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<title>守田正義の世界</title>
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<description>作曲家守田正義の作品および履歴などのブログです</description>
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<title>上 笙一郎著『児童文化書々游々』より「『守田正義の世界』矢沢寛編」</title>
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<![CDATA[ 『守田正義の世界』矢沢寛編　　　　           　　　　　　　　　　　　　　　　上 笙一郎<br><br><br>　守田正義といっても、ああ――とうなずいてくれる人は、それほど多くないだろうと思います。<br>児童文化にかかわっている人のなかでも、まず作曲童謡に関心を持つかプロレタリア児童文化運動に興味を抱いている少数に限られるのではありますまいか。<br>　&lt;森&gt;ではなくて&lt;守&gt;という字を書く守田正義、作曲家にして音楽評論家、日本プロレタリア音楽史の上で特別大書しなくてはならない人物です。そしてわたしは、日本のプロレタリア童謡の歴史にとっても、また、忘れることの許されぬ人だと信じているのですが。<br>　ほとんど成立するかしないかで弾圧その他のため挫折・解体してしまったプロレタリア児童文学ですけれども、童謡部門では『赤い旗』『小さい同志』という二冊の作品集を残しており、そのうちの相当数は作曲されてピオニール活動の場でうたわれました。作曲家として、露木次男・戸部香・泉貞雄・河野さくら・吉田隆子・原太郎・市川元などといった人たちの名があげられますが、それらのなかでもっとも大きな存在が守田なのです。プロレタリア抒情歌曲とも呼ぶべき「里子にやられたおけい」（窪川鶴次郎作詩）をはじめとして、「小さい同志」（槇本楠郎）「メーデーごっこ」（同）「梟と燕と鶏」（同）その他を作曲し、またピアノ曲「ピオニールのピクニック」なども作っています。<br>　こういう仕事をした守田正義のこと、わたしはずっと前から、どのような経歴の人なのか知りたいと思っていました。昭和十年代の前半期に刊行された三笠書房の「唯物論全書」といいますと、日本のマルクス主義的良心が弾圧下で張った最後の抵抗線だったわけですが、そのなかに守田正義著『音楽論』（昭和十二年）というものがあり、また別に『音楽概論』（昭和十六年・三笠書房）という一冊も知っていたのみ。昭和四十九年に近代日本の革命歌曲を集大成した西尾治郎平・矢沢保編『日本の革命歌』（一声社）が出版され、その巻末に載せられた矢沢の「自由と解放のうたごえ（革命歌の歴史）」によって守田の仕事のもっとも重要な一面を教えられたのですけれど、それから七年たって、彼の全貌を伺うに十分な書物が刊行されるに至ったのでした。<br>　その書物がすなわち矢沢寛編『守田正義の世界（一音楽家の自伝)』（昭和五十六年・みすず書房）であって、やや小冊のうらみはあるにしても、All about Morita だと言ってさしつかえありません。巻頭に口絵写真二ページ、全体を三部に分け、第一部は守田の自伝、第二部はその時どきに書いた音楽評論のアンソロジー、第三部は作曲作品の楽譜集で、巻末には略年譜といった構成です。<br>　三部のうちでもっとも重要なのは第一部の自伝だと思いますが、守田は先天性視神経萎縮症による弱視者なので、口述を編者の矢沢が聞き書いてまとめたものの由。これによると、彼は明治三十七年東京の生まれで、東京盲学校の普通科を卒業、十五歳くらいから詩人エロシェンコや秋田雨雀と交際、ほとんど独学で音楽を勉強し、十九歳のときには大阪で後のプロレタリア＝エスペランチスト伊東三郎と共同生活をしたりしています。そして昭和三年二十三歳で、当時澎湃として興って来たプロレタリア芸術運動の音楽の分野に参加、作曲と音楽評論をもってめざましい仕事を展開して行くことになるのです。<br>　プロレタリア音楽運動解体後の彼は、言語的・意味的な思想をともなう歌曲の作曲ではなくて、器楽曲の創造に沈潜。日本ミリタリズムの敗北によって自由が回復されてからは、器楽曲と歌曲の双方の作曲に誠心をこめ、訃報は聞いていませんから、現在もなお健在なのだと思うのですけれど――<br>　プロレタリア児童文化運動に参加した人たちの経歴、十分にわかっているのはごく少数で不明な人の方が多いのですが、『守田正義の世界』は、その音楽の分野における第一人者の足どりをあきらかにしてくれた本。