍耐</p><p>柔和</p><p>自制</p><p>誠実</p><p>善意</p><p>親切</p><p>信仰</p><p>天の考え方</p><p>貧しい者や孤児ややもめを顧みる心</p><p>喜んで与える心</p><p>礼拝</p><p>謙った心</p><p>仕える心</p><p>赦し合うこと</p><p>知恵</p><p>敬愛すること</p><p>全て真実なこと</p><p>尊ぶべきこと</p><p>正しいこと</p><p>純真なこと</p><p>愛すべきこと</p><p>正義</p><p>恵み</p><p>平安</p><p>香となる祈り</p><p>私たちが一つになること</p><p>正直さ</p><p>高潔さ</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/meronuma/entry-12750566113.html</link>
<pubDate>Mon, 27 Jun 2022 22:07:59 +0900</pubDate>
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<title>恵みの歩み</title>
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<![CDATA[ <p>霊的な原則では、頑張れば頑張るほど、害を及ぼす。</p><p>惨めな結果を刈り取ることになる。</p><p>&nbsp;</p><p>信仰生活の勝利は、報酬ではなく、賜物。</p><p>&nbsp;</p><p>すでにわたしたちを受け入れてくださっている主に、</p><p>行いを通して自分を受け入れていただこうとすることは愚かな行為であると申したい。</p><p>&nbsp;</p><p>喜びがないから、もっと行いに焦点を向けるのでは答えにならない。</p><p>&nbsp;</p><p>ビジネスの成功法則と、はかる物差しは、</p><p>霊的世界とは違う。</p><p>キリスト教は行いの上に築き上げれているのでなく、</p><p>イエスキリストというお方に焦点が当てられている。</p><p>この世的な考えで信仰生活の勝利を手に入れようとすると必ず失敗する。</p><p>&nbsp;</p><p>『『『最終的にキリスト教とは、律法と同じことの繰り返しではなく、神との関係だということ』』』</p><p>神は私たちが何を行い、何を生み出しているのかということについて期待しているのではなく、</p><p>主は私たちの焦点が主イエスキリストご自身に向いていることを期待している。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>『『『成功の秘訣は努力することではなく、霊的な安らぎ』』』</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/meronuma/entry-12748114580.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Jun 2022 22:02:01 +0900</pubDate>
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<title>EWケニヨン</title>
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<![CDATA[ <p>御霊による知恵、</p><p>この知識は御旨に関する知識である。私たちが敵の手によって弄ばれることは決して御旨ではない。教会が誕生する時、それが神の息子や娘から構成されること――彼らが悪魔の主人、世の支配者となることを神は計画された。</p><p>彼らは自然法則を支配するべきだった。イエスが地上の歩みでなさったように、自然法則を支配するべきだった。風や波を制御するべきだった。</p><p>&nbsp;</p><p>、、、自然界の強者。</p><p>恐れと無知と罪によって束縛された状態になっていた。</p><p>&nbsp;</p><p>この知識の目的は「主にふさわしく歩んで、全く主を喜ばせ、あらゆる良いわざで実を結ぶ」ことである。</p><p>&nbsp;</p><p>彼らにとって罪の問題は解決済みである。今や、彼らはキリストにあって神の義である。彼らはイエスと同じように御父の臨在の中に立つことができる。しかし、彼らはそれを知らない。彼らはイエスと同じように祈りをかなえてもらうことができる。しかし、彼らはこれを理解しない。</p><p>彼らは霊的事柄に関する無知の中に生きてきた。彼らは感覚的知識をたくさん持っている。彼らは学校や単科大学や総合大学が授けられるすべての知識を持っているが、そのような感覚的知識は彼らがキリストにあって何者なのか彼らに明らかにしなかった。