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<title>まことのこゑをとりもどせ　おとぎばなしのおわりには</title>
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<description>なんやかんやあった私の人生…言うに言えない　いろいろは一度　表現して終わらせないと　次には進めないのです。何より　これを書いた動機は　この世界に散らばり　今も苦闘している　またはもう最高に樂しんでいる私の魂の家族たちへエールを送り　称え合いたいから‼️</description>
<language>ja</language>
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<title>星へ還る道</title>
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<![CDATA[ <p>2010年のある日　文通友達から突然五千円が送られてきた。それである本を買うようにとの指示だった！それはマヤ暦のオラクルカードで副題に「星へ還る道」とあった。わたしは本屋でその本を注文した。</p><p><br></p><p>わたし達は宇宙の呼びかけに応じて今回地球に集結したボランティア仲間であり　やることをやったらそれぞれ自分自身の星へ還るその途中でもあり　星へ還る道を日々辿っている。</p><p><br></p><p>その内容がわたしにはとてもしっくり来た。毎日そのオラクルカードを引くことがルーティーンになった。</p><p><br></p><p>星へ還る道というからにはある時点を境にこの人生にも折り返し点があるはずだ。　その折り返し点がいつだったかはっきりしないがわたしはこの人生のスタート地点までもう既に戻ってきてしまったと感じている。</p><p><br></p><p>ここしばらくすっかり蛹か胎児のような感覚で自分の輪郭さえ分からなくなっている。家とこの肉体以外持っていない。人間関係も所属するグループも家族親戚…ほぼ無くなった。食べる物も何を食べたらよいのか何が食べたいのかも皆目わからなくなった。固定概念は悉く崩壊した。2014年以降のことを書こうとしてもうまく纏まらず　書きたい衝動も失ってしまった。</p><p><br></p><p>2年前にアガスティアの葉に再び縁することになってインドに2回行き祈りその後カルマ解消しまくったら　30年前に開いた時の前世のインド人女性の残した思いが消滅したのか…人々が集えて癒される場所を作らなければ！　誰かの為に何かしなければ！…という感覚が消えた。好きで五回行ったインドに全く興味が無くなった。今は寧ろ嫌いなくらいだ。そして2027年からインドに住むと書いてあった予言も今は全く信じてもいないしワクワクもしない。</p><p><br></p><p>ツインレイに長年出逢いたかったが葉の予言で来年ソウルメイトに出会うというのももうどうでもいいかと思うようになった。素晴らしすぎて信じられなかった予言の数々にももう心を動かされることもない。自ら予言に寄せていくようなこともしない。本当にそれが真実ならどこでどうしていようがそのようになるだろう。5000年前の聖者とその生まれ変わりの言うことだとしても…今は自分の感覚にはしっくり来なくなった。</p><p><br></p><p>2015年に小さな家を建てた。誰も訪ねても来れない小さな家だ。ずっとわが家には誰かが来ていて駆け込み寺のようで夜中に人の話し声や泣き声で目が覚めるなんてことは一度や二度ではなかった。母には申し訳なかったがわたしはいつもいつも「誰も来るな光線」を発していた。わたしの求めていたのは賑やかさや家の経済的安定より静けさと母との時間だった。</p><p><br></p><p>81歳で長女を失い仕事をやめた母とわたし、　もう誰も訪ねて来ない小さな家で　母の星へ還る道の伴走をした氣がする。</p><p><br></p><p>目の手術をしたり　腰痛治療に行ったり　文字が書きづらくなってきたとかよく転ぶようになったとか歯が抜けたとか　赤ちゃんが子どもになる過程のその逆のことが七年かけて日々母に起きていると感じていた。</p><p><br></p><p>痩せて小さく薄くなっていく。小学生ほどの細い太腿、顔も可愛らしくなってきて　厳しさは微塵も無くなった。勝手に飛び込んでくるような大きくて通る響きのある声はくぐもって響いてこなくなった。頭はしっかりしていたが次第に外出したがらなくなった。この小さな家でわたしは母を独占した。母は自分のことは自分で出来たからわたしがしばらく旅に出ても大丈夫だった。留守番して待ってくれている家族がいるのは本当に心強いものだった。</p><p><br></p><p>コロナの時期がやって来た。そう変わらない生活が続いたが　2022年になって二人とも寝込んだ。同じ症状だった。とにかく身体が重くて息苦しい。全身が痛い。コロナではないと思った。具合が悪くても決してそう言わない母が調子が良くないと苦しそうな声で言った。食欲もなくなった。わたしは毎日寝たまま小さなスマホの画面で「日本昔ばなし」を見続け涙を流した。母はただ静かに寝ていた。風呂にも当然入れない。このまま二人とも息絶えて白◯◯体で発見されるのか!?なんて思った。病院に行こうとか救急車を呼ぼうなんて思いもしなかった。そうすればコロナ死の数値＋2として片付けられるだけだと思っていた。決して病院に近づいてはいけないと。</p><p><br></p><p>３週間たった朝、母は一口山葡萄ジュースを口にした。長い細いグラスだったせいで倒れてこぼしてしまった。そんなものに入れたわたしが悪いのだが…そんなことさえきっと必然で最適なことだったんだろう。</p><p><br></p><p>夕方母はトイレに立った。用を済ませ戻ろうとして転んでしまった。起きられない。さすがにこれはいけないと思って本人に救急車を呼ぶか聞いてみた。母は力なく首を横に振り　呼ばなくていいと言った。</p><p><br></p><p>まだ母が若い頃　わたしはお母さんの最期は恐ろしくて看取れないから一人で何とかしてと言ったことがある。わかった、大丈夫、そうすると母はあっけらかんとして答えた。それから先に逝ったらあちらから通信してきて向こうの様子を知らせて！よっしゃ、わかった！と本氣で話した。</p><p>いよいよというギリギリの時まで救急車は呼ばないという約束もお互いにしていた。</p><p><br></p><p>さすがにいけない状況だと思い　往診してくれる医者を遅ればせながら探したがその日はもう無理らしく　こうなったら明朝タクシーで医者に行こうと決めた。</p><p><br></p><p>遅すぎる決断だがわたし自身も具合が悪く何もできなかった。　今思えば　元氣だったらあれこれ心配しすぎたり世話を焼いたり余計なことをして　母の星への帰還スケジュールを乱してしまったかもしれない。</p><p><br></p><p>わたしは必死になって紙パンツを買いに走った。これから使うかもしれないと思ったから。大袋を買ってひとつ履かせた。</p><p><br></p><p>痛みは無さそうだが　息遣いの荒い母にわたしが「いったい何してるんだろうね？わたし達神様なのにね…」と笑いながら言った時　母は満面の笑みを浮かべた。今だかつて見たこともないほどの渾身の笑み。人生最高の最期の笑顔。✨✨午後９時だったらしい。後でわかったことだがそれが母の最期の瞬間だった。あまりにも静かで幸せな時間だったのでわたしは氣づかないまま　その後１時間以上話しかけたり毛布をかけたりしていた。</p><p><br></p><p>母の目尻から少し涙が流れ　静かすぎるのにも氣づいて救急車を呼んだ時はもう深夜だった。5、6人来られたが死亡確定ということで帰っていかれ　続いて6、7人程の警察の方々が来られた。</p><p><br></p><p>即刻わたしは犯人という扱いらしかった。ほとんど取り調べだ。故人そっちのけで所持金はいくらあるかとか…　そんな話ばかりだった。全く個人的な感情や感傷なんて考慮されない。何だか悲しかった。</p><p><br></p><p>翌日死因特定のため検死に回されたが　悪い所は無く死因は不明、　もちろんコロナでもなかった。コロナ死にされなかったのはせめての救いだった。</p><p><br></p><p>時節柄お葬式はなし。お坊さんも呼ばない。（本人はそういう抹香臭いのが一番嫌いだった！）葬儀社の安置所でも火葬場の待合場でも　お經の代わりに母の好きな歌をたくさん歌って一人で母を送った。</p><p><br></p><p>母がお骨になったその日はわたしの60数回目の誕生日だった。人生で一番体験したくなかったことが誕生日プレゼントだったのだ。お母さん、最期にこんな誕生日プレゼントってある？と思ったがそれは究極の贈り物でもあった。この人生で一番恐れていたことが済んだらもう恐ろしいことは永遠に無くなるんだから。</p><p><br></p><p>家族の誰かの命の瀬戸際の時　いつもわたしも死にそうになる。</p><p>母の時は特に共に苦しんで伴走して三途の川の所まで送り届けて　そこでお別れして母は渡り　わたしは引き返したという実感がある。</p><p><br></p><p>共感力が高く　生きる力が弱くていつも生死の境目にいるようなわたしはそうなりがちでそういう役割で生まれてきたと思っていた。</p><p><br></p><p>奇しくも昔行動を共にした僧侶が言ったものだ。元氣な時は一緒にいなくてもいいけど自分が死ぬ時だけは絶対にそばにいて欲しいと…。</p><p>全然嬉しくないお言葉…。笑</p><p><br></p><p>まあ　そんな役割ももう返上しよう！</p><p><br></p><p>9月に骨折してブログを始めて9ヶ月…わたしは生まれる時だって９ヶ月で大急ぎで生まれてきたからそれも符合しているようだ。本当に原点に戻れたようだ。骨折の痛みもやっとこの頃薄れてきた。</p><p><br></p><p>わたしは生きながらにまだ体験していない次の生を始めるのだから!!</p><p><br></p><p>あぁ　やはり　歌は歌いたい!!そこだけは譲れない。十分歌ってこの世界の『普通』のことを樂しみ尽くしたら今度こそ本当に本当に星に還れる!!!!!!!!!!</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>今まで読んでくださってありがとうございました!!</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/mitsuki-saraha/entry-12967733396.html</link>
<pubDate>Sat, 30 May 2026 08:29:41 +0900</pubDate>
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<title>遂に沖縄　嵐の日々</title>
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<![CDATA[ <p></p><p>2011年 夏</p><p>高校の修学旅行が福島だったこともあり…彼の地に対してよい印象があり…東北に行きたかった。</p><p>でもまだ心情的に恐怖心があって行けずにいた。</p><p><br></p><p>その頃は仙道修行したり棒術を習ったり　悟りのエネルギー（ワンネス・ブレッシング）のディクシャギバーになったりアロマセラピーの資格を取ったりと…その手のことに明け暮れていた。</p><p>それらをやってどうというのでもなく…自分の欠けたピースを拾い集めていたのかもしれない。</p><p><br></p><p>相変わらず聖地巡りも続けていた。ボランティアでクリスタルボウルを奏でボイスヒーリングをさせていただくこともあった。わたしがアホみたいに大声を出すからなのか歌うことができなかった人が歌好きに変身する現象が起きて嬉しかった。</p><p><br></p><p>2012年初夏。</p><p>食べることができなくなった。少しでも何か口にすると左みぞおちに激痛が起き苦しむことになる。それが一ヶ月以上続き　人相も変わるほどガリガリに痩せてしまった。</p><p><br></p><p>折しも2012年12月はマヤ暦が終わるとかアセンションが起きるとかスピ界隈では盛んに言われていた時だ。</p><p>わたし自身ももう終わるんだなと覚悟した。それならば思い残すことなくやりたいことをやってしまおうとクリスタルボウルひとつ持って　仙台で開催される祈りの会に向かった。</p><p><br></p><p>大きなイベントで宿泊者が多かったのか宿もなく最終手段でカラオケ🎤で一晩歌って過ごした。今のわたしなら歌はそこそこにして仮眠でも取るのだが…。その頃はもう何が何でも歌いたかった。祈りのイベントは盛況で　やっと東北に行けたことが嬉しかった。</p><p><br></p><p>その先はもう何の当ても無かった。品川を経て出雲大社に向かうことにした。うっかりしてクリスタルボウルを電車に忘れたが発車ギリギリ氣づいて手元に戻ってきた。</p><p>危ないところだった。</p><p><br></p><p>出雲は長年行きたい場所だった。こんな命のギリギリの時まで先延ばしして今日まで来られなかったと思った。</p><p><br></p><p>参拝を終え　何の氣なしに境内の平たい岩の上にクリスタルボウルのケースを置いた。倒れるはずもないのに…ハラリと倒れて…地面に転げ落ちた。!!!!!!　恐る恐るケースを開けてみると見事に五つに割れていた。世界一周の相棒で地球みたいなボウルが綺麗に五分割されているのだった。</p><p><br></p><p>それを見て　幣立神宮の伝承を思い出した。太古の昔　地球上の5つの人種（赤=アメリカ先住民系、青=今は地上に居ない太古の人種、黄=アジア系、白=欧米系、黒=アフリカ系）の代表が幣立神宮に集まり　世界平和と人類の調和を祈ったという話だ。</p><p><br></p><p>幣立神宮に行ってみようか…。</p><p>ディクシャの先生が長年幣立神宮が担ってきた働きが祇園神社と秋元神社に移ったとこっそり教えてくれたのを思い出した。その真偽の程は不明だがまだ命があるなら…この三つの神社を参拝し　それから船で沖縄目指して行ける所まで行ってみようと思った。</p><p><br></p><p>沖縄は何度も行く機会があったがいつも断ってきた。