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<title>mikes1660120のブログ</title>
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<title>Beethoven/Witt_Septett_Berliner Oktett</title>
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<![CDATA[ Beethoven<br><br>Septett Es-dur fuer Violine, Viola, Violoncello, Klarinette, Horn, Fagott und Kontrabass, Op.20七重奏曲　変ホ長調　作品20<br><br>Friedrich Witt<br>Septett F-dur fuer zwei Violinen, Viola, Violoncello, Klarinette, Horn, Fagott und Kontrabass(unisono)七重奏曲　ヘ長調<br><br>Berliner Oktett<br>Konrad Other, violin<br>Christian Mencke, Vioine II(Witt)<br>Helmut Loechel, viola<br>Rolf Doehler, violoncello<br>Barbara Sanderling, Kontrabass<br>Michael Simm, klarinette<br>Fritz Finsch, fagott<br>Kurt Palm, horn<br><br>録音 : 1989年3月6～9日、5月2～4日、ドレスデン・ルカ教会<br><br>七重奏曲ではベートーヴェンの作品20が圧倒的に広く知られている。そして、この作品に範を取りながらもヴァイオリンを2本に増強したシューベルトの遺作作品166(D803)が直ぐに思い出される。今回のヴィットの作品はヴァイオリンが2本でシューベルトと相似するが、チェロとコントラバスがユニゾンとなっている。<br>18世紀末から19世紀前半にかけてヨーロッパでは〈ハルモニー〉と称する管楽八重奏編成のアンサンブルが流行。この〈ハルモニー・バンド』はオリジナル作品より、むしろ人気のあったオペラや劇音楽のアリアや主題を演奏したり、パラフレーズする編曲作品で市民の音楽文化に大きく貢献した。七重奏曲は管弦編成であるが、アンサンブルとしての機能は前述のハルモニーと似た役割を果たしていた。所謂シリアスな芸術表現というよりはむしろ18世紀末のディヴェルティメント的な娯楽的性格の強い作品を演奏するアンサンブルの1つの理想的な編成として好まれていたのである。<br>事実この編成の代表的な作品としてのベートーヴェンの七重奏曲も、6楽章構成という18世紀ディヴェルティメントのタイプで書かれている。しかし、ベートーヴェンはこれが単なる娯楽的作品として書いたのではなく、室内楽的にも充実した響きと構成をも追求して傑作をものにしたのである<br><br><br>ヴィットの存在が注目されたのは、奇しくも同年生まれのベートーヴェンの研究から。1909年シュタインという研究者により、ドイツのイエナでベートーヴェンの名が記された《ハ長調交響曲》の写本が発見された。いわゆる《イエナ交響曲》を巡る一大センセーションが巻き起こり、ベートーヴェンの初期の交響曲であろうとの推定のまま出版されたが、その後半世紀にわたる研究の過程で資料批判がなされ、同じ作品のより良い状態の別の写本が発見され、そこに記された作曲者名からヴィットの作品であることが確認された<br>優れたチェリストであり、1789年から7年間エッティンゲン＝ヴァラーシュタイン公の宮廷楽師として活躍したのち、ドイツ各地を広く演奏旅行して人気を博していた。特に1802年にヴュルツブルクで上演されたあるオラトリオが大きな成功を収め、ヴュルツブルク大司教の目にとまり、ヴィットは楽長職を得る。さらに1814年から22年間にわたってヴュルツブルク劇場の楽長職を務めきった<br>作曲家としてのヴィットは必ずしも多くの作品を残したはいないが、ハイドンやロセッティを彷彿させる古典的明快性と軽快で清澄な響きを持つスタイルの作品を残している。劇場用作品3曲、宗教作品7曲、交響曲約10曲、協奏曲7曲などのオーケストラ作品のほかにピアノと管弦楽による五重奏曲、ハルモニー(管楽)のための小品集、そして今回ここに収められている七重奏曲などの室内楽作品が知られている<br>この作品は恐らくベートーヴェン作品からヒントを得ているようにも思われるが、この編成自体は決して珍しいものではない。1816年には完成して翌年マインツで刊行されているので、ヴァイオリン2本にしても、シューベルト以前である<br>チェロとコントラバスをユニゾン(1声部でオクターヴ同音奏)にするなど、低音強調の工夫など独自のスタイルを取る<br>ベートーヴェン作品と比較すれば、曲の構成が基本的に異なり、急・緩・メヌエット・急という交響的4楽章構成を取り、室内交響的表現を狙ったようだ。しかし、実際の内容は管楽器、とりわけファゴットが重視され、室内協奏曲的趣も色濃く漂う<br><br>ベルリン八重奏団は、旧東ドイツのベルリン交響楽団のメンバーによって1964年に結成されたグループ。1989年10月には結成25周年を祝う記念演奏会を開いたが、この間、「国家芸術賞」及び「東ドイツ国民賞」を受賞。国外での演奏活動も活発で、ヨーロッパ各国、ソヴィエトを始め南北アメリカにおいても、度々コンサートを開いている<br>レパートリーは、ドイツ古典派から現代の作曲家による作品まで多岐にわたる。<br><br><br>Wikipedia<br>ベートーヴェンについては、別ファイル『Beethoven_ Middle String Quartets』参照<br><br>七重奏曲作品20は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの作曲した、7つの楽器による室内楽曲である。<br>ベートーヴェン初期の傑作で、明るい旋律と堂々としたリズムをもち、作品が公開された当初から広く親しまれたとされ、初版が出版される前から海賊版が出回っていたとも言われている。作曲されたのは1799年から1800年にかけてで、同時期に作曲されたものに交響曲第1番などがある。ベートーヴェンの作曲人生の中では古典派音楽の勉強と自らの独自性を模索する時期といえる。モーツァルトのディヴェルティメントのように、娯楽的でサロン向けの音楽として書かれているが、旋律やリズム、構成の面などでその後のベートーヴェンらしい作品の登場を予感させる部分も随所に見られる。第5楽章のスケルツォはそのひとつである。作曲者によるピアノ三重奏版も存在する（作品38）。<br>しかし、この作品の人気とは裏腹に当のベートーヴェンは、いつまでもこの作品がもてはやされ続けるのを拒んだと言われており、「あの七重奏曲のベートーヴェンさん」と形容されるたびに不快感を示したといわれる。これはベートーヴェンにとって、この作品が大衆迎合の域を出ておらず、自分の追い求める音楽とは違っているということの意思の現れであるといえる。<br>難度はヴァイオリンを除き、そう高くない。ホルンに関しては、作曲当時に用いられていたナチュラル・ホルン（ヴァルヴ機構を持たない）で演奏する場合、倍音にない音はゲシュトップ奏法を用いるなど難度が高いが、ヴァルヴのある現代楽器を用いる限りは難しくない。<br>シュポーアやフンメルなど、古典派から初期ロマン派の作曲家にこの編成は多いが、ブランやブルッフのようにロマン中期の作曲家にも同編成での作品がある。<br>シューベルトはこの作品に影響されて八重奏曲を書いたとされる。八重奏曲の楽器編成はベートーヴェンの七重奏曲にもう一本ヴァイオリンを増やしたものになっている。<br>砂川しげひさは「ベートーヴェンが30歳で死んだとしても、ずっと後世に残り続ける曲」と評する一方で、「これを聴きながら食事をしていた貴族は七転八倒していたであろう」とも述べている。<br>演奏時間は40分から45分程度。<br>楽器編成 [編集]<br>クラリネット（B♭管）、ファゴット、ホルン、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス<br>曲の構成 [編集]<br>•第1楽章　Adagio - Allegro con brio 変ホ長調　4/4拍子<br>ソナタ形式。序奏のあと、ヴァイオリンが堂々とした主題を奏でる。<br>•第2楽章　Adagio cantabile 変イ長調　9/8拍子<br>いわゆる緩徐楽章。クラリネットが美しいメロディーを奏でる。<br>•第3楽章　Tempo di Menuetto - Trio　変ホ長調　3/4拍子<br>メヌエット。主部で弦楽器の奏でる旋律はピアノソナタ第20番の第2楽章からの転用。トリオでは管楽器が活躍する。<br>•第4楽章　Tema con variazioni : Andante 変ロ長調　2/4拍子<br>変奏曲。変奏に用いられる主題は民謡からの引用とされる。<br>•第5楽章　Scherzo-Trio - Allegro molto e vivace 変ホ長調　3/4拍子<br>スケルツォ。ホルンの分散和音とバイオリンの応答で始まる軽やかなスケルツォとチェロが流麗な旋律を奏でるトリオからなる。<br>•第6楽章　Andante con moto alla marcia-Presto 変ホ長調　4/4拍子<br>ソナタ形式。厳粛な序奏のあと、チェロの伴奏に乗ってヴァイオリンが堂々とした第一主題を奏でる。第五楽章で見られたホルンの分散和音がリズムを変えて再現されたあと、ヴァイオリンとチェロが流れるような第二主題を奏でる。展開部の終わりでは協奏曲で見られるようなヴァイオリンのカデンツァ風ソロがある。再現部で各主題が再現され、最後は第1主題が帰ってきてベートーヴェンらしく、明るく堂々と曲を閉じる。<br><br><br>フリードリヒ・ヴィット（Friedrich Witt, 1770 - 1836）は、その生没年から解るように、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン（Ludwig van Beethoven, 1770 - 1827）と同じ年に生まれたドイツの作曲家である。<br>彼はヴュルテンベルク公国のニーダーシュテッテンという村に生まれた。彼の父は、聖歌隊の指揮者で宮廷の事務官でもあった。フリードリヒ・ヴィットは、19歳の時にエッティンゲン家（Haus Oettingen）の宮廷楽団のチェリストになった。<br>彼の名前を最も有名にしたのは「悩める救世主（Der leidende Heiland）」というオラトリオで、この作品によって彼はヴュルツブルクの王子の音楽監督に就任することになった。そして、その後は没するまでその地に留まったのである。<br>WIKIPEDIA（英語版）では、彼は上記オラトリオの他に2曲のオペラを書いたとされているが、実際にはもっと多くのオペラを作曲しているようである。NMLの紹介文では、彼のオペラの「大部分は、現在では消失してしまっている」と書いてあるからである。そんな彼の作品の中から、今日は交響曲2曲とフルート協奏曲を収めたディスクを聴いてみた。収録曲は以下の通りである。<br>1．交響曲 ハ長調 「イェーナ」<br>2．交響曲 イ長調<br>3．フルート協奏曲 ト長調 Op. 8<br>
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<link>https://ameblo.jp/mikes1660120/entry-12944111234.html</link>
<pubDate>Sun, 05 May 2013 10:45:15 +0900</pubDate>
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<title>Beethoven_Prussian and Austrian Marches</title>
