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<title>腐感</title>
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<description>本だったり日常だったりについて</description>
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<title>ポイズン</title>
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<![CDATA[ <br><br><br>今度の読書会では僕のオススメ図書を扱う事になった。ヘッセのシッダールタなんだけど<br>この本は去年だっけか読んだ時すごい圧倒されて、文学性というか、普段のヘッセとは一味違った<br>なんか不思議な感じの本。すごい宮沢賢治っぽいなあと思った。<br><br>で、なんか不本意ながら僕もその後の飲みの席で糾弾してしまったんやけど<br>内的なミクロ思考の人間の極端な考え方を持った人と、マクロ人間について。<br><br>マクロ人間って要はリア充のことなんやけど<br>飲みの席でいささか苛烈なディスが聞こえてきたんだな。<br>オレもミクロマンについて本質的なディスをカマしてしまったんだけど<br>ほっとけよと思ってしまう。つうかそう言うべきだとは思うんだが。<br><br>それでやっぱ社会はすごいなあと思った。なぜかというと完全なる住み分け機能がついてるから。<br>内的な人間というか思索を深めてしまう病的な人間って何かに偏する事が多いように見える。<br>それってやっぱりサイコだとか分裂的な効果を発揮しちゃう面があって<br>マクロ人間にとってはその手の人たちが如何わしい様に見えてしまうんだろうなあ。<br>で、マクロの方タチが思索に耽らないのか。というと多分それは別の話で<br>それを隠す能力に長けてるというか、そういう方向性を大事にしてるんだと思う。<br>なんで隠すのかっていうと自分の考えを完全に晒すのって凄い勇気がいるし<br>やっぱりどこかサイコな風に映るからなんじゃないかな。<br>どっちに偏ってるかっていうことなんだと思うけれど<br>果たして隠さないミクロ人間が糾弾される事が許されているのはどうなんだと思うんだよね。<br><br>やっぱどうしても階層的で多重構造をとってしまうのも社会なわけで<br>それはヒエラルキーだとは言わないけれど、なんつうか冷戦みたいな関係ができちゃう。<br>だけど、マクロにしろミクロにしろ、社会性という意味では<br>繋がりを大事にしてるとあるグループに参画してるわけだから<br>大きな意味で読書会だとか、学校だとかまとまってるんだから互いに尊重できるにこしたこたない。<br>オレは元々マクロ→ミクロという感じで成長してきたから今は中庸を目指してるけど<br>簡単に言ったら仲良くできないってのはホント寂しいと思うのね。<br>だって仲良くなるためにディスかましてんだから本末転倒で誰も救われないじゃないっすか。<br>そんなあなたにシッダールタ。悟りの世界に没入しよう！これで君も明日から覚者だ！<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mtmttpp/entry-11582063260.html</link>
<pubDate>Mon, 29 Jul 2013 03:21:30 +0900</pubDate>
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<title>ポーの分析</title>
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<![CDATA[ 　このレポートでは中央公論から出版されている丸谷才一訳「エドガー・アラン・ポー名作集」に収められた「モルグ街の殺人」「盗まれた手紙」「黄金虫」の三作品を扱います。作品に込められている真の意図をテーマに各作品を読み解いていきたいと思います。<br><br>　はじめに、上記三作品についてこれらの「作品の分析」を可能な限り本文と照らし合わせながら私が気付いた事と、それに関する参考文献を参照していきたいと思う。<br>　先ず「モルグ街の殺人」「盗まれた手紙」の探偵役であるC・オーギュスト・デュパンシリーズを読み解いていく。<br><br>　――人々が分析的知性と呼んでいるものがあるが、これを分析することは、ほとんど不可能である。僕たちはそれを、ただ結果から判断して高く評価するだけなのだ。が、それについてわかっていることの一つは、分析的知性はその持ち主にとって、常に、この上なく溌剌とした楽しみの源泉であるということだ。――　モルグ街の殺人　P7　引用<br><br>　エドガー・アラン・ポーは授業で取り扱った詩の効果や編集長としての手腕などから言われているように、言葉の効用を最大限に引き出す作家であったと言える。言うまでもなく後世に与えた影響は強く、個人的な意見を言えば日本文学に与えた影響は顕著ではないだろうか。それは日本程、推理小説やミステリが小説という読み物のジャンルの中で重く比重を抱えている国はないように思えるからだ。ポーは推理小説や密室トリックの始祖として有名で、上記引用の「モルグ街の殺人」はそれに当たり、冒頭の部分を引用した。モルグ街の殺人においてポーが読者に提供した読書的な快楽の一つに、分析的知性からなる楽しみが挙げられる。ポーは本作で明らかに読者に事件の推理をさせている。