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<title>バロンのブログ</title>
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<description>よーちでびょーきな大学生です。２２歳になります。毎日がハラキリです。</description>
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<title>９冊目</title>
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<![CDATA[ <a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=11175628" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">友情の文学誌 (岩波新書)/高橋 英夫<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F411KPS8HYJL._SL160_.jpg" border="0"></a><br>￥777<br>Amazon.co.jp<br><br><br><br><strong>「およそ人間のいる所、必ず友情が生まれるという考えも成り立つ。それは貴賤貧富を問わない。老若男女にかかわらない。その点で友情には無条件性、普遍性があるのは確かだが、文学史上の友情はそれとはやや違う別の側面を示してきた。人間について言えば、志や夢や理想を求めている人物に「友情」が見えてくるのだ。シチュレーションでは、別離や失意が覆いかぶさってくる中で、パセティックな内面的な輝きを放つ「友情」が見えてくるのだ。この傾向が文学史通じて顕著だったことは否めない。」</strong><br><br><br><br>「文学」をめぐる様々な友情について書かれています。漱石と子規、芥川龍之介とその周辺、白樺派の人達、小林秀雄一派、そしておまけとして杜甫と李白からプラトンまで・・・。どの「友情」にもそれぞれに独自の、様々な諸相が見えます。<br><br>特に白樺派についての記述が面白かったです。白樺派は、漱石を「先生」と見て互いに切磋琢磨をしつつも、特定の「師」としてはみることがなかった。漱石的な「運命」「宿命」から自由になることができた。「成長」という白樺派に通底する主題が出てくるのには、こういう背景がある。というもの。それが武者小路実篤の「友情」と漱石の「それから」をうまく対比させながら書かれていて興味深いです。<br><br><br>筆者は繰り返し、「師弟」の中での友情と同年代の友情とを、それぞれ縦の糸と横の糸として、友情関係とはその２つによる織物であるということを主張しています。その上で、漱石と寺田寅彦はそのどちらも兼ねていたし、漱石と子規なんかは単なる「縦」だけではなく、互いに「師」であり「弟」でもあった、などなど。寺田以外の漱石門下については、縦の糸が強すぎたために、漱石死後の混乱があったのだ、なんてことも書いてあります。<br><br>また友情の「近さ」についても同じくらい重要視しています。<br>例えば芥川の友情の、過度の「近さ」。手紙や日記を見てみても確かに異常です。その上で、そのような「近さ」に依存しつつ、それに疲弊していった芥川象を提示し、だからこそ晩年のキリスト教への傾倒（特にマリア様への）、つまり最も近くて、かつ遠い存在への全面的な愛に繋がっていくのだとも述べています。芥川論の中には似た見方もよくありますが、こと「友情」という面からのアプローチは新鮮でした。<br><br><br>そんな感じで様々な「友情」が書かれ、最後は小林秀雄一派です。<br>小林秀雄の友人イジメ。そこに叙情や感傷を一切認めない、小林秀雄独特の、硬質で過激な友情を見てとります。そしてそれは、「友情は外見上の友情には止まっていず、個々の文学者の個性や存在感や知的スタイルに沈澱していった」当時の世代の特徴でもあると。<br>まぁ、あんなことをするのは時代の変化よりも、単に「小林秀雄」だから。って気もするんですが、それより面白かったのは、その小林流の、息がつまるような友情、それを「風」のように（本文より）癒してくれる唯一の存在が河上徹太郎であったということでした。僕は今までそれは青山二郎がしていたのだろうと思っていたのです。でも、小林と河上の間で文学的な「棲み分け」をしたエピソードなんかを見ると、確かに小林秀雄には似合わないやわらかな友情のイメージが感じられますね。<br><br>そして最後の最後は、小林秀雄一派でありながら、その亜流であった、吉田健一。<br>自由で奔放、家族でさえ友情を見出してしまう、吉田健一を最後にもってくるのは、その後の平成にかけての「友情」の形の変化を示唆する作者の狙いなのでしょうか。<br><br><br><br>ちなみに、筆者はたぶんモーホーです。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mizrinmizrin/entry-10617103782.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Aug 2010 03:35:37 +0900</pubDate>
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<title>８冊目</title>
