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<title>ブログを書くのは寂しさの問題</title>
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<description>Facebookで書いた記事のいくつかを転載中。</description>
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<title>0032</title>
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<![CDATA[ <div>ワン・ビン「無言歌」鑑賞。<br><a href="http://www.youtube.com/watch?v=0gqFwzgOjh4" target="" title="">http://www.youtube.com/watch?v=0gqFwzgOjh4</a><br></div><div><br></div><div>文革の犠牲者たちが、過酷な労働と食糧不足のなか、ただただ死んでいくだけの映画。あまりのぎりぎりさ（そしてそれを容赦なく積み上げていく演出）故に、悲劇ではなく一種のサスペンスを見ているような感覚に陥る。死が当たり前過ぎて、死んでいく人たちのために泣くこと（悲劇として受容すること）も出来ない。ただ、誰も死にたいとは思っていない－生きるために必死で食べ物を探し、時には同胞の死体を食べる－以上、死は事件であり、次に誰が死ぬのだろうという陰鬱な緊張感が残る。それがサスペンスとなる。</div><div><br></div><div>だから、この映画は「面白い」。まさに張り詰めた緊張感に釘付けになる。それは非人間的でもある。そこに時折人間的な行為が出現すると（例えば、死んだ元医師の妻が上海から訪ねてきて、愛する夫の亡がらを求めて荒野を彷徨う様や、泣き叫ぶ様）、感覚が麻痺したまま、なおその出現に心動かされる。</div><div><br></div><div>「人間的なもの」の出現も、人がただただ死んでいく荒野に雨を降らすわけではない。荒野は荒野で命は変わらず軽いが、軽いからこそ、外部から、あるいは追いつめられた死の直前に内部から、「人間的なもの」が現れると、それは嘘のような鳴動を、荒野に発生させる。非人間的な荒野に無謀に出現するが故に、無視出来ない。たとえば、唐突に空にUFOが現れるように、「人間的なもの」が現れるということ。それは死にゆく人々から遠すぎて、人間的な意味ではもはや胸を打たないが、しかしそれを見てしまった以上、信じざるを得ないようななにかではあるし、向かわざるを得ない何かでもある。</div><div><br></div><div>その出現もまた、「無言歌」をサスペンス的緊張感で満たしていく。とっても面白い映画である、としか言えないのかもしれない。そこに映画の暴力がある気もする。しかし、サスペンスとしての緊張感では説明がつかないものも残る。それを希望とは呼べなくても、荒野で「人間的なもの」を見てしまったこと自体の取り返しのつかなさはあると思う。</div><div><br></div><div>だから、ただただ面白さに打震えつつ、恐れるというのが、この映画との向き合い方になってしまう。</div><div><a href="http://mugonka.com/" target="" title="">http://mugonka.com/</a><br></div><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mstkotk/entry-11149730973.html</link>
<pubDate>Sun, 29 Jan 2012 21:30:14 +0900</pubDate>
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<title>0035</title>
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<![CDATA[ <div>川島雄三の「幕末太陽伝」のラストの名台詞を、僕はずっと「地獄も極楽もあるもんけ、俺は死ぬまで生きるんでぃ」と記憶していたのだけれども、これは普通に「俺はまだまだ生きるんでぃ」の間違いだった。<br><a href="http://www.youtube.com/watch?v=0BF3OW32zOk" target="" title="">http://www.youtube.com/watch?v=0BF3OW32zOk</a><br></div><div><br></div><div>脳内で勝手に変換されていたのは、「幕末太陽伝」のなかに含まれる死の成分が、時が経つにつれ自分の中で煮詰められて強まったからではないかと仮定（無駄に感傷的だしね）。他の川島作品を見て積み重ねて来た関係で、それぞれに含まれる死の成分が濃縮されたとも思う。死のイメージが前提になってしまっていた。でも、改めて見直してみると、「まだまだ生きる」でなければおかしいのは自明。万一「死ぬまで生きる」なんて台詞だったら、あのフランキー堺の走りを無駄にしてしまう。