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<title>村田経営革新研究所</title>
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<title>九州滞在記（１）</title>
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<![CDATA[ <p>福岡（博多）に来て１０日になります。</p><p>海の幸、山の幸が新鮮で、とてもうまいです。友人のすすめの「ゴマサバ」を食べました。お酢で〆た「きずし」ではありません。お造りです。いかや明太子もいいですね。私の好きな焼鳥屋さんも多いです。なべは冬の楽しみにしましょう。焼酎の種類の多いこと、感激です。また、ラーメンと言えば「とんこつラーメン」です。しょうゆラーメンはほとんど見かけません。安くて、ボリュームがあり、おいしいこと、はまっています。石を投げればあたるくらい、ラーメン屋さんの多いこと・・・「とんこつラーメン」の本場です。「長崎ちゃんぽん」も楽しみです。</p><br><p>と言うわけで、グルメからスタートしました。テレビやインターネットで情報を得たり、観光地図を入手して街中を歩いてみたりと、毎日が発見の連続です。</p><p>住まいは、博多駅前の１Kのマンスリーマンションです。少し古いですが結構快適です。家賃の先払いは少しきつかったですが・・・職場までが歩いて１０数分程度で便利です。</p><p>博多駅はさすが、九州の玄関口というだけあって、九州内のどこに行くにも便利です。鹿児島でも新幹線で１時間半程度、鉄道網、バス網の拠点です。暑さのため、現在は遠出を控えておりますが、９月くらいから、各地の歴史めぐりや観光めぐりをしようかなと思っています。それまでは、博物館めぐりかな・・・</p><p>但し、仕事が結構忙しくなりそうで、外遊もあり、浮かれてばかりはいられません。仕事に来ているわけですから、どれだけ時間がとれるかは不透明です。</p><br><p>さて、博多に来てみて感じたこと・・・</p><p>・親切な人が多いです。職場でも街中でも、食事をするところでも・・・さすが人情味の厚いまちと言えます。</p><p>・お祭りの熱気はどこも同じかな、熱さはいつ見てもほほえましいですね。</p><p>・物価は、大阪よりも若干安いかなといったところです。</p><p>・女性の化粧は大阪や東京と比べて控えめな感じの人が多く、「自然派美人」が多いですね。また、女性で背の高いスラットした人が多いのが目立ちます。</p><p>・野球の話。居酒屋で、「今日は勝っているか？　ピッチャーはだれ？　ホームラン打ったか？どうや？」という話をよく耳にします。大阪でしたら、当然、「阪神タイガース」のことですが、こちらでは、「福岡ソフトバンク・ホークス」のことです。現在、パリーグの首位を走ってますので、意気盛んです。野球中継も、ホーム・ビジターにかかわらす、ホークスの中継がほとんどです。</p><p>・仕事の話を少し。ある財団の中にデスクがあり、公的な仕事をしていますので、「役所」にいる雰囲気です。</p><p>内容的には、本職のマネジメント・コンサルタントの知見・経験が大いに生かされてます。詳しい内容は追々紹介するとして、（私は）３年前まで会社員をしてましたが、組織の中へ戻ってサラリーマン的な仕事に戻ったようなです。来年３月末までこの仕事が続きます。</p><br><p>今週は、「山笠」です。博多の夏を楽しみます。では・・・・・・・・・・</p>
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<link>https://ameblo.jp/murata-consulting/entry-10949126009.html</link>
<pubDate>Sun, 10 Jul 2011 10:38:03 +0900</pubDate>
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<title>経営のヒントを歴史に学ぶ（１１）</title>
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<![CDATA[ <p>歴史上の人物を「経営者」という観点で捉え、私の独断と偏見で論述してきました。</p><p>政治的な業績よりも、「経営者」としての活動・業績を主に紹介してきました。</p><p>リーダーとして、</p><p>　・どのようにリーダーシップを発揮したか</p><p>　・組織やしくみをどのようにつくっていったか</p><p>　・人をどのように育てたのか</p><p>といったような、人間的な側面を前面に出して解説しました。</p><p>政治的には大きな業績をあげていなくても、経営という観点から評価できる人で、また、人気があまりなく、どちらかといえば嫌われている人も取り上げました。</p><p>登場した人には、官僚型、教育者、組織としくみづくりに一生懸命取り組んだ人、国際派、経済政策の推進等、さまざまな事例を取り上げたと思います。現在に通じる考え方も多数あったかと思います。また、信頼関係に基づくネットワークを大事にし、トップを支えた片腕や協力者、部下が多数いたことも重要なことでした。取り上げた人たちは、一見関係ないように見えますが、「常に新しいことにチャレンジし、新しいしくみや組織を作っている。」という共通点があります。