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<title>そろそろマジで哲学しよう　日々のレビュー‐哲学的転回</title>
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<description>哲学は、別になくてもいいような、余計な思考の追及、ではなく、思考の必然性の追及、の、必然的なシステム、なのである。（「主体化論」　断章‐序章）</description>
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<title>「柳美里の息子の虐待」についてのテレビ番組（ＮＨＫスペシャル）を見ての感想</title>
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<![CDATA[ <p>私は、柳美里という人物-作家について、よく知らない、し、小説を読む習慣-趣味もない、ので、その著作も読んだことがない。<br>すなわち、特に関心もなく、柳美里について語る言葉を、まったく持たない、のである、が、たまたま見た、柳美里の息子に対する虐待、がテーマのテレビ番組（５月１５日の夜9時にやっていたＮＨＫスペシャル、なのだと思うが）についての感想（についてのみ）、を、ここに書こう、と思う。</p><br><p>私は、児童虐待について、特に興味-関心がある、わけでもない。たまたま、点いていたテレビが放映していた、このテレビ番組を、たまたま、そこに居合わせたので、見るともなしに、何となく見ていた、特に関心を持ったわけでもない、が、しかし、いくらか気になることがあった、ので、それを、ここに書きとめておこう、思う、のである、このテレビ番組の内容は、児童虐待が、テーマである、はずである、が、私には、そのテーマは、後景へと後退し、もっと別のことが、あらわれている、ように、見えた。</p><br><p>柳美里は、自分（の精神構造）が何であるのか、よくわからない、者、であるように、振る舞っている、が、実際には、柳美里が、すべてをコントロールしている、かのようであった。<br>すなわち、強く感じられる、のは、柳美里のうちに、秘められた、強い怒り（不満-痛み-不安）、であり、行なわれていること、は、柳美里の両親（長い間、柳美里と音信普通のままの、離婚した、両親）への復讐、である。</p><br><p>怒り、を、一方的に訴えた-表現した、だけでは、それは、相手には、伝わらない。相手に、自らの罪、を、自白-白状、させなければ、ならない。<br>立会い-仲介役の、心理カウンセラー（児童虐待の専門家）、は、あたかも、懺悔（自白-告白）、を、引き出す、聖職者のよう、な、役割を、演じさせられており、ＮＨＫ-テレビカメラは、それを記録する。</p><br><p>テレビカメラの前に呼び出された、母は、娘の復讐をすぐに察知した、かのごとく、自らを呼び出した、心理カウンセラーの前で、不快な表情（あるいは、不敵な表情）を浮かべ、その対話（告白の要請）を断った、あと、二度とあらわれない。<br>母と娘との、かつての確執、は、明らかであり、自分と同様に、気位の高い、娘の柳美里が、自分に、歯向かい、復讐する者、である、ことを、すでに、幼少時から十代の頃（柳美里は、十五歳で、家出している、らしい）に、予見した、のであろう。母は、母で、柳美里に対する、怒りを持っている（いた）、ように見える。</p><br><p>テレビカメラの前に呼び出された、父は、無防備に、柳美里（と、心理カウンセラー、と、テレビカメラ）の前に、身（年老いた姿）を晒し、「何か、人生に、後悔はないのか」と、柳美里に詰め寄られ、自分の、過去、生い立ち、コンプレックス、弱さ、の、自白を、強要される。</p><br><p>明らかに、柳美里は、周到に、両親の、その口から、反省の、詫びの、後悔の、言葉が出るように、仕向けている。<br>柳美里が、自らの息子を虐待する（児童虐待は、親子間で、連鎖する、というのが、番組のテーマ-主旨、である）、のも、あたかも、そのための（復讐のため）、手段でさえ、ある、かのようである（息子のことについては、むしろ、あまり語られない）。夫への復讐、のために、我が子を殺害する、王女メディア、さながらに（余談であるが、柳美里は、実に、エキセントリックな-傲然とした、女王然としている）。</p><br><p>復讐は、そもそも、人間的な行為（人間味のある行為）、であり、人間への、奇妙な愛情でもある、わけである、が、小説家は、普遍性の名のもとに、それを行なう、者、でもある、のであろう。<br>柳美里は、以前に、自らの作品（小説）中で、友人-知り合いを、断罪し、その友人-知り合いに、名誉毀損、で、訴えられている、が、柳美里は、普遍性の名のもとに、作品は、正当化される、と、主張し、自らの行為を、正当化している。</p><br><p>柳美里は、普遍性の名のもとに、両親に、その罪深さ、を、告白-自白-自覚、させよう、とする、したたかな、ひどく頭のよい、怒れる女王、なのである。<br>柳美里が、そのことに、自覚的-意識的、なのか、無意識的、なのかは、どうでもいこと、である。どのみち、そうしたことは、わからないまま、なのであるから。しかし、行為は、そこに、露呈している。<br>ＮＨＫも心理カウンセラーも、柳美里に、動かされ、のせられている、かのようだ。すべては、柳美里のシナリオ-作品、であり、両親は、公衆の-世間の（テレビカメラの）面前で、自らの罪深さ、を、自ら、述懐しなければ、ならない、という、辱め、を受ける、のである。<br>柳美里は、かつて、子供の頃に、父に殴られて、鼻の骨をへし折られた、と言う。その恨み、は、大きい、のである。<br>こうして、虐待の話は、復讐譚へと、変貌する、のである。</p><br><p>そもそも、もし、我が子が、芸術家肌-革命家肌、である場合、親は、そういった気質の子供（反抗的な子供）、を、しつけ、と称して、きびしく、教育-虐待、しないだろうか。<br>柳美里の母は、「こんな子供を、産まなければよかった」、と、かつて、娘に対して、言ったことがある、という（そうした、言葉の暴力、だけでも、虐待、である）。<br>国（親）は、国民（子）が、極端な危険気質-危険思想、である場合（赤軍派やオウム教、などを、思い出そう）、国（普遍性）の名のもとに、それを、取締り、弾圧する。見ようによっては、それは、児童虐待、と、同じケース、である。親が、自分にとっては、不穏、に思える、我が子を、しつける-虐待する、のであるから、親にとっては、親の論理（支配者の論理）から見れば、そうした教育行為は、正当な行為、である、ということになる（たいていの、児童虐待を、親は、しつけである、と称している）。<br>以前に、東大卒の父親が、家庭内暴力を振るう、暴れる息子を、殺害した、事件があった、が、それに対する世間の評価はともかく、こうした、広い意味での虐待は、当の父親、にとっては、正当な行為-判断、と思われた、のであろう。</p><br><p>柳美里は、自分が、子供の頃に受けた、暴力（心理カウンセラーは、それを、虐待、と言う）、は、自分が、悪い、から、だ、と、思い込んでいる、ようである、が、現に、そうなのだ（彼女が悪い子なのだ）、としたら、どうだろう。<br>しかし、柳美里の、すなわち、小説家として成功した柳美里の、その後の視点（論点）、から、とらえ返せば、両親の暴力行為は、遡及的に、罪-悪、と、見做される。<br>その当時の視点、と、現在の視点、とには、ギャップ、がある。もし、柳美里が、成功していなければ、こうした断罪、は、ありうる、のであろうか。<br>ひとたび、革命が起きれば、以前には正当（常識-良識）であったこと、も、遡及的に、罪-悪、になる。<br>儒教的な、封建制度、も、西洋的な民主主義-人権、の視点からとらえ返せば、悪（虐待）、になる。</p><br><p>復讐とは、かつては、虐げられた者-抑圧された者、である、新しい支配者-主人-親、が、かつての、古い支配者-主人-親、と、交代する、こと、であり、その時点で、後ろ向きに、圧殺された過去に、新しい意味-解釈を、付与する、のである。</p><br><br><br><br><p>突然、まことに勝手ながら、論考を続ける予定（意志）はある、のですが、しばらくの間、個人的な諸事情（集中力や時間的余裕の欠落、など）、により、本ブログ-本論は、お休み‐中断、させていただきます。<br>再開の予定は、白紙の状態です（再開の折には、この記事は、削除します）。</p>
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<link>https://ameblo.jp/mn444/entry-10896287117.html</link>
<pubDate>Thu, 19 May 2011 11:04:21 +0900</pubDate>
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<title>永久機関の夢-原発事故という破れ目（人生って何だろう-真の水戸黄門）</title>
