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<title>無駄知の独り言</title>
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<description>気の向くまま、思うままの随筆</description>
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<title>現在の日本に欠けているもの</title>
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<![CDATA[ 　現在の日本に欠けているもの、それは、セーフティネットである。<br><br>　最近、大学教授、経済評論家、ベンチャー起業家と立て続けに講演会に行った。彼らは、閉塞感のある現状を憂いて、また、自らの体験を交えて、改革の必要性を説く。もちろん改革の方向性は人によって若干異なるが、だいたいのところ、何らかの規制緩和論が多い。<br><br>　問題は、どのような世の中になるのか、である。もちろん、彼らなりに素晴らしい世の中になるようなのだが、注意しなければならないのは、彼らが成功者である点である。成功者にとって素晴らしい世の中は、往々にして失敗者にとって辛い世の中である。そして、往々にして、失敗者が圧倒的多数を占める。改革の必要性が問われており、一定の支持を集めながら、（逆に言うと一定の支持しか集められないで、）実行に移せないのは、そのロジックを世の中の「失敗者予備群（あえてこの字を使う）」がわかっているからではないか。しかし、実は失敗者予備群の中にも多くの成功者予備群が含まれている。この成功者予備群は、多くの場合、才能がありながら、失敗を恐れて踏み出すことを躊躇しているのだ。これは大きな損失である。<br><br>　では、どうすれば良いのか。成功者予備群が、失敗してもリカバリーできる仕組みを作ればよいのだ。それがセーフティネットの充実である。セーフティネットがしっかりしていれば、失敗を恐れずにチャレンジすることができる。失敗しても、元の位置、乃至は、その近辺に戻れるようになれば、失敗を恐れずにチャレンジできる。もちろん、才能不足の人のチャレンジも多くなるだろう。しかし、それは、社会を活性化させるためのコストである。結果的によりプラスが生まれれば良いのだ。<br><br>　セーフティネットにはいろいろな種類がある。もちろん最大のものは、金銭的なものである。しかし、もしかしたらそれ以上に必要なものは、慣習的なものかもしれない。我が国では、一度失敗すると、視線は厳しくなる。これが、さまざまなものに影響していると思われる。これを変えるには・・・。一つの方策は、失敗して再起して成功するパターンを多く輩出することだろう。そのためにも、セーフティネットの充実が望まれる。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/muadchi/entry-11558448712.html</link>
<pubDate>Sun, 23 Jun 2013 01:03:45 +0900</pubDate>
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<title>インフレターゲットということは</title>
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<![CDATA[ 　現政権になってから、経済の諸指標の改善が著しい。特に円安については、目を見張るものがある。ファンダメンタルズの改善の実績がないうちから、こんなに円安になると言うことは、円安になる条件が整っていたにも関わらず、最後の一押しがなかっただけなのではないかと考えたくもなる。本当のところは、専門家に任せるが。<br><br>　その現政権が打ち出した政策に今後２年間で２％のインフレ、というものがある。最近は、インフレ率もコンマ以下ばかりだったから、ものすごく大きな数字である。市場もそれに好意を抱き、日経平均等の劇的な上昇が現れたのだろう。<br><br>　しかし、２％のインフレと言うことは、単純に考えると、物価上昇が２％になることであり、それは、長期金利の上昇を招き、国債の利回りの上昇も招くことになるのではないか。もちろん、そうなるには複雑な過程を経るのだろうし、時間もかかるだろう。しかし、いつかはそうなるはずである。そうなると、当然、住宅ローンだって、それの影響を受け上昇する。<br><br>　というように思っていたのだが、ここに来て、住宅ローンの金利が上がり、大変なことになる、という空気が流れている。最初から予想されていたことと思うのだが。
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<link>https://ameblo.jp/muadchi/entry-11543560520.html</link>
<pubDate>Mon, 03 Jun 2013 00:54:40 +0900</pubDate>
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<title>紙の天下</title>