そのほか、原太郎については、彼が戦後主宰したわらび座の仕事を記録したエッセイ集『日本のうたを求めて』（昭和三十六年・未来社）その他で大体のことがわかりますし、吉田隆子に関しても彼女の評論集『音楽の探求』（昭和二十三年・真善美社）などある程度の資料があります。<br>　川崎大治「汽車ポッポ」や岡一太「憎いこん畜生」などに曲を附けた露木次男については、最近、井上隆著『秋田のうたと音楽家』（昭和六十二年・秋田文化出版社）が略歴をあきらかにしてくれました。しかし、その余の人となると、わたし、不敏にしてデータを全く知りません。児童文化研究者の誰かが、追跡してみてくださらぬものでしょうか。（『児童文化書々游々』1988年、出版ニュース社）<br><br>
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<pubDate>Tue, 01 Mar 2016 20:13:35 +0900</pubDate>
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<title>野口眞一郎氏の『守田正義の世界』評</title>
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<![CDATA[ みすず書房「守田正義の世界」<br><br>読み込めば　読み込むほどに<br><br>あらたな発見があり<br><br>うれしくなって<br><br>また　読みかえします。<br><br><br>また　たのしくなって<br><br>いろいろ　これまでの　さまざまの　さまざまな知識や記憶が<br><br>守田氏の回想に　連動し<br><br>相関図が　視えてきます。<br><br><br>ただ<br><br>ちょっと　残念なのは<br><br>聞き書き　回想　をそのまま　の　口調や<br><br>記憶のままに　載せられるのはよいのですが<br><br>固有名詞など　それぞれに釈註があればよいかと<br><br>思いました。<br><br><br>大体　想像はつくのですが<br><br>一般の目からすると<br><br>雑駁な　感を　抱かれ勝ちで<br><br>すこし　そこのところを　補えば　よかったかと。<br><br><br>また　<br><br>索引があれば<br><br>索引だけでも　立派な仕事として<br><br>（同時代　回顧）<br><br>評価があるかと思います。<br><br><br>とにかく　おもしろい。<br><br><br>たのしい。<br><br><br>そして<br><br>人間観察の　深さ　すばらしさ。<br><br><br>仲間うちといえど　妥協のない　評には<br><br>ほんと　魅力を憶えます。<br><br><br>浅く読むひと　には<br><br>わからないでしょうが<br><br>すこし　周辺事情　背景のわかる者には<br><br>これほど<br><br>快哉　を　叫び<br><br>首肯き　首肯き　しながら<br><br>読み込める　音楽書は<br><br>他に類がありません。<br><br><br>如何に<br><br>この時代<br><br>盲信　憧憬<br><br>センチメンタル<br><br>というより　おそまつな<br><br>おセンチ本<br><br>安っぽい　感想本が<br><br>跋扈しているのが　わかりますね。<br><br><br>とにかく　素晴らしい　一書で<br><br>時代の証言です。<br><br>ご紹介いただき<br><br>ありがとうございます。<br>
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<link>https://ameblo.jp/mm1904/entry-12106936133.html</link>
<pubDate>Wed, 16 Dec 2015 15:16:23 +0900</pubDate>
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<title>守田正義追悼文　小宮多美江</title>
