<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>mk11111さんのﾌﾞﾛｸﾞ</title>
<link>https://ameblo.jp/mk11111/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/mk11111/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ﾌﾞﾛｸﾞの説明を入力します。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>不良の獄中</title>
<description>
<![CDATA[ 例年は仲秋の名月とは名ばかりで残暑残る長月の初め…<br><br>今年はすっかり秋めき涼しさにも秋を感じる昨今<br><br><br>私の身の回りと云えば身内にトラブルが発生、その収拾がつくと思ったらS君の異義申し立てが却下となり一抹の寂しさを感じる。<br><br><br>久しぶりに出入り禁止にしていた若手に連絡をすると御母堂が先月のお盆明け十七日に亡くなったとのこと…<br><br>放火で囹圄の身のI君の前職、ローソンに対する損害賠償の件、刑事事件の応援…<br><br>私自身の裁判etc…<br><br><br>秋風が吹くと何か寂寞たる思いにかられる。<br><br>年を重ねたせいであろうか。<br><br>ゆっくりと伽羅の香を焚き名月を愛でれる事に幸せを感じねばならないのかも知れない。<br><br>東北だけでなく今年の天変地異は各地に被害をもたらしている。<br><br>心より被災地の復興、復旧をお祈り申し上げます。<br><br><br>千葉地検から千葉刑務所に送られた私は朝までグッスリと眠りこんだ。<br><br>逃亡中の心身の疲れが一気に出たのだろう。<br><br>朝起きると朝の点呼で担当の刑務官が回ってくる。<br><br>刑務所に入ると、その日から名前は消え去り番号となる。<br><br>独房では一人で寝具を片付け中央部分に座っていると担当が副担を連れて点呼、点検に回ってくる。<br><br>自分の番号を大声で発すると担当が良しと言って隣へと行く。<br><br><br>その後は簡単に房内を掃除して整える。<br><br>次は配食準備だ。<br><br>皿や椀用意と配食係が言って小さい房の出し入れ口に出すと食事がそこへ入れられる。<br><br>千葉の朝はパンが多い。<br><br>食パンとマーガリン、ジャムかコッペパンにマーガリン、ジャムが普通である。<br>それに僅かな野菜が付いたりチーズが付いたりする。<br><br>食事時間は配食から合わせて10分もすると今度は<br><br>空下げと叫びながら配膳夫が回ってくる。<br><br>私のように食べるのが遅い人間には中々これが苦痛でで結局残したまま、機械的に下げられていく。<br><br>食事が終わると洗濯物の交換が始まる。<br><br>掃夫に下着を入れて貰い、すぐに着替えて出すのだが毎日の交換で清潔だと思われるが<br><br>その元の下着が誰がどれだけ履いたり着たりしたか知れない。<br><br>白いシャツやパンツに当たるのは月に一度あれぱいい方で他の29日はベージュか薄い茶色に染まった下着でまず外で普通の生活をしていた人間はこれに慣れるまでに相当な日を要する。<br><br><br>変に潔癖な私はこれには参って自弁の物を購入出来るまでは本当に病んでしまう。<br><br>外では当り前の物が中での生活では重宝、あまつ同囚との競争心さえ芽生える。<br><br>箸一つから手拭い、歯ブラシを競い合う。<br><br>スリッパや運動靴などは級によって購入できないシステムになっている。<br><br>ちなみに拘置所からは持ち込める物で刑務所で購入出来ない物、差し入れでしか買えない物などで囚は大きい顔をする。<br><br>まったく笑話にもならない。<br><br>私は豚毛の歯ブラシと書物の差し入れを良く頼んだ。<br>収監された翌日、私には嬉しいことがあった。<br><br><br>簡単な紙張り作業をしていた私に担当が<br><br>「面会だ」と伝えた。<br><br>昨日の今日、それも大阪から離れた千葉である。<br><br>千葉の獄は面会所まで中庭を歩く。<br><br>夏とはいえ緑が多くて爽やかな気持ちになる。<br><br>面会所に着くと大阪の倅達が来てくれていた。<br><br>有難く嬉しい限りなのだが、その心中や手間を考えると切なくなる。<br><br>私は敢えて明るく振る舞った。<br><br>倅達はアクリルの格子越しに何を思ったのだろうか…<br><br>一般の囚は拘置所か分類刑務所で色々な考査や適性検査があり、そこから長くを過ごす刑務所に送られることになるが<br><br>逃亡から収監となった私は千葉が分類刑務所の代わりとなった。<br><br><br>知能検査から手先の器用さ、漢字の検査まである。<br><br><br>その間は独居なので紙張りをした。<br><br>千葉か近辺の土産物袋を折るのだが、慣れると単調でやってられない。<br><br>こういう作業もベテランの囚が教えてくれるのだが同じ囚人の中にも色々な人間がいる。<br><br><br>後にDNA鑑定で再審無罪となった人間は私の舎の計算夫－すなわち一番の権限を持つ囚であったが、陰険な男で私らが少しでも反抗心を見せると食事の量を少なくしたり空下げを早くしたりと官も目をつぶっていたが大概ひどいことをして同囚をいたぶっていた。<br><br><br>かと思えば材料を入れに来る同囚は<br><br>「真面目にやらなくて適当にして下さいよ」と<br>気遣ってくれる人間も少なからずいた。<br><br>特に担当でえらく私を気に入ってくれ夜勤の度に暇があれば私の房へ来てくれ世話を焼いてくれた親切な心ある官もいた。<br><br>ヤンキー上がりの官たったが今も心に残る男で私を囚人としてでなく一人の男として扱い観てくれていた。<br><br>私の逃亡や罪状を知っている官はあまり私を相手にしたくなかったのだろう。<br><br>或る程度の事は目をつぶってくれた。<br><br>どちらかと言うと庇い合うべき先述の計算夫に悩まされた。<br><br>少し獄中生活に馴れて来た頃また担当から<br>「面会」の声がかかった。<br><br>今度はまったく心当りはなかったが何のことはない天敵であった私担当の検察官の横田氏らの面会でその時、初めて次郎のマスターの行動や所作を聞いた。<br><br><br>横田氏も<br>「あのマスターは男前」と褒めちぎっていた。<br><br><br>私は病気の事もあり、大阪いや関西、近畿の刑務所の幹部に根回しをしていたので簡単に考えていたが、それがバレていたのか、さたまた千葉で収監されたからか護送車で連行されたのは関東の果て栃木の黒羽刑務所であった。<br><br>暖かい千葉とは比較にならぬ寒さの地、夏は過ごし易いが冬は長く寒い。<br><br>私はまず此処へ送られた。<br>入所日から新入訓練である。<br><br>刑務所内での規則を身体に覚えさせ規則や決まりごとを教え、簡単な作業と訓練の毎日である。<br><br><br>まあ刑務所などという所は完全な治外法権の場、囚を手なづけ逆らわないよう徹底的につぶしにくる。<br><br><br>朝、舎房から工場へ出役、素っ裸になりガンガン踊りをして作業に入るのだが<br><br>朝、トイレに行けなかった連中が当り前でいる訳だが<br>「用便をお願いします」と手を上げて言っても中々行かせて貰えない。<br><br>「休憩の時間が判ってんだから、身体をその時間に合わせろ」と…<br><br>あちこちで垂れ流しが出現する。<br><br>だいたい刑務所では官は囚を人間と思っていない。<br><br>私にもそれが徐々に理解ってくるのだが…<br><br>負けん気の強い私はそれでも恐らく黒羽で一番、官に逆らった男だ。<br><br>その返しは陰険且つすざまじかった。<br><br>入所後、工場に配属された直後は強面の担当、田村も私を上手く利用し難しい部屋へ入れ外交問題にも発展しかねない中国人や根なし草で開き直った連中を抑えるのに私を重用した。<br><br><br>病棟工場は特に癖の強い人間が集められるが私は入って二日後には部屋を仕切り病棟工場で一目おかれる存在となった。<br><br><br>何事も初めが大事である。<br>入った初日に私は大上段から勝負に出た。<br><br>人生、賽の目丁半博打である。<br><br>丁と出るか半と出るか私は工場、部屋に入る時にこれ以上に折れないほど腰を折った。<br><br>後に勝負に出るには腰の低さが効果的だ。<br><br>明日は工場配役、寝つかぬ私は色々と想定してる間にいつしか眠りについていた。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mk11111/entry-11923639416.html</link>
<pubDate>Fri, 12 Sep 2014 22:22:07 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>不良と逃亡Ⅴ</title>
<description>
<![CDATA[ 窓開けて 明日も雨かと 一人ごつ 我が身ひとつの 長月の夜<br><br><br>直前まで長男と話しながらアドバイスをしていた私は我が身ではなくとも我が身の如く腹を括った。<br><br><br>自宅の前には刑事が見張り待っていると言う。<br><br>祖母と母親は<br><br>｢ちょっと聞きたい事があるだけだから｣と<br><br>刑事が言ってるから、その日のうちに帰れると甘く考えているようだが、周囲に経験者を少なくなく知る私には逮捕から拘留までは十分に読めていた。<br><br>いや確信していた。<br><br>おまけに当時は警察とも蜜月の関係であり逃亡の身でありながら倅たちの事件の概要や進み具合、それに共犯者の供述も少しずつ耳に入ってきていた。<br><br>そうなると祖母や母親のように脳天気に笑っておれない。<br><br>だいたいに於いて人生を舐めて甘く生きている人間ほど窮地に陥ると慌ててパニくる。<br><br>こうすればこうなるという単純な筋読みさえしないからだが<br><br>砂漠の駝鳥宜しく自身に不都合な物事からは目を逸らし直視しない。<br><br>連行された倅たちは東住吉署管内で事情聴取から予想通り逮捕に変わり帰れなくなった。<br><br>母親や祖母は相当抗議したようだが警察は一旦手の内に入れれば逃がすほど甘くはない。<br><br>そして何も出来なくなった、その時だけ私にSOSが来る。<br><br>まあ今振り返ると都合良く上手く使い続けられたものだ。<br><br>経済的な事を含めて、いざ自分たちの手に負えなくなってから急にSOSとなる。<br><br>しかし倅たちの事、仕方ない。<br><br>私は日頃から何かと世話になっていた学生時代からの先輩であるN社長に電話を入れて適当な弁護士は居ないか当たって貰った。<br><br>倅は双子だから二人の弁護士が必要で、なおかつ二人が連絡を密に取れる関係でなければならない。<br><br>N社長自身、信頼出来る人間なので専任まではお願いした。<br><br>結局、M弁護士とK弁護士を専任した。<br><br>すぐに接見に行ってくれるようにN社長を通じて依頼した。<br><br>なにぶん倅たちも初めての事、焦っているに違いないし弁護士の専任の仕方も分からないはずである。<br><br>私は自身の裁判時と同じように警察から流れてくる情報に合わせながら倅たちから聞いていた事を擦り合わせながら随時、弁護士に指示を出した。<br><br>これが難しかった。<br><br>私と繋がっている刑事以外は逃亡の身である私を当然のように収監、逮捕を狙っている。<br><br>その情報も私側の刑事から刻一刻と入ってくる。<br><br><br>私はファックスよりも、それを逆さに利用して京都から投函しては愛知の名古屋で一旦下車して投函、そして東京や横浜のあちこちから投函した。