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<![CDATA[ <p>福島第一原発の事故（２０１１・３・１１）を見ていて、よくわかること、は、英知-人間の知恵、とは、永久機関の夢、である、ということ、である（古来、永久機関は、人類の夢、である）。<br>永久機関（同一性-閉じた自己完結的システム-循環する閉回路）は、しかし、夢（ユートピア-天国）であり、現実には、必ず、その、破れ目、がある。<br>まさに、今回の事故がそうであるが、そもそも、われわれ自身が、破れ目-主体化、である、ことが、永久機関（同一性-閉じた自己完結的システム-循環する閉回路）の条件である、から、破れ目は、必然的、なのである。<br>事故以前にも、もともと、放射性廃棄物が、システム-サイクルの破れ目として、過剰であり、自己完結していない。</p><br><p>永久機関は、常に、見かけ、であり、局所的-部分的-過渡的にしか、うまくいかない、とすれば、それを求めること、は、はじめから、エゴイズムである。<br>資本主義（自給自足的な-永久機関的な、共同体の破れ目-共同体間、こそが、資本主義である）は、まさに、そうしたエゴイズムであり、ある局所-部分（すなわち、特定の地域、都市、国家）、でだけ、功利的な循環システム（調和世界）が、うまく機能する、が、そのための、破れ目（犠牲-不都合-不具合）は、他所（貧しい地域、田舎、地方、あるいは、未来）へ、まわされる-押しつけられる（首都圏の電力確保-補給のために、まさに、現に、福島県-福島県民が、犠牲になっている）。</p><br><p>永久機関の夢、の、信奉者-信仰者、それが、うまく機能しない、時、その本体の信仰（永久機関の夢）、の威信、を守るために、必ず、それ（不都合-不具合）を、何かの-誰かの、せいにする（天災の、政府の、東電の、一部の悪意の・・・）、が、もともと、そうした諸原因をも含め、破れ目は、不可避的-必然的、なのである（地球温暖化、文明の副産物としての公害、貧富の格差の増大、人口爆発による飢饉、なども、そうした、文明-同一性の破れ目、である）。</p><br><p>こうして、永久機関の夢は、差別を、二重に、生み出す。<br>一つは、ある特定の場所に特化させた、永久機関の見かけ（取り繕い）、のため、の、犠牲-不都合-不具合、を、その外部に追いやり-押しつけ、それには、目をつぶる（要するに、幸福の、命の、権利の、優先順位、がある）。<br>もう一つは、永久機関（の見かけ）が、うまくいかない、ことが、露呈した時に、その機能不全の原因-言い訳を、現実の、何か-誰か、のせいにし、あたかも、それさえなければ、すべては、うまくいく、かのように-はずであると、言い募る-思い込む（東電の人為的ミス-不誠実、さえなければ、というように）。</p><br><p>したがって、世界-人類の幸福、は、はじめから、放棄されている。<br>永久機関（調和世界）が、部分的にしか、うまくいかないこと、は、わかっている、のであるから、たてまえ-夢想（世界-人類の幸福、を望むふり）は、さておき、誰もが、とりあえず-さしあたって、そこ（部分的にだけ可能な調和）にしがみつこうとする-それ（部分的にだけ可能な調和）を独占しようとする。</p><br><p>現に、およそ、宗教は、特定の共同体の、幸福-繁栄、しか、夢見ていない。<br>宗教-共同体、は、部分的な幸福-永久機関の夢、を求める、ために、必然的に、他者（他の宗教-共同体）に、不寛容-冷淡、であり、また、自らの夢-希望-欲望（部分的な幸福-永久機関の夢）が、うまくいかない-機能しない、場合、その体面-面目-威信を守るために、必ず、それを、他者（他の宗教-共同体）のせいにする（宗教戦争については、言うまでもない。やつら-異教徒-悪魔さえ、いなければ、われわれの幸福は、実現するはずである、のに、それを妨害しているのは、やつら-異教徒-悪魔、の陰謀、なのである）。</p><br><p>してみれば、われわれは、多くは望めない。<br>せめて、自分だけでも-自分の周辺だけでも、幸せになることを望み、その幸福に余力-ゆとりがあれば、他者にも、それを、分配する、という態度、以外には、とりようがない、ということになる。それが、エゴイズム-優先順位、である。<br>すなわち、生（命）の優先順位であり、自分の、ついで、両親の、ついで、兄弟の、そして、最後に、見ず知らずの他者の、というように、あるいは、支配者-金持ち-実力者の、ついで、平民-無名の人-無能の人の、ついで、動物の、ついで、虫けらの、というように、歴然と-公然と、優先順位がつけられる（政治とは、この、優先順位を決定すること、である）。<br>したがって、生は、この、優先順位を、上に上がることに汲々とすること、になる。こうしたエゴイスティックな姿勢に、それへの反省を、忘却-麻痺させる、慰み物としての、諸文化（音楽や物語や娯楽など）が、付随することになる。</p><br><p>普遍宗教は、共同体の外部-共同体間、を、目指すもの、であるが、理念の上ではそうであっても、既存の宗教は、そうなり得てはいない。<br>福音派は、聖書の言葉を、神の言葉、として、解釈を拒否し、一字一句、字義通りに信じる宗派、であるが、聖書は、使徒-人間たちの物語、であり、キリスト-共同体の外-神の言葉-主体化、の、内面化、である。<br>人生って、何だろう。生は、出来事であり、人生は、物語（一個の生が、生まれて、死ぬ、という、完結した物語）、である。<br>生-出来事を、回収-内面化する、物語-同一性は、生-出来事によって、絶えず、破られ続ける。<br>神が、人生を操っている、なら、その意図は、まさに、不明、である（聖書を、字義通りに-愚直に、信じる、以外に、ない、のかもしれない）。</p><br><p>しかるに、よく言われるように、神の天罰、というものがある、とするなら、まさに、それは、同一性-エゴイズム（独善的な夢想）への固執（強欲-驕り-既得権益の独占）を、暴力的に有無を言わさず-容赦なく、打ち砕くようにあらわれる、、災厄（自然の猛威）-破れ目、を、そう見做す-理解する、こと、なのである。</p><br><p>物語は、必然的に、すべて、過去形、である。<br>驕りとは、自分にとって、好ましい-望ましい、都合のよい状態が、永続する、と、思い込む、物語、である。<br>つまり、必ず、決まった答が出る、ということである。常に、きちんとした答えが出ないと、気がすまない、ということが、驕り、であり、幼稚なエリート意識、である。<br>同じ日常-生活が永遠に繰り返される、という、物語（信仰）、から、はじき出された、原発事故の被害者は、この、災難を、反転させて、ポジティブに-前向きに、とらえ返せば、人生-物語を見つめ直す-考え直す、絶好の機会、を、与えられた、特権者（主体化）、である。</p><p><br></p><p>ところで、まったくの余談であるが、真の水戸黄門は、うっかり八兵衛、ではないか、と、私は、にらんでいる。いわゆる水戸黄門-ご隠居は、ダミー-影武者であり、裏で-陰で、すべてを-みんなを、操っている、本物は、まさかそんなはずはない、と、誰もが、うっかり見逃している-見落としている、誰の目をも欺いている、この、いてもいなくてもどうでもいいような、不自然な人物-うっかり八兵衛、では、ないだろうか（それゆえ、かどうかわからないが、水戸黄門に扮するる役者が代わっても、うっかり八兵衛に扮する役者は不動である）。</p><br><br><br><p>突然、まことに勝手ながら、論考を続ける予定（意志）はある、のですが、しばらくの間、個人的な諸事情（集中力や時間的余裕の欠落、など）、により、本ブログは、お休み‐中断、させていただきます。<br>再開の予定は、白紙の状態です（再開の折には、この記事は、削除します）。</p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mn444/entry-10888207176.html</link>
<pubDate>Wed, 11 May 2011 09:58:12 +0900</pubDate>
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<title>災厄（地震‐津波‐原子力）とは神である（お休み‐中断のお知らせ）</title>
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<![CDATA[ <p>人間（同一性）を超えたもの、が、神（超越性）の定義、である、なら、現実的に、それ（神‐超越性）を、指示‐支持する、ものは、想定外の災厄（否定性‐差異）、でしかない。</p><br><p>神とは、このような人間‐文明（同一性）に、襲いかかる、自然の猛威（崇高）、としての、差異‐暴力性、であり、同一性、とは、そもそもからして、こうした、差異、が、あってこそ、のもの（差異‐他者性、に対する、閉じた内部）、である。</p><br><p>しかるに、神とは、このような、差異（荒ぶる神）、と、同一性（牧歌的な‐予定調和的な、自然）、との間の、振幅、である。</p><br><p>原子力（科学）は、神‐信仰、であり、その熱心な信者たちは、一転して、その被害者と化す（「神よ、なぜ、あなたは、私を見捨てるのですか」とつぶやく、キリストのように）。</p><br><p>われわれは、このような、自らの同一性（文明‐思考）に、内面化し得ない、それを破壊する、災厄、に対して、同一性の物語（復興）、を、執拗に連呼する（に、しがみつく）、以外に、ない。</p><br><p>こうした、同一性の回復、を、執拗に唱える、同一性の物語への、盲目的な固執、によって、愚行‐我欲（利己主義）、が、蔓延る。<br>たとえば、風評被害、である（風評とは、真実ではないが、もっともらしい、真実めいた物語、の、盲信、である）。</p><br><p>すなわち、被災地において、いち早く‐誰よりも早く、遠くの安全地へ、避難してしまう‐逃げてしまう、医者、原発被災地周辺への立ち入りを、拒絶する、運送業者、自らの店舗敷地内に、原発被災地周辺のナンバーの車の乗り入れを、拒絶する、レストランやガソリンスタンドや旅館、買いだめをする、あるいは、原発被災地周辺の物品の購入を、拒絶する、消費者、など、である、が、もちろん、こうした、りこうぶった愚行、は、それ自体が、自らの愚かさ（無知蒙昧）にふりかかる、風評被害、によって、いずれ、滅びる、という、当然の報い（自業自得）、を、受ける、であろう（以前に、ライ病患者の団体の、宿泊を拒絶した、旅館が、その愚行に対する非難、のために、廃業に追い込まれた、ことがある、が、いまだに、このような、民度の低い、愚行が、当然のことのように、公然と横行している、ことは、驚き、である。地獄の亡者、とは、まさに、こうした愚者のこと、である。名前を公表されて、社会的制裁を受けても、当然であろう）。</p><br><p>しかしながら、常に、蔓延る、こうした、愚者、を、相手にする、言葉（哲学‐論理）、は、存在しない（馬鹿につける薬はない‐馬鹿は死ななければ治らない）、のである（磔刑のキリスト、毒杯をあおるソクラテス、迫り来るナチスを前に自殺するベンヤミン、の、絶句‐失語、を、思い出そう）。</p><br><br><br><br><p>突然、まことに勝手ながら、論考を続ける予定はある、のですが、しばらくの間、個人的な諸事情（集中力や時間的余裕の欠落、など）、により、本ブログは、お休み‐中断、させていただきます。<br>再開の予定は、白紙の状態です（再開の折には、この記事は、削除します）。</p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mn444/entry-10858304145.html</link>