これは上記引用部分が書き出しにあたる事から意図的にそうさせている事は明らかで、つまり、読者に与えられた「物語」と「文章」という楽しみに加え、ポーは推理という楽しみを小説に取り入れたのだ。順序を追って明かされる状況や、どこか怪しい登場人物（この手のキャラクターは推理小説の元祖と呼ばれるこの短編の時から犯人ではない）、明晰判明な推理からなるどんでん返しなど、ポーは小説において現代にも通じるフォーマットを発明したと言える。<br>　ここでもう一度書き出しの文章を読み返してもらいたい。わざわざポーが持ち出した分析的知性によるこの上なく溌剌とした楽しみ。それは言うまでもなくデュパンの推理とそこから彼が得た満足感を示唆している。何故ポーはこの文章を冒頭に持ってきたのだろうか。それは既に述べたように、この文章を冒頭に置くことによって、読者に推理を促すという効果を狙ったのだ。しかもそれは本編で明かされたオランウータンによる殺戮とは別種のものである。幸いにも「E・A・ポーの迷宮探求」という津田塾大学言語文化研究所、E・A・ポー研究会が発行した本にその事がまとめられてあったので、そちらを参考にポーと読者について私の考えを述べていきたい。<br><br>　先ず、モルグ街の殺人でポーが書き出した怪奇事件は本文中で完結している。一方で、「E・A・ポーの迷宮探求」の中で指摘されている通り、この事件の裏に潜む語られない謎について少なからぬ読者は気付くはずだ。<br>　この謎こそ今回私が取り扱う三作品に共通する、ポーが読者に向けて作品に含ませた真の意図ではないかと考える。それは上記引用によって説明された、分析的知性をこの上なく溌剌とした楽しみに変える事のできる、読者の推理に全てが委ねられているからだ。<br>　モルグ街の殺人において、この謎はオランウータンの飼い主にある。<br><br>　①――男が一人入ってきた。明らかに船員である。背の高い、がっちりした体つきの、力の強そうな男。悪魔とでも取り組みかねまじき顔つき――　モルグ街の殺人　P54　引用<br>　②――彼は最近、インド諸島へ航海した。そして、ある一行に加わってボルネオに上陸し、奥地の方へ遊びに出かけた。そこで彼ともう一人の者がオランウータンを生け捕りにしたのである。この仲間は死んだので、オランウータンは彼一人のものになった。――中略――あの殺人の夜、というよりももう朝になっていたが、彼は船員たちの宴会から帰宅して、自分の寝室にオランウータンがいるのを発見した。隣の小部屋にちゃんと閉じ込めておいたはずなのに、寝室へ侵入していたのだ。野獣は、手に剃刀を持ち、顔にシャボンの泡を塗りたくって、鏡の前に立ち、顔を剃る真似をしていた。きっと、これまで鍵穴から覗き込んで、主人のすることを見ていたに違いないのである。――同　P57　引用<br>　<br>　①の引用から、読者はオランウータンの飼い主である水夫に疑念を抱かざるを得ない。「悪魔とでも取り組みかねまじき顔つき」の男がデュパンの待つ部屋へと、樫の木の棒を携えて入ってきたのだ。次に②において水夫が事件の顛末を語る件では、彼と一緒にオランウータンを捉えた仲間は死んだ。としか書かれていない。ここで更に疑念は深まる。普通ならば例えば病気で、だとか事故によってだとか理由が書かれて然るべきだ。上記の箇所から読者は水夫に対して何らかの疑いを持ってしまう文章の構成になっているように思う。決定的なのは、②やそれ以前にも語られた通り、オランウータンが模倣的な行動をする。という事だ。事件の被害者である女性が人間が行うには不可能な死を遂げていることから、この殺人の犯人はオランウータンに違いない。しかし、その飼い主である水夫の謎めいた自供には、分析を必要とする不可解さが残されているのだ。果たしてオランウータンは二人の女性をただその野生に従って死に至らしめたのだろうか。<br><br>　「盗まれた手紙」において、ポーが作品に隠した、分析的知性を必要とする謎はモルグ街の殺人より更に巧妙になっている。<br>　D大臣によって手紙を盗まれたある貴族の婦人はG警視総監に手紙を取り返すよう依頼する。この手紙は所有者にある権力を極めて貴重な方面において与え、第三者に暴露されると婦人の名誉と平安が危険にさらされてしまう。そのことによって今D大臣は婦人に対して有利な立場にいるのだ。物語はG警視総監に変わってデュパンが解決することになるのだが、物語外の謎として読者が分析を迫られるのは、デュパンとD大臣との関係である。<br><br>　――ぼくの政治上の贔屓のことは、君も知っているだろう。僕はこの事件では、問題の上流婦人の味方として行動している――　盗まれた手紙　P92　引用<br>　――Dは昔ウィーンで、僕をひどい目に合わせたことがある。その時僕は上機嫌でこのことは忘れませんよ、と言ってやった――同　P93　引用<br><br>　上記の引用と、それ以前に書かれたD大臣の家に気軽に訪問できるデュパンの関係は、単なる知人以上の仲だという事が示唆されているが、結びにおいて彼らの関係が明らかになる。<br>　婦人の手紙とそれを模倣した手紙を入れ替え、D大臣から盗まれた手紙を更に盗み返したデュパンは、ニセの手紙の中に、クレビヨンの悲劇から引用した言葉を書いたという。この悲劇が兄弟による一人の女を巡る復讐劇である事を考えれば、物語には書かれなかったデュパンとD大臣、二人の、もしくはその貴族の婦人を入れて三人の関係が浮かび上がってくるのだ。<br><br>　黄金虫においても、分析的知性が読者に推理を促している。<br>　宝を見つけたウィリアムレグランドは、どのようにして宝の発見に至ったか。その道筋を語り始める。この推理には、デュパンの推理と同種の筋道を立てた謎解きが垣間見えていて、ポーが当時推理に関してただならぬ熱意を持っていたことは恐らく間違いない。