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<![CDATA[ 　電子ブックが昨年あたりから話題である。いや、何度も話題になったが、そのたびにいつの間にか有耶無耶になり、いつしか忘れ去られていった。しかし、今回は、過去に較べて現実味が違う。漸くイノベーターでもアーリーアダプターでもない一般人が、検討する環境が整った。端末にもいくつか種類があるし、それにより規格も異なるようだから、かつてのＶＨＳとβのように、まだ、淘汰があるのかもしれない。また、ＶＨＳがＤＶＤに、さらにはブルーレイになったように、規格の進化があるのかもしれない。<br><br>　逆説的なようだが、電子ブックを巡る一連の動きをみて、あらためて「紙」という媒体の優秀さを感じている。紙の発明は、蔡倫と習ったような記憶であったが、WikiPedia先生によると、現在では、蔡倫の生きていた時代よりも古い紙が発見されているらしい。蔡倫の時代からでも1900年程の時間が経っている。その間、第一線の記録媒体として活躍してきた。記録が容易でかさばらず、軽く、一定の条件が保てれば、保存性にも優れている。また、記録されたものを読み取るのに必要なのは視覚だけである。現在でも、これらの性質の全てを凌駕する媒体はない。<br><br>　一部だけ、特に容量という点では、ＨＤＤやＳＤカード、いや、大昔のＦＤですら、紙を凌駕している。およそ30年ほど前であろうか。ＯＡという言葉が出回り始めた時期、ＦＤ一枚に新聞が何年分も入る、というような説がビジネス雑誌をにぎわした（そのころは８インチＦＤだろうか。）。だが、そのころ、本当に新聞記事をＦＤに入力したとして、今、再現できる可能性は少ない。技術の進歩がＦＤを過去の遺物とし、読み込める機器の入手を困難にしたのである。また、ＯＳも変わっているだろう。もちろん、あのペラペラの茶色っぽい円盤を見ていても、何もわからない。お金をかければ、わかるかもしれないが、その作業は、古代文字の解読に近い作業かもしれない。<br><br>　また、現在であっても、多くの場合、保存は紙に出力して行われる。この時代になっても紙の優秀さは、揺らいでいない。強いて言えば、インターネットの発達により、保存年限が短いものについては、取って代わっているようである。その代表がメルマガだろう。また、ある文章を世の中に問う、的なもの、意見、評論、小説といった著作については、紙を伴わず、インターネットを利用することにより、恐ろしく敷居が低くなった。誰でも気軽に参入できる（影響力があるかどうかは別である。）。これは、紙が果たしてきた役割の一部を代替したともいえるが、むしろ、インターネットの発達によるものと捉えるべきだろう。<br><br>　紙の天下は、まだまだ続くだろう。
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<link>https://ameblo.jp/muadchi/entry-11529404422.html</link>
<pubDate>Mon, 13 May 2013 00:14:26 +0900</pubDate>
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<title>マスコミを考えてみる</title>
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<![CDATA[ 　ネットでは、いろいろな意見を目にすることが出来る。もちろん、その気になって、情報を取りにいかなければならないが。そうすると、一つの情報だけに頼っている（例えば新聞を一紙しか購読していないとか）ことが、如何に危ない自体であるかが、よくわかる。これは今までも言われてきたが、毎日、図書館でも通わない限り、複数の新聞を目にするなどということは、財布が許さなかった。しかし、今はネットにより、多くの新聞を、断片的にではあるが、読むことが出来る。また、マスコミ以外の多様な意見を目にすることが出来る。しかも、総合すると、どうも、マスコミによっては、視点が一方的ではないか、と思えるものも多い。<br><br>　一体、マスコミの存在意義とは何だろうか。もちろん、事実を正確に伝えること、はある。しかし、これは、意外と難しい。どうしても見る人の主観が入ってしまう。主観を排除することは事実上出来ないから、割り引いて考える必要がある。もっとも、我が国のマスコミは、何故か、絶対に客観的というスタンスを取っているが。また、社会の木鐸と称していたことがあった。これは、人びとに警鐘を鳴らす存在という意味で使われる。<br><br>　しかし、どうも最近のマスコミは、社会の木鐸足りえているのだろうか。マスコミは、権力に対抗してこそ価値があるのではないだろうか。権力者は強い。情報発信力もある。それに対して、権力者に支配を受ける側は弱い。もちろん、民主主義の下では、権力者は、支配を受ける側からの審判を選挙という形で受ける。しかし、昨今の選挙違憲判決を見るまでもなく、権力者は、選挙制度に関してさえ、恣意的に操れるのである。<br>　そこで、登場するのがマスコミである。マスコミは、権力者に負けず劣らずの情報発信力がある。