子どもの時に読んだひめゆりの塔の漫画がトラウマになっていた。</p><p>ただ久高島には数年前から行きたかった。そして沖縄には知り合いが三人居た。　最期にあの優しい人たちに会いたいと思った。</p><p><br></p><p>電車に乗って山口県長門市駅に着く手前だったか電車が鹿を轢いてしまった。処理のためしばらく停車しますと車内放送が流れた。</p><p>その日クリスタルボウルがまず死んだ。そして今度は鹿か。</p><p>わたしこそが死ぬはずだったのに…。</p><p>ボウルも鹿もわたしの代わりに死んでしまった氣がして胸が痛んだ。</p><p>なんと言っても鹿は神の御使いでもあり…。</p><p><span>そのことを「しかと受け止めよ！」と心に刻んだ。</span></p><p></p><p><br></p><p>折しも台風が来ていた。</p><p>乗ろうと思った電車は運休となり三つの神社には行けず　別路線で鹿児島駅までたどり着いた。</p><p>港までタクシー移動して船で沖縄に向かうことになった。</p><p><br></p><p>出港の時桜島に虹がかかっていた。桜島の虹は2回目だ。祝福されている氣がした。実はニュージーランドやハワイ同様　桜島も虹がよく出るのだそうだが　当時そのことを知らず単純に運がよいと思えたのはよかった。</p><p>25時間かかって那覇に着いた。</p><p><br></p><p>友人に会って…それからのことは何も考えていなかった。</p><p>その年は8/30〜9/1が沖縄のお盆で着いたのはその前日だったはずだ。食べられずフラフラだったのに久高島で一泊し斎場御嶽や名護市のパイナップル農園や美ら海水族館など定番の観光もした。幸いなことにパイナップルを食べても腹痛にならなかった。</p><p><br></p><p>お盆が明けてほぼ毎日のように一緒に食事をしてくれる友人達のおかげでわたしは徐々に食べられるようになって激痩せも回復していった。</p><p><br></p><p>沖縄は想像以上に雨がよく降ったが</p><p>わたしが行った頃はなぜか毎週末土日ごとに台風が来ていた。観光関係にも打撃があったことだろう。</p><p><br></p><p>結果的に半年沖縄に住むことになったがチラシ配りを手伝ったので毎日那覇の町を歩き回り　自転車に乗って近隣の市にも行き　ひめゆりの塔も訪れた。平和の礎（いしじ）には友人達と行った。恐れていた場所は行ってみると明るい光が差し　爽やかな風が吹く場所だった。そこでみんなして歌い舞った。</p><p><br></p><p>月契約した部屋でアロマセラピー施術の仕事をしてもよいと言ってもらえたが…結局やらなかった。</p><p><br></p><p>友人は公園や老人施設で体操を教え　わたしは音叉を鳴らし歌を歌った。こんな事は地元ではなかなかできないことだったので今となってはよい思い出だ。</p><p><br></p><p>東北に行くと言って家を出たがその後連絡しておらず母は捜索願いを出していたそうだ。</p><p>かなり経ってから手紙を出した。電話もした。歯医者の予約を取ってという自分勝手なお願いの電話だった。その電話に出るために母は転んで左二の腕を骨折していた。一時帰宅してそのことを知って驚いた。母は骨折の激痛の中　何事も無かったようにわたしの電話に応対し依頼を聞いてくれたがその晩は激痛で一睡もできなかったそうだ。</p><p><br></p><p>母が骨折した頃　家中の電化製品8点も一斉にだめになっていた。電話、洗濯機、オーブンレンジ、掃除機、応接間のライト、冷蔵庫、ラジオ、湯沸かし器。全部死んだ。</p><p>母もアセンションを信じる人だったのでそれなりに受け止めていたが…。</p><p><br></p><p>その後　沖縄で開催された世界平和の祈りやアシュタールのチャネラーと巡る城（グスク）での祈りや瞑想に参加した。座喜味城跡は特に印象的で20人程の参加者はかつて此処で暮らしていたとチャネラーさんは言われた。当時の座喜味城主は世界と交易をしていて世界平和を願う素晴らしい王様だったと。本当に氣持ちの良い場所で　その後何年にも渡って何度も訪れることになった。</p><p><br></p><p>2012年12月21日 　その大切な日にどこでどうしているのかと思っていたがわたしは沖縄のとあるサロンでエステを受けてゆっくり寛いでいた。</p><p><br></p><p>思えば沖縄にたどり着いて二人の女性に特に親切にしてもらって少しずつ物が食べられるようになった。</p><p>宿の一室で割れたクリスタルボウルの破片をアロンアルファでつなぎ合わせて元の形にした。変な音しか出なくなったが…。わたしもクリスタルボウルもこの地で再生されたのだ。日本は世界の雛形、琉球は日本の雛形と言われるその地でだ。マヤ暦最後の日を沖縄で迎えるべくすべてのことはそのように展開されていたのかもしれないと今は思う。</p><p><br></p><p>年を越し三月になって…もう所持金も底をつくので家に帰ろうと思い始めた。その頃友人がツァーを組んで何人かで訪ねて来てくれた。</p><p><br></p><p>沖縄に来て初めに久高島にひとりで行って最後は大勢で再び九高島に渡ることになった。九高島でみんなで見た朝日、その時した会話が今も忘れられない。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p></p>
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<link>https://ameblo.jp/mitsuki-saraha/entry-12966570722.html</link>
<pubDate>Mon, 18 May 2026 18:37:41 +0900</pubDate>
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<title>船は揺れるものだが…世界も揺れに揺れ、日本も大揺れした時。</title>
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<![CDATA[ <p></p><p>船旅の寄港地はタヒチ（パペーテ）、ペルー（カヤオ）、パナマ（クリストバル）、コロンビア（カルタヘナ）、トリニダード・ドバゴ（ポート・オブ・スペイン）、カナリア諸島・スペイン（ラスパルマス）、モロッコ（カサブランカ）、スペイン（マラガ）、イタリア（ナポリ）、ギリシャ（ピレウス）、ギリシャ（ミコノス）、トルコ（クシャダス）、エジプト（ポートサイド）、サウジアラビア（ジェッダ）、インド（コーチン）、シンガポール、マレーシア（コタキナバル）、フィリピン（マニラ）。</p><p>寄港地では自由行動してもいいしオプショナルツアーを選んでもよかった。</p><p><br></p><p>わたしにとって旅の前半の樂しみはマチュピチュだった。</p><p>日本人には断然人氣な場所だ。参加する人たちの多くは高山病の心配をして薬を飲んでいたがわたしは飲まなくても大丈夫だった。ただペルーの食事が合わなくておなかの具合は最悪だった。この旅でこんなことは初めてだった。</p><p><br></p><p>マチュピチュの中の太陽の神殿でクリスタルボウルを鳴らし歌った。歌い終わった時に監視員らしきお兄さんが来てここで騒がしくしないようにと注意されてしまった。^_^;（もう決して致しません）</p><p>太陽の神殿にはミイラを安置する墓だったと考えられる洞窟があるのだそうだ。知らないこととはいいながら　ミイラさん、安眠妨害してしまい本当にすみませんでした。</p><p>m(_ _;)m　聖なる場所で申し訳ありませんでした!!</p><p><br></p><p>ともあれ個人的にはペルーで自分の誕生日を迎えられたのはとても嬉しかった。</p><p><br></p><p>当時は　後にアラブの春と呼ばれる時期であり（2010年末から2011年にかけて中東・北アフリカのアラブ諸国で連鎖的に発生した反政府・民主化運動。チュニジアでの暴動を皮切りに、長期独裁政権がエジプトやリビアなどで倒れた。）</p><p><br></p><p>エジプトで選んでいたオプショナルツアーは限定的なコースに変更され（それでもわたし達は三ヶ月ぶりにギザのピラミッドを訪問できた最初の団体だったそうで滅茶苦茶歓迎されセレモニーまでしてくださった）　リビアでカダフィ大佐と交流する予定のツァーは無くなり（リビアは２月から内戦が始まり大佐は10月に殺害されてしまった(T_T)）　代わりにナポリ滞在が一日延長されサウジアラビアのジェッダという都市のモスク訪問になってしまった。</p><p><br></p><p>毎日の世界情勢の変動で寄港する國も港もツァー内容も変更を強いられ一喜一憂する日々でもあった。海賊の出没する海域では何日間も甲板にも出ずキャビンの窓を閉め切って船全体が鳴りを潜めているということもあった。</p><p><br></p><p>日本時間2011年3月11日14時46分。</p><p>東北で地震が起きた。それを知ったのはモロッコのカサブランカにいた日だった。</p><p><br></p><p>寄港してカサブランカの街をブラブラして　リックス・カフェ（映画カサブランカに出てきた酒場を再現したお店）を見たり　人や露店でごった返した市場の肉の並べられた台の脇の道端に無造作に捨てられた大量の鶏の頭を目にして　うんざりしてしまい　観光もそこそこに港に逃げるように戻った。</p><p><br></p><p>船に入ってすぐの壁に貼り紙がしてあった。そこには未曾有の大地震が日本を襲ったと書いてあった。見たことも聞いたこともない震度の度数だったのでにわかには信じられなかった。</p><p><br></p><p>見ようと思えば日本のリアルタイム映像を船内で見られたがわたしはあえて見なかった。見るとショックを受けてしまうと思ったから。そうして今だに東北震災の映像を見ていない。</p><p><br></p><p>その後　訪問した國々ではこちらが日本人だと氣づくと必ず声をかけられた。お前の國は大丈夫なのか？と。</p><p>あまりにも心配されるので　もう日本に帰れないのか????とだんだん心配になってきた。祖國を失った人のような擬似的心情にもなった。日本はもう人が住めない状態で日本は終わったというような空氣を日々感じさせられた。多分日本國内で報道された以上の真実が海外では連日流されていたのだろう。</p><p><br></p><p>それでも　寄港した各地でそれなりに愉しむことは愉しんだ。</p><p>船内では合唱や書道、折り紙、ピラティス、ヨガ、ダンスなど愉しんで　ここはまるで動くカルチャーセンターだなと思った。有名な先生方や専門家の講演や討論会などもあった。時には一日ボーッと過ごすこともあったが退屈することはなかった。</p><p><br></p><p>キャビンのトラブルは相変わらずだったがデッキで仮眠したり仲のよいお友達もできて時々泊めてもらえたりしたので睡眠不足も氣にならなくなってきた。</p><p><br></p><p>毎日水平線から出る朝日と水平線に沈む夕日を見られて当初こそいちいち感動していたものだが…慣れとは恐ろしいものでそれほど感動しなくなってきた。</p><p><br></p><p>今回の旅は人との運命的な出会いというより　各地の猫や犬　時には牛、馬、山羊などの動物と出会ったり　マレーシアのサピ島では魚たちと泳いだりパラセーリングをしたりと　生き物や自然との交流がメインだったようだ。</p><p><br></p><p>幸か不幸か現実の国内での地震体験とその直後の様々な余波を免除されたのだが…</p><p>外から眺めることで　心情的に揺れる中でも自分を保ち　苦しみや悲しみの中でも喜びや愉しみを見つけ味わう時間でもあったように思う。</p><p><br></p><p>４月18日 横浜港に戻った。</p><p>降り立った途端にどんよりと空氣が重く感じられた。エスカレーターもエレベーターも節電で停められていてすべて自分の足で自力で運ばなければならず物理的に荷物も重かった。</p><p>日本中が重く沈んでいるのが肌で感じられた。</p><p>家に帰るまでの記憶があまりないが見るものすべてが出港前とは違ってしまったように感じられたのは覚えている。</p><p><br></p><p>船の生活も決して樂では無かったが…</p><p>船の揺れ以上に　世界情勢は揺れに揺れ　日本の国土も大きく揺れた時だった。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p></p>
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<link>https://ameblo.jp/mitsuki-saraha/entry-12965688963.html</link>
<pubDate>Sun, 10 May 2026 10:36:24 +0900</pubDate>
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<title>本当に世界一周の船に乗れた！</title>