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<![CDATA[ Prussian and Austrian Marches<br><br>Disc 1<br>Yorck’scher Marsch (Beethoven/arr.:J. Schade)        ヨルク行進曲 (シャーデ編)<br>ベートーヴェンは、友人で保護者のルドルフ大公の兄で、1804年以来ドイツ騎士団長をつとめていたアントン大公(1779～1835)のために、1809年に軍楽隊用の行進曲を作曲し、やがてそれに《ボヘミア国境守備隊のための行進曲》と名付けた。しかしこの題名では楽譜を出版せず、1819年頃にシュレージンガーという出版社がプロイセン軍隊のための行進曲集を出版したときには、《ヨルク行進曲》と題された。最もこの題名は、ベートーヴェン自身によるものではないとされている。日本では、これを《ヨークシャー行進曲》としていることが多いが誤り。元来はヨルクの軍隊のための行進曲ということであり、ヨルクというのはプロイセンの伯爵(1759～1830)であり、自由戦争(1813～15)の時の将軍でもあった。<br>シャーデが現代風な編成のものにした楽譜で演奏されている<br><br>Torgauer Marschトルガウァー行進曲 (作曲者不詳)<br>プロイセン国王フリードリヒII世(1712～86)は、大王と呼ばれていたが、大の音楽好きで、自分でフルートを奏し作曲もする。いわゆるベルリン楽派の中心人物でもあった。エルベ河のトルガウでオーストリア軍を撃破した記念にこの行進曲を作ったと言われてきたが疑問視されてきて、トルガウ出身のショルツという教師が1816年に書いたものだとされている。プロイセン国王のヴィルヘルムIII世が大いに気に入り1817年ベルリンに持ち帰ったという。しかし、この曲は1891年まではドイツの軍隊行進曲集には加えられていない<br><br>O Du Mein Österreich (Preis/Suppe/arr.:Doblinger)<br>我がオーストリア (プライス/スッペ/ドブリンガー編)<br>オーストリアの行進曲の典型。プライス(1831～64)がオペレッタの作曲家スッペ(1819～95)の同じ題名の愛国歌を使用して1852年に作曲したもの。プライスはオーストリア近衛歩兵第38連隊の軍楽隊長をしており、他にも行進曲を残す。この曲は第2次大戦まで、ウィーンのテレジア士官学校の士官候補生の行進に使われていた。<br><br>Unter Dem Grillenbanner (Lindemann/J. Strauss/arr.:Schmidt)<br>はためく軍旗の下に (リンデマン/J.シュトラウス/シュミット編)<br>ベルリンの吹奏楽の作曲家リンデマン(1882～1941)の作品。ワルツ王シュトラウスの《はためく軍旗》と《加速度》の旋律を使用。オーストリア軍隊の分列行進曲の中には加えられなかったが、オーストリアとドイツの民間では広く愛好されるようになった。リンデマンは、ボルマンという名前でも呼ばれていた、《兄弟よ、酒を飲もう》というワルツ風の歌の作者としても知られる<br><br>Des Großen Kurfürsten Reitermarsch (Moltke)   大公騎兵隊行進曲 (モルトケ伯爵)<br>ドイツの軍楽隊長モルトケ伯爵(1847～1923)が19世紀末に書いた。国王ヴィルヘルムIII世に献呈。モルトケが1896～99年隊長を務めていたブレスラウの大選帝侯の近衛第1騎兵隊のパレード用の音楽とされた<br><br>Pariser Einzugsmarschパリ入場行進曲 (作曲者不詳)<br>おそらくゴータの宮廷楽長のヴァルヒ(1770～1855)の作だろうと言われる。この曲のピアノ用の楽譜がベートーヴェン作として売り出されたこともあってベートーヴェンの作ではないかと見做す学者もいる。1814年プロイセン、オーストリア、ロシアの連合軍はこの曲とともにパリに入城。そして第2次大戦前には、この曲はドイツ空軍の代表的な行進曲とされた<br><br>Unter dem Doppelader (J.F.Wagner/arr.:Mossheimer)<br>双頭の鷲の旗の下に (ヴァーグナー/モスハイマー編)<br>作曲者(1856～1908)は、大作曲家とは無関係。オーストリアの軍楽隊長で、軍楽隊のために約800曲を書いたが、そのいくつかは現在でも演奏。この曲はオーストリア皇室のハプスブルク家の紋章に因んで題名が付けられた。オーストリアの軍隊行進曲の中でも特に有名<br><br>Mir Sein Die Kaiserjaeger (Mühlberger/arr.:Tanzer)<br>我ら皇帝親衛隊 (ミュールベルガー/デボロ/タンツァー編)<br>作曲者(1857～1944)は、オーストリア軍楽隊に入り、チロル皇帝第1親衛隊の軍楽隊長になった。この曲は、自分の軍隊のために書いたもので、「チロル皇帝親衛隊行進曲」と呼ばれることもある。オーストリア皇帝を守護する誇りから、この曲の冒頭にはオーストリア国歌(ハイドンの《皇帝フランツを守れ》)の旋律が使われている。そしてこの曲は、《第1親衛隊》という軍歌の旋律でクライマックスを作って結ばれる。現在でもオーストリアの音楽として公式に採用されている<br><br>Florentiner Marsch (Fučík)フローレンス行進曲 (フチーク)<br>作曲者(1872～1916)は、プラハ生まれ。ファゴットを学んでオーストリアの軍楽隊に入り、ブタペストで軍楽隊長を務めた。約240曲の行進曲やワルツを残す。演奏会用の行進曲<br><br>Marsch Der Finnländischen Reiterei (anonym/arr.:Voigt)<br>フィンランド騎兵隊行進曲 (作曲者不詳/arr.:フォイクト)<br>《スウェーデン騎兵隊行進曲》とも呼ばれる。本CD中で最も古いものに属す。旋律は30年戦争(1618～48)時代のものとされ、トリオの部分は1750年以降に付け加えられた。プロイセン国王ヴィルヘルムII世(1859～1941)の妹でマイニンゲンに住むシャルロッテがスウェーデンを訪問した帰りにこの行進曲の楽譜を初めてドイツに持ってきたという。プロイセンの軍楽隊長フォイクトによって補筆され、プロイセンの軍隊のためにも使用されるようになった。<br><br>Königgrätzer Marsch (Piefke)ケーニヒグレッツ行進曲 (ピーフケ)<br>作曲者(1815～84)が1866年にチェコのケーニッヒグレッツでの戦争への追悼のために作曲。プロイセンの行進曲作曲者の代表的な1人。この66年にはフランクフルトのプロイセン近衛擲弾兵第8連隊の軍楽隊の首席オーボエ奏者だった。6/8拍子だが、当時は珍しい。中間のトリオには、フリードリヒ大王の作と言われる《ホーエン・フリートベルク行進曲》の旋律が使われている<br><br>Die Regimentskinder (Fučík/arr.:Blaha)連隊の子供たち (フチーク/ブラーハ編)<br>フチークの作品の中でも特に優れているとされる。帝国時代はウィーンの行政軍人専門学校の分列行進曲だったが、1967年オーストリア国防省の指令により、この曲が陸軍経理学校の行進曲に指定<br><br>Wien Bleibt Wien (Schrammel/arr.:Schmidt=Petersen)<br>ウィーンはウィーン (シュランメル/シュミット=ペテルセン編)<br>オーストリアの有名な行進曲。作曲者(1850～93)。1887年の作。ウィーン市の音楽的シンボルとなる。自ら所属する楽団のために書かれた。同時代の著名な音楽家からも高く評価<br><br>Kreutzritter-Fanfare (Henrion/arr.:Maenneke)<br>十字軍騎兵ファンファーレ (ヘンリオン/メネケ編)<br>作曲者(1854～1940)は軍楽隊長。作曲は1890年代。<br><br>Petersburger Marschペテルブルク行進曲 (作曲者不詳)<br>フィンランド軍楽隊長の作と言われる。この作曲によってロシア皇帝から金時計を拝領したと伝えられる。<br><br><br>Disc 2<br>Fehrbelliner Reitermarsch (Henrion/arr.:Maenneke)<br>フェールベリン騎兵隊行進曲 (ヘンリオン/メネケ編)<br>この旋律は、「老齢のヴィルヘルムを皇帝にまた戴きたい」という歌詞でドイツ軍の兵士たちによって歌われてもいた。ヴィルヘルムは、1888年に91歳で死亡したドイツ帝国初代の皇帝で、人望があった<br><br>Pappenheimer-Marsch (Michael Haydn?)パッペンハイマー行進曲 (作曲者不詳)<br>30年戦争時代に誕生した行進曲。パッペンハイマーというのはパッペンハイム伯爵という武将の麾下の胸甲騎兵のこと。勇敢と豪胆さで知られていた。芸術的な形態のものにまとめ上げたのはハイドンの弟のミヒャエル・ハイドン(1737～1806)と推定。<br><br>Hoch- Und Deutschmeister-Marsch (Ertl)<br>ホッホ・ウント・ドイチュマイスター行進曲 (エルトル)<br>作曲者(1857～1911)が、「ウィーンのお小姓たち」を言う愛称の近衛連帯の名をつけたものだが、元々はオーストリア帝国軍隊の「最も音楽的な」行進曲とされた<br><br>Vindobona-Marsch (Komzaek/arr.:Marder)<br>ヴィンドボナ行進曲 (コムツァーク/マーダー編)<br>作曲者(1850～1905)はプラハ音楽院卒業後、21歳でインスブルックの軍楽隊長となり、ドヴォルザークとも親交があり、作曲家としても多面的な作品を残す。題名にあるヴィンドボナはウィーンのラテン語式の呼び方でもあり、皇帝への忠誠を示すために書かれたものだという<br><br>Hohenfriedberger Marsch (Freidrich II, von Preussen?)<br>ホーエンフリートベルク行進曲 (フリードリヒ大王)<br>1750年以前に誕生した古いプロイセンの行進曲として知られる代表的なもの。ホーエンフリートベルクは、フリードリヒ大王の軽騎兵隊がオーストリア軍を破ったシレジアの村の名<br><br>Erzherzog-Albrecht-Marsch (Komzaek/arr.:Willinger)<br>アルブレヒト大公行進曲 (コムツァーク/ヴィリンガー編)<br>オーストリアの陸軍元帥アルブレヒト大公の70歳を記念して作曲。その後オーストリア帝国の第9軽騎兵連隊その他の分列行進曲に指定<br><br>Tiroler Holzhackerbuab'n (J.F.Wagner/arr.:Tanzer)_<br>チロルの木こりの誇り (ヴァーグナー/タンツァー編)<br>オーストリアの軍楽隊長の作品。オーストリア帝国軍隊の行進曲の中でも最も美しいリーダー(歌曲)行進曲の1つとされ、その旋律はチロル地方とそこの人達への敬意を表したものといわれる<br><br>Preusens Gloria (Piefke)プロイセンの栄光 (ピーフケ)<br>作曲者の死後発表。1911年ドイツの軍隊の行進曲に採用<br><br>Coburger Marsch (Michael Haydn?)コーブルク行進曲 (作曲者不詳)<br>トリオまではミヒャエル・ハイドンの作と言われるが、自筆草稿が失われた。コーブルクはフリードリヒ大王の息子に由来。オーストリア帝国歩兵第58連隊の行進曲に採用。<br><br>Karntnerlieder-Marsch (Seifert)ケルンテンのリーダー行進曲 (ザイフェルト)<br>作曲者(1826～73)はオーストリアの軍楽隊長。61年に同地で作曲。プロイセンの軍隊の行進曲集に収められるが、オーストリアでも1938年までアルプス山岳軍第5大隊の正式な分列行進曲とされ、1967年以来山岳軍第27大隊の行進曲ともなっている。リーダー行進曲というのは、歌曲風な旋律を持つ行進曲のこと<br><br>Die Bosniaken Kommen (Wagnes)ボスニア人たち (ヴァグネス)<br>作曲者(1863～1936)がオーストリアの支配下でボスニアに歩兵連隊が出来たときにその第2連隊の軍楽隊長になって書いた作品。1967年に通信第2大隊の行進曲に指定<br><br>Fridericus-Rex-Grenadiemarsch (Radeck/Loewe)<br>フリードリヒ近連帯行進曲 (ラーデック/レーヴェ)<br>作曲者(1828～1903)はボーゼン(現ポーランド領ボズナニ)の歩兵第6連隊の軍楽隊の首席オーボエ奏者。シューベルトと同年代のバラードの作曲家レーヴェ(1796～1869)がアレクシスの詩によって書いた歌曲の旋律を使用<br><br>Alte Kameraden (Teike)旧友 (タイケ)<br>ドイツの行進曲の中でも、最も有名なもの。作曲者(1864～1922)が22歳で書いた作品。当時ウルムの擲弾兵第123連隊の軍楽隊の下士官でオーボエ奏者。退役後は「作曲をするお巡りさん」として親しまれる。プロイセンの伝統的な行進曲のスタイルにウィーン風なものを取り入れて、行進曲の新しい様式を開拓した功労者と言われる。<br><br>Einzugsmarsch Aus 《Der Zigeunerbaron》 (J.Strauss/arr.:Willinger)<br>《ジプシー男爵》から、入場行進曲 (J.シュトラウス/ヴィリンガ―編)<br><br>Nibelungenmarsch (Sontag/Wagner/arr.:Willinger)<br>ニーベルンゲン行進曲 (ゾンターク/ワーグナー/ヴィリンガ―編)<br>作曲者(1846～1921)がワーグナーの《指輪》から主題を取って書いた行進曲。当時バイエルン歩兵第7連隊の首席オーボエ奏者だった。《指輪》初演が1876年、ワーグナー死去が1883年、その間にワーグナーの承諾を得て書かれた<br><br>Blaeser-Ensemble der Berliner Philharmoniker　<br>ベルリン・フィルハーモニー管楽アンサンブル<br><br><br>Radetzky Marsch (J.Strauss Vater)ラデツキー行進曲 (父J.シュトラウス)<br><br>Wellingtons Sieg Oder Die Schlacht bei Victoria, Op.91 (Beethoven)<br>《ウェリントンの勝利》<br>Erste Abteilung : Schlacht 第1部　戦闘<br>Zweite Abteilung : Siegessymphonie第2部　勝利の交響曲<br>今日演奏されることはほとんどないし、レコードの現役版も皆無。芸術性の問題は別としてユニークな作品。戦闘風景の描写音楽<br><br><br>Berliner Philharmoniker<br>Dirigent : Herbert von Karajan<br><br><br>Recording : at Jesus-Chistus-Kirche<br>Radetzky MarschDec., 1966<br>Wellingtons SiegJan., 1969<br>Preussische &amp; Oesterreichische MarscheMarch, 1973<br><br><br><br><br>Wikipedia<br>交響曲「ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い」作品91（ドイツ語：Wellingtons Sieg oder die Schlacht bei Vittoria, Op. 91）は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの管弦楽曲である。