それを駆使してこそ、権力を監視できるというものだ。したがって、常に権力に対して抵抗勢力であって良いのだ。それがために首尾一貫しなかったとしても。例えば、政党Ａと政党Ｂがあり、両者は180度異なる政策を掲げていたとする。マスコミは、政党Ａが権力の座にあるときは、Ａの政策を批判（結果として政党Ｂを支持）し、政党Ｂに権力の座が移ったとたん政党Ａの政策を支持で良いのだ。何故なら、どんな良い政策でも、複雑な現代社会では、メリットもあればデメリットもある。そうした中で、忘れられがちなデメリットを強調することが、よりよい政策の遂行となるからだ。<br><br>　今から10年ほど前。構造改革を掲げ、なんでも二分し、自分と意見の違う者は、全て「抵抗勢力」とレッテルを貼り、排除していった権力者がいた。彼は、構造改革が成し遂げられれば、「素晴らしい世の中になる」と言ったが、誰にとって素晴らしいのか、具体的にはどのように素晴らしいのか、は、ついに語らず終いだった。当時のマスコミは、それでも、こぞって構造改革を賞賛した。その結果、格差社会が進行していった。当時、格差社会が進行することは、一部から言われていたが、大きく取り上げられることはなかった。
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<link>https://ameblo.jp/muadchi/entry-11511577297.html</link>
<pubDate>Mon, 15 Apr 2013 00:36:43 +0900</pubDate>
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<title>最近のテレビは</title>
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<![CDATA[ 　テレビがつまらなくなったと言われて久しい。ある意味当たり前だろう。これだけ嗜好が分裂し、様々な楽しみが増えてくれば、一つの媒体で、全方位的に魅力を保ち続けることは不可能だ。新聞だって購読者が減っているし、雑誌だって苦しい戦いが続いている。どの媒体だって、その一部にはファンがいるものの、全面的にファン、という時代は、既に過去のものだ。<br><br>　それを差し引いてもつまらなくなった、という声も多い。ニュース番組は、表層的で、深みがなく、あったとしても問題提起だけ。ドラマは、俳優の人気に乗っかっているだけ、毎クール順列組み合わせの出演者。スポーツは、一方的に騒いでいるだけ。特に国際試合は応援に名を借りて騒いでいるだけ。解説ではなく、応援と結果論しか言わない解説者。バラエティは、楽屋落ちかあげ足取りのネタばかり。やらせは我慢するとしても。ドキュメンタリーは、いかにもお涙ちょうだい的なものが多い。こうすれば、視聴者は感動するだろうという計算が透けて見える。<br>　まぁ、総じてこんなところだろうか。全部が合っているとは思わないが、肯けるものも多い。<br><br>　最近テレビの言葉遣いで違和感を覚えることが二つある。一つは、さん付けを多用することだ。出演者同士がお互いを呼び合うときに「○○さん」と呼び合うのは良い。しかし、ナレーションが次週の予告などで「○○さんが△△をします。」というのはいかがなものか。それでもかなりの年配者ならばわかる。しかし、若手や中堅と言われる出演者までそういう扱いをする。<br>　もう一つは、トーク番組やクイズ番組などに多いが、「○○さんが遊びに来てくれました」と言う表現を使う。遊びに来ているわけないだろう。仕事で来ているのだ。そういうときに限って、ドラマや映画の告知が多い。誰がどう見ても仕事である。当然ギャラだって貰っているだろう。貰っていながら「遊び」はないだろう。<br><br>　ギャラの話では、ダイヤモンドオンライン2012年12月28日号に降旗学氏がいろいろと書かれている。検証する術を持っているわけではないので受け売りだが、ブレークし立ての若手芸人でも単発の出演料で15万円だそうだ。大物になると何百万円という単位になるらしい。一般の世界と桁が違うのである。かつて、テレビＣＭの世界を垣間見たことが合ったが、他の媒体とは桁が違った。<br><br>　こんな世界では、一般と感覚が遊離していくのは当然であろう。高度経済成長期で、全体のパイが大きくっていった時代であれば、まだ許されたかもしれないが、今では無理がある。<br><br>　まだまだ途上ではあるが、TwitterやFacebook、YouTube等を含むネットという双方向の媒体は、誰でも発信者になれるし、誰でも好きなものを購読できる。ある専門集団が一方的に発信する媒体は、いろいろな点からプロとしての矜持を示さないと廃れていくことになるだろう。
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<link>https://ameblo.jp/muadchi/entry-11501559497.html</link>
<pubDate>Sun, 31 Mar 2013 01:01:53 +0900</pubDate>
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<title>世の中に絶えて桜のなかりせば</title>