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<![CDATA[ <p></p><p>出来るだけ早く　遅くとも一年後には旅に出ようと思っていた。</p><p>世界一周の船旅のほとんどは西回りらしいのだがわたしは東回りで行きたかった。ただの天邪鬼なだけだが…東回り便の出航迄にはもう三ヶ月位しか残されていなかった。</p><p><br></p><p>世界一周の船旅を目指す仲間が集まるボランティア事務所で毎日DM発送作業の事務仕事をした。最後にはものは試しと船旅のポスター貼りにも挑戦してみた。</p><p><br></p><p>実際の現金のやりとりはないが働いた分がプールされ旅費に充当されるのだ。事務仕事よりポスター貼りの方が効率よく旅費が貯まるので若い子達はもっぱらポスター貼りに出掛ける。町のお店を一軒一軒訪ねて船旅の趣旨を説明しポスターを貼らせてもらえたら1枚につきいくらという報酬が発生し　旅費分が貯まる頃には口べただった子も引っ込み思案だった子もすっかり性格も明るくなって度胸もついて　同じ回の船への乗船を目指す仲間もでき　出港日までには物心共に旅の準備が整う。うまくできたシステムだなあと思った。実際この旅に参加して人生を変えた若者もたくさんいるようだ。</p><p><br></p><p>2010年の年末　旅支度の重要アイテムとしてクリスタルボウルを求めに行った。</p><p>新幹線に乗って目的地を尋ねたら管理人さんにそんな人は居ないと素っ氣なく言われ途方にくれた。あっちこっち連絡したがわからず一度は諦めかけたが　何とか転居先が判明し連絡もついて移動した。　最寄りの駅まで迎えに来てくださった。</p><p><br></p><p>大きなテーブルにいくつもクリスタルボウルが置かれていた。</p><p>ひと目見てわたしはひとつのボウルに釘付けになった。一目惚れとはこのことだった!!</p><p><br></p><p>半透明で底が丸くて左手に載せて演奏するタイプだ。アゼツライトという水晶でできていて海と陸のような模様もあってまるで地球みたいなボウルで地球一周にはもってこいだと思った。（アゼツライトの名は天使的存在「アゼズ」に由来する。宇宙の光源「グレートセントラルサン」の「名無き光」を人類に届けることを目的に設計された石で、人類と宇宙を繋げるための膨大なパワーが封じ込められているという特殊な水晶だそうだ…）</p><p>能書きはさておき…</p><p>即断即決購入した。この子がわたしの旅の相棒と決めた。きっとわたしを助けてくれる存在となるだろう…。地球のあちこちで音を奏でたいと思った。</p><p><br></p><p>音階はミの音だった。　チャクラ的にいうと太陽神経叢にあたり　自分の軸をしっかり持ちたい時や、前向きなエネルギーが欲しい時に効果を発揮するものだそうだ。船という閉ざされた空間で多くの人と3ヶ月暮らすには最適な樂器だっただろう。</p><p><br></p><p>年が明けて2011年１月11日 篠島という島に行った。</p><p>篠島は千年以上前から年に三回伊勢神宮に鯛を献上してきた島だそうだ。次回以降の船に乗る予定の人が出港前にどうしても一緒に行っておこうと誘ってくれた。</p><p>到着すると地元の方が島のパワースポットを案内してくださった。彼女たちは島で長年神ごとをされてきたのだそうだ。</p><p><br></p><p>彼女たちの話によると…今回のわたしの旅はとても厳しいものになるので奈良県の大神（おおみわ）神社に参拝し奥の院の三輪山にも行った方がよいということで　10日後に登ることになった。</p><p><br></p><p>三輪山の頂上に立ち　四人で手を合わせた時　突風が吹いてよろけそうになった。何かの存在を感じずにはいられない瞬間だった。そのエネルギーと共に乗船するのだと思った。</p><p>これで旅の準備は整ったと感じた。　</p><p><br></p><p>その翌日　母は多すぎる餞別をくれて　駅まで見送ってくれた。</p><p>わたしは旅に出る時　一度も泣いたことなんて無かったが　なぜかこの時だけ泣いた。もうただありがたく…。</p><p><br></p><p>１月23日夕刻横浜港出港。</p><p>わたしのキャビンは三人部屋でそれぞれ強烈な個性の持ち主でもあり正直3ヶ月耐えられそうに無かった。</p><p>部屋では夜どうにも眠れないので困った。</p><p>この旅は失敗だったのかと正直暗澹たる氣持ちだった。けれど島の巫女たちに言われた言葉を思い出していた。何事が起きてもその状況に対して「はい！」と言う事。</p><p><br></p><p>キャビンでは眠れないわりにほんの束の間眠りに落ちた時には必ず悪夢をみてうなされた。</p><p>日中あったことの続きが夢の中で展開された。毎日自分のいろいろな過去生を見ているようなのだがそれが今の自分と明確に繋がっていて　同室の二人とのその時々の関係性がはっきりとわかった。</p><p>三つ巴で呪術を掛け合っていたかたき達??????</p><p>何にせよ因縁の深い二人であるのは間違いなかった。今こそお互い持ち越してきた怨念を解く時だ。</p><p><br></p><p>たまたま運悪くとんでもないキャビンに割り当てられた訳ではないと明確に自覚していた…。</p><p>この旅には強力な助っ人が必要だと感じた自分がいた。　厳しい旅を予見して準備を手伝ってくださった人達もいた。　応援し寒い夜に見送ってくれた母も居た。肉体こそ此処にないがみんなが共にいてくれて　今わたしはこの二人に対峙でき　どうにかここにも居られると思った。</p><p><br></p><p>はじめの寄港地はタヒチ島。そこから更にモーレア島という島に渡った。</p><p>そこでわたしより年上らしい女性と出会った。</p><p>亡くなった家族のお墓参りに行く途中だったそうで同行することになった。墓所の一角でクリスタルボウルを鳴らし一緒に歌った。</p><p>彼女は家に招待すると言ってくれて車を運転している間ずっと愉しげに歌っていた。歌が好きだったが随分歌うことを忘れていたと話していた。</p><p><br></p><p>お家に着くとご家族と一緒にランチをいただくことになった。さっき出会ったばかりの全く知らない人の台所で皿洗いをしている自分も不思議だったが…崩壊家庭の子どもだったわたしは人様のお宅でご飯を食べさせてもらったり泊めて貰うことが本当に多かったことに今更ながら氣づいた。</p><p>最後に彼女のお宅のお庭でクリスタルボウルを鳴らさせてもらってから船着き場まで送ってもらいお別れした。</p><p><br></p><p>まさか初上陸していきなりクリスタルボウルが役立つとは思ってもみなかったが　どの寄港地でも船内でも旅の間これを鳴らし続けることになった。</p><p><br></p><p>船内で自主講座を開くこともできた。</p><p>思ったよりたくさんの人が来てくれて　音を奏でたり全員で歌ったり踊ったり　樂しくあっという間に時間は過ぎた。</p><p>なんとその講座に同じキャビンの一人が来てくれたのには面食らったが…。　</p><p><br></p><p>船の揺れに弱い人は氣持ちが悪くて食事もとれず航海中ほぼ寝たきりだったそうだ。普段は老人ホームで暮らしていて定期的に船旅に来る人もいるらしい。噂によれば船にはいくつか棺桶が用意してあるそうだ。実際にインド寄港の前日に亡くなった高齢の方もいらした。</p><p><br></p><p>様々な事情の人がいて体調の悪い人も結構いたようだった。3ヶ月咳が止まらなかった人が帰国後　重病が見つかり程なくして亡くなったと風の噂で聞いた。</p><p>かくいうわたしも乗船前から何ヶ月も胸の痛みが続いていて　旅の間に死ぬかもしれないとある程度覚悟していたが…今だに生きている。</p><p>鬱や精神的問題を抱えている人もかなりいた。</p><p>シニア世代で恋人か伴侶を探す目的で参加している人も案外いた。</p><p><br></p><p>いずれにせよ　何かを変えたいと願う人生のターニングポイントにさしかかっている人が乗るのだろう。</p><p>ある側面から言えば　船は「動く閉鎖病棟」と言えなくもなく　限られた空間でそれぞれの人の奥底にある問題が浮上し　隠されてきて自分でさえも氣づかなかった欲望が丸出しになるものなんだと…驚く場面も少なくなかった。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p></p>
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<link>https://ameblo.jp/mitsuki-saraha/entry-12965274554.html</link>
<pubDate>Wed, 06 May 2026 12:39:16 +0900</pubDate>
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<title>宗教裁判にかけられる!?</title>
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<![CDATA[ <p></p><p>わたしはその頃　琵琶を習い始めていた。琵琶を探してもらっていたところ奇しくも自分の誕生日に桑の木でできた修復済みの古い薩摩琵琶を受け取ることになった。ゴツくて重くて持ち歩くのも大変だったが　歩きと電車とバスとタクシーを乗り継いで先生のお宅から自宅まで大事に抱きかかえて帰った。</p><p><br></p><p>薩摩琵琶は藩士らの士氣を高めるために勇壮な弾き語りをした。琵琶の胴を大きなばちで激しく叩いたりもする。</p><p><br></p><p>琵琶が欲しかった理由は小学生の頃　正倉院の御物の螺鈿細工の琵琶の写真を見てその姿の美しさに心を奪われたからだったが優美なイメージを持っていたのにわたしが手にした薩摩琵琶はひたすら無骨な感じだった。</p><p>弦は黄色の絹の糸でできており　絹を作る蚕の餌は桑の葉であることから丸ごと桑でできたような樂器だった。</p><p>それにしても重すぎて肩が凝った。時代錯誤で実用的でないのは確かだった。</p><p><br></p><p>凍傷が元で両足親指の爪が抜け落ちて回復するまで八ヶ月を要し　その間毎日朝から晩まで「祇園精舎の鐘の声〰️」と平家物語の冒頭部分を琵琶をベベンと鳴らしながら歌って過ごした。</p><p><br></p><p><br></p><p></p><p><span>祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。</span><br jsaction="" jscontroller="Gy8rfb" data-sfc-root="c" jsuid="az34Vb_d" data-sfc-pl="|[]" data-sfc-cb=""><span>沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。</span><br jsaction="" jscontroller="Gy8rfb" data-sfc-root="c" jsuid="az34Vb_e" data-sfc-pl="|[]" data-sfc-cb=""><span>おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。</span><br jsaction="" jscontroller="Gy8rfb" data-sfc-root="c" jsuid="az34Vb_f" data-sfc-pl="|[]" data-sfc-cb=""><span>たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。♪〜</span></p><p><br></p><p>その一節を繰り返し繰り返し　取り憑かれたかのように稽古した。</p><p><br></p><p>音頭などの民謡も習いに行ったがこの平家物語の稽古には思わぬ効用があった。</p><p>子どもみたいな細いソプラノしか出なかったわたしは少しずつ低音も出せるようになっていった。その低い声を出すのが身体にとても心地よかった。</p><p><br></p><p>以前同窓会に行った時　幼馴染みだった旧友の声が太く低く変わっているのにびっくりしたことがあった。</p><p>わたしの記憶の中にある子ども時代の彼女の高くて透き通った声とは懸け離れていたのだ。</p><p>ひょっとして顔の似た別人なのかと疑うほどだった。</p><p>音域が広がるということは別人格を得るにも等しいことなのかもしれないと感じた。</p><p>この何十年間の地道で堅実な生活が彼女を鍛え　肉体のみならず精神的にも少女から大人の女性へと成長成熟させた。</p><p>その声にわたしは圧倒されたのだった。その時のわたしの声はまだか細く高いだけで安定感を欠いていたから。</p><p><br></p><p>やっとわたしもほんの少しだが低い声が出せるようになった…わたしはわたしの一部を取り戻せたような氣がした。</p><p><br></p><p>確かに効用もあったものの負の側面もある。</p><p>祇園精舎の鐘の声〜があまりにも無常感満載すぎて　わたし自身も毎日自動的に聞かされる羽目になった母も何となく虚無的になってしまうのだ…。</p><p>わたしは元々厭世的で虚無的タイプなのでこの生活を続けているのはさすがにまずいと感じ始めていた。</p><p><br></p><p>お盆初日の８月13日のこと。</p><p>1998年から1999年にかけて１年弱行動を共にしていた僧侶から國際電話がかかってきた。</p><p>戸籍の調査が入って婚姻歴が見つかってしまったというのだ。</p><p>寝耳に水だった。</p><p>國に帰り師匠にすべてを打ち明けてゼロから修行をやり直すと言っていた言葉を信じていた。だが実際はそのまま何事も無かったように元の生活に戻ったらしかった。</p><p>11年目にして真実が露見し　わたしの手助けが必要なので来てくれないかという話だった。</p><p><br></p><p>愛はないがその人が宗教者以外の仕事ができるとも思えなかったし他人の人生を邪魔する氣持ちも無かったから八月末から九月初めにかけて彼の國に行った。</p><p><br></p><p>連れて行かれたのは法律事務所か弁護士事務所らしきところ。</p><p>目の前に出されたのはおかしな日本語で書かれた何枚にも及ぶ書類。</p><p>まともな日本人が読んだら日本人が作成したのではないと丸わかりの不自然な日本語のオンパレードだ。</p><p>いやそれ以上に印刷されたその内容が出鱈目すぎて空いた口がふさがらなかった。どうするとこういう作文になるのかさっぱり訳がわからなかった。秘密がばれて焦って悩んで眠れぬ夜を何日も過ごした挙句　僧侶が滅茶苦茶なストーリーを捏造して弁護士に語り依頼したらしかった。</p><p><br></p><p>オーストラリアで勉学と布教活動に励む真面目で熱心な修行僧に日本人女性が惚れ込んで彼の故國に単独で乗り込み役場を訪れ勝手に婚姻届を提出した。被害者本人は今回の戸籍調査によって事実が判明した当日まで全く何も知らず婚姻の事実関係も皆無である旨が滔々と何ページにも渡って述べられていた。</p><p>パスポートを確認したり渡航歴などを調べれば真っ赤な嘘であることは明白だがよくもまあ嘘八百を並べたてられたものだ。</p><p>わたしは呆れ果てて途中で読む氣も失せてしまった。</p><p><br></p><p>弁護士らしき人物がその変な作文を一字一句違えず自筆で書くようにと命じた。