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<![CDATA[ <p>作曲家・守田正義の死に――プロレタリア音楽運動とその時代　　　</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　小宮多美江</p><br><p>　芸術創造と社会の仕組み</p><p>　</p><p>　去る六月七日、作曲家守田正義（１９０４～１９９２）の訃報を聞く。昨夏は山田一雄と、戦前の進歩的音楽運動ゆかりの灯がまたひとつ消えた。作曲家吉田隆子（１９１０～５６）評伝に取り組んでいる私は、心せく思いとこのさい心残りない仕事をという気持ちのあいだで揺れる。</p><p>　守田と吉田とはプロレタリア音楽同盟（ＰＭ）以前から、吉田と山田とは楽壇創生創立当初かかわりがあった。</p><p>　守田の音楽体験や社会体験はきわめて早熟で、大正も関東大震災以前の浅草オペラ全盛時代から始まっている。弱視のため小学校を中退、十代で親もとを離れて盲学校の寄宿舎生活に入った守田は、キリスト教会の日曜学校で賛美歌を知り、そのハーモニーに魅せられて以来音楽を離れられなくなったのだという。吉田隆子の場合は四歳から十二歳まで娘らしく筝曲の稽古を続けていて、洋楽へのめざめは女学校にはいってピアノを習いはじめてからになる。</p><p>　このような音楽的素質からくる感覚の違いは、作曲家としての資質形成に大きくかかわり、創造理論をたたかわせるとき互いに譲れない相違点になっていた気がするが、作品の個性もまた対照的で、以外にも守田の音楽にはリリシズムという表現がぴったりの甘さがあり、逆に吉田には新しい女の強さ激しさがある。しかしいずれにせよ、大正から昭和初期の時代は、人間の自由を歌う芸術創造をめざすものには、それと矛盾するものが、根本的には社会の仕組みにあることを気づかせずにいなかった。</p><br><p>　持ち前の反骨精神の気性から</p><br><p>　守田は持ち前の反骨の気性から、すぐに師の限界を見破ってしまうのでピアノも音楽理論もほとんど独習。その点吉田も似たようなものだが、守田は当時、唯一外国の原書が揃っていた南葵音楽文庫で出会った吉田隆子にフランス語を訳させ、共同して楽理書を解読したこともあった。</p><p>　ひとあし先に全日本無産者芸術連盟音楽部に入っていた守田に、吉田が自分からＰＭに入ったと告げたのは、一九三二年の四月、短いＰＭの歴史のなかでももっとも盛んだったその時期、国立[くにたち]や武蔵野の音楽学生も数多く参加していた。そういう学生たちを、当時のことばで「アジって」運動にひきこんだのが守田なのであった。</p><p>　守田はまた芸術各界のひとびととのつきあいもひろかった。その点を吉田は評価、ＰＭが弾圧のため解散を余儀なくされたあと、新しい運動を組織するにあたって、かれの力をかりたのであった。若き日の山田一雄（当時は和男）も東京音楽学校本科卒業直後、社会へ出ようとしたとき、旧弊な楽壇とはちがう雰囲気を守田、吉田らに感じて近づいたひとりである。</p><br><p>　晩年の悔みと弾圧の記憶</p><br><p>　しかし一九三九年九月、楽団創生がぎりぎりの抵抗表現としてムソルグスキー百年祭を成功させたころは、山田は楽団プロメテに、守田も意見の対立からはなれている。翌四〇年一月、吉田は四度目の逮捕で碑文谷署に拘禁、六月になって帰されたときは瀕死の状態で以後敗戦まで一切動けなかった。</p><p>　晩年の守田はしきりに、吉田をもっと助けてやればよかったと悔んでいたという。山田はといえば、自伝（神奈川新聞）の一節で姉と弟のような関係であったと吉田を偲びながら、戦争が終わる前に死んでしまったかのように誤記している。かれには、あの弾圧がそれほどひどいものだったと記憶されているためではないか。そんな無法が罷り通った歴史をふたたび繰り返させまいためにも私は最後の仕上げをしなければと思う。（音楽評論家。1992年7月17日「赤旗」）</p><p>　</p>
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<pubDate>Mon, 05 Oct 2015 10:02:04 +0900</pubDate>
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<title>守田正義追悼文　　秋山邦晴</title>