<br>解説 [編集]<br>本作は1813年6月21日、スペインにおけるビトリアの戦いで初代ウェリントン侯爵アーサー・ウェルズリー率いるイギリス軍がフランス軍に勝利したことを受けて、ウェリントン侯を讃える曲としてベートーヴェンが作曲したものである。この曲は2つのパートで構成される。前半はビトリアの戦いを再現したもので、左右からそれぞれの行進ドラムと進軍ラッパに続いてイギリス軍を表す「ルール・ブリタニア」とフランス軍を表すフランス民謡「マールボロ将軍は戦争に行く（マールボロ行進曲）」"Malbrough s'en va-t-en guerre"が現れ、激しくぶつかり合い、やがてフランス軍が撤退していく（短調にアレンジされたマールボロ行進曲）。後半はイギリス軍の勝利を祝う華々しい凱歌（イギリス国歌の変形、原型も顔を出す）となっている。演奏時間は約15分である。<br>本作はしばしば「戦争交響曲」と呼ばれる。交響曲と名づけられてはいるが、ベートーヴェンの9つの交響曲には含まれていない番外の作品である。オーケストラによるソナタとしての交響曲の概念に含まれるものではなく、むしろ描写音楽的であり交響詩先駆的楽曲と考えられる（ベートーヴェンの時代には「交響詩」という形式名は存在しなかった）。初演当初は熱狂的歓迎で受け入れられた作品であり、また火器の使用といった先進的な試みも見られることから、ベートーヴェンの音楽の変遷や受容を考察する上でも興味深い作品のひとつといえる。しかし当初の目新しさも、初演から200年経た現在では完全に色あせている。現在ではベートーヴェンの全作品の中で取り立てて存在感はなく、作曲者の多くの楽曲のなかで演奏機会も特に少なくなっており、交響曲全集・管弦楽曲全集などと銘打たれたCDにさえほとんど収録されていないのが現状である。同様の趣向のチャイコフスキーの序曲1812年が野外コンサートやCDなどで、比較的取り上げられる機会も多いのとは対照的である。今日でも通用するエンターテイメント性のある作品を作曲できたチャイコフスキーと当時の聴衆にしかアピールできなかった両者の差は興味深いところである。このような状況ではあるが、指揮者ロリン・マゼールが2度にわたって録音（ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、バイエルン放送交響楽団といった名門オーケストラと）していることは注目される。また、カラヤン、ドラティ、シェルヘンなどの著名指揮者もレコーディングを残している。<br>初演 [編集]<br>1813年12月8日ウィーンにて、ベートーヴェン自身の指揮で初演。この演奏会はハナウの戦いで負傷した兵士のための慈善活動の一環とした演奏会であり、フンメル、シュポーア、モシェレス、サリエリらも演奏に参加した（サリエリは大砲を表す大太鼓隊の指揮を執った）。初演は大成功を収め、この曲はたちまちベートーヴェンの人気曲となった。また、同じ演奏会で交響曲第7番も初演されている。<br>それから10年を経て、ウィーンの聴衆に失望したベートーヴェンがベルリンで開こうとしていた交響曲第9番の初演を、ウィーンで開催するよう文化人たちが連名で作成した嘆願書にも、「『ウェリントンの勝利』の栄光を今一度」という文言が含まれているほどで、当時本作の人気の凄まじさが窺える。<br>日本国内の場合、火縄銃の射撃音が織り込まれた原楽譜にならって実際の火器を使う形式で初めて演奏されたのは、2007年10月20日、東京都練馬区大泉学園町の陸上自衛隊朝霞訓練場においての、陸上自衛隊東部方面音楽隊他によるものである[1] 。 使用された火器は、作曲当時の射撃音に近いとされる旧式のライフル（M1）である。 但し、この演奏会ではオーケストラではなく吹奏楽編成で演奏された。<br>火器を用いたものに限らなければ、これ以前にもたとえばNHKで1980年に放送された音楽の広場においてこの曲が披露されたことがある(演奏はおそらく東京交響楽団。番組がスタジオ収録であったため、音楽で表現される戦況にあわせて照明を変化させるなど、視覚的効果を活かした演出が施されていた。[要出典]<br>作曲の経緯 [編集]<br>当初は管弦楽曲としてではなく、パンハルモニコンのための曲として作曲された。パンハルモニコンとは、当時の軍楽隊のさまざまな楽器の音色を出せる自動演奏楽器であり、メトロノームの発明者として知られるヨハン・ネポムク・メルツェル（Johann Nepomuk Mälzel）がその頃発明した。ウェリントンの勝利も、メルツェルがウェリントンの人気を音楽作品にしてひと儲けしようと計画、ベートーヴェンに持ちかけてパンハルモニコン用と管弦楽用の2通りの作曲を委嘱。両者によるイギリス旅行の手土産にしようと考えたが、旅行は実現せず、パンハルモニコン用の音楽も実現しなかった<br>1813年の8月から9月にかけてスケッチされ、10月の第1週に管弦楽用のみ完成された。<br>1813年12月の慈善音楽会で初演後、ベートーヴェンとメルツェルとの間に著作権トラブルが発生したが、1817年にはベートーヴェンの勝訴に帰し、この曲はのちのイギリス国王ジョージ4世（当時ジョージ3世の摂政）に献呈された。<br>編成 [編集]<br>ピッコロ1、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット1、ホルン4、トランペット6、トロンボーン3、ティンパニ、シンバル、トライアングル、スネアドラム、ラチェットまたはマスケット銃（なるべく多数）、バスドラムまたは大砲2以上、弦五部（第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス）<br>ベートーヴェンの全作品において最大級の管弦楽であり、管弦楽編成だけを見れば交響曲第9番をも凌いでいる。<br>脚注 [編集]<br>1.^ 楽器は大砲！　大迫力の「自衛隊の大砲を使ったコンサート07」 ASCII.jp<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mikes1660120/entry-12944111231.html</link>
<pubDate>Sun, 05 May 2013 10:43:13 +0900</pubDate>
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<title>Beethoven_Variations_Gianluca Cascioli, piano</title>
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<![CDATA[ Beethoven<br><br>Variations<br>サリエリの歌劇 《ファルスタッフ》から　二重唱〈まさにそのとおり〉の主題による10の変奏曲　変ロ長調　WoO.73<br>Sept., 1996 at Friedrich-Ebert-Halle, Hamburg-Harburg<br>グレトリーの歌劇 《獅子心王リチャード》から　ロマンス〈燃える心〉の主題による8つの変奏曲　ハ長調　WoO.72<br>Sept., 1996 at Friedrich-Ebert-Halle, Hamburg-Harburg<br>ジュスマイアの歌劇 《スレイマン2世》から　三重唱〈たわむれ、ふざけて〉の主題による8つの変奏曲　ヘ長調　WoO.76<br>Feb., 1997 at Friedrich-Ebert-Halle, Hamburg-Harburg<br>ヴィンターの歌劇 《妨げられた奉納式》から　四重唱〈子供よ、静かにお休み〉の主題による7つの変奏曲　ヘ長調　WoO.75<br>Sept., 1996 at Friedrich-Ebert-Halle, Hamburg-Harburg<br>アンダンテ ヘ長調 WoO.57 《アンダンテ・ファヴォリ》<br>Feb., 1997 at Jesus-Christus Kirche, Berlin<br>《トルコ行進曲》 の主題による6つの変奏曲　ニ長調　Op.76<br>Feb., 1997 at Friedrich-Ebert-Halle, Hamburg-Harburg<br>創作主題による6つの変奏曲　ヘ長調　作品34<br>Feb., 1997 at Jesus-Christus Kirche, Berlin<br>トーマス・アーンの劇音楽 《アルフレッド》 から　《ルール・ブリタニア》の主題による5つの変奏曲　ニ長調　WoO.79<br>Feb., 1997 at Jesus-Christus Kirche, Berlin<br><br>Gianluca Cascioli, piano<br><br>ベートーヴェンは少年時代から天才の片鱗を見せ、特にピアノ演奏に秀でて、「第2のモーツァルトになる」とまで言われていた。22歳でウィーンに定住してからのベートーヴェンは当時ウィーンで最大のピアニストであり、最高の即興演奏家という定評。彼が10代から50代まで、10数曲を書いたピアノのための変奏曲(大半は聴覚が正常な時代の作曲)にもまた、偉大なピアノ・ソナタ群の陰に隠れがちだが、明らかに、ピアニスト＝創造者＝表現者としてのベートーヴェンの天才性が刻まれている<br><br>サリエリ　⇒　1799年に書かれた初期の変奏曲の傑作。主題は同年にウィーンで初演されたばかりのアントニオ・サリエリのオペラから採られた。晩年の《ディアベリ変奏曲》を予告するものがある。最後のコーダの後半で、主題が呼び戻されるのは、この時代のベートーヴェンの変奏曲における表現法の1つの大きな特徴<br><br>グレトリー　⇒　1784年パリ初演のオペラ中のロマンスを主題に、1796/97年頃書かれた<br><br>ジュスマイア　⇒　ジュングシュピールの中から1799年に初演された歌劇の三重唱を主題にして同年書かれた<br><br>ヴィンター　⇒　1796年ウィーンで初演されたオペラから思い立って作曲<br><br>ファヴォリ　⇒　1804年完成の《ワルトシュタイン・ソナタ》作品53の第2楽章として構想されたもの。全曲が長すぎるとの友人の批判を受けて第2楽章を独立させ、新たにソナタのロンド楽章への導入部を書いた<br><br>トルコ行進曲　⇒　ベートーヴェンが自身の作品を主題にして描いた変奏曲中一番の傑作は、通称《エロイカ変奏曲》だろうが、他にも味わい豊かな佳作が少なくない。作品76の変奏曲は、彼自身の有名な旋律を主題とする1809年の作品。この旋律は2年後に書かれた劇音楽《アテネの廃墟》の第4曲《トルコ行進曲》として転用され、そちらが有名になったため、以後この変奏曲は「《トルコ行進曲》の主題による変奏曲」と呼ばれるようになった<br><br>創作主題　⇒　1802年に書かれた。ベートーヴェンの変奏技法の全体像を知るうえで重要な作品。ピアノによる表現上の飛躍的な充実によって、ベートーヴェン的語法が確立された時期を象徴する作品でもある。それは、この作品が《エロイカ変奏曲》と同時に書かれたことでも窺い知ることができる。<br>この変奏曲が画期的なのは、6つの変奏の調性を体系化したこと。主題はヘ長調、以下第1～6変奏は順に、ニ長調、変ロ長調、ト長調、変ホ長調、ハ短調、ヘ長調、第5変奏まで3度づつ下がり、最後は主題と同じにした構造になっている。また、各変奏の性格も、メヌエット風の第4変奏、葬送行進曲風の第5変奏、最終変奏のコーダを飾るアダージョ・モルトの音楽には、”浮遊する思索”と呼ばれる、晩年に顕著な作風が、既に垣間見える<br><br>トーマス・アーン　⇒　1803年にイギリスの有名な旋律を用いて書いた2つの変奏曲のうちの1つ。18世紀イギリス最大の作曲家の劇音楽の中で歌われ、イギリス国民の愛唱歌となっている《ルール・ブリタニア》による作品。もう1つは国家《ゴッド・セイブ・ザ・キング》によるWoO.78<br><br><br><br>Wikipedia<br>ベートーヴェンについては、別ファイル『Beethoven_ Middle String Quartets』参照<br><br> サリエリの歌劇「ファルスタッフ」の二重唱「「まったく同じだわ」」の主題による10の変奏曲<br>Beethoven, Ludwig van  :  10 Variationen über das Thema(Duett) "La stessa, la stessissima" aus der Oper "Falstaff" von A.Salieli WoO.73<br>作曲年：1799<br>出版年：1799<br>初出版社：Artaria<br>2008年7月 執筆者：稲田　小絵子<br>　1799年に作曲された３つのピアノ変奏曲のうちのひとつである。主題としたアントニオ・サリエリ（1750-1825）の歌劇は、その年の１月３日に初演されたものなので、ベートーヴェンの変奏曲がその翌月に出版されているのは驚くべき早さである。だが本当に驚くのは、この作品に見られる変奏技法の思い切った方向転換であろう。<br>　この変奏曲は、例えば前作WoO 72などとは異なり、どの変奏でも主題旋律が変容されて聞き取りにくくなっている。第1変奏からすでに旋律は上行音型に取って代わられ、伴奏の和音とリズムが名残をとどめているにすぎない。これまでの聴衆にわかりやすい変奏から、中期・後期作品にみられる新しい方向へと踏み出した変奏曲といえる。<br>　また、第６変奏の冒頭がポリフォニックであることは注目に値するだろう。特に後期に特徴的なフーガ的書法が、すでにここで試みられているのである。<br>そして「アラ・アウストリカ（オーストリア風に）」と指示された長い最終変奏では、3/8拍子へと変化する。主音である変ロ音が持続的に鳴らされる上で、レントラーなどの民俗舞踊を思わせるリズムが奏されるのである。こうしたキャラクターの変奏も後期作品との関連を思わせる。そして最後にはそうした舞踊的変奏も次第に崩され、何事もなかったかのように主題そのものが回帰して作品を閉じるのである。<br><br><br><br><br>ジャンルカ・カシオーリ(Gianluca Cascioli, 1979年7月17日 - )はイタリア出身のピアニスト。また指揮者、作曲家としても活動している。<br>経歴 [編集]<br>イタリアのトリノに生まれる。8歳から正式にピアノを習い始め、1991年にイモラのピアニスト・アカデミーでフランコ・スカラにピアノを、またピアノの音楽史をピエロ・ラッタリーノに師事。同時にジュゼッペ・ヴェルディ音楽院では作曲と電子音楽を学ぶ。<br>1992年、ミラノのディノ・チアーニ国際ピアノ・コンクールのジュニア部門で1位に入賞。1994年にはマウリツィオ・ポリーニやルチアーノ・ベリオ、ブルーノ・カニーノ、エリオット・カーターらが審査員を務める第1回ウンベルト・ミケーリ国際ピアノ・コンクールで優勝し、国際的な注目を集める。優勝後、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などヨーロッパの主要なオーケストラから出演依頼が殺到し、クラウディオ・アバド、リッカルド・ムーティ、ネヴィル・マリナー、ロリン・マゼール、ズビン・メータ、ヴァレリー・ゲルギエフ、ユーリ・テミルカーノフらの著名な指揮者らと共演を果たす。<br>また指揮者、作曲家としての活動も行っている。<br>ドイツ・グラモフォン、デッカ・レコードに所属しており、いくつかの作品をリリースしている。<br><br><br><br><br>