</p><p>彼らは知らない。自分が御父の御前でイエスと同じ権利を持っていることを。したがって、全き大胆さをもって、恥じることなく、罪の意識を覚えずに、恵みの御座の前に立てることを。</p><p>もし彼らがこれらのことを知っていたなら、もはや恐れは彼らを支配しなかっただろう。彼らは主人となっていただろう。もはや感覚の支配に服さなかっただろう。</p><p>&nbsp;</p><p>イエスは神の一部であり神ご自身であるところの新しい種類の愛をもたらされたことを、彼らは知らない。神は愛である。そして、この新しい種類の愛が私たちに与えられている。</p><p>これがキリスト教の特質である。この新しい種類の命、この新しい種類の愛は、新しい種類の義を生む――働き、犠牲、祈り、人がなしうる他のいかなるものによっても得られない義である。</p><p>&nbsp;</p><p>自分が神の義であることを知るようにならない限り、人は決して自分の特権を活用しようとしない。敵の束縛の中に絶えず生きようとする。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>私たちの戦いは精神的戦いや、肉体的戦いではない。霊的戦いである。肉体的自己否定や精神的葛藤で霊の戦いを戦うことはできない。肉体的手段、精神的手段、人がなしうるいかなる種類の働きによっても、霊の戦いで勝利を得ることはできない。</p><p>この戦いをイエスはすでに戦って勝利された。私たちはこの戦いでは戦わない。</p><p>これは信仰の戦いである</p><p>私たちが自分たちの戦いで勝利を得るのは、イエスはすでにこの戦いを戦って勝利されたことを悟ることによってであり、イエスが私たちのためになして下さったことを受け入れることによってである。</p><p>私たちはそのために祈らない。そのためにもがかない。ただ見上げて、「父よ、この戦いではすでに勝利が得られています」と言うのみである。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>神は霊である。神は人を創造された。したがって、病によって体が損なわれても、神は新しい肉体を創造することができる。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>神は私たちにご自身の資格、ご自身の能力を与えて下さった。「力」と訳されている「デュナミス」という言葉は「能力」を意味する。例証として次の御言葉を挙げよう。「今、私たちの内に働くこの力にしたがって、私たちが求めまた思うところを遙かに超えて豊かに施すことのできる御方に」。神の能力にしたがって、私たちの内に御業が進行中なのである。</p><p>&nbsp;</p><p>エペソ一・一九～二三を注意深く読んでほしい。「神の大能の力にしたがって、信じる私たちに対して働くこの神の能力の卓越した偉大さを、あなたたちが知りますように。神はこの力をキリストの内に働かせて、彼を死者の中からよみがえらせたのです」。</p><p>&nbsp;</p><p>自分が神の能力を持っていることを教会は知らない。神の御旨における自分の地位について、教会は全く無知である。</p><p>&nbsp;</p><p>御言葉が述べている知恵には二種類ある。上から下って来る知恵と、地に属する地的・感覚的・悪鬼的な知恵である。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちに必要なのは、ただこの知恵を用いる秘訣を学ぶことだけである。</p><p>&nbsp;</p><p>ヨハネ八・一二はこの主題にさらなる光を当てる。「私は世の光です。私に従う者は暗闇の中を歩くことがなく、命の光を持ちます」。これは神の知恵を意味する。もはや、疑い、恐れ、疑念の中を歩むべきではないことを意味する。私たちは確かな足取りで、イエスが歩まれたように歩む。</p><p>一ヨハネ二・一〇、一一「自分の兄弟を愛する者は光の中に住み、つまずくことはありません。しかし、自分の兄弟を憎む者は暗闇の中におり、暗闇の中を歩んで、自分がどこに行くのか知りません。暗闇が彼の目を見えなくしたからです」。これが永遠の命が私たちの内で行うことである。これをこの世に告げようではないか。</p><p>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー</p><p>・私たちはキリストにあって何者なのか？</p><p>「キリストにあって」「この方にあって」「彼にあって」という表現が新約聖書の中に百三十回以上現れるのを見い出して私は驚いた。これがパウロに与えられた贖いの啓示の核心である。</p><p>&nbsp;</p><p>エペソ一・七「この方にあって私たちは、その恵みの富にしたがって、その血による贖い、すなわち、罪過の赦しを受けています」。