<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>統一教会を辞めるとどうなるのか？</title>
<link>https://ameblo.jp/motomember/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/motomember/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>元食口のブログです</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>統一教会を辞めると・・・・「ジェンダー問題に対する不寛容さと良心基準」その②</title>
<description>
<![CDATA[ <p>統一教会を辞めると・・・・</p><p>&nbsp;</p><p>ジェンダー問題を色眼鏡で見なくなりますΣ（・□・；）</p><p>&nbsp;</p><p>統一教会は、LGBTの人たち、つまりレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの人たちに対して非常に不寛容です。</p><p>一番の理由は、教祖の文鮮明氏がそういう人たちを思いっきり非難していたからです。</p><p>LGBTの人たちのことを「生産性がない」と言って大炎上した国会議員もいましたが、文氏の言い方はその比ではありません。</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに、アメリカの一部のクリスチャンもLGTBに対して非常に厳しい立場で、同じ立ち位置のトランプ大統領はそういう人たちから熱心に支持されていました。</p><p>&nbsp;</p><p>どうやら聖書の神はLGBTを許せないようですね。</p><p>それについての私なりの説明は、後日改めて記事にしたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>30年前ならいざ知らず、現代ではLGBTは生物学上は当たり前の現象だということはSNSで少し調べれば分かります。</p><p>（この点を議論することは、もう頭の悪い人たちとの議論でしかないので割愛します(^▽^)/）</p><p>&nbsp;</p><p>にもかかわらず、食口も一部のクリスチャンもLGBTを一切認めようとしない。</p><p>&nbsp;</p><p>ガリレオの時代から、科学的な事実よりも聖書から出た偽りを信じたがる狂信者はいたわけですが、それが間違いであったことは後の歴史が証明しています。</p><p>&nbsp;</p><p>LGBTは生物学的に見て人間界だけに存在する特殊な様相ではなく、他の多くの生き物に当たり前に見られる性質なのでそれを否定したり間違いだと指摘することは、結局のところ自然界そのものの否定につながります。</p><p>&nbsp;</p><p>食口は盲目的に信じて来た文教祖の言葉にも人間的な勘違いや間違った思い込みがあることを頭において、自分で事実をキチンと確認するという作業を怠らず行なう必要があります。</p><p>そして、それらを取捨選択できる自分の意志を持ち、間違ったことを信じた代償である「失った良心」をもう一度育て直さなければなりません。</p><p>（長年、身体に良くないものを食べ続けると健康を害するように、長年、自然界の事実に反することを信じ続けた代償が「良心が死んでしまう」ということです）</p><p>&nbsp;</p><p>食口の皆さん！</p><p>自分たちの死んだ良心を生き返らせるその糸口として、統一教会の間違いだらけのLGBT問題を今一度一緒に考えていきましょう！</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ" border="0" height="31" src="https://b.blogmura.com/philosophy/uc/88_31.gif" width="88"></a><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank">にほんブログ村</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/motomember/entry-12802951607.html</link>
<pubDate>Sun, 14 May 2023 22:25:25 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>統一教会を辞めると・・・・「ジェンダー問題に対する不寛容さと良心基準」その①</title>
<description>
<![CDATA[ <p>統一教会を辞めると・・・・</p><p>&nbsp;</p><p>死んでいた良心が生き返ります(^▽^)/</p><p>&nbsp;</p><p>度々、統一教会の食口は「良心が死んでいる」と述べている私ですが、</p><p>そのことは統一教会のジェンダー問題に対する不寛容さからも判断することができます。</p><p>&nbsp;</p><p>教会で教えられることだけが正しいという教育を長く受けて来た食口は、自分の頭で考える能力が著しく低下して最終的には思考停止して、現実離れした「天国のお話」や作り物の「可哀そうな神様のお話」を聞いて心地よくなる「お花畑」の状態に脳が退化してしまいます。</p><p>&nbsp;</p><p>残念ながらそういう人は、他人の気持ちに寄り添うという人として一番大事な「良心」も死んでしまいます。</p><p>&nbsp;</p><p>「良心が死んだ人」の典型的な考え方や行動パターンは、弱い人に攻撃的あるいは無関心になります。</p><p>&nbsp;</p><p>マザーテレサが言った言葉で「愛の反対語は憎しみではない、無関心だ」という名言がありますが、食口を見ていると真理を言い得ていると感じます。</p><p>&nbsp;</p><p>一体、どれくらいの人が統一原理に出会い、教会に通い、共にみ旨を歩んできたでしょう？</p><p>&nbsp;</p><p>と同時に、どれくらいの人が統一教会から去って行ったでしょう？</p><p>&nbsp;</p><p>今現在、統一教会に残っている人たちよりも教会から去って行った人の方が何100倍も多いわけですが、その人たちへの仕打ちを見れば「食口の良心が死んでいる」という私の主張も理解してもらえると思います。</p><p>&nbsp;</p><p>当の食口は気が付きません。</p><p>&nbsp;</p><p>関心すらないので(´;ω;｀)</p><p>&nbsp;</p><p>教会を途中でやめた人に対する呼び方は「〇〇さんは落ちた」と言っていました。</p><p>今思えば、見捨てた感満載の冷たい言い方です。</p><p>教会を去った人に教勢拡大以外の目的で声をかける人はいなかったと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>拉致監禁問題に最初に声を上げたのは、統一教会とは何の関係もないただのジャーナリストでした。</p><p>&nbsp;</p><p>大きくは3つに組織が分かれましたが、それ以前にも分派はいくつかあってそれらに対する仕打ちたるや嫌がらせ以上の惨い扱いでした。</p><p>&nbsp;</p><p>これらの結果、95％の2世は教会に来なくなったわけですが・・・</p><p>文鮮明氏は「2世が堕落したら救いがない！」と言ってましたけど・・・</p><p>もはや親も諦めてますよね(´;ω;｀)</p><p>&nbsp;</p><p>散々、自分たちよりも立場の弱いかつての仲間には血も涙もない仕打ちをしておきながら、少しばかり世間から叩かれたくらいで自分たちの被害者ぶりをアピールするのは良心が死んだ人にしかできない自己中心な芸当です。</p><p>&nbsp;</p><p>次回から本題の「ジェンダー問題と良心基準」について語って行きたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ" border="0" height="31" src="https://b.blogmura.com/philosophy/uc/88_31.gif" width="88"></a><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank">にほんブログ村</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/motomember/entry-12802816658.html</link>