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<![CDATA[ <a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=11175626" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">カブキの日 (新潮文庫)/小林 恭二<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F51NGDWBA49L._SL160_.jpg" border="0"></a><br>￥580<br>Amazon.co.jp<br><br><br>さすがの小林恭二です。<br><br>いやー素晴らしかった。<br>これほど完成された「芸術小説」が今まであったかなってくらい。<br><br>懐かしさを覚える様なファンタジー小説でありながら、いかにもポストモダン文学って感じの知的で変幻自在な構成と筆致が見えるし、しかもそれでいて芸術の真髄とは何ぞやという主題をしっかりとえぐっています。<br>それらが力技ではなく、緻密に織り込まれているのがすんごい。<br><br><br>「革新」と「伝統」、「死」と「生」、「本質」と「形式」、「自由（混沌）」と「藝」。これらは伝統芸能においてよく主張される二項対立ではあるけれども、それらは本当に対立するものなのか。そもそも別の概念であるのか。それらを１つのものとして提示することができるのも藝術なのではないか。そういうことを筆者は小説という形式で問いかけています。<br>２つの物語が同時並行的に描かれ、それらが１つの話に収斂していくという手法は、さほど真新しいものではないですが、それぞれの物語の中で、読者を巻き込みつつこれらの対立軸を突き詰めていき、最終的には一気に加速しながら統合していくその流れの見事さに、僕は快感すら感じました。「すちゃらか」が名古屋丸へのアンチになっていたりと、ネタのふりまき具合も巧い。<br><br><br><br>物語では最後に蕪と月彦が、阿国と山三郎をそれぞれ継承することで、カブキはいわば「アダムとイブ」による原始の時代へと、歴史的な回帰を遂げるわけですが、そこの文章が特に素晴らしかったです。<br><br><strong><br>「誰もが経験したことがないほど生命への共感を味わっていた。そしてそれは同時に死への共感にもつながっていた。生が素晴らしくて、なぜ死が素晴らしくないことがあろう。」<br><br>「月彦の麻衣は死の栄光を人に知らしめるような、気品と華やぎに満ちていた。そこには永訣としての死ではなく、次なる生命の段階へ進むため、いったん行動を休めて蛹になるような、そんな高揚した気分があった。<br>蕪はあくまで生の美しさ、生の喜びを踊り上げることで、愛人に「生はこんなに素晴らしいのよ、だから早く戻ってらっしゃい」と語りかけているようだった。<br>舞台上には生の華やぎと死の華やぎが交錯して、目も眩むばかりの生死の実相が顕現していた。」</strong><br><br><br>生きながら死に、死にながら生きる、傾き者の姿。<br>歌舞伎を見に行きたくなっちゃう。<br><br><br><br>また、この小説では「亡霊」の話が折々に挿入されています<br>崇徳院であったり、「京右衛門」であったり、船舞台の人攫いであったり。また、京右衛門が、キリ場に阿国と山三郎が登場する演目を選ぶのも、きっと彼らがカブキの神様の亡霊に取りつかれていたがゆえなのではないでしょうか。<br>亡霊とは、藝術の、このような死と生の危うい緊張関係を保ったまま、永遠の命を手にしてしまったもののことなのでしょう。<br>物語の序盤で、「襲名披露への拍手は家門への拍手である」「人々が熱狂するのは、偉大な魂が受け継がれてきたという、その事実に対してである」というフレーズが印象的ではありますが、<br>京右衛門の死後、坂東京堂に継がせることで、その亡霊を沈めたという箇所から見ても、<br>亡霊の生々しい「生と死」をそのままに引き受けていくことが、やはり襲名という儀式の本当の姿なのだ、という作者の主張が垣間見れる気がします。<br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mizrinmizrin/entry-10617103376.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Aug 2010 03:31:30 +0900</pubDate>
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<title>７冊目</title>
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<![CDATA[ <a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=11175619" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)/長嶋 有<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F31-iMf9JUBL._SL160_.jpg" border="0"></a><br>￥550<br>Amazon.co.jp<br><br><br>長嶋有。<br><br>年齢の出自も分からない主人公が、なぜかフラココ屋というアンティークショップに住みついているところから始まる不思議な小説。<br>主人公とフラココ屋周辺の人との何気ない交流が描かれています。隣人の姉妹が双子で、姉が藝術学校に通う天才肌、妹が定時制学校に通うコスプレ好きのちょいメンヘラとか言う設定に、それなんてエロゲとツッコミたくなる気もしますがそういうお話ではございません。<br><br><br><br>さわやかな印象が残ります。<br>何か主人公が大きなことをするわけでもない。ただ周りの人間とのんびりと日常を送るだけ。ゆっくりと時間が流れています。<br>おそらく、その「さわやかさ」は、過去を決して否定しない登場人物たちの姿勢からも生まれるものなのでしょう。例えば、「アンティーク」や「相撲」といった「過去」を象徴したワードがポジティブなイメージで使われていることはとても重要です。