<br><br>夜はホテルでその書面を作るのに専念した。<br><br>弁護士はとにかく金だ。<br><br>車にガソリンの如く金や物を与えないと動かない弁護士がほとんどだ。<br><br>弁護士資格を持ちバッジを付けてる一商売人に過ぎないのだから当り前と云えば当り前なのだが…<br><br>それを一般の人や初めての人は弁護士は善意で動いてくれ、おまけに弁護士の言う事が全面的に正しいと思っている。<br><br>これは大きな間違いで私は多くの弁護士と関わってきたが弁護士の良心、正義から動いてくれた弁護士は戸谷先生と鈴木一郎先生の二人しか知らない。<br><br><br>ヤメ検などと言ってもてはやされているが、元検事や判事ほどお金が好物なようだ。<br><br>刑事事件と病気だけはやり直しが効かない。<br><br>そこだけはお金をけちらず自分が納得出来るところまで頑張るべきだと思う。<br><br><br>自分で言うのは何だが倅たちの弁護は八割方は私がした自負はある。<br><br>結局、拘留二回の末、鑑別所に送られ不処分という玉虫色の判決？で出る事になったのだが逃亡中の私は表舞台には出れない。<br><br>おいしい所は全てO一族だ。<br><br>もっとも出れぬ私も自業自得なのだが…<br><br>肩の荷が降りた私はその頃は逃亡に疲れ横浜の街に潜伏していた。<br><br>たまに東京に出るのだが銀座で或る店で気に入ったシャツやズボンがあり、サイズ直しの為に翌日に改めて出向くと私服刑事が見張っていたという事も何回も続き、いよいよ身辺が狭くなっていくのが日に日に自覚するようになった。<br><br>その頃はOが付ききりで居てくれたが当初、Mが付いていた時、足立区を見学がてらに行った際、足立区の夜は暗い。<br><br><br>犯罪の多い街で私の潜伏にはもってこいだと勧める人間が何人かいた。<br><br>ところが、そういう所は逆に警察の監視が厳しく一時間も走らない間に車を止められた。<br><br>間の悪い事に運転手のMは覚醒剤での前がある。<br><br>AB照会で出たのだろう。<br><br>身体検査から車の至る所まで捜査し出した。<br><br>私は逃亡者である。<br>落ち着いてる場合ではない。<br><br>本能的に車から降り少し走って曲がり角を曲がり見えなくなるなりタクシーを拾って都心に向かった。<br><br><br>僅かな逃亡期間中、いくど肝を冷やす事があったろうか。<br><br>ああいう生活を続けると本当に心身ともに疲れてしまう。<br><br>私のように意地があっても何があっても、やはり逃亡はすべきではない。<br><br>もっとも、それなりに覚悟をすればとは思うが思った覚悟の十倍の苦しさがある。<br><br>本当に映画やテレビを地で行くようなスリルとサスペンスがある。<br><br>しかし今考えると、やはりテレビや映画だからいいのだ。<br><br>身辺の狭まった私は千葉にも入るようになっていた。<br>ゴールや目的の無い果てしなく続く旅<br><br>結局、完治しなかった腎臓が痛み眠れない日も続いた。<br><br>今も慢性化した腎炎が痛む。<br><br>東京でも最初の頃に良く使った京王プラザも使えなくなり都内はほとんど宿泊できなくなっていた。<br><br>初めの頃、親方宅へ寄ったり親方からの縁のEさんとの喫茶が懐かしく思われた。<br><br>毎日のように馬車道を下り伊勢佐木町で時間をつぶし…<br><br>たぶん付いてくれていたOもうんざりしだしていたのだろう。<br><br>Oの顔にも疲れがはっきりと出始めていた。<br><br>当事者の私も疲れるというより腎臓をこじらせてしまったゆえの痛みや持病の狭心症や不整脈に悩まされ<br><br>どうにでも良く思えてきだした。<br><br><br>意地で選んだ道だから後悔こそ無かったが虚無感が襲うようになった。<br><br>逃亡を続けるのは意地から惰性に変わっていた。<br><br>夏の陽が煩わしかった。<br><br>合間はOを自由にさせたがそれでも家に帰る間もなけりゃ遠出も出来ない。<br><br><br>おまけに私の我が儘にはうんざりしたろうと思う。<br><br>Oが一番尽くしてくれた。<br><br>すべてを放り出し私に付いて尽くしてくれた。<br><br>感謝の言葉が見つからないほど尽くしてくれた。<br><br>地元の奈良に置いた奥さんやお嬢ちゃんを思い心で泣いていたのだろう。<br><br>あらためてOと御家族に深くお詫び申し上げます。<br><br><br>大相撲の夏場所が始まった頃、千葉船橋から幕張へと移った。<br><br>意外にホテルが少なく客の出入りが激しく紛れやすいと幕張の東横インに部屋を取った。<br><br>チェックインもスムーズに済ませたと思っていた。<br><br>その日は疲れて近くに食べる所も無いので近くのコンビニで餌を買って部屋へ戻った。<br><br><br>薬は大阪の中学時代からの後輩Kが取りに行き送ってくれていた。<br><br>衣類の夏冬物の交換もKが管理してくれクリーニングまでしてくれていた。<br><br>私はこの逃亡中、どれたけの人達にどれたけ有形無形の迷惑をかけたのだろう。<br><br>常用の薬と別に腎臓結石を溶かすために流石茶を飲み腫れを引かすために抗生物質を飲み痛みを収めるためにロキソニンやボルタレンを飲んだ。<br><br>ため息しか出ない夜だった。<br><br>日中はホテルに居ると疑われるので外出を心掛けていた。<br><br>Oに館内電話で<br><br>「明日一時に部屋へ来てくれ」と言ってその日は早々に床に就いた。<br><br>京王プラザやプリンスやオークラ、オータニ、伊豆、箱根、熱海のホテルや旅館と違い薄暗い灯りの中、安物のベッドがあり空間がほとんど無かった。<br><br><br>夜、天井を眺めながら来し方を思った。<br><br>おふくろの死が一つの節のように思われた。<br><br>何があっても、どんな状況でも私を愛してくれた人を思い涙が出そうになった。<br><br>朝方ようやく、まどろみの中に落ちていった。<br><br>あまら眠れず十時頃には目が覚めた。<br><br>時間変更を知らせようとOの部屋に電話したが繋がらない。<br><br>嫌な予感がした。<br><br>携帯に電話してみたが、こちらも電源が落としてあった。<br><br>自分で焦るのが判った。<br><br>念のためと部屋のドア窓から廊下を覗くと廊下の両端にぎっしり人が並んでいた。<br><br>見るからに刑事と判った。<br>慌てて私はベランダから階下を覗くと裏の駐車場にも警察官がいっぱいで溢れて私を見ていた。<br><br>私一人を捕まえるために何人の警察官、刑事が動員されたのだろう。<br><br><br>私は諦めてドアを開けると私服の刑事たちが部屋になたれ込んだ。<br><br><br>私が<br>「ジタバタしないから着替えさせなよ」と言ったら、ようやく責任者が落ち着き「判った。拳銃は持っていないのか」と尋ねた。<br><br><br>私は一瞬何が何が分からずキョトンとした。<br><br>逃亡だけでも逃亡罪が足されるのに銃刀法が重くなった今現在持つはずがないと心で笑った。<br><br>千葉県警は千葉県警で誰かからタレコミがあったらしい。<br><br>私はスーツにワイシャツを身に着けネクタイを結び終えると<br>「お待たせ」と言って自分から両手を差し出した。<br><br><br>責任者の刑事が私の両手首にガチャンと重い手錠をかけた。<br><br>廊下に出るとOが神妙にしながら私に頭を下げた。<br><br>私も「ありがとう。悪かったな」と言葉をかけてエレベーターに乗り込んだ。<br><br>昼前のホテルは大捕物に騒然としていた。<br><br>私は覆面に乗せられそのまま千葉の検察に回って引き渡された。<br><br>千葉の検察は情があり優しかった。<br><br>倅にだけは捕まったことを伝えたかったが刑事連中はいつもの事ながら電話もさせてくれない。<br><br>検察ではお茶を出してくれ倅に電話をさせてくれた。<br>「たかし、パパ捕まったわ。当分会えねえな」<br><br>電話の向う側で倅の動揺と弱々しい声が聞こえた。<br><br>「なんで」<br><br>倅たちは私の逃亡の身を知らなかったのだろうか。<br><br>いやそんなはずはない。<br><br>倅たちが逮捕された時、私を引っ掛けに警察は動いている。<br><br>知っているはずだが実の父親が逮捕されるのを受け止めれる年齢ではなかったのだろう。<br><br>たしか高校二年のはずだった。<br><br>私はそのまま検察から千葉刑務所に護送され収監され私の逃亡劇は終わった。<br><br>検査が一通り終わり舎房に連行された時は正直ホッとしてそれまでで一番眠れた。<br><br>追われる心配も何もない部屋で思い切り大の字になった。<br><br>大先輩の野村秋介から岩丸幸生、加茂田組長とお歴々が務めた獄である。<br><br>先輩たちはどう過ごしたのだろう。<br><br>思う間に眠りに落ちていた。<br><br>目ざめれば 蝉の鳴き声 千葉の獄
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mk11111/entry-11919698345.html</link>
<pubDate>Fri, 05 Sep 2014 06:32:41 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>不良と逃亡Ⅳ</title>
<description>
<![CDATA[ 花冷えの夜、私に付いてくれていたOはその日、私用で出ていたが、その出先から急ぎの連絡が入った。<br><br><br>逃亡中は自身の車も又、特定される車もNシステムと呼ばれる自動で車のナンバーを拾うシステムから居場所が特定されるので乗れない。<br><br>定期的に変えるか私の足のつかない、また私と繋がらない人間の車でないと使えない。<br><br>持病を持ち身体の不調が続いていた私にはそれが物凄く負担となった。<br><br><br>二十年近く新幹線以外は電車に乗ったことのない私もこの時ばかりは電車やバスを出来るだけ使うようにした。<br><br><br>大学時代以後、久しぶりに乗る京都の市バスはなかなかオツなもんで妙に安心感もあり楽しかった。<br><br>同様に携帯電話も現在ほどではないが100メートル圏内は特定出来るようで私名義は勿論、私に繋がる関係の人間の物は使えず、それでも念の為に月に一度は二台ずつを交換していた。<br><br><br>私の地元の土建屋の社長が社員名義で取得し全国の何処へでも宅急便で送ってくれた。<br><br>これは有難かった。<br><br>このT氏は私たちが幼い頃、地元で有名なヤクザの親分でその長男として蝶よ花よと可愛がられた結果、親の七光りでやりたい放題をしていたので評判の悪い人間だったが縁あって付き合ってみると中々味のある、おもしろい男で少なくとも私に対してだけは義を尽くしてくれたように思うのだが…<br><br><br>ただ周囲に云わせれば私が居て、在してはじめてで私が収監された後は私の周囲には冷たかったように聞いた。<br><br>やはり頭の天辺から爪先まで商売人で足算引算で生きていたのだろうか…<br><br><br>或る時などT自身も保釈中の身であるにも関わらず危険を犯して私の潜伏先の京都のステーキハウス次郎まで陣中見舞いとして携帯と見舞金を届けてくれた事がある。<br><br><br>京都祇園の有名な名物マスターが経営するこの店はマスターの徳からか全国から芸能人やヤクザ者、不良が集まり、いつも賑やかな店だった。<br><br>私の大学時代、友人の多く居た立命館の応援団の一回二回生はこの店でアルバイトするのが習わしだった。<br><br>マスターは祇園という街の顔役であり商店会の役職にも付いており、空手の達人にして出雲の阿闍梨、また私が後に行く刑務所の慰問も務める人格者であり人徳者であり私の先輩に当たる。<br><br>応援団の連中の結婚式に出席すると必ず来賓として呼ばれ一芸を披露していた。