<pubDate>Sat, 13 May 2023 22:26:42 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>統一教会を辞めると・・・・「お前はもうすでに死んでいる！（反主流こそ良心を生かす道）」</title>
<description>
<![CDATA[ <p>統一教会を辞めると・・・・</p><p>&nbsp;</p><p>「お前はもうすでに死んでいる！」 by ケンシロウ</p><p>&nbsp;</p><p>これは統一食口のことです。</p><p>&nbsp;</p><p>食口たちは原理を通じて、「神を知らない人は霊的に見れば死んでいる」と学んできて自分たちは霊的に生きているから一般人とは違うんだ、と誇らしげに思っていますが・・・</p><p>&nbsp;</p><p>私から見れば、食口は全員「良心が死んでいる」人ばかり(T . T)</p><p>&nbsp;</p><p>しかも、それすら自覚できずに平気で神だの天国だのを語る実に無知な人たちの集まり(´;ω;｀)</p><p>&nbsp;</p><p>例え話をします。</p><p>&nbsp;</p><p>ある幼稚園の先生がいます。</p><p>運動会で５、６人の園児がかけっこをしました。</p><p>その内の一人が体力がなくてかけっこの途中で転んでしまいました。</p><p>そして、元気な子が一等のゴールテープを切って走り抜けました。</p><p>&nbsp;</p><p>もしあなたが担任の先生ならその時どうしますか？</p><p>&nbsp;</p><p>①１位の子をほめる</p><p>②転げた子を助ける</p><p>③何もしない</p><p>&nbsp;</p><p>これ以外の行動を思いつく方もいると思いますが、要は自分の心がどの子に向くのか？という問題です。</p><p>&nbsp;</p><p>何が言いたいか分かりますか？</p><p>&nbsp;</p><p>もちろん、統一教会の食口を例えた問題です。</p><p>&nbsp;</p><p>大抵の人は②と答えるでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>でも、食口の皆さんは①です。</p><p>&nbsp;</p><p>１位の子を褒めはしますが、転げた子を助けたりはしません。</p><p>&nbsp;</p><p>というか転げた子には関心すらありませんし、目にしたくもありません。</p><p>&nbsp;</p><p>もう、何が言いたいか分かりますよね？</p><p>&nbsp;</p><p>だから私は食口の良心は死んでいると言うんです。</p><p>&nbsp;</p><p>かけっこで転げた子に目もくれない幼稚園の先生はまともじゃないと思いますよね？</p><p>&nbsp;</p><p>でも、あなたたち食口はそれと同じように、そんな人たちには目もくれないどころか嫌味や罵声のような言葉まで平気で浴びせるじゃないですか？</p><p>&nbsp;</p><p>それを黙って見ている人も声すらかけようとしない人も、結局見て見ぬふりをする人もみんな良心が死んでいるからそれで平気なんです。</p><p>&nbsp;</p><p>声をあげれない自分を死ぬほど恥じるべきと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>良心が死んでいる人は恥じることすらできないか(´;ω;｀)</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ" border="0" height="31" src="https://b.blogmura.com/philosophy/uc/88_31.gif" width="88"></a><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank">にほんブログ村</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/motomember/entry-12801954922.html</link>
<pubDate>Sun, 07 May 2023 20:06:23 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>統一教会を辞めると・・・・「私たちの声を聞いてください」って超迷言(^▽^)/</title>
<description>
<![CDATA[ <p>統一教会を辞めると・・・・</p><p>&nbsp;</p><p>信じられない言葉が目に飛び込んできたのでついつい記事に・・・</p><p>&nbsp;</p><p>「私たちの声を聞いてください」　by 田中会長</p><p>&nbsp;</p><p>私はついつい・・・</p><p>&nbsp;</p><p>「さゆりさんの声は誰にも届かせないように妨害FAXまで送っておきながら、どうしてこんなことが言えるのだろう？」</p><p>&nbsp;</p><p>と突っ込んでしまいました（T . T）</p><p>&nbsp;</p><p>統一教会の人が幸せになれない理由の一つがコレです！</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#ff0000;"><b style="font-weight:bold;"><mark style="background-color:#ffffff;color:inherit;">他人の痛みを理解する人として当たり前の良心が絶望的に死んでしまっている・・・</mark></b></span></p><p>&nbsp;</p><p>このことに気が付きもしない（T . T）</p><p>&nbsp;</p><p>これを記事にしてしまった人ももはや自分がそうであることすら気が付かないほど他の人の気持ちを考える力がない。</p><p>常に自分たちのことで精一杯。</p><p>自分たちのことが先で他は後回し。</p><p>&nbsp;</p><p>言うまでもなく、そういう人は幸せになれないですよ。</p><p>&nbsp;</p><p>統一教会には「為に生きる」という良い教えがあると思っているかもしれませんが、食口の中では知らず知らずのうちに「（統一教会という組織の）為に生きる」と湾曲して解釈されているから無意味なんです。</p><p>&nbsp;</p><p>今まで散々「背後にサタンがいるから〇〇には相対しないように」と教育し続けた結果、親の言う事も先生の言う事も友人の言う事も周りの言う事も「馬の耳に念仏」で、ひたすら「アベルの言う事だけに相対」するカインが出来上がったわけですが・・・</p><p>&nbsp;</p><p>私から見ればその人たちは「良心が死んだ」人なわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>「サタン圏に相対しない人」を演じ続けた結果、何の良心の呵責もなくサタン世界の人々の気持ちをガン無視できる「氷の心」が食口の中に出来上がってしまったのです。