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<title>ジェンダー男子と家族支援</title>
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<description>大学〜大学院でジェンダー研究や家族社会学を学んでいたですが、ひょんなことから福祉の世界で働くことに。いまは母子生活支援施設で仕事をしています。異性愛男性の立場からジェンダー平等を目指し日々鬱々悶々としながら絶賛実践中です。</description>
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<title>うまく言えないけど本当に言いたかったこと</title>
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<![CDATA[ まずはおわびから。<br>前回のブログでの最後の段落での表現は適切ではありませんでした。<br>問題となった段落とは以下のとおりです。<br><br>＞フロリーさんは男性はこうした男性性を見習ってみては、と指摘していましたが、男性がこうした男性性を表現するためには、逆にさまざまなものを贅肉を始め多くのものを「削る」必要があると思いました（笑）頭蓋骨とかも削れないしなぁ（苦笑）。<br><br>まず最初の「フロリーさんは・・・見習ってみては」という部分。ここは正確ではありません。男性性のモデルとして宝塚を観ることを勧めてくれただけです。<br>後半の「男性がこうした男性性を・・・」の部分もまた乱暴で不適切な言い方でした。<br>ただ・・・なんです。ここの部分にじつはぼくの想いを込めていたのも事実なんです。だけどとてつもなく舌足らずなんです。きちんとジェンダー平等を目指すノンケ男性であるぼくがこれまで考えてきたこと、経験してきたことをあまりに自明のものとしてたために、こんな言い方になってしまいました。なので、この最後の段落に込めた自分の想いを改めて書きたいと思います。<br><br>まずぼくはフロリーさんの呼ぶところの「造形」にこだわって書きました。フロリーさんに以前twitter上でフロリーさんの考える「身体性」とは異なることも十分承知したうえでです。<br>なぜ「造形」の説明にこだわったか。フロリーさんが考える「身体性」をうまく言葉で説明できなかったからです。ぼくも「オーラ」「生き様」としか言いようがないものを感じてはいましたが、下手に言葉にしようとするとチープになってしまうな、と思いました。一回観ただけではわかった風なことも言いたくなかったから触れなかった、これが正直な気持ちです。<br><br>そして説明可能だった部分が「造形」だったわけです。この部分は目に見えるので言葉で表現可能だと思ったし、ぼくの中で「造形」と「身体性」とは不可分な関係にあるような気がしたからです。つまりぼくは目に見える形での「造形」から言葉にできない「身体性」に切り込もうとしていたのです。<br><br>そしてぼくが轟さんを観て直感的に感じたのが「身につける男性性」という言葉だったんです。<br>これは単なる「造形」レベルでの話しではありません。<br>女性の身体を有した「男役」は、まさにゼロから男性性を自分の身体に刻み込んでいくんだと思います。ひたすらに宝塚の、そして自らの考え抜いた「理想の男性性」を自分に刻み込んでいく、その過程で「男性性」が身体に付与されていくんだと思います。それは身体に「付け加える」過程であり、また抑圧からの開放も意味するんだと思います。その「男性性を付与する」ということを目に見える形で文字どおりに示していたのが「造形」だったのかな、とぼくは思ったんです。<br>そしてその「身につける」男性性には一切の不純物がない、とぼくは思いました。言葉にできないのだけど見事なまでに「権力性」が存在しないのです。これはすごいな、と思いました。この不純物のなさが、オーラとなって「男役」の身体性に出るんだな、と思います。<br><br>そして女性が「男役」になる過程と、ノンケ男性であるぼくがジェンダー平等を実践していく過程は、ちょうどコインの裏表なのかな、と思いました。女性が「男役」になるために不純物を取り除いた「理想の男性性」を「身につけていく」のに対して、ぼくがしてきたことは自分の身体に刻み込まれた「男性性」からあらゆる権力性を「削る」ことに他ならなかったんです。<br><br>フロリーさんも言っていた脚の使い方から、あごの位置や視線の置き方、口調やトーン、コミュニケーションする際の立ち位置、間合いなどなど・・・ぼくはジェンダー平等を目指す実践のなかで常に「どうやったら自分の振る舞いから権力性を取り除けるか」という視点から考えてきました。こんなことかれこれ１５年くらいそういったことを考え続けてきましたが、まだ自信がもてないんです。<br>まだ「あなたは気づいていないだろうけど、偉そうだよ」と言われるんじゃないかという不安は常にあります。まだまだ削り足りない、そんな風に思っているわけです。<br><br>そういう想いが前回のブログの最終段落に自嘲的に出たんです。自分なりにストイックにやってきたけどぼくはまだまだ削り足りないのかな、そんな想いが込められていました。「男役」の示す「男性性」に対する羨望とジェラシーも入り交じった、そんな複雑な想いです。<br>