<pubDate>Mon, 11 Apr 2011 10:39:28 +0900</pubDate>
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<title>フェティシズム（現実にない女性のペニスの代用品）の起源‐出発点（主体化の廃棄）</title>
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<![CDATA[ <br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110411/09/mn444/80/d4/j/o0714053611159421317.jpg"><img border="0" alt="そろそろマジで哲学しよう　日々のレビュー‐哲学的転回" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110411/09/mn444/80/d4/j/o0714053611159421317.jpg"></a><br></p><p>主体化という、純粋否定、において、可能になる、その、物語化、としての、われわれ（主体‐自己）‐物語的思考、は、その根源的な純粋否定を、内面化した、否定性、を、部分過程、として（のみ）持つ、全体性（物語り的全体性）、を、形づくる。<br>こうした、二つの否定の水準において、われわれの自然は、二つに識別される。<br>すなわち、本義的な自然（純粋否定）、と、二義的な自然（物語‐秩序、としての、自然‐全体性）、である。</p><br><p>二義的な自然は、それ自身の規律と法則に従った、物語的全体性（世界‐宇宙）、としての、自然、のこと、であり、そこでは、いたるところで、否定性が、はたらいている、が、すべてが、否定である、わけではなく、否定は、予定調和的な全体性（の肯定‐保存）、の中の契機、にすぎない、のである。<br>つまり、否定‐破壊、は、いまだ、創造‐変貌（変化）、の、裏返し、なのであり、否定‐無秩序、とは、秩序の一形態、で、死‐腐敗、さえが、生の構造、に、他ならない。</p><br><p>本義的な自然は、主体化、によって、のみ、見出される‐垣間見られる、物語（類‐法則）を超えた、不可視の、本源的な自然、としての、純粋否定、であり、創造‐保存‐個別化、の、必要性、という、物語（物語的な思考）、から、解放されている。<br>主体化は、どこまで下降しても、達することのない、底、としての、発生期の錯乱‐原初の混沌、としての、本義的な自然の、相関物、であり、それ固有の、否定性において、二義的な自然‐物語、をも、否認する（否定する）。</p><br><p>この、不在なるもの‐否定の観念（本義的な自然）、は、物語的世界‐経験的世界、では、与件として、提示、されることは、なく、提示することも、不可能、である。<br>しかるに、われわれ‐物語にとって、問題なのは、派生的なもの‐物語（二義的な自然）、と、それを、可能にしているところの、不可視の、根源的なもの（本義的な自然‐主体化）、を、繋ぐこと、すなわち、物語、と、非物語的なもの、との、距離を、論証として、埋めること、である。</p><br><p>つまり、二義的な自然‐物語、で、否定性によって、惹起された、苦痛‐主体化、が、いかなる条件下で、直接的に、本義的な自然に、反響し、再生産されうる、のか、ということ、である。<br>すなわち、主体化の反復（反復し得ないものの反復）、の、意味、である、が、実践的な段階、において、われわれは、その論証の総体を、二義的な自然‐物語、から、借り受けた、部分的な、帰納的方法、によって、具現化せざるを、得ない。</p><br><p>要するに、部分的な否定性の、増大、としての、その純化、を、物語的なインスピレーション‐刺激、によって、散乱する、ことなく、二義的な自然へと導くであろう、と、期待しうる、快楽‐予定調和、に、身を任せる、ことなく、沈着に、統御、しなければ、ならない、のである、が、まさに、こうして、否定性そのもの、を、論証的思考の、沈着性によって、純化しなければ、ならない、という、矛盾にさらされる、ことになる、のである。<br>これが、われわれ、という、物語を否定する、物語、の、失望‐意気沮喪（分裂‐二重化）、なのである。</p><br><p>この、失望‐失敗、は、物語へと、回収され、否定、ではなく、否認、となる。<br>すなわち、現に存在するもの、の、正当性‐正当化、に、反逆し、この現実（現に存在するもの）の、彼方、に、他（主体化）から、授かった、のでは、ない、新たな地平（超越的次元）、を、開示しうる、特性、を、持った‐担った、一種の、宙吊りの、未決定状態、すなわち、神という幻想（主人のシニフィアン）、を、装う（仮想する）、ことで、成立する、ある一つの、操作、つまり、フェティシズム（物神崇拝‐偶像崇拝）、の、出発点、となる。</p><br><p>フェティシズム（物神）とは、現実に存在しない、女性のペニス（男根）の、反映‐代置物、であり、女性に、ペニスが備わっていない、ことを、否認する、方法、である。<br>つまり、異議を唱えられた、器官‐ペニス、の、権利上の維持、が、可能になる（まだ可能である）、その、直前の（手前の）、物質‐物体、すなわち、靴や衣類や下着など、に、執着して‐することで、最終的な決着‐結論に、至らない、その、直前‐手前の視線に留まる、宙吊り状態、を、維持しようとする、のである。</p><br><p>要するに、それは、まだ、ペニスの存在を信じることが、できた、最後の瞬間（視線）、に留まる、ことで、幼時の視線が、決定的な場所へ、至り着かない、ようにする、のである、が、すなわち、女性のペニスの不在、という、湿り気を帯びた、繁茂した沼の、混沌（原始的な混沌）、の現前、や、あるいは、性交という、乱脈な‐無秩序な官能、の現前、といった、混沌‐混乱に呑み込まれそうな怖れ‐トラウマ的な現実（衝撃‐不安）、を、目撃しないようにする、防御的な配慮、なのである（直接的な肉体の交接‐性交渉、よりも、映像など、間接的なセックスに、楽しみを求める、傾向は、こうした、フェティシズム、であり、むしろ、秩序を、守ろうとする、性というトラウマ、すなわち、官能的混沌‐混乱、に対する、幼児的否認、なのである。しかし、さらなる、トラウマは、大人になれば、わかる、こと、である、が、性というものが、実際には、あまりに、つまらない‐退屈なもの、である、すなわち、単調な、愚かしい、馬鹿げた、単なる反復運動、である、という、事実、であり、フェティシズムは、それを、覆い隠して、刺激を維持‐持続させようとする、必死の幻想、なのである）。</p><br><p>こうした、フェティシズムは、主体化‐否定性、が、現実に存在しない（対象化できない‐思考できない）、こと（トラウマ的事実）を、否認する、ために、その、代理表現（否定性の神の宙吊り状態）、を、置く、ことに、起源を持つ、その、同型‐相同の、構造の、反復、であり、フェティシズムは、それ自体が、派生物、として、より、根源的なもの（主体化の隠蔽）、を、ずらす（すりかえる）、ことで、見えにくくしている‐覆い隠している、のである。</p><br><p>いつも、その宙吊り状態（超越性の幻想）、へ、立ち返って、否定性の探究が、もたらす、腹立たしい、主体化（絶対的な否定性）の不可能性、の発見、を、厄介払いする、のである。<br>要するに、物語、の、失望‐意気沮喪、が、現実的なるもの（絶対的な否定性）、への、理想的なるもの（神‐女性のペニス。ペニスとは、乾燥した、男性的な、父権的秩序の、象徴、である）、の、権利主張、の必要性、を、痛感し、理想的なるもの、の中に、自分を中性化し、宙吊りにし、その結果、現実の知識（の追求）、から、蒙るかもしれない打撃、を、効果的に、廃棄せんとする、もの、なのである。</p><br><br><br><br>
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<pubDate>Mon, 11 Apr 2011 09:15:23 +0900</pubDate>
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<title>芸術は爆発（テロル‐ショック‐驚きという物語）ではなく欠落（倫理‐主体化）である</title>