</p><p>それが今の田中会長やこの記事を取り上げた「いつも私のとなりに神さま」のブログ主さんであり、現役食口の皆さんなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>組織に反対する人は個人であっても、背後は「サタンだ！」「左翼だ！」「〇〇だ！」とレッテル貼り！</p><p>組織に反対する人を批判しようが、攻撃しようが全く悪気がない、一切心は痛まない。</p><p>自分たちが人を人として見ていないから、自分たちも人以下の罵声を浴びせられているだけです。</p><p>ただのブーメラン（T . T）</p><p>&nbsp;</p><p>人に話を聞いて欲しければ、少なくとも元食口の会見くらいは素直に聞くべきでしたね。</p><p>批判するために聞くんじゃダメですよ。</p><p>気持ちを理解するために聞くんです。</p><p>当たり前のことなのになぜそんな簡単なこともできないのか？</p><p>&nbsp;</p><p>できないでしょうね。</p><p>統一教会にいる限りは・・・</p><p>&nbsp;</p><p>良心が死んでますから。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ" border="0" height="31" src="https://b.blogmura.com/philosophy/uc/88_31.gif" width="88"></a><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank">にほんブログ村</a></p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/motomember/entry-12801374542.html</link>
<pubDate>Wed, 03 May 2023 20:39:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>統一教会を辞めると・・・・「悲しみの神」は統一教会の勘違い、だと気が付きます(^▽^)/</title>
<description>
<![CDATA[ <p>今回で小説「沈黙」シリーズは最終章になります。</p><p>&nbsp;</p><p>食口の頭の中にある神の性質と言えば・・・</p><p>&nbsp;</p><p>堕落以降、「悲しみの神」「涙の神」となって乞食のようなボロボロな姿で人類を復帰しようと・・・</p><p>&nbsp;</p><p>なんていう「悲しみの神」説があります。</p><p>&nbsp;</p><p>ただし、これはあくまでも一つの「説」に過ぎません。</p><p>しかも、統一教会だけの。</p><p>&nbsp;</p><p>旧約聖書を信じるユダヤ教徒たちは神を「怖れ多い神」や「怒れる神」と考えていますし、新約聖書を作ったキリスト教では神は「栄光の神」です。</p><p>&nbsp;</p><p>なのでキリスト教から見ると、統一教会の言う「悲しみの神」というのは、人間とは別格の存在である神を人間的な感傷に浸る低俗な存在に貶めるけしからん説とみなされます。</p><p>&nbsp;</p><p>神様について私からの結論を言いますと・・・</p><p>&nbsp;</p><p>「悲しみの神」という説は、統一教会の壮大な思い込みです（T .&nbsp;T）</p><p>&nbsp;</p><p>小説「沈黙」では、クリスチャンである村人が捕らえられ拷問にかけられて殺されていきます。</p><p>また、その人たちを人質のようにして宣教師に棄教を迫ります。</p><p>&nbsp;</p><p>神のために苦しんでいる信徒がいるのになぜ神は何もしないのか？</p><p>なぜ神は「沈黙の神」のままなのか？</p><p>&nbsp;</p><p>実は、この発想自体が一神教の傲慢さそのものなのです！Σ（・□・）</p><p>&nbsp;</p><p>その傲慢さが自然過ぎてもはや傲慢と一体となっているために気が付かないだけで、一神教信者はある意味「傲慢のかたまり」です。</p><p>&nbsp;</p><p>なぜ神様が人間の苦しみや悲しみにだけ寄り添うと思っているのですか？</p><p>&nbsp;</p><p>あなたは昨日何を食べましたか？</p><p>&nbsp;</p><p>「マックでセットを」</p><p>「ケンタッキーフライドチキンを」</p><p>&nbsp;</p><p>私たちは肉や魚を平気で食べていますが、それって命そのものではないですか？</p><p>&nbsp;</p><p>もはやそんな風にさえ考えもしないくらい、人間以外の命のことを軽んじているのが私たちです。</p><p>&nbsp;</p><p>もちろん、他の生き物を何も殺さずに人間が生きていくことは出来ません。</p><p>時には、蚊や害虫は躊躇なく始末しますし。</p><p>&nbsp;</p><p>ライオンが、シカの子どもを捕まえて食べるのを見ると心を痛める人もいますが、それを神が見て悲しんでいると思う人は普通はいません。</p><p>&nbsp;</p><p>自然界では命の循環は当たり前のことです。</p><p>&nbsp;</p><p>人間社会は多少複雑ですが、宇宙の大きさや時間の中で見れば、生き物の生死というものは命の循環の一つ一つの過程に過ぎないわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>人間の命を軽んじるわけではありませんが、牛やニワトリの命を何の良心の呵責もないまま毎日旨い旨いと言って食べている人間が、自分たちの命が宗教を理由に理不尽に奪われたからと言って神様にクレームを言いたくなるというのは都合が良すぎないか？と言っているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>復帰原理の誤りも指摘しておきます。</p><p>&nbsp;</p><p>復帰原理の本質として、目に見えない神があたかも歴史の各時代で中心人物なる存在に働きかけて復帰を進めて来たという内容がありますが、私は「神様は被造世界には一切何の干渉もしない」と考えています。</p><p>&nbsp;</p><p>そもそも「堕落」自体さえ存在しないと前々から述べていますが、出来の悪い親であればあるほど子どもの成長過程で干渉をしてしまいます。</p><p>私が考える良い親とは、「愛を持って子どもの成長を見守る親」です。</p><p>その根底には、親としての子どもに対する信頼と失敗を受け止める寛容さと忍耐力があります。</p><p>&nbsp;</p><p>神様は、私たちのような出来損ないの親ではないはずですので、人間がどれだけ失敗しようとも許し受け入れ、いつかは成長してくれると信じて見守ってくれているはずです。</p><p>&nbsp;</p><p>そうでない神はたとえ聖書に神と書いてあっても偽物なのです。</p><p>原理講論で神の摂理でなんたらかんたらと書いてあるから神だ、などと偽物を信じているから皆さんの良心はいつまで経っても死んだままなのです。</p><p>&nbsp;</p><p>宗教は常に何かしらの存在から干渉を受けて始まったり、成り立ったりしてきました。</p><p>&nbsp;</p><p>一見、それらは善の存在や本物の神のように見えたかもしれませんが、聖書にある通りその実を見れば木が分かります。</p><p>&nbsp;</p><p>前回も述べましたが、神がキリスト教を立てて復帰摂理を進めて来たのではなく、キリスト教は植民地政策や奴隷貿易を広げることに加担し、自分たちの神を信じない異教徒を迫害し時には殺害してきました。