</p><br><p>ここで、現在の経営者が必要とする感覚をあげます。</p><p>①国際派感覚（日本国内だけでなく、世界へ目を向けること）</p><p>②しくみと組織づくりが大事である</p><p>③人づくりとまちづくり</p><p>④リーダーシップ</p><p>⑤コーティング（自ら学び、そして人へ教える）</p><p>⑥これからは、地方の時代と中小企業の時代</p><p>　（多様性というキーワードがあてはまると思いますが、中央目線より地方目線が、大企業目線より中小企業目線が必要であると考えております。私の好きな言葉に、"Small think fast."ということばがあります。政治は中央より地方を先に、また経済政策は大企業より中小企業のことを先に考えてくださるように望みます。）</p><p>などがあります。</p><br><p>私は、仕事の関係で７月１日より、九州、福岡に参ります。約９カ月間の長きにわたる滞在になります。</p><p>ブログでは、歴史の話をいったん中断し、次回より、「九州滞在記」を報告したいと思います。</p><p>歴史関連も当然含まれますが、グルメ、観光はじめ土地のこと、身の回りのこと、おもしろそうなこと、そして仕事のことなど、さまざまなトピックスをとりあげる所存です。</p><p>よろしく・・・</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/murata-consulting/entry-10935542457.html</link>
<pubDate>Sun, 26 Jun 2011 21:28:04 +0900</pubDate>
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<title>経営のヒントを歴史に学ぶ（１０）</title>
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<![CDATA[ <p>春日局は、江戸幕府の運営のしくみを文書化することを、裏で支えた人物と言えます。</p><br><p>　江戸幕府の運営の基礎は、3代将軍徳川家光の時代に固まったと言われています。家康存命のころは、家康の裁定が優先されました。2代目秀忠の時代には、優秀な家臣（土井利勝ら）が将軍を補佐してなんとかやってきました。3代目家光の時代になりますと、家光の小姓をしていた人たちが、政治の官僚（老中）として中枢に君臨し、武家諸法度等の「法律」が定められました。</p><p>　当初、小姓の中でも年長の、稲葉正勝（春日局の息子）が存在感を発揮し、忠長（駿河大納言）事件はじめ、難問題の解決がなされました。残念ながら、稲葉正勝は若くして病没し、その後江戸幕府の中枢をになったのが、やはり小姓組の、松平信綱（伊豆守）や阿部忠秋、少し遅れて、堀田正盛（春日局の義理の孫、春日局の夫（稲葉正成）の先妻の娘の子で、春日局の養子となる）らでした。</p><p>　家光の小姓たちは、元服するまでは、春日局の教育をじかに受け、いわば子飼いの人たちと言えます。</p><p>　稲葉正勝のときには、まだ文書化された法律がなかった（正勝が優秀な人だったので文書化する必要がなかったとも・・・）のですが、松平伊豆守らが中心となって、武家諸法度、公家諸法度はじめ、すべての階層の人たちに対して、文書化した「法律」を定め、幕藩体制の基礎を築いたわけでした。</p><br><p>　春日局が、政治に関与した件として有名なのが、3代将軍の後継者問題のときでした。秀忠や江（家光の父母）は、弟の忠長を次期将軍にしたかったようです。当時は、戦国のなごりもあり、必ずしも長子が相続するとは決まっていなかったようです。春日局は大きな危機感を抱き、家康に直訴して、結果的に家光が認められました。</p><p>　春日局は、将軍家光の絶大なる信頼のもと、将軍や幕府官僚となった小姓たちをバックでささえ、江戸幕府の基礎固めに貢献した女性政治家と言えます。</p><br><p>　春日局の本名は、斎藤福（ふく）、丹波国、黒井城（現、丹波市春日町）で生まれました。父は、斎藤利三（明智光秀の家老）で、1万石程度の小大名です。徳川家の乳母の公募に応募して採用され、徳川家光の乳母になりました。ちなみに、秀忠正室の江は、浅井長政の娘で、大大名の娘ですが、徳川家の中では、正室と乳母ということで身分の違いは明らかでした。しかし、江の死後は、従二位で春日局という官位を貰いました。従二位は、平時子（平清盛の妻）や、北条政子（源頼朝の妻、息子実朝の死後は将軍職を代行して、尼将軍と言われた）と並び、女性政治家としては位がかなり高いです。</p><p>　また、家光から３０００石を貰った、旗本でもありました。息子の稲葉家は、山城、淀藩１０万５０００石で幕末を迎えています。また、養子の掘田家は、下総、佐倉藩１１万石で幕末を迎えています。いずれも、多くの老中を輩出しています。譜代大名としては大きめで、特殊な存在だったようです。徳川幕府での功績が大きく認められたため、春日局の子孫は、（不祥事を起こしてはいますが）とりつぶされることもなく、幕末まで存続しています。</p><br><p>　飛ぶ鳥の勢いの春日局にも、大きな悩み事があｆりました。それは、家光に子がなかなかできなかったことでした。結果的には４代将軍家綱がやっと生まれて、間もなくして春日局が病没することになりました。</p><p>　大奥は、将軍の後継を生み出すために誕生した「組織」で、春日局が創設しました。ちなみに「大奥女中法度」も定めております。