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<title>三田村ちはる＠みたはるポートフォリオ</title>
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<description>取材が大好きな主婦ライターです。連絡先はコチラ ▶︎ roze31800@yahoo.co.jp</description>
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<title>やさしいひとが、本音が言えないのはなぜだろう？（2715文字）</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260330/23/morimori3588/f6/f5/p/o0766050815766183574.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="279" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260330/23/morimori3588/f6/f5/p/o0766050815766183574.png" width="420"></a></p><p><span style="font-size:1.4em;">「やさしいひとが、本音が言えないのはなぜだろう？」</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>その問いのなかには、</p><p>長い時間をかけて、積み重なった遠慮や不安、</p><p>そして、あなたの優しさが、詰まっているように思います。</p><p>そういう私も、かつては、自分の本音を口にすることを</p><p>怖いと思っていました。</p><p>&nbsp;</p><p>私が何かを言えば、相手を傷つけてしまうのではないか。</p><p>私が何かを声に出したら、嫌われてしまうのではないか。</p><p>私がその場にいることで、空気を壊してしまうのではないか。</p><p>&nbsp;</p><p>まわりを気にして、人を気にして、</p><p>そんな思いばかりが先に立って、</p><p>自分の本当の気持ちは、いつも胸の奥にしまい込んでいました。</p><p>&nbsp;</p><p>でも、あるとき気づいたのです。</p><p>自分が本音を言わないことで、私は誰かを守っているつもりでしたが、</p><p>実は、自分自身をすり減らしていたのだと。</p><p>&nbsp;</p><p>本音が言えない人は、優しいひとです。</p><p>いつでも、ひとの気持ちが思いやれる、優しいひと。</p><p>そして、人一倍、相手の気持ちを想像できる力があるひとです。</p><p>だからこそ、この気持ちは「言わないほうがいい」そう自分を抑えてしまうのです。</p><p>&nbsp;</p><p>けれど、その優しさは、本来はあなた自身に向けられるべきものでした。</p><p>&nbsp;</p><p>そのことに気がつかずに、</p><p>自分の気持ちを無視し続けてしまうと、心は少しずつ疲れていきます。</p><p>表面上はうまくやれているように見えても、心のどこかで、</p><p>誰にも言えない苦しさが積もっていきます。</p><p>そしてある日、ふとひとりになったとき、</p><p>&nbsp;</p><p>「どうして、自分はこんなにしんどいのだろう」と立ち止まることになります。</p><p>&nbsp;</p><p>私自身、寝たきりの母親のもとで育ったため、</p><p>幼い頃から、学校よりも、勉強よりも、</p><p>自分の気持ちよりも、</p><p>母や兄弟たちのことを優先して、生きてきました。</p><p>本当は、何度も辛い時があったし、</p><p>何度も寂しい思いをしてきました。</p><p>けれども、どれだけ辛い思いをしていても、</p><p>ひとに言うことができませんでしたし、</p><p>言えるような、安心できる大人もいませんでした。</p><p>本音を曝け出すことは、ずっと怖い怖いと思いながら生きてきました。</p><p>なぜ、怖かったのかというと、</p><p>自分は疲れている、</p><p>自分は弱い人間だ、</p><p>と言うことを、まわりの人に知られたら、</p><p>ばかにされ、嫌われるに違いない、と思っていたからです。</p><p>今でさえ、こんなに頑張っていても、</p><p>優しい言葉もかけてもらえないのに、</p><p>自分が母親の代わりに家のことをできなければ、</p><p>自分がわがままを言ったら、</p><p>体が辛いといって、寝込んでしまったら、</p><p>生きていることさえ否定されるのではないか。</p><p>そんなふうに思いながら、生きてきたからです。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、大人になり、両親がいなくなった今、</p><p>少しずつわかるようになっていきました。</p><p>自分の本音を言うということは、わがままを通したいということではありませんでした。</p><p>そして、決して「強く主張すること」でもありませんでしたし、</p><p>誰かを打ち負かしたいと言うことでも、誰かに正しさを押し付けることでもありませんでした。</p><p>&nbsp;</p><p>ただ、「私は今、こう感じている」と</p><p>&nbsp;</p><p>自分の正直な気持ちを、誰かに聞いて欲しかったのです。</p><p>&nbsp;</p><p>もしかしたら、あなたも私と同じように、自分の気持ちを誰かにいうことを、</p><p>考えたことがなかったかもしれません。</p><p>自分は、いつも大丈夫だと、自分に言い聞かせてきたかもしれません。</p><p>でも、あなたが気遣ってきたひとたちは、その人たちから見たら</p><p>あなたも同じ、気遣われるべきひとなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>まわりの人は、あなたの気持ちを知りたいと思っています。</p><p>あなたが本音を話してくれることを、待っています。</p><p>私は、ようやくそれがわかるようになりました。</p><p>&nbsp;</p><p>信じられませんが本当なのです。</p><p>&nbsp;</p><p>ひとは、本音で話してくれる人を好きになります。</p><p>ひとは、本音で話してくれる人を信頼します。</p><p>きっと、あなたも同じだと思います。</p><p>自分に心を開いてくれた人のことは、</p><p>あなたの中で、大切なひとになっていると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>最初から、うまくできなくても大丈夫です。</p><p>いきなり、本音を言おうとしなくてもいいのです。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>たとえば、ほんの小さなことから始めてみませんか。</p><p>&nbsp;</p><p>「今日は、すこし疲れています」</p><p>「それは、私にはすこし難しいかもしれません」</p><p>&nbsp;</p><p>そんなひと言から始めてみてください。</p><p>&nbsp;</p><p>それだけでも、あなたは自分を大切にし始めています。</p><p>自分が自分のことを信頼し始めます。</p><p>&nbsp;</p><p>そんなことを言って、相手が嫌な気持ちになったらどうしようと、</p><p>相手の反応が気になってしまうかもしれませんね。</p><p>大丈夫です。</p><p>人は意外と、こちらが思っているほど、深く傷ついたりはしません。</p><p>むしろ、正直に話してくれたことに安心する人もいます。</p><p>&nbsp;</p><p>それに、もしそれで離れていく人がいたとしたら、</p><p>その人は「本音を言えないあなた」としか、関係を築けなかった人です。</p><p>あなたがそんなひとに気を遣って、無理をし続けなければ続かないような関係は、</p><p>いずれまた、どこかであなたが苦しくなります。</p><p>&nbsp;</p><p>だから私は、自分にこう言い聞かせるようにしています。</p><p>&nbsp;</p><p>「自分の本音を言ってもいいんだよ」</p><p>「私は、私の気持ちを大切にしていいの」</p><p>「だれか嫌われることよりも、自分が自分を失うほうがずっと悲しい」</p><p>&nbsp;</p><p>今まで、まわりの人に気を遣って、</p><p>自分の本音を言えなかったあなた。</p><p>だから、本音を言うことは、勇気がいると思います。</p><p>でもその勇気は、あなたには必要です。</p><p>あなたの人生を、少しずつ楽にしてくれるからです。</p><p>&nbsp;</p><p>だからと言って、</p><p>あなたのすべてを、をさらけ出さなくてもいいのです。</p><p>言いたくないことは、言わなくたっていい。</p><p>少しずつ、少しずつでいいのです。</p><p>&nbsp;</p><p>あなたの中にある、あなたの本当の気持ちは、</p><p>決して間違いではありません。</p><p>それは、あなたがこれまで生きてきた証そのものです。</p><p>&nbsp;</p><p>どうか、あなたのその気持ちを、なかったことにしないでください。</p><p>あなた自身が、あなたの一番の味方でいてください。</p><p>そうすると、あなたは、あなたのことが世の中で一番大切になります。</p><p>&nbsp;</p><p>今まで、怖くて、気を使い続けて、</p><p>本音を言えないまま、生きてきたあなた。</p><p>本当に、よくやってきたと思います。</p><p>私には、その大変さがとてもよくわかります。</p><p>ひとには、なかなかできないことばかりですから。</p><p>でももう、大丈夫です。ゆっくりでいいのです。</p><p>あなたはもう、気づいています。</p><p>本当のあなたが、あなたのことを待っています。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、必ず少しずつ変わっていけますよ。</p><p style="text-align: left;">ひとのペースと、あなたのペースは、</p><p style="text-align: left;">比べるものではありません。</p><p style="text-align: left;">あなたは、あなたのペースでいい。</p><p style="text-align: left;">そういう私自身も、自分のペースは、自分が思っていたよりも</p><p style="text-align: left;">ずっとずっと、のんびりペースだったことに気がつきました。</p><p style="text-align: left;">自分で自分のことを、勘違いしていたのです。</p><p style="text-align: left;">自分で自分のことがわからないぐらい、ひとのことばかり考えてきました、</p><p style="text-align: left;">でも、そんな人生ももう終わりです。</p><p style="text-align: left;">あなたの本当の人生が始まります。</p><p style="text-align: left;">それは、とても楽しくて、明るくて、ワクワクするような、</p><p style="text-align: left;">あなたが幸せに感じるための時間になる、ということなのです。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">本当のあなたは、どんなペースが好きなのでしょうか。</p><p style="text-align: left;">本当のあなたは、どんな場所に行くと気持ちが落ち着いて、</p><p style="text-align: left;">そこで、どんなふうにのんびり過ごしたいのでしょうか。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">もう、他人のために、自分の時間を犠牲にするのは終わりです。</p><p style="text-align: left;">ひとのために時間を使うのではなく、自分のために使いましょう。</p><p style="text-align: left;">あなたは、あなたにとって、一番大切で一番愛しい存在なのです。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">私はいつでもあなたの味方です。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p>＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝</p>
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<link>https://ameblo.jp/morimori3588/entry-12960602181.html</link>
<pubDate>Mon, 23 Mar 2026 01:01:06 +0900</pubDate>