やみくもに新しさを求めるわけではなく、周りの人や者との、時の流れに順じた穏やかな付き合いを続けていく。そんな人達の生活。<br><br><br>また小説の形式としても、一人称視点で、全て主人公の言葉で書かれているのですが、自分に疑問やツッコミを入れながら進めているところが特徴的です。例えばこんな感じに。<br><br><strong>「いいや、伝えなくても。向かいの、遅くまで作業していたらしいバイクショップの若者が肩をすぼめて向こうの道を歩いて行くところだ。楽しくない夜に呑むワインだって、まずいよりはおいしいほうがいい。布団に戻る。瑞枝さんの家にはコルク抜きがあるだろうか。あるだろう。さっきは適当に返事をしてしまったが、瑞枝さんの子供の生死の提供者になっていいかどうか、改めて考えてみた。いいといえばいいし、困ると言えばすごく困る。そう思った。セックスはしたいだろうか。まあやぶさかでないと思った。」</strong><br><br>（引用ところがアレですが、ここが一番しっくりきたので・・・）<br>このような記述が続くことによって、意識の分断を妨げられつつ、心地よい連続性が与えられている、そしてそのことがこの小説のさわやかな印象をさらに強いものにしているのは間違いありません。<br><br><br><br>ただし、読み終わった後、いささかの寂しさが生まれる小説でもあります。<br><br>穏やかに時がながれているとはいうものの、実は時間とともにほんの少しずつ環境が変わっていきます。例えば、夕子ちゃんはできちゃった結婚をするし、瑞枝さんはちょっと遠くに引っ越してしまう。店長はフランスに買い物に行く。そして主人公だけが、ちょっと取り残されている。いつのまにか連続性を持ったままでいるのは主人公だけになっていることに、読者は気づいてしまいます。ストーリーがないようで、実はしっかりとしたストーリーがあるんです。<br><br>主人公がかつて通っていた大学に行った時の描写<br><br><strong>「『大学って不思議だな』車が門を出たところで振り向いて僕は言った。とても入ったり出たりしやすくて。実際に自分の家のように出入りするのに、ある時から突然、出たり入ったりしなくなる。」</strong><br><br>来年同じ気持ちをもつだろう僕は、この文章にちょいとセンチになってしまいました。<br><br><br>自分は変わろうとしなくても、周りは少しずつ変わっていってしまう。<br>そのうちその差は思いのほかに広がっていて、自分のほうが変わらなくてはいけなくなる。でも別に変わりたいとも思わない。<br>妊娠した夕子ちゃんを見て主人公が思わず「いいなぁ」って思うのもなんとなくわかります。何かきっかけがなければ。同じ無精者として主人公には感情移入してしまいますね。<br><br><br>結局、主人公がなんとなしにフラココ屋を出ていくところで、この小説は終わります。<br>そしてこの数カ月を「旅をしているようだった」と振り返る。<br>でもだからと言って旅を止めるということでもないのでしょう。<br>主人公はきっと新たな場所で、新たな旅を始めるのだと思います。また新たな場所で無為でおだやかな日々を過ごしているに違いない。きっとそういう人間のはずです。<br><br><br><br><br><br>余談ですが、古き良き力士として「貴闘力」が称賛されている中で、「店長」だけが、「あいつ競馬場で大負けしてたの見たよ」ってポロリというセリフが個人的にはツボでした笑。<br><br><br>
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<pubDate>Thu, 12 Aug 2010 03:28:29 +0900</pubDate>
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<title>６冊目</title>
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<![CDATA[ <a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=11175608" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">ピアニストという蛮族がいる (中公文庫)/中村 紘子<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F41AmTaj6roL._SL160_.jpg" border="0"></a><br>￥800<br>Amazon.co.jp<br><br><br><strong>「ピアニストたちにとって生命のための水のように必要なものは、聴衆である。モーツァルトの昔から、ピアニストは聴衆を求めて旅に出た。聴衆がそこにいると聞けば、いかなる未開の地であろうと、ピアニストたちは夢を抱いて出かけてきたのだ、そしてこれは、現代においても同様である。」</strong><br><br><br><br>日本を代表するピアニストである中村紘子のエッセイ集<br><br>まずタイトル。ピアニスト＝蛮族だと。ピアニストなんて高価なタキシード（又はドレス）を着込んで、澄ました顔で登場して、華麗に（たまにおかしな人もいるが）演奏して、そんで何百万、人によっては何千万というギャランティをもっていく人ででしょ。というかまず第一に家もお金持ちだし。蛮族なんてそんなそんな。ってツッコたくなるでしょうが、それが中村紘子の第一の狙い、なんでしょう。<br><br>エッセイ集ではありますが、中心は幸田延、久野久、アイリーン・ジョイスという３人の女流ピアニストの伝記のようなエッセイ。<br>３人とも、日本とオーストラリアという、クラシックの中心からはかけ離れた「辺境」とも言える場所で生まれ、それゆえに、大きな才能を持ちながらも、ピアノとの間でもがき苦しんでいく。そんな話なのですが、これがもう全て泣けるのです。<br><br><br>特に久野久。