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<pubDate>Sun, 05 May 2013 10:29:24 +0900</pubDate>
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<title>Beethoven_String Quartets No.7-8_Smetana Quartet</title>
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<![CDATA[ Beethoven <br><br>String Quartets弦楽四重奏曲<br>No.7 in F major、Op.59 No.1  “Rasoumovsky” No.1<br>No.8 in E minor、Op.59 No.2  “Rasoumovsky” No.2<br><br>Smetana Quartet<br>Jiri Novakイルジー・ノヴァーク第1ヴァイオリン<br>Lubomir Kosteckyルボミール・コステツキー第2ヴァイオリン<br>Milan Skampaミラン・シュカンパヴィオラ<br>Antonin Kohoutアントニーン・コホウトチェロ<br><br>録音<br>7番1978.5.29～31.　プラハ、スプラフォン・ドモヴィーナ・スタジオ<br>8番1979.10.8,9/12,13.プラハ、《芸術家の家》、ドヴォルザーク・ホール<br><br><br>ベートーヴェンの16曲の弦楽四重奏の中で最も親しまれているものの1つ。《ラズモフスキー・セット全3曲》は、構造の複雑性と形式の巨大性において特に注目される作品群を為している。6年振りに作曲されたこの四重奏曲セットは、作品18の6曲セット(1798～1800)でハイドンやモーツァルトの様式を踏まえて確立した自己の書法からも大きな飛躍を示している。創作期はウィーン前記の最後の3年間、いわゆる「傑作の森」(1806～08)の入り口に位置している。弟カールが楽譜出版社ブライコップ&amp;ヘルテルに宛てた1804.10.10.付けの手紙からすれば、既にこの頃に新しい四重奏曲作曲の計画が具体化されていたことになり、事実1804年に属する「レオノーレ・スケッチ帳」には「へ長調四重奏曲」の第2楽章となるべきスケッチが見出される。<br>1807.2.27.ライプツィヒの『一般音楽時報』にはウィーンからの記事として、「ロシア大使ラズモフスキー伯に献呈されたベートーヴェンの極めて長大かつ難解な3曲の四重奏曲があらゆる聴き手の注目を集めている」との記事があり、既に演奏されたことを示す。ラズモフスキー伯爵(1752～1836)は、1792年以来在ウィーンのロシア大使。芸術全般・学問の理解者として知られ、豪華な私設図書を持ち、芸術品収集家としても忘れられない。秀れた音楽家であり、自らも秀れたヴァイオリニスト。自邸に抱えたシュパンツィヒ弦楽四重奏団の中で第2ヴァイオリンを務めることもあったという。義兄カール・リヒノウスキー侯爵共々ベートーヴェンの有力なパトロン。<br>初版譜は1808.1.9.ウィーン美術工芸出版社から刊行<br><br><br>Wikipedia<br>ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第7番ヘ長調Op.59-1は1806年に出版された。ベートーヴェンはロシアのウィーン大使だったアンドレイ・ラズモフスキー伯爵から弦楽四重奏曲の依頼を受けた。そのようにして作曲された3曲の弦楽四重奏曲はラズモフスキー四重奏曲としてOp.59として出版された。これはその1曲目に当たるのでラズモフスキー第1番と呼ばれる。<br>Op.59は、先輩のハイドン、モーツァルト、そしてベートーヴェン自身の初期の弦楽四重奏曲とは一線を隔し、規模、構成、各楽器の表現などが充実した、後期の作風の嚆矢を成している。特にこの第7番は一番規模が大きいものとなっており、全楽章がソナタ形式で書かれている。<br>だが初演当時は上記の点が理解されず、特に第2楽章については「悪い冗談だ」という声まで上がったという。<br>曲の構成 [編集]<br>第1楽章 Allegro<br>ヘ長調。第2ヴァイオリン、ヴィオラの和音に支えられてチェロが第1主題を提示し、それが第1ヴァイオリンへと受け継がれるという当時としては破格の書法で始まる。展開部ではフガートが用いられ、再現部を経て長大なコーダで締めくくられる。400小節を超える大曲。<br>第2楽章 Allegretto vivace e sempre scherzando<br>変ロ長調。チェロによる同音連打で開始される。<br>第3楽章 Adagio molto e mesto - attaca<br>ヘ短調。第1ヴァイオリンによるカデンツァを経て、切れ目なく終楽章へ続く。<br>第4楽章 Theme Russe, Allegro<br>ヘ長調。ロシア民謡による第1主題で始まる。コーダではアダージョにテンポを落とした後、プレストで華々しく終結する。<br><br>ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第8番ホ短調Op.59-2は1806年に作曲された。ベートーヴェンはラズモフスキー伯爵の依頼によって弦楽四重奏曲の依頼を受けた。そのようにして作曲された3曲の弦楽四重奏曲はラズモフスキー四重奏曲としてOp.59として出版された。これはその2曲目に当たるのでラズモフスキー第2番と呼ばれる。<br>概要 [編集]<br>これらの3曲はOp.18の6曲とは作風・スケールなどによって大きな隔たりを持つ。形式の拡大、徹底した主題労作や統一、またロシア民謡の採用もみられ、今までにない異例の長大さを示す。それはもはや室内楽の規模ではなく、交響的な音世界を表現している。この第2番はその中でもいくらか小規模なものであるが、唯一短調を採り、形式が圧縮された内省的なものである。<br>曲の構成 [編集]<br>第1楽章 Allegro<br>ソナタ形式。第1主題は和音連打に始まり、線的で断片的な旋律が続く。第1主題の提示の後、それがすぐにナポリ調のヘ長調で繰り返される点は、ベートーヴェン中期の特徴も一つである。<br>第2主題 Molto Adagio 深い感情をもって<br>ホ長調、ソナタ形式。ツェルニーは、この楽章はベートーヴェンが星のきらめきを想像して書いたと伝えている。和声的な第1主題と、いくらか律動的な第2主題からなり、それはどちらも非常に感慨深いが、ここでも主題労作の技法は有効的に用いられている。<br>第3楽章 Allegretto<br>スケルツォ。主部はリズミカルであり、Maggiore（ホ長調）の中間部はロシア民謡の旋律が使われている。なおその旋律は後にムソルグスキーがオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」において使用した。<br>第4楽章 Presto<br>ロンドソナタ形式。主題はホ短調であるが、明確にハ長調によって開始され、ユニークである。よって第1主題の再現の際には必ずハ長調への解決が導かれる。第2主題はロ短調を採るが、全体はきわめてコンパクトに有機的にまとめられ、無駄がない。コーダはPiu Prestoとなり加速し、力強くホ短調のまま終わる。<br>
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<pubDate>Sun, 05 May 2013 10:17:09 +0900</pubDate>
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<title>Beethoven_String Quartets No.4-6_Smetana Quartet</title>
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<![CDATA[ Beethoven <br><br>String Quartets弦楽四重奏曲<br>No.4 in C minor、Op.18 No.4<br>No.5 in A major、Op.18 No.5<br>No.6 in B-flat major、Op.18 No.6<br><br>Smetana Quartet<br>Jiri Novakイルジー・ノヴァーク第1ヴァイオリン<br>Lubomir Kosteckyルボミール・コステツキー第2ヴァイオリン<br>Milan Skampaミラン・シュカンパヴィオラ<br>Antonin Kohoutアントニーン・コホウトチェロ<br><br>録音プラハ、スプラフォン・ジシコフ・スタジオ<br>1番1976.6.3～5/11.<br>2番1974.4.6＆7/12～14.<br>3番1978.5.22～25.<br><br><br>Wikipedia<br>ベートーヴェンの弦楽四重奏曲 [編集]<br>交響曲（全9曲）、弦楽四重奏曲（全16曲）、ピアノソナタ（全32曲）の分野において、ベートーヴェンの後世に与えた影響は非常に大きい。ベートーヴェンによってこの三つの分野は作曲家が創作活動の中心に据えるべき完成された形式として確立した。作曲家たちはベートーヴェンを意識する余り、交響曲においてはベートーヴェンの作曲した曲数により「9番」がジンクスになり、ドイツ音楽の後継者として目されることも多いブラームスに至っては筆が進まず、わずか交響曲4曲、弦楽四重奏曲3曲、ピアノソナタ3曲しか残すことができなかったほどである。<br>弦楽四重奏曲全16曲はピアノソナタと違いベートーヴェンの生涯にわたって広範に散らばっているわけではなく、初期、中期、後期それぞれにある程度集中されて作曲されている。しかし、それぞれの時期の特徴をよく示すものとして、ベートーヴェンの場合、どうしても弦楽四重奏曲は欠かすことはできない。ベートーヴェンはこの三つの曲種を、演奏会で大勢の聴衆を前に自己の芸術を披露することのできる交響曲、人間関係など人生の微妙な問題を語るには弦楽四重奏曲、自己の内心の心情を吐露するには最も身近な楽器であるピアノソナタと、それぞれの性格を活かして多くの作品を残したと言われる。<br>この初期6曲の弦楽四重奏曲ではまだベートーヴェンは「どのようにして弦楽四重奏を作曲するかの練習」を兼ねていたようだが、弦楽四重奏曲の歴史においてこの6曲は重要な作品とされ、また後に中期作品、後期作品でさらに高い芸術価値の作品が残されたことにより、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は室内楽曲の歴史において最も重要な作品の一つとされた。現代の弦楽四重奏団においても最も重要なレパートリーであり、全曲演奏で評価を得ることが一流の弦楽四重奏団であることの必須となっている。<br>ベートーヴェンの初期弦楽四重奏曲 [編集]<br>1792年、22歳のベートーヴェンは故郷のボンを離れ、ハイドンに作曲を習うため、音楽の中心地ウィーンへと引っ越す。ここで、音楽家たちのパトロンとして有名なフランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィツ伯の後見を得て、本格的な作曲を始めることになる。 初期弦楽四重奏曲6曲は、ロプコヴィツ伯の後見を得ていた頃に作曲されたものであり、献呈もロプコヴィツ伯に施されている。弦楽四重奏曲には1798年28歳の頃から取り組み、残されたスケッチによると、ベートーヴェンはこの弦楽四重奏という初めてのジャンルに2年もの間継続的に取り組み、1800年に6曲が完成してからも、1801年に出版にいたるまで念入りに校訂を行っていることがわかる。