あまりに日本語として変なので訂正したくもなる衝動を抑えつつ　そのまま書きうつした。</p><p><br></p><p>わたしはつくづく世の中の構造というものを思い知らされた。</p><p>國のいかんに拘らず力のある者が無力な者を利用し陥れる。</p><p>よく権力者の子息の不始末を他人に被せるとか政治家の犯した悪事を秘書が肩代わりするとか聞いてはいたし　そんなことは世の中にいくらでもあったことだろう。</p><p>まさか社会的強者が自らの利益のために弱者を更に貶めるという現実を我が身をもって体験するとは思ってもみなかった。表に出た情報や書面だけでは本当のことは何もわからない。</p><p>嘘であると関係者一同承知しながら書類上の辻褄合わせをして保身したり利益を受けたりする者達が居たという事実を自分の人生のひとコマとして無理矢理飲み込んだ。</p><p><br></p><p>相手の元の居住地も知らなければ僧侶なので俗名である本名も知らなかったというのにどうやって言葉も話せない國に単身乗り込んで婚姻届を提出できるというのだろう？よりにもよって恋愛や結婚に関心がないわたしが何故に？悪いがわたしは面食いで彼は全くもってわたしのタイプでもない。w　日本語が通じる國内でさえ普通のことがまともにできず煩雑な手続きや交渉事が最も苦手なわたしがどうやってそんなしたたかな振る舞いができるというのだろう!?それほどの行動力や度胸があるならこんなしけた人生も送ってなかっただろうに…。これじゃあ女スパイか極悪な遣り手女だ。</p><p>そもそも外国のお坊さんと結婚するメリットなんて何処にあるというんだろう??</p><p><br></p><p>わたしがどういう人間であろうがそんなことは彼らには何の関心もない。</p><p>彼の師匠も同僚たちも弁護士も本当は全部わかっていたはずだ。とにかく彼らには悪い女が必要だったんだ。すべての罪をおっ被せる為の性悪な女が。</p><p><br></p><p>宗教裁判が始まると聞いた。今時宗教裁判ってなにぃ〰️〰️〰️!?</p><p>思わずガリレオ・ガリレイの「それでも地球は回っている」とか魔女の火あぶりの紅蓮の炎とかを連想してしまった。</p><p>今後五、六回公判があり召喚状も届くが出廷する必要もないし何の実害もないと僧侶は言った。それより将来一緒に世界旅行に行こうと話を逸らして饒舌に話し続けた。</p><p>わたしはそんな言葉は耳に入らなかった。もうこれっきりこの人と再び会うこともないとはっきり思っていた。</p><p>帰りの飛行機〜✈で決めた！</p><p>将来でなく今　二人でなく一人で　わたしは世界一周旅行に旅立とうと!!</p><p><br></p><p>宗教裁判はわたし欠席のまま有罪確定した。かの國ではわたしは悪女として記録されたらしい。</p><p>引きこもりのわたしが勇氣を振り絞って思い切って外界に飛び出すといつも踏んだり蹴ったりの酷い目にあって全く散々だ。</p><p><br></p><p>わたしは少なくとも正直に誠実に生きてきたと思っていた。それだけがわたしの唯一の誇りだった。けれどそれさえも要らないものだったと氣づいた。「誇り≒埃」みたいなもんだ。</p><p>ちっぽけな誇りさえもわたしは失った。</p><p><br></p><p>善意からしたことさえ何故こうなるのだろう？</p><p>いつか何処かでわたしが逆のことをしたというのだろうか？そうであってもなくてもわたしは決して報復はしない。そう来たか!?と受け流して　大笑いして別のもっと樂しいことを見つけちゃる！</p><p>こんな酷いことが起きたからには逆位相のよきこともきっとあると愚直に信じる!!www〰️</p><p><br></p><p>この件の顛末を記しておこう。</p><p>翌年だったか　僧侶の國の裁判所から書類が届いた。外国語なのでよく分からなかったがそれをそのまま市役所に持って行った。</p><p><br></p><p>市職員の話では国内法よりこの判決の方が上位になるので　婚姻の事実も離婚の事実も無かったことになるので戸籍は訂正されるということだった。</p><p><br></p><p>その言葉を信じて確かめることも無いまま歳月は過ぎた。</p><p>それから十一年後の2022年のこと。</p><p>母が亡くなり諸々の手続きの為わたしは自分の戸籍謄本が必要になった。</p><p><br></p><p>戸籍は何も変更されてはいなかった。十一年前の職員は当然いないし裁判所から届いた書類もとうの昔に処分していたからもうどうすることも出来なかった。</p><p>相手方が消し去りたかった証拠が市職員のミスか何かでわたしの戸籍に痕跡として残された。</p><p><br></p><p>そういえば昔は赤ん坊が生まれてもすぐには出生届けを出さなかったと聞いたことがある。乳幼児死亡率が高かったからだそうだが　わたしの父の場合は誕生日は二日後、死亡日は一日後の日付になっている。</p><p><br></p><p>戸籍係の漢字の書き間違いで違う名前になってしまったという人の話を聞いたことさえある。</p><p><br></p><p>絶対的であるように思い込んでいる戸籍にだって本当のことが記載されているとは限らないということを學んだひとつの出来事だった。</p><p><br></p><p></p>
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<link>https://ameblo.jp/mitsuki-saraha/entry-12963838522.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Apr 2026 20:23:12 +0900</pubDate>
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<title>魂の家族に出会い続ける！</title>
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<![CDATA[ <p></p><p>ヴォイスヒーラーの師に言われた「これから魂の家族との出会い（再会）が始まります」という言葉は本当だった！</p><p><br></p><p>何かの会に参加する度にたった一人だけ通じ合う人がいてその人の縁で何処かに誘われて出かけていったり　邂逅以来現在まで文通し合う人にも出会った。（今時文通というのがいかにも面倒くさい人同士らしくて…笑うけど）</p><p><br></p><p>ひとつの神社に行ったら水先案内人のような人がひょっこり現れてその人の大切な場所に連れられていくのは毎度のことだった。名前も名乗り合わないどこのどなたかもわからないが古くから知っていたかと思うような人達。幸せな一期一会の連続。</p><p>まるで予め打ち合わせをしたか　スタンバイして待ち構えていたのかと思うような　笑っちゃう絶妙なタイミングで出会うのだ。そしてもう二度と会うこともないのだった。</p><p><br></p><p>随分若い頃「エンカウンターグループ」という心理学のグループ体験を泊まりがけでしたことがある。</p><p>エンカウンターグループ（Encounter Group）とは、カール.ロジャーズが1960年代に提唱した5人から10人位までの少人数での本音（感情）を分かち合い、自己理解・他者理解と心理的成長（人間関係の改善）を目指す体験学習。専門家の立ち会いのもと当事者同士のその場限りの話という秘密厳守の安全な環境で　互いの価値観を聴き尊重し　人間的成長と対人関係改善を目指す。</p><p>「エンカウンター（Encounter）」とは「（予期せぬ）出会い、遭遇」を意味し、エンカウンターグループは他者との真剣な出会いを通じて「自分自身との出会い」を体験する場。</p><p><br></p><p><br></p><p>そのグループで出会ったひとりの人とは二十年ほど交流があった。彼は鬱のため退職して以来自らの体験を生かして精神的な不調や生きづらさに悩む人の為の活動をしていた。</p><p>生き抜くことでしかわからないことがあると互いに励ましあい　しぶとく生き抜いて老人になったらお茶でもすすりながら昔話でもしようと約束しあったが…残念ながら彼は志半ばで突然死されてしまった。わたしより十歳位若かったので報せを受けた時はかなりショックだった。早くも学び終えてさっさと戻って行かれたのだなあと納得するしかなかった。</p><p><br></p><p>わざわざエンカウンターグループに参加しなくても　他者と本氣で向き合えるなら本当は毎日がエンカウンターグループに参加しているようなものだし　毎日が自分自身に出会いつづける旅なのだと思う。</p><p><br></p><p>本音と建前が使い分けられずこの世界はきついと思っていたが　ふと見渡せばいつのまにやらわたしの周りには本音の人しかいなくなっていた。</p><p><br></p><p>2008年秋には24年前に助けていただいたヨガ道場の支部を開設準備した人物に出会った。</p><p>言霊に詳しい人で親しくなって話していたらあまりの偶然の多さに驚愕した。</p><p>人は「偶然」という言葉をよく口にするが偶然なんて何処にもないんだろう。何もかもが必然でしかない。いつかどこか　別次元でなのか描いた青写真通りに物事は粛々と起きているだけなんだろう。</p><p><br></p><p>前世の自分の名前を思い出したという人達にも出会った。</p><p>わたしはその少し前に「フトマノヌシシスムタ」という名前が浮かんできていて　太占（フトマニ）という古代の占いをしていた太占の主（ぬし）であったシスムタという人だったのかと思っていたのだが…それは当たらずとも遠からずというところだったようだった。</p><p><br></p><p>エンカウンターグループではないけれど…　前世の会はその時によって参加する人は変わるのだが　　ある時は着飾り飽食していたフランスの貴族、またある時は戦国時代の日本の武将や忍者の頭目、時にはキリストの磔を目撃していた民衆というように場面と人物設定があって　それぞれの人が自分の設定に何となく納得したり実際に思い出したりひっそりと涙を流したりするのだった。その時々に残したお互いの何かしらの感情を終わらせて成佛させていたのかもしれない。時空を越えて癒し合い、許し合っていたのだろう。</p><p>前世の真偽はともかく…そういう毎日が樂しかった。前世を信じない人からしたら狂った集団、カルトと思われるかもしれないが…いつでも一人で狂ってきたわたしからしてみたら　他の誰かと共に狂えるのはこの上ない喜びだった！笑〰️</p><p><br></p><p>言霊の先生とのご縁はたくさんの出会いを呼んでくれた。霊能者で数々の修行や学びをされてきた人もいらした。</p><p>いくつかセッションを受けさせてもらった。ピラミッド内部にある棺に入る儀式をわたしは過去生でしていたという話で　目の前に棺があるとイメージしてそこに入る動きをするように言われ　やってみた。その時はさっぱり意味もわからなかったのだが…　その八年後には現実にエジプトのギザのピラミッドの王の間の棺に横たわることになった。イメージしたことが八年かかって現実化したが…</p><p>もし魔法使いだとしたらかなりへっぽこだ！魔法なら一瞬だが　わたしの現実化は時間がかかり過ぎだった〰️笑</p><p><br></p><p>この霊能者さんは前世の兄でラマ僧になるべく家を離れたが幼かった妹のわたしとはそれきり会えなかったそうだ。ぽかんとして半信半疑でその話を聞いたものの彼が一瞬涙を拭ったのは見逃さなかった。…きっとそれは真実だったんだろう。</p><p>他にもDNAアクティベーションを受けたり　DNAを読み解いてもらうセッションも受けた。特にDNA解読は面白かった。地球の各地のみならず様々な星系での過去生を聞く時それが真実のわたしだと思えた。かなり長い旅をしている魂らしかった。いつだってもう終わりたいと思うのはその長さゆえだったのだろうか？</p><p>DNAはかなり変異が起きているらしかった。大部人間とは違っていると言われてしまった〰️。一体わたしは何だ!?</p><p>「はやく人間になりたい!!」というアニメの妖怪人間の言葉に共感してしまったのはこれが原因でわたし自身の魂の叫びでもあったのかもしれない〰️。ショックでもあるが納得するしかなかった。わたしの遺伝子を残してはいけないという異常なまでの思いはこれ故だったのか???</p><p>生き物が遺伝子の運び手であるならその遺伝子の夢は「できるだけ遠くへ行くこと」「より多くの体験をすること」</p><p>人間であろうがそれ以外の何かであろうが　遺伝子の夢を叶える道具としてのわたしは遺伝子が化けた何者かでしかないのだろう…。</p><p><br></p><p>言霊やカタカムナのことも学んだが　神社や聖地に更に頻繁に行くようになった。行く先々で歌を歌った。あわうたや祝詞も歌うようになった。</p><p>2009年にはほぼ毎日のように何処かへ行っていた。明日はどこそこに行くけど　どう？と誰かに誘われたら　ただ行った。何も思わず行った。行く意味も意義も費用も自分の体力的なことも一切考えなかった。</p><p>ある時は連続で「トヤマ」と「マトヤ」と「ヤマト」に行くことになって笑ってしまった。それは意図したことでなく本当にたまたまそうなったのだが…（これも必然、　仕組まれていたんだろう）</p><p><br></p><p>十月十三日の朝起きがけに「金山様をお訪ねせよ!!」という言葉が頭に響いたまま目が覚めた。</p><p>金山様って誰？何？何処？</p><p>初めは金山彦神社なのかと思った。</p><p>その翌日　何処かの神社参拝の帰路の車中で友人同士が遺跡に行く打ち合わせをしていた。遠いので泊まりがけで行くと話していた。わたしはぼんやり車窓を眺めてうつらうつら居眠りしそうになっていた。</p><p>その時「かなやま」というワードが耳に飛び込んできた！昨日の朝聞いたばかりの「金山様!?」に違いない!!</p><p>すっかり眠氣も吹っ飛んでよくよく聞いてみるとそれは岐阜県下呂市金山町にある岩屋岩蔭遺跡、金山巨石群のことだった。春分秋分、夏至冬至の他に合わせて12重要な節目があって十月二十三日にどうしても行かなければいけないというのだ。</p><p>それは乗っかるしかなかった。</p><p>ひょっとしたらピラミッドやストーンヘンジよりすごいのではないかと言う人もいる場所だった。縄文初期には既にあったらしいがその一帯すべてが方位として天文学的正確さで位置づけられているのだ。