彼女は、複雑で貧しい家の生まれで、足に先天的な障害も持っていました。きっと嫁にもいけないだろうと考えた兄の計らいで、自身で生計を立てられるようにするために民謡などの音楽を習わせたところ、しかしながらこれがものすごい才能の持ち主だということが分かる。折しも、日本においてピアノという文化が勃興しつつあった時期で、ならちょうどいいということで試しにピアノをやらせてみたら、あっという間に日本でトップになってしまいます。まるで何かがとり憑いているかのような彼女のベートーヴェンのソナタは当時の多くの知識人を唸らせていたそうです。<br>しかし、意気揚々と、そして日本中の期待を背負って出かけたヨーロッパ遠征。彼女は本場のレベルに圧倒されてしまいます。特にペダルを駆使した繊細な音色は、ペダルを強弱の道具としてしか理解してなかった（というか理解し得なかった）彼女にとって、とても衝撃だったそう。リサイタルを開ける目途などまるでなく、悶々と過ごす日々。尊敬するザウワー教授に称賛され、一時気持ちを取り直すものの、後に単なる欧米人のリップサービスだっただけだと分かり、２回目には逆にボロクソに言われてしまう。彼女の絶望は回復不能なところまで達してしまいます。そして最後には自殺する。<br><br><br>幸田延にしてもアイリーンにしても、結末は同じように悲劇的。<br>クラシック後進国で生まれた者の、才能では越えられない技術的な壁、外からの冷たい視線、そして内なる絶望・・・うーん、かわいそう・・・<br><br>ただこれらの文章が「可哀想」以上に、愛情と親近感をもって書かれていることも印象的でした。幸田延にしても久野久にしても、アイリーンにしても、筆者はまるで自身の友達の出来事でかのように描いています。その辺がすごくいい。<br>冒頭のピアニストに対するイメージは一部で事実だとは思います。しかしながらそのような高貴なピアニストのすぐ傍らには、彼女らのような「蛮族」が未知の領域を切り開いた歴史の堆積があることを忘れてはならないということをこの本は教えてくれます。そしてそれ以上に、ピアニスト自身も自分が「蛮族」であることを完全にやめてはならないという作者の想いも、はっきりと見えてきます。<br><br>次にピアノを聞きに行く時は、聴衆を求めて草原をさまよう繊細でロマンチストな「蛮族」を、僕ら聴衆も精一杯の愛と夢を持って迎えよう、そんな気にさせてくれる本でありました。<br><br><br>それにしても驚かされるのは、中村紘子の文才。<br>リズム良く、強弱のバランスもタイミングも良い。<br>繊細で情緒的でありながら、ところどころにウイットに富んだ小ネタを入れて、緊張と弛緩を連続させながら、全体としてはとても軽やかに文章が流れています。<br>あー、これ素晴らしいピアノソナタを聴いてる時の感覚だー。<br>さすが名ピアニストだわぁ。<br><br><br><br><br><br><br><br><br>ただ、こんなピアニストでも<br><br>＜ニコニコ動画＞<br><script type="text/javascript" src="https://ext.nicovideo.jp/thumb_watch/sm3474000?w=320&amp;h=240"></script><br><br>こんな風になってしまうから、まさに諸行無常なのですが。<br><br>蛇足でしたね。<br><br>
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<pubDate>Thu, 12 Aug 2010 03:21:56 +0900</pubDate>
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<title>５冊目</title>
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<![CDATA[ <a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=11175594" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">毒身 (講談社文庫)/星野 智幸<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F611yPdk%252BwgL._SL160_.jpg" border="0"></a><br>￥540<br>Amazon.co.jp<br><br><br><strong>「独身は自分のアイデンティティを自分で支えているから、ときどき自家中毒を起こす。その意味では独身は毒身なのだ。毒身者の存在の根拠は自分自身にある。毒身者は、毒身者自身という単位に帰属している。そういう単体のネットワークとして、『毒身帰属の会』はある。時空を超えて今、つながろう」<br></strong><br><br><br>毒身（＝独身）をめぐる短編３つからなる小説。久しぶりの星野智幸であります。<br><br>中心となるのは、独身温泉というお話です。<br>数人の独身者による古アパートでの共同生活を描いています。入居条件は独身であること、群れない・縛らない・甘えないの三原則に当てはまる人。登場人物が全て同性愛者、というかいわば「中性的」な人間であることが面白いところです。<br><br>物語はそれぞれの独身者のエピソードや描写が１つ１つ組み込まれつつ進みます。よくある共同生活系の小説のスタイル。<br><br><br>キーパーソンはテンコという人。<br><br>彼女はヨシノという人物の恋人なんですが、「１人で生きる」という信念を持っているつもりではあるようですが、その実ヨシノに深く依存しています。あくまでもヨシノとの関係が前提にあって、その上で傷つかないためとか、通俗的な恋人関係への軽蔑もあって、自戒的に１人であろうとしているだけ。<br><br>こういう人よくいるいる。