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<![CDATA[ <p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110310/17/mn444/36/6c/j/o0714053611102395115.jpg"><img border="0" alt="そろそろマジで哲学しよう　日々のレビュー‐哲学的転回" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110310/17/mn444/36/6c/j/o0714053611102395115.jpg"></a><br></p><br><p>芸術とは、主体化（われわれ‐物語の、真ん中にあいた、穴‐欠落）、である。だから、それは、ショッキング（トラウマ的）、なのである。<br>が、しかし、主体化‐欠落（という外部性）は、すぐに、物語化（反省化‐内面化）される。<br>そのために、芸術は、すぐに、ショッキングな効果、を狙う、形骸‐物語的惰性態（としての、文化的な営み）、と化す。<br>すなわち、芸術は、通常の‐日常的な‐規範的な物語を、壊したり、ひっくり返したりする、爆発（テロル‐ショック‐驚き）である、ということ（文化的イメージ）に、なる、のである。<br>つまり、芸術は、派生的な‐二次的な物語、として、物語、という、きわめて共同体的な文化、に、対する、批判、すなわち、物語批判、という、物語（文化）、と化す（堕す）、のである。</p><br><p>芸術は、主体化、という、物語において、見えないけれど機能しているもの、を、とりあえず、考えてみよう、とする、メタ物語、である。<br>ところが、そうした、主体化への注目（衝動）、は、絶えず、それを、実体化（可視化）、して、しまう、物語そのものと化す（堕す）、のである。<br>見えないけれど機能しているもの、に、執着する、という、真摯な姿勢、の、物語的な忘却、が、芸術家‐人、を、堕落させる、のである。</p><br><p>いずれにしても、人（芸術家）は、物語（文化的な体系性）、へと、向かわざるを得ない、としても、なお、その、見えないけれど機能しているものを、つきつめて、それとの、闘い、みたいなもの、に、形を与える、ことを、考える、こと、それが、芸術、である。<br>しかし、物語的な、反省化‐内面化、が、進むと、芸術とは、何か、ということ、を考え出し、芸術とは、これだ、という、答え、や、方法論、の、物語（まことしやかな文化‐教養）を、つくり出す、ようになる（アカデミックな学問、や、ジャーナリスティックな情報‐ノウハウ、のように）。</p><br><p>物語化は、芸術家自身、も、例外、ではなく、芸術家自身、でさえ、はじめから、芸術という物語によって、学び、芸術‐芸術家の物語を、敷衍し、そうした文化的物語によって、自分を支える（理論武装する）、ように‐ことに、なる。<br>自分の芸術は、こういうコンセプト（意図‐目的‐内容）、である‐のもとにある、と、人に（周囲に‐世間に）、言わなければ、ならなくなる、のである、し、人は（周囲は‐世間は）、そうでないと、納得しない。</p><br><p>自分が、このようなコンセプトで芸術をやっている、ということを、とりあえずのフィクション（物語）、として、やってみて、見えてくるものは、物語（文化的営み）という、とりあえずのもの、しか、見えてこない、であろう、けれども、そこで、それが、自分の、真の芸術である、と、錯覚してしまう、かもしれない、が、そう錯覚、するか、しないか、で、芸術家としての、資質、の分かれ目、になる。<br>実体化された、記号の体系、としての、作品、を、どこまでも、物語なのである、と、考えながら‐自覚しながら、なお、物語ではない、何か（見えないけれど機能しているもの）、を志向し、その間に、自分を、危く支える、ことしかできない、そうした自分を、維持できるか、どうか、が、本物（一流）、と、偽物（二流）、の、分かれ目、なのである。</p><br><p>もちろん、物語的思考は、そういったこと（危さ、自体）を、理解しない‐理解できない、のである、が、主体化と物語との間に、自分を危く支える、こと、こそが、倫理、であり、物語だけを信じてしまうと、単に、堕落する、他はない、のである（主体化の欠落、すなわち、他者の視点への移動‐転移、による、他者的な視点の確保、が、できなくなる、ことは、自己意識の崩壊、であり、現に、痴呆症‐アルツハイマーの、初期症状、である）。<br>信ずべき倫理、とは、物語、であり、それに対して、真の倫理、とは、空虚（不可視）、であり、主体化を、そのつど、再生産し、生成させる、こと、なのである。</p><br><p>物語‐芸術、とは、倫理‐芸術、で、勝負する、というより、文化に、こだわり、すなわち、題材と、美意識に、こだわり、芸術を、いまだに、独創性の表現である‐個性的な表現の媒体である、としか、考えていない、思考（思考停止）‐姿勢（ものぐさな態度‐紋切り型の決めつけ、の共有）、であり、それこそ、安易な‐安直な（陳腐な）、わかりやすい（白痴的な）、文化的な物語、なのである。<br>確かに、厖大な、物語‐芸術の、歴史（文化）、は、ある、けれども、そうした、歴史（誰もが、知っている芸術の物語‐文化‐教養）を、無視して、たった今、物語‐芸術が、発明された‐発明されつつある、といった、フィクション、を、戦略的に、採用する、必要がある、のである。</p><br><p>したがって、真の芸術作品、とは、物語に回収できない‐されない、何か、であり、つまりは、結果として、絶えず、新しく読解可能な、意味生成性を持っている、システムである、という他はない、もの、である。<br>一つの意味（物語）に、還元されてしまう、ことが、なく、他のもの（イメージ）、では、代わり得ない、何か（主体化という、ある種の、限界‐不可能性）、を、持っていなければ、ならない、ということである。<br>それゆえ、物語（物語的な思考）、からすれば、むしろ、真の芸術は、取りつく島のない、出鱈目に見えるもの‐不可解な、わかりにくいもの、であり、だからこそ、飼い慣らし得る（対象化‐イメージ化し得る）、という、錯覚を、人々が持つ、ことが、できる、ような、物語、が、必要とされる、のであり、物語（文化‐物語的な、わかった、ふり）の、まやかしの優位、のもとに、芸術を貶めなければ、ならない（単なる、偏狭な‐頓狂な、手慰み、や、一部の愛好家‐好事家、だけの、楽しみ、として、世間の片隅‐辺境に、押し込める‐片づける）、のである。</p><br><p>実際には、芸術は、いまだ、存在した、ためしなど、ない、もの（物語の０地点）、でなければならない、はずのもの、なのである。<br>物語とは、主体化の、大がかりな、無化、を、前提とした、非倫理的な連帯、によって、形づくられる、きわめて、無責任な風土（文化）、であり、連帯のための連帯（共有のための共有、共感のための共感）、という、物語‐紋切り型のイメージ、の蔓延化、という、見かけだけの一体感‐調和、にしか、興味‐関心、が、ない、のである。<br>文化的な感性‐流行の感性、というものは、この無責任‐無関心、が、その、無意味、であるがゆえの、付和雷同的な、集団的な納得‐もっともらしさ（本当らしさ‐現実らしさ‐真実らしさ）の体系の形成、において、むしろ、それが、規範‐正当性、である、かのように、単に、思い込んでいる‐錯覚している‐振る舞っている、状態の、共有、なのである。</p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mn444/entry-10826598775.html</link>
<pubDate>Thu, 10 Mar 2011 17:50:42 +0900</pubDate>
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<title>駄洒落文化（詩‐言葉遊び）という物語の閉域からの見せかけの逃避‐逸脱</title>
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<![CDATA[ <p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110308/17/mn444/cb/67/j/o0714053611098156464.jpg"><img border="0" alt="そろそろマジで哲学しよう　日々のレビュー‐哲学的転回" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110308/17/mn444/cb/67/j/o0714053611098156464.jpg"></a><br></p><br><p>物語（物語的思考）から逸脱する衝動、としての、主体化は、物語内においては、物語が、物語それ自身の上に、反り返る、駄洒落、となる。<br>主体化とは、物語の説話論的な磁場から、自由な何か、であり、しかるに、説話論的な磁場に、規定（拘束）されない、その外部性、である。<br>したがって、説話論的な磁場の、内部に、位置づける、ことのできない、主体化は、物語的な思考にとって、不可視、であり、それは、常に、死産としてしか、生誕しない、ものである。</p><br><p>物語が、主体化を、内面化する場合、物語‐言葉の内にあり、物語‐言葉に触れている‐接している、ままで、主体化的な反省（外的な反省）能力、の内面化、として、物語‐言葉が、物語‐言葉、自身の上に、反り返る、ことで、物語‐言葉の、本来の機能とは、別のはたらきをする、物語‐言葉の過剰（重層化）を、つくり上げる、ことになる、のである。<br>すなわち、テクストとしての、物語‐言葉の物質性の強調、を、物語‐言葉の、派生物‐二次的な効果、として、生み出す、ことになる、ということである。</p><br><p>要するに、ごく単純化して言えば、物語の閉域において、その、息苦しさ‐閉塞感、を、忘れようとする時に、物語の逸脱化、としての、駄洒落文化へと、見せかけの逃避、を、することになる、のである。<br>俳句や短歌などの、詩、や、川柳やなぞかけや漫才などの、言葉遊び、とは、こうした、駄洒落文化、である。