<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>CUSTOM</title>
<link>https://ameblo.jp/mo51yuji/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/mo51yuji/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ブログの説明を入力します。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>新旧。</title>
<description>
<![CDATA[ 『藤井聡太　炎の七番勝負』最終戦、藤井聡太VS羽生善治を観戦した。<br>佐藤天彦名人の解説がわかりやすかった。<br>いわく、<br>「これは新旧の価値観の戦いだ」<br>と。<br>かつて(というよりも、江戸の時代から現代に至るまで)将棋というボードゲームにおいて、「駒損した方が不利」というのは揺るぎなき真理とされていた。たとえば自分の角と金を相手に渡して、代わりに桂馬を一枚もらう……こんなトレードは論外とされていた。<br>が、ここへ来て、駒損をしたとしても攻めが切れないならば良し、とする価値観が台頭してきた。<br>無論、羽生さんが旧いという話ではない。言わずもがな、彼は常に新しい。<br>が、そういう旧い価値観も当然知っている羽生さんと旧い価値観がまるでプリインストールされていない藤井くんは、やはり天彦名人が言うとおり「旧」と「新」に該当する。<br>もうひとりの解説者である阿久津主税八段が対局後に、<br>「藤井四段の完勝譜」<br>と述べたように、終始藤井くんが羽生さんをリードする形で将棋は進み、果たせるかな完結した。<br>最後、羽生さんが「らしい」大技(詰めろ逃れの詰めろ)を繰り出したものの、それさえも藤井くんは飄々とかわしてみせた。<br>中盤で自身の角金と相手の桂を交換してまで、「攻撃の継続」に執着した藤井くんの将棋は、まさに「10年代の将棋」であった。二十年前(1990年代)なら、ほぼ全否定されていただろう、新鮮な指しまわしだった。<br>ただ、将棋の面白いところは、今正しいとされているメソッドがまた否定されて、旧いロジックが再評価されたりするところなのだ。<br>諸行無常。<br>いつも何かが微かに変わっている。人の気持ちや空模様と同じ。揺れる。動く。変わる。<br>一周して元に戻りました、なんてことは日常茶飯事なのである。一周どころか百周くらいして、また同じ景色を見ています、みたいなことが普通に起こりうる。でも、当たり前だが、二十年前に見た青空と今日の青空は同じではない。別物の青。<br>これからの十年間は、この藤井くんを中心に将棋界はまわっていく。それは間違いない。<br>けれど、二十年後に彼がどんな場所に立っているかは甚だ不透明だ。<br>二十年以上にわたって棋界を牽引し続けてきた羽生さんに藤井くんが並ぶには最低でも二十年はかかる。一度勝ったくらいでは、「越えた」ことにはならないんだ。<br>そこをしっかり踏まえた上で言えば、藤井くんは奇跡の少年である。<br>ありえない人間が登場してきた、という印象を抱いている将棋ファンがきっと僕以外にも百万人くらいは存在するはずだ。<br><br><br>Huaweiモバイルから送信<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mo51yuji/entry-12268484451.html</link>
<pubDate>Mon, 24 Apr 2017 12:06:39 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ものさし。</title>
<description>
<![CDATA[ 自分にとって必要か不要か。<br>これを「ものさし」として行動を決めていくと、俺の場合、ほとんどが「（今は）不要」にカテゴライズされる。 <br>だから、「やらないこと」がどんどん増えていき、生活が日に日にシンプルになっている。 <br>こうした流れが善いか悪いかはよくわかんない。 <br>たとえば数日前、友達からカラオケに誘われた。 <br>スケジュール的には行けた。<br>でも「カラオケ」に惹かれない自分がいた。これが「スタバでお茶」なら行っていた。<br>仏教徒として、嘘はNGだ。不妄語ってやつ。「忙しいから行けない」は嘘になる。だって今月すごく暇だしね。 <br>だから僕は誘われた時間帯に打ち合わせを一本入れてから、<br>「打ち合わせがあるから、行けない」<br>と断った。 <br>「カラオケに惹かれないから行かない」<br>というレトリックはなんだか堅苦しい。カラオケをするその人たちを否定しているように聞こえる。それがイヤだった。まったく否定はしていないからね。 <br>翌日その友からラインがきて、夜中の二時までカラオケしてたんだ、と報告があった。五時間程度のロングランになったらしい。 <br>行かなくてよかった、と思った。 <br>でも、こう感じる自分が正しいとは思っていないし、無駄を排除して合理を突き詰めようとも考えていない。 <br>ただ、やっぱり「ものさし」は大切にしたいなと……。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mo51yuji/entry-12260083126.html</link>
<pubDate>Mon, 27 Mar 2017 11:28:45 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ラブサイケデリコと『バカの壁』。</title>
<description>