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<title>幻のミルクティー（788文字）</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260322/01/morimori3588/fd/58/p/o0830060615763001693.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="453" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260322/01/morimori3588/fd/58/p/o0830060615763001693.png" width="620"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-size:0.83em;">写真：パラレル（愛知県岡崎市）</span></p><p style="text-align: center;">&nbsp;</p><p>金曜日は、地元である康生ぶらりの日</p><p>&nbsp;</p><p>今日は、ホテルアングル店内にある</p><p>紅茶専門店「パラレル」にて</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>アイスミルクティーカモミール</p><p>&nbsp;</p><p>を注文してみる</p><p>&nbsp;</p><p>メニューを見たら、お店のオススメでもあったし、</p><p>個人的には、カモミールもミルクティーも</p><p>大好きだけど</p><p>これが合わさったらどーなるの？！</p><p>&nbsp;</p><p>そう興味をそそられ、オーダー</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>結果</p><p>めっちゃ美味しい</p><p>信じられないぐらい美味しい</p><p>&nbsp;</p><p>心配していたカモミールは、邪魔にならず</p><p>&nbsp;</p><p>逆に、ちゃんといい仕事しているではないか</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>そこに、氷が入っていないのもいいし</p><p>&nbsp;</p><p>グラスもいい</p><p>&nbsp;</p><p>氷は入っていないけど、</p><p>&nbsp;</p><p>グラスもミルクティーもそれなりに冷えており</p><p>&nbsp;</p><p>しかも、とても飲みやすい温度だ</p><p>&nbsp;</p><p>個性的で温かみを感じるグラスも、</p><p>&nbsp;</p><p>同じ形なのに、ひとつひとつ形が歪に違っている</p><p>&nbsp;</p><p>しかも、厚さの違うところで飲むと</p><p>&nbsp;</p><p>味が変わるのだそうだ</p><p>&nbsp;</p><p>へーーーうっそーー？！</p><p>&nbsp;</p><p>本当に、そんなことがあるのかな？</p><p>&nbsp;</p><p>試し試し、グラスを回しながら</p><p>&nbsp;</p><p>グラスの厚みの違うところで</p><p>&nbsp;</p><p>数回に分けて飲んでみたら</p><p>&nbsp;</p><p>なんということだ</p><p>&nbsp;</p><p>なるほど、たしかに味が変わるではないか</p><p>&nbsp;</p><p>美味しさはそのままであるのに、とても不思議な現象だ</p><p>&nbsp;</p><p>さすが、ミルクティー専門店として</p><p>&nbsp;</p><p>看板を出しているだけのことはある</p><p>&nbsp;</p><p>ひと口飲むごとに、唸り、</p><p>&nbsp;</p><p>ひと口飲むごとに、グラスの中のミルクティーを眺めた</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>また寄りたいと、強く願ったが</p><p>&nbsp;</p><p>実は今日で閉店するのだそうだ</p><p>&nbsp;</p><p>店長は若く、紅茶葉を求め</p><p>&nbsp;</p><p>インドへ行っていたほどの行動派</p><p>&nbsp;</p><p>また、海外へ行きたくなってきたのだとか</p><p>&nbsp;</p><p>なるほど、そういう人を止めてはいけないのだろう</p><p>&nbsp;</p><p>そのため、いつ帰ってくるのかもわからず</p><p>&nbsp;</p><p>再開は未定なのだそうだ</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>とりあえず、閉店する前に</p><p>&nbsp;</p><p>ミルクティーと、店長の世界観を</p><p>&nbsp;</p><p>味わうことができてよかった</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/morimori3588/entry-12960494740.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Mar 2026 01:35:34 +0900</pubDate>
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<title>辞世の句にみる人生観（1364文字）</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260322/00/morimori3588/3a/cc/p/o1084069615762997557.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="398" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260322/00/morimori3588/3a/cc/p/o1084069615762997557.png" width="620"></a></p><p style="text-align: center;"><span style="font-size:0.83em;">写真引用：PAKUTASO</span></p><p>&nbsp;</p><p>人間五十年、下天の内を比ぶれば</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>夢幻のごとくなり</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>一度生を得て滅せぬ者のあるべきか</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>にんげんごじゅうねん</p><p>　</p><p>げてんのうちをくらぶれば</p><p>&nbsp;</p><p>ゆめまぼろしのごとくなり</p><p>&nbsp;</p><p>ひとたびしょうをえて　めっせぬもののあるべきか</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>この歌は</p><p>大河ドラマ「麒麟がくる」にて</p><p>桶狭間の戦いの前に、信長が舞っていたもの</p><p>信長の、辞世の句としても有名だが</p><p>これは、平安末期に創作された</p><p>「敦盛（あつもり）」という「幸若舞（こうわかまい）」</p><p>の語りの部分である</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>信長は、</p><p>この語りの部分を特に好み、</p><p>普段から</p><p>事あるごとに舞っていたそう</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>信長にとっての「敦盛」とは</p><p>一大事前に行う</p><p>精神統一のようなものだったのだろう</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>命に限りがない神が住むのは「天界」</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>神に仕える四天王が住む世界は「下天」</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>そして、私たち人間が住む世界は「下界」</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>それぞれの世界において</p><p>それぞれの時間の流れは</p><p>大きく異なっており</p><p>例えば</p><p>&nbsp;</p><p>下天の一昼夜（一日）とは、</p><p>我々が住む下界にとっては</p><p>なんと、五十年にあたるのだとか</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>よく聞かれる話では</p><p>「人生五十年」とは</p><p>人間の寿命は五十年ほどしかない、</p><p>という、諦めの境地にも似た解説をなされるが</p><p>実はその解釈の仕方は</p><p>本来の意味とは違っているのである</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>本来の意味とは</p><p>下天の時間の流れと</p><p>下界の時間の流れを比較し、</p><p>人間の人生とは一瞬であるのだと、</p><p>達観した視点で、捉えられているものなのである</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>大河ドラマでは、桶狭間の戦いを前にして、</p><p>信長は「敦盛」を舞い、</p><p>正室である帰蝶には</p><p>別の女性に産ませた自分の子、</p><p>奇妙丸を引き合わせた</p><p>その時の信長は</p><p>どれほどの覚悟があったのだろうと</p><p>考えさせられる</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>それにしても、</p><p>いきなり</p><p>「わしの子じゃ。そなたが育ててくれ」</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>そう言われても、ポカンとなるのは当然のことで、</p><p>反対しようにも、子どもはすでに生まれ育っており</p><p>何と言っても、子どもに罪はないのである</p><p>&nbsp;</p><p>ドラマの中で、</p><p>帰蝶が呆気に取られるのも</p><p>無理はなかった</p><p>&nbsp;</p><p>信長と入れ違いに入ってきた光秀に</p><p>&nbsp;</p><p>「そのお子は？」</p><p>&nbsp;</p><p>そう聞かれ</p><p>&nbsp;</p><p>「殿の預かりものじゃ」</p><p>&nbsp;</p><p>答える帰蝶</p><p>&nbsp;</p><p>その姿に、</p><p>全国の女性が同情したのはいうまでもない</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>秀吉もまた、</p><p>「夢」という文字を使って</p><p>辞世の句を残している</p><p>&nbsp;</p><p>自分のことを「露」と例えた秀吉</p><p>私にとっては、非常に意外な一面を</p><p>最後の最期に見せてくれた</p><p>&nbsp;</p><p>あの</p><p>&nbsp;</p><p>自由奔放で</p><p>やりたい放題に見えた</p><p>秀吉が</p><p>自分のことを</p><p>&nbsp;</p><p>「露」</p><p>&nbsp;</p><p>と例えるとは</p><p>なんと儚い人生感を</p><p>持っていたのだろうと思う</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに、</p><p>私がかっこいいと思う辞世の句は</p><p>伊達政宗</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>これから死にゆく人とは思えない</p><p>美学がそこに存在しており</p><p>その潔さと、格好良さに</p><p>惚れてしまいそうになる</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>豊臣秀吉の辞世の句</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>露と落ち　露と消えにし　わが身かな　浪速のことも　夢のまた夢</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>伊達政宗の辞世の句</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>曇りなき　心の月を　先立てて　浮世の闇を　照らしてぞ行く</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/morimori3588/entry-12960493595.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Mar 2026 01:02:08 +0900</pubDate>