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<link>https://ameblo.jp/murakichi777/entry-10692408219.html</link>
<pubDate>Sat, 30 Oct 2010 21:25:19 +0900</pubDate>
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<title>ジェンダー男子が宝塚、の巻（後編）</title>
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<![CDATA[ さて続きです。<br>前回は男役全体を眺めて複数の男性性の配置について書きました。<br>今日は主演の轟さんが表現する男性性、それはおそらく宝塚の描く理想の男性とイコールと言っていいと思うのですが、に特に注目したいと思います。<br><br>☆身にまとう男性性<br>　一言で言うのなら、轟さんは研ぎすまされた身体に文字どおり男性性を「身にまとっていく」ような形で表現している、という印象を受けました。ここでいう「身にまとう」とは身体表現そして物理的な衣装も含まれています。<br><br>　ぼくは特に上半身の表現方法に力を入れているような気がしました。<br>　まず両肩の端と骨盤の両端を結ぶ四角形をまるで板のようにして演じていたのが印象的でした。上半身をねじる、という動きがほとんどなかったように思います。体幹をしっかりとさせることで、大きくそして直線的な男性性を表現しようとしているのかな、と思いました。こうした男性性は特に娘役の演じる女性性との対比でより引き立っていました。しかしそれだけではただごつくて固い男性性になってしまうところを、轟さんの手足の長さやしなやかさで見事に中和させてるな～、と思いました。このバランスがとてつもなく絶妙でした。<br><br>　その他にも上半身を「男らしく」演じるために、衣装においても様々な工夫がなされていました。<br>　まず首の部分なのですが、轟さんのみえりを立てており、そうすることで首まわりのシルエットを大きく見せる効果があったと思います。シルエットを大きく見せると言えばシャツの袖を大きくひらひらさせているのも同様の効果のためかな、と思いました。<br><br>　またスカーフというのでしょうか、あの胸の部分にかかるヒラヒラが轟さんのが一番大きかった。厚い胸板を演出しているのだと思います。また轟さんのはおるジャケットのみ肩の部分の端が山形に盛り上がっており、男性的なたくましい肩に見せるように工夫がなされていました。<br><br>　そして恐らくなのですが、轟さんの肩から背中にかけ、ちょうど僧坊筋のあたりを盛り上げるためにベストの下に何か装着していたと思います。実はこの「たくましい背中」って男性性の表現でとてつもなく大切な演出だと思います。ぼく自身アメフトしてた頃ぷちウエトレマニアだったのでわかるのですが、大胸筋より僧坊筋鍛える方が上半身映えるんですよw<br><br>　こうして轟さんの上半身に厚みをもたせ、準主役であるウラジーミル・レンスキー（彩那音さん）と革命思想家（緒月遠麻さん）にはそうした装飾をしないことにより（明らかにオネーギンと比較して薄いです）、たくましい男性性を強調する効果があったと思います。その一方でウエスト部分の装飾を抑えることにより、軍人ドミトリー・ラフスキー（蓮城まことさん）と比較で、引き締まった色気も強調されていたのだと思います。（蓮城さんのウエスト部分は物理的にも厚みを持たせるようにしていたと思います）。<br><br>　ちなみにこれも轟さんのみに許されていた表現があってとても印象的だったのですが、それは肘の使い方です。ひじを軽く曲げて肘の先端が背中の後ろ側にまで引き指をパンツのポケットに入れることで、胸板を大きく見せるという表現をしていました。それがまたかっこいいんですよね。あと轟さんのみがロングコートを着ていました。これもまたかっこ良かった～。