<br><br>そんな彼女は、先に入居したヨシノに引きずられるように「独身温泉」の一員となるのですが、紆余曲折を経て（ヨシノとの一時的な別れ、メキシコ旅行等）、一人前の「独身者」となっていく、そこがこの小説のハイライトです。<br><br>一人前の独身者とは何か。<br>簡単にまとめれば、それは自分の中で守るべきところは全力で死守しながら、そうでないところは積極的に無防備であろうとする（それは恋人との関係であっても）人間のことのようです。<br>その上で、テンコはその守るべきものを「素直さ」であると言います。この「素直さ」さえ守れれば後のところはどのように傷つこうとしょうがないし、構わない。ただ、その素直さを一人で守ろうとすると、どうしても毒が入りこみ、失われてしまう可能性がある。だからこそ、その毒を中和するためにヨシノの力が必要であると言います。そしてヨシノのもとに戻っていきます。<br><br>あれ？じゃあ元の鞘に戻っただけじゃんって思われるのかもしれませんが、決してそうではないです。儚く壊れやすく、故に自己防衛的になりがちな恋人関係から、１人の確固たる独身を前提とした開けた生き方へ、そうした人間関係における大きなパラダイムの変化があります。もう一度「個人」を共同体の最小単位にしよう。そして無限で豊かな可能性を人と結び合おう。その上で、必要な部分があれば、その都度特定の人と特別な関係を築くことは別に構わない。そのような生き方が、この小説では提示されています。<br><br>と、こう書くとものすごく政治的な臭いがしてしまうのですが、作者が言いたいのは、もっと精神的・文化的な意味での豊かさにおいて、であろうと思います。<br><br><br>この小説で筆者は、別に独身であれと言っているわけではありません。しかし「１人の人間であれ」とは強く主張しているように感じます。この小説の後、星野作品は、共同体を主題とした重厚な小説が続いていくわけですが、本作品はその端緒であり、かつそうした大きな挑戦に向けた意気込みのようなものが伝わってくるような気がします。それは星野の師匠とも言うべき島田雅彦がかつて「僕は模造人間」を書き、そして島田の敬愛する三島由紀夫がその昔「仮面の告白」を書いたのと同じような意味で。<br><br>
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<pubDate>Thu, 12 Aug 2010 03:14:43 +0900</pubDate>
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<title>４冊目</title>
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<![CDATA[ <a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=11175577" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">進化論という考えかた (講談社現代新書)/佐倉 統<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F41TRFZK41ZL._SL160_.jpg" border="0"></a><br>￥756<br>Amazon.co.jp<br><br><br>大きく分けて２つのことが書かれています。<br><br><br>１つは、「進化論」の歴史について。<br><br>「進化論」というと、「ヒトがサルから進化したということを示した説である」という点だけを理解している人も多いとは思いますが、進化論の思想とその中核部分とも言える自然選択理論は、その後も大きな発展を遂げ、多くの学術分野に影響を与え続けています。本書では、動物行動学、社会生物学、進化心理学といった学問について説明しつつ、進化論を中心とする生命科学がいかに物理学や化学、さらには情報科学といった他の領域と関連しあいながら、人間社会の様々な謎の解明に寄与していったかについて、順序立って述べられています。ここで重要なのは、心理学や社会学といった、私達がややもすれば「文系」の学問であると思ってしまうような領域にも、「進化論という考え方」が広く浸透していることです。まぁフロイトだって進化論をヒントにしていたわけで、当たり前と言えば当たり前なのですが。ここで筆者が強調しているのは「知のインフラ」（本書より）としての進化論の意義と汎用性です。<br><br>特にユニークなのは「ミーム論」。これは人間の文化システムにも遺伝子のように自己複製されながら、人から人へと伝わっていく伝達単位があるという論です。そこでは進化論的な「自然選択」がなされ、強いミームが弱いミームを淘汰し、人間の文化が変化し、進化していきます。ちょっとオカルトっぽい感じもしますが、その物質的存在がさほど問題なのではなく、そのように定義することで、集団遺伝学などで発達してきた複製子の頻度変化を定量的に分析できるツールを人間の文化の解析することができることが画期的なことらしい。なるほど。<br><br><br>で、そんな「進化論」の意義をつらつらと述べている筆者が一番に言いたいこと、それは要するに自然科学と人文科学との近接がこのようにしてできるのではないかということ。なーんだよくある話じゃん、ってなるかもしれなくて全くその通りなんだけど、筆者が「科学者の責任」に関することまで踏み込んでいるのは偉いとは思いました。つまり、科学者は「科学」をツールとしながらも、それを社会的なものとするために「物語」を書かなければならないと筆者は力説します。なるほど、確かに第１章から第３章までのお話は「進化論」を主役とした物語だったわけです。科学を物語として伝えることで、私達の生活を向上させる、社会的・政治的な役割を果たすことができる、そういうことを筆者は述べています。もちろんそのような「物語」が恣意的なものにならないように、筆者は「第三の文化」と「センスオブワンダー」という概念を持ち出してはいることも付け加えておきます。<br><br>ま、それもそれでよく見る科学者の強迫観念の現れであろうし、このような「物語」には何度も挫折してきた歴史があるのも事実です。筆者は「良い意味の」自然主義ということを何回も主張されていますが、僕たち純文系は「悪い意味での」ロマン主義の呪縛と誘惑から逃れるわけはできないのよねー、ってな感じで、偉いとは思いつつも、さほど感銘を受けた本とはなりませんでした。うーん。<br><br><br>