</p><br><p>通常、物語（規範的な物語）においては、言葉‐諸要素が、ツリー状に、透明化されていて、意味（シニフィアンとシニフィエの対立）、というものは、必ず、ツリー状に、中心化された体系、としてある。<br>そうした、言葉‐単語の連なり、を、規制している、固定された意味の体系、を、覆そう、とする衝動（内向化した主体化）、として、駄洒落文化（詩‐言葉遊び）はある、のである、が、それは、物語（意味の体系）とは、まったく違う‐とんでもなく違う、ところに、出て行こう、とする、のではなく、あくまでも、物語（意味の体系）を前提とし、物語（意味の体系）におさまりながら、その表層の上で、その表層を、横滑りする‐ずれる、過剰を生きる、ところに、生成する、逸脱の見かけ、なのである。</p><br><p>つまり、物語的な関係体系の中にある、言葉‐諸要素、自体が、横断的に、結合し合う、不確定で、多形的な、逸脱的な関係、の体系、を形づくる、のである。<br>しかし、このような、逸脱は、派生的な副産物、としての、変形的な、物語形成‐読解、であり、物語を前提とする、二次的な物語、として、物語それ自体、であり、すなわち、物語内における、字義性（意味‐必然性‐正当性）、に対する、テクスト性（物質性‐遊び‐非正当性）、という、対立関係、として、あらわれる、きわめて‐すぐれて、物語的な思考そのもの、なのである。</p><br><p>いわば、逸脱は、その全容をとらえられない（把握できない）、としても、手懐けられた、逸脱の見かけ（高尚な芸術‐娯楽、という、文化）、であり、すでに‐常に、その対立図式が、パラディグムを、構成しており、まさに、それ自体、物語そのものとして、人々が、それを共有している、のであり、つまり、比較の問題、として、規範的な（模範的な）物語がある、から、その、逸脱現象がある、という、公的な、パラディグム的思考、としてある、のである。<br>文学（詩や小説、など）、や、お笑い芸能（言葉遊び）、も、結局、こうした、物語‐言葉の逸脱的な、想像力‐物質性、の、冒険‐戯れ、であり、その、制度的なコントロール、なのである。</p><br><p>物語は、自分が機能し得なくなる、ということを、自身において、想定している（自覚している）、からこそ、制度としての自身を確立している‐できている、のであり、物語自身が、内面化できない、主体化、という、自身の欠落部分、を、想定し、あらかじめ、自身の逸脱現象、によって、それを、可視的に代理表現する、ことで、そうした、先取り的な先手を打つ、ことで、主体化そのもの（その衝動）を、封じ込めよう、とする、のである。</p><br><p>主体化が、まず、あって、その反省化、としての、物語が、発生する、のである、ため、物語は、主体化（自らの起源）に、触れることができず、しかも、主体化自身が、物語の機能ぶり（物語的思考）、そのものを、明らかにしてしまう、その外在的な視点の生成、である、ので、物語は、主体化を、隠蔽する必要、があり、そうして、物語の説話論的な磁場に属している、われわれ（物語的な思考）が、まさに、その事実に、関して、わからないままでいる（物語が、自然なものであると、思い込んだままでいる）、ように、配慮しなければ、ならない、のである。<br>物語とは、自らの機能ぶり、を、気がつかせない、ようにする、配慮、において、その機能を、嘘のような、円滑さで、作動させる、虚構、なのである。<br>そのため、われわれは、まさに、その、自然さにおいて、自分自身が、そのような、物語‐虚構の、一部として、その舞台として、その、虚構‐装置を、支えている、とは、自覚しない、のである。</p><br><p>物語として、何か、ポジティブなことを、言った、場合に、それを、すぐさま、ずらす‐揺るがす、ように、登場した‐演じられた、その、逸脱（想像力‐物質性）、が、すぐに、物語に、回収（反省‐内面化）されて、すぐさま、それ自体が、物語（逸脱の見かけ）として、副次的ではあるが、ポジティブな（気の利いた）、主人公（斜に構えた、アンチ・ヒーロー、であるとしても）になっている、のであり、そうして、すでに、物語化‐凡庸化、した、逃避‐逸脱（の見せかけ）、として、逆説的にも、むしろ、規範的な思考（むしろ、好ましいもの‐お洒落なもの）、とさえ、なって、猫も杓子も自らの思考に取り込んでいる、のである、が、それが、いまや、形骸化して‐惰性化して‐新鮮味を失って、退嬰的であり、鬱陶しくさえある、駄洒落文化、なのである。</p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mn444/entry-10824475053.html</link>
<pubDate>Tue, 08 Mar 2011 17:43:50 +0900</pubDate>
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<title>物語的リアリズム（物語‐反物語という説話論的な磁場）と反‐物語（主体化）</title>
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<![CDATA[ <p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110307/18/mn444/46/62/j/o0714053611096158662.jpg"><img border="0" alt="そろそろマジで哲学しよう　日々のレビュー‐哲学的転回" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110307/18/mn444/46/62/j/o0714053611096158662.jpg"></a><br></p><br><p>世界（現実‐人生）、と、物語（言葉）、とは、別のところにある、と信じること、が、そもそも、物語、である。<br>現実なるもの、が、あり、それを、解読し、記述する、ため、にしか、物語‐言葉、は、なく、その、解読‐記述が、世界の一部を構成している、としか、思われていない、ということが、物語、なのである、ということである。</p><br><p>物語の実践こそが、まさに、現実性である、ことを、無視させる（忘却させる）、力の構造‐力学的な圏域、こそ、物語の、説話論的な磁場、なのである。<br>食事も、恋愛も、会話も、物語であり、要するに、自我‐人生、そのもの、が、説話論的な磁場に属している、のである、が、それを、そう、自覚させない、すなわち、本人は、それに関してはわからない、ように、あたかも、それが、自然である、ように、作用するもの、こそが、物語、なのであり、しかしながら、どこかでは、無意識のうちに、すべてが、物語としての、退屈な反復、に他ならない、ことに、自覚的である、がゆえに、人々は、様々な、物語のヴァリエーションを、つくる‐求める、のである（資本主義的な‐情報化社会的な、差異化‐商品化、は、まさに、それに、連動している）。</p><br><p>物語とは、そのような、表面的な戯れ‐ヴァリエーション（差異化‐逸脱化‐奇形化）を、もっぱら、繊細に、いつくしんで、そこに、自分の存在を、希薄に、拡散させ、その表面、以外の場に、快楽‐官能‐欲望、を、求めようとしない、徹底した、慎ましさ‐頑なさ、なのである。<br>しかるに、性急に、物語とは、別の、現実なるもの、を、求めようとする、こと、自体が、すぐれて、物語的（表面的な戯れ）、であり、そうした、反物語的な姿勢、自体が、物語の中心‐核心‐要、なのである。</p><br><p>すなわち、きわめて、現実的な場、にあっては、物語（自己同一性‐全体性）、というものは、視界に浮上する、わけではなく、物語とは、現実‐世界、から、視線を逸らせる、目的で、人を、逃避（現実逃避）へと、駆り立てる、制度的な思考、である、と、反物語的な姿勢は、言う、のであり、同一性を求めれば、必ず、抽象的たらざるを得ない、し、これが、同一性である、と、あらかじめ、思い込む‐決めつける、錯覚、なしには、同一性の模索、は、できない‐など、あり得ない、と言い、現実（具体性）を見ようとはしない‐現実は成型（整理）されるべきである、というのが、同一性の模索者（物語）、の、出発点、である、が、それは、非常に、抽象的な考え方で、実際の生活（人生）では、そのような、抽象性（抽象的な描写）に、あてはまらない、状況、に、いくらでも、出会う、と言う、のである、が、しかしながら、まさに、こうした、反物語的な展望、こそが、まさしく、物語（抽象的な見取り図）、そのもの、なのである。</p><br><p>つまり、まさに、そうして、物語は、全体性の見かけ、を、形づくる（獲得する）、のである。<br>そうした、物語の全体性、の見かけ、が、その配置‐構図、によって、認めない、のは、具体的な現実そのもの、などではなく、主体化、という、物語の、余白‐隙間（起源、としての外部性）、であり、物語は、それを、狂気‐傷‐病気、などの、一時的な、錯誤‐誤謬、のようなもの、として、一過性の気の迷い、の類、として、決めつけ、扱い、片づける、のであり、そのような、病んだ状態を、回避する、ことが、そして、病気という欠陥は、全治されるべきである、と、する、ことが、本来の、人間の健康な姿、である、とする、のである。</p><br><p>物語的な、現実の全体性の構図、においては、一方に、現実を再現しようとする、意志、があり、他方に、現実の再現（具体的な、今ここ、にはない、現実のイメージ）が、人間‐現実‐歴史、を、疎外させてきた、という、主張、がある、ということ、である。この、両者の、相互補完的な運動、こそが、物語、なのである。<br>前者における、それは、人間に、普遍的に備わる善意（知性）である、とする、再現‐物語、の、有効性、と、後者における、それは、歴史から目を逸らせる、力（虚構）である、とする、再現‐物語、の、無効性、との、バランスのとれた、説話論的な配置、こそが、物語、なのである。