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<![CDATA[ <p>作曲家・守田正義</p><br><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　秋山邦晴</p><br><br><p>　作曲家守田正義さんが（一九九二年）六月八日永眠された。享年八十七歳。あと二箇月で米寿を迎えられるところだったから、大往生をとげられたというべきかもしれない。しかし、あの明晰で、理論的で、おそるべき記憶力をもちつづけた守田さんが老いられ、病に倒れ逝去されたということが、どうしてもぼくには信じられない気がしてならなかった。</p><p>　守田正義の存在は作曲家・理論家として戦前のわが楽壇のなかで創造活動の先駆を務めた守田正義と、戦前のプロレタリア音楽運動の指導的な立場にあった守田正義というふたつの注目すべき存在として忘れることができない。</p><p>　だが、このふたつの活動がそれぞれ別々に存在したのではなかった。つねに創造的な運動を実践するというかたちで統一され、貫きとおしたところに、稀にみるすぐれた創造的な作曲家＝理論家であった守田正義という存在があったといえる。</p><p>　一九二八年（昭３）にナップ（全日本無産者芸術団体協議会）の音楽部に参加、以後一九三四年（昭９）ぐらいまで日本プロレタリア音楽同盟（略称Ｐ・Ｍ）などで活動をつづけたが、その際にも、かれはつねに創造活動を展開しようとした。当時、弾圧と戦争へとひたすら突入していく昭和初期の状況のなかで、大勢はチェロやピアノを捨てても、政治活動に専念すべきときだと叫ばれていた。そのなかで守田正義は、プロレタリア音楽運動が音楽を武器とする政治的な運動であるとしても、Ｐ・Ｍは「政治」そのものの運動ではなく、「音楽」による活動であり、そのかぎりでは、創造という役割をつねに忘れてはならないのだ――という考えを唱導し、実践していったひとであったように、ぼくにはみえる。</p><p>　たとえば、いまでも歌われつづけているあの有名な歌曲《里子にやられたおけい》（詩・窪川鶴次郎）は、闘争歌として、一九三○年（昭５）十一月のプロレタリア作家同盟主催の講演会で初演されたが、すぐその直後の新興作曲家連盟第一回作品発表会で、清瀬保二、松平頼則ら十四人の作曲家たちの新作とともに演奏された。後者は日本の新進気鋭の現代作曲家たちが大同団結結成したわが国で最初の団体で、今日の日本現代作曲家協会の前身でもある。このことでもわかるように、守田さんはたんに政治用、作品用などという二面性では考えず、すぐれた音楽作品を作曲するという姿勢を貫いたひとであり、これはそのひとつのあらわれといえるだろう。</p><p>　そのご、菅原明朗、吉田隆子らと「コンセール・ビジュー」など作曲・演奏の創造的なグループ活動を展開したり、戦争中も深井史郎らと公開のコンサートをつづけて、ピアノのための《ソナチネ》《バラード》《パストラール》、合唱曲《春のよろこび》（詩・片山敏彦）とかきつづけていった。戦後もオルガン曲《コラール・ファンタジー》、ピアノ曲《メディタシオン》など数曲がうみだされた。</p><p>　こうした音楽作品のほかに、戦前の唯物全書の一冊として三笠書房から出版された『音楽論』（昭１２）、戦後、矢沢寛監修によって初めて聞き書きとして纏められたかれの考えと伝記的なもの、それにかれの理論的活動を浮かびあがらせる主要な論文のいくつかを収録した『守田正義の世界・一音楽家の自伝』（一九八一年・みすず書房刊）がある。後者には代表作の八曲の楽譜や詳細な年譜もつけられていて、貴重な書である。</p><p>　肉体的なことはあまり書きたくないが、守田正義は少年時代に先天性の弱視がすすんで盲目となった。つまり作曲をはじめたときから盲目の作曲家として、ひとの何倍もの苦労を背おって作曲をつづけたひとだった。ピアノが巧みで、したがってピアノを使って作曲する。それを第三者が楽譜に記譜するという手だてをとって、いつも作曲されていった。あのドイツ語や英語まじりの明晰な論理的な話しぶりや、書物のすみずみまでを克明に頭のなかにまさに文字として印字して刻印してしまっているかのようにおもえたあの驚異的な記憶力も、周囲のひとびとの音読を驚くべき能力で吸収していったその結果であったのだ。</p><p>　気骨と風格のある明治生まれのこのすぐれた作曲家を失ったことで、わが国の作曲界にはまた大きな穴が開いてしまったという感をもたざるをえない。惜しい人を失った。（あきやま　くにはる・音楽評論家、「文化評論」1992年9月号）</p>
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<pubDate>Sat, 03 Oct 2015 15:39:37 +0900</pubDate>
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<title>宇佐見英治氏より守田正義宛て書簡</title>