</p><p>いつかここに住んでいたかもしれないと想像しつつ　駆け回ったり歌ったり吠えたり寝転がったりして数時間を過ごし帰路につくのだが　ふと山の写真を撮りたくなった。わたしは変てこりんなものが写ってしまうので写真は滅多に撮らないのだが…。</p><p>何枚か連写した内の１枚の写真を見て驚いた！(*_*)</p><p>無いはずの構造物が写っている。右手前には真ん丸のドーム状のものがあって奥には奇妙な形の天文台のようなものが聳えていた。この地球の文明とは違う雰囲氣を醸し出していた。えっ！ひょっとして異次元写っちゃった!?</p><p><br></p><p>何なのかを…写真の専門家にも調査してもらったが結局のところわからないままだった。蛇足だがその写真を現像したら右下に撮った時刻が11:42とあった。きっといい世に（1142）なるのね〜なんて思えて嬉しくなった。（やまと言葉なら本当は１は「ひ」２は「ふ」だけど…まあ　いいかー。）</p><p><br></p><p>宇宙国公務員を名乗る人達にも出会った。</p><p>国というものは土地と人民と法律さえあれば簡単に成立してしまうのだそうだ。宇宙国は国として正式に認められていて土地は地球全部、人民は地球人全員（たぶん宇宙国という考え方に賛同する人のみだと思うけど）、憲法は絶対戦争しないというシンプルなものだ。宇宙国人民は全員が宇宙国公務員。わたしも宇宙国公務員だとしたら嬉しすぎる。</p><p>この発想が面白くて好きだった。大きなイベントを手伝ったり田植えや稲刈りしたり　宇宙国パレードをしに東京まで出張したこともあった。</p><p><br></p><p>山にもたくさん登った。位山や彌山（みせん）、屋久島の太忠岳（たっちゅうだけ）等。</p><p>いずれも荒天となった。位山は台風で二度中止して三度目でやっと行けた。</p><p>天河神社の奥の院である彌山は登頂までは順調。頂上に着いた途端に雨が振り出しいきなりのどしゃ降りで慌てて下山し始めたが狭い登山道は激しい濁流であっという間に川と化し　日没が迫る中　足を取られつつあわや四人で流れに飲み込まれる寸前だったが何とか命からがら麓にたどり着けた。</p><p><br></p><p>太忠岳の山頂にある高さ４０ｍある天柱石が見たいという一点だけで屋久島に渡った。十二月下旬で寒波の襲来のため各地で大雪を記録した時で屋久島もかなりの積雪だった。</p><p>十二月二十三日 男女三人ずつの六人で登ったのだが手練れの現地ガイドの方があとで告白したことには今まで体験したことのない恐怖をおぼえ&nbsp; 何度か勇氣ある撤退をも考えていたそうだ。下が本当に地面があるのかどうかもわからない雪上を一歩一歩確かめながら登っていった。標高1497mを登り切った時にはわたしの履いていた防水ズボンはズタズタに千切れ　まるで暖簾のようにビラビラ揺れていた。これじゃあー　お相撲さんの前垂れじゃんと可笑しくって引きちぎってやった。笑</p><p>六人の内誰か一人でも足を踏み外したら大変な事故になるところだったが全員無事だった。</p><p>ただしガイド男性とわたしはその時の凍傷の為に両足親指爪を剥がすこととなってしばらく不自由することになってしまった。</p><p>遭難スレスレも今となっては面白い体験だ。</p><p><br></p><p>当時毎日のように一緒に遊んでいた人達の多くは農業従事者となり移住していった。亡くなって5次元？に移動してしまった人も数多い。その他の人ともほとんど会うことはなくなった。数年前に大きなホールでのイベントに参加したらわたしの座席の真後ろが言霊の先生だった時には二人で顔を見合わせて大笑いしてしまった！</p><p><br></p><p><br></p><p>そうだ！遺伝子の夢には続きがあったんだ。</p><p></p><p><span>「そして帰還すること」</span></p><p></p><p>当時のわたしは人生は山登りだと思っていたから（いつでも還りたかったくせに…）ありもしない頂上を目指して必死に登り続けることだけを考えていて　下山することを考えてもいなかった。</p><p>還暦過ぎて　登った道は自分の足で下る必要すらないと知った。小舟に乗って渓流下りをして悠々と景色を眺めながらゆったり泰然自若で流れに身を任せればいいのだ!!</p><p>今は景色を楽しむ時だ。人生の前半で歩んだ一歩一歩を眺めて味わって喜ぶ時間だ。答え合わせをして噛み締めて仕上げる最終章だ。すべてを面白がって受け取る黄金の時が来ている！</p><p><br></p><p></p><br><p></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p></p>
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<link>https://ameblo.jp/mitsuki-saraha/entry-12963388818.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Apr 2026 14:22:19 +0900</pubDate>
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<title>ヴォイスヒーリングの師に出逢う</title>
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<![CDATA[ <p></p><p>2004年の6月1日から21日間断食することにした。この際徹底的に体質改善をしたかった。これでダメならもう諦めようと思っていた。</p><p><br></p><p>順調に17日目までいった。その日トイレにたった時立ちくらみして倒れダイニングキッチンと廊下の境の敷居の板で腰を強打した。</p><p>激痛の余りそのまま意識が遠退きそうになった。倒れたまま床に横たわっていた。</p><p>大きな物音に驚いた母が二階から駆け下りてきてわたしを抱き起こしてくれた。</p><p>その時わたしの心臓に母の胸からエネルギーのようなものが流れ込んで来て人心地ついた。</p><p><br></p><p>断食は中止せざるを得なくなった。その日からダイニングキッチンの床から全く起き上がれず息をするのも辛く　這ってトイレに行く以外はキッチンの床で寝たきりで過ごした。</p><p>そんな状態なのに二週間たった朝　新聞折り込みチラシの求人にふと心が動いた。</p><p>立ち上がれるかどうかもわからないのに面接を申し込んだ。どうしてこんなタイミングで仕事に行こうと思ったのか　今だに謎だ。ショック療法で外界に飛び出す勇氣でも湧いてきたんだろうか!?</p><p><br></p><p>7月からパートで働くことになった。スーパーのバックヤードで夕方から閉店までの勤務。初めは慣れない仕事で大変だったが裏方なのでわたしには向いていただろう。</p><p>学生の時スーパーのレジ打ちをやったことがあったがそれよりは時給が低くとも氣は樂だった。</p><p>その日指示されたことと決まったことをこなせばいい。問題はフルーツの籠盛りを作って欲しいと頼まれた時だ。専門的知識もセンスもない、ただのパートのおばちゃんに何ができるというのか…!?　それ以前に焦るとわたしは何が何やらわからなくなってしまうのだ…。普通のことが普通にできない自分が本当に嫌になった。</p><p>結局そこで働いていた間は二回しかそんなこともなかったが　精一杯やってはみたけど　あの時のお客様には心からお詫びを申しあげたい。💦</p><p><br></p><p>その頃ヴォイスイヒーリングの本を見つけた。声（音）は次元を越えて別次元まで届くことができるというのだ。人は天と地の間に立ち魂の声で歌う時それらをひとつにすることができる！</p><p>毎日貪るように読み　付属のCDを聴き自分も声を出してみた。</p><p>この著者のセッションを受けたいと強く願った。</p><p><br></p><p>2004年11月20日午後</p><p>М先生のセッションを受けることになった。</p><p>クジラのレメディーを飲んだら大音声で絶叫してしまったというわたしの話を聞くと先生は「多少下手でも自分で開けられたからもう大丈夫よ」と言って静かに微笑まれた。</p><p><br></p><p>М先生は言葉も声も驚くほど美しい方だった。</p><p>元々主婦だったが文筆業をされるようになり神秘体験を経て歌い始め　その歌は母音（あ、お、う、え、い）のみで即興的に発せられる旋律だ。先生の倍音が心地よかった。</p><p>更に他者の声、音を調律し　その人から受け取った魂の歌を歌ってくださりそれを翻訳して今生の魂の目的を伝えることができるのだった。</p><p>まさしく音を観る能力…「観音」</p><p><br></p><p>「わたしたちは宇宙に鳴り渡っている存在なのよ。」</p><p><br></p><p>先生のその言葉が胸に響いた。ちっぽけで何もできない「わたし」ではないのだ。その氣づきにわたしは泣いた。</p><p><br></p><p>本当はこの世界に秘密など存在できないのだな…。</p><p>逃げることも隠れることも出来ないんだ…。</p><p>一人一人が放送局みたいなものなんだから。</p><p><br></p><p>「わたしとあなたの第三の目、松果体を繋ぎます。」</p><p><br></p><p>そこからセッションが始まった。</p><p><br></p><p>あれこれ指示されるまま　片手を上げたり　意識を身体のいろいろな場所に持っていったりして　何度も声を出した。男性性の声、女性性の声、そして統合した声、最後は自由に出したい声と旋律を奏でた。</p><p>とんでもなく大きく荒々しいケモノじみた声だったろうが　先生は優しく「倍音が素晴らしかったね」と言って褒めてくださった。</p><p><br></p><p>わたしの魂の目的は　この世界をよりよいものに変えるということであり　そのために自ら困難な環境を選び苦しい子ども時代を体験することによって　これからやってくる子ども達がそのような目に合わないようにすることを目指しているのだと教えてくださった。</p><p><br></p><p>「今までは受け入れ体制が整っていなくて大変だったけれどもう大丈夫！あなたの時代がもうじきやってくるの。そして一人ではないのよ。これから魂の家族との出会いが始まります。</p><p>知っていたでしょう？いつか世の中が大きく変わることを。</p><p>これから　やさしくてやわらかくて暖かい方を選んでくださいね。</p><p>あなたの場合は何かをやろうと目標や計画を立てない方がいい。今まで通り氣の向くまま好きなように進んでいってください。きっと大丈夫だから！」</p><p><br></p><p>わたしは号泣した。泣きすぎて呆然として　コートを忘れて帰ってしまい　寒さで氣づいて取りに戻った。</p><p><br></p><p>その一週間後　テレビドラマを観ていた。海外でロケした美しい景色が映し出されていた。</p><p>ふと見ると　出演者のそれぞれが美しい白い玉やピンクの玉に見えたかと思うとまた別の出演者の頭上には七色の光が降り注いでいた。</p><p>わたしは目を擦ってみた。どうもその人の進化段階のようなものが見えている氣がした。一週間前にセッションを受けた影響なんだろうかと疑った。</p><p>その後も別の番組で対談している人達の後ろの人（守護霊さま!?）が画面越しに見えていた。</p><p><br></p><p>またおかしくなってきたと目を塞ぎ頭を激しく振った。</p><p>不調を治そうとヒーラーや霊能者を尋ねる度に自分の封印がひとつまたひとつと解かれ　ある種の能力のようなものが戻ってくるのだろうか!?</p><p><br></p><p>脳の回路を調整してくれるというセッションを受けたことがある。帰りの電車に乗ったら芳しい香りがしてきてここは天国なんだろうかと思わずうっとりしてしまった。五つの香りがするように感じられた。それは車中で香っているのではなくどうやらわたしの脳内だけで香っているのだと氣づいた。</p><p></p><p><span>あとで知ったことだが　五種香（ごしゅこう）という沈香、白檀、丁子、鬱金、龍脳の五つを調合したお香もあるのだそうだ。脳内製造自家製お香は安上がりだし至福だったがそれは一度きりの体験だった。</span></p><p><span>不思議な能力や感覚も一過性のものだ。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>ヴォイスヒーリングを受けてしばらくは様子がおかしかったのでまた病院に連れていかれそうにもなったがそこは何とか切り抜けられた。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>年が明けて　伊勢の神社をたくさん巡った。中でも倭姫宮が氣に入っていた。当時mixiをやっていて「やまとひめ」という名前にしていたくらいだ。</span></p><p><span>伊勢の地を何時間でも徒歩で移動してひと氣のない場所で歌を歌った。歌ってさえいたら狂わなくて済む氣がしていた。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>とにかく歌える機会を探した。</span></p><p>ヴェートーベンの第九の会に入り　年末にはステージに立った。</p><p>シャンソンを教えてくれる人に出会い習いにも通った。</p><p>ひとりでカラオケに行って何時間も歌い続けることもあった。</p><p><br></p><p>ボランティアでヨガ教室のお手伝いをするようになって　大きい声で号令をかけたり　みんなで歌ったりするようにもなった。</p><p><br></p><p>М先生のリトリートにも参加した。磐座（いわくら）など先生が此処という場所で歌った。それぞれの人の声と旋律が美しく幸せな時間だった。突然霊がかりになる人も出たがすぐに落ち着いて一同一安心という一幕もあった。</p><p><br></p><p>М先生は数年後に亡くなられてしまった。</p><p>思えばわたしは仲のよい友達ができてもすぐに引っ越してしまったり尊敬する先生に出会っても事情で会えなくなったり亡くなってしまったり　そんなことばかりだ。それは天の意地悪ではなくわたしが誰かに依存しないようそのように采配されていると考えるようになった。</p><p><br></p><p>「もうじきあなたの時代がやってくる…」</p><p>その「もうじき」って一体いつなんだ!?何度も何度も宇宙に問いかけた…。</p><p>あれから二十年以上たった今でもその言葉を思い出して苦笑する。</p><p>異次元の「もうじき」はこの次元にしてみたらたぶん一世代（30年）位になるんじゃないかしら…？？笑</p><p><br></p><p>「本来の声を取り戻す、持ってきたままの周波数に戻る」</p><p>それを目標に二十年が過ぎたがわたしは歌うことを昨年末でやめてしまった。今は全く歌わない。歌わなくても大丈夫なようだ。もう歌わなくても狂ったりなんかしないし　見えたり聞こえたりもしないし　おかしなことを口走ったりもしないし　夜もぐっすり眠れる。</p><p>ごく普通のおばさん（おばあさん？）　だ。ただ本来の声はいまだ戻ってこない。というか…歌が歌えなくなった。</p><p><br></p><p>けれどこのブログで真実を書くということもわたしの「まことのこゑ」の表現方法のひとつだとわたしは信じてもいる。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><br class="Apple-interchange-newline"><p></p>