<br>　こうして宝への道のりを語り終えたレグランドは最後に、文章の語り手である「私」から、どうして宝と同じ場所に二体の人骨が埋められてあったのか。と質問を受ける。レグランドは「キッドが宝を埋めるとき、手伝いが必要だったことははっきりしている。だけどこの仕事が終わったとき、彼は秘密を知っているものは抹殺する方が具合がいいと思ったのだろう」と答える。<br>　レグランド達が発掘した宝が埋められていた場所には、上記のキッドに殺された二人の手伝いも発見されている。奇しくもキッド同様、三人で宝を見つけたレグランド、私、ジュピター。「掘り起こしたままにしてきた」と書かれた人骨の埋まっていた穴。鎌と鍬を手放そうとせず、主人のレグランドに「でっけえ棒」で折檻しようとする黒人のジュピター。最後に人骨の謎を解き明かし物語は閉じられる。が、少なからぬ読者はここで、誰が他の二人を出し抜き宝を手に入れたのか。と分析を開始するのである。とはいえ、この物語を知り、語る者がいることにすぐ気がつくわけだが。ちなみにウィリアムレグランドはアナグラムになっていてi am le grand willという文章が浮かび上がるあたりにも、ポーの言葉のテクニックが伺える。<br><br>　ポーはこれまで見てきた通り、従来の物語や文章といった快楽を書き出しながらも、更に読者に分析を促した新しい作家であったのではないだろうか。<br>　思うに、本が訴える時代性や文学性は依然として、ゴシックロマンという形を取りながら彼の著書に散見することができる。しかしこの推理という動作を促す文章の構造は、当時産業革命を迎えアメリカに波及しようとしていた、機能の時代による一面が大きく反映されているのではないだろうか。それは多重構造をとる推理という面であれ、合理主義という面であれ、ポーが描いた一連の推理物語は、事件を解き明かすというただ一点に収束し、その為の文章や人物が順を追って合理的に配置されている。一連の作品からは現代にも受け継がれる推理による事件の解決。という快楽を頂点にした文章の機能美を感じることができるわけだ。それを可能にするのは冒頭で引用した、分析的知性によるものが大きく、一八世紀アメリカを想像するに、それまでの所謂文学性という曖昧なモノを読み解いていた時代人にとって、恐らく不慣れであったであろう合理的な分析という作業は産業時代と呼ばれる新たな時代がもたらしたものではなかったのだろうか。
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<link>https://ameblo.jp/mtmttpp/entry-11580246560.html</link>
<pubDate>Fri, 26 Jul 2013 06:21:44 +0900</pubDate>
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<title>それでも男と女</title>
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<![CDATA[ 　やっぱりジェンダー論。<br><br>　世界は白人社会と有色人種社会が差別化されている。<br>やっぱり明らかに違うもの同士を混同させて評価するっていうのは不可能なわけだ。<br>フェミニストが今直視しなきゃいけない問題は、男と女の優劣を完全に決めること。<br>人に優劣はないだとか人に良いも悪いもないというような浅薄な議論じゃダメ。<br><br>　もう少し突っ込んで言うと、男も女もイイところがある。<br>だけど少し実務的にジェンダーの差異を見つめると<br>どう考えたって体力の問題とか、脳みその違いだとか男性が生きる上で優位なのは明らかだ。<br>で、それを言うとなんとか言われるわけだけで、というかタブーだから言えないわけだが<br>これって絶対人類が全部気付いてることだよね。<br><br>　何故タブーなのか。<br>　人間は、というか動物はプラクティカルに性差社会を作る生き物なわけだけど<br>人においてこれはどの国においても歴史的にそうだった。もち優位な男社会。<br>その中で女はあらゆる面で男に隷属させられてたよね。<br>実際数百年前まで女は完全に男の下位互換だったと言えると思う。<br>体力がモノを言う時代で、男にあらゆる決定権があったから、そうならざるをえなかった。<br>今でも同じようにその中には俺より賢くて俺より体力がある女の人もいたと思うが<br>性差や人種とかいう明らかな違いは、いつだって闘争状態なんだと考えられる。<br>　<br>　しかし人間は人権に基づく自由をフル活用する為に民主主義を先鋭化させていった。<br>その過程で人種と言う問題にぶち当たり、ほぼ同時に性差の問題にぶち当たった。<br>人権を有する「人」の定義は明晰で判明なロジックによってつまり科学によって明らかにされる。<br>そして現代。男は女に対して、白人が黒人に対するように罪悪感を覚えてるわけだ。<br>殴れないし、女は男が守るもの。庇護欲。とか。<br><br>　これらに対して２０世紀に加熱したフェミニズムが未だ尾を引いてると言える。<br>超女社会。実際にはやっぱり無理があるから男社会のままなんだけども<br>でも直情径行の如く世情は完全に女優位になってる。<br>インドでは女性専用車両ならぬ女性専用電車があるらしいが<br>これに対してある団体は男性専用車両を作れと政府に言ったそうだ。<br>女性専用車両はジェンダー論的に見てかなり大きな事件だと思うけれど<br>ジェンダーが平等をうたうならば、女性専用車両と同時に男性専用車両も作られたはず。<br>女性優待デーがあるなら男性優待デーだってあってもいいはず。