<br>ベートーヴェンの個性が強烈に表れた中期以降の曲風とは異なり、まだハイドンの確立した形式に忠実に従ったものになっている。しかし、この曲集が出版された1800年には最初の交響曲「第1番ハ長調op.21」も作曲されており、ベートーヴェンが本格的に音楽家としての個性を確立し始めた時期の作品として、重要な位置を占めているといえる。<br><br>前期（作品18）第1番 ヘ長調 - 第2番 ト長調『挨拶する』 - 第3番 ニ長調 - 第4番 ハ短調 - 第5番 イ長調 - 第6番 変ロ長調<br>中期作品59（ラズモフスキー四重奏曲）　第7番 ヘ長調 - 第8番 ホ短調 - 第9番 ハ長調<br>その他第10番 変ホ長調『ハープ』 - 第11番 ヘ短調『セリオーソ』<br>後期第12番 変ホ長調 - 第13番 変ロ長調 - 第14番 嬰ハ短調 - 第15番 イ短調 - 大フーガ 変ロ長調 - 第16番 ヘ長調<br><br><br>ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第4番ハ短調0p.18-4は1800年ごろ、6曲からなるOp.18の弦楽四重奏曲の1つとして書かれた。特にこの曲はベートーヴェンにとって運命の調性であるハ短調(Op.18のうち唯一の短調)で書かれており、曲集の中で、最も興味深いものである。<br>初期の作品の中にはまだベートーヴェンが、後にこの調性を使って描き出すことに成功した悲劇的な美しさは十分に表されていない。そしてこの四重奏曲に至って初めて深い感動的な美しさを表現することが出来た。したがってこの曲は、諸々の深さ、迫力に於いて、作品18の他の5曲から一層進んだ境地にあり、最も明瞭に次の時期のベートーヴェンに繋がりを持っているということが出来る。<br>曲の構成 [編集]<br>第1楽章 Allegro ma non tanto ソナタ形式<br>情熱的な第1主題によって始められ、同時期に書かれたピアノソナタ第8番「悲愴」を連想させる。<br>第2楽章 Scherzo,Andante quasi Allegro　ソナタ形式<br>スケルツォと明記しながら、速度はアンダンテであり、しかもソナタ形式をとるという独創的な楽章で、しかもその開始はフーガの形をとり、どことなく交響曲第1番の第2楽章を思わせる。この傾向は後に弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー第1番」で長大化されていくもので、これはその先駆といえる。<br>第3楽章 Menuetto Allegretto　メヌエット<br>スケルツォの後にメヌエットを置くという点で、(スケルツォではないが）後の交響曲第8番を連想させ、その8小節の主題は調性の点において変ホ長調になり、ヘ短調を経てハ短調に至るなど、ドラマチックである。トリオは変イ長調になり、3連符の軽やかな動きとなる。<br>第4楽章 Allegro ロンド形式　A-B-A-C-A-コーダの形をとる。<br>豊かな楽想に満ち、特にCの部分はモーツァルトが交響曲第41番で用いた音型（ジュピター音型と呼ばれる）が使われていて、それはPrestissimo ハ長調に転じたコーダにおいて、曲の終結にも使われている。<br>以上、この作品は様々な点において非常に重要であり、Op.18の他のどの楽曲よりも独創性に溢れるものである。<br><br>ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第5番イ長調作品18-5は1800年ごろにまとめられた、6曲からなる作品18の弦楽四重奏曲の中の1曲である。6曲の中で最も明朗な気分に溢れたもの、当時のウィーンの一般的な音楽様式を反映、モーツァルトの影響も認められる点も少なくない。<br>演奏時間は約23分。<br>曲の構成 [編集]<br>形式や曲想の上でモーツァルトの同じ調の作品（第18番K.464）との関連がしばしば指摘されている。<br>第1楽章 Allegro 6/8拍子 ソナタ形式<br>6/8拍子という特徴ある拍子を用い、躍動感ある軽快な主題が第1ヴァイオリンにより奏される。第2主題はホ短調に始まるが、ホ長調に落ち着く。<br>なお、この曲と次の第6番 では展開部と再現部をリピートする指示がなされ、古典的な形式を強く意識されている。<br>第2楽章 Menuetto 3/4拍子　メヌエット<br>緩やかなメヌエット。主題が第1ヴァイオリンからヴィオラへと順に歌われる。主部の再現の前が嬰ハ短調に導かれているところが興味深い。トリオは調性が変わらず、和声的である。<br>第3楽章 Andante cantabile 2/4拍子　変奏曲形式<br>この作品の中心とも言える変奏曲楽章。ニ長調。主題はこの曲のいくらか前に成立していたとされ、音階の上昇下降を繰り返すだけの単純なものである。第1変奏はチェロから模倣的に開始され、第2変奏はヴァイオリンによる装飾音型。第3変奏はヴァイオリンの細かい伴奏音型により、低音域が朗々と歌う。第4変奏はppによるコラールで、主題の和声自体が変えられ、変奏曲に彩を与えている。第5変奏は堂々とした終曲であるが、第2ヴァイオリンが旋律線を支配している。コーダで変ロ長調が導かれるところは興味深い。<br>第4楽章 Allegro 4/4拍子 ソナタ形式　<br>ヴィオラから運命の動機に似た音型が示され、模倣される。第2主題は極めて和声的なコラールとなっている。<br><br>ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第6番変ロ長調作品18-6は1800年ごろ、6曲からなる作品18の弦楽四重奏曲の1つとして書かれた。特にこの作品は曲集の最後を飾るにふさわしい、堂々とした曲想と構成をもっている。第2番や3番と共に明るい気分の作品だが、内容的にそれらより一層円熟していて、構想も大きい。形の上では特に目新しい所はないが、第4楽章には「ラ・マリンコニア」と名付けられたアダージョの序奏が付いており、しかもそれがアレグレットの主部の中に現れてくるという、作品13の《悲愴ソナタ》第1楽章に似た構成を取る。<br>演奏時間は約26分。<br>曲の構成 [編集]<br>第1楽章 Allegro con brio ソナタ形式<br>第1ヴァイオリンによる跳躍の激しいアルペッジョの主題を下三声が規則的なリズムを持った堂々とした和声で支え、チェロと第2ヴァイオリンが時折模倣する律動的な第1主題に開始される。対して第2主題はリズムに特徴があり、ヘ長調とヘ短調の間を行き来する。全体的に音域の広い音階の走句が多用され、極めて躍動的である。<br>第2楽章 Adagio ma non troppo　3部形式<br>後の交響曲を予感させる極めて充実した緩徐楽章。初めに第1ヴァイオリンで歌われる主題は様々なリズムや音型により変奏される。変ホ短調で開始される中間部は旋律的であり、転調を繰り返しながら展開される。<br>第3楽章 Scherzo, Allegro　スケルツォ<br>ヘミオラやシンコペーションなどのリズムが多用され、音域も広く躍動的である。トリオはもっぱら第1ヴァイオリンが技巧的に駆け回る。<br>第4楽章 La Malinconia, Adagio - Allegretto quasi Allegro　展開部を欠くソナタ形式<br>ベートーヴェンには珍しく「憂鬱」と標題が付けられたアダージョを序奏においている。「極めてデリケートに」と記されたその部分は減七の和音が多用され、作曲者の内省的な側面を表しているとされる。けれどもその後現れるロンド主題は今までの気分を打ち消すかのように非常に明るい。しかし、またもやそれを遮るかのようにメランコリー主題の断片が挿入される。ロンド主題も断片的に間を縫って現れる形となるが、やがて息を吹き返したようにロンド部が再現され、そのままの勢いで終わる。<br><br><br><br><br>スメタナ四重奏団<br>1942年にプラハで結成、終戦の45年から公開の活動を開始。当初はチェコ・フィルハーモニーの傘下にあったが、49年独立。1988年に「さよなら公演」を行なって活動に終止符を打った。日本にもたびたび来て名演奏を聴かせた。45年間にわたって「弦の国」チェコを代表する、そして20世紀を代表する弦楽四重奏団として君臨した。常に暗譜で演奏するなど、高度で緻密な演奏は一分の隙も無い完璧なものだった。当初は後に名指揮者となるヴァーツラフ・ノイマンがヴィオラを担当していたが、1955年からはイルジー・ノヴァーク（第1ヴァイオリン）、ルボミール・コステツキー（第2ヴァイオリン）、ミラン・シュカンパ（ヴィオラ）、アントニーン・コホウト（チェロ）が不動のメンバーとして活躍した。<br><br>Jiri Novakイルジー・ノヴァーク第1ヴァイオリン<br>1924年ボヘミアの音楽一家に生まれる。父親の手ほどきを受け、5歳でプラハ音楽院の教授たちの前で演奏。その中にいたボヘミア四重奏団のリーダー、カレル・ホフマンから弟子になるよう申し出を受ける。後年チェコ九重奏団の創立者で主宰者のエミール・ライヒナーについて学ぶ。スラヴ的な音楽気質と古典的で高潔な様式感を兼備して、独り立ちできる芸術家となったイルジーは、やがて輝かしい独奏者として将来を約束される演奏家として注目されるようになる。したがって、47年、スメタナ四重奏団の第1ヴァイオリンの任に就くのを受諾した時は、多くの人に驚きを持って迎えられた。しかし、彼の加入があったからこそ、わずか数年で、スメタナ四重奏団は世界で最良の弦楽四重奏団の1つに数えられるに至った。67年には4人揃ってプラハ芸術アカデミーの教授に任命<br>Lubomir Kosteckyルボミール・コステツキー第2ヴァイオリン<br>1922年モラヴィア生まれ。46年プラハ音楽院卒。52年プラハ芸術アカデミーでチェコ・フィルと共演して卒業。コホウトとともに、スメタナ四重奏団の共同創立者。このアンサンブルの前身であるプラハ音楽院四重奏団の仲間でもあった。51年スメタナの活動に専念するまではチェコ・フィルのメンバー。67年にはプラハ芸術アカデミーの教授に任命<br>Milan Skampaミラン・シュカンパヴィオラ<br>1928年生まれ。もとはヴァイオリニスト。音楽院の初等教育を受けることなしに芸術アカデミーへの在籍を許可され、マスター・コースに学び、51年卒業。1年足らずの後カレル大で音楽学の博士号授与。プラハ放送局のソロ・ヴァイオリニスト。51年ベルリンで、55年ワルシャワでコンクール入賞。56年スメタナの招きを受けてヴィオラに転向。67年にはプラハ芸術アカデミーの教授に任命<br>Antonin Kohoutアントニーン・コホウトチェロ<br>1919年ボヘミアの音楽家の家系に生まれる。スメタナ四重奏団の創立者で、終始一貫してこの四重奏団のすべての活動を統率し、原動力となってきた。プラハ音楽院在学中にチェコ・フィルに入団。43年プラハ音楽院四重奏団結成。46年に新たに創設されたプラハ芸術アカデミーのマスター・クラスに再入学。45.11.6.プラハ音楽院四重奏団をスメタナ四重奏団と改称し、第1回の演奏会を開催。67年にはプラハ芸術アカデミーの教授に任命<br>
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<pubDate>Sun, 05 May 2013 10:15:24 +0900</pubDate>
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<title>Beethoven_String Quartets No.1-3_Smetana Quartet</title>
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<![CDATA[ Beethoven <br><br>String Quartets弦楽四重奏曲<br>No.1 in F major、Op.18 No.1<br>No.2 in G major、Op.18 No.2<br>No.3 in D major、Op.18 No.3<br><br>Smetana Quartet<br>Jiri Novakイルジー・ノヴァーク第1ヴァイオリン<br>Lubomir Kosteckyルボミール・コステツキー第2ヴァイオリン<br>Milan Skampaミラン・シュカンパヴィオラ<br>Antonin Kohoutアントニーン・コホウトチェロ<br><br>録音プラハ、スプラフォン・ジシコフ・スタジオ<br>1番1977.4.6., 7.12～14.<br>2番1976.6.3～5/11.<br>3番1978.5.22～25.<br><br><br>Wikipedia<br>ベートーヴェンの弦楽四重奏曲 [編集]<br>交響曲（全9曲）、弦楽四重奏曲（全16曲）、ピアノソナタ（全32曲）の分野において、ベートーヴェンの後世に与えた影響は非常に大きい。ベートーヴェンによってこの三つの分野は作曲家が創作活動の中心に据えるべき完成された形式として確立した。作曲家たちはベートーヴェンを意識する余り、交響曲においてはベートーヴェンの作曲した曲数により「9番」がジンクスになり、ドイツ音楽の後継者として目されることも多いブラームスに至っては筆が進まず、わずか交響曲4曲、弦楽四重奏曲3曲、ピアノソナタ3曲しか残すことができなかったほどである。<br>弦楽四重奏曲全16曲はピアノソナタと違いベートーヴェンの生涯にわたって広範に散らばっているわけではなく、初期、中期、後期それぞれにある程度集中されて作曲されている。しかし、それぞれの時期の特徴をよく示すものとして、ベートーヴェンの場合、どうしても弦楽四重奏曲は欠かすことはできない。ベートーヴェンはこの三つの曲種を、演奏会で大勢の聴衆を前に自己の芸術を披露することのできる交響曲、人間関係など人生の微妙な問題を語るには弦楽四重奏曲、自己の内心の心情を吐露するには最も身近な楽器であるピアノソナタと、それぞれの性格を活かして多くの作品を残したと言われる。