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<pubDate>Thu, 12 Aug 2010 03:11:58 +0900</pubDate>
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<title>３冊目</title>
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<![CDATA[ <a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=10971569" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">書き下ろし歌謡曲 (岩波新書)/阿久 悠<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F41R9CFTRNPL._SL160_.jpg" border="0"></a><br>￥662<br>Amazon.co.jp<br><br><br><br>前回は小説だったので、すごく長くなってしまった。<br>もっと短く書かなきゃ、意外に労力がハンパないね、これ。<br>５０だもんね。<br><br><br>夏休み３／５０<br><br>故阿久悠さんが、１００の詞を書きおろしています。<br><br>詞ももちろん素晴らしいのですが、氏の作詞論等が特におもしろかったです。<br><br>阿久さんは、作詞をするときに、時代の飢餓感にそれをぶつけるといいます。<br>「いま何が欠けているんだろうか、いまなにが欲しいんだろうというその飢餓の部分にボールが命中したとき、歌が時代を捉えたといっていいでしょう」とのことです。最近のJ-POPが、「あるある」的なところにばかりスポットを当て、それが虚しい飽食感を生んでいるのとは、ここのとこが大きく違うんじゃないかと感じました（まぁ一概には言えないでしょうが）<br><br>また、慰めてばかりではダメ。心を叩く歌を意識する、ってのもなるほどなーっと。<br><br>と、言うと、<br>おまえに何がわかる。今の歌手だってそうやってがんばっている人はいくらでもいる。<br>とお叱りを受けるでしょうし、まさにその通りなのですが、<br>阿久さんのすごいのは、それを「国民的歌謡曲」において実現しようとしたところです。そのために、形式だけ演歌を則りその様式美を利用したりと、様々な工夫を凝らしていたそうです。<br>自分が本当に伝えたいことを伝える、ということと、できるだけ多くの人に伝えたい、という２つのテーゼを相反させぬまま名作と呼ばれる作品の数々を生み出す。<br>プロ中のプロ。<br><br><br>最後に全然関係ないのですが、「アイドル」について書いているところが、なぜかすごく印象に残ったので引用します。<br><br>アイドルの魅力は、危うい早熟性にある。危ういのは、本人の見た目の印象もそうだが、大人たちが「これが何より危険」と感じるもので泣けれなならない。<br>アイドルが、バービー人形になってしまってはおしまいで、今、いくらかそんな感じがしないでもない。<br>ポケベルに呼ばれて走る従順さは、およそアイドルの魔性とは不似合いに物で、ポケベルに呼ばれてたまるかと云うべきである。<br><br>これが書かれたのは１９９７年だそうです。<br><br>
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<pubDate>Wed, 28 Jul 2010 08:56:23 +0900</pubDate>
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<title>２冊目</title>
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<![CDATA[ <a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=10971558" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">残像に口紅を (中公文庫)/筒井 康隆<br><img src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fecx.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F41rMUANAgZL._SL160_.jpg" border="0"></a><br>￥780<br>Amazon.co.jp<br><br><br><br>夏休み２／５０<br><br>筒井康隆。<br><br>数ページごとに「世界」から一つずつ文字が消えていくというお話です。<br>使える文字がどんどんなくなっていくわけですから、「世界」は極めて不安定に変形し続けます。僕たちは物語がどこに向かっていくの分からないスリルを味わいながら、そのような「世界」を追い続けます。<br>しかもその中でも、サービス精神旺盛な著者は、急に物語をポルノにしたり、自伝小説にしたりしてくれるので、飽きることなく読むことができました。<br><br>「『世界』から文字が消えるということ」には、２つの意味があります。