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<title>巡洋艦「矢矧」【完結】1~8</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: left;">●このシリーズは、東海愛知新聞2023年（令和５年）12月7日〜2024年（令和6年）2月2日に連載されたものです。</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/4a/29/p/o0626047415762577362.png"><img alt="" height="318" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/4a/29/p/o0626047415762577362.png" width="420"></a></p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">矢作に残る戦争の痕跡　巡洋艦「矢矧」その一</span></b></p><p>　その日も、いつものように資料を探そうと、岡崎市中央図書館リブラへと向かった。建物に入ると正面左手には、広いスペースがある。そこは一般市民が利用できるように用意された場所で、ちらりと目をやると新たな展示物が並べられているのが見えたため、本を見る前に寄ってみることにした。</p><p>　展示物のみの場合も多いが、人がいる時はパンフレットを配ったり、芳名帳への記入をすすめられることもある。その展示会も、関係者と見られる人が、立ち止まった人たちへ熱心に声を掛けていた。</p><p>&nbsp;</p><p>　その時の展示会は、「岡崎空襲」についてだった。</p><p>　「岡崎空襲」といえば、岡崎の戦争体験で最も有名なものである。</p><p>　それは第二次世界大戦末期のこと。一九四五年（昭和二十年）七月十九日未明から翌日の二十日にかけては、岡崎市は二時間に亘る波状攻撃（繰り返し何度も攻撃すること）を受けた。相手はアメリカ軍のB 29爆撃機。その数一二七機。そして、投下された爆弾は三種類八五七トン。総数一二、五○六発。午前〇時五十二分から攻撃が開始され、岡崎市の中心部は辺り一面火の海と化し、夜が明けた後も十時頃まで燃え続けたという。</p><p>　その時に岡崎市が狙われた理由はなんだったのか。それは、岡崎市が名古屋にある大きな工場の下請けをしていたことと、岡崎市周辺地域においても食料や住居、交通において、重要な土地であると定められたからであった。</p><p>　同じ日には、岡崎市の他にも福井市、日立市、銚子市、尼崎市と五ヶ所に投下されたという。岡崎空襲の悲惨さは、地元有志の方々により、今も語り継がれているのだ。</p><p>　矢作の地域には空襲の被害はなかったのだろうか。実は、矢作には忘れてはならない戦争の記憶がふたつある。</p><p>&nbsp;</p><p>・岡崎海軍航空隊予科練（おかざきかいぐんこうくうたいよかれん）</p><p>・巡洋艦「矢矧」（じゅんようかん「やはぎ」）</p><p>&nbsp;</p><p>　日本軍には「特攻」という攻撃を遂行する「特攻隊」という部隊があった。第二次世界大戦において、旧日本陸海軍が敵国への体当たり戦法のために特別に編成した部隊である。</p><p>　有名なものは、飛行機に片道分の燃料を積んで出撃をした「特攻隊」だろう。その悲惨さと悲しみは、今までにも、多くの小説や映画の題材となっている。</p><p>　ところが特攻隊には、空から攻撃した「航空特攻」だけでなく、海から攻撃した「海上特攻」というものもあった。矢作には、「航空特攻」と、「海上特攻」、どちらの痕跡も残されているのである。</p><p>&nbsp;</p><p>　空からの特攻隊、「航空特攻」の痕跡とは、「岡崎海軍航空隊予科練」の訓練基地のことである。</p><p>　その基地は、岡崎市、豊田市、安城市をまたがる土地に造られ、終戦後には民間に土地が返された。それまでに地元の人の中には、何度も引っ越しを余儀なくされた人々がいたという。当時は岡崎市内に特攻隊の滑走路があり（現在の三菱岡崎本社工場正門前辺り）、何人もの若い命が、岡崎の空を飛び立っていった。</p><p>　そして海からの特攻隊、海上特攻の痕跡とは、矢作神社に奉納された巡洋艦「矢矧」（じゅんようかん「やはぎ」）の模型のことである。</p><p>　「巡洋艦」とは戦艦をサポートする艦のことを言う。戦艦よりも小型で小回りが効くため、主戦力となった戦艦とは区別された。私のように馴染みのないものにとっては、海軍が保有した艦は全て「戦艦」、大きければ大きい戦艦、小さければ小さい戦艦なのだろう、と思いがちであるが、正しくは「戦艦」ではなく「軍艦」であり「戦艦」も「巡洋艦」も、「軍艦」の中の別種類の艦ということである。</p><p>　しかし、なぜ、海軍の巡洋艦の模型が矢作神社に奉納されているのだろうか。矢作には川はあっても海はない。それに、なぜ海軍の艦に「矢矧」という川の名が付いたのだろうか。「矢矧」は「矢作」の旧字体である。</p><p>　私が巡洋艦「矢矧」について知ったのは、矢作神社のお祭りの日に、拝殿へ上がらせていただいたことがきっかけだった。普段は固く扉が閉められている拝殿である。お祭り当日にはその扉が解放され、拝殿に奉納されているものを上がって拝観することができた。私もそのような日に上がらせていただき、神社には見慣れないものを見つけたのだ。</p><p>　それが巡洋艦「矢矧」の模型だった。立派なガラスケースに入れられ、長さは畳１畳分ほどあるだろうか。宮司さんの説明によれば一○○分の一の大きさだそうだ。しかも、実際に乗組員だった方が制作したそうである。</p><p>　その精巧さには目を見張った。プラモデルとは一線を画する仕上がりであった。</p><p>&nbsp;</p><p>・添付写真　</p><p>矢作神社ご朱印帳（愛知県岡崎市矢作町）</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/21/e9/p/o0646039015762577186.png"><img alt="" height="254" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/21/e9/p/o0646039015762577186.png" width="420"></a></p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">矢作に残る戦争の痕跡　巡洋艦「矢矧」その二</span></b></p><p>　矢作に、特攻隊の基地があったと知った時は、（こんな近くに）と、大変な衝撃を受けたものだった。</p><p>　「特攻隊」といえば、片道の燃料を入れた飛行機で大空へ飛び立ち、敵地や敵艦に体当たりをするという捨て身の戦法。その操縦士は主に十四から十九の紅顔さめやらぬ少年たちで、残していった両親や兄弟、恋人を想いながら命を散らしたその姿は、私たちの心を未だ握りつぶすのだ。</p><p>　自分が住んでいるこの場所から、数分のところに滑走路があった。</p><p>　この夕焼けは、彼らがみていた景色と同じなのだ。</p><p>　時々、ふと顔を上げては彼らの青春を思い描いた。</p><p>　その基地は「岡崎海軍航空隊予科練（おかざきかいぐんこうくうたいよかれん）」。通称「予科練（よかれん）」という。</p><p>　今ではその痕跡も歴史も、人の話題に上がることはほとんどない。基地の場所は、岡崎市、豊田市、安城市の三市にまたがっていた。基地内では操縦士を志願した少年たちが厳しい特訓を受けたり、飛行機の整備士が育成されたり、女性たちは「回天（かいてん）」という兵器のエンジンなどを造っていたという。「回天」という兵器も、一度出撃したら最後。搭乗員は帰ってくることが出来ない、悲惨極まりない人間魚雷であった。</p><p>　</p><p>　そんなある日のこと。矢作神社の拝殿に上がらせていただけることになった。矢作神社の御神体は、素戔嗚尊（スサノオノミコト）。天照大神（アマテラスオオミカミ）の弟と伝わる神様で、ヤマトタケルが祀ったという由緒正しき神社である。私のような歴史に好きとって、御神体に少しでも近づけるということは、この上なく嬉しい事である。</p><p>　その時も、ウキウキしながら拝殿内を見学していたが、お賽銭箱の隣にある展示物に目を奪われた。大きな軍艦の模型である。畳一畳ほどの長さがあるガラスケースに入れられた、とても立派なものであった。とても素人の作品とは思えない出来栄えである。</p><p>　立派なものだということはわかるのだが、神社にあるという違和感が拭いきれない。もしかしたら、宮司さんの趣味なのだろうか。しかも、御朱印にまでこの軍艦らしきものが描かれているではないか。</p><p>　私の頭の中は混乱した。しかし、それはすぐに解決した。この軍艦の艦名が「矢矧（やはぎ）」だったのである。</p><p>　「矢矧」とは「矢作」の旧字体である。しかし、なぜ軍艦の艦名に「矢矧」と名付けたのだろうか。</p><p>　実はその頃、この模型のことは、「戦艦だ」と思っていた。正確には「戦艦」ではなく「軍艦」である。そして、さらにここで展示されている「矢矧」という艦は、「軍艦」の中の「巡洋艦（じゅんようかん）」という種類の艦であり、「戦艦」と「巡洋艦」は違う種類の艦である。見た目はよく似ているが、一番の大きな違いは、大きさである。「巡洋艦」の方が「戦艦」よりも小型で小回りが効く。そのため、「巡洋艦」は戦場では主力となった「戦艦」をサポートをする役割があった。</p><p>　そして、もうひとつ気になることがあった。艦の先端に「穴」がないのである。</p><p>　「戦艦」といえば、「宇宙戦艦ヤマト」という世代の私たちである。</p><p>　「宇宙戦艦ヤマト」は、松本零士氏が製作したアニメに登場する艦である。確か、宇宙戦艦ヤマトには、艦の先端に大きな穴が開いていて、そこから「波動砲」という光のような武器が出たはず。宇宙戦艦ヤマトにとってはトレードマークともいえるデザインである。</p><p>（ところで、「波動砲」ってなんだっけ）</p><p>ふと、現実に帰った私は、歴史クラブの会長に「波動砲」のことを聞いてみた。</p><p>「矢矧には、波動砲の穴がないのだけど」</p><p>会長はそんな私の質問に冷静に答えた。</p><p>「あれは、アニメの中の話だから。実際の艦にはないんだよ」</p><p>（ええっ！そんな）</p><p>四十年近く信じ続けてきた戦艦のデザインが、頭の中でガラガラと崩れ落ちた。</p><p>　自宅へ帰り、旦那にも同じ質問をしたら、虫ケラを見るような目で見つめられた。</p><p>「船に穴が開いていたら、水が入って沈むだろうが」</p><p>「そこは、科学の力でなんとか蓋をしていたんじゃないの」</p><p>「呆れたなぁ。だいたいが、波動砲なんてものが現実にあるわけないだろう。あれは松本零士の創作だ。船が宇宙に浮いてること自体がおかしいだろ」</p><p>　小学生って、なんて純粋なのだろうか。今の今まで信じていたが、あの話自体が確かにアニメだ。このタイミングで「矢矧」に出会わなければ、私は一生「波動砲」の存在を信じ続けていただろう。</p><p>　後々、歴史クラブの会長にも、</p><p>「僕の場合、その問題は小学三年生の時に気がついた」</p><p>と言われ内心傷ついたが、</p><p>「ふぅん。そうなんだ」</p><p>気がつかれないよう、目は合わせなかった。</p><p>　　</p><p>・添付写真　</p><p>矢作神社に建てられている石碑（愛知県岡崎市矢作町）</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/70/83/p/o0656049615762577199.png"><img alt="" height="318" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/70/83/p/o0656049615762577199.png" width="420"></a></p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">　矢作に残る戦争の痕跡　巡洋艦「矢矧」その三</span></b></p><p>　岡崎市矢作町にある矢作神社は、素戔嗚尊（スサノオノミコト）が祀られた、由緒ある神社である。その神社の拝殿に、大きな軍艦の模型を見つけて以来、「特攻」とは空からの攻撃だけではなく、海から攻撃する「特攻」もあったのだということを知った。</p><p>　矢作には川はあっても海はない。それなのに、なぜこのようなものが矢作神社の拝殿に奉納されているのだろうか。また、なぜその艦の名前に「矢矧（やはぎ）」という川の名前がついているのだろうか。調べてみると、非常に興味深いことがわかった。</p><p>　まずは艦の種類である。詳しくない私のような者から見れば、日本海軍が保有した灰色の艦は、すべて「戦艦」だと思いがちである。それは、松本零士氏のアニメ『宇宙戦艦ヤマト』の影響が強く残っているからと言えるだろう。私たち一般人が「戦艦」だと思っているものは、正しくは「軍艦」と言われるものである。</p><p>　その「軍艦」にはいろいろな種類の「艦」がある。「戦艦」とは、そのいくつかある種類のうちのひとつである。そして、艦のすべては「艦艇（かんてい）」と呼ばれる。</p><p>　「艦艇」中で、主要な働きをする艦が「軍艦」である。駆逐艦や潜水艦とは区別をし、さらに「軍艦」の艦首には「菊の御紋章」をつけた。駆逐艦や潜水艦にはない。