<br>で、それに対して男性の声が挙がらないのは上記の罪悪感や諦観を暗に示している。<br><br>　そして完全に暴挙としか思えない事はフェミニストが、議員になる為に<br>その種の支持者を得ていること。その種の活動を議員が行っていること。<br>完全に差別化を図ろうとしている。これは倒錯しているといえるだろう。<br><br><br>　もひとつの問題として、フェミニストとは逆に完全に男女を平等化しようとしている<br>アンチフェミニストの諸君である。彼らはどこか冷静で知識も豊富であるし<br>平等を標榜している分、中間層の多少知識のある人間にとっては魅力がある。<br>僕はそういう考えの一派がいることをよく感じる。何故なら僕もそう思っていたから。<br>この種の人達の特徴はまあいいとして、疑問に感じるのは<br>性差を無くしてどうするのかということ。<br>体力の差は埋まるかもしれない。頭脳だってきっと埋まるはず。<br>でも決定的な違いは埋まるとは思えない。<br>或いはiPSによってアマゾネスのようなユートピアが実現し、性差は消滅するのだろうか。<br>男女平等を突き詰めるには恐らく近似値じゃ足りず、完全に明晰判明な状態を人は欲するだろう<br><br>平等はこの場合に限り、このような異常に前衛的な未来思考を<br>現世に召喚しようとしているわけである。<br>精神的な雌雄同体を目指したところでそれは現代人とは反りがあわないだろうし<br>無理が出てくるだろうと考える。<br><br>　考えるに今がベストなんではないかと思う。<br>明らかに実務的には優位にある男性が罪悪感から女性を立てる社会。<br>これは男性が我慢できるとこを我慢するだけで、民主主義の理念を尊重しつつ<br>女性に至ってはいささか暴力的な権利を行使する力を与えられる。<br>しかし理想はやはり完全なる平等というように考えられていると思う。<br>それが未来志向過ぎるのか、違いという味気なさが魅力を減じているのか僕は好きじゃないが<br>フェミニストにしろジェンダー論者にしろあとは利権を食えばいいと思う。<br>僕は一応長年考えてきた性差について一応の結果をだせたんじゃないかな！どうでもいいけどな
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<link>https://ameblo.jp/mtmttpp/entry-11579938435.html</link>
<pubDate>Thu, 25 Jul 2013 19:47:14 +0900</pubDate>
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<title>女性が働く2013　7　３</title>
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<![CDATA[ 今日、何故現代の女性は働く女性になりたいのか。という問題が挙げられていた。<br>曰く日本の女性は専業主婦に憧れる人が割と多くいて<br>大学を出て能力のある人間になったにもかかわらず、何故能力を使わないのか。云々。<br><br>僕はむしろなんでフランスやアメリカの女性は働きたがるのか。と問題提起したところ<br>失笑を買ってしまってなんだかやるせなくなりました。というかもうオレの発言はそういう<br>なんかいってるし。みたいに取られるから本当に悲しくなる。まいいんだけど。<br><br>先生が言うにはかっこよさというものに感応してるのではないか。ということだった。<br>確かに、女性が働く場合男性との比較が無意識のうちになされる。<br>要は、男性にも負けない女性の強さへの憧れ。というわけだ。<br><br>僕は経験的に女性の就労者ははっきり言って嫌いで、何より能力に劣るし<br>今日も言われてたけれど国の支出がかさむ。という点で合理的でないと思う。<br>そういうのはナンセンスだといわれるけれども、やっぱり役割というのは大事だなと考える。<br>主婦ってやっぱり役割分担という意味では効果的であるし<br>何より主婦のやってる事を軽んじてる風潮がいささかあるといのもいけすかない。<br><br>「かっこよさ」というのもやっぱりどこか疑問を覚える点で<br>主体性にかけてると思う。オリコンチャートで音楽を語るがごとくと言える。<br>かっこよさ。を全ての人が求めているというのはどこか不快だ。<br>果たしてかっこいいといのが全ての人に絶対的な価値を持っているのかというと否といえるし<br>やっぱりそこは主観的な面が大きく作用しているぶん<br>働く女性に対して主体があるのかと疑問を覚える。何故ならやっぱり役割分担でいうなら<br>誰かが家にいたほうが効果的で、それはやはり女性の方が向いているから。<br><br>しかし現代の社会構造上共働きはもはや必然だということを先生が言っていた。<br>そうなんですよね。男一人の給料で一家を養えるだけの給与がいただける世の中ではない。<br>故の晩婚化あるいは独身者の増加という事につながるとか。<br><br>うちの事を言うなら、やっぱり共働きなんだけれども、それ故の疎外感というか<br>理不尽な思いを何度か感じたことがあって、そもそもうちは特殊だとは思うけれど<br>それ抜きにしても今の自分はそういう幼少期の体験の結果だ。と思う。<br>これは想像の範疇を出ないのでなんとも言えないけれども<br>いつも母親が或いは父親がいない。鍵っ子。だとか。当然それによって<br>家族で出かけるだとか交流だとかいうのは人並み以下だったので<br>必然的に平均とはずれた子供ができあがるのではないかと心配である。<br>もちろんまともなやつはまともだけどね。