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちの贖いはキリストの恵みの奇跡である。それは「その恵みの富にしたがって」である。「その血を通して」なされた現在形の御業である。惜しみない、豊かなものである。私たちの贖いは完全である。あなたがこれを知って、その中に入り、あなたの心がそれに慣れるにつれて、あなたの命の中にあなたの知らなかった能力が生じる。</p><p>コロサイ一・一三、一四「神は、私たちを暗闇の権威から解放して、愛する御子の王国の中に移して下さいました。御子にあって私たちは贖い、すなわち、罪の赦しを受けています」。あなたはサタンの権威から解放されている。自由である。あなたが贖われているのは御子にあってである。あなたはサタンの支配から解放されている。「愛する御子の王国の中に移されて」いる。サタンの支配から自由である。</p><p>あなたが次の事実に目覚める時がやって来るだろう。すなわち、サタンはあなたに病を課すことはできないし、あなたの体に痛みや苦悩を与えることもできない、という事実である。</p><p>あなたが次のことを知る時がやってくるだろう。すなわち、欠乏や貧困は、あなたに関する限り、過去のものなのである。</p><p>嵐のただ中で、他の人々が恐れている時でも、あなたはこう叫ぶだろう。「主は私の羊飼いであって、私には乏しいことがありません。主は私を豊かさの中に、満ち満ちた豊かさの中に伏させて下さいます。私は主に満ち足ります」。</p><p>この贖いは現実である。サタンは敗北している。病は非合法化されている。欠乏は駆逐されている。</p><p>私たちは自由である。ヨハネ八・三六「だから、子があなたたちを自由にするなら、あなたたちは実際に自由なのです」。「まことに」という言葉は実のところ「実際」を意味する。ヨハネ一〇・一〇「私が来たのは、羊に命を得させるため、豊かに得させるためです」。命とは何か？命とは神の性質である。あなたは御父の性質を豊かに持つことができる。あなたは「キリストにある」。御父の臨在の中にある。命の領域の中にある。この命の領域の中には、理性を超えた命がある。私たちは永遠の命、神の本質そのものを持っている。ヨハネ一四・六でイエスは「私は道であり、実際であり、命です」と言われた。御心を私たちに啓示して、私たちの日常生活の中で彼が私たちに対して何になれるのかを示して下さったのである。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ヨハネ一五・一～七「私はまことのぶどうの木であり、私の父は農夫です（中略）私はぶどうの木であり、あなたたちはその枝々です」。</p><p>あなたが疑いと恐れの中で行動する限り、自分自身の判断の中に座り込んでいる限り、あなたは決して到達することはない。これらのことを決して享受することはない。</p><p>しかし、もしあなたが御言葉に基づいて行動するなら――友人からの手紙に基づいて行動するのと同じように御言葉に基づいて行動するなら、あなたは到達するだろう。</p><p>「すべて新しくなった」という御言葉を読む時、「自分はこの新しい領域の中に生きている」と思うようにせよ。</p><p>あなたはイエス・キリストを通して神と和解させられている。</p><p>あなたは今や、神との完全な交わりを持っている。</p><p>ああ、この新しい関係により、あなたのものであるこの富よ！勇気を出して自分の分を果たせ。</p><p>エペソ二・一〇「私たちは神の作品であって、キリスト・イエスにあって造られたからです」。あなたは神の作品である以上、あなたに神は満足しておられるのである。神はあなたを喜んでおられるのである。</p><p>私たちはあまりにも長いあいだ罪定めと罪について宣べ伝えてきた。そのため、義を宣べ伝える方法、人々に彼らがキリストにあって何者なのかを告げる方法を知らない。</p><p>誰かが彼らに告げても、彼らは「それは間違った教えである」と感じる。罪に誉れを帰してそれをキリストの御許に高く上げない教えはすべて間違っている、と感じてしまう。</p><p>あなたは神の新しい人である。エペソ二・一五は、神は新しい人を生み出されたと宣言している。「キリストはご自身の肉によって敵意を取り除き、数々の規定から成る戒めの律法を廃棄されました。それは、彼にあって、二つのものからひとりの新しい人を創造して、平和をつくるためです」。エペソ四・二四「真の義と聖の中で、神にしたがって創造された、新しい人を着なさい」。</p><p>コロサイ二・六、七は、事実を写実的に述べている。「このように、あなたたちは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建造され、そして教えられたように、信仰の中で確立されて、溢れるばかりに感謝しなさい」。</p><p>何と輝かしい真理！もはやあなたは弱い者ではない。キリストの力があなたの力である。