なぜなら、駆逐艦や潜水艦は軍艦に比べ艦の消耗が激しかったため、菊の御紋章をつけたまま頻繁に海に沈むようなことは、避けようとしたためと思われる。</p><p>　そしてさらに、「軍艦」には主力で戦うものと、その主力の艦をサポートするものとがあった。</p><p>　「戦艦」とは戦場では主力で戦う艦であり、矢作神社に奉納された「矢矧</p><p>」は、そんな「戦艦」をサポートする「巡洋艦（じゅんようかん）」という艦である。</p><p>　その「巡洋艦」にも「軽巡洋艦」と「重巡洋艦」の二種類がある。その違いは、艦が装備する排水量と、砲の口径の大きさの違いであった。</p><p>　以上を踏まえると、矢作神社に奉納されている「矢矧」は、軽巡洋艦という種類の軍艦で、戦艦を補佐する役目があった、ということがわかった。</p><p>　</p><p>　また、非常に日本らしいと思えるのは、それぞれの艦艇に付けられた名前である。日本海軍の保有した艦艇には必ず名前がついていたが、その名前の付け方にも艦種ごとに基準があった。</p><p>　例えば、「戦艦」には、昔の日本の国名がつけられた。「大和」や「武蔵」、「日向」などである。</p><p>　「航空母艦」には、鳥や龍に関する名前がつけられた。「飛龍」や「翔鶴」などである。</p><p>　「重巡洋艦」には、山に関する名前がつけられた。「妙高」や「愛宕」など。</p><p>　「軽巡洋艦」には、川に関する名前がつけられた。「最上」や「阿武隈」、そして「矢矧」である。</p><p>　艦艇の艦名とは、その艦に搭乗する乗組員の士気に関わると考えられていたため、非常に重要なものだったそうである。</p><p>　</p><p>　「矢矧」と名がついた巡洋艦は、二隻ある。</p><p>　一隻目は明治四十四年（一九一一）十月に三菱長崎造船所にて進水した、防護巡洋艦「矢矧」である。</p><p>全長一四四・八メートル。乗員数四五六人。</p><p>大正三年（一九一四）年から第一次大戦南洋群島占領作戦に参加。さらに、南シナ海、インド洋、スルー海での作戦に従事。</p><p>　そして大正七年（一九一八）のこと。帰国に向けシンガポールを出港したところで事件が起きる。艦内にてインフルエンザが猛威を振るったのである。</p><p>　その年は、世界規模でインフルエンザ（スペイン風邪）が大流行した年であった。その情報を把握していた艦長は、各地への上陸にも慎重な指示を出していたはずであったが、その刃は矢矧の乗組員を逃さなかった。出航してしまえば、逃げ場のない閉ざされた空間である。スペイン風邪は艦長をはじめとする、乗組員すべてに感染した。</p><p>　十一月三十日。シンガポールを出港した矢矧は、マニラ（フィリピン、ルソン島）に入港。その時に矢矧艦内を目撃した人が、こんな手記を残している。</p><p>『腰ヲ抜カサンバカリ二驚ク」</p><p>スペイン風邪による高熱により、上下甲板の至る所で乗組員が呻き倒れていたからである。</p><p>　乗組員の死者、四十八名という大惨事となった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/c5/c4/p/o0706037415762577219.png"><img alt="" height="222" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/c5/c4/p/o0706037415762577219.png" width="420"></a></p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">矢作に残る戦争の痕跡　巡洋艦「矢矧」その四</span></b></p><p>　二○1九年十二月のこと。中国にて初めて報告された「新型コロナウイルス感染症」は、自分自身も初めて経験したパンデミックだった。</p><p>　中国での異常な状況が毎日放映され、やがて世界へと広がり、ロックダウンする都市も出てきて、さながら悪い映画でもみているようだった。もしかしたら、人類滅亡の危機かもしれないと、世界中の人々が不安に陥ったのだ。その時は、一生マスクが手放せなくなるのではないかと、不安に思っていた。</p><p>　二○二三年五月には、「季節性インフルエンザ」と同じ五類感染症に移行された。それが発表されただけで、どれだけ気が楽になったことだろう。　</p><p>　自分自身もコロナに二度感染し、今まで経験したことのないような痛みや熱を経験した。後遺症としては、数週間後から始まった脱毛や味覚障害があった。脱毛は数ヶ月後には治まった。味覚障害はいまだに続いているが、生活には支障のない程度なので、慣れてしまえば問題がない。自分以外にもコロナに感染した人を何人か見てきた。中には軽症の人もいたが、自分が経験したように呻き苦しむ人もいた。</p><p>&nbsp;</p><p>　防護巡洋艦「矢矧I」は、明治四十四年（一九一一）十月に三菱長崎造船所にて進水した。全長は一四四・八メートル。岡崎市矢作町にある矢作神社拝殿に奉納されている模型の艦である。</p><p>　「矢矧I」は大正三年（一九一四）年から第一次大戦南洋群島占領作戦に参加。そして、その後は南シナ海。インド洋、スルー海での作戦に従事した。</p><p>　そして大正七年（一九一八）のこと。帰国のためシンガポールの港を出たところで事件が起きる。「矢矧I」艦内にて、強い感染力を持つ「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザが広がったのである。</p><p>　</p><p>　「スペイン風邪」は一九一八年から一九二○年にかけ世界的に大流行したインフルエンザの通称である。当時、全世界で患者数は約六億人。そして、二,000万から四,000万人の死者を出した。</p><p>　その時の「矢矧I」の状況は、現代に大流行したコロナとよく似ていた。日本では、大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンせス号艦内にてコロナが流行し、人々は閉ざされた海の上で逃げる場所がなかった。そして入港してからも乗客乗員たちは艦から降りることを許されなかった。その不気味な状態が、人々の心に大きな不安要素を芽生えさせたのだ。</p><p>　</p><p>　その時、岡崎市はダイヤモンド・プリンせス号の乗客乗員たちを受け入れるという判断を下した。当時、岡崎市針崎町に建設された巨大な医療センター、藤田医科大学岡崎医療センターがほぼ完成し、あとは開院するのを待つばかりという状態だったのだ。陽性患者を受け入れたとしても、他に患者がいない。なんという好都合なタイミングだったのだろうか。また、未知の病原菌であった「コロナ」を受け入れた、医療関係者の皆様方の判断と勇気には敬意を表したい。</p><p>　</p><p>　「スペイン風邪」がパンデミックとなった、まさに一九一八年。シンガポールを出た「矢矧I」の館内では、スペイン風邪が猛威を振るった。そしてその五日後にはマニラに入港したが、艦内は高熱患者たちが苦しみ呻く有様で、まさに地獄絵図であった。その時の艦長をはじめとする乗組員四七一名の全員が感染。そして、八日後には四十八名が死亡するという大惨事となった。</p><p>　戦地への任務を受けながら、遠く離れた異郷の地にて戦わずして病に倒れるとは、どれほど無念だったことだろう。そして、己自身も病と戦いながら、重症化した戦友の看病をし最期を看取るとは、どれほど辛かったことだろう。</p><p>　　マニラにある英国人墓地「サンペドロマガチ」には、</p><p>「軍艦矢矧病没者墓」</p><p>　が建立されたそうである。</p><p>&nbsp;</p><p>　帰国後、「矢矧I」の艦長は、艦名の名がつく川「矢作川」の存在と、その川のほとりに「矢作神社」と呼ばれる神社があることを突き止めた。</p><p>　そして艦長は矢作神社の分霊を「矢矧I」の艦内に祀った。それが大正九年九月七日のこと。のちに海軍全体に広まった「艦内神社」の始まりである。</p><p>　その後、「矢矧I」艦内では再びインフルエンザが流行したが、その時は一人の重症者も出さず、死者も出なかった。まさしく、これは「艦内神社」のご利益であると、乗員たちの士気は高まった。そして、大正十年には艦上にて「艦内神社」大祭も開催されるなど、乗員たちの崇敬は篤かったそうである。</p><p>　そして、その年と翌年の春には、乗員全員による矢作神社参拝が実現された。矢作神社に今も残る「矢矧I」の模型は、最初の参拝の時に乗組員たちの手によって製作され、奉納されたものである。</p><p>　</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/08/84/p/o0628039815762577249.png"><img alt="" height="266" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/08/84/p/o0628039815762577249.png" width="420"></a></p><p style="text-align: left;"><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">矢作に残る戦争の痕跡　巡洋艦「矢矧」その五</span></b></p><p>　岡崎市矢作町の矢作神社拝殿には、灰色の軍艦の模型が奉納されている。それは、畳一畳ほどの大きさがある重厚なガラスケースに入れられた、</p><p>防護巡洋艦「矢矧（やはぎ）I」</p><p>の模型である。</p><p>　当時の乗組員により、細部にまで丁寧に製作されたもので、乗組員が矢作神社へ参拝した時に奉納したものである。</p><p>　宮司さんの話によれば、近年、矢作神社にてこの模型を見た人で、</p><p>「自分は、この梯子を上っていた」</p><p>そう言って、懐かしんでいた人がいたそうである。</p><p>　その梯子とは、見張台に上がる「垂直梯子」のことであった。戦場では、最も狙われやすい場所である。</p><p>　「矢矧I」は昭和に入り除籍され、呉海兵隊の練習船として使用されるようになった。一九四○年のことである。そしてその数年後には、潜水学校でも使用されていたので、その方の思い出も、その頃のものではないかと思われた。</p><p>　「矢矧I」が練習船として使用されるようになった頃のこと。「矢矧」の名前が受け継がれ、二隻目の「矢矧II」が佐世保にて進水した。その「矢矧II」にも、岡崎市の矢作神社の分霊が「艦内神社」として祀られた。</p><p>　一隻目の「矢矧I」も、二隻目の「矢矧II」も、矢作神社の神様を載せ、海を走っていたのである。</p><p>　二隻目は一隻目よりも二十メートル長く造られた。当時としては最新鋭の設備を備え、日本海軍が産んだ「最後の新鋭巡洋艦」と言われたが、その存在は当時の日本国民には極秘にされていた。</p><p>　佐世保にて二隻目の「矢矧II」の進水式が行われたのは、昭和十七年（一九四二）十月のことである。それは、一般国民の目には触れないよう、細心の注意がなされたものであったという。</p><p>　その式には昭和天皇の名代（代理）として、高松宮宣仁親王（たかまつのみやのぶひとしんのう・昭和天皇の弟宮）が臨席。参列者には記念酒盃が配られたが、そこには「矢矧」の艦名は記されていなかった。代わりに、「矢」と「萩」の絵が描かれており、暗黙のうちに進水した軍艦の艦名を伝えるよう配慮がなされていたという。</p><p>　帰京された高松宮宣仁親王は、「矢矧II」の進水式を終えたことを、昭和天皇に報告されたそうである。</p><p>&nbsp;</p><p>　二年後の昭和十九年（一九四四）六月には、駆逐隊七隻を率いてマリアナ沖海戦（台湾、フィリピン共和国東方）に参加。</p><p>　同じ年の十月にはレイテ沖海戦（フィリピン周辺の海域）に参加。この二回の海戦にて、日本海軍は多くの艦艇を失うこととなった。戦艦「武蔵」が沈没したのもこの時である。</p><p>　そして運命の昭和二十年（一九四五）四月六日。アメリカ軍が沖縄に上陸を開始したため、「矢矧II」は徳山沖（山口県周南市）にて停泊していた戦艦「大和」と合流し、駆逐艦八隻と共に「沖縄海上特攻作戦」へと出撃した。</p><p>　次の日の七日十二時半過ぎには、アメリカ軍からの空襲が始まった。</p><p>　「矢矧II」は戦闘開始早々アメリカ軍の投下した魚雷が命中し、運航不能となる。そして再び魚雷が命中すると、十三時前には完全に停止。本来ならば「矢矧II」が護衛するはずだった「大和」からも遠く離れた。動けなくなった「矢矧II」はアメリカ軍にとって、格好の標的となったのである。</p><p>　「矢矧II」は大量の魚雷や爆弾、至近弾を受けたが、なかなか沈まなかった。それは、最初の魚雷を受けた時に後の誘爆を防ぐべく、「矢矧II」が搭載していた魚雷を海へ投棄したためである。「矢矧II」の姉妹艦「能代」は魚雷二本、爆弾一発を受けて沈没したが、「矢矧II」は集中砲火を受け続けながらも長い時間、戦闘を継続していたという。その時のことは、「もう早く沈んでくれと思うくらい沈まなかった」と、生き残った乗組員が後に語っている。</p><p>　アメリカ軍による「矢矧II」への攻撃は執拗に続いた。爆弾に魚雷、その他にも大量の機銃弾が撃ち込まれた。「矢矧II」の艦上はまさに戦場。目を覆いたくなる惨劇である。『最後の巡洋艦・矢矧』（池田清著・新人物往来社出版）には、その時の様子が事細かに書かれている。</p><p>&nbsp;</p><p>　”鉄片と共に兜や血肉が飛び散る。飛び散った肉片や内臓物は生きたまま鉄柱をすたり落ち、排水口を塞ぐ。