<br>この初期6曲の弦楽四重奏曲ではまだベートーヴェンは「どのようにして弦楽四重奏を作曲するかの練習」を兼ねていたようだが、弦楽四重奏曲の歴史においてこの6曲は重要な作品とされ、また後に中期作品、後期作品でさらに高い芸術価値の作品が残されたことにより、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は室内楽曲の歴史において最も重要な作品の一つとされた。現代の弦楽四重奏団においても最も重要なレパートリーであり、全曲演奏で評価を得ることが一流の弦楽四重奏団であることの必須となっている。<br>ベートーヴェンの初期弦楽四重奏曲 [編集]<br>1792年、22歳のベートーヴェンは故郷のボンを離れ、ハイドンに作曲を習うため、音楽の中心地ウィーンへと引っ越す。ここで、音楽家たちのパトロンとして有名なフランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィツ伯の後見を得て、本格的な作曲を始めることになる。 初期弦楽四重奏曲6曲は、ロプコヴィツ伯の後見を得ていた頃に作曲されたものであり、献呈もロプコヴィツ伯に施されている。弦楽四重奏曲には1798年28歳の頃から取り組み、残されたスケッチによると、ベートーヴェンはこの弦楽四重奏という初めてのジャンルに2年もの間継続的に取り組み、1800年に6曲が完成してからも、1801年に出版にいたるまで念入りに校訂を行っていることがわかる。<br>ベートーヴェンの個性が強烈に表れた中期以降の曲風とは異なり、まだハイドンの確立した形式に忠実に従ったものになっている。しかし、この曲集が出版された1800年には最初の交響曲「第1番ハ長調op.21」も作曲されており、ベートーヴェンが本格的に音楽家としての個性を確立し始めた時期の作品として、重要な位置を占めているといえる。<br><br>前期（作品18）第1番 ヘ長調 - 第2番 ト長調『挨拶する』 - 第3番 ニ長調 - 第4番 ハ短調 - 第5番 イ長調 - 第6番 変ロ長調<br>中期作品59（ラズモフスキー四重奏曲）　第7番 ヘ長調 - 第8番 ホ短調 - 第9番 ハ長調<br>その他第10番 変ホ長調『ハープ』 - 第11番 ヘ短調『セリオーソ』<br>後期第12番 変ホ長調 - 第13番 変ロ長調 - 第14番 嬰ハ短調 - 第15番 イ短調 - 大フーガ 変ロ長調 - 第16番 ヘ長調<br><br><br><br>弦楽四重奏曲第1番 (ベートーヴェン)<br>弦楽四重奏曲第1番ヘ長調op.18-1は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによって1798年から1800年にかけて作曲され、1801年に出版された弦楽四重奏曲である。まとめて出版されたop.18全6曲の中の1曲目であり第1番とされている。ただしこれは必ずしも作曲順を意味せず、この第1番がベートーヴェンの作曲した最初の弦楽四重奏曲ではない。<br>•作曲：1798年 - 1800年<br>•出版：1801年<br>•献呈：フランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィツ伯（1772年 - 1816年） <br>音楽家の有名なパトロンで、ベートーヴェンが初期に多くの曲を献呈したほか、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが「ロプコヴィツ四重奏曲（弦楽四重奏曲第81番、第82番）」を献呈していることでも知られる。<br>•編成：ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1<br><br>第1番ヘ長調は、ベートーヴェンの作曲した最初の弦楽四重奏曲ではなく、第3番ニ長調が最初の作品だった。ベートーヴェンは出版の際、盟友のヴァイオリニスト、シュパンツィッヒの勧めによりこのヘ長調を第1番に持ってきたようである。第1番ヘ長調の第1稿が完成したのは少なくとも1799年6月25日より前で、さらに出版前に手を加えている。<br>2楽章を除き全体に明るい曲風を持ちながら、よく練られた書法により、緊縮し充実した曲に仕上げられている。<br>•第1楽章 Allegro con brio<br>•第2楽章 Adagio affettuoso ed appassionato <br>ベートーヴェンが、ロメオとジュリエットの中の墓場の場面を思い描いて作曲したという話が伝わっている。この時期のベートーヴェンにしては珍しいほど深刻さをもった楽章である。<br>•第3楽章 Scherzo: Allegro molto<br>•第4楽章 Finale: Allegro <br>演奏時間 30分ほど<br><br>弦楽四重奏曲第2番ト長調op.18-2は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによって1800年に作曲され、1801年に出版された弦楽四重奏曲である。まとめて出版されたop.18全6曲の中の2曲目であり第2番とされている。ただし完成自体は最初に完成した第3番ニ長調、第1番ヘ長調についで3曲目であることが知られている。<br>•作曲：1800年<br>•出版：1801年<br>•献呈：フランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィツ伯（1772年 - 1816年）<br>ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全般、及び初期弦楽四重奏曲（作品18の6曲）全般については、第1番の項を参照のこと。<br>特徴 [編集]<br>このト長調の弦楽四重奏曲は、「挨拶」というあだ名で呼ばれることがある（独：Komplimentierungsquartett）。これは、第1楽章の冒頭の第1主題が挨拶をするような感じであるからと言われている。作品18の6曲のうち最も優雅で、均整の取れた曲である。<br>•第1楽章 Allegro<br>•第2楽章 Adagio cantabile - Allegro<br>•第3楽章 Scherzo. Allegro<br>•第4楽章 Allegro molto quasi presto <br>演奏時間 約25分<br><br>弦楽四重奏曲第3番 (ベートーヴェン)<br>ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲の弦楽四重奏曲第3番ニ長調Op.18-3は1798年に書かれた。6曲セットでOp.18として出版されたが、この曲はその番号に関わらず、曲集では最初に作られ、のどかな曲想を持ち、ごく古典的である。<br>構成 [編集]<br>第1楽章 allegro ソナタ形式<br>7度上行で始まる第1主題が10小節という、変則的な形をとり、ニ長調でありながら第2主題がハ長調で開始されるという、作曲上の工夫が見られる。<br>第2楽章 Andante con moto 変ロ長調<br>第3楽章 Allegro<br>明記されていないが、スケルツォの形をとる。主部の前半8小節が嬰ヘ短調で終始するなど、和声的な工夫がある。中間部はミノーレ（ニ短調）となり、滑らかな動きによって、主部と対比される。<br>第4楽章 Presto ソナタ形式<br>語りかけるような第1主題と、ユーモアに満ちた第2主題からなる。<br><br><br><br><br><br><br>スメタナ四重奏団<br>1942年にプラハで結成、終戦の45年から公開の活動を開始。当初はチェコ・フィルハーモニーの傘下にあったが、49年独立。1988年に「さよなら公演」を行なって活動に終止符を打った。日本にもたびたび来て名演奏を聴かせた。45年間にわたって「弦の国」チェコを代表する、そして20世紀を代表する弦楽四重奏団として君臨した。常に暗譜で演奏するなど、高度で緻密な演奏は一分の隙も無い完璧なものだった。当初は後に名指揮者となるヴァーツラフ・ノイマンがヴィオラを担当していたが、1955年からはイルジー・ノヴァーク（第1ヴァイオリン）、ルボミール・コステツキー（第2ヴァイオリン）、ミラン・シュカンパ（ヴィオラ）、アントニーン・コホウト（チェロ）が不動のメンバーとして活躍した。<br><br>Jiri Novakイルジー・ノヴァーク第1ヴァイオリン<br>1924年ボヘミアの音楽一家に生まれる。父親の手ほどきを受け、5歳でプラハ音楽院の教授たちの前で演奏。その中にいたボヘミア四重奏団のリーダー、カレル・ホフマンから弟子になるよう申し出を受ける。後年チェコ九重奏団の創立者で主宰者のエミール・ライヒナーについて学ぶ。スラヴ的な音楽気質と古典的で高潔な様式感を兼備して、独り立ちできる芸術家となったイルジーは、やがて輝かしい独奏者として将来を約束される演奏家として注目されるようになる。したがって、47年、スメタナ四重奏団の第1ヴァイオリンの任に就くのを受諾した時は、多くの人に驚きを持って迎えられた。しかし、彼の加入があったからこそ、わずか数年で、スメタナ四重奏団は世界で最良の弦楽四重奏団の1つに数えられるに至った。67年には4人揃ってプラハ芸術アカデミーの教授に任命<br>Lubomir Kosteckyルボミール・コステツキー第2ヴァイオリン<br>1922年モラヴィア生まれ。46年プラハ音楽院卒。52年プラハ芸術アカデミーでチェコ・フィルと共演して卒業。コホウトとともに、スメタナ四重奏団の共同創立者。このアンサンブルの前身であるプラハ音楽院四重奏団の仲間でもあった。51年スメタナの活動に専念するまではチェコ・フィルのメンバー。67年にはプラハ芸術アカデミーの教授に任命<br>Milan Skampaミラン・シュカンパヴィオラ<br>1928年生まれ。もとはヴァイオリニスト。音楽院の初等教育を受けることなしに芸術アカデミーへの在籍を許可され、マスター・コースに学び、51年卒業。1年足らずの後カレル大で音楽学の博士号授与。プラハ放送局のソロ・ヴァイオリニスト。51年ベルリンで、55年ワルシャワでコンクール入賞。56年スメタナの招きを受けてヴィオラに転向。67年にはプラハ芸術アカデミーの教授に任命<br>Antonin Kohoutアントニーン・コホウトチェロ<br>1919年ボヘミアの音楽家の家系に生まれる。スメタナ四重奏団の創立者で、終始一貫してこの四重奏団のすべての活動を統率し、原動力となってきた。プラハ音楽院在学中にチェコ・フィルに入団。43年プラハ音楽院四重奏団結成。46年に新たに創設されたプラハ芸術アカデミーのマスター・クラスに再入学。45.11.6.プラハ音楽院四重奏団をスメタナ四重奏団と改称し、第1回の演奏会を開催。67年にはプラハ芸術アカデミーの教授に任命<br>
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<pubDate>Sun, 05 May 2013 10:14:14 +0900</pubDate>
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<title>Beethoven_Piano Sonatas No.1-32_Friedrich Gulda</title>
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<![CDATA[ Gulda spielt Beethoven Saemtliche Klaviersonaten<br><br>ピアノ・ソナタ全集<br><br>録音 : 1967年7～8月、ウィーン<br><br>本全集は、20歳代のモノラル録音に次ぐ2度目。<br>40歳前の若い時期に2度にわたって全集録音を果たしているグルダが、ベートーヴェンの音楽の誕生の背景となったウィーンを始めとして、現代の代表的なベートーヴェン弾きとして如何に重視されているかを証明するもの<br>「すべての音を、あたかもお前のレーベン(命)がかかっているかのように弾け!…・なぜならお前のレーベンは全くそこにかかっているのだからだ」と述べるグルダのこの全集はいわば彼の全存在がかかった、強靭なリアリティをもったベートーヴェン演奏である<br><br><br>Wikipedia<br>ベートーヴェンのピアノソナタ全曲リストは、別ファイル『Beethoven_Piano Sonatas_No.1～3,16～22,24 &amp; 29～32』参照<br><br>フリードリヒ・グルダ（Friedrich Gulda, 1930年5月16日 - 2000年1月27日）はオーストリアのピアニスト・作曲家。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの演奏を特に得意とした。ジャズ演奏でも知られる。20世紀を代表する巨匠ピアニストの一人である。1960年代はイェルク・デームス、パウル・バドゥラ＝スコダとともにウィーンの三羽ガラスと呼ばれた。最初の妻との子パウル、2人目の妻・祐子（ジャズピアニスト／日本人）との三男リコはともにピアニスト。日本に対しては妻が日本人だったこともあり、親近感を抱いていたことでも知られる。来日歴は1967年、1969年、1993年の3度。<br>略歴 [編集]<br>ウィーン生まれ。<br>1942年、ウィーン音楽院（現ウィーン国立音楽大学）に入学し、ブルーノ・ザイドルホーファーに師事<br>1946年、ジュネーブ国際音楽コンクールで一等賞を受賞<br>1947年、初のレコーディング。バッハ、ベートーヴェン、ショパン、プロコフィエフなどを録音。<br>1955年頃、マルタ・アルゲリッチを指導<br>1967年 - 1968年、2回目となるベートーヴェン『ピアノソナタ全集』録音<br>1970年頃、ジャズに傾倒する。