<![CDATA[ 三月に入って一気に暇になって、俺は本と映画と音楽に耽っている。 <br>「新しい作品をいち早くチェックしよう！」という気持ちがない俺は、今もラブサイケデリコを聴きながら『バカの壁』を読んでいる。<br>音を消したテレビモニターでは阪神とヤクルトが戦っている。そう言えば今日からWBCだ。<br>イチロー師匠の出ないWBCは豚の入っていない豚丼のように感じられて、むろん白米には白米の旨さがあるわけだが、がっつく気にはならない。 <br>一昨日の日本代表VSオリックスを観ていて驚いた。知らない選手ばかりだ。二年間プロ野球を観ていないうちにメインストリームをいくメンツがこんなにも変わるものかと驚いたんだ。<br>時は川の流れのように止まることはなく、自分の知らないことばかりが増えていくわけだけど、新しいことを知りたいという気持ちもどんどん減じているわけで、俺はやっぱりラブサイケデリコとバカの壁で満足してしまうのである。 <br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mo51yuji/entry-12254169516.html</link>
<pubDate>Tue, 07 Mar 2017 15:33:32 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>１０分瞑想。</title>
<description>
<![CDATA[ 毎朝、目覚めて一時間以内に１０分間の瞑想をすることにしている。<br>呼吸に集中するオーソドックスなメソッドの瞑想だ。 <br>呼吸に意識を集中させながらも、どうしても浮かんでくる数々の思いや考え。それらもひとつひとつ受容し、観察する。 <br>あぁ、自分はまだあのことに執着してんだなぁ、とか、最近あいつへの評価を俺は下げてんだなぁ、とか、己の心の「近頃のトレンド」を観察する。<br>あれこれを観察しているうちに１０分間はナチュラルに過ぎ去ってゆく。終わりを告げるのは、（ヨガと瞑想の師である）Ｔ先生が薦めてくれた「雲堂」というアプリの鐘の音だ。 <br>一日のはじまりに瞑想をすると、その日のベース、素地が出来上がる。 <br>無論、一日を過ごす中でそのベースは形を変えていく。まさに無常ってやつだが、はじまりの形が安定しているからだろう、一日が終了しても、ベースが著しく乱れていることはない。 <br>そうして一日が終わり、夜を挟んで、また新しい一日を瞑想ではじめる。 <br>実にシンプルでイージーで、有意義なルーティンなのである。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mo51yuji/entry-12252593256.html</link>
<pubDate>Thu, 02 Mar 2017 12:15:13 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>無常と民生と珈琲を同時に味わう。</title>
<description>
<![CDATA[ 自分の心を観察すると、ちょっとしたことで弾んだり、些末なことでざらついたり、誰かへのジェラシーが発生したり、あるいは好意が芽生えたり、詮無いものへの拘りが生まれたり……そりゃもう忙しない。忙しな過ぎて呆れてしまう。 <br>いちいちそうしたプラスマイナスの感情に浸っていたら苦しくて仕方ないじゃん？ と説いたのがブッダだ。一喜一憂（＝心のジェットコースター化）は苦しいからやめようぜ、と。 <br>３日くらい前、ものすごく濃度の高い多幸感に満たされた。満たされながら「この気持ちいい状態もやがて消える」と考えていた。案の定次の日には雲散霧消して、そこから２日間は凹みがちだった。実に小さなことで心をざらつかせていた。 <br>で、今は、民生のライブ盤を聴きながら、夕刻の珈琲を飲んでまったりしている。心は中庸の状態に近い。 <br>無常。 <br>いちいち自分に振り回されず、ただただ目の前のリアルと向き合って出来ることをやっていく。それだけ。<br>それだけを繰り返しているうちに、いつか必ず死ぬ。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mo51yuji/entry-12231178153.html</link>
<pubDate>Fri, 23 Dec 2016 12:37:04 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>crocsと自己正当化。</title>
<description>
<![CDATA[ 今、欲しいcrocsが二種、ある。 <br>ペンギンのクロックスと、迷彩柄のクロックス。 <br>Amazonなら、どちらも５０００円もしない。<br>買えばいいじゃないか、と思う。「ポチッと」クリックすれば明日にはそれが家に届く。買っちゃえよ、それくらいの褒美を与えていいくらいには仕事頑張ってるやん。<br>しかし、踏み切れない、いや、踏み切らない俺がいる。 <br>「このクロックスに合うパンツを持ってるか？」<br>「かっこいいシューズを何足も持ってるのにわざわざサンダルを買わなくても」<br>「冬にサンダルは寒いやん」<br>いろんな声が体の内から頭の奥から聞こえてくる。 <br>果たして本当に必要か？ <br>満たされない何かを物品購入で誤魔化そうとしているだけでは？ <br>刹那的な快楽を求めているだけでは？（その快楽もあぶくのように消えることを知っているくせに）<br>……内観すれば、買い物という行為がことごとく浅ましいものに感じられ、己の未熟さに行き当たることもしばしばだ。 <br>「必要な買い物だけをしよう」というルールを守れば、ほとんど（必需品以外の）買い物なんてしなくて済むことに気づく。<br>そう、（たぶん僕だけに限った話ではない）現代人はモノに囲まれすぎだ。モノにこだわりすぎなのだ。 <br>しかし、である。 <br>しかしペンギン・クロックスが欲しい。迷彩柄はなんとか我慢できるけど、ペンギン大好き人間の俺はペンギンのクロックスが欲しいのだ。 <br>この「ペンギン大好き人間の」という修飾がまさに正当化なのである。それもわかっている。「ペンギンが好きな俺にはペンギン・クロックスが必要だ。それを買うのは間違いではない」といった具合に必死に正当化を試みているわけだ。 <br>１１／６、小池龍之介師に直に学んだ後ならペンギン・クロックスなんぞは一蹴できちゃいそうなんだけどな……。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/mo51yuji/entry-12211714842.html</link>
<pubDate>Fri, 21 Oct 2016 06:04:06 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