<br>或る年の春先、横浜のパンパシフィックホテルで同期の応援団長の結婚式が行われた。<br><br>そこで少し話した後、私は翌日所用が入っており新横浜の最終にどうにか飛び乗った。<br><br>翌日、京都の伏見で用件を済ませた私はベントレーで道中にある店先で油を売っていたが、そこに偶然、何と次郎のマスターが現れ驚くとともに縁を感じたことがある。<br><br><br>私のような遥か年下の人間をも決して見下さない大好きな人である。<br><br>京都に潜伏するようになり私は、くれしまと何か客の時はこの次郎に招いた。<br><br><br>それを検察や警察は掴んでいたのだろう。<br><br>私がT氏にこの次郎を指定した十二時の一時間前まで前の道路に京都府警の警察官が何十人と配置され私を待ち構えていたという。<br><br>後に収監された千葉刑務所に面会に来た検察の横田氏から聞いたが<br><br>次郎のマスターに<br>「次に私が店に来た時、検察か警察に知らせるように」と言われたマスターは<br><br>「後輩を売るわけにはいかない」と断固、拒否してくれたという。<br><br>思い返せば確かにその日のマスターは言葉も少なくいつものマスターらしくなく緊張気味であったように思われる。<br><br><br>一時間、一歩間違えば次郎で又マスターの前で大捕物があったのであろうから…<br><br>話はすっかり逸れてしまったがそのT氏の用意してくれていた携帯電話にOからの電話が鳴った。<br><br>出るとOは慌てながら<br><br>「実子が二人とも逮捕状が出るようです」と<br><br>私は「私の件でか」と高鳴る胸の音を感じながらも静かに聞いた。<br><br>「いや友達連中と喧嘩したのが二ヶ月も経った今、一緒だった友達全員が逮捕されて実子も時間の問題らしいです」と答えた。<br><br>また厄介な時に厄介な事を…<br><br>私は早くに別れて一緒に暮らす事の少なかった子達に特別の愛情を持ち何でもかんでも助けて所謂、可愛い甘い父親になっていたようだ。<br><br>中学生になった倅たちが何かトラブルを起こしても私の後輩やその流れの人間が出て収める。<br><br>何度あっただろうか。<br><br>チンピラと揉めても私の後輩が出て次に舎弟が出て、私が現役の連中と飯を食ったり飲んだりした時にポロッとその事を話すとまたまた蒸し返し先方の事務所の連中が呼び出され私の倅たちに頭を下げさせられる。<br>若い頃はこれを錯覚して自分自身が偉いんだと思ってしまい余計に無茶をしてしまう。<br><br>私の倅たちも同じだった。<br>挙げ句、やりたい放題で狼藉を働いた。<br><br>その結果である。<br><br>父親としてその責任はしっかり取らねばならない。<br><br>倅たちは高校一年か二年だったように記憶する。<br><br>当り前の嫌いな私は倅たちに不良をするならちゃんと高校へ行き大学に進学しろと普段から言っていた。<br><br>私の信条でもあるのだが学生時代、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけて成績が良かっても当り前で誰も目に止めてくれない。<br><br>勿論、その成績が東大だの何だのと飛び抜けていた場合は別だが。<br><br>逆に長ランを着てブカブカの所謂ゴケヤンなるズボンを履いていて成績が悪いのも同様だ。<br><br>生きていくにカッコいいのは、あくまで私の私見ではあるが見た目も素行も良くない、但し非行でなく不良が条件である。<br><br>それでいて新学校に在籍していたり、それなりの大学に入っていればと…<br><br>かくいう私もそれを目指しながら、もがきながら最低のラインの立命館に入学したわけだが、当時の東住吉、平野地区の愚連隊仲間で大学へ行っていたのは私だけであった。<br><br>後に兄貴分になる杉本弘などもそんな私に目を留めてくれたのだと思う。<br><br>その後の政財界の先達や不良の先輩たちも私のそこを買ってくれたと思う。<br><br>人生においてアンバランスやギャップは或る所では武器になる。<br><br>倅たちを増長させたのは私だ。<br><br>その結果の犯罪、逃亡中とはいえ私が責任を取らねばと覚悟した。<br><br>すぐに倅たちを南森町まて呼び出し私は京都からタクシーで迎えに行った。<br><br>夜も十二時近かった。<br><br>合流しタクシーに乗せこむと再び京都に向かった。<br><br>あらかたの話は倅たちから聞いたが疲れているようなので、その日は早く、といっても二時を回っていたが寝かせるようにした。<br><br>下手な流れになると親子三人で逃亡しなければならない。<br><br>私は泣きではないが身体も万全ではなく悲壮感が漂った。<br><br>ただその素振りを父親である私が見せると本人たちはもっと弱気になり悪い方向に流れる。<br><br>倅たちを宿に送ると私も自分の宿に向かった。<br><br>寝不足の上、疲れてるはずなのにこういう時は妙に覚醒され眠れない。<br><br>朝までこれからの事を考え、いつのまにか眠りについていた。<br><br>翌日は倅たちを元気づけるためと何よりかにより体力という事から西院近くの居酒屋でOも交えて今後のこと、私の弁護士連中からの情報、それに対しての対応の仕方などを話した。<br><br><br>さすがに初めての逮捕が目前に迫り倅たちの顔も暗く生気がなかった。<br><br>三日ほど京都市内に滞在したが私は追われる身、一ヶ所に長居は無用、次郎で食事を済ませ一号線を走り大津のプリンスに宿を取った。<br><br>此処はロイヤルオークホテルとともに私が昔から何かの時に愛用していたのだが京都の少しほの暗いホテルの部屋と違い高層階は特にガラス張りで外光が射し込み明るく気もなぜか明るくしてくれる。<br><br><br>倅たちも過ごし易いホテルが気に入ったようで育ての親、祖母、それに長男の彼女が訪れた。<br><br><br>逃亡しながらもストレスで食欲が旺盛だったのか食い道楽からか石山寺の松木にステーキを食べに行ったりした。<br><br>その後、母親(私の昔の女房)方の祖母が素人の浅知恵から、これだけ日が経っても動きもないし誰も来ないから家に連れて帰るという。<br><br>私は少し反論したが聞く耳を持たなければ最後は感情的になりロクな結果にならない。<br><br>私はしぶしぶ承諾した。<br><br>倅たちの事件で私の件とは別に警察内部では本部が設置され罪状も<br><br>強盗傷人というおどろおどろしいものになっていた。<br><br>無学は国の責任であるが人の言う言葉に耳を貸さないのは親の躾、教育である。<br>私の昔の女房の家系は我の強いこの種類の人間が多かった。<br><br>もっとも女房の末妹や幾人かはまともな人間も居たのは居たが…<br><br>教育を受けていないだけでなく、親からまともな躾を受けていないのは或る意味で不幸である。<br><br>くわえて貞操観念まで薄いこの伴侶とは早くに離婚し縁を切ったが子供たちはそうはいかない。<br><br>まがうことなき私の血を継ぐ縁である。<br><br>出来る事はしなければならぬ。<br><br>親は子を選べるが子は親を選べぬ。<br><br>後にこの女は私の先輩H氏の若い衆の若い衆、いわゆる枝のT石と一緒になった。<br><br>ややこしい事にこのT石は私より十才ほど年長だったが、私の所に居た舎弟、平野のTとは同じ親分を持つ回り兄弟だった。<br><br>この女は昔「姐さん」と呼んでいた人間の兄弟分と一緒になったわけで、私の周囲も扱いにくく困惑、合わす顔も呼び方もなく避けていたようだ。<br><br>私もT石の話が出る度に顔から火が出るように熱くなった。<br>別れたとは云え狭い不良の世界、チンピラと一緒になられたら私の顔や立場はなかった。<br><br>そのT石と一緒に地元の駅前で居酒屋をしていたようだが自分たちで飲みつくした挙げ句、長く続かず早く店を閉めたようだがアチコチの組織から追込みがかかっていた。<br>その中には私の知り合いや後輩も混じっていたので昔のよしみ、その分は握って貰ったが…<br><br>閑話休題<br><br>現実は小説より奇なりとは良く言ったもの。<br><br>一時期でも同じ時を共有した身、早く人としての衿持、節操を持ち今後の人生を少しでも豊かに送って欲しいと思う。<br><br>そう考えると家の違い過ぎる、また環境や状況の違い過ぎる者同士の結婚はやはり上手くいかない。<br><br>箸の上げ下げ一つから家訓に至るまで違うし幸か不幸か金銭を勘定せぬ謹厳実直を絵に描いた私の親族、家の中で育った私と算盤勘定だけの自営業のO家では何から何まで違い過ぎた。<br><br>曲がりなりにも教育者や事業家、それに市長の叔父を持った私はグレるまでは、それなりの家庭環境で育った。<br><br>幼い頃から姉のピアノの流れる空間で過ごし続かなかったが私自身も習わされた。<br><br>家には祖父母の残した蔵書が山ほどあり小さいながら花鳥風月を味わえる家で育った私と感性が同じはずがない。<br><br><br>無論、それは初めから判っていた事なのだが…<br><br>これから結婚する読者諸賢には私と同じ轍をふまないように心して欲しいものだ。<br><br>いわゆる<br>「お里が違う」<br>過ぎるのだ。<br><br>しかしながら間違った結婚とはいえ余計に子達は不憫である。<br><br>私は愛情を注ぎこんだ。<br><br><br>生みの親より育ての親、O一族に従うしかなかった。<br><br>大阪に帰すと一週間も経たない間に私の予想通り倅たちは逮捕された。<br><br>それも警察に協力するように倅たちを警察に差し出した。<br><br>つくづく思う。<br><br>無学と家庭での躾や教育を受けていない事は悲劇である。<br><br>お陰で此処から又私の悪戦苦闘が始まる。<br><br>季節は桜を散らせゴールデンウィーク真っ盛りであった。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mk11111/entry-11919372024.html</link>
<pubDate>Wed, 03 Sep 2014 15:51:35 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>不良と逃亡Ⅲ</title>
<description>