恐らく全体的には病んでる子供を生むきっかけ<br>となっていると思う。共働きは。<br><br><br><br>思うにやっぱり性差の問題に集約される。この問題は。<br>問題としては、男女の近似値をとり、人を普遍化するような問題。<br>そしてその段階で起こる大衆心理と、弱者への攻撃。等。<br><br>男女の境を無くすというような狂気的な意気込みは何に端をほっしているんだろうか。<br>フランスでは企業の女性就労者を40％とする法律があるらしい。<br>日本でも男女雇用機会均等法だとか色々あるけれど<br>何故男女の垣根を取り払わなけれならないのか疑問である。<br>見て分かるが体力的な面で劣る女性をわざわざ働かせる事にメリットはない。<br>幸福権の追求というのなら、女性が男性並みに雇用を求めなければ男性あるいは全体の<br>幸福は守られるように思う。<br><br>幾ら社会構造上女性の就労者が必然であったとしても<br>40％という点や明らかに男性の就労者の需要が多い分<br>働く女性への憧れというのはエゴイズム、あるいはかっこよさに起因しているとするなら<br>主体性の喪失が原因のように思う。<br>だから、と言えるかもしれないけれど、仕事の出来る女性って魅力がある。<br>そこはまたジェンダー論の不毛な点で、女性を見下してる気がする自分に嫌気がさす。<br>
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<link>https://ameblo.jp/mtmttpp/entry-11565902689.html</link>
<pubDate>Wed, 03 Jul 2013 22:07:32 +0900</pubDate>
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<title>あvりl　ヴぃんght　ふいt　ぢまんちぇ</title>
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<![CDATA[ げんざいボクは、５月８日の発表に向けて絶賛実存中。<br><br>毎回思うけれど哲学書のまとめなんて誰も聞いちゃいない。<br>ボクもフランス料理だとかフランス人の性癖だとかに全く興味をモテないから聞いちゃいないんだが、それは他の人もそうなわけですね。<br>最早何のテーマであっても誰も何も聞いちゃいないあの数十分間はなんなんだろうか。<br>ボクは何の為にあすこに実存してしまうのでしょうか。というようなテーマの小説で挑みます。<br>もう。こんなテーマ本当はなんてことのない口笛はなぜ遠くまで聞こえるの位の悩みなんだけど<br>いちいちそれを論理建ててみようという発送に至るアイツらったらホンマにこまったもんやね。<br>どりゃどりゃおいさんが君のいでおろぎーを要約して大学生に流布してあげようかね。<br><br>サルトルの嘔吐なんですが、この小説はマジに俺を殺しにかかってる。<br>嘔吐はそれ以前のサルトルの哲学思想を反映していて、それらが主題に置かれているからだ。<br>つまりこの小説を話すとなるとサルトルの哲学を下地にした解説が必要になるわけだ。<br>お分かりだろうか。興味のない話における起承転結の「起」<br>最早この起というチャンスを逃せば最後。承転結を聞くバカはいない。<br>オレは哲学になんて興味のない所謂四面楚歌の場にオモムキ、こう語りはじめる。<br>「えー、まずー、さるとるのー、即時存在、対自存在、という存在のあり方についての～」<br><br>そもそも小説として面白くなく起伏がないというのはいただけない。<br>そういった日常における哲学であるのは十分しょうちなんだけどね。<br>せめて水入らずくらいのドラマがないと哲学抜きにして語るっていう暴挙もできないわけ。<br>独学者という性的倒錯者が勉強というバイブルを携えた恋のルサンチマンなんですよゲヘヘ～<br>って言えないからね。<br>
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<link>https://ameblo.jp/mtmttpp/entry-11520324869.html</link>
<pubDate>Mon, 29 Apr 2013 01:42:59 +0900</pubDate>
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<title>あpりl　ぢxせpt　じぇうぢ</title>
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<![CDATA[ サルトルの嘔吐に出てくるてつがくのメタファーで音楽を哲学になぞらえてました。<br>曰く、音楽を聞く人は確実に辿るであろう音の連なりを期待し<br>それが終わることすらも望んでいる。<br>という話で、哲学的には、確実に辿るであろう運命的な未来を期待しつつも、死ぬことを望む。<br>といったところでしょうか。<br><br>何で嘔吐なのか、というと、学校でフランス文化演習とかいう授業を受けてて<br>これはぼくの行ってるフランス語専攻科では必修で去年も前後期受けた授業なんすよね。<br>何がイヤかといういと本を読んで発表するんだけども<br>ボクはいつも先生直々にトップバッターに任命されるんすよね。<br>正直もうどういう意図でそうしてるのか知らないけど毎回の事だし諦めてる。<br>故に発表まで時間がないので既読の小説を発表したろおもて嘔吐。<br><br>実存主義は文系の中の文系って気がする。