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<link>https://ameblo.jp/mitsuki-saraha/entry-12962489370.html</link>
<pubDate>Thu, 09 Apr 2026 19:38:55 +0900</pubDate>
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<title>「安心　安全　進め！」　わたし達は嵐が来ると知って生まれてきた！</title>
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<![CDATA[ <p></p><p>病むことと旅をすることは非日常に身を置くという点において同じことだと聞いたことがある。</p><p><br></p><p>わたしはルーティーンをこなしたり読書したり　創作活動をしたり　断食したり　瞑想したり　時々熱を出したり　喘息になったり　寝込んだり　パニック障害を起こしたり　たまに旅もして数年を過ごした。</p><p><br></p><p>何とかしなければいけないという氣持ちもあって各種セミナー、リトリート、合宿などうんざりするほど受けた。</p><p>いくつか資格を取ったがディプロマは受け取ったらすぐ破って捨てた。卒業証書や賞状、日記、手紙、作品類もほとんど処分した。</p><p>何かを表現したいと願いつつ　反対にわたしの生きた証、痕跡をどんどん捨てていった。</p><p><br></p><p>2003年もきつかった。</p><p>薬は嫌なので英国発祥のバッチフラワーレメディーという植物療法を始めた。（フラワーエッセンス　植物の波動を転写したエキス）</p><p>そこから広がって動物、海洋生物、鉱物、オーキッド、クロップサークル、天使、女神、聖地…ありとあらゆるメーカー、種類を試してみた。</p><p><br></p><p>自分にあうレメディーを選んでもらったこともある。その時「いずれあなたのハートの力が必要になります！」と言われたことが心に強く残った。</p><p><br></p><p>翌2004年は初めて神秘体験をした時から二十年の年だった。　この二十年間医者や薬にお世話になることはなかったが変な体験は無数にあった。</p><p><br></p><p>左手が勝手に動いて知らない人の具合の悪い箇所をヒーリングしそうになって右手でグッと左手首を掴んで止めたり（たまに真面目な人が痴漢をしてしまったという事件があるがひょっとしたらこういう理由もあるかもしれない…）</p><p>まるで天頂に穴が空いたかのように素通しになって何かの声が入ってきてそれと交信していてあっという間に一日が終わったり　寝ていても不随意運動が全身に起きて不眠が続いたり　夢の中に黒板とチョークが出てきて毎晩授業のようなものを受けていたり　寒い夜居ても立ってもいられなくなって裸足で家を飛び出すと道路を五体投地しながらゆっくり進んでいったり　自分の時間だけが一瞬早くなって人との会話がチグハグになったり　話している相手の亡くなったお婆ちゃんの言葉を伝言する羽目になったり…。</p><p>昼も夜も過去も未来も現実も夢も一緒くたになっているかのようだった。</p><p><br></p><p>ある時はすれ違う誰もが独り言を言うので可怪しいと思って　よくよく見ると口は動いておらず　後であれは本音が漏れ聞こえていたのではないかと氣づいた。「サトラレ」という映画があったが…みんなサトラレ化してきたのかと訝ったこともあった。（サトラレは　1999年の漫画が原作、　後に映画化、テレビドラマ化された。　思考がすべて周囲に聞こえてしまうという架空の症状、ある種の天才「サトラレ」の話　）</p><p><br></p><p>本当はあの神秘体験の時　わたしは肉体的には死んでいて…　今は想念の世界をさまよっている状態なのか!?とこの現実を疑ったこともあった。</p><p><br></p><p>いずれにしても　人間とは分かり合えない、無理だと諦めて近所の犬たちにハグして回ったことさえあった。犬だってびっくりしただろう。いきなり知らない人に抱きつかれたら。</p><p><br></p><p>変なことも二十年間　ひとりで我慢してきたがもう終わりにしたかった。</p><p>こんなふうに生かさず殺さず　蛇の生殺しみたいに生きながらえるより　もう決着をつけたかった。</p><p>このまま歳月だけが過ぎたのではたまらない。何事か起きてくれなくては困るんだ！</p><p><br></p><p>神秘体験はもう一度やってくるとヨガの先生に言われたことは常に心にあった。それを待つより自ら起こしに行こうと思った。</p><p><br></p><p>クジラのレメディーというものがあった。注意書きに「このレメディーは魂において後戻りのできない変容を起こします。取り扱いは慎重に！」</p><p><br></p><p>「注意　危険　禁止」は「安心　安全　進め」なんだとわたしは勝手に読み替えた。</p><p>厳密に希釈する割合があって初めはそれに従っていたが何日目かにどうした加減か一本丸ごと原液で飲み干してしまった。</p><p>それは2月の終わりのことだった。</p><p><br></p><p>何が起きたか!!</p><p><br></p><p>地球の核まで凄い引力で引っ張られていくような　どこまでも下降していく感覚がした。深い闇に落ち込んで死んで行くかのような体感。それがどれだけ続いていたかは分からない。</p><p>それが終わった後　ずっと⊕というシンボルが眼前に浮かんでいた。その時は島津家の家紋かと思っていたが何なんだろうととても不思議だった。　（占星術では地球のシンボルであったりカタカムナ文字では「ナ」という文字で核を意味すると後年知った。他にもいろいろ意味があるようだ。イルカやクジラは地球を守ってくれていると聞いたことがあるが…数頭で地球全体を周波数的に繋ぐことができるというクジラ、そのレメディーを飲んだら地球🌏️や地球の核のシンボルが出てきたのも今思えば納得だ。）</p><p><br></p><p>それから何もかもがすべて起こったそのままでよかったんだという再確信。</p><p>今ここのわたしは不完全に見えても別次元のわたしは完璧でいずれそれはここにも降りてくる。いつでも時間差があったんだ…。</p><p>出来なかったことが出来るようになる時が来る！わからなかったことがわかる時も来る！</p><p><br></p><p>オルガンがあればそこに座って鍵盤を押さえればその時必要な完璧な曲が　絵を描けば完璧な絵が　旅に出れば完璧な出会いが…。</p><p>何度も変換された劣化した現実は　もう終わるんだ…。</p><p><br></p><p>そんなことを思って狂喜乱舞小躍りして部屋中をうろうろしていた。</p><p><br></p><p>そのうちに見えている部屋がもっと眩い色の美しい世界になった。　驚く間もなく一段と美しい光景に変わった。覚める度にさらに精妙な色彩とも光とも言えない世界へと変換して行った。</p><p>覚めても覚めても次の次元の現実になっていくかのようだった。</p><p>それを四回は繰り返しただろうか!?</p><p>それが終わると得も言われぬ美しい色彩と光の世界　そこに浸っていた。　　</p><p><br></p><p>家中を歩き回ってから外に出て道端にしゃがんで首を斜めにして空を見上げた。電線が何本も重なって見えてそこに何羽も雀が止まっていた。それが丁度　五線譜と音符♪の黒丸のところのように見えていた。楽譜が苦手で見ただけでからだ中がガチガチになるのに　その時見た電線と雀の織りなす楽譜は面白いと思えた。音楽が聞こえてきそうだった！</p><p><br></p><p>それから後のことは断片的にしか記憶がない。</p><p>とんでもなく大きな声を出したようだ。</p><p>その時　やっとわかった。</p><p>わたしは歌が歌いたかった。本当は歌いたかったんだ！それが魂の願いだった。</p><p>それをいつからか封印したのだ。そしてもう　すっかり声も出なくなっていた。</p><p><br></p><p>楽譜が読めない。縦笛もハーモニカも吹いているふり。オルガンが弾けないから幼稚園の先生にはなれない、貧乏でピアノは買ってもらえない、音楽用語も音楽概念もちんぷんかんぷん、音楽的センスなし、リズム感なし、ピアノの音や交響曲を聴いていると何だか憂鬱になってくる、全くもって音楽というものがわからない…</p><p><br></p><p>いろいろな言い訳をして　歌いたい氣持ちをなかったことにしてきた。</p><p>それがクジラのレメディーを飲んだことで一氣に封印が解かれ声が溢れ出したらしかった。</p><p><br></p><p>誰かに通報されて　保健関係の車両がわたしを連れに来た。抵抗もしたようだ。</p><p>車に乗る時　わたしは人が変わったように真顔になって　駆けつけてきた母に「今だけだからね。心配しなくて大丈夫だから。」と落ち着いた様子で言ったそうだ。</p><p><br></p><p>車中で月と星が輝いて風が心地よかったのを覚えている。たぶんわたしだけが暑くて他の人は寒かったんだろう。</p><p>随分長いこと車に乗せられて知らない街の知らない病院に着いた。</p><p><br></p><p>どうした訳か着いて程なくして年配の男性職員が地図を見せてくれた。その病院は自宅からあまりにも遠くどうしてそこに行くことになったのか不明だが　家からきっちり真北の方角に位置していた。</p><p>その職員さんはその後もとても親切にしてくださったのだが　あの時どうしてわざわざ地図を見せてくれたのかが今だにわからないのだが「真北」であるのに意味がある氣がした…。</p><p><br></p><p>レメディーを飲んだことを病院で言うべきだったかもしれないが　言ったところで通じないと思って何も言わなかった。こんな事も二度目なら完全にイカれた人と思われていただろう。</p><p>おまけに西洋医療の問題点や薬害のことをまくし立てるので厄介な患者と思われていたに違いない。</p><p><br></p><p>通院して服薬し精神障害者認定を受けて障害年金を受けろと病院側から強く勧められたが断固として断った。姉にもそうしないようにと懇願した。</p><p>それに屈することは自分にとっては魂を売るに等しいと思っていたし通院も服薬もする氣はないのだから貰う理由もなかった。</p><p><br></p><p>それにしたって　食事の時　誰かが箸をわざと落としたくらいのことで職員たちが「保護室!!」と大騒ぎして即座にその人を拘束して連れ去っていく光景を見て呆氣に取られた。その保護室送りのイベントが毎日のようにちょっとしたことで起きるのはあまりにもヒステリックにも滑稽にも見えてどっちが異常か　もうわたしにはわからないほどだった。</p><p></p><p><span>（保護室という隔離部屋。自傷や他害の危険がある場合のみ安全確保のために一時的に使用。）</span></p><p><span>まるでお仕置き、見せしめと言わんばかりで　保護室の本来の目的でないように感じられた。</span></p><p><br></p><p><span><br></span></p><p><span>遠い場所にまで姉は時々来てくれた。今度は姉一人が責任をもって退院させるからと約束してくれた。</span></p><p><span><br></span></p><p><span>七十歳くらいでしみ一つなく神々しいような上品なひとりの老婦人がいた。毎日廊下を行ったり来たりしてゆっくり歩いて足腰が弱らないようにしているらしかった。</span></p><p><span>わたしはその人があまりに場違いな氣がして　氣になって声をかけた。</span></p><p><span>こんな場所にいて辛くはないのですか？と。</span></p><p><span>何処で何をしていても愉しいのよとその方は答えた。</span></p><p><br></p><p>わたしは大きな思い違いをしていたようだ。どんな悟った人より聖者よりその人に会えてよかったと心から思えた。</p><p>この人はもはや娑婆には居られずここで守られているのかもしれないと思った。そしてこの場所の本質的な主は院長でもなければ事務長でもなくこの人だったんだと！</p><p><br></p><p>春になって部屋の中にソメイヨシノの花びらが舞ってきて　畳の上に何枚か落ちていた。その花びらを五枚拾って手の平の上に桜🌸の花の形に並べてみた。花の命がなくなるという時にここまで飛んできて　わたしに集ってくれてありがとう！</p><p>わたしは自然にほほ笑んでいた。</p><p><br></p><p>桜が散り果てた頃　わたしは家に帰った。</p><p>途中で一度外泊で戻ったこともあったが　やはり家はいい。</p><p><br></p><p>わたしはやっと思い出したんだ。</p><p>わたしは歌が歌いたかったんだ。</p><p>そして何処で誰と何をしていてもいなくても独りでもそれはきっと愉しいことだったんだ！</p><p><br></p><p>人生がひとつの記憶喪失ゲームで自分を思い出す旅だとしたら　わたしはそのゲームの中でさえ更に記憶喪失になったりして　いったいどこまで複雑にして遊びたかったんだろう？</p><p>シンプルになりたいと願いつつ　ついつい複雑かつ理屈っぽくしたくなる。</p><p>きっとアホだから劣等感の裏返しなんだろう…。</p><p><br></p><p>ただ　これからは　歌うことだけを当分していこうと決めた。</p><p><br></p><br><p></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p></p>