</p><br><p>すなわち、物語は、現実を意味に置き換える作業（解釈）、という、人間的に、最も、切実な欲望、であり、かつ、そのような、現実の印象、としての、適度に心地よい‐快い、イメージを、再現、とすることは、人間（現実の体験‐運動）とは、縁もゆかりもない、物語、という抽象的な説話装置、へと、あるいは、一部の、才能のある、特権的なエリートの、物語、へと、人間（現実の体験‐運動）を、従属させるもの、である、する、のである。<br>後者のような、反物語的な姿勢‐物語、の、役割は、人間（現実の体験‐運動）への、関心を装った、物語への興味、が、真に、具体的な事件‐出来事は、何一つ、起こらない、物語、に、あたかも、何かが、起こっている、かのように、錯覚させる、物語的な全体性‐物語り的再生産、への配慮、である、ということ、なのである。</p><br><p>要するに、物語の周到さ、は、自らの否定、をも、自前で用意する、ということ、であり、すなわち、物語‐反物語、が、物語、であり、しかるに、主体化とは、反‐物語、なのである、ということである。<br>物語（ものを考えること‐ものを書くこと）、の、根源にある、大きな力（動機）は、普遍的に、自分には欠けている、何かを、自分の中に、つくり上げようとする、意志、である。<br>物語は、自分の中にある、自身が触れることのできない、欠乏（主体化‐普遍化）、をこそ、内面化する、欲望、である。<br>しかるに、物語は、自らが機能し得なくなる点（自らの外部性）‐自らの機能ぶりを明らかにしてしまう点（自らの起源）、を、想定している、からこそ、物語（制度）、として、成立する、のであり、まさに、それゆえに、欠乏のない、見かけを、つくり上げようとする、もの、であり、すべてを、物語で、埋め尽くそう、とする、のである。</p><br><p>社会内に流通する物語、において、その、内部にも、外部にも、欠落、というものが、ない、ようにする、ことが、物語的な配慮（物語的な全体性）、であり、社会の表層を、覆い尽くす、物語‐反物語、の、その円滑な作動ぶり、において、欠落なるもの、など、捏造されたもの、に、すぎない、と、主張する、こと、が、物語的なリアリズム、なのである。</p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mn444/entry-10823498943.html</link>
<pubDate>Mon, 07 Mar 2011 18:01:49 +0900</pubDate>
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<title>物語というごくありふれた市民の住居‐日常生活そっくりに編成された牢獄</title>
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<![CDATA[ <p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110306/17/mn444/ea/43/j/o0714053611093859406.jpg"><img border="0" alt="そろそろマジで哲学しよう　日々のレビュー‐哲学的転回" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110306/17/mn444/ea/43/j/o0714053611093859406.jpg"></a><br></p><br><p>自己意識‐人間、にとって、自然な生活、とは、主体‐自己、の、二重生活、でなければならない。<br>しかし、主体‐自己の二重生活が、あまりに困難、なために、人は、せめて、それを、物語（幻想）の中で、振るい落とそうとする。<br>しかるに、物語（同一性）においては、人間が、動物（的生活）に、戻っていく。居心地よく、家畜の群に、身を投じ、主体化（自由と責任）を怖れ、それゆえに、むしろ、自分で、でっちあげた、物語の鉄格子の中に、窒息する（退化する）、ことをも、よし、とする、のである。</p><br><p>無謀さ‐好奇心（青春）、が、幸福に値する、のは、主体化‐美しいものを見る能力、を備えている、ため、である。この能力が、失われると、物語、という、慰めのない、凋落‐不幸（老年）、が、始まる。<br>物語という、内面的な（内向きな）方策のみによって、得られた、偽りの、見かけの自由、は、誤謬‐混乱（不安‐絶望）、である。<br>本当に、永続的な、価値のあるもの（希望）、は、常に、外部からの贈物、としての、主体化、だから、である。人間は、外部に向かって、こそ、成長する、のである。</p><br><p>人工的に、つくられた、物語‐社会的風土、などではなく、自己自身を、外部に向かって、勝ち取らなければ、ならない。<br>物語とは、そうした、主体化（外部性）、に対する、防御‐攻撃、であり、自分にも、世間にも、弱みを見せまい、とする、駆け引き、にすぎない。<br>本当に、持続する力、は、脆弱さ、に耐えること、のみ、にあり、弱さから逃避する人間、だけが、忍耐を失い、粗雑‐粗暴（防御的‐攻撃的）、になる。<br>物語は、ただ、不能のゆえ、にのみ、自らの希望を、断念する。<br>冒険（危険を賭けること）、とは、持続、であり、主体化に、身を挺する、こと、である、が、見かけは、何の苦もなく、一日一日を過ごすこと、に他ならない。</p><br><p>物語とは、ごく、ありふれた、市民の住居、に、そっくり、の、牢獄、であり、そのことに、気がつかない、こと、によって、その、過酷さ、は、ひとしお、となる。そこでは、一切の、主体化‐脱出、も、立ち消え、になる。<br>目に見える、鎖が、なければ、鎖は、断ち切ることが、できない、のである。<br>この拘禁‐物語、は、ごく、ありふれた、極端にすぎる、ことのない、日常生活の形、に、編成されている、のである。</p><br><p>この、物語‐模写、の技術、が、改良される、につれて、われわれの眼は、弱くなり、自らを、超えさせる、だけの、主体化、の余地‐能力、が、なくなる。物語が、器官‐感覚、の代理物として、はたらき、器官‐感覚、を、萎えさせてしまう、のである。<br>物語の、拡大する、通信‐交通（流通‐消費）、の中で、日々、われわれは、個人の主体化（個別の主体化）、を失っていく。</p><br><p>われわれは、めいめいが、まさに、主体‐自己、の迷路（錯綜体）、に等しい、のに、物語（同一性‐一なるもの）‐規矩準縄、に従って、生活する、のである、が、われわれは、われわれが、そのような、物語、のうちに、生きている、ことを、告白しよう、とは、しない。<br>われわれは、社会の不正、精神の不正、国家の不正、など、何だかんだと、不正、について、語ろうとする（糾弾する）、が、それこそ、まさに、唯一の罪、つまり、そうして、饒舌に語る、われわれ自身、そのもの、である、物語、を、美化せんが、ため、に他ならない。<br>そこでは、すなわち、物語においては、私だけに、通用する、公正、としての、主体化、などというものは、一つの不正（暴力のパターン‐狂気‐盲信、の類）、に他ならない、とされる、のである。<br>主体化、は、脆く、物語‐社会の同調圧力、は、強い、ため、同時に、それらに、身を委ねる、ことにおいて、痙攣が生じ、顔を歪めさせる、ことになる。</p><br><p>語り手と聞き手が、物語として‐物語において、すべてを、知っている、ために、その交換である、コミュニケーション（の見かけ）、は、透明、なのであり、そのため、意志の疎通（の見かけ）、は、飛躍的に、向上する（ように見える）。<br>主体化は、語り手と聞き手が、どこまで、それに、介入するか、によって、世界の意味が、変わってしまう、ので、不透明、なのである。<br>近代主義社会（情報化社会）は、ある映像や音が、すべての人に、知覚された、かのように、提示するのである、が、それは、誰か、によって、知覚された、かのように、提示され、その、誰か、とは、知覚する、規範的な主体性（抽象的な、公共的な人格）、であり、そのような、規範的な主体性が、制度的な規則、そのものの、体現、として、前提されている、のであり、それが、物語的なリアリズム、なのである。</p><br><p>階級差を決定するもの、は、金や財産、ではなく、むしろ、物語‐規範的な主体性を、でっちあげる、情報操作の能力、であり、それが、金‐財産を生む、のが、情報化社会、である。<br>そこでの、無産階級、とは、操作すべき情報（物語）、も、それを、構築‐操作、する、ための、能力も、悉く欠いており、よって、言われた事‐与えられた物語、を、信じる、しかない、人々、である。<br>情報（物語）操作者、こそが、主体性（主人‐支配者）、の地位、を占める、のである、が、物語は、そうした、操作者の、仕掛け、に、気づいても、気がつかなくても、読める、もの、である。<br>操作者の存在‐たくらみ、に、気がつけば、世界は、拡がる、が、それ自体、すでに、物語の一環‐内部、であり、そうした、物語の重層性、こそが、物語、それ自体、なのである。</p><br><p>たとえば、恋愛して結婚する、という、物語、を、素朴に、信じ、それが、自然で、当たり前のことである、と、素朴に、思う、ことの、背後、には、普通、人が、わざわざ言わない、制度、があり、すなわち、恋愛と結婚では、表面的な形（生活の形態）、は、まったく同じ、でも、経済的な土台、が、全く、違い、結婚では、資本が、反復され、継承される、回路、が、出来上がっている、のに対し、恋愛は、そうではなく、まさに、結婚は、遺産相続、や、資本の流通回路、として、国家経済‐国家形態、の規定する‐を規定する、その、基本的な単位、なのである、が、そういうことに、気がつけば、恋愛‐結婚観は、変わり、場合によっては、そこ（制度‐物語）に、差別的な、法の不平等‐不備‐偏り、を認めて、それを、指摘‐改善しようと、努力する、ことも、ある、わけである、が、そのような、反物語的な抵抗、それ自体も、すでに、規範的な物語、である、ということ、なのである。</p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mn444/entry-10822409987.html</link>