</p><p>　家光はどちらかといえば、「冬彦さん」的な、マザコンタイプの人だったかもしれません。実母（江）ではなく、乳母（ふく）に甘え、頼り切った生涯を送ったようです。若い時の家光は、面食いなのかどうか知りませんが、女性にあまり関心をしめさなかったようです。ふくは、大奥で、かなりあせりもあったようで、自身の親族を含めて次々に女性を紹介しますが、なかなか受け付けてもらえなかったようです。家綱の母、「お楽の方」は、家光の数少ない好みの女性だったようです。ふくが病没する前に、なんとか家光の子ができて、ふくも幸せだったのでしょう。</p><p>　ふくの死後は、どういうわけか一転して、家光は側室を多く持ちました。「お夏の方」との間に、綱重(６代将軍家宣の父）が生まれ、また、「お玉の方（桂昌院として有名）」との間に、綱吉（５代将軍）が生まれています。</p><br><p>　春日局は、新しく時代が変化する中で、江戸幕府のしくみづくりに貢献し、人を育てたという功績は、評価に値すると思います。</p><br><p>次回は、まだ決めてませんので、あ楽しみに・・・</p>
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<link>https://ameblo.jp/murata-consulting/entry-10911432768.html</link>
<pubDate>Thu, 02 Jun 2011 21:24:16 +0900</pubDate>
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<title>経営のヒントを歴史に学ぶ（９）</title>
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<![CDATA[ <p>大石内蔵助は、元禄の平和な時代に、山鹿流兵法を実践した人でした。</p><br><p>元禄の時代になりますと、戦国の時代から８０年ほどたっています。当時は江戸で軍学がはやっておりました。戦国の合戦や軍師（黒田官兵衛や竹中半兵衛といった人が有名です）の言行・行動を研究材料にして、いわば結果よしという議論であって、軍略をたてて実践するといったものではありませんでした。</p><p>大石内蔵助は、山鹿素行から直接教えを受けております。「吉良邸打ち入りプロジェクト」を計画し、みずからボスとして指揮し、プロジェクト計画を遂行し、成功した人物で、いわば「軍事指揮官」として有能な人物でした。</p><br><p>彼の計画の一端をのぞいてみます。</p><p><strong>目的</strong>：吉良上野介の首級をとることで、主君；浅野内匠頭の仇を打ち、武士として面目（忠義）を施す。</p><p><strong>組織力</strong>：独自決行派や急進派をおさえ、仲間として一枚岩となって目的を果たすこと。意識を一つにまとめて、団結を強調した。また、武士道を前面に出し、幕府に逆らうという「非合法なプロジェクト」に対して、「赤穂義士」を強調し、精神的に卑屈になることを払しょくした。</p><p><strong>外部環境</strong>：世論の後押しがあった。「浅野内匠頭が切腹、吉良上野介はお構いなし。」といった、武家諸法度に定められた「喧嘩両成敗」でない幕府の裁定に対して、赤穂藩への同情的な風潮があった。</p><p><strong>掟を定める</strong>：１０の訓戒を定め、公儀に対して目立った行動を慎むことや、打ち入りまでの心の準備をするように戒めている。また、上野介の首級を打ちとった人がすべての功績を独占するのではなく、打ち入りを行った者全員の功績として、役割分担を入念に行っている。</p><p><strong>武器の調達</strong>：槍、刀といった兵器だけでなく、のこぎり、かなてこ、金づちなどの大工道具やはしご等も準備し、打ち入りに備えている。事実、打ち入りでは、門や雨戸等を破壊しなければならない。</p><p><strong>情報収集</strong>；吉良邸の図面の入手、上野介の顔の確認、上野介在宅の確認（茶会の情報入手等）。これがいちばんむずかしかったのだか、巧みにやってのけた。</p><p>等々、</p><p>入念な計画が立案されています。</p><br><p>「吉良邸打ち入りプロジェクト」は、大石内蔵助という卓越したリーダーが存在したおかげで成功したといっても過言ではないと思います。また、戦国時代の軍略のよいところが最大限に生かされ、実践されたという意味では、戦国時代の軍略の集大成といった意味があるのかもしれません。</p><br><p>テレビドラマのフィクション時代劇で、藤田まこと主演の、「必殺仕事人」という番組がありました。主人公の中村主水は、南町奉行所の同心で「昼あんどん」と呼ばれたリストラ寸前、役立たずの役人でした。この人が、刀を持てば、○○新陰流の達人で、夜の稼業では、悪人を次々になぎ倒します。この番組のもう一つの見どころは、主水が家に帰れば、養子先の姑さんと、奥さんに徹底的にいじめられることです。このアンバランスさがこの番組の魅力です。</p><p>このアンバランスさが、なにか大石内蔵助に似ているというか、中村主水のモデルになったような気がします。</p><p>大石内蔵助は、赤穂藩では家老でしたが、政治家や官僚としては凡庸で、「昼あんどん」と呼ばれています。藩政は、塩の利上げが好調で、大野某という、財政に長けた家老が実務を握っておりました。内蔵助は、なにげなく軍学に興味をもっていたものと思われます。それが、非常時（赤穂藩とりつぶしの後の、吉良邸打ち入り）に役に立つ結果となり、歴史に名を残したといえます。</p><br><p>次回は、江戸幕府の初期のころ、しくみづくりに貢献した春日局の功績を紹介します。なにも大奥だけではありません。</p>