私たちはとても強いので、感謝に溢れるべきである。感謝に溢れることをやめる時、私たちは霊的に堕落する。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>キリストは私を愛して下さった。私のためにご自身をささげて下さった。何という愛がここに啓示されていることか！キリストは私を贖って聖別して下さっただけでなく、いま天の前で「私はこの人の贖いです。私はこの人の聖別です」と言って下さる。</p><p>これはみなキリストの御業である。これは人の業ではない。「私もそれに貢献しました」と人が言ってはならないからである。あなたの悔い改め、叫び、涙は、あなたの義認や贖いと何の関係もない。あなたが完全なのはキリストにあってであり、キリストの偉大な比類ない命の豊かさのおかげである。</p><p>&nbsp;</p><p>、、、神の勝利宣言を信じないとこいうことは、悪魔が勝利していると信じていることになる。</p><p>&nbsp;</p><p>キリストにあって私たちは永遠の命、私たちの御父の性質を受けた。この性質は愛である。この愛は完全である。私たち人間の愛は不完全である。神の愛は「アガペー」である。この愛は人生を麗しくする。</p><p>あなたはそれを完全には理解していないかもしれないし、その中に完全には入っていないかもしれない。しかし、それは神の完全な愛であり、それは今すべてあなたのものである。</p><p>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー</p><p>・御名による癒し</p><p>今日、人々が口にするイエスの御名は、イエス・キリスト復活の二か月後と同じくらい強力である。</p><p>&nbsp;</p><p>ある日、私はイエスの御名を用いることを発見した。すると、奇跡が日常的に起きるようになった。</p><p>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー</p><p>・祈りに関するパウロの教え</p><p>「私の主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示の霊をあなたに与えて、あなたに彼を知らせ、あなたの心の目を照らしてくださいますように。それは、彼の召しの望みがどんなものであるか、また、聖徒たちの中にある神の嗣業の栄光の富がどんなものであるかを、あなたが知るためです」。</p><p>今、よくよく注意せよ。私たちが知恵の霊を持つよう、彼は祈っているのである。</p><p>あなたが気づいていたかどうか私にはわからないが、知恵と知識は異なるのである。</p><p>知恵は知識を用いる能力である。</p><p>知恵は論理的思考力ではなく、人の霊に由来する。それはキリストの外にある人の天然的知恵であるか、新創造に与えられる神の知恵であるかの、いずれかである。</p><p>私たちの霊が知恵を得て、神が私たちのためにキリスト・イエスにあってなしてくださった御業の富を把握しますように、と今、彼は祈っている。今、私たちは知恵を得て、この知識を啓示する贖いの啓示に関する自分の分け前を理解しなければならない。</p><p>彼は言う、「私たちの心の目が照らされて、彼の召しの望みと、聖徒たちの中にある御父の嗣業の栄光の富を、私たちが知ることができますように」。聖徒たちの中にあるとは、つまり、あなたや私の中にある、ということである。</p><p>もし私たちの心がこれを把握できたなら、それは私たちを変容させるだろう。私たちの中に御父がどんな嗣業を持っておられるのかを私たちが理解できさえすれば、私たちが彼にとってどれほどかけがえのない者なのかがわかるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>この祈りにさらに注目せよ。彼は私たちが「信じる私たちに対する彼の能力の卓越した偉大さ」を知るよう願っている。「それは彼の大能の力の働きにしたがってであり、彼はその力をキリストの内に働かせて、彼を死者の中から復活させられました」と彼は述べた。</p><p>私の心はなかなかこれを理解できなかった。キリストの死んだ体の中に働いたこの同じ能力が、私の内側に、私の霊、私の魂、私の体の中に働いていることを、私が実際に知った時、自分は守られていることを私は知ったのである。私は弱いはずがなかった。なぜなら、私はこの大能者がそれを通して働かれる道具となっていたからである。</p><p>次にローマ八・一一が疑問を解決してくれた。「しかし、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊があなたたちの中に住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたたちの中に住んでおられる彼の御霊を通して、あなたたちの死すべき体にも命を与えてくださいます」。