<br>1980年、『チェロと吹奏楽のための協奏曲』を作曲。<br>1999年頃、シューベルト『4つの即興曲D935』を自宅スタジオで録音。これが最後の録音となる。<br>1999年3月頃、マスコミに自分が死去したという偽の情報を流し、マスコミが騒ぎ始めた数日後に生き返ったという設定で復活コンサートを開くという奇妙な行動を起こす。<br>2000年、死去<br>グルダの特徴 [編集]<br>フリードリヒ・グルダを論じるとき、様々な言い方がなされることがあるが、古きよき時代の伝統を受け継ぎつつも、新しい音楽の可能性を探る挑戦者だったということができる。1970年代にジャズの演奏に転向しようとした（周囲の反対でそれは出来ず、クラシックとジャズの演奏を両立させる道を選んだ）のも、既存の音楽がつまらないというわけではなく、自分の学んだ古き音楽と新しい音楽の融合を目指したのである。その証左として、彼のレパートリーは非常に広く、クラシック音楽にしてもバッハの平均律クラヴィーア曲集のような古いものから、ラヴェル、ドビュッシー、プロコフィエフまで多彩であったことが挙げられる。しかし、彼が最も得意としたのは、2度も『ピアノソナタ』全曲を録音しているベートーヴェンであった。<br>その他 [編集]<br>フリードリヒ・グルダは、しばしば作曲もしている（「ゴロウィンの森の物語」など）。こんな逸話がある。あるピアノコンサートで曲目が終わりアンコールの時になり、グルダが聴衆に向かって「何か聞きたい曲あるかい?」と聞いたすぐ後、客席から「アリア!」との声があり、すかさず「グルダのだね!」と言ってグルダの『アリア』をピアノで弾いたという。グルダが作曲や即興にも優れていたことを表す有名な逸話である。<br>著書 [編集]<br>Aus Gesprächen mit Kurt Hofmann (Mein ganzes Leben ist ein Skandal)<br>グルダの発言をオーストリア放送協会ザルツブルク地方局のディレクター、クルト・ホーフマンがまとめたもの。<br>日本語版は田辺秀樹訳『グルダの真実 - クルト・ホーフマンとの対話』（洋泉社）ISBN 4-89691-131-8。<br><br><br>
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<pubDate>Sun, 05 May 2013 09:39:00 +0900</pubDate>
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<title>Beethoven_若きベートーヴェン_Martin Stadtfeld, klavier</title>
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<![CDATA[ Beethoven<br><br>Allegretto in C-moll, Hess 69アレグレット　ハ短調　Hess.69<br>Rondo in C-dur, Op. 51 Nr.1ロンド　第1番　ハ長調　作品51－1<br>Prelude in F-moll, WoO.55前奏曲　ヘ短調　WoO.55<br>Allegro C-dur, WoO.51<br>アレグロ　ハ長調　WoO.51　(ピアノ・ソナタ　ハ長調　『やさしいソナタ』)<br>Adagio F-dur, WoO.51<br>アダージョ　ヘ長調　WoO.51　(ピアノ・ソナタ　ハ長調　『やさしいソナタ』)<br>Rondo alla Ingharese quasi un Capriccio G-dur, Op.129<br>ロンド・ア・カプリッチョ　ト長調　作品129　『失われた小銭への怒り』<br>Klavierkonzert Nr.2 B-dur, Op.19ピアノ協奏曲　第2番　変ロ長調　作品19<br>Staatskapelle Dresden<br>Sebastian Weigle Leitung<br>Adelaide, Op. 46アデライーデ　作品46<br>Marcus Ullmann, tenor<br><br>Martin Stadtfeld, klavier<br><br>録音 :<br>Soloferke und LiedAug. 15-17, 2009 at Konzerthaus, Dortmund<br>KlavierkonzertNov. 1-3, 2008 at Semperoper Dresden<br><br><br>Martin Stadtfeld<br>ベートーヴェンも最初は、憧れは夢や不安、希望や迷いや主張を抱き、両親や師や友人たちとの人間関係を持つ子供であり、男の子であり、青年であった。自身の人生界に問いかけ、素質と才能と能力のアイデンティティを模索する若い人間であった。最初のこの頃、彼自身の像は本人の目前には全くなかった<br>こう理解するとそこに、「ベートーヴェン」という現象に近づこうと試みる私を捉えて離さない興奮が顕著になってくる。そしてベートーヴェンへの道に向かう私が自問することになる<br>若きベートーヴェンの不安、迷い、葛藤に加えて確信、自意識といったものが彼の音楽に感じられ聴こえてくる。例えばボン時代にまで遡るピアノ協奏曲第2番(初稿は1790年前に既に存在していた)またはウィーン時代初期の名歌《アデライーデ》(1795/96年)。これらの音楽には模索し、まさぐり、まだ最終的に言い表せていない何かがあり、まだ「石に刻まれていない」音楽が漂いながら夢心地な精神より湧き出ている。加えていうと、聴覚障碍のことなど、当然予感もさせない音楽なのである。<br>1797年のオルフィカのための2つの作品(ピアノ・ソナタ　ハ長調「やさしいソナタ」)にも偉大な作品にみられる理路整然さや内面の力といったものではなく、夢心地の脆さがある。だからこそこの曲は、私にとってある観点において興味深く素晴らしいものなのである。これ等の曲には瞑想的な部分がある。分散和音の波状運動は、静かな時間の中でピアノに託された想いの流れであり、いうなれば即興である<br>この即興的要素は後に、1796/97年に作品51として発表されたロンド　ハ長調でも際立ってくる。自由で押し寄せるような流れが精神の動きを追い、流れの方向が動きから生まれ出る。<br>ラプソディ調で、その転換が同じく全く予想の付かない曲《ロンド　カプリッチョ　ト長調》(紛らわしい作品番号129が付けられている、1794/95年作)もまた、内面的な脆さの領域から、流れ出るパワーと熟練性に至るまで多彩な体験を一体化した若きベートーヴェンの素晴らしい作品である<br>前奏曲へ短調にも即興的な性質が見られる。ベートーヴェンは恐らく、ボンの宮廷の第2オルガニストであった15歳の時にこの曲を書いている。曲のオルガン的な性格が顕著に前面に出ている。生涯続けられたヨハン・セバスティアン・バッハの作品についての彼の考察を反映しながらも、この作品からは諺と化した彼の妥協のない意志が感じ取られる。自身の力とひたむきさを生涯深く夢見ていた存在と結びつけ、この結びつきにより世界中の人々を捉え、その心を動かす音楽を書く定めにある人物の意思が私には聞こえてくる<br>ベートーヴェンになる定めにある人物の音楽を私たちは聴いているのだ!<br><br><br>Wikipedia<br>ベートーヴェンについては、別ファイル『Beethoven_ Middle String Quartets』参照<br><br>ピアノ協奏曲第2番については、別ファイル『Beethoven_ Piano Concertos No.1,2』参照<br><br>シュターツカペレ・ドレスデンについては、別ファイル『Liszt_ A Faust <br>Symphony』参照<br><br>ベートーヴェン  :  やさしいソナタ　ハ長調（一部消失）<br>Beethoven, Ludwig van  :  Sonate für Klavier  WoO.51<br>作品概要<br>楽章・曲名演奏時間譜例 <br><br>1第1楽章  1.SatzNo DataNo Image<br>2第2楽章  2.SatzNo DataNo Image<br>作曲年：1794?-97?<br>出版年：1830<br>初出版社：Dunst<br>  IMSLPを参照する：http://imslp.org/wiki/Piano Sonata in C major, WoO 51 (Beethoven, Ludwig van)<br>解説未満の曲情報<br>キンスキー=ハルム目録ではボン時代の最後、1791年から92年の作品とされていたが、近年の研究では1794年以降であるという見解に修正されている。エレオノーレのために書かれたことは確実であり、後にエレオノーレと結婚したベートーヴェンの友人ヴェーゲラーの家に、1796年頃に書かれたと推定される不完全な自筆譜が伝えられている。第3楽章はおそらく失われたものと思われる。<br><br><br>ロンド・ア・カプリッチョ<br>Ａｌｌｅｇｒｏ　ｖｉｖａｃｅ、ト長調。４分の2拍子。<br>なんとも愉快なタイトルでしょ？<br> どういう場面で構想を思いついたんでしょうね・・・<br>おそらくはベートーヴェンがつけたタイトルではないと思うのですが・・・<br>なんかクラシックのタイトルって、かってに他の人がつけた名前って多いと思いませんか？<br> 弾く人によってずいぶんとテンポの違うと感じる曲でもあります。 <br>たとえば、エフゲニーキーシンさんがひくこの曲、猛烈に速く弾いています。<br> 普通はここまで速く弾く曲ではないんですが(^_^;)　ほとんどプレストです。<br> いまベートーヴェン書籍は一応「ソナタ３２曲」をまとめたいのでベートーヴェンのほかのピアノ曲はこちらに書く予定です <br>聞いてみると、これがベートーヴェンらしからぬ楽しいフレーズで思わずくちずさんでしまうほどの生き生きとした楽しい曲です。でも演奏のほうはというと比較的長く、規模も比較的大規模なロンド。 <br>特に転調している繰り返しのある部分などをみてもわかるように、ベートーヴェンを思わせないようなかなり技巧的な派手な部分もあり、全体的に技術的に書かれているので一般ウケしやすい曲です。 <br>ベートーヴェンのロンドの中でも難しい曲になっています。大胆さと瞬発性、突発性がものを言う曲で、歯切れよく元気がほしい曲。<br>こういう曲は思い切りが大事です。ダラッとひくとしまりがなくなるので歯切れのよさが必要です。このロンドは激しさも含まれているので途中でだれないように。<br>途中で疲れるととても全部通しては弾けなくなってしまいます。<br>こういうのは無駄な腕の力が入っていることが多いので・・・・<br> べートーヴェンのスタッカートは強さも意味するので、そういうのを意識しつつ弾くといいと思います。<br>和音で書かれているスタッカートはかなり強く弾く必要があると思います。<br>最後の和音とかもベートーヴェンらしさも感じさせる、ぶあつい大きな音のする力強い和音です。<br>激しいパッセージはいきなり早く弾かず「ひきたいのを我慢して」ひとまず片手ずつ指使いどおりにゆっくり練習すること。 <br>テンポは無茶苦茶に早く弾くする必要はありませんが、それなりに早く弾く必要はある曲なのである程度の覚悟は必要です。仕上げの段階ではアレグロモルトくらいに思ってたほうががいいかも。 <br>暗譜にもっていってからが本当の曲の仕上げの勝負です。<br>暗譜ができてゴールではないですので・・・<br> <br><br><br><br>マルティン・シュタットフェルト<br>1980年、ドイツのコブレンツ生まれ。6歳でピアノを始め、9歳で初のリサイタルを開く。14歳でフランクフルトの音楽アカデミーに入学し、レフ・ナトチェニーに師事。2001年のブゾーニ国際ピアノ・コンクール入賞を経て、2002年のライプツィヒでのバッハ国際音楽コンクールでは歴代最年少、しかも初めてドイツ人として優勝し、話題となる。14年間も1位の受賞者がなかったということで、同コンクールでの優勝がアンスバッハやシュトゥットガルトといった著名なバッハ・フェスティバルへの招待に繋がり、型にはまらないその奏法で大成功を収める<br>2004年、ソニー・クラシカル・ドイツからバッハの「ゴルトベルク変奏曲」でCDデビューした。ソニー・クラシカルの録音で過去に4回ドイツ・エコー・クラシック賞に輝く<br><br><br>マルクス・ウルマン<br>テノール・リリコ。ドレスデン聖十字架合唱団で最初の音楽教育を受け、ドレスデン大学で学び、その後ベルリンではディートリヒ・フィッシャー＝ディスカウに、カールスルーエではマルガ・シムルに師事。オペラ、オラトリオ、リート歌手として活躍<br><br><br>セバスティアン・ヴァイグレ（Sebastian Weigle, 1961年 - ）は、ドイツの指揮者。ベルリン生まれ。<br>ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学でホルン、ピアノ、及び指揮を学んだ。ベルリン州立歌劇場管弦楽団で15年間首席ホルン奏者を務めた。<br>1997年に、ベルリン州立歌劇場管弦楽団、第一カペルマイスターとなり、ドレスデン、フランクフルト、ウィーン、ニューヨーク・メトロポリタン、ほか多数の歌劇場で客演。<br>2003年、フランクフルト歌劇場とのリヒャルト・シュトラウス『影の無い女』で年間最優秀指揮者（Opernwelt紙）に選ばれる。2004年よりスペイン・バルセロナのリセウ大劇場、音楽総監督。意欲的な公演の数々で同劇場に世界的注目を集める。2008年よりフランクフルト歌劇場音楽総監督。<br>2007年、バイロイト音楽祭でリヒャルト・ヴァーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を指揮。2013年の東京・春・音楽祭ではNHK交響楽団を指揮して同楽劇を演奏会形式にて上演予定である。<br>なお、同じく指揮者で1953年生まれのイェルク＝ペーター・ヴァイグレ(de:Jörg-Peter Weigle)の甥であり、ビオラのフリーデマン・ヴァイグレ（Friedemann Weigle）とは兄弟。<br><br><br><br><br>