血と潮は栗色の泡ぶくとなって光り、叫び声が呻き声が我を忘れさせる・・・”</p><p>&nbsp;</p><p>　最終的に「矢矧II」は魚雷七本、爆弾十二発を被弾し十四時五分に沈没（アメリカ軍の記録では、爆弾五十六発、魚雷十七本、機銃九九七〇発）。その十八分後。戦艦「大和」は火薬庫の大爆発により沈没。「矢矧II」は乗組員四四六名が死亡。一三三名が負傷。そして艦体は戦艦「大和」と共に沖縄の海に沈んだ。その時には、沖縄海上特攻作戦に出撃した駆逐艦四隻「磯風」、「浜風」、「朝露」、「霞」も沈没。残った艦は生き残った乗組員の救護にあたった。</p><p>　戦艦「大和」の活躍と悲劇を伝えるものは多いが、沖縄の海に沈んだのは「大和」だけではなかったのである。</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/0f/ec/p/o0766058615762577274.png"><img alt="" height="321" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/0f/ec/p/o0766058615762577274.png" width="420"></a></p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">矢作に残る戦争の痕跡　巡洋艦「矢矧」その六</span></b></p><p>　昭和十七年（一九四二）のこと。佐世保にて巡洋艦「矢矧II」の進水式が行われた。「矢矧」と名がつく艦は二隻目であり、当時としては最新鋭の設備を備えた「最後の新鋭巡洋艦」と言われた艦であった。</p><p>　進水式は昭和天皇の弟宮である高松宮宣仁親王（たかまつのみやのぶひとしんのう）が臨席され、一般国民の目には触れないよう、細心の注意がはらわれたという。</p><p>　</p><p>　「巡洋艦」とは、「戦艦」を護衛する役割をもつ艦である。「戦艦」とは戦場にて主力となる艦であり、「巡洋艦」は「戦艦」よりも小型に造られるため、小回りが効くのだ。</p><p>　昭和二十年（一九四五）四月。巡洋艦「矢矧II」は駆逐艦八隻と共に、「沖縄海上特攻作戦」へと出撃した。戦艦「大和」を護衛するためである。</p><p>　しかし、「矢矧II」はアメリカ軍の魚雷二発が命中し、海上にて停止。護衛するはずだった「大和」からは遠く離れてしまった。</p><p>　そこへ、アメリカ軍は「これでもか」というぐらい、集中砲火を浴びせた。「矢矧II」は最初に魚雷を受けた時点で誘爆を防ぐため、艦が搭載していた魚雷を海へ投棄していた。そのため、「矢矧II」は多くの散弾を受けながらも爆発を起こすことなく長い時間を耐え忍び、戦闘を継続できたのである。</p><p>　アメリカ軍の記録によれば、アメリカ軍が「矢矧II」に浴びせた砲弾の数は、爆弾五十六発、魚雷十七本、機銃九九七○発。巡洋艦としては異常なほどの被弾数に耐えたのだった。</p><p>　空襲が始まってから二時間後。「矢矧II」は艦内に矢作神社の神様を載せたまま沖縄の深い海へ沈没。戦艦「大和」はその十八分後に大爆発を起こし沈没した。海上にて投げ出され、生き残った乗組員は四月の冷たい東シナ海の海上を、五時間漂ったそうである。</p><p>　救助には、駆逐艦「初霜」、「冬月」があたった。海上には、黒い重油が広がっていたため、引き上げられた乗組員たちは皆が黒く染まっていたという。「矢矧II」の乗組員たちは、長い時間受け続けた散弾のため、顔面は火傷を負い、赤く腫れ上がっていたそうだ。どれだけの火炎地獄をくぐり抜けてきたのだろうか。中には、救助の姿を確認できたことで一気に異常な緊張感から解放され、そのまま、海上にて息絶えた者も多かったという。</p><p>　救助された生存者で、無傷のものはほとんどいなかった。佐世保港に着くまでの間に、彼らは肩を寄せ合い、激戦の様子を話し合った。翌日には、数時間前まで話し合っていた者が何人も動かなくなっていた。</p><p>　こうして亡くなった者たちは、艦上の狭い倉庫に次々と積み上げられていった。そして佐世保港に停泊したのち、死後硬直した遺体は無理やり折り曲げられ、釘樽に入れて収容された。艦艇の活動は機密保持のため、国民や企業には知らされないように取り図られていた。そのため、釘樽に押し込まれた乗員たちの遺体は、大変な思いをしながら戦地で亡くなった戦没者の英霊ではなく、物資輸送として陸揚げされたのである。</p><p>　極秘にされたのは、進水式や命名式だけではなかった。こうして二隻目の「矢矧II」の存在は、誕生から沈没まで、一切が秘密にされたままその生涯を終えたのである。</p><p>&nbsp;</p><p>　戦後、生存者や艦長だった方々の体験本が上梓された。そこに残されている生々しさを感じる時、これは本当にこの世の出来事だったのかと信じられない思いがある。しかし、書かれていることは全て本当に起きた出来事なのだ。</p><p>　現代は、とても便利な時代である。YouTubeをひらけば、CGにてリアルに再現された「矢矧」の姿を見ることができる。荒波に向かっていく「矢矧」の姿はとても勇猛で美しい。自分自身は泳ぎが苦手のため、もしもあの時代に生まれ乗組員として配属されたら、浮き輪は手放せなかったかもしれないと、真剣に考えてしまう。手放せなかったとしても、一番最初に打ち抜かれてしまったことだろう。それに昔から映画を観ることが好きで、大きな船が海に沈む映画はあれもこれもと観てきた。最も有名なものは、なんと言っても『タイタニック』だろう。あの作品も、何回見直しただろうかというほど繰り返し見ては涙した。それらの映像が現実に起きたのだ。</p><p>　資料に目を通しながら、本を読みながら、何度も背筋に震えが走った。しかし、その時代に生きた人たちにとっては、「矢矧I」と「矢矧II」はかけがえのない青春だったはずである。国民にはその存在を知らされることがなかった「矢矧I」「矢矧II」。その乗組員たちの多くは、誰にも知られぬまま海上に散っていったが、どれほど濃く熱い時間を、「矢矧I」「矢矧II」の艦上で過ごしたことだろうか。</p><p>　「沖縄海上特攻作戦」とは、文字通り「特攻」という、生還を考えないもの。つまり、沖縄に上陸したアメリカ軍から、沖縄を救援するためだけのものであった。</p><p>　実は「矢矧II」の艦長だった原為一氏は、この作戦をよしとはしていなかった。そのため、乗組員には「死に急ぐな」と言い聞かせ、若い乗組員は艦から外し、燃料も片道分ではなく、往復できるだけの燃料を積むよう指示を出したという。そして、非公式の指示として大量の角材を「矢矧II」に積み込ませたのである。これは、乗組員が海上に漂流した時の、浮き輪の代わりとなるためものであった。</p><p>に「矢矧II」の生存者が多く引き上げられたのは、この角材があったおかげと言われている。</p><p>　</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/3e/59/p/o0660049815762577297.png"><img alt="" height="317" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/3e/59/p/o0660049815762577297.png" width="420"></a></p><p style="text-align: left;">　</p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">矢作に残る戦争の痕跡　巡洋艦「矢矧」その七</span></b>　</p><p>　明治・大正・昭和に活躍をしたII隻の巡洋艦「矢矧」。</p><p>　一隻目の「矢矧I」は明治四十四年（一九一一）に進水し、第一次大戦南洋群島占領作戦に参加。その後、シンガポールから日本へ向かい出発したが、艦内にて「スペイン風邪」が流行。その時には、艦長をはじめとする四百人以上の乗組員全員が感染。四十八名の命を失うという大惨事となった。</p><p>　その年は現代のコロナのように、「スペイン風邪」がパンデミックとなり、世界中の人々を恐怖に陥れた年であった。　</p><p>　その経験から、当時の「矢矧I」艦長は、艦名の由来となった川、愛知県に流れる「矢作川」の存在を知り、「矢作神社」と呼ばれる神社があるということを突き止めた。そして、「矢矧一」艦内にその「矢作神社」の分霊を「艦内神社」として祀ったところ、再びインフルエンザが蔓延した時は、一人の重症患者も死者も出なかった。そのため、</p><p>「これは矢作神社の御加護である」</p><p>乗組員の士気は上がったそうである。</p><p>　そして、昭和十五年には呉海兵団の練習船として使用されるようになり、二十二年には解体。その生涯を終えたのだった。</p><p>&nbsp;</p><p>　艦内にて「スペイン風邪」が蔓延し、その後に「矢作神社」の分霊を祀ったときのこと。乗組員たちが、岡崎市の矢作神社へ参拝に訪れている。</p><p>&nbsp;</p><p>大正七年十一月　「矢矧I」艦内にて「スペイン風邪」が蔓延。乗員四十八</p><p>　　　　　　　　名の命を奪う。</p><p>　　　　　　　　その後、「矢作神社」の分霊を「艦内神社」として「矢矧</p><p>　　　　　　　　I」の艦内に祀る。</p><p>&nbsp;</p><p>大正九年九月　七日　「矢矧I」艦内にて矢作神社祭礼が施行される。その</p><p>　　　　　　　時に、矢作神社の「守護札（お守り）」三八○枚が乗員たち</p><p>　　　　　　　に配られる。</p><p>&nbsp;</p><p>大正十年四月　五日　海軍大尉を指揮官に、二一○名が参拝に来る。</p><p>　　　　　　　六日　海軍少佐を指揮官に、二○五名が参拝に来る。</p><p>　　　　　　　鳥羽を出港し蒲郡の沖合に到着。「矢矧I」の乗組員たちは</p><p>　　　　　　　岡崎駅まで汽車で向かう。</p><p>　　　　　　　岡崎市長、額田郡町、矢作町長を表敬訪問する。　　　　　　　　　　</p><p>　　　　　　　五日、六日と乗組員が岡崎市を訪れたときは、両日とも岡崎</p><p>　　　　　　　城内にある巽閣にて接待され、茶菓子でもてなしを受けた。</p><p>　　　　　　　この時に、乗組員の手で造られた「矢矧I」の模型が、矢作</p><p>　　　　　　　神社に奉納された。現在も拝殿にて見られる、ガラスケース</p><p>　　　　　　　に入っている艦である。</p><p>　　　　　　　また、帰路には電車四両を貸切にし、殿橋駅から岡崎駅まで</p><p>　　　　　　　向かった。　　</p><p>　　　　　　　七日　「矢矧I」艦長室付近に矢作神社分霊を安置。祭典を　　</p><p>　　　　　　　行う。その際には当時の矢作神社宮司が、蒲郡沖に停泊して</p><p>　　　　　　　いた「矢矧I」艦内に搭乗し、祝詞を奏し玉串を奉典。「君</p><p>　　　　　　　が代」が厳かに吹奏された。</p><p>　　　　　　　「矢矧I」が停泊していた蒲郡付近は、停泊中の軍艦をひと</p><p>　　　　　　　目見ようと、早朝から見物人で大いに賑わったという。蒲郡　　</p><p>　　　　　　　の町民は、艦内を見学することができた。　　　　　　　</p><p>　　　　　　　蒲郡には八日まで停泊し、九日抜錨（ばつびょう）。</p><p>　　　　　　</p><p>大正十一年四月四日　水雷長を指揮官に、一四九名が参拝に来る。</p><p>　　　　　　　五日　砲術長を指揮官に、一七一名が参拝に来る。</p><p>　　　　　　　「矢矧I」は知多郡武豊港に停泊。艦上の矢作神社祭典の施</p><p>　　　　　　　行のため、当時の矢作神社宮司が武豊港へ行き搭乗する。そ</p><p>　　　　　　　して「矢矧I」艦内にて祭典が行われ、玉串を奉納。乗組員</p><p>　　　　　　　たちは武豊から岡崎駅まで汽車で向かった。</p><p>　　　　　　　岡崎駅で下車後、徒歩にて矢作神社参拝。</p><p>　　　　　　　矢作町では各家が「国旗・球燈」を掲揚し、小学児童、在郷</p><p>　　　　　　　軍人らが矢作橋東にて出迎えた。　　　</p><p>　　　　　　　海軍中佐より小学児童に対して、軍艦についての詳細な説明</p><p>　　　　　　　があった。この時には、奉納された模型が使われたのではな</p><p>　　　　　　　いかと考えられる。</p><p>&nbsp;</p><p>大正十四年　　乗組員による矢作神社参拝あり。詳細は残されておらず。</p><p>　　　　　　　その時には、矢作町青年団の団員たちが、名古屋港から武豊</p><p>　　　　　　　港まで「矢矧I」に乗せてもらったそうである。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: center;"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/f5/97/p/o0790060015762577334.png"><img alt="" height="319" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/21/morimori3588/f5/97/p/o0790060015762577334.png" width="420"></a></p><p><b style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">矢作に残る戦争の痕跡　巡洋艦「矢矧」その八</span></b></p><p>　日本海軍が保有した巡洋艦「矢矧」には、一隻目と二隻目があった。</p><p>　一隻目の「矢矧I」は明治四十四年（一九一一）に進水。その数年後のこと。