<br>　<br>　こんな風に書くと、こうした演出さえすれば誰でも轟さんと同じような男性性を表現できるのか、と怒られそうですが、もちろんそんなことは思っていません。むしろ何も存在感が抜きん出ている轟さんの身体が表現する男性性をこれでもか、これでもか、と他の男性性との差異を強調することで、観客を魅了する「究極の男性性」に昇華されるのだと思いました。<br><br>　宝塚では基本的に物理的にはしなやかで細い身体を持つ演技者が、身体表現や衣装を身につけていくことで男性性を演じていました。その際に一切の不純物を身につけないためにとても「清く正しく美しい」男性性が表現されていたように思います。轟さんはホントかっこよかったと思います。<br><br><br><br>　↑ここに当初は最後の段落があったのですは適切さにかけるので一旦削除します。この点を含め次回のブログでより掘り下げた形で自分が本当に言いたかったことを書きたいと思いますね。
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<link>https://ameblo.jp/murakichi777/entry-10691563021.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Oct 2010 23:31:01 +0900</pubDate>
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<title>ジェンダー男子が宝塚、の巻（前編）</title>
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<![CDATA[ 最初に言っておきますね。<br>今回は、宝塚に関して全く予備知識もないジェンダー男子が宝塚を観て感じたことについて書きました。宝塚をご存知の方にとっては「そんなん当たり前で通説だよ～。馬鹿かこいつは」と思われるかもしれません。見知らぬ地を訪れた通りすがりのエスノグラファーの戯言だと思ってどうかお読みください♪<br><br>てなわけで、twitterのフォロワーさんであるフロリーさんの勧めで今月１６日、日本青年館にて「オネーギン」を観てきました。ぼくが観劇する際に着目していた点は、女性がどのようにして「男性性」を表現しているのか、てところにありました。そういった点に着目したら、めっちゃ興味深く観ることが出来ました。ホント面白かったです。フロリーさん、背中を押してくれてありがとう♪<br><br>ぼくが今回「オネーギン」を観て気がついた点は大きくわけて二つあります。今回はそのうち一つの点について書きますね。<br><br>☆複数の男性性の存在とその配置ー全てはトップスターのため！<br><br>　宝塚は大きく「男役」と「娘役」に別れていますが、単純な二項対立ではないのですね。ぼくがまず感じたのは、男役が表現する男性性、娘役が表現する女性性は複数存在して、それが全てトップスターの男性性（さらにはヒロインの女性性）を輝かせるために巧妙に配置されている、という点でした。今回女性性については十分に観察できなかったので、男性性についてのみ書かせてもらいます。<br><br>　まず農民なのですが、彼らが踊っているシーンがとても印象的でした。そこでは男性、女性両方の農民が踊っているのですが、性別を隔てているものは服の形くらいなもんで（色柄は一緒）表現方法（踊り方やしぐさ、表情、メイク、衣装の作りなど）が男女で特に違いが見当たらないんです。農民の男性性と女性性はとも性別の境界線近くに配置されている、そういった印象を受けました。<br><br>　また召使い（奏乃はるとさん）や主人公オネーギンの叔父であるワシーリィ（一樹千尋さん）もまた、性別の境界線近くにいるような印象を受けました。ただカツラや服装が農民に比べより明らかに男性を表現しているのはわかりますが、表情やしぐさ、メイクを見ても特段に男性だとアピールしている感じがしません。あたかも服装だけで男性であることを徴づけてる、そんな感じでした。<br>　<br>　そしてオネーギンの脇を固める配役として、婚約者を誘惑されたためにオネーギンと決闘することとなるウラジーミル・レンスキー（彩那音さん）とオネーギンの親友であるある革命思想家（緒月遠麻さん）がいます。彼らは準主役（と言っていいのかな？）だけあってそれなりに魅力的な男性性を表現しています・・・が、いくつかの点でトップスターの男性性よりも文字通り「見劣り」するように表現されています。詳しくは「後編」で語りますが、ごくごく単純化して言うならば「彼ら」はオネーギンよりも物理的に「小さく薄く」表現されていました。