<pubDate>Sun, 06 Mar 2011 17:49:55 +0900</pubDate>
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<title>神の存在証明‐われわれはアプリオリに有罪である‐自己意識のメカニズム</title>
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<![CDATA[ <p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110305/17/mn444/32/35/j/o0714053611091560668.jpg"><img border="0" alt="そろそろマジで哲学しよう　日々のレビュー‐哲学的転回" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110305/17/mn444/32/35/j/o0714053611091560668.jpg"></a><br></p><br><p>われわれは、誰かが、すべてを知っているだろう、と、思い込んでいる、すなわち、それが、誰か、は、知らないが、誰かが、全体を知っている、であろう、こと、を、あてにしている。<br>すべて‐全体を知っている者、こそ、真の主体性、であり、その究極の者、に形を与える、幻影、は、結局、神、という、超越的主体性、である。<br>しかるに、最終的には、神（全知）を想定している、ことが、まさに、すべて‐全体、は、正体不明、である、ことを、告げている。</p><br><p>われわれは、神の代理人を、僭称する（気取る）、下っ端エリート（主体性）にしか、出会わず、そうした、卑小な代理人を通じて、しか、全体（不完全な全体）を見ることができない。<br>歴史とは、見えない全体（世界）、との、格闘、の記録、に他ならず、その過程は、神（全知）に、到達するための、過程（道程）である、とされる。</p><br><p>こうして、われわれ主体‐自己は、滑稽な存在（卑小な仮象）、であり、それは、全体性（主体性）、と、個別性（自己性）、との、二重化‐ずれ、として、ある、が、全体も、個も、何であるか、よくわからない、のである。<br>こうした、主体‐自己に、一貫した、人格‐性格、など、ある、わけがなく、それでも、人格‐性格（心理的なアイデンティティ）を持つ、とされる、われわれ‐自我（主体‐自己）が、一貫した因果関係の世界‐日常的現実、を、持ちうる、のは、それらが、物語（一貫した同一性のイメージ）、としてある、から、である。</p><br><p>しかし、主体‐自己、が、相対立しつつ、共存している、ように、主体‐自己の、世界‐物語、も、その反映である、から、世界の全体は、論理（主体性）、と、影響（自己性）、の二重構造、を持つ。<br>世界‐全体、が、曖昧、なのであり、すなわち、われわれは、絶対的な主体性‐論理、の、極‐神、を、知り得ない、のである、から、その、不可視の点（完全な主体性の点）、に対する、もう一つの点、である、われわれ（影響‐自己性）、は、アプリオリに、有罪、であり、つまり、全体がわからない、以上、無罪を証明する術がない、どころか、真の無罪が、何であるかすら、知らず、完全な潔白が、あり得ない、という状態（罪‐不完全）、なのである。<br>もちろん、このことは、逆に、真の有罪もあり得ない、ということ、である、が、事態（有罪の可能性、の疑いを、晴らせない）は、同じまま、である。</p><br><p>よって、われわれ（主体‐自己）は、この、曖昧な身分（自己懐疑に、陥る‐苛まれる、存在様態）、として、宙吊りにされ、その、永遠の引き延ばし、において、無限延期される、無罪‐自由（もしくは、有罪）、の判決（最後の審判）、を、待ちわびる、のである。<br>要するに、われわれは、自らの、見せかけの無罪（自己申告の無罪）、を信じて、救済（真理への到達）を、目指す、のである。<br>カフカの小説（悪夢）のように、理由もわからず、ある日、突然、無自覚のうちに、自分が、訴訟に巻き込まれている、ことに、気づき、ひとたび、そうなると、訴訟そのものが、世界‐現実（人生）、となって、それ以外に、生きる場所（存在の形態）、が、なくなる、のである。<br>小説でなくとも、現にある（大いにありうる）、冤罪‐無実の罪、に巻き込まれた人の、運命‐悪夢、を思い出せば、事足りる。通常、誰もがそうである、ように、自分の無罪を証明する手立てが、何もない、場合、われわれは、不審の目の中で、途方にくれる。</p><br><p>したがって、生きること、が、訴訟、に所属する、ということであり、とうことは、無罪‐救済、を目指す、こと、であり、日常そのものが‐生きることそのものが、見せかけの無罪を、暫定的に堆積させる、こと、であり、その持続‐引き延ばし、の繰り返し、なのである。<br>といっても‐とはいえ、そのような、訴訟状態である、ということは、われわれと対立し、われわれを支配する、もう一つの論理（不可視の論理）、が、ある、ということ（の証拠）、であり、すなわち、それが、神（もう一つの論理）の存在証明、となる、のである（デカルトの神の存在証明とは、まさに、こうしたもの、であり、すなわち、常に、懐疑に陥る理性、のはたらき、は、神が存在することの証明である、とした）。</p><br><p>部分（個）、は、全体、との関係、において、ある（決定される）、のである、から、見えないもの（全体‐論理）、との関係、によって、可変的であり、変形する、ということ、である。しかるに、単純そうに見える、事件‐現象‐存在、であっても、それ（個別の事象）を、見えない全体‐論理、との関係、によって、とらえようと‐とらえ直そうと、し始める、と、それ（個別の事象）は、多様化‐重層化、する。<br>つまり、同様のことであるが、われわれは、自己の内部で、主体‐自己として、対立‐分裂、し、常に、変形し、多様化‐重層化、する、ということ、であり、自己同一性の見かけは、単なる、物語に、すぎない、ということ、である。</p><br><p>だから、われわれは、始終、自分に確信が持てず、いつ、有罪である（あなたは、間違っている）、と、宣告されるか、わからない、という、不安‐心配‐妄想（被害妄想）に怯え、その可能性に、びくびくしている。たとえば、警官に、話しかけられる、だけで、何もしていないのに、後ろめたいような気になり、どぎまぎし、おどおどしてしまう、のである。<br>そこに、冤罪を受け容れてしまう‐暗示にかかってしまう、余地‐弱さ、があり、有罪を押しつける者は、そこに、つけ込んでくる。<br>そして、だからこそ、すなわち、主体‐自己の実存が、不確定‐不安定、である、からこそ、われわれは、物語‐正当性の物語（確固たる同一性）、に、しがみつく（逃避する‐非難する）、のである。<br>物語は、われわれには見えないもの、を、イメージ化し‐内面化し、そうして、想像的に‐幻想的に、先取りする（偶像崇拝）、のである、が、そうすることによって、無罪を、決め込む（自己完結の円環を閉じようとする）、罪（有罪の忘却、という、罪）、であり、しかるに、物語の盲信は、超克（懐疑）という、スタンスを、失う、自堕落への傾斜、なのである。</p><br><p>自己の閉じた円環‐無罪の物語、を、破壊する、もの、こそ、われわれ（の論理）とは、独立した、別の、見えない論理（倫理）、なのである。<br>物語体系‐論理、と、見えない体系‐論理、とが、共存し、かつ、互いに、矛盾し、対立し、否定し合っている、から、こそ、主体‐自己、という自己意識（二重体）が、可能、なのであり、その、二重体の、緊張、を失えば、すなわち、物語への安住‐盲信に、汲々とする、ことに、埋没すれば、われわれは、単なる、自我の形骸化（みすぼらしい、心理的‐物語的自我）、へと退化し、動物的な生（快楽主義的な、生きるために生きる、だけの、生）、への、痴呆化（最後の人間‐末人、化）、によって、結局は、自己意識そのもの、を、見失う、ことになる。</p><br><p>われわれは、正体不明の、形も、大きさも、わからない、目に見えない、もう一つの焦点なのでもある（らしい）、ということ、なのであり、それこそが、主体化（自由‐狂気）、なのである。<br>この不確実‐不確定性、の、滑稽‐恐怖、を、忘却すること、が、物語（焦点の単一化）、である。<br>この、滑稽な‐怖ろしげな、二重関係が、いかに、不安であっても、不快であっても、忌まわしいものであっても、自分と対立するもの（他者性）、から、離れられない、ことが、自己意識（主体‐自己）、なのである。<br>それを、回避し、人間的な、あまりに人間的な、焦点‐物語、へと、収縮し、心理‐性格、としての、のみ、人間‐自我、を描き、日常的な（単純な）因果関係のみを、世界‐現実、として、思い描く、物語、というもの、は、それ自体、ある種の、忠実さ、ではあっても、開かれようが、ない、閉域（同一性への、引きこもり）、なのである。<br>そのような、人間中心主義的な物語（閉域‐閉塞）、を、無視する、何かが、われわれの、知性‐感覚を、的確に、撃つ、ことで、主体化を、作動させ、こちらの知性‐感覚（論理‐焦点）、が、外部に、のり出していく時（すなわち、自分‐物語を見失う時）、まさに、それこそが、隠れた全体性（もう一つの論理‐焦点）、を、見せる、ことになる、のである。</p><br><p>ある日、突然、そうした事件が、発生する。しかし、誰一人、その原因を、考えよう、とはしない。その結果、事件だけが、どんどん先へ先へと、進行していく。<br>この、事件（主体化）、に対して、なぜ、という、問い、ほど、無意味なものは、ない、のである。<br>二つの論理‐焦点、の、ずれ‐戦い、の構図、のもどかしさ、こそ、自己意識のメカニズム、であり、歴史とは、ある中心（物語‐価値観の同一性）、が、別の、中心（物語‐価値観の同一性）、に、とって代わられる、時間の経過、ではあるが、それ自体、異なる、二つの論理‐焦点が、対立しながら、同時に、関係し合う、から、こそ、起こりうる、こと、なのである。</p><br><p>生きることは、自己を否定する、不可視性‐他者性（もう一つの、論理‐焦点）、との、対立‐共存、なのである、が、その構造（差異）を、物語は、具体的な‐可視的な、他人と、共存する、内面的な物語‐同一性（人間中心主義）、へと、回収していく（読み替えていく）、のである。</p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mn444/entry-10821339548.html</link>