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<link>https://ameblo.jp/mitsuki-saraha/entry-12961635781.html</link>
<pubDate>Wed, 01 Apr 2026 17:53:54 +0900</pubDate>
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<title>旅という名の彷徨</title>
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<![CDATA[ <p></p><p>父が亡くなり遺品整理はすべて姉がしてくれた。</p><p>その中に一冊の古いノートがあった。　三日坊主どころかたったの二日分だけ記された二十歳の父の日記だった。</p><p><br></p><p>１日目</p><p>友人Aと将来子どもを持ったらどう育てるかという話をした。</p><p>友人A「親が面倒見すぎると弱い子どもになるから自分は突き放して育てるんだ。」</p><p>父「そうか…。まだ考えたことはなかったが。」</p><p>父親というものがどうあるべきか自分にはまだよくわからない。</p><p><br></p><p>二日目</p><p>おかしな夢を見た。</p><p>キリストが十字架を背負っていた。なぜだかいつの間にかそれが自分になっていた。群衆が群がる道をゆっくりと足を引きずるように歩いていたがそれとは裏腹に心は澄み渡っていた。</p><p>こんな夢を見て…先をゆく者には風当たりもきつく　これからの人生が苦難の道であるのは当然だと妙に納得した。</p><p>自分なりの覚悟は決まった。</p><p><br></p><p>そんな簡単な日記だったがその時わたしには必要な言葉だった。</p><p>父が子どもに無関心であったのは　この時の友人との会話の影響も多少はあったかもしれないと思えたし　父が漠然と自分の過酷な運命を感じ　自分なりに納得して生きていたのならよかったと思えた。</p><p><br></p><p>本人が亡くならなければ　この若き日の父の言葉を読むこともなかった。</p><p><br></p><p>実は父がその年に亡くなることはアガスティアの葉で言及されていた。（亡くなられるかもしれないという非断定的な表現ではあったが）それから次にわたしに出会いがあってその人物と一緒に長い旅をすることも。それはまだ108週（約二年と1ヶ月）の運命を変える祈りの期間中やその直後で変更が間に合わなかったのかその通りに現実化したが　それ以降のことは預言とは全く別物になった。）</p><p><br></p><p>その頃　わたしはどういう訳か英語の高周波音を　聴くのも発音するのも心地よく感じていた。英語が好きな訳でも得意な訳でもない。その時限定でただその「音」そのものが氣持ちよかったのだ。</p><p><br></p><p>人と話すことが得意ではなかったので強制的にでも自分の意志を言葉で伝えなければならない環境に身を置くことの必要性も感じていた。</p><p><br></p><p>正直なところ　現実逃避の氣持ちも大きかった。特に姉との関係性がきつかった。場所を変えたら何かが変わるかもしれないと漠然と思っていた。</p><p>英語圏なら何処でもいいと　カナダ、アメリカ、オーストラリアの情報を集め出した。その中で唯一返事が来たのが　オーストラリアの学校でそこへ行くことに決めた。</p><p><br></p><p>ホームステイ先の老夫婦は優しく居心地も悪くはなかった。</p><p>わたしの英話力は下から2番目のクラスだった。話すのが苦手なのはどの言語だろうが変わらない。心が開いていなくては話せないのを実感する毎日だった。</p><p><br></p><p>けれどホームステイ先のママの悩み相談に乗れるくらい言っている内容は詳細にわかった。言語で理解している部分は案外少ないのかもしれない。本氣で伝えたいことはほとんど伝わるのを実感した。お互いに分かり合いたい、交流したいという思いがあるなら言葉の壁は問題ではなかった。問題は心の壁だけだ。　</p><p><br></p><p>ママはアル中で朝からワインを１、2本空けて車に乗って出かけてしまうような人だった。19歳の時　ボーイフレンドとのデートの約束の時間に彼が現れず彼は約束の場所に向かう途中で交通事故に遭い亡くなってしまったそうで　申し分のない生活を送っていてもその時の心の傷が五十年近く経っても癒えては居ないようだった。</p><p><br></p><p>わたしが抱いていたオーストラリアという国のイメージは底抜けに明るいものだったが　彼女のみならず　アルコール中毒が非常に多く、社会問題になっていると聞いた。</p><p>白人系の人は強い日差しのために中年以降皮膚がんになる人が多く　夏は日中カーテンを閉め切って真っ暗な部屋に閉じこもって過ごす。</p><p>何事も体験してみないと分からないことばかりだった。</p><p><br></p><p>同じクラスに妙に愛想のよいアジア系の同年代の男性がいた。簡単な挨拶をしたことはあった。</p><p>その人がわたしを尾行したのかホームステイ先に現れた。わたしはギョッとなった。友達が来ているよとホームステイ先のパパは言ってくれたが　わたしは自分の部屋から出なかった。ストーカーじみていて恐怖しか感じられなかった。</p><p><br></p><p>後日　警戒しつつ話したところ　その人は某アジア国で僧侶を二十年していたが　海外で布教活動をしたいと1年程前にやって来たそうだ。</p><p>僧侶であることと中性的な風貌である点で幾分は樂だったが　何となくわたしはその人が恐ろしかった。</p><p><br></p><p>若い頃自分の修行先の寺院を訪れた北欧の在日大使館員が読経の声を氣に入ってくれ　それが縁で東京に半年滞在し　日本各地を大使館員の人達と旅したと言っていた。</p><p>5歳の時には　住んでいた都市に唯一いた日本人が優しい女性で　大人になったら日本人と結婚すると言ってお婆ちゃんに大笑いされたそうだ。</p><p><br></p><p>僧侶の勉強の一環で筮竹（ぜいちく）や四柱推命などの占いや鍼灸などの治療や手技もたくさん学んだそうだ。時々山に登って21日間精進潔斎、断食し読経し続けるとも言っていた。山から下りてしばらくは　押し寄せた信者たちに霊言を降ろすのだが　その時は自分ではなくなっていると言っていた。</p><p>目の前にいるその人は到底そのようなありがたい存在には思えなかったが…。</p><p><br></p><p>友達でさえないのに彼は唐突に言い出した。</p><p>自分は旅が好きだし　祈りの力で世界平和を実現したいので一緒に旅をしないかと。日本の地で光に還っていない霊も上げたいのだと。当然わたしは断った。</p><p>別の日には日本に行きたいのだが自分の国では日本のビザが下りないので結婚してくれないかとも言ってきた。当たり前だがお断りだ。そもそも妻帯を禁じる宗派に属しているのに何を考えているのか　よくわからなかった。</p><p><br></p><p>悪いがわたしはあなたを愛していないと言っても人の話は全く聞かない。お互い拙いカタコト英語で話していたせいで大変な誤解でも生じていたのだろうか!?</p><p><br></p><p>その人の英語はクセが強くて聞き取りにくいがうまく話せなくても臆せず積極的に誰にでも話しかけるタイプでわたしとは対照的だった。</p><p><br></p><p>自分が今死んだら泣くか?と聞くのでそれは知り合いだから泣くかもねと答えたら　それでいいというのだ。</p><p><br></p><p>毎日毎日　顔を合わせればしつこく同じことを言ってきて　わたしはだんだんうんざりしてきた。終いにはもうどうでもよくなってきた。街でばったり会ったりもしたので（今思えばその時も尾行されていたのかもしれない…）運命なのかもしれないとも思い始めてしまった。わたしとは正反対の生命力も強く圧も強すぎる姉から逃れたかったはずが似たタイプを引き寄せてしまったようだった。</p><p><br></p><p>アガスティアの葉に　三年後に人柄のよい男性と出会い　一緒に旅をすると書かれていたことは念頭にはあった。それは変更した未来だったはずなのに現実は古い筋書きに強烈に引っ張られているようだった。</p><p><br></p><p>早々に英語を話すことを諦めてしまった。樂な方に流されていった。</p><p>生涯結婚する予定はなかったので　別に戸籍位問題ないかと思い始めてきた。　</p><p></p><p><span>祈りの旅をするのなら手助けができるかもしれないと言い訳をして問題をすり替えたんだろう。他人の夢に乗っかろうとしたのかもしれない。</span></p><p>そうやってわたしは自分の人生の操縦桿を手放し　他人の人生に巻き込まれていった。</p><br><p></p><p>その人は二十年の禁欲生活から解放された反動なのか　煙草もアルコールも思う存分愉しんで異国でハメを外していて　これで大丈夫なんだろうかという不安もよぎった。</p><p><br></p><p>けれど　いつかの転生で一緒に修行した仲間だったんだろうとは感じていた。もしアガスティアの葉を開いていなかったら絶対に彼と共に旅する選択はしなかっただろう。彼が飼っていた犬の名前が「解脱」を意味する名前だと聞いた時はさすがに笑ってしまった。同じ人生の目的があって　ある期間共に生きる約束をしたのかもしれない。</p><p><br></p><p>まずオーストラリア国内から旅が始まった。長距離を電車に乗って行ったのは　首都キャンベルの戦争記念館とシドニーのオペラハウスだった。</p><p><br></p><p>その後ドイツ、イタリア、スイス、フランス、オランダなどを巡った。</p><p>ドイツのダッハウ強制収容所（アウシュヴィッツと同様にガス室があり人体実験が行われていた）やベルリンの壁跡地とおぼしき場所、ローマのカタコンベ（地下共同墓地）やコロッセオ（円形闘技場）、バチカン市国、国連、南北朝鮮統一展望台など。</p><p>わたし単独だったら決して行きたくない場所ばかりだった。</p><p>愉しい旅ではなく　むしろ辛い旅だったが意味ある旅だと思いたかった。</p><p><br></p><p>彼が自国に戻り婚姻届を提出してきた。　秋に日本でも婚姻届を提出した。</p><p>再度オーストラリアに戻り荷物を整理しその後各々国に帰った。</p><p>実家に戻ったわたしはこのまま連絡が来ない方がいいと思い始めていた。日本語がほぼゼロの人をサポートしていく自信もなかった。わたし単体でこの国で生きるのも困難だというのに二人して住む場所も仕事もなかった。</p><p>それなのに相手は日本に来さえすれば楽勝だと信じ込んでいて日本もそう樂ではないと言ったところで聞く耳を持たず　ゆくゆくは永住し帰化までしたいと考えている様子ですでに温度差を感じていた。</p><p>こうなったらやるだけやって難しいと実感して帰ってもらうしかないと思った。わたしはもうどうでもいいと半ば投げやりになっていた。</p><p><br></p><p>年が明けて二月　関西に集合との連絡が入った。知り合いの伝手で住む場所が見つかりそうだというのだ。</p><p><br></p><p>1999年の関西はまだ1995年の阪神淡路大震災の爪痕が各地に生々しく残っていた。いくつも場所を転々とした。9カ月で4カ所転居した。見つかった家を徹底的に掃除する。 周辺を掃除する。それが終わる頃もう少しよい場所が見つかってまた掃除が始まる。その繰り返しでわたしはここに掃除をするために派遣されて来たのか!?と思った。</p><p>そういえば何年間もこの宇宙と地球の必要な場所なら何処にでも行って必要なことをしますというアファメーションをしていたのを思い出した。あの言葉がこんな形で現実化しているのだろうか…と。</p><p><br></p><p>日本語を学ぶ講座に参加したいと言うので付き添いで行ったことがある。</p><p>ボランティアの中に視覚障害の方が居られた。目が見えない人には声で本質がバレてしまうのではないかとわたしは恐ろしかった。</p><p>その時のわたしは自分のことが好きではなかった。妥協して自分の人生を放棄し　なおかつうまく行かないことを心の中で全部相方のせいにしていたから。</p><p>思えばいつかの母がそうだった。自分のことが嫌いだと言っていた。長いものに巻かれて我慢したから？そして今のわたしは母と同じことをしているのだ。</p><p><br></p><p>体調もすぐれず毎日頭痛と吐き氣がして　不眠にもなり疲弊した。それでも相変わらずその人はわたしを行きたくない場所にばかり連れて行った。一度日本で亡くなられた外国の方の遺骨をしばらく預かったことがあってわたしはもう無理だと思った。</p><p><br></p><p>わたしは家に帰りますと毎日言うようになった。感情をぶつけることもあった。その度にその人は「ありがとう」というのだ。（日本語で）</p><p>そう言われるとわたしはますます腹立たしくなってくる。本氣で言っている訳でなく　二十年間で身についた単なる習慣なんだろうと感じた。それともその人の口を借りて発せられるその人以上の何かの声だったかもしれない。</p><p><br></p><p>1999年11月11日 狙ったわけではないがそんな日付に離婚届を提出した。1999年はいろいろ巷で言われていた年だったから　わたし自身も全部が終わったと感じていた。</p><p>最後に一緒に沖縄に行こうと何度も誘われたが断った。その時のわたしは沖縄には行けないと感じていたから。</p><p><br></p><p>わたしは家に帰った。</p><p>母はとても喜んだ。どうせすぐ帰ってくると高を括っていたんだろう。</p><p>姉には内緒にしていたが数カ月後ばったり道で出くわした。わたしの行方を探そうと探偵に依頼しようとしていた矢先だったようだった。</p><p><br></p><p>相方はわたしに占いも治療も一度もしてくれたことはなかった。わたしの生年月日さえ知らなかっただろう。</p><p>けれどたった一つ亡くなられたお父さんは前世よく修行された高僧であなた達姉妹はその弟子だったと言ってくれたことがあった。それは二十五年後に見ることになる光景へと繋がる伏線となった。</p><p><br></p><p>共に暮らしていた時はその人を少しも信じられなかったけれどその言葉だけは信じられる氣がした。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p></p>