逆に言うならばオネーギンの男性性は彼らより「大きく厚く」表現されているということです。<br><br>　さらに興味深いのはオネーギン同様、いやオネーギンより少しだけ物理的に「大きくて厚い」配役がありました。それは革命を画策する軍人ドミトリー・ラフスキー（蓮城まことさん）です。ところが不思議なことに、オネーギンと比べるとやはりオネーギンがより魅力的に見えるのです。違いはなんなんだろうな、と思いよくよく観てみたら・・・ドミトリーは余計に「太い」のです。具体的に言うならば、腰回りを意図的に太くすることによって、彼から「男性としての色気」が消し去られているのです。つまりオネーギンは「大きくて厚く」そして「締まっている」のです。<br><br>　こんな風にして、性別の境界線近くに配置された男性性、トップスターと比較して「見劣りするが魅力ある」男性性、トップスターと比較すると「男っぽいけど色気がない」男性性といった、複数の男性性を配置することで、トップスターの表現する男性性がより魅力的に映える、際立つ、そんな感じがしました。<br><br>　さて前編はこんな感じです。後編はトップスターである轟悠さんがどのように、そしてどのような男性性を演じていたかについて書きたいと思います。<br>・・・でも前編であまりにも酷評されるようだったらお蔵入りです（笑）
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<link>https://ameblo.jp/murakichi777/entry-10689624729.html</link>
<pubDate>Wed, 27 Oct 2010 22:14:48 +0900</pubDate>
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<title>結婚のときの話し</title>
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<![CDATA[ 基本的に気分屋なもので、ツイッターのTLに反応して、久々にブログ更新してみようかな、なんて。<br><br> まあアメブロには色々と思うところはあるけれど、よそに引っ越すのも面倒だしよそが健全ともわからないし。<br><br> さて、今日はブログを始める時からいつかは書こうと思っていた結婚の話です。<br> それはもうね、ぼくと相方との結婚はロマンティックでね～（遠い目）・・・という話じゃあありませんからね。<br><br>  話はぼくがゼミに入った頃の話になるのですが、ゼミに入って初めて読んだ本が福島瑞穂さんの『結婚と家族』だったんです。そこで福島さんが法律婚の批判を通じて戸籍制度に潜む差別について論じていて、自身は「事実婚」をしている、というお話でした。<br>  家族社会学やジェンダーについて学ぼうと思い始めたぼくにとって、この本はとてもインパクトがありました。ぼくもいつかパートナーができたら事実婚をしたい、というか絶対に差別を内包した法律婚なぞしたくない。ジェンダーを学ぶ人間ならば事実婚は当然の選択だと思っていました。<br><br> さてその９年後、いろいろな状況があって、相方と一緒に暮らそう、という話になりました。相方は院生仲間だったのでぼくがジェンダー研究をしてることを知っていたし、事実婚をしたいということも知っていました。<br> 相方のおうちに挨拶にいき「○さんと一緒に生きていきたい」と話してぼくはてっきり了承されたと思っていたのですが・・その後突如相方の両親が「法律婚じゃなきゃダメ」と言ってきました。相方も「法律婚にしなければ子どもが差別される」と言ってきました。さらに当時相方は働いていてぼくが絶賛無職中（学生だったもんで）だということもあり「法律婚じゃないと扶養手当もらえない、年金も支払わなくちゃいけない」と言われた。また法律婚という「絆」ないし「契約」がないと不安だとも言われました。<br><br> そんなんで大げんかになって、しばらく連絡を断ちました。<br> ずっとずっと悩んだのですが、結局法律婚をすることになりました。信条を貫いて相方と別れることも考えたのですが、一人になるのが恐かったんだと思いますw あと完全な力不足です。相方や両親を説得できるだけの材料がぼくにはなかったということです。いずれ力をつけたらまた事実婚の交渉をしようと思いました。まあ当時はとてつもない敗北感にまみれてましたけどねw<br><br> んなわけで法律婚をするのですが、その時にぼくは変な条件をつけました。それは「相方の姓にする」でした。話がそれますが、現在の法律婚は「どちらか一方の姓を名乗る」ことになっています。にもかかわらず、97～98％位が男性側の姓を名乗る＝「戸籍筆頭者」になっています。