特にカミュとサルトルはボクが思うに<br>太宰から今に至るまで変わらない、もやし系のメンヘラ作家が世界的に認められた例だと思う。<br>今はオタクもなんか活発になってて岸田メルとかパンピー、オノマトペ大臣とか<br>NERDらしくないNERDが増殖されつつはある。でも彼らは所謂ファッションオタクの最たるもの<br>だと思うんですよね。だってヲタってのは人間との関わりがめっちゃ怖くて<br>だから何かに没頭せざるを得ない欠陥人種だと思うからですよ。<br>人生楽しんでるヲタなんてヲタと認めたくないし、ヲタのなかでヒエラルヒーできちゃったら<br>もうインドじゃん。インドいいとおもうけど。<br><br>考えるにサルトルはヲタクの中でも現代では代表的なネトウヨ的なヲタだと思う。<br>哲学者が自由っていう観念を否定しがちなのは、ある意味ヲタ特有の変に固執した<br>アンチイズムからくる発想でもあると思います。<br>自由の否定っていう論理が結構整合性とれてて納得させられてしまうのは<br>やっぱり形而上学がアンチノミーを抱えているからなんだろうけれど。<br><br>サルトルはアンチの中のアンチで、自由アンチアンチなわけだけども、そういう態度は<br>ヲタ特有のなんか癪に触る論法なんすよね。<br>そして、有史以来哲学者が渇望してきた自由をネガティブに捉えるところ。<br>ここはもうやっぱメンヘラだなと思う。自由をネガティブに捉えるって凄い発想だけど。<br><br>それで、哲学のメタファーとしての音楽。は凄く奥が深いなあと思わせるわけ。<br>先ずそもそもサルトルは文章がすごい上手くて、簡潔でしかも詩的な事書いたり<br>哲学的な思索を描写するとこなんかめっちゃうまい。<br>音楽と哲学を並べるっていうのも文学的には素晴らしいと思う。<br>一つ一つの和音が終わる事を望んでる。っていう発想だけでノーベル賞あげてもいい。<br>しかもサルトルはノーベル賞辞退しますからこれもなんか癪に触るヲタ臭さがある。<br><br>音楽って具体的にはジャズのこと言ってるんやけど<br>現代的にいうとラップと哲学は似てるなと思う。<br>ビーフだとかサンプリングだとか主張的なとことか。<br>要は哲学もラップもヲタの集客率がいい。というのも色んなファクターがある事と<br>それらはいっぱい語る事があるということ。そういうトコ似てる。<br>ラップやジャズはどちらかというと実存に訴えるコンテンツで<br>哲学は本質に訴えるものだけど、比喩のやり口としてサルトルは凄いうまいことやってる。<br><br>それで運命愛的な事を言っているのかは不明だけど多分そういうことなんだろうなあ。<br>終わることすらも望む。という考え方は。<br>パスカルの人は考える葦だとか、コギトの影響も伺えてめっちゃサンプリングしてるやん<br>と思いました。<br><br>あと、サルトルはエンタメに富んでるなと思う。それは勿論カミュとのビーフで<br>カミュとサルトルっていう実存主義者同士の仁義なき戦いは<br>jay-zとnasのビーフを彷彿とさせるし<br>二人のまあ正反対のいろんな特徴はジャンプか！NARUTOか！と思わせるんすよね。<br><br>面白いんやけどやっぱりとっかかりが重要で<br>多分ぼくが発表するクラスの人たちはラップも哲学も興味ないだろうし<br>かと言って哲学なしに嘔吐をまとめるのは違和感あってダメだろうし。<br>あいつらちゃんと実存してないからなあ。
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<link>https://ameblo.jp/mtmttpp/entry-11513509058.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Apr 2013 03:15:37 +0900</pubDate>
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<title>まrs　tれんて　さめぢ</title>
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<![CDATA[ 3月と9月にほぼ必ず風邪を引くぼくですどうも。<br><br>ぼくと言えば界隈ではひ弱な頭皮が有名で<br>勉強したくらいのストレスで毛が抜けてしまう。<br>むしろストレスもないのに円形脱毛症に陥る。<br>という20代後半でイっちゃうタイプのモノホン臭さ故に付いたあだ名は数知れず<br>不毛の大地、タクラマカン砂漠、むしろハゲにしては毛量多い方、エトセトラ。。。<br>世間は僕たちをじっぱひとからげにしてこういいます。ハゲ、と。<br>「ハゲ」。この９９％笑いを誘う鉄板形容詞。<br>ぼくはこの言葉で形容される度、面白おかしく笑い声をあげる周りからは<br>一人隔絶されたかのような錯覚に陥り、一人乾いた笑みを浮かべるのです。<br><br>春と言えば生命の季節です。花は咲き、太陽のヒカリが降り注ぎます。<br>日差しが気になり始める季節でもあり<br>この時期になり漸く日傘やつばのついた帽子を見かけるようになります。<br>僕たちが避ける陽光を一身に受け育つ小さな草花が<br>この時ほど視界に映り込んでくることはないでしょう。<br>四月を堺に緑はあらゆる場所に芽を出し始め、その神出鬼没さや<br>アクロバティックな根の張りどころには感心してしまうことさへあります。<br>その後六月を過ぎる頃には、この時期程の緑に対する新鮮味は失われ<br>ただただ、夏の日差しが鬱陶しく体に這うのを我慢しながら歩く事になるのです。<br>毎年入学式や卒業式のニュースを聞くたびに<br>ああ、始まりの季節がやってきたんだなあ。とぼんやり考えます。<br>しかし、始まらないものもあるということを忘れてはなりません。<br>死んだモノはもう二度と、二度と戻ってこない。二度と。<br>数年前に死んだ猫や数年前に死んだ某バンドのボーカルなどを思い浮かべつつ<br>ネットの世界から現実に立ち返り、キーボードを叩くぼくは<br>テーブルの向こう側にある鏡を見つめこう呟くのです。<br><br><br><br>コレが現実頭皮。<br><br>しかも今普通に現実逃避ではなく現実頭皮で一発変換された事に驚きを隠せません。<br>いや、隠してはないです。