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<![CDATA[ <p>拝呈</p><p>　堀内[規次、画家]さんをとおして先日の演奏会のカセット・テープをお贈りいただき、御高情心からありがたく存じます。数日雑事に妨げられ、昨日今日ようやく小閑をえてわが家のカセットで当日のお作を聴かせていただきました。</p><p>　殊に心に染みるのはカセットB面、高橋悠治さんによるピアノの独奏曲で、とりわけ「パストラール」など一つ一つの音が寶玉の色光を発して、光のなかの光にふれるよう、この世に生きてあることの歓びをおぼえました。「ファンタジア」もまたすばらしい曲で、生の深いときと夢の魔法が微妙な綾をつくって、高音部と低音部、強弱、テンポ、見事な音楽性を感じます。</p><p>　どの曲にもすみとおった抒情、純粋なひびきがあり、時流をこえたみずみずしさが溌剌と感じられます。</p><p>　守田さんのことは敗戦後、片山[敏彦、詩人・独仏文翻訳家]先生のお宅にしばしば出入りしていた頃から、よくそのお名前やお仕事をうかがっていました。</p><p>　そうしたこともあって、独唱曲の「子供と笛」、混声合唱で歌われた「早春」「ふるさとの秋」「春の静寂」は殊になつかしく、いまさらのようにこの天性の詩人の神的な歌ごえを耳に聴く思いがします。実は片山敏彦著作集第一巻（の詩集）は私が遺稿を整理編集したもので、また先年みすずから出版された守田さんの御本には、これらの歌曲の譜面が収載されていましたが、演奏をじっさいに聴くのは、今度が始めてのような思いがします。一九八四年、[日本]青年館ホールでも他の詩と「子供と笛」は聴きましたが、この度は手許に上記詩集を開いて先ず黙誦、つづいて歌曲をきいたので、改めてその詩の微妙な心のそよぎ（世にいう陰翳と異った）眞の光の陰翳が、曲をとおし、言葉をとおし、よく感じられました。生れ変らねばーー或いは生れ変っても、ーーこういう詩は書けまいと思いました。</p><p>　単純さと純粋さ、明澄と知性、高い香りと陰翳、それが一如となって感じられるのは、片山先生の詩と守田さんの作曲に共通した得難い特質であるまいかと思われます。</p><p>　三月八日、バリオホールでの演奏会の日は、あいにく多年昵懇にしていた親しい人が八十六歳で急逝、ちょうどその時間に、川越のほうで葬いがあったので、折角御招待をいただきながら参上できませんでした。</p><p>　堀内さんは長年の親友です。家も比較的近いので、ときどき歓談、殆んど会うたびに守田さんの話をきかされています。片山先生と同じように偉いお方だとおもって、ときおり演奏会場でお姿を拝してもつい景仰、失礼していますが、この次拝顔の機があれば勇をふるって名乗りでることにいたします。カセットの最後に多分壇上で話されたお声をきいて、なぜか安心し、そう思いました。八十歳を過ぎてなおこのようなお仕事をなさっていることに心から感服いたします。かさねて御礼を申しあげます。</p><p>　　一九八七年三月三十一日</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　宇佐見英治</p><p>　守田正義様</p>
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<pubDate>Thu, 01 Oct 2015 10:39:06 +0900</pubDate>
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<title>『守田正義の世界』書評　４</title>
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<![CDATA[ <p>　戦前のプロレタリア音楽のすぐれた理論家＝作曲家であった一音楽家の自伝『守田正義の世界』は、貴重な歴史の証言であり、ずっしりと重みのある資料でもある。今年七十七歳のこの作曲家は、つねに鋭い批判精神をもちつづけてきた。しかし、音楽界は、かれをまったく閉ざし、その仕事を紹介しようとさえしないできた。本書は口述筆記による自伝の第一部、戦前・戦後の主要な論文を集めた第二部、そして8曲の作品の楽譜が掲載されている第三部からなる。これは大変興味ぶかい本だ。（秋山邦晴。「公明新聞」1982.3.6)</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/mm1904/entry-12078577709.html</link>