個人と個人の平等な結びつきであるはずの結婚が一つの姓（しかも圧倒的に男性の姓）にまとめられること、しかも序列があることが嫌でした。話を戻しますが、事実婚がNGで法律婚しか選択肢がないなかでぼくが選択したのは「序列が生じざるをえないならばぼくが下になる」ということでした。<br> まあ無茶振りかな、と思ったら相方および相方の両親があっさり通過、実家の両親も割りとあっさり通過し、ぼくが姓を変えることになったのでした。<br><br> で中村というのは旧姓で、結婚し戸籍上は○○となった訳です・・・がこれがまた色々とありまして今は戸籍上も中村です。これについてはまた別の機会に。<br><br> まあ個人的なことは政治的、ジェンダーはネゴシエーションの産物だということを超ミクロなレベルで実践したという意味で、ぼくにとっていい経験だったと思います。
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<link>https://ameblo.jp/murakichi777/entry-10655350002.html</link>
<pubDate>Tue, 21 Sep 2010 22:24:18 +0900</pubDate>
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<title>DV加害者を支援すること</title>
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<![CDATA[ ジェンダーを学びDVということばを知った当初、ぼくの関心は被害者にしかありませんでした。<br>加害者に対してはただ怒りの感情のみがありました。<br>ぼくの周囲にはDV被害者が多かったことも、余計にそういった考えを強めていたと思います。<br><br>そして今は被害者が半数近くを占める母子生活支援施設に勤務しています。<br><br>DV被害者に対する見方や思いは今も変わらないのですが<br>DV加害者に対する思いが少しずつ変わってきています。<br>彼らも救われなくてはならない存在なのかな、てのを少しずつ感じてきました。<br><br>そう考えるようになったのはなんでだろうなぁ？<br>色々な要素が絡まりあってると思います。<br><br>一つは、母子生活支援施設においてぼくは母親のメイン担当ではないことがあるかもしれません（この点については<a href="http://ameblo.jp/murakichi777/entry-10572643796.html" target="_blank">これ</a>を参照してください）<br>DV被害者である母親に対して異性愛男性のぼくは直接的には支援できない立場にあります。もちろん、そういった立場にはその立場であることの意義はあります。ただこころのどこかに直接支援できないことに対する不全感があるような気がします。<br><br>二つ目は、最近twitterをはじめて、DV加害者に対するツイートなんかをよく見かけるのですが、その際彼らの人格は完全に否定されており、かつ単純な人間像として描かれていることがあげられます。これに対して「本当にそうなのだろうか？」「そんなに単純なものなのだろうか？」「このようにバッシングすることでこの問題は解決されるのだろうか？」・・・そんな風に思ったわけです。<br><br>ぼくは別に加害者と被害者を再び再統合することを目指してなどいません。ただDV加害者が自らの加害者性に気づく機会を与えなければ、第二第三の被害者を生み出してしまう、そう言った意味で何らかの対策が必要だろうな、そしてそれは彼らをバッシングすることでは解決できないだろうな、そう思ったわけです。<br><br>またぼくがDV被害者をバッシングしきれないのは、彼らとの間になんらかの連続性を感じているからかもしれません。単なる対岸の問題とは考えきれない立ち位置にいるからだと思います。<br><br>こう考えたときに、ジェンダー平等を目指す異性愛男性という立場からDV加害者を支援することは意義があるのかな、そう思うに至りました。<br><br>そんなわけで<a href="http://aware.exblog.jp/14273755/" target="_blank">DV加害者プログラムファシリテーター養成講座</a>受けてみようかと思います。・・・結構お金かかるな（汗）
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<link>https://ameblo.jp/murakichi777/entry-10600996752.html</link>