</div><div><br></div><div>「人はいずれ必ず死ぬし、何時死ぬかもわからない確率論的な存在である」ということが、放射能にさらされて明確になった今、「幕末太陽伝」のフランキー堺が胸の内に内包する死は、より鋭く刺さって来る気がするけれども、その感じ方は、二つに分かれるのかもしれない。</div><div><br></div><div>ひとつは「いずれ死ぬことになる、確率論的な存在だからこそ、その残酷さに耐えるための物語を」という受け止め方。もうひとつは「いずれ死ぬことになる、確率論的な存在であることを見つめ生きよう」という死を核とした受け止め方。前者は、物語による連帯、後者は死による（おそらく美的な）連帯が、それぞれの閉域に閉じないための可能性としてある。</div><div><br></div><div>前者の場合、フランキー堺の身振りは、死病にかかっているという残酷を、才覚の限りで前向きに乗り越えようとしている様に胸打たれる。彼の軽やかな身振り、走りがつむいでいく物語に希望を見出す。</div><div><br></div><div>これはこれで、正しいと感じる。が、僕にとって重要なのは後者だ。</div><div><br></div><div>後者の場合、フランキー堺の身振りは、死病と向き合うストイックさへの引っ掛かりとなる。フランキー堺は、遊郭に乗り込んで居座りを決め込むのに、端から女を抱こうとしない。体に毒だ、という。彼の軽やかな走りは、あくまで病気を治すという目的に集中し、彼の才覚に幕末を生きる力強さを感じる女二人の期待を見事にすり抜けていく。しかし、その女ふたりに対しても、また他の登場人物に対しても、彼はまったく冷淡ではない。彼は自分の利益と他者の利益を同時に可能にするための運動を絶えず繰り返し、それによって他者との関係を絶えずフラットにしながら、貸し借り無しの関係を構築していく（最初に大きく、居座りという形で借りていたにもかかわらず）。彼の言う居座り家業とは、居座るだけでなく、その対価をちゃんとその才覚で返すところまで含んでいる。それは、いずれ去る（あるいはいずれ死ぬ）人間としての美意識だと考える。その見方をすると、彼の走りの軽やかさは、去る＝死ぬ可能性を絶えず内包しつつ、物語を解体していく。</div><div><br></div><div>悪い咳を指摘されるごとにフランキー堺が見せる、それまでの飄々とした表情が全てぬぐい去られた真顔。それがしこりのように残る以上、やはり「幕末太陽伝」は、後者の方の受け止め方の方がより重要ではないかと僕は思う。</div><div><br></div><div>死＞生という話ではなはない。どちらにしても生きていくことには変わりないし、「確率論的な生の物語」と「確率論的な死の美意識」は突き詰めると近しいとも思う。結局どこかで繋がっていく。だけれども、どちらを基軸と決めるかで、結構、映画の受容の仕方が、とおく隔たっていく気もするのだ。</div>
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<link>https://ameblo.jp/mstkotk/entry-11149720749.html</link>
<pubDate>Sun, 29 Jan 2012 21:16:00 +0900</pubDate>
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<title>0007</title>
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<![CDATA[ <div>「エッセンシャル・キリング」再見。二度目に見て気づいたけれど、これはクリスマスムービーでもあるのね。ポーランド語でサイレント・ナイトがだみ声で歌われる中、ヴィンセント・ギャロは自らと他者の血で赤く染まった姿で、女のもとに現れるのだから。</div><div>単純な逃避行の物語ではあるけれど、アフガンから捕虜としてポーランドにつれてこられたギャロの逃走劇は、生存をかけて戦場ではないところを戦場に変えていく、押し広げていくことでもあって、砂漠のような雪原、雪原のような砂漠、遠雷と爆撃音は、リンクしながら重なりあっている。</div><div><div><a href="http://www.youtube.com/watch?v=1E68x9Embak " target="" title="">http://www.youtube.com/watch?v=1E68x9Embak</a><br><br></div></div><div>しかし、死者の武器を図らずも受け継ぐところから始まるこの映画は、生きるために殺し食する戦場の映画であると同時に、予期せぬプレゼントの映画でもあるのかもしれない。予期せず与えられるものがある。偶然の積み重ねのなかを生き延びる。不意に聖夜だと気づかされる。</div><div><br></div><div>押し広げられた戦場は、サンタクロースまでもが折り重ねられ、なにか抽象的な場となり、ギャロはなにか特権的な存在のように、消え失せることが許される。彼の消え失せ方は、イーストウッドを思い出させつつ、西部劇の地平ともたぶんつながってる。しかし、といって、彼の逃避行が絶望的であることに変わりはない。どうにもならない行き場のなさも示されている。狭くて広い、単純だけれども手を差し入れると奇妙な奥行きがある…不思議な感触。しかし、それこそが映画なのかも、とも思う。</div><br><a href="http://www.youtube.com/watch?v=1E68x9Embak " target="" title=""><div><br></div></a>