</p><p>キリストの内に働いたこの同じ力が、あなたと私の中に働いている。この復活の能力が私たちの体の中にある。これは癒しと、力と、私たちの日々の歩みにおける私たちの現在の必要に対する活力を意味する。</p><p>&nbsp;</p><p>神がキリストを死者の中から復活させた時に彼の中に働かせた能力は、私たちのものなのである。</p><p>&nbsp;</p><p>「神はイエスを万物の上にかしらとして教会の益のために与えられました」。次に、この「万物」は、あなたの生活や私の生活に触れる可能性のあるすべてのものを含んでいる。それらはみなかしら――キリスト――に服従する。そして、私たち――キリストのからだ――に服従する。</p><p>というのは、次の節で彼は「教会は彼のからだであって、万物を満たしている方の豊満だからです」と述べているからである。このからだは彼の豊満である。このからだは彼の完全性であり、このからだの能力がその周囲の万物を支配するべきである。</p><p>私たちの貧弱な知性はこれを把握できないが、私たちの霊はその中で大いに楽しむことができる。なぜなら、私たちの霊は彼の豊満、彼の愛の豊満、彼の恵みの豊満、彼の知恵の豊満、人々を祝福・援助する彼の能力の豊満で満たされているからである。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、この祈りに注目せよ、「どうか御父が、彼の栄光の富にしたがい、能力をもって、彼の霊を通して、あなたたちの内なる人を強めてくださいますように」。</p><p>神の能力をもって強められるのである。私たちは弱くなったり、再び失敗しうるとは、私には思われない。</p><p>その完全な意味を私は知らないし、その限界も私は知らない。しかし、私は知っている。これにより、あらゆる困惑する状況の中で、私たちは圧倒的勝利者となるのである。これにより、私たちは自分のかかとを私たちの敵の首の上に置く。敵が霊の敵でも、あるいは、物質的な敵でもそうする。これにより、私たちは主人となる。それにより、私たちの弱さや無能さは剥ぎ取られ、私たちは高きところからの能力を着せられるのである。</p><p>&nbsp;</p><p>一ヨハネ四・一六「そして私たちは、神が私たちに対して持っておられる愛を知っており、また信じています。神は愛です。愛の中に住んでいる者は神の中に住んでおり、神も彼の中に住んでおられます」。私はもっと良い訳はこうだと思う、「神が私たちに対して持っておられる愛を、私たちは信じるようになりました」。</p><p>この愛、このイエス的愛は、理性よりも優っており、力よりも優っており、人の哲学よりも優っており、人に考案可能なあらゆるものよりも優っていることを、私は知るようになった。</p><p>主の道が最善の道であること、愛の道が歩む道であることを、私は信じるようになった。神は愛であることを知る時、神の道は最善であることがわかる。愛を信じているからには、私は愛の創始者を信じる。私は愛を信じる。彼の愛の道が私にとって最善であると私は信じる。それは私たちにとって戦いの終わりであり、苦々しさや憎しみや妬みの終わりである。それは、キリストが私たちの地上の歩みで私たちの生活を支配されることの始まりである。愛の中に根ざし土台づけられることは、人の心に臨みうる最高級の経験である。</p><p>しかし、この祈りの結びを聞け、「今、私たちが求め、また思うすべてを、はるかに超えて豊かに行うことのできる方に」。私たちは感覚的知識の軌道の外に、感覚的理性の限界の外に出て、超自然の領域の中に入ったことがわかる。私たちは今や恵みの領域の中に、神の領域の中に生きているのである。</p><p>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー</p><p>・ご自身を私たちの内に複製される神</p><p>キリスト教のまさに特質は、神は私たちの中に御言葉を通してご自身を造り込む能力を持っておられることである。それは、私たちの日々の歩みで、私たちが主のように生きるためである。</p><p>エペソ五・一「こういうわけで、愛されている子供たちとして、神に倣う者になりなさい。また、愛の中を歩みなさい。キリストもあなたたちを愛して、ご自身を私たちのためにささげられたのです」。私たちは愛されている子供たちとして、キリストが世への愛の中を歩まれたように、愛の中を歩むべきである。御父は御子を世に賜るほどに世を愛された。イエスはご自身を賜るほどに世を愛された。今、私は自分自身をささげるほど世を愛している。自分の心がそれに対して苦々しいものになることを私は許さない。たとえどんな批判や迫害があったとしても。</p><p>「私は自分の時間を空しく彼らのために費やした」と言いそうになる時はいつも、私はピリピでのパウロとシラスを思い出す。彼らは逮捕された。鞭打たれて、遂に彼らの背中は血まみれの肉塊となった。