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<link>https://ameblo.jp/mtmttpp/entry-11501613740.html</link>
<pubDate>Sun, 31 Mar 2013 04:35:45 +0900</pubDate>
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<title>人間仮免中</title>
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<![CDATA[ 読みました。漫画だから肉感がなくてよかったと安心しました。<br><br>幻聴と妄想の悩みはある程度理解できる部分がある。<br>あれらと現実は割り切れないんですよね本当は。<br>あれらは結局非現実という経験であるので、意識するまでもない妄想であるにせよ<br>ああいった事があった。という現実の僕の記憶までは否定できないので<br>その分心に病理が巣食ってしまう気がします。<br>それが救いだなと感じたのは、やっぱり生きるっていう本能には抗えないということで<br>そこから出てくる感情なのかもしれないけれど、優しいだとか人情だとか<br>その手の他人から僕に向けられる気持ちはそれこそ妄想や非現実だとして<br>僕の心が経験して記憶したものだという事です。<br><br>要はなんでもいいとかどっちでもいいとかそういう事ですね。<br>僕がなんであっても誰が何か言うわけでもなくて、無関心であったり<br>むしろ侮蔑してるのかもしれないけど、それだった別にどうだっていいんですよね。<br>侮蔑される僕という様態は許されてる。と言えると思います。<br>誰に許されてるわけでもないですけど。<br><br>この漫画のような世界があることを長いこと意識し忘れてたんですが<br>最近感じなかった居心地のイイ感覚を思い出せました。<br>マトモじゃない。とか異常者だとか白痴だとかが現実の中に居続けるのは本当に大変で<br>彼らと比べたら僕はいくばかマシだけど、やっぱりキツイ。<br>精神力を使ってる様子が描かれてあるけれど、あの感覚は常人には分からないと思う。<br>僕の場合は常に緊張状態で汗をかき、無意識の内に奥歯を一日中噛み締めてるから体が疲れる。<br>寝れない。そして特に他人の視線がもうやばい。等、色々重なって軽く発狂したくなる。<br>卯月なんとかさんと比べると楽園だろうけど。いやしかし常人と異常者は仲良く出来ないのかな<br>と思って諦めてたけど、どうなのかな。<br><br>学校に通い始めてもう10ヶ月経ちますけれど、最近漸く少しだけ外に出るのに慣れてきました。<br>まだ人と話すのはイヤだし、今日も知り合いにちょっと失礼なことしたけど<br>少しずつ慣れてきてる感覚はあって、前みたいにうまくやれるかもしれない。<br>という兆候があるようなないような。許されてるという観念があるから今は結構大丈夫気味。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/mtmttpp/entry-11456100425.html</link>
<pubDate>Thu, 24 Jan 2013 21:51:54 +0900</pubDate>
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<title>言葉に関するアプリオリな思索</title>
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<![CDATA[ 私が普段考えている事柄の中でも最も頻繁に思索する事は「言葉」だ。<br>それ以外について考えている時ですらそれらは言葉に関する事であるし、全く関係が無い事でもそれを言葉の角度からついつい考えてしまう。<br>言葉の力っていうと胡散臭いが、その効用や概要というのは考えるほど深く有用で、例えば石ころ一つとってもそれを石として捉える事が出来るのは、省略されているのは言うまでもないが「認識」という言葉の羅列を頭の中で上手く繋げている事に依る。<br>こんな具合に視覚によって捉えられ、頭に放り込まれる映像ですら僕たちの中には言葉がつきまとう。<br>いや言うなれば映像それ自体最早言葉と言える。手話で聾唖者が会話する様に、仕草で人間が何かを理解するように、文字による言葉とは違う物質自体が理解を招く言語となっている。<br><br>石を石と理解する事にはどういう行程がなされているのだろうか。恐らく認識するという事が理解への要素としてあるはずだ。石を石と認識するとはどういうことか、もしくはどういう行程を辿るのか。<br>人はこれが石だと教えられ石を知るのだろうか。普遍的な石概念を知り記憶の中の石概念に映像を重ね合わせ、そこで初めてそれが石だと知るのだろうか。<br>いや先ず石という言葉を知る。石のゲシュタルトが崩壊しつつあるが、話を進めると、「石」というモノがあると知らされる以前に、「石」という言葉を先ず僕たちは認識するはずである。