</p><p>&nbsp;</p><p>もちろん善なるキリスト教徒が多くいることは事実ですが、キリスト教の負の部分が事実としてある以上、キリスト教の神は偽物の神と言わざるを得ませんし、神はキリスト教を立てて摂理などしてきていません。（実際は、本物と偽物の区別が出来ず混在しているので、ある時は善に、またある時は悪に従って行動をしてしまう）</p><p>&nbsp;</p><p>皆さんは統一教会を信じているわけですが、それで家族が幸せになれるのであれば多少のゴタゴタはどうこう言いません。</p><p>&nbsp;</p><p>ですが、私は統一教会を信じて幸せになっている家庭を見たことがありません。</p><p>&nbsp;</p><p>ずっと昔になりますが、享進氏が教会に新しい風を吹かせようとした時に享進氏夫妻の修練会を受けて涙ながらに感動の証をしていた教会の役員とその家族がいました。</p><p>&nbsp;</p><p>その後、享進氏は統一教会から異端扱いを受けました。</p><p>&nbsp;</p><p>その役員は手のひらを返して享進氏を攻撃するようになりました。</p><p>このブログ村でよく見る光景です。</p><p>&nbsp;</p><p>この人たちの精神状態が本当に心配になります。</p><p>&nbsp;</p><p>以上で、小説「沈黙」のシリーズは終了です。</p><p>&nbsp;</p><p>次回のテーマは、「統一教会に幸せはない」（分派も同じ）です( ；∀；)</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ" border="0" height="31" src="https://b.blogmura.com/philosophy/uc/88_31.gif" width="88"></a><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank">にほんブログ村</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/motomember/entry-12800836322.html</link>
<pubDate>Sun, 30 Apr 2023 19:45:44 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>統一教会を辞めると・・・・『小説「沈黙」を通して一神教の傲慢さが分かります(^▽^)』</title>
<description>
<![CDATA[ <p>小説「沈黙」シリーズ第７弾になります。</p><p>ここだけ読んでも話がつながらないので、最初から目を通していただけると多少理解が進むかと。</p><p>&nbsp;</p><p>さて、</p><p>なぜ神は「沈黙の神」なのか？</p><p>&nbsp;</p><p>私からの答えは「愛の神」だから。</p><p>&nbsp;</p><p>と同時に「人間には神の愛は計りかねる」とも。</p><p>&nbsp;</p><p>皆さんは、自分が住んでいる「地球」のことをどれくらい知っているか、考えたことはありますか？</p><p>&nbsp;</p><p>今はネットがあり、世界中のニュースも一瞬で見聞きできるから大抵のことは分かると思う人もいるかもしれませんが・・・</p><p>&nbsp;</p><p>人類は、海について５％ほどしか把握できていません。</p><p>また、科学者たちの推測では、地球上の生物種の86％、海生の種の91％がまだ発見されていないそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>ましてや、宇宙に関しては１％も知っているかどうか・・・</p><p>&nbsp;</p><p>さらに、マルチバースや多次元宇宙という推測もある中で・・・</p><p>&nbsp;</p><p>誰かこれら未だ知られていない世界について詳しく説明できる人はいますか？</p><p>&nbsp;</p><p>何が言いたいかお判りでしょうか？</p><p>もう気が付きましたよね？</p><p>&nbsp;</p><p>とてもスケールが大きすぎて想像すらできない世界のことばかりですよね。</p><p>&nbsp;</p><p>では・・・</p><p>&nbsp;</p><p>宇宙と神様とではどちらがスケールが大きいですか？</p><p>&nbsp;</p><p>いやいや、宇宙と神様は別の話で宇宙のことは分からなくとも神様のことはそれなりに分かります、</p><p>などと思っている人は・・・</p><p>&nbsp;</p><p>今日のタイトル通りの人です(^▽^)/</p><p>&nbsp;</p><p>小学生で習う「足し算引き算」はまだ出来ないけど、大学で習う「量子物理学」は分かると思う、くらいの勘違いをしている人です。</p><p>それって幼稚園児並みの頭脳の持ち主なんです（T . T）</p><p>&nbsp;</p><p>確かに、お釈迦様やイエス様は真理や本物の神様に触れた人でしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、それを伝えられた人や信じた人が同じような理解や出会いをできるかどうかは別で、むしろ大抵は悪い方向に広がってしまいます。</p><p>&nbsp;</p><p>食口も知っての通り、キリスト教ではイエスが神そのものになり、キリスト教の指導者が神の代弁者として権力を持つと植民地政策や奴隷貿易の片棒をかつぎ、他の宗教を迫害して十字軍戦争や魔女狩りなどで神の名のもとに人を殺して来た歴史があります。</p><p>&nbsp;</p><p>統一教会でもその悪習は受け継がれ、真の父母が神の代弁者となり、嘘や不幸になるなどの脅しを使い伝道や献金を強要し、経済的にあるいは精神的に人々を破綻へと追い込んできた歴史があります。</p><p>その結果が、２世の95％は教会に来なくなるということです。</p><p>&nbsp;</p><p>私も元食口なので・・・</p><p>&nbsp;</p><p>「人間の堕落以降、神様が悲しんでおられることを知ったから家庭を犠牲にしてきたんです！」</p><p>と言い訳をしたい気持ちはよ～く分かります。</p><p>&nbsp;</p><p>「でも、それってあなたの感想ですよね！」（ヒロユキ風(&nbsp;ﾟДﾟ)</p><p>&nbsp;</p><p>実は、神様は悲しんでいない、と言ったらどうしますか？</p><p>&nbsp;</p><p>今日はここまでにします。</p><p>続きが気になる方はフォローを(^▽^)/</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ" border="0" height="31" src="https://b.blogmura.com/philosophy/uc/88_31.gif" width="88"></a><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank">にほんブログ村</a></p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/motomember/entry-12800796200.html</link>
<pubDate>Sat, 29 Apr 2023 22:15:03 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>統一教会を辞めると・・・・「統一原理の神も所詮人間が作り出した神」だと分かります(T . T)</title>
<description>