それから、両手両足を拘束されて牢獄の中に入れられた。この苦悩、この肉体的苦痛のただ中で、彼らは祈り、賛美を歌った。</p><p>彼らは天を大いに感動させたので、御父は牢獄を開かないわけにはいかなかった。そして、看守が地震に驚いて、恐怖の苦しみの中で叫んだ時、パウロはその背中に血を流しつつ彼に宣べ伝えた。それで、彼はイエスを見いだしたのである。その後、彼はパウロとシラス両名の背中を洗って、こうして、看守の家の中に教会が形成されたのである。もしパウロが何か別の霊を持っていたなら、彼は決してそうできなかっただろう。しかし、彼は自分の主のようだったのである。彼は自分自身を愛の支配・主権にささげていたのである。</p><p>私たちはキリスト・イエスにあって創造された。私たちは彼の被造物である。そして、キリストが私たちの内に形造られるまで、世は私たちの中に宗教以外の何ものも見ることはできない。ピリピ二・一三「なぜなら、ご自身の大いなる喜びのために、願わせ働かせるのは、あなたたちの内で活動される神だからです」。御父は実際に私たちの霊の中に彼の愛の命、彼の義、彼の力、そして彼の知恵を建て上げておられるのである。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちの教師として私たちにこれを示す霊感を与えてくださった聖霊を私たちは持っている。彼は指導者としてのご自身の立場を離れたことは決してない。彼はこの私の心の中に、またあなたの心の中におられる。彼は、あらゆる霊的な知識と理解力において、私たちを御父のみこころに関する正確な知識で満たすことを願っておられる。知恵とは、私たちの日ごとの歩みでこの啓示に関する知識を用いることである。知恵とは、福音書の中の諸々の約束だけでなく、諸々の事実の叙述の利用方法を知ることである。知恵とは、このメッセージを興味をそそる仕方で知らせる方法を知ることである。私たちは「あらゆる霊的な知恵において彼のみこころを知る知識」を持つべきだし、御父のまさに御心を洞察するいっそう深い洞察力を持つべきである。</p><p>&nbsp;</p><p>コロサイ一・九から次のことがわかる。すなわち、あらゆる霊的な知恵と理解力において、彼のみこころを知るこの知識を得ることにより、私たちは神にふさわしく歩んで、神をまったく喜ばせることができるようになるのである。私たちの歩みは、世人の前の歩みである。それは二重の歩みである、と言えよう。その一つの面は御父の前の歩みであり、もう一つの面は世人の前の歩みである。私は人々の前で主にふさわしく歩まなければならない。それは、彼らが私の中にあるこの新しい命を認識するようになるためである。私は大いにイエス化（このような言葉を造っても構わないなら）されているので、彼らは私を前にするときイエスを意識するようになるのである。</p><p>&nbsp;</p><p>かつて、これらの御言葉が私の心の中に数か月燃え盛った。主は私に語っておられた、「私はあなたにおいてあがめられることを望んでいます。あなたの個性を吸収することを望んでいます。あなたの夢や志を私のものにすることを望んでいます。あなたの生活の中で第一位を望んでいます」。私は彼を恐れた。私は言った、「主よ、あなたに私を支配していただく勇気は私にはありません。というのは、もしそうしてもらうなら、私が大いに志しているものに私は決して到達できないだろうからです」。ある声が私の心の中でこう言ったのを私は決して忘れないだろう、「私はあなたがあなた自身を愛するよりもあなたを愛しています。私はあなた以上にあなたの成功を熱望しています。私にはあなたを成功させる能力があります」。</p><p>私は言った、「主よ、私に路上で宣べ伝えさせないでください。あなたは私をスラムに送られるでしょう。私はそこに行きたくないのです、主よ」。私は再びもがいた。しかし、主は私に優しくしてくださった。彼の知恵が大いに明確になった。私が窮地にある時、しばしば彼は私を助けてくださった。私が困難に陥りそうな時、彼は私を引き上げてくださった。</p><p>ある日、私は言った、「主よ、私はあなたと共に行きます。ここに私がおります。私の能力をすべて用いてください。あなたご自身の志で私の志を飲み尽くしてください。しかし、あなたの愛のような愛を私に与えてください。人々が私の中にあなたを見、あなたを感じることができるように、私が語る時それがあなたの御声となるように、私が生きるのを助けてください。私が病人の上に両手を置く時、それがあなたの両手でありますように」。すると私はガラテヤ二・二〇の御言葉を聞いた、「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の中に生きておられます。そして私がいま肉体の中で生きている命を私は信仰の中で生きます。それはあなたの主を信じる信仰です。この御方は私を愛して、私のためにご自身をささげてくださいました」。