<![CDATA[ 秋の匂ひが急にするようになった。<br><br><br>今年の夏が短かったというのではなく今年は夏らしくなかった感がする。<br><br><br>あめつちの怒りか異常気象にあちこちでの地震、天変地異…<br><br>ダウンタウンの松本人志さんの御尊父が亡くなられたらしい。<br><br><br>松本さんらしく笑いに変えようとしていたが今回はさすがに観ていて少し無理があった。<br><br>ツイッターを読むと感性、感受性の強い彼の凝縮した慟哭の言葉が並んでいた。<br><br>一緒に食べたチキンライス、一緒に行った太陽の塔…<br>私も松本さんと同様に実の父親と折れ合いが悪くほとんど接する事もなかった。<br><br>最期に目を瞑った時にどういう感や思ひが襲うのだろう。<br><br><br>心より御冥福をお祈り申し上げます。合掌<br><br><br>五條病院へ抗生物質と痛み止めを点滴しに朝昼晩と三回、二日通い痛みも少し薄れ熱も微熱まで下がった。<br><br>私は逃亡の身である。<br>いかなる理由があれども一ヶ所に長期間留まる事が出来ないのは自覚していたし覚悟もあった。<br><br><br>三日目、何か嫌な感じがした。<br><br>Oから呼びつけられ急遽、五條入りしたSもリバーサイドで合流し協議したが私は治療中の身体でなお逃亡の道を選んだ。<br><br>Sはさすがに黙っていたがOは身体の心配をして出頭も視野に入れていたように思う。<br><br><br>私は決断すると二人を促し部屋を片付け移動の用意を急いだ。<br><br>まだ完治どころか取り敢えずの対処療法で熱を下げ痛みを抑えていただけである。<br><br>少し動く度に痛みが襲った。<br><br>とにかく五條を離れねばという思いだけで橿原神宮付近に移動し寝ぐらを確保した。<br><br><br>五條のOは自宅へ一旦帰り朝晩と桜井の病院へ送り迎えをしてくれた。<br><br>とにかく腎臓の腫れを取るために抗生物質が点滴でも服用でも必要だった。<br><br><br>後に知る事になるが私がリバーサイドホテルを出た一時間後に検察の横田チームと警察がホテルへ踏み込んだらしい。<br><br>私が出たのを知って五條病院へも行ったらしい。<br><br>後に知ったとは云え冷や汗が出っぱなしだった。<br><br>こうしてる間も検察は私の身内や友人、知己に迫り追及の手を緩めなかった。<br><br>奈良もいよいよヤバイと判断した私は大阪を横切り一気に神戸に入る決心をした。<br><br>Sは用事があり一時、静岡に帰り再び神戸で合流する予定だったが…<br><br>西名阪から阪神高速を通り大阪の街を眼下に観た時はさすがに切なくなった。<br><br>俺はいつまでこうして追われる生活を続けるのだろう。<br><br>頭にボヤーッと逮捕される時の場面が浮かんだ。<br><br><br>神戸線を西へ走り神戸に入り、そのまま新神戸オリエンタルホテルへと向かった。<br><br>このホテルは不良の大先輩の宅見若頭が暗殺された所で神戸では新神戸駅へ直結していて便利で皆が結構つかっていたが暗殺事件以後は警察の出入りも激しく不良は少しずつ減っていた。<br>それに私は身体も大きく、いくらおとなしい服装をしてもまっとうな人間には見えない。<br><br>自業自得、来し方と云えばそれまでたが…<br><br>完治していなかった腎臓は痛んだがジッとしていれば捕まる。<br><br>取り敢えず何でもかんでも抗生物質を手に入れて服用した。<br><br><br>微熱もまだ続いていて丸二日間、部屋に籠もって過ごした。<br><br><br>三日目、静岡のSと合流したが再三再四に渡り仕事を疎かに家に帰らぬSの奥さんが何かを感じたのか<br><br><br>何を考え血迷ったのか、その時、私の一番恐れる兵庫県警に捜査を以来した。<br><br><br>移動して三日、まだ治らず微熱のある身だが焦った。<br>即座に身支度を整えたが先にホテルの部屋のチャイムが鳴った。<br><br>覗き窓から覗くと刑事と制服警官が並んでいた。<br><br><br>私は腹を括ってドアを開けて刑事を招き入れてSが何やら聞かれてる間に背後から部屋を出て一気に一階まで下り待機していたOのセルシオに乗り込み、とにかく出来るだけ離れてくれと荒い口調で言った。<br><br><br>S夫婦は私が逃亡しているのは武士の情けで兵庫県警には伏せていたのか<br><br><br>はたまた兵庫県警の失態だったのか。<br><br>長く私の逃亡に付き合い、支援してくれたSの顔はこれ以来観ることはない。<br><br><br>見かけに寄らず男気のある心ある男だったが逃亡という特殊な心理状態にある私に愛想をつかしたのだろう。<br><br>今となれば感謝と猛省しかない。<br><br><br>Oとそのまま名神を利用し京都へ入った。<br><br>京都は私が立命館大の時に過ごした街で勝手知ったる街である。<br><br>行く所へ行けば路地の一本まで知っている。<br><br><br>当初、京都駅裏にある新都ホテルに部屋をとった。<br><br>まだ腎臓は痛み微熱は続いていた。<br><br>旧知の友に連絡すると何処からともなく抗生物質を持って来てくれた。<br><br>大阪からも電話をすると中田氏が飛んで来てくれた。<br><br>裁判中ずっと世話になった人間で、いつも我儘な私に付き合って無理難題を聞いてくれた。<br><br>さすがに年をとったからか最近はとんと顔を見せてくれないが…<br><br>現役ヤクザのA氏も来てくれ再開を祝い飯を食った。<br>舎弟のNやS、Kも来た。<br><br>悪友のKは呑気に仕事の案件を持ってきた。<br><br>その頃の私はもう仕事どころではなかったのだが…<br><br>大学時代の友人、一郎、二郎が百万遍と京大農学部前でくれしまという居酒屋を開いていたので何もない時は夜はその店ですごした。<br><br>逃亡中とは云え平穏な日々に戻りつつ私に耳を疑うような事が転がり込んできた。<br><br><br>ここから私の生活は又、スリルとサスペンスの中に戻る。<br><br>結局、逃亡などという法に挑戦する行為はいつも何かに怯え落ち着く時がない。<br><br>引き返せるなら引き返したいと思う事が増えていた。<br><br>京の桜の一番美しい頃だった。<br><br>散る桜も、残る桜も散る桜。<br><br>自身の逃亡に果てのない事が次第に分かってきていた。<br><br>花曇りの京の街は例年になく冷え込んでいた。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mk11111/entry-11918868405.html</link>
<pubDate>Tue, 02 Sep 2014 13:22:24 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>不良と逃亡Ⅱ</title>
<description>
<![CDATA[ 今年の夏は異常に雨が多い。<br><br><br>兵庫や京都で被害は出ていたが広島の安佐南区で大変な被害が出てしまう今更ながら自然の猛威には抗えない人間の弱さを再確認する。<br><br><br>亡くなられた多くの方々の御冥福をお祈り申し上げます。<br><br>それにしても今日も雨が散らついていた。<br><br>湿気の多い蒸す日本の独特の夏だが…<br><br><br>私は応援していた大阪拘置所に一年余り座って無罪を争っていたS君が先週の面会でその朝、最高裁から上告棄却されたと知らされ自分ごとではないが気分の晴れない日が続く。<br><br><br>そのS君からの伝言でF君に会い案件を進めているのだがこれ又厄介であるが今日も関係者が雁首を揃え話し合った。<br><br>何しろこれから下獄するS君に少しでも持たせてやりたいと…<br><br><br>外に在する者は何だかんだ文句を言いながらも動く自由がある。<br><br>仮に私のように動けなくとも今の時代は携帯電話もあり、連絡を取り合い情報交換も仕事もこなせる。<br><br><br>中、すなわち拘禁の身はそうはいかない。<br><br><br>それが一般の人以上に理解っている故、代わりに頑張ってやらねばならない。<br><br>外に居る人間が今頃、中で大変だろうなと思う十倍は中が辛いもの…<br><br>S君の修養生活の無事と早い社会復帰を願う。<br><br><br>私の逃亡生活に戻るが静岡に滞在した十二月から翌二月までが逃亡中で一番、安定した日々だったかも知れない。<br><br><br>擦れ切った心身を癒すことも多少は出来た。<br><br>東京で旧知の連中ともあったり年末には河童連なる祭りと芸能関係の若手が作った団体の設立パーティーにも出たりした。<br><br>奇人俳優の中山和也などは<br>「えっ今、逃亡してるんすか」などと驚きつつも遅くまで語り合った。<br><br>年末の永ちゃんの武道館公演は一度でもの足らず新幹線に飛び乗り二度楽しんだ。<br><br>名古屋にも行ったから<br>この年は計三、四回行った。<br><br>七月生まれのCちゃんを思い出させる「真っ赤なルビー」が久しぶりに歌われ<br><br><br>その時の私のためのような「逃亡者」を永ちゃんが歌った。<br><br>ランナウェイ 東へ向かえば…<br>答えなど ないと分かった…<br><br>本当にこの歌は心に突き刺さった。<br><br>年末年始はグランヴィア静岡に引きこもりゆっくり過ごした。<br><br>年越し蕎麦が振る舞われ他のお客さん達と他愛ない話を楽しんだ。<br><br>駅の地下に美味しいステーキハウスがあり、ストレスからか良く通った。<br><br>店長や店員の皆さん達はしょっちゅう食べに来たり持ちかえる不気味な私をどう見ていたのだろうか。<br><br>見るからに普通でない私に何かは思っていたはずだが…<br><br>静岡の中心部にあったグランドホテルの中華、海鮮丼も美味で通った。<br><br>心身ともに緊張の極致に居た私は食べることしか欝屈した何かを発散することが出来なかった。<br><br>でも静岡で比較的に落ち着いたゆっくりした日々を過ごせたのはひとえに静岡在住のS氏のお蔭に他ならない。<br><br>改めて感謝申し上げます。<br>そのS氏も逃亡者である私の面倒見、我が儘に疲れたのか或る夜、約束していた時間に現れず電話連絡も取れなくなった。<br><br>私はSが警察か検察に押さえられたのではと焦った。<br>ゆっくり過ごした静岡の三ヶ月だが一ヶ所のホテルにずっと滞在することはホテル側にも訝しがられるし、不信感を持たれる。<br><br>それ故に基本的にホテル、すなわち寝床は二、三日で移り変わるわけだが<br><br><br>逃亡の身、何もかもを持っての場所替えである。<br><br>オータクロワの特大一つにボストンバッグ二、三個を持ち小さいバッグまであるのでとてもじゃないが一人で出来ずSに車を出して貰い引っ越した。<br><br>持病の身、体調のすぐれぬ時の引っ越しはうんざりだが逃亡という道を選んだ以上は仕方なかった。<br><br><br>そんな私の面倒見や我が儘に疲れたのか或る夜、約束していた時間にSが現れず、てっきりSが警察に身柄を拘束されたと思った私は数年前から私の所へ出入りしていた奈良五條の好漢Oに電話をした。<br><br><br>何もかもを放って四時間後には静岡入りし一緒に荷物を片付け車に積み込むと東名を一路関西に向けて走った。<br><br>真夜中に五條入りした私は不信がられない為にOの友人が親しくしているというリバーサイドホテルの部屋を空けて貰い部屋に入り着替えると疲れからか翌日の昼まで死んだように眠りこけた。<br><br>起き上がると散歩がてらにホテルから少し歩いたが身体がどうもスッキリしない。<br><br>途中で田中の柿の葉寿司を買って部屋に戻りテレビを観たり知り合いに情報取りの電話を入れた。<br><br>大阪では思っていた以上に検察、警察が動き私の身内や友人、知己の周りに聞きまわり監視していた。<br><br>逃亡とはどれほど周囲に迷惑をかけてしまうのだろうか…<br><br><br>夕方になり、Oが一緒に食事と前後策を練るために来てくれたが体調が思わしくなく一階のレストランでの食事となったが<br><br><br>それでも悪寒が続き食欲がわかなかった。<br><br><br>早々に部屋へ引き上げテレビを観ていた。<br><br>二月の末頃だったのだろう。<br>朝まで生テレビが流れていた。<br><br>田原聰一郎がいつもの調子で司会を務めて進行していた。<br><br><br>悪寒が続いていた中、下腹部に強烈な痛みを感じた。<br><br>ヤキをくったり胸を刺されたりと大概にして痛みを知っている身体のはずが、その激痛は特別だった。<br><br>脂汗がこぼれ落ち蒼白になり床を転げ回った。<br><br>一時間ほどロキソニンやボルタレンを服用しながら我慢したが堪らず真夜中にも関わらずOに連絡し痛み止めという痛み止めを持ってきて貰ったがあまり効かず朝一番を待ち市民病院へ行く事にした。<br><br><br>血液と尿検査をしてレントゲンを撮り診察室に入ると結果は出ていた。<br><br>腎臓結石が腎臓からの尿管に詰まり炎症を起こし腎臓が腫れ上がっていると…<br><br>腎孟腎炎である。<br><br>そう大した病気ではないのだが痛みだけは一人前いや二人前だ。<br><br><br>入院を強く進められたが逃亡の身、とてもじゃないがそれは出来ず結局、抗生物質と痛み止めの点滴をして貰い翌日から朝昼晩と点滴に通院することになった。<br><br>当然、保険証はなく検査も治療もすべて実費である。<br>持ち金はみるみる減っていく。<br><br>それでも自身で選んだ道と自分に言い聞かせ前に進むしかなかった。<br><br><br>友人たちが送別会を開いてくれた時、幼なじみ連中が<br>「早く行って早く帰って来たら」との言葉が逃亡中、何かある度に幾度も浮かんだ。<br><br><br>ここから小説のような逃亡劇が始まる。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mk11111/entry-11915654794.html</link>