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<![CDATA[ 　　世の中に　絶えて桜の　なかりせば　春の心は　のどけからまし<br><br>桜の花が満開である。入学式に桜というのが風物詩であったと記憶するので、２週間ほど早い。温暖化の影響でないことを祈るばかりである。冒頭の歌は、古今集に採られている在原業平の名歌で、伊勢物語第八十二段でも有名である。もっともこの季節には、そこかしこの雑誌等で、この歌が書かれることだろう。<br><br>　それにしても、（少なくとも表面的な意味においては）なんとも浮世離れした歌である。生活の匂いを微塵も感じさせないといおうか。いや、他にも生活の匂いを感じさせない歌はいくらでもあるが、それにしても桜だけ気にして生きている、ってどこまで浮世離れしているの、といった感がある。<br><br>　桜という言葉が、天皇の位を指すという説もあるようだ。そうすると、藤原氏とのからみで若干きな臭くなってくる。<br><br>　天皇の位云々はさておいて、「桜」何を指すかを考えてみると面白い。桜が気になって仕方がないのだkら、「桜」は煩わすものの表象だろう。この歌の作者である在原業平の場合は、何なのだろうか。名門貴族に生まれながら、歌人としての道しか残されていなかった。本人的には、もっと政治の道で上り詰めたい、という気持ちもあっただろうが、本人の才覚、藤原氏の存在等々により、それをかなえることが出来なかった。彼が単なる凡人であれば、境遇以上のことは望まなかったかもしれない。しかし、彼は才能があったがために見えたのだろう。自分よりも才能が劣る者がどんどん出世していく姿を。いや、もっと深く、物事の本質を。そのような才能こそ彼にとっての「桜」だったのではあるまいか。自分にこんなに本質が見えて来なければ、そんなことで悩まず、もっと気楽に人生を送れたのに。<br><br>　伊勢物語では、この歌に続いて<br><br>　　散ればこそ　いとど桜は　めでたけれ　憂き世になにか　久しかるべき<br><br>という歌が続く。この歌とセットになると、無常観が全面的に押し出され、無常を意識した中での日常という面が押し出される。伊勢物語は、虚実がないまぜになっている物語であるから、どこまでが真実かはわからない。しかし、上記に解釈だと、野心が透けて見えることにもなりかねず、さらに抹殺される可能性もあったかもしれない。伊勢物語の文脈からであれば、無常観が表出されるのみである。<br><br>　それにしても、いささか旧聞になるが、東武鉄道がスカイツリーの開業に合わせ、業平橋駅をとうきょうスカイツリー前駅に改名した。確かに最寄の駅であるし、地域活性化に必要だったかもしれないが、もっと名前を大事にして欲しいと思う。<br><br>
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<pubDate>Sat, 23 Mar 2013 18:55:55 +0900</pubDate>
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<title>秋葉原電気街の終焉</title>
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<![CDATA[ 　2013年３月20日を以って、旧石丸電気秋葉原本店（現Edion秋葉原本店）が閉店する。石丸電気としては、（資本関係はともかく）昨年10月に看板をEdionに変えていたので、既に消滅している。しかし、建物としても店舗としても消滅する。旧石丸電気の店舗としては、万世橋交差点角にEdionAKIBA店があるが、大きさでは雲泥の差であり、残滓が残るといった趣か。秋葉原の電気街を形成した多くの店舗の象徴的存在であった旧石丸電気本店が閉店となるのは、一つの時代を象徴するようでもある。<br><br>　秋葉原は、「オタク（ヲタク）」という言葉が無かった時代から、オタクの街であった。戦後の電気部品の時代から始まり、ラジオ、テレビ、白物家電と言った電気製品の街、ステレオが普及し始めた頃のオーディオの街、そして20年ほど前からのパソコンの街、そして、アニメ・メイドといった文化の街。主は替われど、器には一貫して時代の文化の先導的なものを入れてきた街であった（もっとも一貫して電気関連のハードの街だったのが、最近になってソフトの街になった。）。その意味で、旧石丸電気本店が閉店となるのは時代の流れであろう。あれほど隆盛を誇った電気街もオノデン等極少数の店しかなくなった。その代わり、駅の逆側にはヨドバシがある。<br><br>　石丸電気は、1945年創業の老舗である。最盛期には秋葉原地区だけで15店舗もあったらしい。秋葉原の多くの店舗が淘汰される中で、秋葉原には珍しく店内を見て回る客に店員側から声をかけない、という接客を行い、客が自分のペースで見て回れるという特徴を打ち出した。それがウケ、秋葉原の中では、価格は低いほうではなかったらしいが、生き残りに成功した。しかし、家電を秋葉原に買いに行くという時代は、とうの昔の名残である。その後、時代はヤマダ等の郊外型店舗を経て、価格の関係からネット通販に移りつつある。