</p><p>そこで私は言った、「今、主よ、私はあなたに信頼して、私自身をあなたにささげます」。私たちが精神生活の中で、彼に「はい」という地点に静かに到る時、彼はご自身を私たちの中に啓示してくださることがわかる。それは無理強いではない。彼は決して私たちを駆り立てることはない。病気や財産の喪失によって私たちに強制されることはない。病が臨むのは、彼は私たちを守れることに私たちが気づいていないからである。</p><p>私たちは自分の好む道を進んできた。自分自身の願望の道を進み、自分の計画を遂行し、感覚知識で論じてきた。私たちがこれほど浅はかで、これほど多くの愚かしいことをする時、彼の心はどれほど痛むにちがいないことか。彼の知恵を私たちは自由に使えるし、彼の能力が私たちを待っているのだから、私たちにはほとんど限界はないのである。彼がそうであるところのものを、私たちは自由に使うことができる。しかし時として、私たちは心痛と落胆に通じる道を選んでしまう。</p><p>大事なのはこのようにキリストが私たちの内側に形造られることであることがわかる。これこそ新創造の特質たる秘訣である。「ですから、誰でもキリストの中にあるなら、その人は新創造です」。それはこれまで完全だったが、彼はもっと豊かにご自身をこの新創造の中に建て上げることを望んでおられる。それゆえ、彼は御言葉の中で私たちに啓示されているキリストに関する事柄を取り上げて、御霊はそれらを私たちの中に建て上げてくださるのである。</p><p>私たちは、地上での歩みにおけるイエスの力と勇気をあがめてきた。困難な状況に出くわすたびにキリストが示された能力に興奮してきた。彼の知恵、優しさ、自制をあがめてきた。そしていま御霊は、私たちがイエスについてあがめてきたこれらのものをすべて取り上げて、私たちの中に建て上げることを願っておられる。それが何を意味するか、わからないだろうか？私たちを成功させること、そして、私たちのものである富を私たちが享受できるようにさせることが、御父の志なのである。</p><p>あなたが気づいているかどうか、私にはわからない。しかし、祈りの御言葉の一つであるヨハネ一六・二三、二四で、イエスはこう言われた。「その日には、あなたたちは私に向かって祈らないでしょう。（これが文字通りの意味です。）しかし、まことに、まことに、私はあなたたちに言います。あなたたちが父に求めるものは何であれ、彼は私の名の中であなたたちに与えてくださいます。今までは、あなたたちは私の名の中で何も求めませんでした。求めなさい、そうすれば、あなたたちは受けます。それは、あなたたちの喜びが満ちあふれるためです」。喜びは再創造された人の霊の中に到来するものである。天然の人はこれを持っていない。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>霊的に深く成長した人々は、その人の中で御言葉が完全に支配している人々である。ヨハネ一五・七、八がこれに少し光を投じてくれるかもしれない。「あなたたちが私の中に住んでおり、私の言葉があなたたちの中に住んでいるなら」。信者はみなキリストの中にあるが、彼の御言葉はすべての信者の中にあるわけではない。御言葉が私の中に住み、絶対的優位性を得、私の思考や私の生活のすべての面を支配するとは、どういう意味だろう。エレミヤが述べたように、神の御言葉を食べることである。今、私は食べているのである。この御言葉の中に生きているのである。それを実践しているのである。私はヤコブが言うところの「御言葉を行う者」なのである。</p><p>&nbsp;</p><p>御言葉を行う者は深く掘って岩の上に家を建てる、とイエスは言われた。これにより、その人の家はそれを打ついかなる嵐にも立ち向かえる。彼はこう言われただけでなく、「あなたたちが私の中に住んでおり、私の言葉があなたたちの中に居場所を見いだしているなら、あなたたちは何でも望むものを求めることができます。そうすれば、それはあなたたちのために父によって創造されます」とも言われた。存在するようにされるのである。ああ、今、私にはわかる。私は彼と協力しているのである。</p><p>この五節で彼は、「私はぶどうの木であり、あなたたちはその枝々です」と言われた。今、私はこれを理解できる。一つの枝として、私は彼の実を結ぶのである。私は彼と共に働いているのである。彼と私は共に働いており、互いに一体化されているのである。彼はご自身の能力がこの地上で再び活動・行動するための場所を探しておられるのである。</p><p>まるで、自分の商売に従事させられる賢い若者を探している裕福な人のようである。その若者はこの裕福な人の金を用いる能力を持っていなければならない。今、彼と私は共に働いている。そして、御父は栄光をお受けになる。なぜなら、私は多くの実を結んでおり、私の生活の中で弟子たる身分を実証しているからである。自分が恵みの中で成長していることを私は実証する。