<pubDate>Thu, 28 Aug 2014 21:56:33 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>不良と逃亡Ⅰ</title>
<description>
<![CDATA[ 結局、私は二回目の保釈で保証金を三割上積みして翌日に出た。<br><br><br>今回は時間も何もが外部との連携が取れず一回目と違い表に出ると一人ぼっちだった。<br><br>大阪拘置所は都島の友淵町にある。<br><br>だいたいに於いて刑務所や拘置所は昔の脱走対策の名残りか不便な所にある。<br><br>その中で大阪拘置所はまだましな方ではあるが、それでも前の道路は一方通行の一本道でその道の向こう側は川である。<br><br>その昔は拘置所の塀を乗り越え川を泳ぎ渡った業の者もいたとか…<br><br><br>川の向こう側にはさざなみプラザという大型公団住宅があり、そこにも多くの不良、やくざ、夜の住人が棲息する。<br><br>仕方なく一本道をボストンバッグ一つ持ち歩いた。<br><br>一度目のような感慨はない。<br><br>通りに出て東へ少し行きファミリーレストランに入り迎えを待った。<br><br><br>30分ほどで若い連中が掛け付けてくれたので、そのまま四天王寺のマンションに戻った。<br><br><br>僅か三日ほどの粗食だがその日は無性に寿司が食べたくなり中田氏らと一緒に上六の力ろく寿司に行きこれでもかと食べた。<br><br>知らぬ間にストレスが溜まり食欲が旺盛になっていたのだろう。<br><br><br>二審の間、弁護士や友人達の懸命の示談交渉があり、私も直接、遺族代表の弟と会い正式に謝罪し話し合った。<br><br><br>その間の毎月数百万のお金を遺族側弁護士に支払っていた。<br><br>故人の実弟が私の思いや誠意を汲んでくれたのか、ほとんど示談もまとまりかけるようにみえたのだが…<br><br><br>けっきょく僅かなボタンの掛け違いでまとまらなくなった。<br><br><br>私がへそを曲げたのだが今思い返すと事件も全員が不幸なら示談、裁判の結果、判決も関係者全員に不幸だった。<br><br>私は早い時期に家を出てから何も無い自分を知り、その私が世の中を渡って行くに意地とプライドだけで生きた。<br><br>それが習い性となっていたのだろう。<br><br>その為に結局、その数倍の経済的負担をおい持病を持つ私が獄中生活を送ることになった。<br><br><br>日本男児に生まれて譲らねばならないところは譲るが絶対に譲れない線がある。<br>その譲れない線が他人より太くて濃いのかも知れない。<br><br>果たしてそれが良いのか悪いのか最期に目を瞑る時まで判らないのだが…<br><br>もっとも、そのお陰でこの世の生き地獄を見ることになった。 <br><br><br>今過ぎた日々を振り返るとまるで映画か小説の中に居たようにさえ思える。<br><br>勿論、いつも自身で選んだ道なのだが…<br><br>この時ばかりは本当に険しい道で弱音ではないが本当に引き返したくさえなってしまった。<br><br>遺族側との示談が壊れた結果、相応の被害弁済をしていたのだが実刑は免れない。<br><br>いろいろな自分の状況や立場、例えば仕事を一緒にしかけていたり…<br><br>諸々を考えるとすぐに収監され下獄することは難しかった。<br><br>すべてに影響力を持つ後藤田先生にも周囲の人間が掛け合ってくれたりした。<br><br>また或る筋からは保釈逃亡しても追わないなどとの眉つばな話もあった。<br><br>取り敢えずは入院し最高裁へ上告し時間稼ぎをと考えたがこのような事件で最高裁が差し戻すことはほとんど0に近く三ヶ月ちょうどで棄却通知が届いた。<br><br>収監状が出るのは近いが、かかっていた仕事を途中で投げ出せば周囲に迷惑を掛けてしまう。<br><br>他にも色々な考えもあり、私は保釈逃亡の道を選んだ。<br><br>収監を延ばしながら神戸に安いマンションを借りた。<br>灯台もと暗しだが大阪ではあまりにも危険であり京都も考えたが知己や協力者が多い事から神戸を地盤とする事にした。<br><br>結局、後に京都に拠点を移すことになるのだが法治国家、それも整備された先進国の我が国で法と真っ向から向き合う逃亡などは許されるものでもなく、また容易ではない。<br><br><br>物音一つにビクビクし少し動作のおかしい人間を見ると刑事のように疑う生活は想像を越えたストレスになり心身ともに激しく衰弱する。<br><br>終わってみれば一年ほどの短い逃亡生活だったが神経をすり減らしただけで仕事など何も進まず正直、千葉幕張の逃亡先で収監された時はホッとして、その日すぐに送られた千葉刑務所が一番、安心して寝れたのを今でもしっかり覚えている。<br><br>最初の頃こそ神戸でそれもおとなしく過ごしていたが少しずつ退屈を覚え京都や時には大阪へも入った。<br><br>どうしても精神的に落ち着きにくいので東京から箱根や熱海、伊東でもゆっくりしたが所詮は逃亡者、何処に居ても落ち着かなかった。<br><br>友人や知り合いと会うのも神経を使った。<br><br>けれども誰や彼やがそんな私に会いに来てくれたのはほんのひとときであっても心が和んだ。<br><br>そんな時はやはり場慣れしたヤクザ者や不良が多かったがたまには一般の会社経営者や商売人も来てくれた。<br><br>しかし反面、持病を煩いながらも付く人間が間が悪くまったくの一人で過ごした事も何度かあった。<br><br>軽い狭心症だがそれも一人の時に発作が起こると、こんな私でも心細くなった。<br>まして知らぬ土地を旅している時は本当にまいった。<br><br>私の運転手兼身の回りの世話をしてくれていたMという男がいたのだが、普段は気のいい少し甘い吸いも分かった男なのだが、いかんせんルーズなのと気が効かない。<br><br><br>まして逃亡中の私はいつも気が張って緊張感の極地にいる。<br><br><br>それまでは笑って流せていた事が命取りになることもあって厳しく当たった。<br><br>感情的になり唸りつける事も度々あった。<br><br>おまけに我儘はどんどんエスカレートしていく。<br><br>今考えるとMには本当に悪い事をしたと思う。<br><br>或る日、その日は穏やかに熱海の高台にあるドーミーインヴィラ伊豆山で過ごしていたのだがあまりに暇なのでMに熱海駅まで本を買いに行かせた。<br><br><br>往復坂道の下り上りとはいえ31分もあれば帰って来れる距離だ。<br><br>しかし40分経っても帰って来ない。<br><br>少し遅いなぐらいに思っていたが一時間を過ぎた頃から少し首を傾げた。<br><br>携帯に電話してみたが電源を切ってある。<br><br>私は警察にでも捕まって時間を取られているのかななどと…<br><br>それでも此処は言わない。<br>それぐらいは出来る男と買い被っていた。<br><br><br>二時間が過ぎ胸騒ぎがしだした。<br><br>どうしてもおかしい。<br><br>私はその日もそう体調は良くなかった。<br><br>東京と静岡と熱海に近い人間に連絡してみた。<br><br>静岡のSが飛んで来てくれた。<br><br>有難かった。<br><br>Sと一緒に身支度を整えSの地元静岡へ向かった。<br><br>今思うとこのSも本当に尽くしてくれた。<br><br>M以上に尽くしてくれたが神経をギリギリまで張り巡らせながら逃亡している私は精神的に患っていたのかも知れない。<br><br>身近な者に当たり辛い思いをさせてしまったと収監した後、大いに反省、猛省しているのだが<br><br><br>残念ながら覆水盆に返らず…<br><br>人生で失ったものも多い。<br>失いながら逃亡を続けた。<br>弁解にもならないが逃亡というのは、それだけ特殊な日々が危機感の極限にある。<br><br>そんな中でストレスはどうしようもなく付いてる人間に当たったり又、過食となり体重も逃亡中ますます増えていった。<br><br>勿論、そんな経験はそれまで波乱万丈な人生を送ってきた私にも初めての事で毎日が神経だけでなく生命を切り売りシタ感が否めない。<br><br>何事にも冬来たらば春遠からずとは言うが逃亡というものにだけは終わりというものは無い。<br><br>一応の時効はあるが成立する事などない。<br><br>N会の人間がT若頭暗殺の後、逃亡し昨年も最期の逃亡者が埼玉で捕まったがやはりやつれ衰え気の緩む時が無かったという。<br><br>本音であろう。<br><br>これだけは経験した者でないと理解できないだろうし、精神状態は完全に尋常でない。<br><br>私の場合、幸いにして最低限の逃亡資金があったのでまだ多少の気の紛らわせる事も出来たが行き当たりの稼ぎながらの逃亡など不可能と言って過言でない。<br><br><br>そこのところはオウム真理教の連中はやった事や思想、信条は断固許されるものではないが逃亡で苦しみ今から又懲役が待っているのを考えると間尺に合わぬ事をしたと後悔の念でいっぱいであろう。<br><br><br>師走直前に入った静岡で私はSの力を借りながら此処を拠点に二月までの三ヶ月を送ることになる。<br><br>この静岡での生活が逃亡中では一番穏やかな日々だったのかも知れない。<br><br>駅前のセンチュリーホテルを寝床に三日四日、それまでの疲れを取るように寝たりテレビを観たりとゆっくり過ごした。<br><br>捜査の手もまだまだ緩かったからかも知れない。<br><br>神経をすり減らしながらもゆったりした時が流れた。<br>年末には大阪から倅たちと名古屋で合流し温泉に行ったり又、矢沢永吉のコンサートに行き刺さくれだった神経を癒せる時空も存在した。<br><br>Sに時間が空けば東京や横浜へ連れて行ってもくれた。<br><br>感謝の限りである。<br><br>真面目なごく普通のSには秘めた男気があったのだろう。<br><br>とにかく時間が空くといつも私に付き合ってくれた。<br>他の時は結構、気儘に静岡の街を一人で散策したりした。<br><br>又一度、静岡を旅したいものだ。<br><br>年末年始を静岡駅直結のグランヴィアで過ごした後、徐々に身辺が狭くなりだしていく。<br><br><br>本当に特殊な精神状態の私を多くの友人や知己が支えてくれた。<br><br>感謝の念はたえない。<br><br>改めて有難うございましたの言葉とともに衷心より厚く厚く御礼申し上げます。<br>行き先の終点の見えない旅はまだまだ続く。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mk11111/entry-11911967617.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Aug 2014 20:36:52 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>不良の獄Ⅰ 拘置所編</title>
<description>