実在の店舗は、現物を確認するショールームの役割しかなく、ショールーミングなる言葉も存在する。<br><br>　その価格であるが、かつて秋葉原が隆盛を誇ったのも価格の安さ故であった。所謂パパママショップが家電販売の中心であった時代は、定価販売が普通であり、秋葉原価格は、当時の価格破壊であった。しかし、今や閉店セールでついている価格ですら、ネット通販の価格はもちろん、郊外型量販店の価格にすら負けている。このような価格しか打ち出せない体制では、維持は難しいだろう。<br><br>　いしいひさいちの作品の中に出てくる言葉で（正確でないかもしれないが）「閉店する店があるのは問題ではない。問題なのは、次に入る店が無いことだ」というものがあった。幸い秋葉原は、次々と新しいブームが起こり、シャッターが閉まりっぱなしの建物はあまり。ない。したがって、街としては、まだまだ隆盛が続くだろう。だが、駅の表示にある「電気街」の文字は、消え行く日が近そうである。<br>
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<link>https://ameblo.jp/muadchi/entry-11492003279.html</link>
<pubDate>Sun, 17 Mar 2013 01:46:04 +0900</pubDate>
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<title>人は立場でしかものを言えない</title>
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<![CDATA[ 　その昔、フランシス・ベーコンの言葉に「人間の知性は明鏡ではなく、意志と感情で曇った鏡である」というものがある。一言で言うと、人間は、どんなに知性を以ってしても完全に客観的にはなりきれない、ということである。<br><br>　いや、そんなことはない、という人もいるかもしれないが、その認識は誤りである。どんなに客観的であろうとしても、客観的であろうとする意志は主観であるからだ。となると、その主観を客観的たらしめようとすることは、無理である。別に言葉遊びを楽しんでいるわけではない。<br><br>　しかしながら、昔から、自分の意見は客観的であり、真理である、と言っているような意見をよくみかける。そのうちの幾許かはたまたま第三者が見ても客観的であることがある。それは多くの場合、客観的たろうと細心の注意を払った結果であるのだが、それは結果論であって、客観的出ない場合もある。<br><br>　困ったことに、所謂識者と呼ばれる人の言動をマスコミが喧伝した場合、多くの人がそれを客観的な意見、つまり「正しいこと」として受け入れてしまうことである。多くの場合、その識者の置かれた立場や状況、それを喧伝するマスコミの立場によって、バイアスがかかるものなのだが、わが国においては、マスコミは公正であり、不偏不党であるという幻想があるため、それがあたかも真理のように受け入れられがちだ。<br><br>　例えば、経済評論家と称する人が、いろいろな経済や政策について論評している。しかし、その人の肩書きが銀行系のシンクタンクだった場合、銀行が行うことに対する批判をすることはないだろうし、銀行に有利な政策には批判せず、銀行に不利な政策には辛口のコメントをするだろう。マスコミだって、広告で成り立っている。広告主を批判するようなことは避けるか、避けられない場合でもトーンを落とすだろう。<br><br>　例としては極端であったかもしれないが、多かれ少なかれ、人は発言するときは、主観的になるのだ。だから、聞く態度としては、完全に客観的な意見などはないという前提で、どういう立場の人なのかをつぶさに観察し、意見を割り引いて聞くことが必要なのだ。<br><br>　それにしても、某大手新聞社の社説は、客観を装って、自説を居丈高に押し付けてくる。読んでいて、辟易する。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/muadchi/entry-11483672014.html</link>
<pubDate>Tue, 05 Mar 2013 01:16:01 +0900</pubDate>
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<title>景気回復への近道</title>
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<![CDATA[ 　巷ではアベノミクスについての評価が高まっている。円が安値に触れ、それに触発されて、少しずつ全てが動き出したように見える。丁度いいところまで動いてくれれば幸いである。それ以上になるとハイパーインフレの懸念があるからだ。<br><br>　ところで、何故円が安値に触れたかについては、よくわからない。円が安値に触れ始めたのは、安倍総裁の総理が確実視された頃と記憶している。いうなれば、期待がそうさせたとしか思えないのだ。そうであれば、期待が期待通り実現しないと元の木阿弥になってしまう。ただ、最近感じているのは、円は、実力ではとっくに円安になっておかしくなかったのではないかということだ。