<![CDATA[ <p>前回の記事を読んでいない方はおさらいしてくださいね(^▽^)/</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://ameblo.jp/motomember/entry-12798717324.html">統一教会を辞めると・・・・『なぜ神は「沈黙の神」なのか』が分かります！ | 統一教会を辞めるとどうなるのか？ (ameblo.jp)</a></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://ameblo.jp/motomember/entry-12799226907.html">統一教会を辞めると・・・・「沈黙の神」の正体が分かります（・□・；） | 統一教会を辞めるとどうなるのか？ (ameblo.jp)</a></p><p>&nbsp;</p><p>小説「沈黙」は作品を通してキリスト教に一つの大きな問題提起をしています。</p><p>&nbsp;</p><p>それは、タイトルにある通り「沈黙」の神であるのは何故か？ということですが、もっとわかりやすい言葉に言い換えると</p><p>「なぜ神は苦しむ人間を助けないのか？」ということです。</p><p>&nbsp;</p><p>人生にはいろんな苦しみがあり、人の数だけ苦しみはありますが、「沈黙」が問いかけている「苦しみ」は信仰者ゆえの苦しみです。</p><p>&nbsp;</p><p>キリスト教を信じるようになったがために、人々は捉えられ拷問を受け、時には関係のない家族まで同罪にされ、家畜のように扱われ殺されていきます。</p><p>&nbsp;</p><p>その人たちは、罪を犯したわけではなく、悪人でも、性格が悪いわけでもなく、ついこの間までは他の人たちと何も変わらない同じ村人仲間でした。</p><p>宣教師が村にやって来てキリスト教を信じるまでは・・・</p><p>&nbsp;</p><p>だから、当然言いたくなるわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>拷問を受けて苦しんでいる人たちは・・・</p><p>神様、あなたのせいで苦しんでいるんですよ！</p><p>全知全能の神ならばどうして助けられないのですか？</p><p>&nbsp;</p><p>それに対して小説では、遠藤周作が考えた「神の答え」が書いてあります。</p><p>それに対してその内容はおかしいと非難するクリスチャンもいるようですが、クリスチャンとしては良い回答だと私は思います。</p><p>&nbsp;</p><p>小説ではイエスの幻が現れてこう言います。</p><p>「人々が苦しんでいる時、私も共に苦しんでいたのだ。」</p><p>&nbsp;</p><p>多分、間違いではないです。</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに、私ならこう答えます。</p><p>&nbsp;</p><p>神が沈黙するのは「愛の神」だから。</p><p>&nbsp;</p><p>前回、前々回の記事で紹介しましたが、神の愛は全ての人に平等に注がれています。</p><p>&nbsp;</p><p>キリスト教を信じているから愛される、とか</p><p>為に生きているから神様に愛される、とか</p><p>原罪が無くなったから神に愛される、とか・・・</p><p>&nbsp;</p><p>全く神の愛とは無関係です。</p><p>&nbsp;</p><p>人を殺して死刑になった悪人と殉教した聖人ではどちらが神様により愛されているか？</p><p>&nbsp;</p><p>答えは、どちらも同じ愛で愛されている、です。</p><p>&nbsp;</p><p>理由は、神の愛は「無条件の愛」だから。</p><p>&nbsp;</p><p>みんな習いましたよね？「無条件の愛」</p><p>&nbsp;</p><p>「何々している」から愛されるって無条件ではないんです。</p><p>&nbsp;</p><p>もう一度言いますが、神様を信じている、良いことをしている、原罪もない、蕩減条件を立てた・・・</p><p>&nbsp;</p><p>自分にとっては良いことかもしれませんが、神の愛とは無関係です。</p><p>&nbsp;</p><p>この発想を少し広げると気が付くと思いますが・・・</p><p>&nbsp;</p><p>良いことをしたから死んでも良い霊界に行く。</p><p>祝福を受けたから天国に行く。</p><p>真の父母を信じているから天国に行く。</p><p>&nbsp;</p><p>神様は何もしてくれませんよ。</p><p>「愛の神」であると同時に「沈黙の神」でもあるので。</p><p>&nbsp;</p><p>神様は、良い人のためには天国を作って、悪い人には反省するまで地獄にいてもらおう、とかないですから。</p><p>聖書に書かれている通り、善人にも悪人にも全く同じように日を昇らせ雨を降らせる方ですから、霊界でも同じなのは当たり前ですよね。</p><p>&nbsp;</p><p>次回につづく・・・</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp; <a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ" border="0" height="31" src="https://b.blogmura.com/philosophy/uc/88_31.gif" width="88"></a><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank">にほんブログ村</a></p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/motomember/entry-12799913064.html</link>
<pubDate>Sun, 23 Apr 2023 17:27:44 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>統一教会を辞めると・・・・「沈黙の神」の正体が分かります（・□・；）</title>
<description>
<![CDATA[ <p>前回の記事で、小説「沈黙」で描かれているような悲惨なキリスト教徒の拷問や棄教の場面でさえも、神が苦しむ人々の声に応えずひたすら「沈黙」を守るのは何故なのか？という問いに対しての私の答えは・・・</p><p>&nbsp;</p><p>神が「愛の神」だから。</p><p>&nbsp;</p><p>というものでした。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、同時に人間には神様の愛は推し量れない、とも述べました。</p><p>&nbsp;</p><p>今回はそういった「神の愛」についてもう少し詳しく説明しようと思っていたのですが、とても良い記事を見つけましたのでそちらを少し紹介してみたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>リブログ機能なかったのでコピペします（T . T)</p><p>&nbsp;</p><p>『まるくまーる（旧・教育部長の講義日記）』</p><p><a href="http://kitasendo.blog12.fc2.com/blog-entry-3245.html">神は「善の神」か - 読書三昧 (fc2.com)</a></p><p>&nbsp;</p><p>【ニール】</p><p>でも、わたしは善と悪が存在すると教えられて育ちました。善と悪は対立すると教えられてきました。</p><p>神の目には、あるものはまずい、いけない、受け入れられないと教えられてきました。<br><br>【神】</p><p>神は何でも「受け入れる」。</p><p>存在するものを神が受け入れないはずはない。</p><p>拒否するというのは、その存在を否定することだ。