<![CDATA[ 八月に入って台風が来たと思えば雨、また雨<br><br><br>毎年のように異常気象が言われて久しいが今年の夏は又例年の夏と違った異常だ。<br><br>特に京都は福知山から由良川にかけて豪雨、犠牲者まで出たとテレビが報じている。<br><br>お陰様で昨夜の京の大文字の送り火を観に行けなかったが…<br><br>それも又、塞おう翁が馬<br><br>天の声なのだろう。<br><br>二十世紀の最後の年、登り坂に麻痺して「まさか」の坂を真っ直ぐ転げ落ちた。<br><br>言い訳、詭弁の類でなく本当に不本意なあってはならない事件だった。<br><br>故人は勿論、遺族の方々にも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。<br><br>だから私に出来うる限りの償い－被害弁済はじめ、何事にも応えて行こうと思い実際、弁護士を通してその意志も遺族や遺族側の弁護士にも伝えていた。<br><br><br>金銭的にも周囲が驚くほどの金額を掲示した。<br><br>実際に保釈で出ると同時に被害弁済は始めた。<br><br><br>保釈までの都島拘置所は暑い時期だっただけに心臓、他を患う私には堪えた。<br><br><br>留置場と違い拘置所から先はクーラーも扇風機もない。<br><br>真夏の猛暑日にウチワが配られ涼を取るのだが<br><br>夜は困る厚くて仕方なく扇ぐと手を動かすという動作をするので寝れるはずがない。<br><br>私は五舎四階という死刑囚や凶悪犯を拘置する所に入れられた。<br><br>その後、一審後の再保釈も此処が私の居となった。<br><br>二畳ほどの部屋で前も後ろも鉄格子に覆われる。<br><br>かろうじて刑務官とやり取りする窓口の真下にトイレの便器がある。<br><br><br>それを閉めればテーブル、机となるのだが慣れるまでは便器の蓋の上で食事は出来ない。<br><br>幸いにして私の場合は友人や知己、後輩らが毎日のように面会や差し入れに来てくれ実の姉、顧問先の会社の社長、それに弁護士も来てくれ舎房からは良く出れるのだが所詮、一般面会は十分、まともな事は話せない。<br><br><br>念のためだが一般面会の部屋では真夏も扇風機だけだが弁護士との面会室はクーラー付きだ。<br><br>この差はいったい何なのだろう。<br><br>弁護士は公人ではなく一般の民間人で一般面会と同じように思えるのだが…<br><br>しかし弁護士面会は涼しくて有難かった。<br><br>取り敢えずは顧問だった谷口弁護士と森岡一郎弁護士でスタートした。<br><br>とにかく一度保釈で出なければ謝罪も弁済も何もあったもんじゃない。<br><br>私は取り調べで警察でも検察でも認めるところは認め是々非々ははっきりしていたのですぐに保釈は通るだろうと安易に考えていたが、これが厄介で結局、出れたのは三回目か四回目の申請で半分諦めていた時だった。<br><br><br>暑い夏が終わり寒くて防寒着が必要になっていた。<br><br>その頃は私もまだ多少の経済力もあり衣類から布団まで差し入れさせた。<br><br>たぶん布団まで官物でなく差し入れで自身のを使っていたのは3000人を収容していた当時でも10人も居なかった。<br><br>刑務所もだが拘置所や警察の留置場でさえ見栄の張り合いがある。<br><br>タオルの色ひとつ、石鹸やシャンプー一つで競い合う。<br><br>幼稚と云えば幼稚極まりないのだが、それが獄だ。<br><br>私のような独居はまだましで雑居に入れば、その中で序列が出来、人間の一番の本能、自己保身のために弱いもの苛めが日常茶飯事で行われる。<br><br>基本は古く入った人間からの序列になるのだがツッコミ（強姦）や小さい窃盗、チカンなどの犯罪は馬鹿にされ軽く扱われる。<br>保釈保証金は大方の予想を上回り八桁だった。<br><br>勿論、上告の度に上乗せされていく。<br><br><br>外からの電報で保釈許可を知らされたが担当にも中々伝わらずヤキモキした。<br><br>夕方やっと用意になり外の空気を三ヶ月ぶりに吸ったのは夜になっていた。<br><br><br>それでも私を支えてくれていた実姉をはじめ中田氏、親友の和男や若い連中ら仲間が来てくれていたのが嬉しかった。<br><br>その夜から取り敢えず日航ホテルに入ったのだが誰や彼やが祝いに来てくれた。<br>翌日からそれ迄から私の行きつけだった滋賀県雄琴の京近江に垢落としに出掛けた。<br><br>ここは元々が琵琶湖グランドホテルの別館の特別室ばかりを作ったのだが出来上がると同時にバブルがはじけ設定していた一人10万では客は来ず悪戦苦闘している頃から私は大学の古い先輩である松島氏や京都のT親分らの紹介で特別室中の特別室に泊まれたので良く愛用した。<br><br>部屋は15畳ぐらいの二間続きがあり、寝室が又15、6畳、8畳ほどの麻雀部屋にトイレが２つ、部屋の風呂はゆったりして三、四人で入れる。<br><br>サウナがありベランダの露天風呂は琵琶湖が見渡せ絶景で気に入り本当に良く行った。<br><br><br>拘禁の疲れを取り垢を落とすには慣れた温泉宿が一番だ。<br><br>拘禁中、世話になった人間も全員、招待した。<br><br><br>出た足で三重県鈴鹿の吉澤自動車に回った。<br><br>保釈中にそれまでに乗っていたベントレーでは反省が見られるどころではない。<br>融通の効く吉澤で社長に話しジャガーのショートリムジンに乗り換えた。<br><br>この車は外見は普通のジャガーと変わらないが室内がなかなか凝っていて気に入った私は当分の間乗った。<br><br>あとは裁判に集中、専念だ。<br><br>まずは弁護士連中と私の主治医、それに私のブレーン数人を招いて日航ホテルの中華料理 桃李で会食しながら今後を話した。<br><br>私のような、こういう事案は一にも二にも被害者、被害者遺族への被害弁済と示談が大きくものを言う。<br><br>私は保釈前に取り敢えずとしてお見舞い金として300万か500万を渡したが<br><br>示談を済ませねば懲役は間違いない。<br><br>私は年のせいか、持病からの体調の悪さからか、出来ることなら示談を済ませ執行猶予を取りたいと思った。<br><br>それに執行猶予がついて社会にて活動が出来れば、その稼いだお金で又被害弁済が出来るからという理由もあった。<br><br>保釈後、ほどなく故人のお墓参りに行った。<br><br>私にも不本意だった故人の死はお墓に線香を上げると生前のことが思い出され胸がいっぱいになりこみあげるものがあった。<br><br>墓下の故人に謝罪し久しぶりに会話をした。<br><br><br>聞く耳を持たない遺族に示談のために私の高校時代からの親友Uや大学時代のKがわざわざ遠い広島や姫路から来てくれた。<br><br>本当に周囲の皆が良くやってくれた。<br><br>私のような人間のために…<br>特に広島のUは立場があり10分単位のスケジュールで動く中、被害者遺族との交渉だけでなく弁護士との打合せ、他諸々の事で大阪に入ってくれた。<br><br>幼稚園からの親友 和男は保釈中の私にずっと横に付き添ってくれ私が体調の優れない時や裁判出廷の際には車椅子を押して付き添ってくれた。<br><br>一審判決での実刑を受け私は即座に又、都島の大阪拘置所に収監されたが、それ以前より再度保釈申請をしており長くとも二泊三日と思っていたので気楽に入った。<br><br>やはり五舎四階<br><br>異様な雰囲気な中、私は房に入れられガシャーンと周りに響き渡る音を発し鉄のドアが閉められた。<br><br>差し入れの本も間に合わず担当が特別に官本を入れてくれ時間をつぶした。<br><br>舎房の窓から晩秋の夕陽が真っ赤に射し込んだ。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mk11111/entry-11911615166.html</link>
<pubDate>Tue, 19 Aug 2014 01:45:36 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>不良の懺悔Ⅱ</title>
<description>
<![CDATA[ 台風一過、ようやく夏本番と思いきや例年と又違った雨また雨…<br><br><br>私みたいに半分墓守りのような老兵にはいいが若い子供さんを持つ親御さんは本当に残念なお盆休みだったかも知れない。<br><br><br>年に二、三度のまとまった休みであり、海や川に繰り出し水と戯れることの出来る長い休みは八月のお盆休みしかない。<br><br><br>勤め人は早い時期から予定を立てねばならないし又そうせねば今の時期はツァーも宿泊も取れない。<br><br><br>して春や初夏、休みが確定すると早々に行き先を選定し予約を入れねばならない。<br><br>そのようにして取ったお盆休みの旅行の日が雨や台風と重なると遊ぶ当人の子供たちはいざ知らず、親御さんは心を痛める。<br><br>私も実の父親が会社員だったゆえに、そのように夏の旅行の何度かは台風と重なったり旅行の間中、雨だったことがある。<br><br><br>小学校二年生の時の白浜旅行は台風で太平洋の波は高く砂浜で遊ぶのが精一杯だった。<br><br>父親の後輩の子供好きな小泉さんが一緒の旅だったので退屈はしなかったが、それでも台風の中の海は少し躊躇してしまう。<br><br>少し砂浜で遊び宿泊した住金の保養所でほとんどを過ごし遊んだのを覚えている。<br><br>翌年の若狭高浜のお盆旅行も雨とともに過ごした。<br><br>一度は海辺に出たが夜から激しい雨で宿で滞在中ずっと過ごした苦い思い出がある。<br><br><br>親となって私がまだ証券会社に勤めていた時も同様、子供たちはそう深く思ってはいないのだろうが親としては非常に心を痛めるものである。<br><br>せっかくの夏の日の家族での旅行、やはり快晴の中、子供たちを思い切り遊ばせてやりたいと思うのが親心であろう。<br><br><br>私も例に漏れず会社員時代は夏休みは決まっている。<br>そうなれば行き先を早く決め予約を取る競争となってくる。<br><br>当時、人気があった白浜の白良荘グランドホテルは前が真っ白な白良浜で白浜では特別に人気があった。<br><br><br>古く大衆的になった武蔵や海辺まで少し歩かなければならないシーモアと比べて取りにくい宿であった。<br><br>私は偶然、経営会社である名鉄観光の役員に知り合いが居たので比較的取りやすかったが、それでも雨だの台風だので宿泊日を変更したりは出来ない。<br><br><br>私は早くに家を出てあまり家族の団らんや温もりを味わうことが無かったので私自身に子供が出来ると日にち的にも経済的にも無理があっても背伸びして出来うる限り夏に冬に春に出掛けた。<br><br>本当に会社員で経済的にギリギリだった頃は若狭の民宿にお邪魔した。<br><br>少し余裕が出来だすと城崎温泉に宿を取り竹野浜で遊んだり白良荘グランドホテルに宿を取り夏を楽しんだ。<br><br>琵琶湖に旅行した時はずっと雨でホテルから出れなかった。<br><br>子供はそれほどではないのだろうが親心は傷む。<br><br>昭和が終わりに近付いた頃、私の兄貴分だった杉本弘が亡くなり、不良の諸先輩から声を掛けて貰ったが私はそのままヤクザにもならず我が道を選び度々上京するようになり後に親父と呼ぶ安藤とも知遇を得ていた。<br><br><br>夏の終わり、オンナと若い者一人を連れていつものように東京に遊んだ。<br><br>親父とも何度か会って夜のまだまだ開けてなかった六本木で遊び帰阪の際、少し前にオンナが購入していた絵を部屋に飾ってみると少し思っていたのと違うので画廊に立ち寄り交換して貰おうと担当者と交渉した。<br><br>勿論、私は関西弁だ。<br><br><br>口調も荒かったかも知れない。<br><br>背後には若い者がいる。<br><br>若い者はサングラスを掛けていた。<br><br>後に其処を警察、検察に突かれた。<br><br>少し強硬に談判したが詐欺画廊がいちいち客の言う事に従っていたらつぶれる。<br>結局、物別れに終わり、日々に追われてすっかりそんな事を忘れていた師走の或る早朝当時、住んでいた松原のマンションのインターホンがけたたましく鳴った。<br><br>だいたいに於いて逮捕、通常逮捕は月曜もしくは木曜の早朝にやってくる。<br><br>この時は家宅捜査らしい捜査はほとんどなかった。<br><br><br>恐喝未遂の逮捕状が読み上げられた。<br><br>なぜ絵画の交換要求、それも対価交換の交渉が恐喝未遂というおぞましい罪名になるのか理解に苦しんだが社会は不条理と理不尽の繰り返しだ。<br><br>ただ、その場に私が溺愛していた長女が居てその目前での逮捕だったのが断腸の思いだった。