<pubDate>Tue, 29 Sep 2015 15:00:46 +0900</pubDate>
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<title>『守田正義の世界』書評　３</title>
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<![CDATA[ <p>　昭和の初めのプロレタリア運動の盛んな頃、満州事変から、日中戦争、世界大戦、日本の敗戦という激動の時代に、盲目のハンデを負いながら、プロレタリア作曲家、評論家として生きて来た守田正義の自伝と論文集、作品集とを、一冊の本としてまとめたもの。</p><p>　Ⅰは自伝で、１、幼少年時代、２はマルキシズムへの開眼、３、プロレタリア音楽運動、４、ファシズムを前にして、５、暗い谷間の時代、６、敗戦以後、に分れ、Ⅱは論文集「わがプロレタリア音楽運動の任務」ほか9編、Ⅲは作品で有名な「里子にやられたおけい」窪川鶴次郎作詞、ほか歌曲、ピアノ曲5曲がのっている。</p><p>　一貫してプロレタリアの立場から、音楽界を眺めての発言として興味があり、意義のある著書である。（週刊「音楽新聞」１９８２．３．２８）</p>
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<pubDate>Tue, 29 Sep 2015 14:49:40 +0900</pubDate>
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<title>『守田正義の世界』書評　２</title>
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<![CDATA[ <p>　守田正義氏は一九〇四年、東京生まれ。先天性視神経萎縮症による弱視のため、東京盲学校を卒業。そのころから、声楽を船橋栄吉、作曲を広田竜太郎に師事して音楽の基礎を学び、ほとんど独学で社会科学を研修するなかで一九二八年、プロレタリア音楽家同盟（ＰＭ）に加盟した音楽家です。代表作には「里子にやられたおけい」があり、彼の仕事は、戦前から戦後六十年代にかけて、楽団でも大きな話題になりました。</p><p>　本書は、彼と親交のある矢沢寛氏が、いまも元気な彼を週一回のわりで浦和の自宅に訪ね、記憶の糸をたぐりながら話す音楽生活や体験を聞き、それを聞き書きの形で自伝としてまとめたものを第一部に、第二部には彼が戦前から戦後にかけて書いた論文を、第三部には彼の代表作八曲を楽譜とともに収めています。</p><p>　自伝には、きびしい弾圧とたたかいながら運動を発展させようと試行錯誤をかさねたプロレタリア音楽運動の様子が、彼の記憶をもとに、歴史的な流れの一コマとして記述されています。とくに、太平洋戦争開戦前年の一九四〇年に、軍部と情報局の強圧的な命令で、軍国主義的な「楽団新体制促進同盟」がつくられ、自由な作曲・演奏活動ができなくなっていった様子と、二者択一の立場に追い込まれた彼をふくむ多くの音楽関係者の人間的な苦悩の姿は、今日にも通じる問題を投げかけています。</p><p>　また、第二部に収録されている論文「近代音楽・序」や「前衛音楽としての十二音音楽への批判」などは、人間と音楽とのかかわりあいなど、音楽の本質的な問題にふれています。</p><p>　いまの日本は、太平洋戦争前夜のような様相を呈してきています。戦争が人間の生活と文化、芸術を破壊し、いかに残酷なものであり無意味なものであるかを、本書は教えています。時代的な制約からくる不十分さはありますが、今日の音楽界をみるとき、本書は多くの示唆に富んでいます。（高沢元夫・音楽評論家）（1982.2.1 「赤旗」）</p>
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<pubDate>Tue, 29 Sep 2015 14:25:07 +0900</pubDate>