<br>（『<a href="https://blog.fc2.com/tag/%E7%A5%9E%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%AF%BE%E8%A9%B1">神との対話</a>』ニール・ドナルド・ウォルシュ）</p><p>&nbsp;</p><p>ニールが最初に「でも」と言つて、神に反論しようとしたのには、理由があります。</p><p>その前に、神は耳を疑うやうなことを言つたのです。<br><br><strong>「わたしは『善』を愛しているのと同じように、『悪』を愛している。</strong></p><p><strong>このことが理解できれば、あなたがたは神を理解できるだろう」</strong></p><p>&nbsp;</p><p>ニールといふ人の人生は、外面的にはあまり順調なものとは言へなかつたにせよ、内面は生真面目なクリスチャンです。</p><p>しかしその彼が、こゝで神から聞いた言葉そのまゝを自分の教会に行って牧師に話せば、即座に「要警戒人物」の烙印を捺されるのは間違ひないでせう。<br><br>ニールに「<strong>神は絶対善であるが、この世には善と悪がある</strong>」と教へてきたのは、まさに教会なのです。</p><p>そして（多分）彼の両親も世の中の常識も、それに同調してゐる。だから疑ふ余地はないのです。<br><br>ところが神は、このあとも、<br>「あなたの価値観を一つづつ見直してみなさい」<br>と、忍耐強く勧めてゐます。<br><br>さて、この神の勧めをまともに考慮してみるべきでせうか。<br><br>10年前の私なら、多分、この勧めには耳を貸さなかつたと思ふ。</p><p>しかし今は、一顧の価値はあるといふ気がします。<br><br>そこで、一顧してみませう。<br><br>神は善だけでなく、悪も愛する。だから、善でも悪でも何でも受け入れるのだと言ふ。<br><br>しかし、<br>「悪も愛する」<br>といふのは、いかにもおかしい。<br><br>そんなことがあり得るでせうか。我々人間だつて、善は願ふが悪は嫌ふでせう。人間の良心がさうなつてゐる。</p><p>そして、その良心の生みの親は神ではないのか。<br><br>しかし、私が思ふに、神は我々に分かりやすいやうに、我々の言葉を使ひ、我々の表現で話してゐる。神が本当に言ひたいのは、かういふことではないでせうか。<br><br><strong>「息子よ。私の中には、『善』といふものも『悪』といふものもないのだよ。すべては、私の一部だ」</strong><br><br>ところが、我々の側には「善」「悪」といふ概念が、しつかりある。</p><p>そして何かにつけて、善は摂り入れ、悪は排除せねばならないと、強く思つてゐる。<br><br>だから神は仕方なく、我々にも分かるやうに、「善」「悪」といふ言葉を使ふ。</p><p>そして「悪も愛する」と言はざるを得ない。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、人間が抱いてゐる「善悪の概念」は、神から見ると、かなり困つたものだ。</p><p>善と悪を鋭く峻別すればするほど、対立は深まり、それは際限なく続くしかないからです。<br><br>神を困らせる者の中でも最も厄介なのが、神を信ずる人たちかもしれない。</p><p>さういふ人こそ、善悪の概念が一層強いために、神を信じてゐるはずなのに、無神論者を受け入れることができない。</p><p>神の旗を掲げながら、却つて対立を深めることになるのです。<br><br>皮肉と言へば、これほどの皮肉があるでせうか。<br><br>神がもし本当に「すべてを受け入れる」かたであるとすれば、神を信ずる者こそ、まづ率先してその神に倣ふのが道理でせう。</p><p>しかし、神を「善の神」だと信じてゐる限り、これは非常に難しいことだと思ふ。</p><p>&nbsp;</p><p>以上、コピペ終わり。</p><p>&nbsp;</p><p>（勝手に記事を拝借しているのでクレームが来ないことを祈るのみ('◇')ゞ</p><p>しかもこれからちょっと偉そうに解説なんかしたりして・・・）</p><p>&nbsp;</p><p>さて、この方の記事を読んでの感想ですが・・・</p><p>統一教会という思考停止集団の中にいてこのような記事が書ける人がいるとは驚きです(;^_^A</p><p>&nbsp;</p><p>この記事の中から2つの点を、これから私が説明したい「本物の神様」についての前置きとして使わせていただきます（勝手に(;^ω^)</p><p>&nbsp;</p><p>①<strong>「息子よ。私の中には、『善』といふものも『悪』といふものもないのだよ。すべては、私の一部だ」</strong></p><p>②人間が抱いてゐる「善悪の概念」は、神から見ると、かなり困つたものだ。善と悪を鋭く峻別すればするほど、対立は深まり、それは際限なく続くしかないからです。神を困らせる者の中でも最も厄介なのが、神を信ずる人たちかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>この２点は完ぺきな指摘です。もう次の気付きに行ってもいい頃合いです。</p><p>&nbsp;</p><p>では、「善」とか「悪」とかいうことを教えたのは誰ですか？</p><p>&nbsp;</p><p>聖書を読めば分かります。</p><p>&nbsp;</p><p>ちなみに②で指摘されている通り、善と悪を峻別して対立するよう教えてきたのは神を信じる人たちですよね。</p><p>&nbsp;</p><p><strong>「息子よ。私の中には、『善』といふものも『悪』といふものもないのだよ。すべては、私の一部だ」</strong></p><p>&nbsp;</p><p>これなんか名言ですよ！ほんと！</p><p>&nbsp;</p><p>ここで矛盾に気付いて欲しいです！</p><p>&nbsp;</p><p>世界がひっくり返るようなアハ体験をしたら正解です。</p><p>&nbsp;</p><p>つづく・・・</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ" border="0" height="31" src="https://b.blogmura.com/philosophy/uc/88_31.gif" width="88"></a><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank">にほんブログ村</a></p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/motomember/entry-12799226907.html</link>
<pubDate>Tue, 18 Apr 2023 23:14:02 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>統一教会を辞めると・・・・『なぜ神は「沈黙の神」なのか』が分かります！</title>
<description>