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<pubDate>Sun, 05 May 2013 09:28:58 +0900</pubDate>
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<title>Beethoven_String Quartet No.1-5_The Miro Quartet</title>
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<![CDATA[ Beethoven<br><br>String Quartet in F major Op.18-1第1番　ヘ長調<br>String Quartet in G major Op.18-2第2番　ト長調<br>String Quartet in D major Op.18-3第3番　ニ長調<br>String Quartet in C minor Op.18-4第4番　ハ短調<br>String Quartet in A major Op.18-5第5番　イ長調<br>String Quartet in B-flat major Op.18-6第6番　変ロ長調<br><br>The Miro Quartet<br><br>録音 : 2004年10月7日～22日　ニューヨーク<br><br><br><br><br>Wikipedia<br>ベートーヴェンについては、別ファイル『Beethoven_ Middle String Quartets』参照<br><br>弦楽四重奏曲第1～6番については、別ファイル『Beethoven_String Quartets No.1～10』参照<br><br>ミロ・クァルテット<br>Daniel Ching (violin)<br>Sandy Satoko Yamamoto (violin)<br>John Largessi (vioIa)<br>Joshua Gindele (cello)<br>ミロ・クァルテットは、現在、アメリカで一番練れていてエキサイティングな若手クァルテットのひとつ。１９９５年秋に設立し、翌年４月には第５０回コールマン室内楽コンクールで第１位、続くフィショフ全国室内楽コンクールでも第１位と大賞を受賞している。１９９８年バンフ国際弦楽四重奏コンクール(世界の5指に入る難関クワルテットのコンクール)で第１位、あわせてカナダ人作曲家チャン・カ・ニン作曲の特別委嘱作品演奏賞受賞、その後２０００年ウォルター・Ｗ・ナウンバーグ財団室内楽賞を受賞し一躍世界的に認められた。<br>　２００４－０５シーズンにはモントリオール、シカゴ、サンディエゴ、バークレー、ワシントンほか各地でコンサートが行なわれ、また２００５年２月にはテキサスのラウンド・トップ音楽祭で世界的ギタリスト、エリオット・フィスクとの共演が予定されている。<br>　昨年ミロ・クァルテットはテキサス大学オースチン校のファカルティ・クァルテットに就任した。彼らの演奏はヨーロッパ、北米で好評を得ており、昨シーズンはアムステルダムのコンセルトヘボウ、ベルリン・フィルハーモニー、ウィーンのコンツェルトハウス、ドレスデン音楽祭に出演、またこれまでにもボストンやニューヨーク、ワシントン、ドイツの主要な都市で著名なホールに出演している。２００１年にはリンカーンセンター・トゥーのレジデント・クァルテットを務め、また権威あるカーネギーホールの２００１－０２シーズンのデビューシリーズにも出演した。彼らの東京デビューとなった２００１年１２月のコンサートは９月１１日ニューヨークの被災者家族を支えるベネフィット・コンサートとして開催された。<br>　ラジオでは全米放送のパフォーマンス・トゥデイやミネソタのセントポール・サンデーやワシントン、シカゴのほか、ヨーロッパ、イスラエル、カナダのラジオ番組でも放送され、テレビではＮＢＣのトゥデイ・ショウ、ＡＢＣのワールドニュース・トゥナイトほかカナダ国内の番組にも数多く出演している。またアイザック・スターンの招きにより、エルサレム・ミュージック・センターでのライブ放送に出演、その模様はスターンのドキュメンタリーでも放映された。<br>　彼らは若い演奏家の教育にも力を入れており、ケント州立大学では教職兼任のレジデント・クァルテットとして室内楽などの指導にあたっていた。ケントの夏音楽祭ではレジデント・クァルテットとしても活躍している。その他にも３年目を迎えたレイク・タホ音楽祭でアーティスト・イン・レジデンスも務めている。またスイスとドイツで行われたリーディング・マスタークラスでヘンリー・メイヤーとアイザック・スターンの急な代役を務めたこともある。<br>　ミロ・クァルテットは若い聴衆の教育にも積極的でスケジュールに教育普及活動を取り入れており、ロードアイランドではクラシック音楽を通して若者やファミリーに都心での豊かな生活を提案する活動にも参加している。<br>　彼らは現代曲や民族音楽にも注目しており、レナード・バラダ、リー・ホイビー、ブレント・マイケル・デビッズ、デビッド・ショーバー、ジョナサン・ドウの最近の委嘱作品が実現している。<br>　これまでにＣＤはブリッジ・レコードからルード・ランガードとジョージ・クラムの作品を収録した２枚がリリースされており、特にクラムのブラック・エンジェルスが収録された２枚目のＣＤは世界的にも高い評価を得ている。２００４年３月にリリースされた最新のＣＤ「エピローグ」にはメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲作品８０と世界的チェリスト、マット・ハイモヴィッツとの共演によるシューベルトの弦楽五重奏曲が収録されている。<br>　ミロ・ストリング・クァルテットはスペインの画家、ホアン・ミロにちなんで名付けられた。記憶と想像力に富んだ幻想から引き出される主題によるシュールレアリスティックなミロの作品は２０世紀を代表する独創的な作風のひとつとして知られている。 　<br>【ミロ・クァルテット　ホームページ　http://www.miroquartet.com】<br>
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<link>https://ameblo.jp/mikes1660120/entry-12944111158.html</link>
<pubDate>Sat, 04 May 2013 22:32:52 +0900</pubDate>
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<title>Best Beethoven　2007</title>
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<![CDATA[ Best Beethoven　2007<br><br>Disc 1　シンフォニー<br>交響曲　第1番　ハ長調　作品21　第4楽章<br>交響曲　第2番　ニ長調　作品36　第3楽章<br>交響曲　第3番　変ホ長調　《英雄》　作品55　第1楽章、第3楽章<br>交響曲　第4番　変ロ長調　作品60　第3楽章<br>交響曲　第5番　ハ短調　《運命》　作品67　第1楽章<br>交響曲　第6番　ヘ長調　《田園》　作品68　第5楽章<br>エグモント序曲　作品84<br>交響曲　第7番　イ長調　作品92　第1楽章、第2楽章、第4楽章<br>交響曲　第8番　ヘ長調　作品93　第2楽章、第4楽章<br>アテネの廃墟　作品113よりトルコ行進曲<br>交響曲　第9番　ニ短調　《合唱》　作品125　第4楽章<br><br>Disc 2　コンチェルト<br>ヴァイオリン協奏曲　ニ長調　作品61　第1～第3楽章<br>ピアノ協奏曲　第1番　ハ長調　作品15　第1楽章、第2楽章<br>ピアノ協奏曲　第2番　変ロ長調　作品19　第3楽章<br>ロマンス　第1番　ト長調　作品40(冒頭)<br>ピアノ協奏曲　第3番　ハ短調　作品37　第1楽章<br>ロマンス　第2番　ヘ長調　作品50(冒頭)<br>ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲　ハ長調　作品56　第2楽章<br>ピアノ協奏曲　第4番　ト長調　作品58　第2楽章、第3楽章<br>ピアノ協奏曲　第5番　変ホ長調　《皇帝》　作品73　第1～第3楽章<br>ピアノ・合掌・管弦楽のための幻想曲　ハ短調　作品80　終結部<br><br>Disc 3　ザ・ピアノ<br>ピアノ・ソナタ　第8番　ハ短調　《悲愴》　作品13　第1～第3楽章<br>ピアノ・ソナタ　第14番　嬰ハ短調　《月光》　作品27-2　第1楽章<br>エリーゼのために<br>ピアノ・ソナタ　第15番　ニ長調　《田園》　作品28　第4楽章<br>ピアノ・ソナタ　第17番　ニ短調　《テンペスト》　作品31-2　第3楽章<br>メヌエット　ト長調<br>ピアノ・ソナタ　第21番　ハ長調　《ワルトシュタイン》　作品53　第1楽章<br>《アテネの廃墟》からのトルコ行進曲による8つの変奏曲　作品76<br>ピアノ・ソナタ　第23番　ヘ短調　《熱情》　作品57　第1楽章<br>ピアノ・ソナタ　第26番　変ホ長調　《告別》　作品81a　第1楽章<br>ディアベリ変奏曲　作品120　主題、第1変奏<br>ピアノ・ソナタ　第29番　変ロ長調　《ハンマークラヴィーア》　作品106　第2楽章<br>バガテル　ト長調　作品126-5<br>ロンド・ア・カプリッチョ　ト長調　作品129<br><br>Disc 4　ソナタ<br>ヴァイオリン・ソナタ　第5番　ヘ長調　《春》　作品24　第1～第4楽章<br>チェロ・ソナタ　第2番　ト短調　作品5-2　第1楽章<br>ヴァイオリン・ソナタ　第2番　イ長調　作品12-2　第1楽章<br>ヴァイオリン・ソナタ　第3番　変ホ長調　作品12-3　第2楽章<br>ヴァイオリン・ソナタ　第4番　イ短調　作品23　第3楽章<br>フルート・ソナタ　第2楽章<br>ヴァイオリン・ソナタ　第8番　ト長調　作品30-3　第3楽章<br>ヴァイオリン・ソナタ　第9番　イ長調　《クロイツェル》　作品47　第2～第3楽章<br>魔笛の主題による12の変奏曲より《恋人か女房か》　作品66<br>チェロ・ソナタ　第3番　イ長調　作品69　第1楽章<br>10の民謡主題と変奏曲より《僕はチロルの男の子》　作品107<br>チェロ・ソナタ　第5番　ニ長調　作品102-2　第3楽章<br><br>Disc 5　室内楽曲<br>ピアノとオーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットのための五重奏曲　変ホ長調　<br>作品16　第3楽章<br>弦楽四重奏曲　第1番　ヘ長調　作品18-1　第2楽章<br>弦楽四重奏曲　第4番　ハ短調　作品18-4　第3楽章<br>クラリネット三重奏曲　変ロ長調　作品11　第2楽章<br>クラリネットとファゴットのための二重奏曲　ハ長調　WoO25　第1楽章<br>ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、クラリネット、ホルンとファゴットのための七重奏曲　変ホ長調　作品20　第3楽章<br>フルート、ヴァイオリンとヴィオラのための三重奏曲　ニ長調　作品25　第1～3楽章<br>弦楽四重奏曲　第7番　ヘ長調　《ラズモフスキー》　作品59-1　第1楽章<br>2つのクラリネット、2つのファゴットと2つのホルンのための行進曲　変ロ長調　<br>WoO29<br>ピアノ三重奏曲　第5番　ニ長調　《幽霊》　作品70-1　第2楽章<br>弦楽四重奏曲　第10番　変ホ長調　《ハープ》　作品74　第1楽章<br>3つのヴァイオリン、2つのホルンとチェロのための六重奏曲　変ホ長調　作品81b　<br>第3楽章<br>ピアノ三重奏曲　第7番　変ロ長調　《大公》　作品97　第1楽章<br>2つのオーボエ、2つのクラリネット、2つのホルンと2つのファゴットのための八重奏曲　変ホ長調　作品103　第4楽章<br><br>Disc 6　ザ・ヴォイス<br>優しき愛(君を愛す)<br>寂しさの喜び<br>口づけ　作品128<br>蚤の歌　作品75-3<br>ああ、あの素敵なベニヒワだったなら　WoO154<br>彼は別れぎわに約束した　WoO154 No.12<br>アデライーデ<br>モルモット<br>自然における神の栄光<br>ミサ曲　ハ長調　作品86　《キリエ》<br>荘厳ミサ曲　作品123<br>グローリア　いと高き天においては神の栄光～グラティアス<br>クレド3日目によみがえり～クレド・イン・スピリトゥム・サンクトゥム<br>歌劇《フィデリオ》より<br>序曲<br>私があなたと一緒になれたら<br>不思議でならないわ<br>ハハハ、今がチャンスだ<br>悪者よ、どこにいそぐのだ!　～希望よ来たれ<br>おお、何とうれしいことだ<br>おお、言いようのない喜びだわ<br>立派な妻を得たものは<br>
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<pubDate>Fri, 03 May 2013 23:02:59 +0900</pubDate>
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