<pubDate>Sun, 25 Jul 2010 23:02:29 +0900</pubDate>
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<title>子どもの成長</title>
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<![CDATA[ 大切なのはエッセンスなので事実に基づいたフィクションで。<br><br>先日子どもと母と三人で中学校にて面接をしました。<br>この家族はDVのケースで逃げてきたのですが、子ども（１年生）は転校をしたがりません。<br>友達がいることと、あくまで推測ですがあらゆることが変わってしまったなか、せめて学校だけは変えたくはないという思いがあったんだと思います。<br><br>学校側は安全面のこと、そしてまだ１年生なのだから学校を変えた方が将来的に良いだろう、さらには４月以降の欠席があまりにも多い、といったことからなかなか残ることにオッケーを出してくれません。<br><br>ぼくの方からはそれぞれの点について、施設としてできる支援を正直に話しました。<br>学校側も少し態度を変えてくれ「それならば子ども自身の言葉で語ってもらおうか」ということになりました。<br><br>じつはこの子どもは外国籍の子で、２年前に日本にやってきた子です（今回のDV加害者は実父ではない）。基本的に素直な性格なのですが、なにぶんシャイでなかなか自分の思いを話さない。おまけに日本語はあまり得意ではない。<br><br>「○○（名前）、自分はこの学校に残りたいこと自分で言ってごらん」とぼくは子どもに話しかけます。<br>「・・・」<br>子どもはうつむいて首を横に振り話しません。<br>ぼくを含め校長、副校長、担任、母親がそれぞれ話すように促しますがなかなか話しません。<br>まあこれだけのおとなに囲まれたら、子どもはなかなか言えないよな、とも思いました。<br>でもこの子が自分のことばで話すことが、子どもがこれから自立していくためにとても大切だと思ったのでひたすらに待ちました。<br><br>待つこと20分・・・<br>子どもは振り絞ったような声で涙目で言いました。<br>「○○中学校に行きたい！」<br>「そのために君はどうする？」（担任）<br>「やすまない！」<br><br>結局この声が認められて猶予期間を与えられ、その間の出席状況等学校での生活ぶりを見守ることとなりました。この子どもは自分で自分の人生を選択し切り拓いたんだと思います。<br>この経験は、大人の事情で振り回され続けてきたこの子にとって大きな成長の場であったと思います。<br>こんな瞬間に立ち会えて良かったと思いました。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/murakichi777/entry-10594194686.html</link>
<pubDate>Sun, 18 Jul 2010 18:31:01 +0900</pubDate>
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<title>ときどき</title>
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<![CDATA[ とてつもない孤独に襲われる。<br>とてつもなく人恋しくなる。<br>原因はわからない。<br>それでもある日突然にやってくる。<br><br>このときほど自分が弱いと感じることはない。<br><br>寝よ。
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<link>https://ameblo.jp/murakichi777/entry-10592603778.html</link>
<pubDate>Fri, 16 Jul 2010 23:12:58 +0900</pubDate>
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<title>ジェンダー定義と男女の溝〜あくまで仮説</title>