世界中で大流行した「スペイン風邪」からは逃れられず、艦内では脅威的な感染力が猛威を振るい、異国にて四十八名の乗組員を失うという大惨事となった。</p><p>　それがきっかけとなり、その後は「艦内神社」を祀ることが海軍全体の慣わしとなったという。そして、昭和二十二年（一九四七）に解体され、その生涯を終えたのだった。</p><p>　二隻目の「矢矧II」は、昭和十七年（一九四二）に進水し、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加。多くの艦艇の最期を看取った。</p><p>　そして運命の昭和二十年（一九四五）。沖縄本土にアメリカ軍が上陸したため沖縄海上特攻へと参加。それを「天一号作戦」と言い、「矢矧II」は、日本で最も有名な軍艦である戦艦「大和」と、駆逐艦八隻とともに東シナ海へと向かった。</p><p>　「矢矧II」は沖縄海上でアメリカ軍の砲弾を受け続け、二時間後に沈没。死者は四四八名。火の雨が降り続いたその惨劇はまさに、火炎地獄をゆくが如くであった。</p><p>　戦艦「大和」はその十八分後に大爆発を起こし沈没（十数分後とも、十六分後とも言われる）。生き残った「矢矧II」の乗組員は、遠くに「大和」から立ち昇る巨大なキノコ雲を見たという。</p><p>　巡洋艦「矢矧II」は、戦艦「大和」、駆逐艦四隻、そして、矢作神社の神様と共に、沖縄の冷たい海の底へと沈んだのであった。</p><p>&nbsp;</p><p>　そして平成になってからのこと。二○二二年六月二十三日。三菱重工長崎造船所（長崎県長崎市）において、護衛艦「やはぎ」の命名・進水式が行われた。</p><p>　護衛艦「やはぎ」とは、海上自衛隊が保有する護衛艦で、もがみ型護衛艦の五番艦（「もがみ型」というデザインが採用された護衛艦では、五番目の艦）と言われるもの。艦名は海上自衛隊の中で募集・検討され、当時防衛大臣であった岸信夫氏が決定。「やはぎ」の名を継いだ艦艇としては、三代目となった。その三隻の全長と乗組員数を比べてみると、次のようになる。</p><p>&nbsp;</p><p>　一代目　「矢矧I」　一四四・八メートル　乗員四五六名</p><p>　二代目　「矢矧II」　一七四・五メートル　乗員七二六名</p><p>　三代目　「やはぎ」一三二・五メートル　乗員九十名</p><p>&nbsp;</p><p>　三代目「やはぎ」の役割は、平時は警戒監視に対応。有事においては、対潜水艦戦闘や、対空戦闘、対水上戦闘、さらには対機雷戦においても対応できる能力が備わっている。</p><p>　そして、就任は、二○二三年十二月である。</p><p>　</p><p>　長崎にて行われた護衛艦「やはぎ」の命名・進水式は、YouTubeにて、いつでも誰でも視聴することができるようになっている。防衛省海上自衛隊公式チャンネルである。</p><p>　三分未満の短い動画であるが、その画面に登場する護衛艦「やはぎ」は威風堂々。華やかに飾り付けられ、式には当時の防衛大臣を始め、多くの参列者の姿が見られる。「君が代」が穏やかに流れ始めると、胸に込み上げてくるものがあった。</p><p>　「矢矧I」は大戦のみならず、目の見えぬ敵「スペイン風邪」にも苦しめられ、思いもよらぬ形で多くの仲間の命を失った。</p><p>　「矢矧II」では、戦艦「大和」と共に海上特攻へと参戦し、アメリカ軍からの集中攻撃を受け、二時間耐えに耐えた後沈没。その存在は、誕生から命名、進水に至るまで極秘とされ、沈没してなお、その英霊たちの死は公表されず、人知れぬまま艦もろとも闇に葬られた。</p><p>&nbsp;</p><p>　その名を継いだ「やはぎ」である。</p><p>　そして、この艦にも矢作神社の神様が「艦内神社」として祀られた。</p><p>&nbsp;</p><p>　平成の世となり、新たに誕生した護衛艦「やはぎ」は、こんなにも華やかに、こんなにも多くの参列者に祝われ、艦上では何本もの国旗が、気持ちよさそうに風になびいていた。</p><p>　ファンファーレが鳴り響くなか、色とりどりの風船が、真っ青な広い空へ吸い込まれるように飛んでいく。熱いものが、私の頬をつたい落ちる。</p><p>　「矢矧I」「矢矧II」の乗組員たち全員に、この光景を見せたいと思った。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　</p><p>▶︎参考資料</p><p>矢作神社所蔵資料　奉納遺物</p><p>大日本帝国海軍図鑑</p><p>巡洋艦「矢矧」はるか　改訂版</p><p>愛知県岡崎市矢作神社に遺る奉納遺物等について　小林清司</p><p>岡崎百話　岡崎地方史研究会</p><p>最後の巡洋艦・矢矧　池田清</p><p>矢矧の栞</p><p>岡崎空襲体験記　第三集</p><p>岡崎海軍航空隊甲種飛行豫科練習生第一期生日誌</p><p>百年前のスペイン風邪を振り返る</p><p>&nbsp;</p><p>Wikipedia</p><p>岡崎空襲</p><p>特別攻撃隊</p><p>矢矧（軽巡洋艦）</p><p>大和（戦艦）</p><p>天号作戦</p><p>マリアナ沖海戦</p><p>レイテ沖海戦</p><p>&nbsp;</p><p>YouTube</p><p>軽巡洋艦「矢矧」原 為一</p><p>【艦これ】第一航空戦隊（一航戦）の「矢矧」【ゆっくり解説】</p><p>【命名式・進水式】護衛艦「矢矧」防衛省海上自衛隊公式チャンネル</p><p>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/morimori3588/entry-12960375639.html</link>
<pubDate>Fri, 20 Mar 2026 22:19:34 +0900</pubDate>
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<title>迷宮の昭和シリーズ【継続中】１〜６</title>
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<![CDATA[ <p>昭和の湿った記憶を、残そうという企画です。、</p><p>ジメジメとした空気感をお楽しみください・・・</p><p>書き上がり次第、ここにアップしていきます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260331/01/morimori3588/ef/87/p/o1214112815766209822.png"><img alt="" height="390" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260331/01/morimori3588/ef/87/p/o1214112815766209822.png" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>（1482文字）</p><p>　私が小学校3年生ぐらいの頃のことだ。まだ小学校の部活動もなく家にいる時間が長かったので、近所の親戚のうちに遊びに行った。その家は父の実家で、父の兄の家族が暮らしていた。行けば大抵はその家の奥さんか、その家の姉妹の誰かがおり、私とは年齢がひと回りも離れていたので、何かと世話を焼いてくれた。私の母は、子どもの相手をするというタイプではなく、家ではいつも寂しい思いをしていたから、同じ部屋に誰かが一緒にいて、その場で一緒にテレビを観てくれるというだけでも、嬉しかった。</p><p>　その日は長女のマイさんが台所にいて、次女のカヨさんは居間でテレビを観ていた。厚みのある大きなテレビが、畳の上に置かれていた。私はテレビの前にある黒いテーブルの横に座り、カヨさんに出された熱いお茶を飲んでいだ。何を喋るでもなく、カヨさんと二人でぼんやりテレビを見ていると、急に目の前のテレビ画面に裸の女の人が映し出された。細くて白い肌の女の人が、画面いっぱいに横たわっているではないか。いつの間に、こんな場面に変わったのだろう。これは、映画なのか、ドラマなのかと考えているうちに、これまた裸の男の人が登場し、女の人の身体の上を舐めるように移動しながら、右の胸から左の胸、そしてお腹を通って太ももへと、画面の中を行ったり来たりし始めたではないか。（ええっーー）私の目は画面に釘付けとなった。ふと見ると、すぐ近くに座っているカヨさんの姿が目に入った。（そうだ、ひとりじゃなかったんだ）急に変な汗が流れ始める。こんなテレビを見ている私のことを、カヨさんはなんと思っているのだろう。なんていやらしい子なんだと、軽蔑されたらどうしよう、というヘンテコな想像が、頭の中をものすごいスピードでが駆け巡った。するとカヨさんは、画面から目を逸らさぬまま、微動だにせずにこう言った「わーすごい！」あぁ、すごいんだ。ああいうのをすごいって言うんだ。「なんていやらしい」でもなく、「こんな真っ昼間から、まったく」でもなく、「すごい」。そうそう、そうなんだ、そうだよね。そう言ってもらえて、本当によかった。私は小さな声で「う、うん」相槌を打った。</p><p>　家族でテレビを見ているときに、キスシーンやいわゆる大人の時間が始まると、家族が固まって嫌な沈黙が流れるというのが、昭和のあるあるだったが、カヨさんとはそうならなくてよかった。もしも、ふたりとも何も言わないまま終わっていたら、「あの子は嬉しそうにあんなものを見て」「いやらしい子！」などと思われたかも知れないと、一生うじうじと思い出していたかも知れない。カヨさんがあの一言を言ってくれたおかげで、狼狽えて冷や汗を流した時間から、驚きの時間に変わったのだ。あの頃は、現代では流さないようなエロい映像やグロい映像をお茶の間に流していた時代だった。そういう番組を親や兄弟に知られないよう、こっそり観ることが楽しかったし、たまたま、深夜にテレビがついていて、たまたま、そう言う番組を見ることができれば、それはそれで楽しかった。あの頃は、大人のビニ本が道端に落ちているのを見かけるたびに、拾ってきてはこっそり読みあさっていたが実のところ、そんな本を拾ったところで、内容はよくわからなかった。それでも、あの頃のドキドキ感には堪らないものがあった。背徳感より好奇心が優ってしまい、今よりもずっと自分に素直だったような気がする。</p><p>　「ちょっと、取りにおいでん」台所からカチャカチャという音と共にマイさんの声が聞こえると、私は現実に戻った。いつの間にかテレビ画面からも、裸の男女はいなくなっていた。</p><p>写真引用：写真AC</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260324/12/morimori3588/b7/0a/p/o1208110615763844517.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="385" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260324/12/morimori3588/b7/0a/p/o1208110615763844517.png" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>(1187文字)</p><p>&nbsp;　私が「金縛り」というものを経験したのは、今のところ人生で一回きりである。もともと感受性が強い方で、４０代後半から歴史取材を始めてから、俗にいう「霊感」が冴えてしまったのだが、やっぱり金縛りに遭うことがない。子どもの頃はテレビに登場するユリ・ゲラー氏や宜保愛子さんを観ては（自分もあんなふうになりたい）と子どもめいた憧れを持っていたが、まさか自分が本当にそうなるとは思わなかった。中学生の頃には月刊オカルト雑誌『ムー』が登場し、自分も本屋でバイトをしていたから入荷したはなから購入し読みあさっていた。金縛りも、怖いけど経験してみたいと思ってはいたものの、霊能者と同じく、なりたいと思って経験できるものでもない。ムーに書かれている金縛り経験談を読みながら、（そういうものか）と勝手に想像するしかなかった。</p><p>　そんなある日の夕方のことだった。運動部に入っていた私は、その日も部活で先輩たちにしごかれ、くたくたになって帰ってきた。ガラス戸を隔てた隣の部屋では、兄弟が楽しそうに喋っている。曇りガラス越しにそんな会話を聞きながら、軽く顎まで布団をかぶり、うつらうつらし始めたその瞬間、上からものすごい力でぐいぐいと押され、押し付けられた布団で息ができないぐらい苦しくなった。しかも身体中が痺れたように重く動かないではないか。（もしかして、これが金縛り！？でもこの人は誰！？）透明な大人がものすごい力で、私の顔に布団を押し付けてくる。（お兄ちゃん！お兄ちゃん！お兄ちゃん！お兄ちゃん！）と何度も助けを求めようとしたが、声も出なくて恐ろしかった。1分ほどすると相手の力がふっと緩んだので、（あぁ、終わったんだ・・・）布団の中でふっと力を緩めると、その途端、下の方から見えない誰かがまたやってきて、顔に布団を覆い被せ、ものすごい力で私の顔に布団を押し付けてきた。（こんなことってあるのだろうか。金縛りにあって死ぬなんて・・・）しばらく抵抗していたが、また相手の力がふっと緩んだ途端に私も眠りに落ちてしまった。後で隣の部屋にいた兄弟たちに聞いてみると、私はずっと静かに寝ていたそうだ。あんなに抵抗し暴れていたように感じたけど、やっぱり体は動かなかったんだ。それ以来、金縛りにはあったことがない。大人になってから、その記憶はすっかり忘れていたのだが、仲良くなった友達が金縛りによく合うというので、話を聞いていたら自分の話も思い出したのだ。その子はよくモテていた女の子で、一人暮らしを始めたら金縛りに遭うようになり、ひどい時は足元からずるずると女の人が這い上がってくるのだそうだ。