<![CDATA[ <p>ここ最近で遠藤周作の小説「沈黙」を取り上げてブログを書いてきました。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://ameblo.jp/motomember/entry-12797428484.html">統一教会を辞めると・・・・『小説「沈黙」にみる日本人の奇妙な信仰観』その① | 統一教会を辞めるとどうなるのか？ (ameblo.jp)</a></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://ameblo.jp/motomember/entry-12797573401.html">統一教会を辞めると・・・・『小説「沈黙」にみる日本人の奇妙な信仰観』その② | 統一教会を辞めるとどうなるのか？ (ameblo.jp)</a></p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://ameblo.jp/motomember/entry-12798091127.html">統一教会を辞めると・・・・『小説「沈黙」にみる日本人の奇妙な信仰観』その③ | 統一教会を辞めるとどうなるのか？ (ameblo.jp)</a></p><p>&nbsp;</p><p>中には批判的なクリスチャンもいますが、この「沈黙」が傑作とされる所以は・・・</p><p>実際のキリスト教徒が辿ってきた迫害の場面を非常にリアルに描くと同時に、全知全能のはずの神がキリスト教徒の数多の迫害や拷問に「なぜ沈黙し続けるのか？」という難問を小説を通して読者にも投げかけているからです。</p><p>&nbsp;</p><p>裏を返せば、遠藤周作自身もクリスチャンたちもこの神の「沈黙」の理由をはかりかねているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>（「沈黙」より抜粋）</p><p>「キリシタンへの拷問として、火あぶりにされる様子、簀巻きにされて船から海に落とされる様子が描かれている。</p><p>また、すぐに死なないように首から血が少しずつ流すための傷をつけられた状態で、袋を頭に被せられて逆さ吊りにされる、「穴吊り」と呼ばれる拷問も描かれる。</p><p>ロドリゴは、自分が棄教しなければ、穴吊りによって5人のキリシタンが苦しみながら死ぬことに苦悩する。</p><p>またフェレイラは、自らも穴吊りを経験したことを語る。」</p><p>&nbsp;</p><p>もちろんこれより悲惨な拷問もキリスト教の歴史では珍しくありません。</p><p>&nbsp;</p><p>小説の中では、神についても良く分かっていない哀れな日本人クリスチャンが拷問を受け次々に死んでいきます。</p><p>&nbsp;</p><p>その様子は、天の栄光に包まれた荘厳なものではなく、拍子抜けするほどあっけなくまさに犬死や無駄死としか思えないものでした。</p><p>&nbsp;</p><p>神はどこにも現れず、何も行ないません。</p><p>&nbsp;</p><p>「沈黙」するのみ。</p><p>&nbsp;</p><p>言葉には出さないまでも、神を信じる人なら誰もが</p><p>&nbsp;</p><p>「神様、なぜ助けて下さらないのですか？全知全能ではないのですか？」と心の中では思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>「神は人間の責任分担には干渉しないなんたらかんたら・・・」</p><p>&nbsp;</p><p>「ぼーっと生きてんじゃねーよ！」（チコちゃん風）</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>神はなぜ「沈黙の神」なのか？</p><p>&nbsp;</p><p>ズバリ、答えは・・・</p><p>&nbsp;</p><p>神は「愛の神」だから！</p><p>&nbsp;</p><p>「え？それだけ？」</p><p>&nbsp;</p><p>意味が分からない方のためにヒントを出します。</p><p>&nbsp;</p><p>「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。<br>&nbsp;こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである」</p><p>（マタイ5：44～45）</p><p>&nbsp;</p><p>『天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。<br>彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。<br>それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。<br>そして、その人たちに言った、「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから。」<br>そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。<br>五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、「なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか。」<br>彼らが「だれもわたしたちを雇ってくれませんから」と答えたので、その人々に言った、「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。」<br>さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、「労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい。」<br>そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。<br>ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。<br>もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、「この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました。」</p><p>そこで彼はそのひとりに答えて言った、「友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。<br>&nbsp;自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。<br>&nbsp;自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。</p><p>それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか。」<br>このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう』</p><p>（マタイ20：1～16）</p><p>&nbsp;</p><p>この二つの聖句から神様の愛の大きさを考えて、なぜ神は「沈黙の神」なのかを考えてみてください。</p><p>&nbsp;</p><p>大前提として・・・</p><p>&nbsp;</p><p>人間には神様の愛は推し量ることは出来ない！と私は思うんです。</p><p>&nbsp;</p><p>私の考えは次回の記事で！</p><p>&nbsp;</p><p>いろんな考えがあった方が面白いので遠慮なくコメントに書いてくださいネ！</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ" border="0" height="31" src="https://b.blogmura.com/philosophy/uc/88_31.gif" width="88"></a><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank">にほんブログ村</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/motomember/entry-12798717324.html</link>