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<link>https://ameblo.jp/murata-consulting/entry-10900673799.html</link>
<pubDate>Mon, 23 May 2011 13:58:02 +0900</pubDate>
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<title>経営のヒントを歴史に学ぶ（８）</title>
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<![CDATA[ <p>なぜ平清盛が国際派感覚を・・・、そう日宋貿易を復活した人なんです。</p><br><p>日本と中国の正式な貿易は、９００年頃でしたか、菅原道真が時の天皇に、「もはや唐に学ぶものはない。」との理由で、遣唐使廃止を進言して受け入れられています。確かに唐は９０７年に滅んでますので、見た目にはこれでよかったのかもしれません。</p><p>学問の神様（トイレの神様ではありません）として崇められている菅原道真のことを悪しざまに言うわけではありませんが、彼は国際情勢に、うとかったのではないかと思います。中国は唐が宋に王朝が変わっていますが、文化の発展が決して停滞したわけではありません。当時の世界では、ヨーロッパと並んで、中国は文化先進国の一つであったことに全く変わりがありません。日本では作れないようなものをたくさん作っております。</p><br><p>桓武平氏（伊勢平氏）出身の武家の棟梁である平清盛は、先代（忠盛）以来、瀬戸内海の制海権を握っております。宋との貿易で莫大な利益が得られることは当然、熟知しておりました。</p><p>中国（宋）で生産される、絹織物、宋銭（銅銭）、工芸品、陶器等を中国から輸入し、貴族階級に売りつけることで莫大な利益が得られます。ただこの時に中国側に支払う代金は、日本国内で生産される、極めて貴重な、金や銀でした。</p><p>平清盛は、日本国内で苦労に苦労を重ねて生産される金や銀が湯水のごとく流出することに、非常に危機感を感じておりました。そこで一計を講じたわけでした。</p><p>中国（宋）から陶磁器の職人を日本に招いて、技術指導をしてもらい、日本で生産できるようにする。そして、生産した陶磁器を中国（宋）へ逆輸出する。それによって、金や銀の流出を少しでも抑える　といった構想を持ちました。</p><p>この話を聞いて、私は、現在にも通じるすごい考え方であると思いました。</p><p>現在の共産党政権下の中国を見てください。鄧小平が３０年ほど前に始めた改革開放路線です。安い人件費を武器にして、世界から技術と資金を集め、いまや世界の工場として君臨しています。</p><p>平清盛が１２世紀に考えたやり方が、逆に中国で、まさに現在使われているわけです。</p><p>しかも、中国は、GDPでは日本を超えましたが、「もはや日本に学ぶものはない。」なんてばかなことは、一切言っておりません。日本の高いものづくり技術を、高く評価しております。</p><p>「腐っても鯛」ではありませんが、日本はまだまだ落ちぶれておりません（政治は知りませんが・・・）。日本の高いものづくり技術や、品質管理をはじめとした経営管理技術を学びたいというという国は、中国だけでなく、アジア各国、欧米の国も多数あります。省エネ技術もそうですね・・・</p><br><p>さて、歴史の話をしましょう。平清盛は、日宋貿易をする港として、大輪田泊（現在の神戸港の西側）を新たに建設しています。当時、京に近い港としては、尼崎港がありました。ここは、摂津源氏出身の源頼政の配下の渡辺党と言われる人たちが支配していました。平清盛には源頼政への遠慮があって、福原（平家一門の邸宅があった）に近い、大輪田泊を開発したのかもしれません。</p><p>源頼政の話を少しばかり。平治の乱の折、平清盛は、源義朝（河内源氏出身で、頼朝の父）と戦いました。源義朝は、当時平家の要塞「六波羅」を攻めました。平家側の抵抗が激しく、戦況が拮抗しておりました。その際、源頼政は、（かねての盟約どうり）平清盛の味方となり、源義朝を攻めて、勝敗が決着しました。源頼政が「源三位」（三位以上は、天皇に拝謁できる高位で、ちなみに、江戸時代の春日局は、正二位）と言われるのは、平清盛がこの官位を与えたからです。</p><br><p>平清盛は、海外貿易の利益を背景にして、武家政権の先駆けとしての政権を確立しました。「奢れるもの久しからず。」などと揶揄されましたが、以降、江戸幕府まで、武家政権が続きました。</p><br><p>次回は、あちこち飛びますが、大石内蔵助の吉良邸打ち入りの際の、山鹿流兵法の話をします。</p>
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<link>https://ameblo.jp/murata-consulting/entry-10888908909.html</link>
<pubDate>Wed, 11 May 2011 21:37:52 +0900</pubDate>