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<![CDATA[ 以前書いて意外に好評だった<a href="http://ameblo.jp/murakichi777/entry-10567715226.html" target="_blank">異性愛男性のジェンダーアレルギー</a>の続編だったりします。<br><br>これを書きながら思ったのは「ジェンダー論」の授業は、ジェンダーに対する理解を深め、多くのジェンダー・センシティヴなひとを送り出す一方で、皮肉にも受講することでかえってジェンダーアレルギーを引き起こすひとも少なからず産み落としてるんだな～ってことです。<br><br>それはなんでなのかな～、て考えたツイートがこれです。<br><br>日本において最も一般的に普及している「社会的・文化的性差」という単純な二項対立を前提としたジェンダーの定義、そして性差を示す結果ばかりに着目し、なぜそのようになったのかというプロセスを問う視点がないことが、ジェンダーという言葉にネガティブなイメージを与えているような気がする。<br><br>　まずいろんな大学のジェンダー論のシラバスなんかをみると、ホントジェンダーの定義を「社会的・文化的性差」と書いてます。いまの女性と男性のありようを、生物学的な性差から切り離すという意味ではいいのですが、「性差」、つまり男女の差異「のみ」が強調され組み込まれているんですよね。またこの「差異」には権力関係が伴っていることも前提として組み込まれています。つまりこの差異には、権力を持つ男性／抑圧された女性という二項対立が含まれています。<br><br>（この部分はあくまで推論で過度な一般化はできない部分ですけど、結構あてはあると思います）<br>　それでジェンダー論を教える側としたら、この差異を思いっ切り強調するわけです。具体的な男女別の統計データを出しながら、男性がいかに権力を有する立場であるか、逆に女性がいかに抑圧されている立場に追い込まれているか、それを示していくわけです。<br>　確かにこうした授業の仕方はインパクト満点です。なんですけど、それがなぜ？という段になると、説得力ある説明をしていないのでは、という感じがするんです。「結果」としての差異を強調するけど、なぜそのようになったのか、という「プロセス」の部分がすっぽり抜け落ちてるような気がするんです。あるいは「男性は○○だから／女性は○○だからこの結果なんだ」とステレオタイプな二項対立で説明し尽くそうとする。<br><br>　性差を強調するジェンダーの定義はいろいろな問題を引き起こします。<br>①男性、女性それぞれ内部の「差異」を無視してしまう。<br>　当然といやぁ当然なんですが、男性をひとくくりには出来ないですよね。確かに権力は男性に集中しています。でもそれは一握りです。自分はあからさまな権力をもっていないけども男性であることで恩恵を受けるひともいれば、同性愛男性や「女々しい」と言われ抑圧される男性もいる。「草食系／肉食系」男子論もある。<br>　女性の方でも「女の敵は女」という形で言われるように女性の経験は一様ではない。今あるジェンダー秩序を肯定するかたちで自らの利益を最大限にしようとする戦略をとる女性もいれば、現存するジェンダー秩序に抗いつづけるという戦略をとる女性もいる。これらは明らかなジェンダーの問題ですよね。<br><br>②二項対立を強調するあまり過度な一般化を引き起こす。<br>　でもジェンダーが言及される話題は、えてして男性と女性の間に現実以上に強固な境界線を引き、過度の一般化をする傾向にあります（このことはツイッターで「ジェンダー」検索するとよくわかります）。その際、発信者は自分が身近で体験したこと、ニュースで取り上げられたデータ等をもとに、「男は○○／女は○○」と書きます。その際は、だいたい（それを発信した性に対する）異性に対するバッシングが含まれていたりします。こういった発言があると、発信した人物の異性の側が反論をします。そうすると、男女の境界線がどんどん強調されていきます。<br>　だけどよく思うのは「その二項対立図式は本当に一般化して言えるのか」てことです。自分の身の回りにあった男性上司や女性上司の振る舞いはどこまで一般化できるのか、「男は～」「女は～」と言うが本当にそこまで言えることなのか、実はこうした性差を強調するジェンダーの定義およびそれに基づく発言の多くは、男女の協調ではなく対立を、男女の間には共感はありえないかのような幻想を強化する方向へと向かわせていってるような気がするのです。<br><br>　男女の間の境界線、そして男性同士、女性同士の境界線はそれ自体が構築されるもの、境界線はかぎりなくなくする方向にも向けられるし強調することもできます。こうした境界線が引かれたことによって生じる社会関係がジェンダーのより正しい定義なんだと思います。
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<link>https://ameblo.jp/murakichi777/entry-10591139562.html</link>
<pubDate>Thu, 15 Jul 2010 10:50:04 +0900</pubDate>