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<link>https://ameblo.jp/mstkotk/entry-11133530128.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Jan 2012 07:38:57 +0900</pubDate>
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<title>0006</title>
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<![CDATA[ 「ゴモラ」鑑賞。<br><a title="" target="" href="http://www.youtube.com/watch?v=cLXuX2ltMhw">http://www.youtube.com/watch?v=cLXuX2ltMhw</a><br><br>イタリアの巨大犯罪組織カモッラの多岐にわたる犯罪ビジネスを、群像劇として描き出す。映像として一目で見て取れる貧しさが、犯罪がそこに当たり前にあって、それとともに生きる人々をリアルにする（生々しい人々のたたずまいが素晴らしい！）。でも、たぶんこの映画が楽しいのは、そういうリアリズムの力だけじゃない。音楽の響きによるところが大きい気がする。<br><br>ギャングスタに憧れる少年たちは、カモッラから盗んだ銃を、殺人のためではなく、まるでおもちゃの楽器のように扱う。それは子供たちのしなやかな体の運動と合わさって、舞踏のようになる。そう考えると銃声も音楽だが、カモッラの元メンバーへの「年金」を配る初老の男にとっては、銃声は生を断ち切るものに過ぎない。<br><br>音楽のように響く一方で正反対にも機能する、そんな銃声があって、その響きの奇妙さが、彼らの生きる場所のリアルを、映画としての面白い歪みに巻き込んでいくように感じる。<br><br>そんな銃声の合間に、様々なポップミュージックが流れるのだけれども、これもとても不思議な音で、実際にその場で流れている音楽という設定なのに、いったん音楽が鳴り始めると、その高揚は銃声以外では切断できないというか、どこで響いているのかわからない微妙な音量で、リアリズムとは異なる、音楽が鳴っているだけのため層のようなものを感じさせる。<br><br>銃声は時に生を切断する音であり、時に少年たちを鼓舞する音楽になる。ならば、音楽と銃声と現実のどこかひずんだ映画上の関係においては、どう終わるのかってことがたぶん大事になる。そうして映画のラストは海辺に導かれていく。<br><br>すべて終わり、ブルドーザーの音が波の音へと混ざりあった後に、更にエンドクレジットの曲が意図的に混じり合い、途中で波の音が再び聞こえ始めたりするのは、監督の、音の映画としての本作への、自注のように僕には思われた（金を配る男が、銃声の後、自動車の音の中に帰って行くのもたぶん大事）。<br><br>（全体に音楽が素敵だったのでサントラを買いに走ったのだけど、タワレコに置いていなかった…残念。）
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<link>https://ameblo.jp/mstkotk/entry-11132752926.html</link>
<pubDate>Wed, 11 Jan 2012 10:57:50 +0900</pubDate>
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<title>0005</title>
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<![CDATA[ 「ミッション: インポッシブル/ゴースト・プロトコル」鑑賞。<br><a title="" target="" href="http://www.youtube.com/watch?v=IE8300sv0oM">http://www.youtube.com/watch?v=IE8300sv0oM</a><br><br>問題は一人で解決するのではなくチームで解決すると良いよと教えてくれるエンタテイメント作。楽しい。お話は単純だけど、世界中を旅しながら派手なアクションを繰り広げ、いろんなアイテムを駆使しつつ、世界の終わりまで遊び化して戯れられるのだから、とても贅沢！<br><br>ところで、音声はもちろん、コンタクトレンズのセンサーや、モバイル端末の活用、防犯カメラのハッキングなどで、絶えず情報を共有する４人の繋がりは、この映画の場合、少し倒錯的じゃないかなと思う。というのも、この4人の信頼関係がどう出来たのかまるでわからないから。はじめに信頼があり、チームとなって、情報の共有があるのではなく、共有即チーム、疑わしいところがあったはずなのに、平然と無視してチームとして続けてしまう、というスタンスは面白い。