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<title>経営のヒントを歴史に学ぶ（７）</title>
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<![CDATA[ <p>幕末きっての国際派感覚の持ち主、島津斉彬の業績を紹介します。</p><p>薩摩藩第１１代藩主で、１８５１年、ペリー来航直前に藩主になりました。天璋院篤姫の養父としても有名です。</p><p>琉球王国は当時、薩摩藩の保護下にありました。琉球は、地勢学的には東アジアのど真ん中に位置し、当時は東アジアの交易の中継基地として重要な位置を占めていました。現在は、アメリカ軍の基地があり、軍事的要衝であることは皆さんご存知だと思います。</p><p>島津斉彬にとって、鎖国中の日本の中で、琉球からもたらされる国際情報は非常に重要であったと考えられます。藩主になってすぐに、西洋の技術を取り入れて、富国強兵・殖産興業政策をとります。これは、アヘン戦争後、西洋やアメリカに中国はじめ東アジア諸国が植民地化されたことに、大きな危機感を持ったからでした。洋式造船、溶鉱炉、地雷、ガラス、蒸気機関等の国産化を試み、さらに、ジョン（中浜）万次郎を教育者かつ通訳に迎えます。開国後はさらに徹底したことは言うまでもありません。</p><p>島津斉彬はまた、教育熱心な殿さまでもありました。西郷吉之介（隆盛）は斉彬学校の優等生の一人であり、かつ斉彬の懐刀として活躍したことは有名です。他にも、大久保一蔵（利通）や、小松帯刀など、身分の高低を問わず、人材を育てています。</p><br><p>島津斉彬は幕政にも関与しています。老中；阿部正弘とは非常に懇意でしたし、次期将軍候補として、一橋慶喜を推していたことは有名です。また、外様大名が幕政に口をはさむというのは、時代の流れもありましたが、異例中の異例でしたし、また、島津斉彬に実力があった証明でもあると思います。</p><p>この幕府内の派閥抗争は、結局、島津斉彬や阿部正弘の病死もあり、井伊直弼側の勝利に終わったことは皆さまご存知ですね。しかし、時代の流れは、井伊直弼の暗殺、徳川家茂の病死と続き、徳川慶喜が１５代将軍となります。</p><br><p>島津斉彬を少し離れます。徳川慶喜は、大政奉還しました。しかし、ここから勢力争いの始まりです。徳川慶喜と、薩長連合（西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允ら）が対決します。「錦の御旗」が重要なポイントとなります。薩長側に「錦の御旗」がついたこと（これは、外交戦そのものですが）で、水戸出身でもともと勤皇家である徳川慶喜は完全に戦意喪失し、戦線離脱しました。</p><p>いつも思うのですが、歴史は皮肉です。西郷隆盛は、自分の師匠であり、殿さまであり、かつ尊敬していた島津斉彬が勧めた徳川慶喜が将軍になりましたが、その人を自らたたきつぶすという結果になりました。歴史の流れには抗えなかったのでしょう。以後、薩長側が官軍となり、幕府側が賊軍となります。</p><p>西郷隆盛は、江戸城の無血開城を果たします。勝海舟という「盟友」が交渉相手だったこともありますが、それにしても人情家の面目を保ちました。西郷は、死に物狂いの敵を相手にすれは、味方に被害が甚大であることを知っていました。これが西郷人気のスタートともなりました。この後、会津攻めの総大将、大村益次郎（長州出身）は、会津若松城を徹底的に攻め、（勝敗はともかく）双方甚大な被害があったことは事実です。また、大村益次郎は、官僚的なやりかたでしたので、民衆には不人気でした。</p><p>この後、木戸孝允は病死、西郷隆盛は西南の役で自刃、西郷自刃の半年後大久保利通は暗殺されました。明治１０年までに３人はなくなっています。かたや、徳川慶喜は、明治３５年に公爵になり、大正２年１０月、７７歳でなくなっています。負けた人が長生きしました。これも皮肉でしょうか・・・</p><br><p>島津斉彬に戻りますが、時代が大きく変化する中で、自らの国際情報網を生かして情報を大いに活用し、日本の近代化の先駆けとなった人ではないかと思っています。</p><br><p>次回は、少し時代をさかのぼりますが、やはり国際派感覚の持ち主、平清盛の業績を紹介します。</p><br>
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<pubDate>Wed, 04 May 2011 06:49:16 +0900</pubDate>
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<title>経営のヒントを歴史に学ぶ（６）</title>