あまりにも金縛りに遭う回数が多いので、金縛りに遭う前の予兆がわかるようになってきたという。（あ、きそうだな・・・）と気がついた時は、布団の中でゆっくりと左右に体を揺らしていると金縛りに合わないそうだ。</p><p>写真引用：写真AC</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260323/11/morimori3588/c3/57/p/o0968101415763479014.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="440" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260323/11/morimori3588/c3/57/p/o0968101415763479014.png" width="420"></a></p><p>　私が住んでいた実家は、半毛工場（はんもうこうば）だった建物を父が結婚したのを機に人が住めるように改良したものだそうだ。確かに今こうして冷静に思い出してみると、人が住むには無理があった作りだったように思う。昔の市営住宅を思えば同じぐらいの広さだったかもしれない。とにかく玄関に鍵はなし。郵便受けもなく、窓ガラスも隙間だらけで外で寝ているのか内で寝ているのかわからないような家だった。しかし、住めば都とはよく言ったもので、住んでいるうちはよその家の事情も知らず、どこの家も同じようなものだと思っていたから他人の家と比べて卑下するようなことはなかった。風呂場には窓もなく、脱衣場などというものもなく、シャワーもなし。鏡のついた洗面所さえなかったが、幼い頃は兄弟で入ったり、父と入ったりして楽しいこともあった。当時はシャンプーハットが流行っていて我が家も兄弟でよく使ったので、幾つもシャンプーハットがボロボロになった。シャンプーリンスを使うようになったのも、私が親戚のお姉さんから聞いてからだ。私が小学校5年生ぐらいまでは髪を洗うのも週一回。白い固形石鹸を使っていた。あの頃はシャンプーの種類も一気に増えた時代だった。</p><p>　お風呂は縦長に1畳ほどの広さだった。奥半分は水色の浴槽がはまっており、手前半分は床に細かいタイルが敷かれていた。家の外に出ると、同じ種類のタイルが何年も散らばっていたから、きっと父か誰かの手作りなのだろうと思う。その床のタイルから浴槽がある高さまで壁にはタイルが貼られていたが、そこから上は藁の混ざった赤土である。浴槽と赤土の間には隙間があり、子どもの頃にお風呂に入っていたら、そこから黒い生き物がぬるぬると出てきたので熱いお湯をかけて追い出した。後でそれを父に言ったら「それはヒルだ。水をかけるのは余計に良くない」と言われ褒められると思っていたからがっかりした。</p><p>　その風呂はガスで湯を沸かしていた。壁に張り付いているドアノブのようなものを左右左と動かすと、奥の方でボッと音がして火がついているようだった。風呂を洗って水を入れ、湯を沸かすのもなぜか私の役だった。ガスで湯を沸かすと上の方は熱いのに下は真水ということもよくあった。そのため、寒い日に慌てて入ろうとすると、ドボンと入れた足の先は冷たくて何度も引っ込めた思い出がある。それでもめんどくさく感じた時は、そのままお湯をかきまぜて均一の熱さにし、その場でガスの火をつけて沸かしながら入った。そういう時はたいてい冷たさが勝るため、非常に緩いお湯になった。ブルブルと震えながらお湯の温度が上がるのを待った。ガスの口の近くから水が温まるので、少し温まったお湯をかき混ぜ、また温まってきたらかき混ぜる、そんなことを繰り返した。底には黒い栓がはまっていたが、時々水を入れたつもりで見に行ってみるとしっかりと栓がはまっておらず、まったく貯まっていなかった時もあった。</p><p>　そんなある日のこと。その日も母が寝込んでいたので、お風呂の準備と買い出しと夕食の準備は私の役目だった。家族六人で男が四人なのでよく食べるのだ。毎日、帰ってきた家族をお腹いっぱい食べさせることが私の人生の大部分を占めていた。いつもならお湯を沸かしながら夕食の準備に取りかかり、終わる頃にはちょうどいい感じで湧いているのだが、その日は早い時間にお風呂を沸かしたため、いつもとはタイミングが違っていたのか。台所から出たところで、ふと聞いたことのないような音に気がついた。深い地面の底から響いてくるようなボコ、ボコという鈍い音だ。（この音はなんだろう！？どこから響いてくるのだろう・・・なんて不気味な音なんだ・・・）考えている時も間をあけて、振動と共にボコ、ボコと低い音が聞こえてくるので震え上がった。家が爆発するのではないかと思った。ふと顔を上げると、風呂場の扉の隙間から、モクモクと湯気が立ち上っているではないか。それを見て思い出した。（そうだ、お風呂だ。お風呂を沸かしていたんだ）慌てて風呂場の扉を開けると、風呂の湯が沸騰し、ボコボコと煮えたぎっていた。震えながらその湯気の中に手を伸ばし、取っ手を左右に動かしてガスの火を止めた。慌てて水を流し込む。ますます湯気が立ち上った。（これが地獄の釜なのだろう・・・）大量の湯が湧き上がった不気味さに、本能が震え上がった。</p><p>写真引用：写真AC</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260321/00/morimori3588/dc/86/p/o1432145015762619989.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="425" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260321/00/morimori3588/dc/86/p/o1432145015762619989.png" width="420"></a></p><p>（１７９２文字）</p><p>　私が覚えている一番古い記憶は、私の実家のすぐ近くに住んでいた、父方の祖母との思い出である。祖母がまだ生きていた時の、その瞬間だけのやりとりが不思議なぐらい鮮やかな記憶として残っているのだ。</p><p>　母方の祖母の記憶もある。しかし、最も強く記憶に残っている祖母は、残念ながら生きていない。私は４歳か、５歳ぐらいだろうか。葬式の何たるかも知らぬまま母の実家へ連れて行かれると、黒い服を着た人たちが大勢集まり、畳の上に置かれた何かをじっと覗き込んでいるところだった。誰もが無言で、無表情のまま、その場に座り込んでいる。幼かった私は誰かに呼ばれたのか、背中を押されたのかして、その人たちの方へ近づいていった。そして、皆が覗き込んでいるものを見てみると、そこにいたのは祖母だった。細長く狭そうな木の箱の中に横たわっている。見たことがないような白い着物を着て、胸より下は匂いの強い沢山の花で覆われ見えなかった。たぶんその先に足はあるのだろう。頭には先の尖ったの白い布を巻いていて、目は閉じられ、固まったように動かないのだ。そして、よく見ると、口の中から何かがはみ出しているではないか。黒くてゴツゴツとした粘土のような何かが、動かない口の中から2センチぐらい見えていた。（なんだろうあれは、なんだろうアレは・・・どうして誰も取り除かないのだろう・・・あんなものが口から飛び出ているだなんて、おかしいじゃない・・・どうして誰も何も言わないの、どうしておかしいと思わないの・・・）見たことのないような異常な姿に、目を離すことができなくなった。その時は幼心にも、アレのことを聞いてはいけないのだ、と察し、その場で誰かに話すようなことはしなかったし、聞くこともなかった。それに、聞いたところで、冷静に説明してくれるような人も見当たらなかった。しかし、誰かに話したほうがよかったのだ。今でも脳裏にこびりついているのだから。</p><p>　出棺の時間となり、棺桶に蓋をかぶせたときは、場の空気がほっと和らいだのを感じた。近くで見ていた私でさえ、もうアレを見なくてもいいんだ、という安心感があった。と同時に、もう二度と会えないのだろう、という覚悟も生まれた。母が私たち兄弟を連れて母の実家へ行くと、母はいつも祖母に叱られていたことを思い出す。祖母の笑った顔は思い出せないし、私たち兄弟も優しい声で話しかけられたこともなかった。しかし、昔のアルバムを見ると、忙しかった母の代わりに、着物姿の祖母が私の保育園の遠足に付き添ってくれている写真が残っているから、私たち孫のことは可愛いと思ってくれていたのだろう。「あの子は花が好きだな。花の前から動かない」遠足から帰った祖母が、私のことを母にそう言ったそうだ。それ以来、母は家の前に花の球根を植えるようになったそうだ。私が大きくなってから、母が独り言のように遠くを見ながら喋っていた。私たちが生まれ育った村よりも、母の実家は都会で、活気ある騒音の似合う街だった。そんな母の実家へ行くのはとても楽しみだったが、大勢で祖母を覗き込んでいたあの時間は、世界から音という音が無くなっていた。<br>写真引用：photo AC</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/00/morimori3588/f1/d2/p/o0958065815762273569.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="288" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/00/morimori3588/f1/d2/p/o0958065815762273569.png" width="420"></a></p><p>（2029文字）</p><p>　私が生まれ育った実家は、山と川に挟まれた東西に細長い村だった。友人や若い頃に付き合っていた人からも「村に近くなると、空気が変わる」そう言われたほど。確かに、通っていた学校や職場とは同じ市内とは思えないような田舎だった。さらに、自分の住んでいた実家は、平家の一軒家で、昔半毛工場（はんもうこうば）だったという小さな建物を、父が結婚したために手を入れたものだそうで、今思えば、人が住むには快適とは言えないものだった。壁は藁の混ざった赤土、その上に、波波にうねっている鈍い銀色のトタン板をぐるりと巻きつけたような、小屋のような家だった。時々、芸能人が悲惨な実家だという触れ込みで自分達の実家をテレビで紹介しているが、あの外だか中だかわからないような環境の凄さを、私も肌で感じており、親近感を感じずにはいられない。そんな実家を明るい表情で紹介している芸能人を観ると、心が救われる思いだ。トイレは昔ながらの、地面に穴が掘られた汲み取り式で、手前には男性用便器、奥には和式トイレが板の上に置かれていた。おまけに電気もなく、夜などは特に怖くて怖くて仕方がないのに、なぜか、毎回下を覗いてしまうのだった。暖かい季節になると、そこに蠢き始めるものが大量に現れたが、何回見ても、何年たっても慣れることがなかった。またそれが、いつか溢れてしまうのではないかと、大雨がきたら大変なことになるのではないかと、子ども心にも不安で不安でたまらなかった。あのトイレは自分が結婚してからも、何回も夢に現れた。一番恐ろしく感じる場所だったのだ。夢の中では、あのトイレの底で生活をしている自分の姿が、恐ろしくてたまらなかった。５０歳手前になった頃、ようやく見なくなったような気がする。しかし、そんな自分よりももうひと回り上の年代の人たちと話をしていると、</p><p>&nbsp;</p><p>「近所のどこそこに肥溜めがあって、時々そこに落っこちたわ！」</p><p>ハハハと笑い飛ばすので、その逞しさには感心してしまう。タレント黒柳徹子さんの著書『窓際のトットちゃん』にも、そのようなトイレが登場するので、トットちゃんには非常に親近感を覚えたものだった。</p><p>　またそんな実家では、雨風の影響も凄まじかった。特に毎回驚いたのは「雹（ひょう）」である。数年に一度のことだったが降り始めると、雹がトタン板を鼓笛隊の太鼓のように勢いよく打ち鳴らすのである。そして、そのバラバラバラバラという音の大きさで、降ってきた雹の大きさを知るのだった。</p><p>　その頃は、朝になっても母が布団から起きてこず、不安な中で生活していたため、父の帰りは毎日待ち遠しかった。早く帰ってきてもらい、早く安心したかったが、そんな父もまた毎日帰りが遅かった。とにかく職場が遠いのである。帰ってくる父の車のエンジン音を聞き逃すまいと、毎日、布団の中で待ち続けていたので、今でも夜ふかしグセが抜けないのはそのせいのかもしれない。体調が悪く、何日も口を聞かないような母や、気を遣って過ごしている兄弟たちのことを考えていると、父はもう帰ってこないのではないかと思うこともあった。もしくは、途中で父が見知らぬ誰かと入れ替わってしまい、父のふりをした違う誰かが帰ってくるのではないかとか、どこかで事故に遭ったかもしれない、などと考えていると、心臓の音がどんどん大きくなってきて、まわりに響いてしまうのではないかと思うことさえあった。そんな連続する胸の鼓動が、そのうちザッザッ、ザッザッという足音に変わることがあった。自分の内から聞こえてくるこの音は、胸の鼓動なのか足音なのか、どっちなのだろうと思っていると、脳裏に大勢の人が行進している姿が浮かび上がるのだ。それも膝から下の足もとだけ。その頃はまだ戦争というものを知らなかったが、頭に浮かび上がったその姿は、皆が同じズボンを履き、同じ靴を履いた人たちで、規則正しく、誰ひとり列を見出すことなく、目的に向かって突き進んでいる。まさにそのような足音だった。私は（その人たちに気づかれませんように）そう思いながら、布団の中で息を顰めた。</p><p>　その中に父はいるのだろうか。父も似たような作業着を着ていたが、あの隊列の人たちとは色が少し違うような気もする。父の靴は黒い安全靴だったが、彼らとはやっぱり色が違うように見える。