<br>１つは言語的な喪失であり、文字通りその言葉を発することができなくなるということ。「あ」を失えば、二度と物語に「あ」は登場しません。<br>そしてもう１つは、物質的な喪失であり、「あ」を失うことで、「あなた」も「あんぱん」もこの世から消えてしまいます。<br><br>この物語では、最初こそ言語が失われるとその観念も失われ、ひいては物質も同時に失われるというに、２つの「喪失」は表裏一体の関係にあるのですが（主人公の妻が、固有名詞としての「粂子」から一般名詞としての「妻」に変化し、そして最後には消えてしまうという流れは切なくも楽しい）、物語の中盤くらいから、作者もそれじゃやってられなくなったんでしょうけど（笑）、ルールが若干変更され、その２つがバラバラに機能し始めているみたいです。しかしそこからが、この小説の本当におもしろいところです。<br><br>物質的な喪失は「世界」に飢餓をもたらします。世界からモノが徐々に消えていき、主人公は徐々に肉体的・精神的な飢渇状態をおこします。物語の終盤で主人公が「世界」にまだ残されていた「ワンタン」を見つけ、それを食べるシーンは、本当においしそう。<br><br>一方で、言語的な喪失は何をもたらすか。それは「世界」の再生です。私達は、何か禁忌に触れたとき、それを別の言い方で表現しようとします。この小説ではいくつもの言葉が禁忌になっていくわけですからそのような場面はとても多い。<br>そのことについて主人公はこう述べています。<br>「消えた音が使えず失われた言葉を違った言葉で表現しようとしてその周りをぐるぐる徘徊するうち、今まで考えもしなかった彼らしくない文脈を生み出して、それが意外に面白く、彼を喜ばすことになったりもしたのだ」<br>実際、５０音が使える物語序盤よりも、文字が制限され不自由になっていった物語中盤あたりのほうが、言葉は自由に踊っています。そしてその言葉が手にした自由さが、他の言葉や概念を解放していくわけです（私達は言葉でのみ世界を見ることができる動物ですから）。その時、そこで表現された「世界」は、当然にそれまでの「世界」とは違うものとなっています。<br>１音失うたびに「世界」は破壊されてしまうのだけど、同時にそれはまた違う「世界」の創造をもたらす、そういうまとめ方もできると思います。そうした、変化し、生まれ変わり続ける「世界」がこの小説の大きな魅力の１つではないでしょうか。<br><br>物語終盤は、そのような、失われていく「世界」と、再生されていく「世界」のせめぎ合いのようにも見えます。まぁ、結局は全ての文字が失われていくわけで、どうせ最後にはなにもなくなっちゃいうのだけど。でもそんな中、つまりは言葉も物質も失われていく中、それでも数少ない言葉だけで「世界」を再生し、そのような飢渇に抗い続けようとする主人公（＝筒井康隆）には、なんというか、作家としての矜持と言おうか、そういうものを感じるのでした。<br><br><br>なお、僕の年代の人は「幽白」を連想してしまうだろうが、こっちのほうが先！！パクリじゃないんだからね！！
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<link>https://ameblo.jp/mizrinmizrin/entry-10603070947.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Jul 2010 08:54:44 +0900</pubDate>
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<title>１冊目</title>
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<![CDATA[ <a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=10971555" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">キャッチフレーズの戦後史 (岩波新書)/深川 英雄<br><img src="https://stat.ameba.jp/blog/img/ucs/affiliate/common/no_image_affi_article.gif" border="0"></a><br>￥777<br>Amazon.co.jp<br><br><br>今日から夏休みの読書感想文をここに書いていきます。<br>twitterに書いたとおり５０冊がんばります。<br><br>夏休み１／５０<br><br>その時代を代表するキャッチコピーで昭和史を振り返る、といった本。<br><br>僕個人としては、引用されていた、当時サントリーのコピーライターをやってた開高健の言葉が印象に残りました。<br><br>「私はただもう無我夢中で、見よう見まねでキャッチフレーズ、コピーを書いていたんですけれでも、今から考えると、私の体の中に同時代があった。もしくは同時代人が住んでいたのです・・・だから、その人たちと私の間にパイプが通じ合っていた、私は自分を納得させるコピーを書けば、それがそのまま同時代人の何十万か何百万人かにそのまま通じるという、幸せな状態にあったわけです。」<br><br>コピーライターは、時代と人々と繋ぎ、そこに齟齬があるときはそれを修正し、もしくはアジテートし、その２つが誤った方向に進みそうなときは、ウィットを利かせながら、軽やかに囁くようにそれを止める。そのような役割があるのではないかと思います。<br>だからこそ、コピーライターと消費者との距離、またコピーライターと時代との距離というのがとても重要になる。<br><br>最近のコピーって、ライター達も商品も上から僕たちを見下ろして、なんか教義めいたことを言い放って、消費者がうやうやしくそれを享受する。そういうものがとても増えたと思います。そしてそこには時代を背にしている感覚もあまりない。時代を変えようとする思い上がりはあるけれど。<br>消費者とライター、そしてその時代。それら三者の距離感についてもう一度考え直す必要があるんじゃないか、そんなことを考えさせてくれる本でした。<br>