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<![CDATA[ <p>上杉鷹山と直江兼続の藩政改革の根本的な考え方（教育が必要なこと）はよく似ております。</p><br><p>直江兼続は、関ヶ原敗北後、頭の切り替えのはやさと、環境適応能力をいかんなく発揮し、自らが藩政の最高責任者として、主戦派（徳川家康と戦って家名の尊厳さを後世に残そうという考え）をおさえ、上杉家を残したといえます。そして自らの強大な権力による藩政改革と、藩政の官僚を育てたわけでした。</p><p>上杉鷹山は、直江兼続のやり方を継承し、保守派（藩政改革反対派）を切り、組織の改革に着手します。藩内に、いきなりハウツーを教えても、意識改革ができていない状況では（藩政が）動かないことを熟知しておりましたので、細井平洲を招いて、（マネジメント）教育を実施したことは、以前述べたとおりです。</p><br><p>2人の共通点について考察します。</p><p>（１）いずれも養子さんですが、藩のトップとして強い責任感を持ち、強いリーダーシップを発揮して、藩内の人々を教育して、ともに巻き込んで藩政を行っています。</p><p>（２）2人とも殿さまですが、側室がほとんどいませんでした。自分の子孫づくりに励むよりも、自らも勉強して、人を教育して次世代をになう人材を育てることに力をそそいだようです。</p><p>（３）謙虚に学ぶという姿勢が強く、問題を提起する能力にすぐれ、そして問題解決のための行動力がはやいこと。</p><p>（４）お金を自らためこむのではなく、お金の使い方、生かし方にすぐれた能力を発揮したこと。</p><p>（５）人脈・ネットワーク、信頼関係を重視した運営を行ったこと。そして、相手の立場に立った考え方ができること。</p><p>（６）反対勢力に改革を粘り強く説得し、正攻法で突破したこと。</p><p>（７）身分の区別を問わず、組織力を高め、情報公開に努めたこと。</p><p>等々・・・</p><br><p>違いといえば、生まれ育ちでしょうか・・・</p><p>直江兼続は、すぐれた人材ということで、上杉景勝に認められ、登用されて、藩政の最高責任者にまでのぼりつめた人でした。（戦国という時代背景もありますが）</p><p>一方、上杉鷹山は、生まれながらの殿さまでした。秋月家（九州、高鍋藩3万石）出身ですが、上杉綱憲のひ孫にあたります。上杉綱憲は、ご存知、吉良上野介の息子で、上杉家に養子にきました。母の兄である、上杉綱勝の急死により、急きょ、上杉家の養子になりました。この時、上杉家は、手続き上、15万石に減らされています。本来でしたら、後継ぎ不在でしたので、とりつぶしのところでしたがそれはまぬがれました。上杉綱憲は、室町時代の扇谷上杉家（関東管領）の血をひいており、また、正室が、徳川光貞（紀州藩主で、徳川吉宗の父）の娘、栄姫でした。徳川吉宗は、義理の弟にあたります。当時の華麗なる一族といったところでしょうか・・・もっとも、徳川吉宗が8代将軍になるのは、これからまだ30年くらい後です。</p><p>華麗なる血筋ではありましたが、米沢藩の財政は、15万石に減封を境に、大きく傾いていきます。吉良家からの養子の、上杉綱憲のときに大きく傾いた財政を、ひ孫の鷹山が、あらためて養子に来て、立て直すという因果は、なんとも皮肉なものかもしれません。</p><br><p>米沢藩の歴史全体でみれば、藩祖は上杉謙信、藩の（雇われ）創業者は直江兼続、藩の中興の祖は上杉鷹山といったところでしょうか・・・</p><p>次回からは、さまざまな歴史上の人物を「経営者」という感覚でとらえていきたいと思います。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/murata-consulting/entry-10870951831.html</link>
<pubDate>Sun, 24 Apr 2011 11:40:16 +0900</pubDate>
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<title>経営のヒントを歴史に学ぶ（５）</title>
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<![CDATA[ <p>上杉鷹山は、直江兼続を改革の“師”として尊敬していました。</p><br><p>直江兼続は、戦国大名（直江山城守）として有名ですが、上杉景勝の家臣でありながら、豊臣秀吉から米沢３０万石を貰っています。上杉家は、この兼続の３０万石と併せて、１２１万石で、越後（９０万石）から、会津へ移りました。秀吉が病没する、約半年前のことでした。太閤検地等での豊臣政権での功績を認められてのことでした。</p><br><p>兼続は、前半生は「軍師」として上杉景勝を補佐し、徳川家康に宛てた「直江状」といわれる手紙や、上杉謙信の軍略の愛弟子とまで言われた、知略に長けた武将でしたので、「軍略に長けた戦国大名」とのイメージがありました。この、軍略家としての顔は、関ヶ原の戦いまででした。</p><br><p>兼続は、関ヶ原後、政治家としての手腕を発揮しました。まず、外交です。西軍に味方しましたが、徳川家康が上杉家をとりつぶす気がないことを確認した上で、石高の交渉を開始します。毛利家が、１２０万石から３０万石に減封されたのを例に、米沢３０万石を獲得します。３０万石は、この当時は、１０数番目に大きな大名でした。</p><br><p>次は、産業の振興政策です。家臣を一人も削減しなかったため、食いぶちを増やさなければなりません。外務大臣から一転して、経済産業大臣と農林水産大臣です。</p><p>越後時代は、（養子先の）の与板城の城主としての顔もありました。自身の家臣団を持っておりましたし、城域では新田開発や農産物増産のための用水路の設置工事や、特産品の開発といった施策を実施しています。</p><p>今度はそれらの経験を、米沢の地において実行したわけでした。</p><p>結果的には、３０万石を、実質５０万石にしたと言われています。それらの施策はすべて記録に残されています。</p><br><p>兼続は、このように、功績から判断すれば「米沢藩の雇われ創業者」ともいうべき人物ではないかと思います。</p><p>上杉鷹山は、彼の改革を、藩の記録を読んで、くまなく調査しております。