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<title>『守田正義の世界』（矢沢寛編、みすず書房、1982)書評　１</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#ee82ee">　1980年代の日本のプロレタリア音楽運動の中心にいた作曲家、評論家守田正義の世界が、自伝と評論、それに作品（「里子にやられたおけい」他の声楽曲と器楽曲「パストラール」他）の三部から描かれている。</font></p><p><font color="#ee82ee">　編者矢沢寛の聞き書きによる自伝は、はじめの「幼少年時代」「マルキシズムへの開眼」あたりは、語り手の照れもあったのか少々高飛車でもあり飛躍もあるようだが、「暗い谷間の時代」から「八・一五以後」あたりは時代状況とそのなかでの人間の生きざまについても鋭い描写と批判精神にあふれて実に読みごたえあった。日本の音楽家のなかにも、このように音楽と社会を同次元の深さでシリアスに考え生きた人物がいたのかと感銘した次第である。引用をしてその発言の一端を紹介したいところだが、アンダーラインをひきすぎたので選ぶこともできない。第二部の評論では「迫力ある批評を期待する」の一文と、片山敏彦追悼文が特にすぐれている。音楽家としての守田は運動や思想家として評価されているし、この書物もいわゆる音楽書とは呼び得ない内容になっている。しかし、この書に盛られた守田の音楽にむけた発言の多くは、ぜひとも今日の音楽家・音楽愛好家に読んでもらいたいと思う。（石田一志）(「音楽現代」1982.3.1 三月号）</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/mm1904/entry-12078566274.html</link>
<pubDate>Tue, 29 Sep 2015 14:04:59 +0900</pubDate>
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<title>何回もの出会いに　　高橋悠治</title>
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<![CDATA[ <p><strong>何回もの出会いに　　　　　　　　　　　　　　高橋悠治</strong></p><p><strong><br></strong></p><p>ぼくが子供だった頃、守田さんは父の書棚にあった『音楽論』という本の背文字の名前だった。箱にはいった小さな本で、読もうとしてもむずかしくて、何もわからなかった。父が編集していたという『音楽研究』という雑誌にのっていたバルトーク論の方は、なんとか読めた。</p><p>　それから20年以上たって、あるコンサートのあとで、守田さんに紹介された時は、びっくりした。子供の頃に理解しようとしていた事柄からは遠いところにいると思っている時に、やはりそうではなくて、何かがずっとうけつがれているのだ、と思いださせてくれる出会いの時がある。秋山邦晴が戦前のプロレタリア音楽運動のことを調べていたのもその頃だったはずだ。1970年代は、そういう時代だったのかもしれない。</p><p>　守田さんの音楽をはじめて演奏することになったのは、竹田恵子と志村泉が吉祥寺の喫茶店でひらいたコンサートの時だった。その時も、その次に矢沢さんが世話人になってやったコンサートでも、ピアノ曲の新作が発表された。そして、昨年夏に電話で、今度は新作でコンサートをやりたいから演奏を頼む、と言われたときには、ただただ感嘆してしまった。実際には全部新作というわけにはいかなかったが、それでも先日送られてきた楽譜には今年の1月の日付がはいっていたので、感嘆しなおした。</p><p>　守田さんは、日本の音楽に近代意識にもとづいた創造の方法を導入しようとしていた。それは戦前にも、戦後にも理解されることのすくない仕事だった。戦前や戦時下の音楽活動のむずかしさは、実感をともなわないが、想像してみることだけはできる。だが、何でも自由にできるはずで、一見多様な音楽があふれている今だって、日本では（日本だけだろうか？）みんなとちがうことをするのはむずかしい。専門分野にとじこもらずに、ひろく交流し、ひらかれた場を自分でつくらなければ、やっていけない。こういう状態は、守田さんの時代とかわってはいない。そこで、自由に生きることをつらぬき、80歳をこえても作曲をつづけているもりたさんに、3度目に感嘆するのだ。（1987.3.8 バリオホールでのコンサート・プログラムより）</p>
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<link>https://ameblo.jp/mm1904/entry-12078548019.html</link>
<pubDate>Tue, 29 Sep 2015 12:52:22 +0900</pubDate>
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