<br><br>そこに、長官の死や、消滅するはずの命令がトム・クルーズが拳で叩くまで消えない小さなギャグ、壁登り手袋のあっけない故障のような技術への疑念が差し挟まれる。まとめて言えば既存の権威・システムへの素朴な疑義といえると思うのだが、これと、共有とチームのあっけない接続ぶりとが合わさって、どこか今日的な風景を作り上げていると思う。<br><br>信じるべき何かはもはや存在しないが、繋がってはいる場はあるし、そこで通じあいもする。その場を選ぶことも出来る。そんな、今の時代認識と、力を合わせたら何とかなるよという物語の間には、もちろん飛躍もあるけれど、でも、そこに贅沢なお遊びが介在し、俳優たち、時には突然のドバイの砂嵐のようなものまで含めた、類い希なもろもろの運動神経が働いて、一つの映画になっていくのは、やっぱり楽しいとしか言いようのない楽しさだと思う。<br><br>他方、情報共有即チームという関係こそが、ピンチを招くと言うことも大事。例えば（これは物語上、必然性があるけれど）、女殺し屋に恋人を殺された女スパイが、殺し屋の声に動揺するシーン。あるいはムンバイのシーンでも、音声に驚いて口説き落としすべき対象の手を，女スパイが強く握り過ぎるというミスになった。<br><br>情報は、時に人を動揺させ、チーム自体を危うくするけれども、チームがチームたるための接着剤が情報共有しかないならば、この危うさは受け入れていくしかない、ということも含め、今日的と言えるかもしれない。
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<pubDate>Mon, 26 Dec 2011 13:27:14 +0900</pubDate>
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<title>0004</title>
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<![CDATA[ The French ImpressionistsのアルバムA Selection of Songsを聴きながら通勤中。5曲目「Santa Baby」、6曲目「Castles In The Air」が好き。女の子の声、というノイズ楽器をポップなメロディーで楽しむって感じ。8曲目「Rainbows Never End」も素敵。やくしまるえつこさんが巧く歌おうとする気持ちを放棄するとこんな風にならないかしら？と想像。<br>特に「Castles In The Air」、好きかな。<br><a title="" target="" href="http://www.youtube.com/watch?v=6AOLB8-NWoY">http://www.youtube.com/watch?v=6AOLB8-NWoY</a><br><br>かなりぎりぎりのところをすり抜けている感が良いなー。あれ？この歌声、音が、リズムが、と疑念が浮かびかけた次の瞬間に、なんだか巧くするりと切り抜けていく。10曲目「Boo Boo's Gone Mambo」のインストから11曲目「My Guardian Angel」への男声ソングへの流れも好き。ジャズスタンダードな歌いぶり、曲調なのに、アナログっぽいくぐもった感じにオマージュを捧げたような奇妙な響きがピアノとギターの音とうまくあっていてね。<br><br>そんなわけで11曲目はもう一度聴こう。<br><br>16曲目に「サマータイム」カバー。これもなんかへろへろだけど良いです。ペドロ・コスタ「何も変えてはならない」のジャンヌ・バリバールを少し思い出させる感じのライブ収録版。<br><a title="" target="" href="http://www.youtube.com/watch?v=k4WnyX349UI">http://www.youtube.com/watch?v=k4WnyX349UI</a><br>
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<link>https://ameblo.jp/mstkotk/entry-11117700665.html</link>
<pubDate>Mon, 26 Dec 2011 13:26:29 +0900</pubDate>
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<title>0003</title>
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<![CDATA[ 森田芳光監督の訃報から、そういえば今年は池田敏春監督の訃報から始まったのだ、と思い出す。1月のことだ(お亡くなりになったのは昨年の12月)。それから311があった。<br><br>「人魚伝説」予告編<br><a title="" target="" href="http://www.youtube.com/watch?v=DwKU8eq9fJk">http://www.youtube.com/watch?v=DwKU8eq9fJk</a><br><br>以下は、3/19の根岸吉太郎監督の呟き。<br><br>「キネ旬で池田敏春追悼のインタビューしたけど、｢人魚伝説｣って原発と闘うお話しだったよな。池田がもう少し生きていればなんて言っていたろう。敵が原発だって決めたのは池田だったから。」<br><a title="" target="" href="http://twitter.com/#%21/kichitaronegish/status/49091841911562240">http://twitter.com/#!/kichitaronegish/status/49091841911562240</a><br><br>｢人魚伝説」、amazonでは入手困難に。<br><br>再発売を希望。出たら必ず買います。