時代背景的には、兼続の時代は、戦国時代の終焉により、農産物を増産するにはどうすべきかといった施策が優先されました。１５０年後の鷹山の時代は、前に述べたとおり、貨幣経済の発展により、付加価値の高い新製品が必要であったことでした。</p><br><p>また、鷹山は、兼続の名誉回復も行いました。のちのちの兼続の藩内の評価はそれほど芳しくなかったからでした。やはり、関ヶ原に負けて、大幅に減封された当時の、最高責任者でしたので・・・　しかし、鷹山は、兼続が藩内改革の功労者であることを認め、名誉を回復するため、法要を復活させています。直江家は、（子を先に亡くした後、養子をとらないという）兼続自身の意志により、断絶していました。断絶はしましたが、家老時代に育てた人たちがその後藩政の中心となり、「直江閥」などの呼び方もあったくらいです。</p><br><p>ここで、鷹山が一番学んだのは、兼続の「むらづくり　人づくり」の考え方ではないかと考えております。</p><p>次回では、鷹山と兼続の共通点等を抽出し、「リーダーシップ」について考察します。</p><br><p>余談で、今回は、大石りく　の話を少しばかり・・・　　大石りくは、ご存知、大石内蔵助の妻です。元禄時代という平和な時代に、彼女ほど、運命にほんろうされ、波乱万丈の生涯を送った女性はめづらしいと思います。浅野内匠頭の刃傷事件がなければ、赤穂藩という裕福な藩（塩の売上が好調な会社）の、重役（家老）夫人として、なに不自由のない生涯を送り、歴史にも登場することがなかったと思います。生まれは、但馬、豊岡藩京極家の家老、石束家に生まれ、大石内蔵助に嫁入りしました。子宝にも恵まれ、静かに暮らしておりましたが、例の刃傷事件で、生活が一変しました。赤穂藩とりつぶしのあとは、山科へ移り、内蔵助から離縁（吉良邸打ち入り後に、類が及ばないようにするため）された後は、豊岡の実家に、次男、長女とともに移ります。この時、三男の、大三郎が生まれています。そして、吉良邸打ち入りでは、夫と長男（主税良金）を失い、さらに、追い打ちをかけるように、次男と長女を病気で亡くします。りくのそばには、三男；大三郎と、養女として預けた後引き取った、二女の２人になりました。そんな、失意のりくのもとに、広島、浅野家からオファーがきました。「大三郎が成人すれば、１５００石で召抱える。」といった内容でした。りくに希望のあかりがともりました。約１０年後、１３歳で元服した大三郎は浅野家に召抱えられ、二女と３人で広島に住みました。ちなみに、大石という姓は、先の離縁が、類を及ぼさないためのものであるということが、幕府にも認められ、３人は、「大石」姓を復活しました。</p><p>なお、大石内蔵助が、「吉良邸打ち入り」の際に立てた「軍略」を後日紹介したいと思います。</p>
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<link>https://ameblo.jp/murata-consulting/entry-10865180881.html</link>
<pubDate>Mon, 18 Apr 2011 11:09:06 +0900</pubDate>
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<title>経営のヒントを歴史に学ぶ（４）</title>
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<![CDATA[ <p>上杉鷹山と細井平洲の改革は、「まちづくり」と「ひとづくり」を目標としていました。</p><br><p>このたびの、東北大震災の復興目標とよく似ているかも知れません。同じ東北の地で約２５０年前に行われたことでした。</p><p>改革案の骨子は、江戸商人が不況乗り切り時に使ったと言われる、「四方よし」の考え方です。</p><p>・始末</p><p>・算用</p><p>・才覚</p><p>・信用</p><p>「始末」とは、字のとおり、節約すること。</p><p>「算用」とは、財政のことで、とくに、不足分を明確にする（現状認識する）ことです。</p><p>「才覚」とは、リストラによる減量経営ばかりでなく、国を豊かにするために殖産興業に打って出るという考え方。</p><p>「信用」とは、「他人への思いやり」がメインになります。現場改善の指導の際、５Sという手法があります。これは、整理・整頓・清掃・清潔・躾（しつけ）のこと（５S活動を、内容に応じて３S、４Sと称しているところもあります）で、とくに、５番目の「しつけ」（みんなで決めたことはみんなで守る。そして、相手の立場に立ってものを考える。）は、ここで言う「信用」につながります。</p><br><p>「始末」と「算用」がどちらかといえば、ハウツーの話ですが、「才覚」と「信用」は、考え方や気づきといった内容を含んでおり、マネジメント教育的な内容になりますので、この中で重要視されるのは当然です。</p><p>鷹山と平洲は、藩内のすべての人々（武士だけでなく、農民、町民に至るまで）に人材教育を行います。この時、「学んだことが役に立たなければ意味がない。」ということで、「気付いて、アイデアを出して、考え方をまとめる。」といった「才覚」と「信用」の教育に時間がさかれたものと考えられます。</p><p>現在で言うところの、「リーダーシップ」や「コーチング」の教育といったところでしょうか・・・</p><p>私がホームページで紹介している、「経営改善計画」にもつながっている考え方です。