<br><br><br>新大阪まで大阪府警の車で行き新幹線に乗り込んだがその間も目前で逮捕された愛娘の事ばかりが頭に浮かび何か苦しいと言ってそれが一番の苦しみだった。<br><br><br>東京に着き警視庁原宿署に連行され例によって身体検査、指紋摂取から始まり初日から取調べに入った。<br><br><br>大阪府警に慣れてる私には取調べ自体はそうキツくはなかったが娘の事、それに生まれたての男の子の事が気になり仕方なかった。<br><br><br>まだ右も左も分からない東京、弁護士も知るはずがない。<br><br>厚かましいが親父 安藤にお願いした。<br><br>翌日には差し入れが入り夕方には弁護士が面会にきた。<br><br>最初からこんな無理筋な逮捕はないだろうと確信を持っていた私は半分、雑談のような取調べ、調書取りだった。<br><br>取調べの刑事だけでなく、その上司も情のある人でコーヒーを度々出してくれたり、よく気を使ってくれた。<br><br>取調べの名目で出し煙草などの面倒見もしてくれた。<br>留置場では赤羽の住吉系のヤクザ連中や杉良太郎の付き人なんかも居たように記憶する。<br><br>大阪の田舎と違い、外部から出前を取るのも美味い和食屋があり天丼の上や鰻丼の上などを取りおもしろおかしく留置場生活を送っていたが夜、皆が寝静まると大阪に置いた娘や倅を思い切なくなった。<br><br><br>世は昭和天皇危篤が伝えられ警視庁もそれに合わすように騒然としていた。<br><br>清水弁護士のお蔭かはたまた無理筋の逮捕だったのか罪状が恐喝未遂から脅迫に変わり最終的に脅迫未遂で10万の罰金で年末ギリギリに検察庁でパイになった。<br><br>当時のオンナやその頃仲の良かった実の弟がそれなりに動いてくれていた。<br><br>帰阪した私は愛娘が私が逮捕された夜に発熱し入院していたと聞いて何よりそれが辛かったのを記憶している。<br><br>目の前で父親が逮捕されるのを見て精神的に相当なショックを受けたのだろう。<br><br>済まない気持ちは勿論、それまで以上に溺愛するようになっていったのだが…<br><br><br>現在も古傷が痛む。<br><br>遠き日の 忘れかけてし 古傷に 心が痛み 疼く日もあり 東月詠<br><br><br>愛娘、亡き母、親父、姐さん、それに協力、心配してくれた皆様にあらためてお詫び申し上げます。<br><br>皆様の益々の御健勝御活躍をお祈り申し上げます。深謝<br><br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mk11111/entry-11911156784.html</link>
<pubDate>Sun, 17 Aug 2014 13:33:13 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>不良のレッテル</title>
<description>
<![CDATA[ 今年の夏はどうもおかしい。<br><br>夏だから暑いのは当り前だが例年に比べて明らかに猛暑も熱帯夜も少ない。<br><br><br>最近はもう蝉の鳴き声さえ聞こえない。<br><br><br>大文字焼きの今日も前から楽しみにしていたのだが大雨と体調が少し良くないので中止した。<br><br><br>京は二条の洛風書房の屋上から久しぶりに送り火を見る予定だったのだが…<br><br>この洛風書房は今は亡き民族派の野村秋介さんが民族派右翼の良心と認めていた魚谷氏の主宰する書店であり政党であるが…<br><br><br>久しぶりに語り合えると楽しみにしていたのが残念至極だ。<br><br><br>さて私はその洛風書房の在る京都の立命館に在籍していたのだが単位はまったく取る気もなく大阪から来る悪友や舎弟連中と夜な夜な遊び回っていた。<br><br><br>卒業が見えない私は大阪に新しくマンションを借りそこが近隣の不良の溜り場になっていたのだが<br><br>偶然にして隣の部屋が私達が学生時代から通っていた針中野の麻雀屋の店長で私所に来る連中と組み営利売春を組織した。<br><br><br>若い頃から「不良するなら女と薬で飯は食うな」<br>が身体に染み込んでいた私は勿論、関わる事はないどころか何度となく止めるようにさえ言っていた。<br><br><br>その売春婦の中に以前、私の誕生日か何かに当てがわれた女の子が居た。<br><br>私との関係はその日限りだったが馬鹿な人間がその女の子も売春婦に加えた。<br><br><br>私がそれを知ったのは相当後の事だが…<br><br><br>その娘がそのマンションの私の隣の部屋、すなわち売春の巣窟から逃げ出した。<br><br>上の者から怒られると思ったのか若い連中はその娘を追っかけて逃げ込んだ市会議員の家まで行き挙げ句、ナイフを出したらしい。<br><br>その上、帰り際に市会議員から僅かな金を足代とか言って取り上げた。<br><br>まったく馬鹿は死ななきゃ治らないとはこ奴らの事で結果、通報され緊急逮捕となった。<br><br><br>まず逮捕された二人は不良でなく非行に近い人間で自分可愛さ、助かりたさから在る事無い事をペラペラしゃべったらしい。<br><br><br>ひと月程して隣の部屋の麻雀屋の店長が主謀者として側近二人と逮捕された。<br><br><br>悪友のKは余裕を見せていたが忍び寄る逮捕の陰には怖れていたのだろう。<br><br>一緒に食事へ行ったりサウナに行った際、落ち着きなく周りを舐め回すように見ていた。<br><br><br>私はと言うと全く自覚どころか関与していない自信もあり余裕どころか逮捕など想定もしていなかった。<br><br><br>三ヶ月程して夏が終わる頃私が付き添いKが出頭した。<br><br>その頃になると事件は思いの他、根も深く徹底的に日頃からの悪業まで調べに入っているなという事は弁護士を通して聞いていた。<br><br>それでも私は売春だけでなく他の事件にも関わっていないのでタカをくくっていた。<br><br>私のマンションに毎日のように集まっていた連中も身の危険を感じたのか段々寄り付かなくなっていた。<br><br>不良と呼ばれる連中は学歴や知識などという物は持ち合わせないがそれなりの不良は独特の臭覚や感性、そして直覚を持っている。<br><br>表現の例えは極端で叱られるかも知れないがピアニストの辻井さんが盲目の代わり聴覚に格段優れた資質を持っているようなものだ。<br>ただでも飯も食えなかった時代、友人たちや舎弟連中、周囲が警察に持って行かれたり寄り付かなくなると良い話もなくなる。<br><br>それは経済的に困窮することを意味する。<br><br>仕方なく高校生だった実の弟にSOSを出す。<br><br>一度、家を出たからには口が腐っても親は頼れない。<br>その頃の弟はまだ私を或る面で兄として認めてくれていたのか自分の昼食代を遊びに来たついでに置いて行ってくれたり一緒に食事に行ったりしてくれた。<br><br>そんな或る日、弟も何かあったのか朝一番でマンションに私を訪ねてきた。<br><br><br>寝ていた私は起きて雑談をしながらモーニングにでも出掛けようとしている時に玄関を叩くけたたましい音がした。<br><br>いくらボロマンションでもインターホンぐらいはある。<br><br>それなのにドアをこれでもかと叩く。<br><br>出て行った私に私服の刑事丸出しの男が逮捕状を読み上げた。<br><br><br>売春や強盗とまったく関係ない遥かに以前の忘れていた別件であった。<br><br>弟に成り行きを説明し詫びて帰らせた。<br><br>マンションは近くに住む弟分が覚醒剤使用、所持で逮捕されたのを受け徹底的に家宅捜査がなされた。<br><br>スーツやジャンパーのポケットまで徹底的に調べる。<br>二時間か三時間経った後、部屋は泥棒に荒らされた如くのままに車に乗せられ平野署に連行された。<br><br><br>身体検査から始まり指紋の摂取を済ませ一度留置場に放り込まれる。<br><br><br>それまでにも私は何度か留置場は経験あった。<br><br>学生時代からすべてが暴力事件か傷害事件である。<br><br><br>それ自体、恥以外の何物でもないのだが唯一、私は幼い頃からの母の教育、躾で「日本男児たるもの破廉恥な事はしてはならない」という事を身体じゅうに擦り込まれてたから破廉恥罪は現在に至るまで一切ない。<br><br>自慢にもならないのだが…<br>私は不良であるに違いないが母からは物心ついて後、下級武士の出とはいえ武士、士族としての在り方を躾られ教育された。<br><br>礼儀作法から日常の行動、「弱い者苛めはするな」<br><br>「人前でニコニコ笑うな」<br><br>「何事にも痩せ我慢をしなさい」云々<br><br>それに人生観に至るまで子供には相当、強烈なことまで叩きこまれた。<br><br><br>自慢ではないがそろは現在でも自分の背骨として持っているつもりではある。<br><br><br>私を引き立てて下さったズンドコ節のT先生もそこは良く褒めてくれたものだ。<br><br>だから秘書や古い周囲にも頼めぬ事を私のような不良に任せて依頼してくれたのだと自負している。<br><br><br>話は逸れてしまったが成人してからの大々的な事件での逮捕はそれが初めであった。<br><br><br>事件関係者の一番最後に逮捕された私は取調べも何も先に逮捕された連中がこれでもかと話しており、私自身が忘れ去っていた事まで自供しており、私はそな作文に署名するだけのような感じだった。<br><br><br>結果、私は二十二日いっぱいで起訴猶予で釈放されたのだが、その釈放時のタバコの一服の旨かったこと。<br><br>私は生野署に預けられたのだが当時は汚い建物で出てくる弁当もアルミが剥げ上がり人間様の食べれる物ではなかった。<br><br>立命在学中の不良、犯罪者という事で他の所轄からも私を見るためにわざわざ来る暇な刑事もいた。<br><br>もっとも立命館は中途半端な人間が多く教師や警察官になる人間が多かった。<br><br><br>最後の日、取調べも終わっているのに司法主任が雑談に呼んでくれコーヒーを出してくれ説教と一緒に取調べでの私の一貫しての完黙はそれなりに他の容疑者とは違うと妙な褒め方をしてくれていた。<br><br>後に他から聞いたりして私なりに考えた結果はその売春、強盗という本件でなくマンション近くに住む私を兄貴と慕うSの覚醒剤事件の何かが出ればと私を逮捕したようだ。<br><br><br>たしかに半年ほど前にSがK一家の幹部から少なくない覚醒剤を取り上げやばいから私に預かって欲しい旨、頼まれたが「私は女と薬は駄目だ」と断り怒ったことがあった。<br><br><br>その後、SはA組系S友会に在籍して売り出したがシャブが原因でくすぶっていると風の噂に聞く。<br><br>いずれにせよ愚連隊の仲間内で唯一、大学生だった私も引き返せなく本格的な不良道を歩むことになるのだがこの事件で不良のプロのレッテルを張られ、人生の分かれ目になったのは事実だ。<br><br><br>出て当時のオンナを連れて垢落としに片山津、山代、山中温泉を回ったのが現在は懐かしい。<br><br>今は昔、昔は今である。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mk11111/entry-11910994321.html</link>
<pubDate>Sun, 17 Aug 2014 00:57:37 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>不良の懺悔</title>
<description>