<br>この固く重い物質は何か？と人に訊ねた時彼は僕にこう言う「これは石だ」と。<br>その瞬間に僕は先ず石と物質的な石を結びつけ理解へと至るだろうが、その前に「何か（石）」という映像を僕は視覚によって、本質的な事は知らないが、知っている。そう重要な事は知っている。という事だ。「何か」について知っている事柄と言えば、ココにあり、固く、重い。<br>そして言葉としての「石」を吟味してみると、それは知識に過ぎず、いわゆるドクサにその位置を留めるだろう。こうしてその二つが結びつき理解が起こるわけだ。<br>では前者の映像としての「石」は一体なんだと言えるだろうか。それは「石」を知らないものにとって、「石」を知るものに対する「石」と何が違うと言えるだろうか。例えば石の事を指示代名詞で表していく限り両者の会話に不都合はない。<br><br>僕たちにとっての言葉とは、理解し、理解され、表す事。この三者だと考える事ができる。石の映像はそれらを全て満たしている。手話のように。<br>言葉とは何かと考えるに「現れ」だ。物質的な事柄達は、視覚によって、触覚によって、僕たちに理解されている。それは会話を発達させた僕たちが、写真によって記録を伝えるように、物を表象し、させているに過ぎない。というかそれ以上も以下もなく、ただ漠然とそうだと無関心に頷く以外何もないわけだが。<br>よって言葉はアプリオリだと言える。何故なら考える事以前に、僕等が「ある」こと自体そいつが言葉だと言う事に問題があるように思えないからだ。
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<link>https://ameblo.jp/mtmttpp/entry-11421080585.html</link>
<pubDate>Thu, 06 Dec 2012 02:29:21 +0900</pubDate>
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<title>vingt-huit octombre</title>
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<![CDATA[ 近頃いろんな映画を見てるんやけど、スラムドッグミリオネアはなかなかよかった。<br>M.I.A.のpaper planeが使われてて、あの歌詞とインドのスラムの日常っていうのは、アメリカだとか先進国のゲットーとはまた違ったプロレタリアの闘争を想起させる。<br>あんまりいろんな事を考えないですむ、感覚的に面白いタイプの映画で、アクション映画みたくその場その場で起こるちょっとした出来事に注視せざるを得ないから、映画が終わった後には何も残らないけれど、さほど意味もない場当たり的なシナリオで進むアクションに対し、スラムドッグミリオネアはその場その場の出来事が全て集約して映画の最後へ収束する。という点が評価されるのではないでしょうか。<br><br>ひとつだけ残念な点があって、それはインド映画ではおなじみなんだろうが、エンドロールで役者全員が踊りだすんだな。こういう伝統は大事なのかもしれないが、不変というのは罪だなと思う。緊迫した映画を見終わった後に、修羅場を潜った主人公とヒロインが笑顔でわけのわからん踊りを舞うなんてのは、はっきり言って台無しと言わざるを得ない。マジ台無し。<br><br>あとグランブルーね。これこそ映画だと、これが映画の中の映画だと思った。<br>心に残る映画ってあんまりなくて、量的な問題もあるんだろうけれど、小説や漫画みたくなんか頭の片隅に引っかかってる。だとかいう映画はない。<br>今でも映画は文章や絵より劣ってると思っているわけだが、それはなんか視点を固定されてしまうところに、何か解釈を強要されてる感があるからだね。<br>つまり僕らが見ているのは登場人物を見てるカメラであるからして、何か彼らの心だとかになかなか到達しづらい。人物をどう捉えたか。という第三者を観てる感じがあんまり合わないんだな多分。<br><br>グランブルーはとにかく主役の演技力が半端じゃない。名前すら思い出せない僕はやっぱりアホなんだけれど、彼は今まで見た役者の中で一番かもしれんなマジで。<br>主役のマイヨールがヒロインのジョアンナにコーヒーを渡して、しばらくここに滞在するのか？と聞くシーンがあって、ジョアンナはいやすぐアメリカにもどるよ。と伝えるんだけれど、その時のマイヨールの微笑み。この演技で映画の世界に引き込まれたわけだが、その後のマイヨールのキチガイっぷりやジョアンナのマイヨールに対する苛立ち、ジャンレノの魅力だとか、やっぱり調和してて最後のフェードアウトまで気持ちよかった。つうか最後のフェードアウトがあまりにも完璧すぎてこみ上げてくるものがありましたわ。<br>結局人物の中に入って彼らの気持ちだとかを共有するの事はできなかったんだけれども、圧倒的な演技力ってのはカメラの視点に視聴者を立たせるのだなと。そこに至ると人物との距離が狭まって、より彼奴らを感じる事ができる。映画っていいですね。うるせー<br>
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<link>https://ameblo.jp/mtmttpp/entry-11390939798.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Oct 2012 18:37:34 +0900</pubDate>
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