</p><p> </p><p>さて、教育の場が必要ですね。藩校「興譲館」を設立しています。実はこの「興譲館」の所蔵する書物は、米沢藩創成期の時代の人、直江兼続が、かつて持っていた書物が非常に多いのが特徴です。</p><br><p>次回は直江兼続と上杉鷹山について、話を進めたいと思います。</p><br><p>余談です。NHKの大河ドラマは、よく見ております。とくに戦国期のころは好きです。昨日も「江」を見ました。運命にほんろうされながらも、強く、たくましく、前を向いて、そして美しく生きていく姿（ドラマなので、多少脚色し美しく描かれているのでしょうが）には感動します。主人公の「お江」という人は、後に８歳年下の「徳川秀忠」に嫁ぎ、子の徳川家光が生まれます。徳川家光の乳母と言えば、ご存知「春日局」です。お江が、後年深く関わりを持つことになる女性です。春日局は、本名は、斎藤ふく、明智光秀の家老；斎藤利三（としみつ）の娘です。ちなみに、この人の息子は、稲葉正勝で、稲葉家は幕末まで続いています。この人も、運命にほんろうされますが、強く、たくましく、美しく生きた戦国女性の一人です。「江戸大奥」を創業して、しくみを作った人として有名で、悪く言われる場合もありますが、彼女の頭の中には、実の母であるお江以上に「家光」のことしかインプットされてなく、創成期の江戸幕府にとっては、最高の功労者の一人といっても過言ではないと思います。</p><p>次回をお楽しみに・・・</p>
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<link>https://ameblo.jp/murata-consulting/entry-10858372467.html</link>
<pubDate>Mon, 11 Apr 2011 10:51:21 +0900</pubDate>
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<title>経営のヒントを歴史に学ぶ（３）</title>
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<![CDATA[ <p>上杉鷹山は、人材教育に熱心な殿さんでした。領民をわけ隔てなく教育しました。</p><br><p>前回で、藩内に絹織物の生産のしくみを作ったと申し上げました。生産のしくみができても、それを動かす人材がいなければ、しくみは成り立ちません。（別に、ISOの審査をしているわけではありませんが・・・）</p><p>当初は鷹山自身がマネジメントを行ったと思いますが、大きな組織となっていくにつれて、一人では手に負えなくなるのは目に見えています。</p><p>つまり、藩（会社）の創成期から成長期へと発展する段階では、将来を見越して、人材を教育し現場のマネジメントを行わせ、自分がいなくてもやっていける「自立した組織」を作る必要にせまられたわけでした。</p><br><p>俗に、世の中、社長（経営者）の仕事は、「営業と教育」と言われています。私のように、自分ひとりで自営業をやっている人間は、自分でとってきた仕事を自分でこなせばそれですみますが、人間一人でやれることには限界があり、ある以上の発展は望めません。社長は営業でとってきた仕事を社員に自分に代わってやってもらなければならないわけで、そのために人材教育を行うわけです。</p><br><p>現在の会社経営では、事業を発展させるために「事業戦略」を立案しますが、その戦略を実行するにあたって、戦略遂行をしたささえする、人材教育プランがかならずあります。経営者たるもの、ゴーイングコンサーンを確立するためには、後継者育成も含めて、人材教育の大切さを身にしみてわかっています。</p><br><p>さて、上杉鷹山の話にもどります。鷹山は、人材教育の指導を行う人（インストラクター）として、尾張出身の細井平洲に白羽の矢をたてました。細井平洲は、西条藩（愛媛県にある小さな藩ですが、紀州藩の支藩で、ここの殿さまが紀州藩の太守になることもあります）や尾張藩で講義・指導を行ったこともある、当時としては、売れっ子の学者さんでした。</p><br><p>学者さんでしたが、ただ単に、自分の考えや知識を教えるだけの人ではありません。「学んだことが役に立たなければ意味がない。財政が苦しい状況を、教えるほうも、教えられるほうも、きちんと知ってこそ実学となる。」という、「実学」を重んじた、熱血漢あふれる「実学」の指導者でした。</p><br><p>鷹山が平洲に白羽の矢を立てたのは、彼のそんなところを評価してのことでした。鷹山は、平洲の居宅までわざわざ（かごに乗って）出向き、依頼しています。町人宅に米沢の殿さまのかごが来た　ということで、近所の人はびっくりしたそうです。</p><br><p>そうして、細井平洲は、現在でいうところの「人材養成コンサルタント」として、米沢藩と1年間の顧問契約をし、米沢に赴任しました。</p><br><p>次回は、上杉鷹山と細井平洲が、米沢でどのような人材教育をおこなったかの話をします。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/murata-consulting/entry-10850947749.html</link>
<pubDate>Mon, 04 Apr 2011 09:42:22 +0900</pubDate>
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