<![CDATA[ 今日からお盆か…<br><br><br>今の時代、田舎でもない限り迎え火も少なくなってしまった。<br><br>我が国、日本の古来よりの風習が段々と消えてゆく。<br><br>その昔、母が中心となり問答無用にて今の時期、必ず一心寺に身内が集まり法要を行った。<br><br>幼い頃、忙しい青少年期はあまり嬉しくなく、どちらかと云えば苦手だった。<br><br><br>今年は明日か明後日と思っているのだが…<br><br>この年になるまで近い周囲でも少なくない人たちを見送った。<br><br>順送りは仕方ないが不本意な送りもあった。<br><br>今日は皆さん、にこやかな顔で帰って来てくれてるであろうか。<br><br><br>十数年前、不本意ながら私はごく近い人間を死に至らしめた。<br><br><br>当人だけでなく私にとっても周囲の皆にとって残念至極な事だった。<br><br><br>私は不良ではあるが非行ではない。<br><br>一般の人達は不良と非行を一緒のようにしがちだが似て非なるもので不良には非行に対して強いプライドがある。<br><br><br>中学、高校時代、周囲の悪友たちはシンナーやトルエン、睡眠薬遊びをしている奴らが多い中、私は一度たりともしなかった。<br><br>大学に入り、半身を社会、世の中に出てからも周囲が覚醒剤、すなわちシャブに溺れていく中、私は現在に至るまで一度も経験はない。<br><br>当り前と云えば当り前なのだが不良と非行は非なるものであっても交わるところがある。<br><br><br>その一つが覚醒剤だ。<br><br>マリファナなどは非行の最たるもので不良にも成れない半端野郎のやるものと相場が決まっている。<br><br>私の周りも例に洩れずシャブに手を出し溺れて潰れていった人間を多く見てきた。<br><br><br>若い頃はシャキッとしたいい若い者がシャブに溺れてくすぶってしまった例など数え切れない。<br><br>覚醒剤は大東亜戦争の末期、大西龍次郎先生が発案したとされる特攻隊、神風特攻隊が出撃する時に使用したと仄聞するに当たり、そのような死地に赴く為に我々の先輩連中が使ったものを己の快楽を求めるために使うのは私には許し難いものがある。<br><br><br>一面、潔癖症である私はそれを当然、近い人間にも求め強制する。<br><br>それが不幸を呼んだのだが…<br><br>男の人生、下り坂は足元をしっかり見るが上り坂は前と上しか見ないもんだ。<br><br><br>ゆえに先にある「まさか」という坂に踏み入れ転び落ちる。<br><br>私はこの事件がなくとも、おそらく他の事で落ちていたように思える。<br><br><br>それほどまでに己の人生に錯覚、そしてその生活に麻痺していた。<br><br>東京では現役ではないと云えどもアンタッチャブルな世界に絶対君臨する師父 安藤が存在し地元の関西では悪友Kの縁で五代目山口組組長の親友だったM田のM万商事の顧問としての立場があり、又、別に長い懲役から戻り次期カシラと噂されたS氏と近いK氏と兄弟分付き合いにあった私はS氏K氏、それにSに近い畜産大手の会長A氏や府議H先生、S氏と近い現役のI会のK氏などとも食事をしたり飲んだりしていた。<br><br><br>当時は私の地元の大先輩であり若い頃から何かにつけ目を掛けてくれていたミナミのT組長がN会から暗殺され山口組内部も混沌としている状況で予断を許さなかったからミナミで大勢のガードを連れ食事をし同じミナミのアンビエンテに移っても入口は当り前で外の通路にまでガードが立って鋭い目で付近を睨み付けていた。<br><br><br>ミナミのアンビから北新地のダーリンに向かうのも長堀通りはおろか中央大通りも本町通りもガードの車が先に横の道路を止め信号を無視して突っ走る。<br><br><br>私たちは全く大丈夫なのだが次期カシラと噂されていたS氏がT組長を暗殺したN会長とも元々同門でありN会長をどうにか戻そうと画策している最中だったので余計に神経質だったのだろう。<br><br><br>一緒に飲んでいる時に電話が入り急に顔色を変えて中断したこともあった。<br><br>しかし後に除籍処分を受けたS氏にはこの頃が一番勢いもありヤクザとして輝いていた時期だったかも知れない。<br><br>長居にある自宅の新築祝いも盛大で招かれた私もKと一緒に駆け付けた。<br><br>得意満面の笑みのあの頃のSが懐かしく思い出される。<br><br>奇縁と云えば奇縁でこのS会のS氏と私の長い友人S原とは若い二十代の頃、寝食を伴にした親友だったようだ。<br><br>又、H畜産のA氏は私が顧問を務めていたM田の従兄になる。<br><br>世間は思っているより狭いものだ。<br><br>その頃、私の運転者兼秘書をしていたのが元M田の運転手をしていたHだ。<br><br>M田の実子が体調のあまり良くない私を思って付けてくれたのだが…<br><br><br>このHがたまに不可解な行動や態度をとる。<br><br><br>若いのにすぐに直前のことを忘れる。<br><br>シャブだと思った私は本人に問い詰めた。<br><br>色々なことを私に打ち明けてくれたHを私は見捨てることが出来なかった。<br><br>それが後に悲劇を生むのだが…<br><br><br>私はHがシャブをしていたことが判って本人もそれを認めるとヤキを入れた。<br><br>ヤキといっても我が運転者であるからそう激しい壮絶なものではない。<br><br><br>しかしそれが何ヵ月か続いた八月初めに突然、最悪の結果を招いた。<br><br><br>不本意であろうと過失であろうと一応、私は逮捕される。<br><br>十年以上ぶりの逮捕だ。<br><br>憎しで確信を持って行ったものでもなく私は一種のパニックに陥った。<br><br>連行された所轄で十年ぶり以上に身体検査、他を受け夜遅くに留置場に放りこまれた。<br><br>夜遅くの訪問者に留置場はざわめく。<br><br>同房の衆に簡単に挨拶をしてその日は横になった。<br><br>寝れるはずもなく遺族の家族、私の家族、縁ある人間の顔が浮かんでは消えながら翌日から始まるであろう激す日を思い一睡も出来なかった。<br><br>翌朝一番に刑事課からお呼びが掛かった。<br><br>見るからに陰険そうな刑事だ。<br><br><br>私は確かに罪を犯したからには是々非々でした事はした事で認めしていない事はしていない事で主張するつもりであったが警察の末端の刑事はそんなに甘くもないし少しでも罪を作って重くしようとする。<br><br><br>私の担当の川口という刑事も同様の、いやそれ以上に悪質な猜疑心の塊のような刑事でそれから一月ぐらいの戦いが始まった。<br><br>刑事に対するとは別に朝晩、故人に対して手を合わせお祈りし許しを乞うた。<br><br><br>或る意味で私の一番の理解者であった故人Hは<br><br>「社長、気にせんで下さい。それより身体を労ってください」と微笑んでくれるようにさえ観えた。<br><br><br>不良とは私も含めて総じてM、マゾヒスティックな者が多い。<br><br>一般人の方が遥かにSだ。<br><br>この辺を普通の人達は理解出来ていない。<br><br>非行でなく不良はヤクザでも右翼でも自身を律する中、自己犠牲に憧憬する。<br><br><br>心のどこかで侍、武士というものへの憧れがあるのだろう。<br><br>だから切腹は出来ないがケジメで誠意を見せるために指を詰めたり頭を丸めたりする。<br><br><br>もののふを気取りたいのかも知れない。<br><br>だから意外に思われるかも知れないが不良、ヤクザの中にはかの三島由紀夫を尊敬し生きる見本としている人間も少なくない。<br><br>かくいう私も三島の生き方、死に様には衝撃を受けたし三島のように生きたいと思ってきた。<br><br>ただ三島は天才であり私は凡人以下の人間である。<br><br><br>話はそれたが私と亡くなったHの間にはそれだけの情があり繋がっていたように自負している。<br><br><br>だから当然、Hには全面的に詫びるしか出来ないし、その気持ちだけだ。<br><br>しかし何も理解も出来ぬ理解らない今目の前に居る、単に罪を作り点数を上げたいだけの刑事に罵られこづかれ虐待される覚えはないし、まっぴら御免だ。<br><br><br>私の同級連中や知己の刑事でなく現場の最末端の刑事には下品さと野蛮さしかない。<br><br>よくあれで刑事が勤まるもんだと思う。<br><br><br>故人や遺族には頭を下げるしかないし、何を言われても仕方ない。<br><br>しかし取り調べの刑事に暴行を受け、悪しき習わしになってしまっているが毎日の取り調べ、午後からの取り調べの際、なぜか担当の刑事に<br>「宜しくお願いします」<br>終わりに<br>「有難うございました」<br><br>と頭を下げる規則？がある。<br><br>冷静に考えれば彼らは慈善でもボランティアでもなく、それで禄を食んでいるのだ。<br><br>何故に遺族でなく程度の低い刑事に頭を下げなくてはならないのか。<br><br>まして最近は検察の捏造や読み筋に従い調書を巻くというのが言われてきたが<br><br>当時はそんな事も言われず完全に刑事の思惑通りの調書を作ろうとする。<br><br>何しろ文言一つ悪意に悪意にと書いていく。<br><br>皆さんも人生何があるか判らない。<br><br>十分にその辺を理解しておいて欲しい。<br><br>あまりにも強引な取調べに私は二階の窓から飛び降り死のうと頭から突っ込んだり頭を思い切り机に叩きつけたりした。<br><br>もっとも、こうした最末端の次元の低い刑事連中の日常などキャリアやそれに次ぐエリート警察官はまったく知らないようで、その後、キャリアの幹部と食事をした際、何度かそんな話をしてみたが驚いていたのが印象的だった。<br><br><br>私も不良とは云えレッテルや名刺で人を判断しない。<br><br>警察や検察でもロクでもない悪い奴はいるがヤクザや不良の中にも刮目させられる立派な男がいる。<br><br>当時も私は大阪府警の幹部二人とごく親しく付き合っていた。<br><br>別に損得の付き合いではない。<br><br>相性が合う友人のようなものだ。<br><br>誤解のないように断っておくが高校時代の同級に府警本部でえらく出世してるが同窓がいるが私は学生時代から不良だったが何かの縁でその同級生とは結構話したりする仲だったが社会に出て不良を続けている私は彼に迷惑をかけてはとの思いから一切近づかないようにしているし、その時も交際のある幹部二人の名は出し話したが同級生には一言も触れなかった。<br><br><br>それをすれば私が私でなくなる。<br><br>不良どころか単に他人様を利用する非行になってしまう。<br><br>しかしながら青春時代の1ページを共に過ごした友、陰ながらO君の益々の活躍を祈りたい。<br><br>ま、それにしても担当の川口はひどかった。<br><br>私に対するだけでなく心配して度々来てくれていた私の実の姉にまで私の有る事無い事、いかに私が悪い人間であるかを吹き込んでいたようだ。<br><br>私の何をも知らぬ、その時知った、その事、それも表面上しか見ていない程度の低い人間に人の何たるかが理解るのか。<br><br>処分される前に己の頭の上の蝿をはらえと言いたいもの。<br><br>だから悪質で程度の低い国家権力だけを背景にする刑事が担当になれば、これはもう戦いだ。<br><br>それも自由もない拘禁のハンディがあっての戦い。<br><br>よほどの精神力がなければ冤罪でも何でもつくられてしまう。<br><br>おまけにその調書という名の自供が絶対的なものになる。<br><br>今はS君が無罪を争い座って、つい二月前には平野のTやその一党が座っていた都島の大阪拘置所に移送されたのはまだまだ暑い頃だった。<br><br><br>直前に接見禁止が解けていた私は友人の中田氏を呼んで外部のせねばならない事、その後の事を頼んだ。<br><br>一番の親友 和男も来てくれた。<br><br>実の姉も遠い所、暑い中を毎日のように来てくれていた。<br><br>移送の日も午前中に所轄で面会出来なかったのに午後から電車を乗り継いで都島まで
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mk11111/entry-11909357828.html</link>
<pubDate>Thu, 14 Aug 2014 00:39:13 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