何故ならなかったのか。それは、にらみ合いが続き、きっかけが欲しかったからではないのか。そうであれば、アベノミクスの提唱は、単なるきっかけであるから、期待通りの実現は関係ないことになる。それが良いかどうかはわからないが。<br><br>　いずれにしろ景気回復には、消費回復が必要だろう。だから安倍総理も経済団体に対し、相応の賃上げを要請している。ところがその一方で、経済雑誌を開くと貯蓄の勧め記事が世を謳歌している。その心は老後資金である。安心して老後を過ごすためにはどのくらいの資金が必要か云々、の記事が大盛況である。つまり、使わないで貯金しなさい、ということなのだろう。貯蓄した資金は、教科書的には、企業の設備投資に回り、景気回復の一助となる。しかし、消費が回復しなければ、設備投資をできない。商品が売れないのに設備を作ってもしようがないからだ。<br><br>　では、消費を回復させるにはどうしたら良いのか。貯蓄から消費に回すようにすればよいのだ。一つの方策は、老後は全て国で面倒を見ますから安心して使ってください、と宣言するのだ。といっても宣言だけでは不十分だから、年金を上げるなどして、十分な根拠を示すことだろう。そうして、老後のためとして溜め込むべき資金が消費に回れば、かなり消費が増すのではないか。それにより、経済が活性化し、若者の失業率が低下すれば、結婚率が上昇し、少子化にも歯止めがかかるかもしれない。<br><br>　このようなことをしようとすると、現実には抵抗勢力が多いんだろうなぁ。
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<link>https://ameblo.jp/muadchi/entry-11472928415.html</link>
<pubDate>Mon, 18 Feb 2013 00:16:29 +0900</pubDate>
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<title>知に働けば角が立つ</title>
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<![CDATA[ 　某県の教職の方々が、年度途中に退職することについて「無責任」という意見がいろいろなところを賑わしている。これについては、普段、比較的リベラルと思う論客までコンサバな議論（つまり、退職はけしからん、という議論）を展開している（何がコンサバかは、解釈もあるだろうが）。<br><br>　この騒動の発端は、年度途中で、年度末まで在職すると相当額退職金を減らされることが決まったことが発端である。「けしからん」派の意見は、教職ともあろう人々が、年度途中で児童・生徒をほっぽりだして、私利私欲に走るとは何事か、というのが論旨である。<br><br>　ある試算によると、退職しなかった場合は、退職する場合に較べて150万円も退職金が減るという。早期に退職すれば、その期間は月給が少なくなるが、それを勘案したって、年度末に退職するのは割に合わないだろう。教師だって生活があるのだ。「けしからん」派の人々は、それをどのように考えるのだろうか。そもそも、このような措置を行うときは、早期退職を勧奨するときである。年度末まで退職して欲しくなかったら、新年度から新しい制度にすれば良いのだ。もっともそれでは、支出の削減効果が薄れてしまう、とのたまった知事がいるそうだが、教職者の善意にすがったトンチンカンな発言としか思えない。教師は、霞を食べて生きていると思っているのだろうか。<br><br>　最近、教職者だけでなく、公務員に対する給与のあり方が、出鱈目になっている。世間はおおかた、公務員は、倒産もないのに、いい給与をもらっている、という目で見ているのか、公務員の給与の引き下げには、反対意見が全く出ないように思える。むしろ、財政赤字のおり、なんで、給与が切り下がらないのだ、という意見が多い。<br><br>　かつて、この欄で触れたかもしれないが、公務員の給与は、世間相場並である。世間相場を調べているのは、人事院（あるいは各都道府県の人事委員会）だ。公務員は高すぎるのならば、人事院の調べ方がおかしいのであって、それを批判し、改正すべきだ。財政赤字を作ったのは、国会（議会）であって、公務員ではない。国会の議決により、予算執行が決められ、各種政策がなされる。それが支出超過を生んだとしても、そのしわ寄せは、議員に行くべきであって、公務員にいくのは筋違いである。<br><br>　が、この議論は、「公務員は倒産もなくて恵まれている」議論の中に押し込まれていくのだろう。教職者無責任論とともに。<br><br>　知に働けば角が立つ、と言った夏目漱石の時代から、我が国の思考原理は変わっていないのかもしれない。
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<link>https://ameblo.jp/muadchi/entry-11463223595.html</link>
<pubDate>Mon, 04 Feb 2013 00:36:09 +0900</pubDate>
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