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<link>https://ameblo.jp/mitsuki-saraha/entry-12960846227.html</link>
<pubDate>Wed, 25 Mar 2026 11:51:05 +0900</pubDate>
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<title>父、光に還る</title>
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<![CDATA[ アガスティアの葉を見に行った翌年の6月初めのこと。<div><br></div><div>姉から連絡があった。</div><div>久しぶりに父の面会に行ったところ</div><div>父は激痩せしており　病院に事情説明を求めても埒が明かず　「自宅で介護するのは大変ですよ」という病院側の制止の言葉を振り切って　突発的に退院手続きを取り　父を家に連れ帰ってきてしまったというのだ。</div><div><br></div><div>実際　父は見違えるほど痩せこけていた。　しばらく姉の家にいてもらい　わたしはアルバイトが終わったら姉の家に直行し　午後から夜の　姉が帰ってくるまでの時間　父と二人で過ごすことになった。</div><div><br></div><div>と言っても介護的なことをする必要は一切なく　父はノートとペンさえあればご機嫌さんで1日中過ごしていて　一切　手はかからなかった。</div><div><br></div><div>お昼になったら姉が父のために用意したお昼ごはんを出して食べてもらい　後片付けをする　くらいのことだ。</div><div><br></div><div>わたしは別室で毎日お昼寝をしていた。眠っても眠っても一日中眠たかった。わたしはいつでも眠いタイプだったが父がそばにいるともっと眠れる氣がした。ほとんど知らない他所の人同然の父なのに　一緒にいると樂で安心でき　素の自分でいられたのだ。</div><div><br></div><div>少しずつ父の子どもの頃の話などを聞いた。</div><div>母親が病弱だったため仏壇屋さんに預けられて育ったことや小学生の時は手が付けられない暴れん坊で　海や川では何時間でも泳ぎ続けられる位元氣で体力もあったそうだ。</div><div><br></div><div>旧制中学の時　動員され東京某所にて穴掘り作業などをしていた。</div><div>昭和二十年三月十日　東京大空襲の夜　攻撃を受け　隣にいた人が直撃を受け亡くなったそうだ。</div><div><br></div><div>徴用なので自分の意志で帰って来るなんてことは許されなかったと思うのだが　どういう経緯かはわからないが父は故郷に中途で戻って来た。</div><div><br></div><div>大空襲以後　父は毎日頭痛がひどく体調も優れなくなったそうだ。</div><div><br></div><div>今思えばPTSD（心的外傷後ストレス障害））だとわかるが　そういう時代ではなかった。知識もなければ理解もない。そして誰もが少なからず心的外傷を抱えている状況だっただろう。</div><div>父の場合　男たるものが怖くて逃げ帰ってきたという事実が更に父を追い詰めていたかもしれない。</div><div><br></div><div>そのまま東京にいた人たちは戦後出世して今も要職についていると父は話した。</div><div>「帰ってきてよかったよ！あくどい事しなくて済んだからねー！」とわたしは父に言った。父は静かに笑っていた。</div><div>寧ろ自分の意志で逃げ帰って臆病者の誹りを受ける父でよかった。平氣なふりで次の日からもそして今だに業務命令に従う父でなくてよかった！</div><div><br></div><div>強がりでなく　わたしは本氣でそう思った。</div><div><br></div><div>わたし自身の謎も少し解けた。物心ついてから毎日頭が痛かった。頭が痛いのが通常なのかと思っていた。ひょっとしたらそれは父経由の何かだったかもしれない。</div><div><br></div><div>子どもの頃　母がよく愚痴っていたものだ。「あの人は地震が来た時　わたしを突き飛ばして猛スピードで真っ先にひとりで逃げて行って　臆病で男らしくない最低な奴だ」と。</div><div><br></div><div>母の氣持ちもわかるが　父はそれどころではなかったんだ。</div><div>優しいとか思いやりや勇氣があるとかないとかそういうレベルの話ではなく　父はずっとサバイバルモードのまま　生きていたのだとわかった。</div><div><br></div><div>わたしもパニック障害などの体験をしなければ父のことを本当には理解できなかっただろう。</div><div><br></div><div>日中父と話し　帰宅して母と話す。　わたしはこの二人の元夫婦の仲介をしているような氣がしていた。</div><div><br></div><div>母は娘二人が父を見ていることについて内心面白くはなかったかもしれないがもう怒ってもいなかった。</div><div><br></div><div>夏になると父と姉とわたしの三人でおむすび🍙を持って電車で山川が美しい温泉町に行った。わたしが２、3歳の頃大人数でキャンプで行った場所だったろう。</div><div><br></div><div>花火大会では地面にゴザを敷いて長い時間空を見つめて　花火を満喫した。</div><div>その時の父の横顔がゾクッとするほど美しく神々しくさえあったのを覚えている。</div><div><br></div><div>父の産土神社の夏祭りにも出かけた。その時の父は心底嬉しそうだった。姉とわたしの写真を撮ってくれた。</div><div><br></div><div>旅好きの父は長い入院生活では何処にも行けてなかったのかと思いきや　兄と一緒に日本中の主たる寺社はほとんど参拝したのだそうだ。</div><div><br></div><div>ある日　夢で母親に会えたと嬉しそうに話した。（後から思えばこれはお迎え現象といわれるものだったのか…？）母親のことは大好きだったが父親のことは少し苦手だったのだそうだ。</div><div><br></div><div>丁度3ヶ月が過ぎ　姉もわたしも少し苛立ってきた。この期間で父は霊的にレベルアップしてわたし達の闇を炙り出してくれていたのだろう。わたし達がイライラしていても父は平常心を保っていて　特に長時間一緒にいる姉は様々な感情が噴出して来ているらしかった。</div><div><br></div><div>これ以上一緒にいるのは無理だという判断で老人施設に入居することになり健診を受けた。施設に移るのを父は楽しみにしていた。</div><div><br></div><div>だが…</div><div><br></div><div>思いがけず　結核という診断が下された。父があれほど痩せた理由も判明した。院内感染だったのだ。</div><div>どちらにしても退院させた姉の判断は正しかった。</div><div><br></div><div>一時的に結核専門の病院に入院した。</div><div>一度見舞ったのだが　わたしは感染が恐ろしくてマスクを二つ縫い合わせて二重にして父の病室に入った。そのわたしの顔を見て父は氣を遣って慌ててマスクを着用してくれた。それが何だか申し訳ない氣がしてしまった。</div><div>わたしはただただ恐ろしかった。</div><div><br></div><div>中学2年だったか　胸部レントゲン写真が要精検と言われ　授業中に保健所に行かされた。精密検査の結果は異常なしだったのだが　その後しばらくは誰もわたしのそばに寄りつこうとはしなかった。</div><div><br></div><div>そんな悲しい記憶があったのに　わたしは父に対して同じようなことをしてしまったのかという悔いが残った。</div><div><br></div><div>その悔いる氣持ちもあってコロナ騒動の時のわたしはマスクをしなかった。マスクは恐怖の象徴として　あの時わたしに強烈に刻まれ　マスクの意味を習得済みだったから。</div><div><br></div><div>幸いにも姉もわたしも結核感染はしていなかった。</div><div><br></div><div>父は遠方の病院に転院した。</div><div>わたしは幼少期から中耳炎を繰り返し　その頃は耳の激痛が酷くそれを言い訳に自分のことにかまけて暮らし　あっという間に　年末になり年が明けた。姉も仕事が忙しく　正月になって　父の所に二人でやっと行けた。</div><div><br></div><div>父は薬漬けになっていた…。</div><div>何日か前に突然病室の窓という窓を開け放ち空を指差して大きな声でわーわー騒いでいたそうだ。</div><div>鎮静剤を打っても打っても物凄い勢いで起き上がり　何度も打たれたようだった。</div><div><br></div><div>外泊の手続きをして　連れ帰った。父はわたし達を待ちわびていたように見えた。長い車中　静かに横になっていた。</div><div>姉もわたしも結核のことはもう忘れていた。</div><div>先のことも考えていなかった。</div><div><br></div><div>姉の家に戻ると父は夢にうなされて大きな声で何か叫んでいた。</div><div>「危ない！熱い！こっち。こっちへ逃げて！〇〇ちゃん、△△ちゃん！早く。」</div><div>父はそう言って必死にわたし達を呼んでいるのだとわかった。</div><div><br></div><div>父は東京大空襲の夜を見ていたのだ。</div><div>姉とわたしがいる場所は燃え盛っていて父は別の場所でそれを見ているらしかった。まるで此岸と彼岸。</div><div><br></div><div>その時「火宅」という言葉が連想された。</div><div>法華経』の「譬喩品（ひゆほん）」、火のついた家から子どもたちを逃がそうとする長者の話。</div><div><br></div><div>父は辛そうだったが　わたしは少し嬉しかった。父がわたし達を思う本心が感じられたから。</div><div><br></div><div>わたしが朝5時にアルバイトに出かける時　父の居る部屋は静かだった。</div><div><br></div><div>暗い道を４０分くらい歩いた時　星がひとつ流れた。それがこれまで人生で見た最大の流れ星で思わず息を飲んだ。その瞬間わたしは願い事でなく　ただ「かみさま…」　と心の中で呟いた。説明のつかない神妙な心持ちがした。どうした訳か胸の中心の奥にチクと刺すような痛みも走った。何？と思ったがそのままいつものように仕事をこなした。</div><div><br></div><div>その日の午後は高校の同窓会で　よい思い出のない高校時代の記憶を終わらせるために参加を決めていた。会は特にどうということもなく終わり　帰宅した。電話の呼び出し音が続いていたが　疲れて眠っていて出ることもなかった。</div><div><br></div><div>遅い時間になってまた電話が鳴り続けた。出てみたら姉で　父の様子がおかしいのですぐ来てとのこと。</div><div><br></div><div>姉は昼くらいまで寝ていたようで父も静かに眠っているのだと思っていたらしい。</div><div>だがあまりに静かで可怪しいと思い始め　伯父とわたしに電話をしたそうだ。</div><div><br></div><div>伯父もわたしも姉の所に駆けつけた。救急車も呼んだが　もう対応できないということで帰っていかれた。</div><div>病院に連れていき　もう日付は変わっていたが父の死亡確認が済んだ。</div><div><br></div><div>「あの時」だったとわたしは確信した。父が帰還した時刻。だから胸があんなに痛かったんだ…。知らせてくれたんだ…。</div><div><br></div><div>父の葬儀で姉は喪主を勤めた。母は出席しない代わりにまだ誰も来ない時間に顔だけ見に来てくれた。</div><div>嫌がっていた母に　わたし達（母とわたし）が親友だとして　その親友のわたしのお父さんに会いに来てくださいと懇願したら　しぶしぶながら来てくれた。最期には形だけでも和解して欲しかった。</div><div><br></div><div><br></div><div>『空の右　そこから左流れ星🌠</div><div>その刻（とき）父は　ひとりで逝きぬ』</div><div><br></div><div>『在りし日は　時に想ひし</div><div>亡き今は　我が遺伝子に　父は充ち居る』</div><div><br></div><div>父の死に対しては　悲しみよりも　還れていいなあー、わたしはこれからどう生きていけばいいの？という氣持ちが強かった。</div><div><br></div><div>失うことの悲しみを先に味わわせてくれて　父の存在感自体が薄かったことで　わたしはあまり泣かずに済んだ。</div><div>それは大きな救いでもあった。　</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/mitsuki-saraha/entry-12960333831.html</link>
<pubDate>Fri, 20 Mar 2026 15:01:32 +0900</pubDate>
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