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<pubDate>Mon, 26 Dec 2011 13:24:26 +0900</pubDate>
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<title>0002</title>
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<![CDATA[ Alfred Beach Sandal「One Day Calipso」がなかなか良くて通勤が楽しい。冬でもカリプソ。謎の歌詞が浮遊を促すが、明るさには遠く、むしろ自失により足下がおぼつかないことで軽やかになってしまった、みたいな感じ。<br><br>いや、自失というのはおかしいか。歌詞はとてもクール。確信犯としての迷子。地図を持たずに迷いでるが、他方で精密な、新たな地図を作り直す。カリプソのリズムや音を武器に自分の感覚に合わせて。<br><br>その地図には正確にユーモアが刻まれている。デフォルトされた観光地の地図のイラストをたとえば思い出せばよい。あと当然だけど「旅人としてのヴァン・ダイク・パークス」も思い出す。<br><br>ほらとしての物語、は、いかがわしいほど旅に似合う、というクールな認識が、カリプソのリズムや音に乗り、僕らをさらにその上に乗せ、遠くへふわふわと運んでいく、という言い方はどうだ？<br><br>はずれ曲なしのアルバムだけど、一曲選ぶなら２曲目の「キャンピングカーイズデッド」かな。次は９「US&amp;A」。１、３、５、歌詞含め７、カリブにブルースを輸入して翻訳したみたいな８も好き。<br><br><a title="" target="" href="http://www.youtube.com/watch?v=lyYvWA_CrWY">http://www.youtube.com/watch?v=lyYvWA_CrWY</a><br>
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<pubDate>Mon, 26 Dec 2011 13:23:14 +0900</pubDate>
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<title>0001</title>
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<![CDATA[ 映画監督が音楽を手がけるときの奇妙な確信はなんなのか。<div id=":6g"><wbr>迷いなく歪んだ音を作る。いまはリンチのCDを聴いている。<br><br>※<br><br>そんなわけでリンチ「Crazy Clown Time」ですが、そりゃあもう、<wbr>歪んだ自信はあって当たり前の強引さがあって、<wbr>自己肯定も甚だしい心地よくザクザクと時を刻むリズムが、<wbr>音の一部の反抗的な歪みによって無理やり内面化され、<wbr>ところが心地よいメロディがそれんさらに鮮やかな印象に反転させ<wbr>ていく、みたいな…いくつかの薄いイメージのレイヤーが、<wbr>重なりながら矛盾しあいつつ、奇妙な死の生々しさを構築する（<wbr>端正な世界の薄皮一つ剥けば死臭もするし、冥界もあるし、<wbr>理由なく歪んだ欲望がデタラメに広がる犯罪の王国もあるし、<wbr>でもふつうの生活もあるし、美しい願いもあったりする…）<wbr>いかにもリンチらしい感じが、音として現れているというか…<wbr>とりあえず２曲目が素敵だな。<br><br>ミックスがおかしいのだな、たぶん。<wbr>そこに奇妙な確信が絡んでいる。調和における方法論が、<wbr>ミュージシャン的ではないということか…<wbr>ともあれ７曲目も素晴らしい。10曲目もよい感じ。<wbr>ただ少しバランスが良すぎるかも…11曲目もよいな。<wbr>こちらの方が良いな。あと、14曲目もよいです。<br><br><a href="http://www.youtube.com/watch?v=IugOfDBWcGc" target="_blank">http://www.youtube.com/watch?<wbr>v=IugOfDBWcGc</a></div>
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<pubDate>Mon, 26 Dec 2011 13:21:12 +0900</pubDate>
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