<pubDate>Sat, 15 Apr 2023 20:49:36 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>統一教会を辞めると・・・・『小説「沈黙」にみる日本人の奇妙な信仰観』その③</title>
<description>
<![CDATA[ <p>統一教会を辞めると・・・・</p><p>&nbsp;</p><p>小説「沈黙」に出てくるキリスト教の宣教師が日本に宣教に来て心が折れて棄教した理由が分かります。</p><p>&nbsp;</p><p>重要なので、心が折れた部分の会話を再度抜粋しておきます。</p><p>&nbsp;</p><p name="clP9d">『フェレイラは言います。<b>「20年日本で布教したが、敗北した。この国にはキリスト教は根を下ろさない」</b>と。</p><p name="clP9d">ロドリゴは「あなたの働きは輝かしいものだったはず。根は確かに下ろされた。その根は切り落とされたんだ」と。</p><p name="F9DPD">するとフェレイラは言うのです。</p><p name="WcVyX"><b>「この国は沼地だ。どんな苗も沼地では根が腐る。この沼地にキリスト教という苗を植えてしまったのだ。」</b></p><p name="99HZ3">ロドリゴはこれに対し「かつては日本でも苗は伸び、葉を広げたはず。フランシスコ・ザビエルの時代がまさにそうだったではないか」と反発します。</p><p name="88GQx">しかしフェレイラは言います。</p><p name="88GQx"><b>「その信仰はキリスト教の教えとは違ったのだ」</b></p><p name="3t0X3"><b>「日本人はデウス（神）を仏教の「大日」と混同していた。我々が信じる神を自分たち流に屈折させ、変化させ、別のものにしたんだ」</b></p><p name="ogRX7"><b>「彼らの信じていた神は蜘蛛の巣にかかった蝶のようなものだ。外見だけは蝶だが、実際は実態を失った死骸なのだ」</b></p><p name="DLxMi">それでもロドリゴは「私はこの目で殉教者を見たんだ！」と訴えます。</p><p name="DxUHZ">それに対しフェレイラは<b>「日本人は神の概念を持たない。人間を超えた存在を考える力も持っていない。人間を美化し、拡張したものを神と呼ぶのだ。私が20年間で掴んだものはそれだけだ。この国にはどうしてもキリスト教を受け付けないなにかがあったのだ」』</b></p><p name="DxUHZ">&nbsp;</p><p name="DxUHZ">以下は、別の考察からです。</p><p>『このシーンに至るまでの間にも、”沼地”を思わせる描写はあった。</p><p>赤子に洗礼を授けてもらった夫婦は、「これで私たちはパライソにいるのですよね」と発言し、苛立ったガルぺに否定される。</p><p>また、キチジローに裏切られ捕らえられたロドリゴが遭遇した信者の女は、「殉教して行くパライソは素晴らしいところなのですよね？」とロドリゴに尋ねる。ロドリゴはしばし絶句するものの、結局はその発言を肯定する。</p><p>&nbsp;</p><p>これは、日本の信者たちにとってのパライソ（天国）が、仏教的な輪廻転生の感覚に基づいていることを示している。</p><p>「信じる者に対して、天の国は開かれている」というキリスト教の考え方が、これらの日本人たちのセリフの中では<strong>浄土真宗的な意味合い</strong>を帯びている。</p><p>悲観的な状況において、死後の世界に救いを求めるのは仕方がないとはいえ、やはりキリスト教の感覚で聞くと違和感があるのは否めない。</p><p>なぜならば、キリスト教でいう「天国」＝「神の国」とは、死んでから行く場所という意味合い以上に、<strong>もっと観念的なもの</strong>だからだ。</p><p>&nbsp;</p><p>ルカ福音書の中に、「<b>神の国</b>は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。 実に、<b>神の国</b>はあなたがたの間にあるのだ。」（１７章２０節~２１節）という記述がある。</p><p>神の国とは、常に求め続け、願い続けているべきものであり、つまりは信仰によってもたらされる心の平安と喜びに他ならない。</p><p>そこで意識されるのは、あくまでも”私”と”神”との1対1の関係。</p><p>どのような責め苦に遭おうとも、信仰を持ち続けることで常に神の国は開かれ、喜びのうちに生きていくことができる……というイメージだ。</p><p>よって、殉教者たちの胸の内としては、「こうして死ねば神の国に行くことができる」の前に、「どのような境遇にあっても、主を信じ、主の愛を感じ、神に仕える」であるはずなのだ。<br>結果は不問。すべては神の御心なのだから、という境地。</p><p><strong>この、「絶対的指針としての”神”という概念が日本人の彼らには理解できない」というのが、フェレイラの主張なのだろう。</strong></p><p>これは、キリスト教が常に直面してきた「インカルチュレーション（文化的受容）」の問いに他ならない。』</p><p>&nbsp;</p><p>「インカルチュレーション」</p><p>聞きなれない言葉ですが平たく言えば、他の国にキリスト教を宣教した時にその国独自の文化から影響を受けることを指します。</p><p>&nbsp;</p><p>小説「沈黙」では、宣教師たちが伝えたキリスト教は、日本では仏教やアミニズムの影響を受け本来の形を残さないほど中身が変わってしまったと述べられています。</p><p>&nbsp;</p><p>これと同じ問題は統一教会の中でも当然起こりうることです。</p><p>&nbsp;</p><p>というよりも、統一教会ではむしろ積極的にそちらに自ら寄せて行ったくらいです。</p><p>&nbsp;</p><p>天地正教という仏教が母体の団体を作ってみたり、伝道の手段として、家系図や姓名判断、手相などを使ってみたり、清平での先祖解怨なんかも大ヒットしました。</p><p>&nbsp;</p><p>目的のために手段は選ばなかったわけですが、そうなると当然中身も本来目指すべき所とは別の所になっているのに気が付かないわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>かくして、食口は本来キリスト教徒が重んじる神との1対1の関係やそこから来る一瞬一瞬の心の平安をないがしろにしたために、愛なる神を信じると言いながらも良心が死んだ心の冷たい人間が出来上がってしまいました。</p><p>&nbsp;</p><p>残念なのはその自覚すらない事(T . T)</p><p>&nbsp;</p><p>次回は、良心の死んだ食口には分からない「なぜ神は沈黙する神なのか？」を紐解いていきます。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank"><img alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ" border="0" height="31" src="https://b.blogmura.com/philosophy/uc/88_31.gif" width="88"></a><br><a href="https://philosophy.blogmura.com/uc/ranking/in?p_cid=10798700" target="_blank">にほんブログ村</a></p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/motomember/entry-12798091127.html</link>
<pubDate>Tue, 11 Apr 2023 23:16:16 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