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<title>８年前の論文・・・</title>
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<![CDATA[ 実はこっそりと公開されてます。<a href="http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/523/523-3.pdf" target="_blank">これ</a>。1950年代前半に日本で起こった「家族ぐるみ」の労働争議が、その後の高度成長期の労働者階級家族にどのような影響を与えたのか、というお話です。<br><br>この頃のぼくはゼミでジェンダーを学んでいたものの、まだうまくジェンダーという概念を自分の研究に活かすことができていないんです（実際「ジェンダー」という語を一つも使ってません）。まあ先行研究があまりにもジェンダーに無自覚だったから、これまで無視されてきた女性の行動を掘り起こしたらうっかり書けちゃったんですけどね。<br><br>今書いてて秋から冬あたりに出版予定の論文（もち共著）は、途中まったく書く気力を失い吐き気がするほどに向き合えなかった時機もあったのですが、同じ労働争議をようやっとジェンダーの視点から論じることができそうです。<br>初めてこのフィールドに飛び込んだのが1998年なので12年もかかっちゃいました（汗）。<br>読んでくれたひとが「面白かったよ」と言ってもらえるように最後の仕上げをしていきたいと思います♪
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<link>https://ameblo.jp/murakichi777/entry-10590806381.html</link>
<pubDate>Wed, 14 Jul 2010 23:17:21 +0900</pubDate>
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<title>シスターフッドとジェンダー男子</title>
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<![CDATA[ 今日は某区の婦人相談員が主催した交流会に参加しました。<br>まだこの現場になれていないぼくにとって、興味深い話しがたくさん聴けて有意義でした。<br><br>そのあと会場を変えて飲酒しました。<br>女男比でいうと8:2でした。うちぼくらの会社のひとも5名くらいいてうち3名が女性でした。<br>そうした話しのなかでぼくの所属している会社が「男尊女卑」だという話しになりました。<br>こうした話題になると「そうそう！そうだよね。それはひどい」と女性たちのこころが一つになっていくのがわかります。<br><br>こういった時に異性愛男性であるぼくはどういった対応をするかというと・・・<br>過剰に同意するわけでもなく、かといって過敏に反対するわけでもなく・・・<br>ただ受けとめます。<br><br>彼女らと一緒に「そうそう。ホントひどいよねうちの会社！」というと、異性愛男性である自分が当事者の一部であることをごまかしているように感じる。<br>「いやいや、男性であるぼくの前で男尊女卑だなんて一刀両断しないでください。ぼくが辛いですよ！」というのは彼女らの思いを受けとめずに、ただ責められた自分を守るだけの意見を言っているようで、これもいやだ。<br><br>だから・・・異性愛男性としての自分はその話しをただ受けとめることにしている。某区の女性相談員やぼくが所属する会社の女性職員が経験してきたジェンダー差別について、異性愛男性のぼくは完全には共感できない。でもその辛い気持ちや悔しい気持ち、そして痛みを逃げずに感じて受けとめることはできる。<br><br>今日はまだ顔を知ってもらった段階。信頼関係はまだまだ築けていない。だけどこうした姿勢を貫き続けることで、いずれは性別の境界線を越えた信頼関係が生まれるのだと信じたい。
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<link>https://ameblo.jp/murakichi777/entry-10589959699.html</link>
<pubDate>Wed, 14 Jul 2010 00:25:22 +0900</pubDate>
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