「主にふさわしく歩んで、すべてのことで主を喜ばせるために、神を知る正確な知識と、あらゆる霊的な知恵と理解力において」成長していることを実証する。私は今、あらゆる良い働きで実を結んでいる。御父を知る正確な知識、完全な知識において私は増し加わりつつある。</p><p>イエスの生活の中には常に確信が存在していたことに、あなたは気づいているだろう。決して動揺されなかったのである。彼は決して立ち止まって、「今、私が知恵を受けられるように祈ってください」とは言われなかった。彼は知恵を持っておられた。私たちの生活の中にも、この同じ静かな確信、自分は御父のみこころを知っているという確信が臨んでいる。それは彼の栄光の力にしたがってであり、それは私たちに喜びと共に堅固さと忍耐を与えてくれたのである。</p><p>コロサイ一・一二「御父に感謝をささげなさい。この御方は、光の中にある聖徒たちの嗣業の私たちの分け前を享受する能力を、私たちに与えてくださったのです」。これは御父の心の願いの絶頂である。それは、私たちが彼にご自身の命を私たちの中で生きてもらうことであり、私たちがキリストの中にある私たちの嗣業の私たちの分け前を享受し始めることである。</p><p>私たちは、彼が私たちのために、また私たちの中でしてくださったことを利用しつつある。彼の恵みの富の享受にあずかりつつあるのである。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/meronuma/entry-12739533974.html</link>
<pubDate>Tue, 26 Apr 2022 15:50:24 +0900</pubDate>
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<title>悪魔と戦う時には</title>
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<![CDATA[ <p>１、自分が神から隔離されていると考えない</p><p>２、御言葉に従い、神の目を通して解決策を得る</p><p>３、霊的戦いを行う際、サタンよりはるか高くに位置する勝利の座につく</p><p>４、霊の武器の割れ目を防ぐ</p><p>５、地上の下級兵だけでなく、最初に天の悪の総司令官を取り扱う</p><p>６、感覚に支配されない</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>１。１、霊的戦いを地上で行なっていたこと</p><p>&nbsp;</p><p>問題に焦点を合わせるとき、それは山のように見える。</p><p>御座からの神の目からか問題を見下ろすとき、それはアリ塚のように見える。</p><p>「あなたは問題の解決者ではなく、わたしが問題の解決者である。あなたが奇跡を起こすのではなく、わたしが起こす」</p><p>物質的領域を治める、高次元の（霊の領域）から権威を振るう方法</p><p>&nbsp;</p><p>３。２、御言葉（霊の剣）は、口に出してそれを振りかざすまでは、鞘に収められたまま</p><p>３。３、神の役目と私の役目</p><p>悪の勢力に対処してくれるように求めたが、それはあなたの責任だと示された。</p><p>武器→神の御言葉、イエスの御名、イエスの血潮、聖霊。</p><p>このバランスの取れた基盤を保つこと。</p><p>イエスの足台の一部にするために、全ての武器を使う。</p><p>&nbsp;</p><p>４。４、霊の武具にある割れ目のせいで無駄に攻撃されていたこと</p><p>罪深い感情を許すとき、武器に割れ目が入る→直接攻撃、間接攻撃の法的な許可を敵に与えることになる→対策「悔い改めに早く、赦すに早く」。神との関係に正しくあること。</p><p>霊的防御システムは肉体の免疫システムに似ている。</p><p>&nbsp;</p><p>５。５、天からの動力源を断ち切らないまま下級兵を取り扱うなら、下級兵との戦いは永遠に続く</p><p>戦いには、二つの段階がある。</p><p>まず、御座の視点から、全てのものをイエスの足の下に見下ろし、サタンとその司令官たちに対して権威を振るうことが重要。</p><p>「地上で解くものは、すでに天上で解かれている」</p><p>まず強いものを縛り上げる。</p><p>地上で取り扱うものは、まず天の「原因の領域」で取り扱われるべきで、地上で取り扱うのはその後。</p><p>御座からの視点により、勝利を主張する。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/meronuma/entry-12738640363.html</link>
<pubDate>Thu, 21 Apr 2022 15:43:31 +0900</pubDate>
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