もしかしたら、帰ってきた父があの人たちと遭遇したら、そのまま列に入れられて連れて行かれるかもしれない。そんなことを考えているとますます目は冴えてしまい、朝まで眠ることができなかった。大抵、そこまで帰りの遅い日は、父の帰宅は4時や5時だった。そこまで帰りが遅くなるのなら職場の近くで寝た方がいいのではないかとも思ったが、今のようにコンビニがない時代である。家を出る時間が7時だとしても、帰ってきてくれることが何よりも嬉しかった。空が明るくなり始めた頃に、遠くの方から父の車の音が聞こえると、安心するせいか眠気が来て、ほん数時間だけ眠りにつくのだった。</p><p>写真引用：gettyimages（https://www.gettyimages.co.jp/）</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/00/morimori3588/9e/d5/p/o0960099415762273225.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="435" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/00/morimori3588/9e/d5/p/o0960099415762273225.png" width="420"></a></p><p>（1073文字）　</p><p>　私が覚えている一番古い思い出は一歳ごろだろうか。たぶん、ふたつ上の兄に手を引かれていた記憶があるから、歩き始めた頃かもしれない。私たち六人家族が住んでいた家の北側には父の実家が立っていて、その家には父の母と、実家の跡取りである父の一番上の兄、そして、その家族が住んでいた。私の父と、父の一番上の兄とは歳がひと回りも離れていたので、父からみれば親同然の存在だったことと思う。実家があった地元は、紡績や半毛（はんもう）が非常に盛んな地域で、あちこちに燻った匂いのする大きな工場があって、年に何回かはどこかの工場で火事が出て消防車が集まる騒ぎとなった。同じ頃に父の実家も紡績で大きく儲けたそうで、実家の建物は大きく古かった。玄関を開けると、大きな靴箱の上には雉など鳥の剥製が並べられており、それらの赤い顔を眺めながら広い土間に入ると、そこから見える畳の部屋はふた部屋。そして、その突き当たりには大きな古い仏壇が、線香の白い煙の向こうで、地獄の入り口のようにゆらゆらと蝋燭の火を揺らしていた。</p><p>　天気のいいある日のことだ。兄に手を引かれ父の実家を尋ねると、仏壇の前で、着物姿の祖母が玄関の方を向いて正座をしていた。入ってきた私たちに気がつくと、おいでおいでと手招きするので、兄は私を連れて座敷に上がり、祖母の前に私を座らせた。私の父は十二人兄弟の下から二番目だったので、祖母はすでに相当高齢だったと思う。祖父は父が結婚する前に亡くなったそうだ。祖母は幼い私たちをにんまりと眺めた。そして、自分の髪の中から茶色の櫛を取り、櫛の背を何度も畳に擦り付けながら言った。</p><p>「知っとるか。こうして擦った櫛をここに当てると、目の疲れが取れるだ」そして、祖母は自分の瞼の上に、擦った櫛を押し当ててみせた。そして、今度は私の瞼にも櫛の背を当てた。なるほど、確かに少し熱く感じた。それが、私が覚えている一番古い思い出だ。</p><p>　父の実家に行くことを私の母が嫌がったので、こちらから頻繁に行くことはなかったが、お正月やお盆になると、父の兄弟が家族を連れて集まったので楽しかった。他にも祖母は柿を好んでよく食べたそうだ。それもぐしゅぐしゅに熟れて柔らかくなったものを、皮の上からかぶりついて吸うのだそうだ。ちょうど、そんな祖母の姿を捕らえた白黒の写真が残っている。私の実家の裏には細い柿の木があったが、それは祖母のために植えられたと聞いた。それも私が結婚する頃には切られてしまったが、今でも熟れて落ちそうな柿をみると、写真に写っている祖母の姿を思い出す。　　　　　　　　　　　　　　　　　</p><p>&nbsp;</p><p>写真引用：gettyimages（https://www.gettyimages.co.jp/）</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/morimori3588/entry-12960281029.html</link>
<pubDate>Fri, 20 Mar 2026 00:12:03 +0900</pubDate>
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<title>思い出の車たち【継続中】１〜９</title>
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<![CDATA[ <p>現在、<b style="font-weight:bold;">４０代、５０代、６０代、７０代</b>の<span style="color:#00afff;"><span style="font-size:1.4em;">私たちの青春</span></span>が詰まった</p><p><span style="color:#cc0000;"><span style="font-size:1.4em;">思い出の車たちを残そう！！</span></span>という企画です💗</p><p>描き上がり次第、ここにアップしていきます。</p><p>あなたの思い出の車も出てくるかも？？</p><p>&nbsp;</p><p>＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>思い出の車たち９【トミカ】車校卒業後、父からプレゼントされたミニカ♪</p><p>4/1 書き直し。エピソード追加しました。わかるわかるっていうお話ばかり(´༎ຶོρ༎ຶོ`)</p><p>イラスト/取材：BAN　 &nbsp; &nbsp;編集：みたはる &nbsp; &nbsp; &nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260401/10/morimori3588/d8/43/p/o1080153215766661689.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="1327" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260401/10/morimori3588/d8/43/p/o1080153215766661689.png" width="936"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>ピンクハウスを着て車の運転をしてた♪</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260326/23/morimori3588/9b/9e/p/o1070156415764695950.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="1367" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260326/23/morimori3588/9b/9e/p/o1070156415764695950.png" width="936"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>康生町のシンボル的だったパチンコ赤風車</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260324/10/morimori3588/80/34/p/o1072158415763810460.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="1382" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260324/10/morimori3588/80/34/p/o1072158415763810460.png" width="936"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>思い出の車【パオ】</p><p>パオの可愛い内装♡可愛い後ろ姿♡駐車場に残された靴。大丸松坂屋。</p><p>全てが懐かしい〜〜〜❣️</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260321/12/morimori3588/ca/17/p/o1160158615762743234.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="1279" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260321/12/morimori3588/ca/17/p/o1160158615762743234.png" width="936"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>思い出の車５【セルボ】</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/09/morimori3588/50/37/p/o1162158615762337249.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="1277" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260320/09/morimori3588/50/37/p/o1162158615762337249.png" width="936"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>思い出の車４【ミニクーパー】</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260319/23/morimori3588/7c/65/p/o0882123615762270182.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="1311" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260319/23/morimori3588/7c/65/p/o0882123615762270182.png" width="936"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>思い出の車３【コルサ】</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260319/23/morimori3588/15/44/p/o0862124015762269974.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="1346" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260319/23/morimori3588/15/44/p/o0862124015762269974.png" width="936"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>思い出の車２【チェイサー】</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260319/23/morimori3588/12/e1/p/o1036147015762263435.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="1320" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260319/23/morimori3588/12/e1/p/o1036147015762263435.png" width="930"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>思い出の車１【チェリー】</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260319/23/morimori3588/24/3d/p/o1038146415762263280.png"><img alt="" contenteditable="inherit" height="1319" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260319/23/morimori3588/24/3d/p/o1038146415762263280.png" width="936"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/morimori3588/entry-12960280455.html</link>
<pubDate>Fri, 20 Mar 2026 00:02:41 +0900</pubDate>
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