<pubDate>Sat, 05 Mar 2011 17:48:25 +0900</pubDate>
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<title>近代化のダブルバインド‐国家の矛盾を揚棄する美学（友愛‐民族愛‐愛国）</title>
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<![CDATA[ <p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20110304/17/mn444/d6/d3/j/o0714053611089395479.jpg"><img border="0" alt="そろそろマジで哲学しよう　日々のレビュー‐哲学的転回" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20110304/17/mn444/d6/d3/j/o0714053611089395479.jpg"></a><br></p><br><p>われわれ主体‐自己において、主体性の物語、が優位、であれば、封建制（独裁制）になる。<br>封建制（独裁制）に対する、自由（独立）とは、自己性の物語、の優位、であり、つまり、自己の権利の物語、であり、すなわち、私的所有の権利（職業の自由‐自分の労働力の自由‐表現の自由）、の主張‐要求、である。<br>こうした自由（私的所有の権利）は、個人‐自己性が、共同体‐主体性に、属する（従属する）存在様態‐封建制、では、あり得ない。<br>こうして、主体‐自己、という、支配‐被支配、的な、身分階級の矛盾、である、われわれの自己意識‐共同体、は、矛盾、としてある。<br>つまり、主体性‐同一性‐国家主義、と、自己性‐自由‐個人主義、との矛盾、であり、すなわち、国家とは、主体‐自己の矛盾（軋轢‐摩擦）、そのもの、なのである。</p><br><p>この、主体‐自己の矛盾、を、想像（物語的な、空想のシナリオ）の上で、解消しようとするもの、が、近代的なネーション‐国民国家、であり、すなわち、友愛に基づく国家、という、概念‐物語、であり、要するに、美学的な（精神論的な）理想（ユートピア）、において、現実には、達成されない、主体‐自己の矛盾の解消（解決）、を、想像の上では、先取り的に、実現できる、かのように、想定する‐思い込む、ことで、この、主体‐自己の矛盾、それが引き起こす、現実の諸々の軋轢‐摩擦、を、幻想的に、揚棄する、のである。<br>主体‐自己の矛盾（諸問題）が、少なくとも、ありうべき、未来の時点、において、時間的に解消される、と、思う、のであり、それこそが、まさに、進歩、という、（近代に特有の）概念、なのである、が、しかし、中央集権的な体制‐人工的国家（主体性の物語）、に対して、個人‐自然性（自己性の物語）、を強調する、ことは、結局、それ自体、人工的な物語（近代化の物語）、なのである。</p><br><p>近代国家は、徴兵制、と、義務教育、によって、規範的な主体性‐近代的な主体性、としての、国民（近代的市民）、を、形成する。<br>しかるに、こうした、近代化の思考の枠組みの中、では、結局、徴兵制、と、義務教育、が、国をつくる、という主張が、一つ覚えのように‐万能の概念のように、事あるごとに、繰り返し、反復される、が、ここからこそ、根本的な矛盾、が発生する、のである。<br>つまり、規範的な主体性‐国民、の教育、は、一方で、家父長的な‐父権的な同一性、への、従属性（一元化）、を、中央集権的に、押し進めながら、他方で、そうした従属性としての、自らの主体性の起源を、忘れさせ、あたかも、自らを、自律的な、自由な、主体性（自己性へと傾斜した、主体性）‐近代的な個人（市民）、と思い込む、のである。</p><br><p>国家‐われわれ、は、こうして、近代化の中で、近代化、と、近代の超克、とが、同時に求められる、矛盾（ダブルバインド）、を、生きる、ことになる。<br>この、メッセージとメタメッセージが矛盾する、ような、コミュニケーション状況に置かれる、ダブルバインドのもたらす、心理的な圧迫‐精神的な疾患、が、集団ヒステリー‐狂気、となって、爆発した、のが、民族自律‐解放と帝国主義的植民地主義が合体した、戦争、であろう。<br>つまり、近代化の中で、起こること、は、父権的構成（人工性）、への傾斜、と、非主体的な‐非構造的な、根源的な自然性（自己性）、への傾斜、であり、言い換えれば、すなわち、集団主義（主体性）、への傾斜、と、個人主義（自己性）、への傾斜、であり、そうした、ともに、近代化の題目である、対立する傾向の、分裂‐二重性、として、国家‐われわれ、は、ある、ということ、なのである。</p><br><p>要するに、自己形成、とは、常に、公的な規範的な、物語‐主体性、の強制‐による去勢、と、それに対する、抵抗‐自己性の主張、なのである。<br>そして、こうした、規範的な、主体‐自己、の内的矛盾（葛藤）、を、想像的に解決（統合）する、のが、美学‐理想、としての、友愛‐国家‐民族、という、中間的な概念（実際には、それ自体、具体的に何を意味するのか、曖昧、であり、つまり、抽象的な雰囲気、なのである）、であり、しかるに、政治家は、この、近代化の矛盾、の、危機的状況、においては、こうした、曖昧な、美学‐精神性（愛国心‐民族愛）に、うったえる、のであり、逆に言えば、政治的実務遂行の、頓挫（無能）、を、覆い隠そう‐ごまかそう、とする、時に、そうした、想像的な美学‐精神論を、口にする、のであり、そこ（美学という、空虚な形式‐便利な容器）、に、現実の困難を、回収しよう、とする、のである（そもそも、法治国家において、政治家は、法の整備をすべき、であり、価値観を説いてはならない、はず、である）。</p><br><p>主体性は、主体化、という、自己超越の能力、によって、こそ、獲得される。<br>ひとたび、主体化が、主体性‐物語に、内面化される、と、そうした、主体‐自己のナルシスティックな閉域‐内部性‐自発性、を、否定する、ような、主体化‐超越化、の過程、が、失われ、結局のところ、主体性が帯びている、超越性‐権威（暴力性）、は、自己性の、自発的な選択、に、還元されてしまい、主体性の権威、を、維持できなくなる。<br>すなわち、そのような、自己完結的な、自主的な、内部‐秩序（主体‐自己）、が、確立される、と、主体性は、超越性である、と同時に、人々‐自己性のナルシシズム、に従属する、という、矛盾が、生じる、のである。</p><br><p>要するに、超越的な神（超越的な主体性）、のステイタス、に関わる‐に起こる、矛盾、であり、偶像崇拝の禁止は、人々のナルシステックな選択‐想像に、神を、従属させない、ということ、である、が、というのも、そうしたナルシスティックな信仰、は、人々のナルシシズムを満足させられない、場合、容易に、棄てられる、ことになる、からで（すべての矛盾は、神の矛盾に、帰結する、のである）、しかるに、日本の場合、のように、ローカルな共同体、における、超越性（超越的な主体性）の確保は、仏教や儒教やキリスト教、などのように、外発的な、超越的な権威‐普遍的な原理、を、導入する、ことで、超越性の徹底が、可能になり、上のような、ナルシスティックな矛盾、を、回避できる。</p><br><p>しかしながら、グローバルな共同体‐物語、においては、もはや、そのような、外発性は、存在しなくなる、わけである、から、よって、国際法のように、その違犯に対する、処罰の手段の、超越的な強制力、が、なくなる。<br>自らが、打ち立てた、権威主義（規範的主体性）は、真の権威、には、なり得ない、のである。自らが、考えた、理念は、それを実行する、超越者、が、いない、のである。（神‐究極の超越者、の想定‐幻想は、そのために、必要なのである）。<br>理念は、常に、それを、自発的に、考えた人の、理念‐仮象、にすぎない、のである。<br>この矛盾こそ、物語の生の構造、であり、すなわち、物語とは、超越的な理念（主体性の物語）、と、その否定（自己性の物語）、との、相互補完的な力学、において、なんとか、主体‐自己の体制を維持‐延命させる、装置‐機能、であり、そうした、物語、そのものの体制、を変容させる、契機は、主体化、にしか、ない、ということなのである。</p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mn444/entry-10820274175.html</link>
<pubDate>Fri, 04 Mar 2011 17:41:43 +0900</pubDate>
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