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<link>https://ameblo.jp/mizrinmizrin/entry-10603070326.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Jul 2010 08:53:27 +0900</pubDate>
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<title>ファンタジー</title>
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<![CDATA[ ついに（？）、twitterなるものをはじめました。<br>barorisoという名前でやっておりますので、ふぉろーしてみてください<br><br>島田雅彦やら高橋源一郎やらも今月始めたらしく、彼らのやり取りは僕にとって神々の対話のようなもので、見ているだけでとても興奮します。平野啓一郎も星野智幸もいます。すげぇ！<br><br>そんな中でもzeebraはtwitterで異彩を放っていて、いとうせいこうが土器だかについてつぶやいたときに速攻で反応したときは僕も思わず「うほっ」てなっちゃったし、クリスマス真っ只中に「クラブに来ないアーティストについて」という議題でRYO the SKYWALKERと熱い議論を長々と交わしていたときはやはりこの人は果てしない方だと思いました。龍が如く４は、この２人＋Mummy-Dで主題歌を作るそうです。楽しみすぎる。<br><br>それにしてもtwitterはおもしろいです。好きな表現者たちの断片に触れられるから。その人がつくる完成品、つまり小説や曲が好きな場合、その人の「つぶやき」はもっと好きなものだし、ピンポントな部分に共感できるのはとても幸せなこと。その人の思考回路の一端を見つけられたと感じるときは、自然とにやにやしてしまう。<br><br>うーん、がんばって続けてみよう。<br><br><br><br>はて、最近僕は、「ファンタジー」にのめり込んでいます。２２歳なのに！！<br><br>というのも、こないだ久しぶりに「ネバーエンディングストーリー」を見ました。この映画、生まれて始めて見た映画なんです。仙台のいろんな映画を再上映している映画館に、親に連れられて見に行きました。以降、ロックバイターという岩の化け物がすきすぎて２年おきくらいで見ています。<br><br><br>今見てもやっぱいいね！<br>やはり小さなころに出会ったファンタジーは永遠の付き合いになります。<br><br><br>主人公が本を熱中して読んでいる場面の描写は本当に好き。僕にもあんな感じ、親にこっそり徹夜をして、ベッドの上の電気をつけて読書をして、気づいたら朝だった、なんていう頃がありました。今、どんなすばらしい小説を読んでも、あのころに感じた興奮に及ぶことはないんだろうな、って思うと寂しいし悲しい。<br><br>「ネバーエンディングストーリー」の主人公は本の中に入っていきましたが、僕にも小さい頃のそういう経験が何冊かあります。中でも強烈な思い出があるのは「２分間の冒険」という児童書でして、こちらは小３だったか小４だったかのときに読んだんですけど、とてもすばらしいファンタジーです。今でも、記憶の中に「映像」がしっかり残されています。本なのに映像として残っているんです。やっぱ最近そんな読書はできてないなぁ。<br><br>実家に帰ったときもう一度読んで見よう。<br><br><br>最後に<br>最近僕が接しているもう１つの「ファンタジー」、ファイナルファンタジー１３は正直、う～ん、と言った感じです。映像がリアルになるだけ世界がフィクションになる、というのは最近のゲームにつきものの悩ましい問題ですが、ことＦＦ１３に至っては、あえてそれをやっているんじゃないかとも思えてしまうくらい。まず説明が多すぎるのよね。自分の脳内で変換できる部分が少なすぎなわけです。メタルギアにしても、僕たちはお説教を受けるためにゲームをしているわけじゃないのに。<br><br>こないだモー娘の高橋愛が「ＦＦは現実逃避」ってなんかのイベントで言ったようですが、こういうことを言えるのも僕たちの世代までなのかもしれません。今の子どもたちがあまりにもかわいそすぎる。ドット絵でもなんでもいいから、いい「ファンタジー」を作ってほしいです。感受性の強い子どもほど現実逃避が必要なのに、大人になるとそのことをみんな忘れてしまいます。<br><br><br><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/JFxYS158elw&amp;hl=ja_JP&amp;fs=1&amp;"><param name="allowFullScreen" value="true"><param name="allowscriptaccess" value="always"><embed src="https://www.youtube.com/v/JFxYS158elw&amp;hl=ja_JP&amp;fs=1&amp;" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></object>
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<link>https://ameblo.jp/mizrinmizrin/entry-10420090615.html</link>
<pubDate>Sat, 26 Dec 2009 20:16:05 +0900</pubDate>
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